幸せはどこに
幸せになりたいと、思わない人はいないでしょう。
だけど、幸せとは何かと問われると、答えられる人は、どれぐらいいるでしょうか。
それは、お金がある贅沢な暮らしでしょうか。
あるいは、スポーツや山登りなどの挑戦に、成功することでしょうか。
家族や仲間がいることでしょうか。
お金がたくさんないと不幸せ?
貧乏でも幸せな人はいます。
お金持ちなのに、不幸な人もいます。
何度挑戦しても、上手く行かないと不幸せ?
挑戦を楽しめる人は幸せでしょう。
成功したとしても、その満足度は一時的なものです。
家族や仲間を失うと、確かに不幸な気分になります。
だけど一人だけでも、幸せを感じる人はいます。
幸せとは、胸の奥から湧き出る、喜びのことです。
幸せは、どこかにあるのではありません。
幸せは、あなたの心の中にあるのです。

何か具体的な状況や、形ある物を幸せだと考えると、それが手に入らなければ、不幸だということになります。
でも幸せは、自分の中にあります。
それを引き出せた時、人は幸せだと思うのです。
では、どんな時に幸せを、引き出せるのでしょうか。
それは、誰かとのつながりを感じている時です。
それと、好奇心を満たそうとしている時です。
幼い子供が親の手を払って、好きな所へ行こうとする様子を、思い浮かべて下さい。
行きたい所へ行こうとするのは、好奇心からです。
それを邪魔されると、子供は泣きわめいて抗議します。
だけど、好きにさせてやっても、子供はそのまま、どんどん行ったりはしません。
時々立ち止まって振り返り、親が見守ってくれていることを確かめます。
もし親が見つからなければ、大声で泣き出すでしょう。

大人もこれと同じです。
自分が興味を持つ事を、好きなようにできれば、幸せを感じるでしょう。
でも、誰かとのつながりが、感じられなければ、不幸な気持ちになります。
周囲に人がいるかどうかは、関係ありません。
一人でいても、誰かと心がつながっていれば、安心していられます。
そのことを改めて認識した時、その人は幸せを感じるでしょう。
事故や病気などで、大切な家族や仲間を失うと、悲しくなるのは当然です。
でも、新たなつながりを見つければ、その人は再び立ち上がることができます。
亡くなった方が、今でも見守ってくれていると感じれば、やはり幸せに思うことでしょう。
ペットの動物や、大切に育てた木々や草花、あるいは山や海などの自然、大空や宇宙。
こういうものと心のつながりを感じても、人は幸せを覚えます。
道端に咲く、小さな花を見るだけで、とても嬉しい気持ちになるでしょう。

一方、自分がやりたい事を制限されると、幸せを感じられなくなります。
好奇心を満たすことで、得られる幸せです。
仕事を思うようにさせてもらえない。
趣味を見つけることができず、暇を持て余してしまう。
そんな時、人は人生をつまらないと思うものです。
このままずっと、つまらない人生が続くのかと思うと、自分は不幸せだと思うでしょう。
好きな事ができたとしても、本当に独りぼっちだったら、どうでしょうか。
好きな事から離れた時、切なさを感じるかも知れません。
好きな事をして来たけれど、本当にこれでよかったのだろうかと、不安になったりもするでしょう。
幸せにとって大切なのは、心のつながりと好奇心です。
どちらか一方だけ選ぶのは、本当の幸せとは言えません。
誰かとのつながりを感じながら、自分の思ったとおりに生きて行く。
これこそが幸せなのです。
幸せとは、生きている事の喜びを言うのです。

読書
みなさんは外出を自粛している間、どう過ごされていましたか。
スマホやパソコンで、インターネットを楽しんでいましたか。
あるいは、テレビやビデオ鑑賞で、何とかやり過ごしたのでしょうか。

私もパソコンやテレビで、何となく時間を潰すことが、多かったですね。
だけど、昔読んだ時代小説も、久しぶりに読んでみました。
その小説を最初に読んだのは、ずいぶん前のことです。
なので、読み返した時には、話の流れをよく覚えていませんでした。
お陰で、新鮮な気分で読むことができ、お得な気分を味わえました。

物語を読み進めて行くと、本に描かれている情景が、頭の中に浮かびます。
頭の中で、映画を上映するようなものです。
本物の映画と違うのは、登場人物の思考や感情が、直接わかるという事でしょうか。
映画よりも、ずっと臨場感があります。
ですから、私は一度本を読み始めると、そこに描かれた世界にのめり込み、なかなか途中でやめることができません。
本はそれほど面白いのです。
最近、本を読む習慣がない人が、増えていると聞きます。
でも、本はいいですよ。
何の本がいいかは、個人によって好みが異なると思います。
どんな本でも構いません。
とにかく本を手に取り、それを書いた人の世界を、体験して下さい。

ところで考えてみると、本って不思議なんですよ。
本って、紙とインクだけなんですね。
文字を知らない生き物にとっては、それはただの紙の集まりなのです。
だけど、文字を理解できる者は、そこに世界が封じ込められている事がわかります。
本は別世界へリンクした、秘密の入り口なんですね。
そして、その世界を覗けるのは、そこに書かれた言葉を、理解できる人だけなのです。

