あなたの守護神

守護神あるいは守護霊という言葉を、聞かれたことがあると思います。

他にも支配霊とか指導霊とか、似たようなものがありますよね。

でも、そういう表現は何となく宗教的な臭いがしますし、明白な上下関係を示されているようで、あまり好ましいとは思えません。

ただ、目に見えない世界や、目に見えない存在のことは、普通の人にはわかりません。

また、わからない世界のことを、表現する言葉などありませんから、どうしても限られた言葉で、表現するしかないのでしょう。

でも、そうなると、やはり宗教的になったり、上下関係があるように、聞こえたりしてしまいます。

そもそも、私たちはこの世界に生きていますから、何でもこの世界を基準に考えます。

ところが、私たちの本質は心であり、本来は姿形を持たない存在なのです。

ですから、守護霊などという言葉で表現される存在も、私たちと同等の存在なのかもしれません。

彼らをこの世界に生まれて来る前の、親しい仲間であったり、自分の分身のような存在であると、考えることもできるのです。

 ※こっそり出版さんによるイラストACからの画像です。

この世界が一種の学習ゲームだとしましょう。

姿形を持たない存在にとって、姿形で成り立つこの世界は、とても興味深く魅力的なはずです。

姿形を持つということが、どういうことなのかを、知らないのですからね。

そこで誰かがこのゲームに挑戦したとします。

ゲームにまだ参加していない者や、既にゲームを卒業した者などは、現在挑戦中の者のすぐそばにいて、みんなで見守ったり応援したりするでしょう。

それが守護神や守護霊、あるいは支配霊や指導霊などという言葉で、表現されるのではないかと思うのです。

その中でも、一番中心的な存在は、本来の自分自身です。

私たちはこのゲームに参加してはいますが、参加している自分というものは、本来の自分のごく一部なのです。

残りの自分は、今でも姿形のない世界にいて、この世界の自分にいろいろ指示を出すのです。

言ってみれば、私たちは探査機で、司令塔が別の所にあるというわけです。

その司令塔をこちらの世界の言葉で表現すると、無意識と言うのですね。

私たちが無意識とのつながりを感じている時は、周辺にいる他の応援部隊の存在も、認識しやすいと思います。

それは誰もいないはずの、自分の傍らに立つ気配のように、感じるかもしれません。

あるいは、頭の中で道を示そうとする良心として、受け止めるかもしれません。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