外国語で書かれていると、それは暗号が書かれているのと同じです。
でも暗号を解読するように、その外国語を勉強して、理解できるようになると、目の前に封印されていた世界が広がるのです。
一冊の本とは、一つの世界なんです。
一冊の本を持ち運ぶのは、一つの世界を運んでいるのと同じです。
表紙をめくるまで、それは本と呼ばれる、紙の積み重ねに過ぎません。
でも表紙をめくった途端、飛び出す絵本のように、その中から世界が飛び出して来るのです。

本を読んで、中に書かれていることを理解する。
こんなのは、子供の頃からやっている、当たり前のことです。
だけど、これって本当に不思議で、面白いことなんですよ。
浮き彫りにされた問題
全国的に多くの街で、外出の自粛が解かれ、この週末はたくさんの人が、買い物や行楽を楽しまれたことと思います。
だけどコロナウィルスが、いなくなったわけではありません。
ですから、みなさん、どこか不安が残った外出だったでしょう。
恐らくですが、今後も所々で、集団感染が発生するでしょう。
その都度いろんな形での自粛を、繰り返し求められることになると思われます。
それでも、いつかはコロナウィルスも、薬で簡単に治療ができる日が来るでしょう。
ワクチンも開発されて、予防接種を受けられるようになります。
そうなれば、コロナウィルスを怖がる人はいなくなり、いずれコロナ騒ぎ自体は、過去のものとして、人々の記憶から薄れて行くと思います。
しかし、今回の騒ぎで露呈した様々な問題は、決して忘れられないでしょう。
いや、忘れてはならないのです。
政府や会社の対応、学校や近所の人たち、あるいは世間の反応、また家族の中でのトラブルなど、いろんな場面で問題が生じています。
そのどれにも共通しているのは、思いやりの欠如です。
世間から批判される人たちは、みんな自分のことばかり考えていて、他の人への気配りや配慮が見られません。
一方で、こんな時はちょっとした思いやりも、心にしみるものです。
それは人々の気持ちを温かくし、希望を持たせてくれます。
コロナウィルスは私たちに問いかけています。
あなたはどちら側の人ですかと。

雨

今日は一日雨です。
雨と言えば、二年前に初めての雨漏りを、体験しました。
吹き抜け部分の二階の屋根に、開閉できる天窓があるんです。
その辺りから侵入した雨水が、壁紙の下を伝って来て、途中でめくれた壁紙の隙間から、ポトポトと落ちるのです。
昔見たテレビで、雨漏りする場所の下にバケツを置いて、落ちて来る雨水を受ける、場面を見たことがあります。
でも自分が、それと同じ事をする羽目になるとは、夢にも思っていませんでした。
西日本豪雨の後のことでしたので、豪雨の被害に遭った家の修理で、どの業者も手が一杯でした。
そのため、なかなか修理してもらえる業者が、見つかりませんでした。
それで、もうすぐ台風シーズンになるのに、どうしようと、不安な毎日を送っていました。
そんな時、義父母がお世話になっている、鍼の先生が工務店を紹介してくれました。
そこは先生の知人が、経営されている工務店だったので、安心でした。
早速、修理をお願いすると、すぐに来ていただけました。
とてもいい方たちで、仕事は丁寧だし修理代も安く、その後は雨漏りも、ぴたりと止まりました。
本当に、感謝しかありません。

この鍼の先生は、仕事や研究に熱心な方で、患者の治療に結びつくのであれば、様々な治療方法を、鍼に限らず勉強し、実践されています。
その考え方に感銘を受け、先生の鍼治療は、よく利用させていただいています。
この先生とのお付き合いがなければ、雨漏りの修理もできないまま、家の中が水浸しになっていたでしょう。
まさか、鍼の先生が工務店の人と、つながっていたとは思いもしませんでした。
人のつながりとは、本当に不思議なものだと思いました。
でも振り返ってみれば、みなさんにも似たようなことが、あるのではないでしょうか。
自分が何かに悩んでいた時に、思いがけない所から、助けの手が差し伸べられる。
やりたいと思いながら、できなかった仕事を、全然関係ない所で、紹介してもらえた。
そんな事は、ありませんか。
人生には所々に、助けてくれる人がいて、適切なタイミングで、現れるのだと思います。
いわゆる、人の縁というものですね。
誰がどこで、どうつながっているのか、わからない所が、不思議で面白いです。
人生って、そんなものなのだなと、雨が降るたびに思うのです。

インナーマッスル
インナーマッスルという言葉を、聞かれたことがあるでしょうか。
インナーマッスルというのは、外からは見えない、体の深い部分にある筋肉のことです。
これに対して、腕の力こぶや六つに割れた腹筋など、たくましい体を見せる外側の筋肉を、アウターマッスルと言います。
日本語で言えば、インナーマッスルは深層筋、アウターマッスルは表層筋です。

インナーマッスルは、外から見てもわかりません。
それに、アウターマッスルのように、大きくもありません。
インナーマッスルは、使っているという自覚に、乏しい筋肉です。
これらの筋肉群は、衰えても気がつきにくいようです。
しかしインナーマッスルは、体の姿勢を保ったり、内臓を支えてくれる、大切な筋肉群です。
これらの筋肉が衰えると、腰痛や肩こり、尿漏れなどの原因になると、言われています。
私たちは外側の筋肉にばかり、目が向いてしまいがちです。
腰が痛い、肩が痛いと言うと、手で触れられる部分の、筋肉の問題だと考えてしまいます。
でもそれは、陰でそれらの筋肉を、補助して支えてくれている、インナーマッスルの衰えが、原因かも知れません。
インナーマッスルが衰えると、アウターマッスルの補助ができなくなります。
それでアウターマッスルに、過度の負担がかかってしまい、傷めてしまうのです。

またインナーマッスルが衰えると、姿勢が悪くなります。
猫背になると、呼吸機能が落ちてしまうと言われています。
このようにインナーマッスルは、大切な筋肉群なのです。
しかし、その存在はあまり注目されておらず、重視もされていないのが現状です。
その鍛え方は、テレビやネットで教えてくれていますので、ここでは述べません。
私がみなさんにお話したいのは、インナーマッスルとアウターマッスルの関係が、人間の暮らし方や価値観に、よく似ているということです。
アウターマッスルという言葉を、お金や裕福な暮らしなどの、物質的な喜びに置き換えてみて下さい。
インナーマッスルという言葉は、生き甲斐や充実感などの、精神的な喜びに置き換えてみましょう。
どうですか。今の人間の生き方に、似ていると思いませんか。

物質的な喜びを、重視する暮らしを考えてみましょう。
たくさんのお金を稼ぎ、豪邸や高級車を手に入れた、贅沢な暮らしです。
アウターマッスルで言えば、体をムキムキに鍛えた状態ですね。
しかし、精神的な喜びがなければ、どうでしょうか。
どんなに金銭的、物質的に恵まれていても、その喜びは刹那的で虚ろなものです。
恵まれた暮らしのはずなのに、何か不満が残ってしまうでしょう。
インナーマッスルとアウターマッスルの関係に、似ているでしょう?
インナーマッスルが、体の姿勢をよくするための筋肉群だ、というのも面白いですね。
精神的な喜びも、人生の姿勢をよくしてくれますから。

今の学校教育や多くの職場では、成績を上げることばかりが、求められがちです。
その結果、子供も大人も、精神的な喜びを経験する機会が、少ないと私は感じています。
下手をすれば、生きて行くのに精一杯で、精神的な喜びなんか無縁だと、決めつける人もいるかも知れません。
でも、自分の人生です。
自分の人生を豊かにできるのは、自分以外にはいません。
どんなに些細なものでも構いません。
精神的な喜びを、求めるようにして下さい。
精神的な喜びを追求して行けば、日々の暮らしは、必ず楽になって行きます。

喜びは、あなたの中にあるのです。
それを見つけて、少しずつ育んで下さい。
そうしていると、自然に精神的な喜びが、あなたにとって当たり前のものになります。
そういう人生こそが、本当に豊かな人生なのです。
UFOの話
インターネットの記事で、米国防総省が米海軍機が捉えた「未確認航空現象」として、未確認飛行物体(UFO)の映像を公開したとありました。
映像は以前に流出していたようで、見た覚えがあるものでした。
その際にもアメリカ海軍は、本物の映像だと認めていたようです。
それが今回再び公表されたのは、映像の機密扱いが解除されたためだそうです。
言ってみれば、アメリカ政府が正式に、UFOの存在を認めたわけです。
これは下の写真のように、NHKでも放送されました。

昔から捏造記事はありますし、今はハイテク技術によって、本物らしい映像を作るのは、難しいことではありません。
ですから、個人がUFOの映像や写真を公表したところで、なかなか信用されません。
しかし、アメリカ政府が認めたとなると、事情が変わって来ます。
今の政治に対する不満の目を、政府以外のものへ向けたいという、思惑があるのかも知れません。
でも、映像自体は本物でしょう。
最近撮られた映像であれば、偽情報を広げるために、作ったのではないかと疑えます。
けれども、公表された映像は2004年と2015年のものです。
この頃に今の状況を予測して、あらかじめ偽の映像を作っていたとは、考えにくいと思います。
実際に UFO が存在するのか、存在するとすれば UFO とは何なのか。
そんな議論は、日常のテレビではタブー視されているようです。
それは主に番組を制作していたのが、民放のテレビ局だからと思います。
テレビ局は真相を解明すると言いながら、実際は UFO を認める人たちを茶化して、視聴率を上げることばかりして来ました。
そのせいで番組の視聴者は 、UFO を真面目に取り上げると、馬鹿にされると思い込んだでしょう。
だから UFO の話題が出た時も、懐疑的な態度を見せることで、自分の安全を図ろうとするのです。
UFO を信じない自分は、頭がまともなのだと、暗に主張するわけですね。
もし NHK が毎月特集を組んで、真剣な科学番組として、 UFO を紹介し続けていれば、今とは全く異なる雰囲気に、なっていたと思います。
UFOの真偽はともかく、国民はいつものように、マスメディアに踊らされているのです。
ところで、最近は多くの人が自分の意見を、ネットを通じて述べるようになりました。
有名人の中にも、馬鹿にされるのを恐れずに、UFO 目撃談を語る人が、出て来ました。

かく言う私も、UFO を見たことがあります。
夜ではなく、朝のことです。
職場へ向かうためのバスを、待っていた時のことです。
青空を見上げると、白い雲の塊が浮かんでいました。
その雲の下を、黒く丸い物体が音もなく、一定速度で、スーッと移動しているのが見えたのです。
まだドローンが開発されるより、前の話です。
その高さであれば、鳥や飛行機の姿は、見分けがつきます。
でも、移動しているそれは、鳥でも飛行機でもありませんでした。
飛び方は明らかに人工的です。
誰かが自作の何かを、ラジコンで飛ばしているのかなと思いながら、私はずっとその物体の動きを、目で追いました。
その間、その物体は少しも速度や動きに、変化を見せませんでした。
同じ調子で移動しながら、やがて後ろの山の向こうへ、飛んで行ってしまったのです。
ラジコンであれば、操作している者が、見える範囲でないと飛ばせません。
それに丸い物体が、空を飛べるはずもありません。
私は興奮しました。
ついにUFOを見たと思ったのです。
でも残念ながら、バス停にいたのは私一人でした。
目撃を共有できた人は、いなかったのです。
それで職場に行って、早速この話をみんなにしました。
しかし、返って来たのは、しらっとした雰囲気だけでした。
これが現実の反応なのかと、私は UFO を目撃したことよりも、そちらの方が衝撃的でした。

私が見た UFO が、本物かどうかはわかりません。
しかし、アメリカ政府が認めた以上、UFOは実在すると考えて、差し支えはないでしょう。
それに対して、日本政府がどう反応しようとも、みなさんは UFO の存在を、受け入れるべきだと私は思います。
UFO が存在するかどうかという、いつまで経っても結論が出せない議論は、意味がありません。
もうそんな状況ではなくなっているのです。
それでも各テレビ局が、それ以上踏み込んだ議論をしないのは、結論を出すのが怖いからでしょう。
いつもの調子であれば、今こそUFO特集の番組を、緊急特番と銘打って組んでいるはずです。
でも、UFOが存在するかしないかの議論ではなく、UFOの存在を前提とした議論になるわけです。
テレビ局は、それが怖いのでしょうね。
人は安定を望み、変化を嫌う傾向があります。
たとえ、今の暮らしが逼迫していても、世の中の変化を恐れてしまうのです。
しかし、現実から目を背けるのは、もう終わりにしなければなりません。
UFO が存在するのは、明らかだとわかったのです。
これからは、そこから先のことを、考えて行く必要があります。
その一つは、現在の地球人類が、まだ手にしていない技術が、存在するということです。
これは、今の人間が理解している科学を、遥かに超えた技術です。
人間は、自分たちが知らない、真理があることを認めなければなりません。
もっと謙虚になるべきなのです。
そういう姿勢でいれば、新たな人生観や世界観に、出会うことになるでしょう。
それは、今ある様々な問題の、解決へとつながって行くことになるのです。

もう一つは 、UFO の中にいるであろう、未知の存在についてです。
UFO を操縦しているのは、何者なのか。
それが地球人でない以上、異星人、あるいは異次元の知性体に違いありません。
彼らは人類の敵か味方かと、考えたくなるでしょう。
今の段階で、こうだと決めつけることは、できないかも知れません。
情報が少な過ぎるからです。
しかし、少なくとも彼らには、武力的に地球を制圧する、意図はないと考えられます。
彼らがそう望んでいたならば、とっくにそうしていたでしょう。
では、そうしないで、たまにだけ自分たちの存在を、アピールするがごとくに、UFO を人々の前に現すのは、何故でしょうか。
私は彼らが、人類とコンタクトを、取りたいのではないかと考えています。
地球人が他の星に生命体、あるいは知性体を求めて、宇宙の探査をしているのと、同じでしょう。
この広い宇宙に、自分たちと同じような、知性を持った存在がいれば、交流を試みてみたいと、考えるのではないでしょうか。
ところが、異星人は危険だという思想が、地球にはびこっていれば、コンタクトはできません。
同じ地球人同士でも、憎み合ったり、殺し合ったりするわけです。
他の世界から来た者たちが、危険を感じるのは当然でしょう。
だから、自分たちは存在してるよ、全然危険じゃないんだよ、ということをアピールして、人類がパニックにならずに、心を開いてくれるのを、待っているのではないでしょうか。
また、もう地球人同士で争う時代ではないのだと、私たちに教えようとしているのではないでしょうか。

もし異星人や異次元の存在と、直接コンタクトできる日が来たとすれば、それはすごいことです。
そう思いませんか。
人類が新しい時代を迎えるその場に、自分が立ち会えるのです。
それはこれまでの、どの歴史上の出来事よりも、偉大で素晴らしいことでしょう。
事実は、小説よりも奇なりです。
私たちが暮らしているこの世界は、私たちが勝手な理解を超えた、ずっとずっとすごい所なのです。
歴史を感じよう
松山市の中心には、勝山(かつやま)と呼ばれる小さな山があります。
その山の頂上には、江戸時代末期に造られた松山城がそびえています。
ビルなどの建物の陰に入らない限り、この城は市内のどこからでも見ることができる、街のシンボルです。

山の頂上へ登るには、ロープウェイかリフトを利用できますが、歩いて登ることもできます。歩くと頂上まで、20分から30分ぐらいでしょうか。
たまにしか登りませんが、歩いて登ると、身体中を血がめぐるのがわかります。
道は木々に囲まれていますから、森林浴もできて清々しい気分になれます。
散歩がてら歩いて登る人も、結構いらっしゃるんです。
全然顔見知りじゃないのに、すれ違う時に挨拶をしてくれるのが、嬉しいですね。
城へ登る道は全部で4本あります。
ロープウェイやリフトは、山の東側にあります。
観光客が利用するので、こちらが城山の玄関口になっています。
ここにはロープウェイに併走する、登城道があります。
この道は、城を建築する時の、資材を運んだ道だそうです。
山の南西部の中腹には、お殿さまが暮らしていた、二の丸があります。
そこから登る道もあるのですが、これがお殿さまも利用した、本来の登城道です。
他の二本は、明治時代になってから、造られたそうです。
昔のお侍たちが通った道を楽しむには、二の丸から登る道が、お勧めです。

道を登りながら、当時の城に想いを馳せると、3D映画の映像のように、現在と当時の時空間が、重なって存在しているような気がします。
松山城に限りませんが、お城に登る機会がある方は、天守閣から街を見下ろしてみて下さい。
そして、同じように城下町を見下ろしている、お殿さまを思い浮かべてみて下さい。
自分の隣で、お殿さまが街を眺めているのです。
時代が異なるので、お殿さまはあなたの存在には、気がつきません。
あなたが隣にいるのも知らずに、今日もええ眺めじゃの、なんて言うのです。
面白いでしょ?
今度は、お殿さまと自分を、重ね合わせてみて下さい。
あなた自身が、お殿さまです。
お殿さまになったあなたには、ビルが建ち並んだ街ではなく、木造の屋敷や家が並ぶ、昔の城下町が見えるかも知れません。
その街が、よもやビルだらけの街になっているとは、お殿さまは思いもしません。
いつまでも、ずっと同じ風景がそこにあると思っている、お殿さまの気持ちを、味わってみて下さい。

過去は既に終わって、消え去ったもの。
未来はこれから生じうる、不確定なもの。
確かに存在しているのは、今というこの瞬間だけ。
大概の方は、世界をこんな風にとらえていると思います。
だけど、本当のことを知っている人はいません。
自分にとって確かなのは、今この瞬間です。
本当に存在していると言えるのは、常にこの瞬間だけでしょう。
しかし、昔のお殿さまにとっても、お殿さまが感じた瞬間こそが、現実なのです。
私たちから見れば、過ぎ去った過去のことですが、お殿さまにとっては今なのです。
また、お殿さまからすれば、私たちの今は、何もわからない未来のことです。
どうなるかわからないので、ないのと同じです。
でも、私たちはここに存在しています。
今という瞬間を、生きているのです。
私たちもお殿さまも、それぞれの瞬間を生きていて、確かに存在しているのです。
ただ、お互いの瞬間を、共有できないだけのことなのです。
同じお城に、私たちも存在しているし、お殿さまも存在している。
存在している時代が、それぞれ違うから、お互いがわからないだけ。
そう考えると、全ての瞬間というものは、今ここに同時に、重なって存在していると、言えるのではないでしょうか。
私たちもお殿さまも、それぞれの時代の瞬間瞬間を、現実として体験しているのです。
そして、その瞬間というものは、全て重なって存在しているわけです。
それは光の波長を、体験しているようなものです。

光をプリズムに当てると、七色に分かれます。
虹をイメージしてもらっても、構いません。
それぞれの色には幅がありあす。
たとえば赤と言っても、波長の違いによって、微妙に赤の色具合が変わります。
それは他の色についても、同じことが言えます。
お殿さまが赤い色の波長を、順番に経験しているとしましょう。
私たちは緑色の波長を、順番に経験しているとします。
それぞれは違う色、違う波長にいますから、お互いを知ることはありません。
でも、どちらの色も重なって、白い光の中に存在しています。
こんな感じです。
どうでしょうか?
時間や瞬間というものは、こういう事ではないでしょうか。
では、自分自身の過去や未来というものは、どうなっているのだろうと、考えたくなりますよね。
それについては、自分というものについて、考える必要があります。
その話は、またの機会にしましょう。
それよりも、過去も未来も、今この瞬間に、あなたと一緒に存在していると考えると、面白いでしょう?
そんなの有り得ない、信じられないなんて思わないで、素直に想像してみて下さい。
固定観念から離れると、あなたの心は自由になります。
時空を超えて、他の時代の人物に、直接出会うことは、できないかも知れません。
だけど、全てはこの瞬間、ここにあるのです。
もしかしたら、無意識の部分で、過去の人物とつながることは、できるかも知れません。
それは、あなた自身の過去や未来の自分でも、言える事です。

過去や未来の自分が、この瞬間に存在していて、無意識の部分でつながっている。
じゃあ、自分ってどんなものなの?
そんなことを、考えたくなるでしょうが、それについては、ここではお話しません。
ここで伝えたいのは、歴史を感じるということなのです。
それはただの想像や妄想なのではありません。
この瞬間も存在している過去の世界を、無意識を通して感じ取ることなのです。
そして、単に出来事を覚えるのではなく、当時に生きていた、私たちと同じ人々の息づかいを、感じ取るということです。
それは、現在や未来においても、人の気持ちに共感する力に、つながることなのです。

好奇心

子供は好奇心が旺盛です。
みなさんも子供の頃は、いろんなことに興味が引かれたでしょう。
ところが大人になると、何故か子供の頃の気持ちを、心の奥底へ仕舞い込んでしまいます。
ふざけたりしていると、いい歳をしてとか、子供みたいだと言われますよね。
何か仕事以外のことに、夢中になっていると、周囲から冷ややかな目で、見られたりもします。
そんな環境にいると、子供の心を表に出すのは、いけないことだと考えてしまいます。
だけど、何かに夢中になれるというのは、とてもいいことなのです。
大人になっても、子供の頃の気持ちが、消えることはありません。
見ないように、あるいは出さないようにしているだけです。
特に日本人には、その傾向が強いようです。
指示されたことを、機械的に黙々とこなすのが、仕事だと思い込んでいる人が、多いと思います。
でも、これは人の心にとって、不自然なことです。
仕事だって、楽しんでやる方がいいのです。
楽しむ方が長続きしますし、質のいい仕事ができます。

仕事を楽しむとは、仕事に好奇心を向けて、いい仕事ができるような、工夫ができることです。
それは一種の遊びです。
子供心の出番です。
いい仕事とは、大人の心と子供の心の、両方を上手く、引き出して行うものです。
大人のくせにとか、自分の年がわかっているのか、などと言われなければ、みんな、子供心を持った大人になると思います。
そもそも、大人と子供の間に線引きなんてできないのです。

犬や猫を飼ったことがある人なら、わかると思います。
動物は成長しても、遊ぶ時は子供の頃と同じように、夢中になって遊びます。
遊びに関して、動物は歳を取っても子供のままなのです。
大人になるということは、子供の心に経験や知識が、装備されることだと考えて下さい。
経験や知識が、子供の心の新たな衣装、武器や防具、あるいは面白いことを探す、探査機などになるのです。
でも、その中心にいるのは、常に子供の時の心なのです。
子供の心とは、言い換えれば、好奇心そのものです。
好奇心は人間の本質であり、これを封じられると、喜びを感じられなくなります。
大人になったからと言って、好奇心を抑え込むのは、間違っています。
従業員の好奇心を、上手く引き出せる職場は、業績が伸びると思います。
黙って言われた仕事だけしろと言うような、威圧的かつ機械的な職場は、仕事の質が落ちます。
また、仕事を辞める人も多いでしょう。
何だか仕事が面白くないし、日常の生活も、それほど楽しいと感じられない。
そんな時、あなたは好奇心を見失っています。
喜びのある人生を送りたければ、自分の中の好奇心を、仕舞い込まずに表に出しましょう。
そして、人生のナビゲーターになってもらうのです。
そんなこと言ったって、好きなことをするのは、言うほど簡単じゃないよ、と言いたいあなた。
本当に好きなことを、やってみましたか。
頭の中で考えただけで、結論を出しているのではありませんか。
日本人の悪い所は、何事も最初から完璧にしないといけない、という思い込みです。
これは学校教育で、何でも100点を求められていたからでしょう。

それに日本の教育は、暗記や計算が中心です。
好奇心をかきたてるような、創造性を高める授業は、ほとんどありません。
でも、だからって好奇心を押さえ込むのは、絶対に損です。
だって、あなたの人生じゃないですか。
失敗したっていいんです。
最初から上手く行く人はいませんし、失敗も経験です。
失敗が多い方が、上手く行った時の喜びは、ひとしおでしょう。
それに、失敗をたくさんしている人ほど、話が面白いものです。
自分では失敗ばかりして、だめな人間だと思うかも知れません。
でも、周囲の人は、そういう人こそ、魅力的に見えるものです。
失敗が続いて、その道が嫌になることも、あると思います。
でも、それで自信を失う必要はありません。
それは、あなたに技量や才能がなかった、という意味ではないのです。
単にあなたの好奇心が、それを続けることに、興味を失っただけのことです
自分が求めているのは、これじゃなかった。
もっと他に、面白いことがあるはずだ。
好奇心は、こう言いたいのです。
本当に強い関心を持っていたなら、どんなに失敗が続いても、それをやめることはありません。
好奇心は、そういう興味を求めているのです。

自分が何に興味を持つのか、わからないこともあるでしょう。
そんな人は、とにかくいろんなものを見たり体験することを、お勧めします。
行ったことのない所があれば、どんどん行ってみましょう。
身近な所でも、普段は全然見ないような所に、目を向けて見ましょう。
どうでもいいような疑問を大切にして、その答を追求して行きましょう。
そういう些細なことへの関心が、やがて本当の興味へと導いてくれます。
それを他の人が、つまらないことだと思うかも知れません。
でも、それはその人の興味であり、価値観です。
あなたの興味や、価値観ではありません。
あなたが他人の興味や価値観に、合わせる必要はないのです。
あなたの人生に必要なのは、あなた自身の好奇心と価値観なのです。
ここで大切なポイントがあります。
好奇心は興味を探求し続けながら、あなたを喜びの方向へ、導こうとします。
でも人生の喜びは、その先だけにあるわけではないのです。
探求の結果、何か大きな成果が出たら、最高に嬉しいでしょう。
だけど、そこへ至るまでの過程にも喜びはあります。
むしろ、そちらの喜びの方が、本当の喜びだと思います。
まず、何かに夢中になる喜び。
これは成果を出すまでのものです。
次に、ゴールへ向かう途中で、思いがけず発見する、新たな人間関係や経験や知識。
あるいは、自分を陰ながら支えてくれた人たちの想い。
こういったものも、大きな喜びになるでしょう。
夢中になって険しい道を、かき分けるように進むあなた。
目標は見えてはいるのですが、まだま遠い道のりです。
あなたは少し立ち止まって、自分が進んで来た道を振り返ります。
すると、そこには様々なきれいな花が、いっぱい咲き誇っていました。
花々は喜びに満ちた笑顔で、あなたを応援してくれているようです。
あなたは感激して、涙が止まらなくなりました。
こんなイメージでしょうか。

これこそが、人生の本当の喜びなのだと、私は考えています。
どの方向へ進めば、幸せを発見できるのか、好奇心はそれを示してくれているのです。
だからと言って、結果なんてどうでもいい、とは思わないで下さいね。
最高の結果を期待して進むからこそ、そこへ至る道が、幸せの花で満たされるのですから。
人生の壁

人はいろんなことで壁にぶち当たり、先が見えなくなることがあります。
それは物理的な壁と同じことです。
壁に突き立ったら、上を乗り越えるか、脇に回って、向こう側へ通じる道を、探るしかありません。
実際、道の先に壁が現れたら、誰もがそうするでしょう。
ところが面白いことに、人生の壁に突き当たると、大抵の人はそうしません。
何度もその壁に、体当たりをして壊そうとしたり、壁の前に立ちすくんで、泣いたり怒鳴ったりします。
あるいは、しゃがみ込んで頭を抱え、もうだめだと絶望したりするのです。
本物の壁の前で、こんな風にしている人を見つけたら、きっとあなたは噴き出すでしょうね。

人生の壁に突き当たった時は、本物の壁と同じように迂回すればいいのです。
それは、これまでの考え方、物事の受け止め方を、変えるということです。
仕事であれば、固定観念を変えて、これまでとは全く違うやり方を探してみるのです。
実際、今回のコロナ騒ぎの中で、いろんな店が様々な工夫を凝らしたり、違う業種同士で助け合ったりしてますよね。
新しい仕事の方法が、こういう所から生まれて来るのです。
いろいろ頑張ってみたけど、やっぱり上手く行かなかった。
それは、あなたが別の仕事に、呼ばれているということでしょう。
次のステージの始まりということです。
そこでも、これまでの経験が活かされるでしょう。
家族や友人との関係が、上手く行かない場合は、どうすればいいでしょうか。
まずは、互いに感謝や思いやりの気持ちを、持っているかを確かめましょう。
思いやりとは、何かをしてやっている、というのとは違います。
してやっているというのは、一方的な自分の言い分に過ぎません。
思いやりというのは、相手の気持ちを考える、ということなのです。
感謝もきちんと、態度や言葉で示すようにしましょう。
自分の想いを、相手に伝えることが大事なのです。
自分は相手を、粗末に扱って来なかっただろうか。
親切のつもりが、親切の押し売りに、なっていなかっただろうか。
日々の挨拶や、ちょっとしたことへの感謝の想いを、省略して来なかっただろうか。
一緒にいても、自分が楽しむことばかり、考えていなかっただろうか。
会話がどちらかの一方的なものに、なっていなかっただろうか。
相手の前で、ネガティブな話ばかり、していなかっただろうか。
こういうことを、振り返ってみて下さい。

自分はいずれも問題ないけど、相手の方が少しもこちらのことを、考えてくれない。
そんなことも、あると思います。
自分たちの関係について、話し合ってみても、相手が変わらない。
そして、それがあなたには苦痛である。
そういう時は、相手と距離を取ることを、お勧めします。
人生は学びです。
それはあなただけでなく、相手の方にも言えることです。
喧嘩別れをするのではありません。
ネガティブな気持ちで離れるのではなく、ポジティブに考えて距離を置くのです。
あなたが距離を置くことで、相手の方に学びのきっかけを、与えることになるのです。
学べるかどうかはわかりませんが、それはその方の責任です。
あなたが心配することでは、ありません。
そのまま、ずっと離れていた方がいいと感じたなら、そうするのがいいと思います。
それは両者が一緒にいることが、必要だったステージが、終了したということです。
あなたにも相手の人にも、どちらにも新たなステージが、始まったわけです。
その新たなステージを経験することで、離れた者同士が、前とは違った関係で、再び近づくかも知れません。
あるは、そのまま二度と会わないことも、あるでしょう。
どちらの結果になったとしても、それが自然な流れであるのなら、個人的な価値観で悩んだり悔やんだりしないことです。
人生は個人的な計画や、理解を超えたところで、動いているのです。
あなたは、その中で学べることを、学ぶだけです。
楽しいことも悲しいことも、どちらも一つの体験であり、同等の学びです。
つらいことや、悲しいことを避けようとせず、受け入れると決めてみれば、目の前にあった壁は、跡形もなく消え去るでしょう。

自分の翼
人は誰もが価値観を持っています。
それは大人だけでなく、子供も同じです。
価値観はその人の考え方や行動に影響を与えます。
生き方の方向を決定づけていると言ってもいいでしょう。

辞書によれば価値観とは、「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断」と説明されています。
趣味や嗜好品、インテリアやファッション、こういうものは価値観の実例として、一番わかりやすいですね。
人によって好みが分かれるのは、価値観の相違というものであり、それは誰しもが理解しているところでしょう。
ところが、自分で価値観だと認識しづらい価値観というものがあるのです。
認識できている価値観は変更ができますが、認識できなければ変更は困難です。
自覚していない病気のような、この価値観。
それは、みんなが常識だと考えているものです。
義務教育の後は高校へ進学し、その後は大学に入る。
大学を卒業したら、どこかに就職してお金を稼ぐ。
勉強はいい学校へ入るためにするもので、大人になれば関係ない。
お金がなければ幸せになれない。
お金を稼いだり、好きなことができるのは、特別な才能や、恵まれた環境がある者だけだ。
学歴がなければ、まともな暮らしができない。
体の小さな者は、体の大きな者と争っても勝てない。
親や先生、あるいは立派に見える大人は、こういうことが常識だと、子供たちに教えます。
世の中を知らない子供や、人生経験の浅い若い人は、これに反論ができません。

彼らはそのまま、それを自分自身の価値観の中に、組み込んでしまいます。
でも、それが価値観の一つだとは理解していません。
支配者が誰かを支配するには、どうするか。
相手から自信と思考能力を奪い取り、こちらの言うことに従わなければ、生きて行けないと信じ込ませるのです。
常識と呼ばれる価値観は、そういった支配に利用されることが多いのです。
理不尽な仕事を命じて、結果が出ないと部下のせいにする上司。
生徒がイジメに悩んでいても、問題が表沙汰にならないよう、担任に強いる校長。
力の弱い者に、暴力を振るったり恥をかかせたりして、自分に従わせようとする乱暴者。
こういう者たちは、相手が逆らえない状態にあるのがわかっています。
逆らえないのは、すり込まれた価値観で、自分をがんじがらめにしているからです。
世間を騒がしたり、事件を起こすような人たち。
彼らの背景にも、こういう価値観のすり込みがあって、自暴自棄になっていることが多いと思います。
本来、価値観はその人自身にプラスになるものです。
本人を苦しませるのは、本当の価値観とは言えません。それは洗脳です。
私は常識の全てを、否定するつもりはありません。
でも、理由をきちんと説明できずに、ただ常識だという形で、逆らえない者に押しつけられた価値観は、洗脳と同じだと思います。

あなたが悩む時、生きている実感が湧かない時、あるいは将来に漠然とした不安を感じている時、それは恐らく、あなたの中にすり込まれた、常識という名の価値観が原因です。
何事もなく自由に生きているつもりであっても、自分の翼で羽ばたいているわけではないのです。
常識という列車に乗せられて、お決まりの線路の上を走っているだけに過ぎません。
もし、列車が脱線したら、あなたは身動きが取れなくなるでしょう。
あるいは、列車の窓から見える風景が、自分が思っているものとは、全然違うように見えるかも知れません。
それはその列車が、本来のあなたの価値観ではないからです。
列車に乗るということ自体が、知らない間にすりこまれた、他人の価値観なのです。

自分の翼で飛んでみませんか。
この言葉の意味は、自分の本当の価値観に従って、生きてみませんかということです。
人生の主役はあなたです。
あなたは自由であり、人生の主導権は、常にあなたにあるのです。