守護神や守護霊とは、私たちを守ってくれる存在だと、考えられがちですが、彼らは何が何でも、私たちを守ってくれるわけではありません。

この世界で生きるか死ぬかということは、私たちにとっては、何より大切なことに思えます。

でも、彼らにとっては、そんなことよりも、この学習ゲームで、何を学び取るかということの方が、遥かに重要です。

もちろん、死ぬということは、このゲームを止めることになりますから、それ以上の学習は続けられなくなります。

目的を達成できたのであれば、それで構わないのでしょうが、そうでない限りは、学習を続けられた方がいいわけです。

そういう意味では、彼らにとっても、私たちが生き続けることが、望ましいでしょう。

でも、そのためには私たちが、彼らとのつながりを、保つ必要があります。

それは無意識の指示に従うこと、つまり、自分の本音で生きることです。

そんな状態の時にあって、彼らは初めて、守護神や指導霊としての、役割を果たすことができるのです。

 ※うちなーんちゅさんによるイラストACからの画像です。

彼らが懸命に応援したり指示を出したとしても、こちらが聞く耳を持たなければ、どうしようもありません。

目の前に危険が迫っていても、頭からその中へ、突っ込んで行くことになるでしょう。

時に、くつの紐が切れるとか、誰かに呼び止められるとか、という偶然によって、奇跡的に危機を回避できることがあります。

それは彼らが助けてくれたわけですが、単に助けたということではなく、自分たちの存在を、認識してもらおうとしているのです。

ああ、助かった、不思議なこともあるものだ。
という感じで終わってしまっては、意味がありません。

どうして助かったのかということを、深く考えて欲しいし、自分たちとのつながりを、思い出してもらいたいのです。

誰にでも、守護神や守護霊と呼ばれる存在はいます。

でも、彼らをそのように見るのではなく、ゲームに夢中になっている自分を、横で声を枯らして応援してくれている、仲間がたくさんいるのだと、考えてみて下さい。

この世界で独りぼっちでいるように感じていても、決してそんなことはないのです。

あなたの周りには、あなたの守護神たちが、いつも寄り添って応援してくれているのです。

守護神とは、そういうものだと思います。

 ※しらさんさんによるイラストACからの画像です。

妖精は存在するのか

妖精と言うと、どんなものをイメージしますか。

ピーターパンに出て来る、ティンカー・ベルでしょうか。

 ※3333873さんによるPixabayからの画像です。

妖精という表現は西洋的なので、西洋のファンタジーに出て来る、小人のような存在が思い浮かぶと思います。

日本では、座敷わらしなんかが、妖精の仲間のように見えますが、日本的な表現をすれば、妖精ではなく、妖怪あるいは精霊と言うのでしょう。

妖怪と精霊では、がらりとイメージが違うようですが、本質的には同じようなものと、考えられます。

要するに、普段は物質世界とは、異なる次元に存在していて、姿形があるのかないのか、はっきりしないけれど、時折人々の前に、何らかの存在感を示すものです。

妖怪は人に悪さをするけれど、精霊はいいことをしてくれる、というような感じがするかも知れませんね。

でも、天狗や河童や鬼などは、人に害をなすこともあれば、力になってくれることもあります。

彼らは妖怪とも言えるし、精霊とも言えるのです。

 ※Impraveさんによる写真ACからの画像です。

そもそも、妖精や妖怪、あるいは精霊などが、実在するのでしょうか。

証拠を示すことはできませんが、答えはイエスだと思います。

何故ならば、幽霊を含め、私たち自身の本質が、姿形を持たない意識体、すなわち精神エネルギーだからです。

物質世界の肉体と、つながりを持っているか、いないかの違いでしょう。

物質世界に体を伴って暮らす生き物は、人間だけではありません。

いろんな動物や植物、あるいは微生物のようなものまでいます。

それと同じように、肉体を持たない精神エネルギーとしての生命体にも、様々なものがいると考えられます。

その中には、動物よりも知性の低いものもいれば、人間よりはるかに知性の高いものもいるでしょう。

また、エネルギーとしての時空間を、操る能力があれば、人間から見て摩訶不思議なことを、行うことができるでしょう。

恐らく、物質世界とは少し波長が違う次元に、存在しているのでしょうから、私たちからは見ることも触れることもできません。

しかし、私たち自身の波長が、彼らの波長に近づいたり、どこかの土地の波長が、彼らのいる世界の波長に近ければ、時として彼らと、接触することがあると思われます。

案外、彼らの方からは、いつでも私たちのことを、観察ができるのかも知れません。

ただ、私たちが彼らに気がつかないだけ、ということも有り得ます。

 ※Stefan KellerさんによるPixabayからの画像です。

私たち一人一人が体験している世界は、自分の肉体を通して得た情報で、構成されています。

みんな同じ世界にいるような気になりますが、実際は一人一人が、違う世界にいるのです。

そのため、人によっては他の人には見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえることは、あるのです。

肉体が存在している物質世界には、様々な情報があります。

私たちは、その情報の中から、ある情報だけを選んで、それを世界構築の材料にしているのです。

昔の人は妖精が見えたり、精霊と話ができたりしたと、聞くことがありますが、今では、そんなことは迷信扱いです。

実際、妖精が見えるとか、精霊が話ができるなどという人は、ほとんどいないでしょう。

もし、いたとしたら、恐らく病院へ連れて行かれてしまいます。

現代社会は科学を信奉しており、科学で説明できないことは、非科学的だという言葉で、片づけられます。

科学に抗う者は、頭がおかしいと思われるのが、おちなのです。

しかし、自分の世界は、自分で選んだ情報で創られているわけですから、妖精なんか信じないと決めてしまうと、妖精に関する情報は、目の前にあっても、シャットアウトされてしまいます。

よほど向こうから、強く存在をアピールしてくれない限り、こちらからは彼らの情報を、拾い上げることはありません。

 ※Ria SopalaさんによるPixabayからの画像です。

子供には幽霊や精霊が見えるという話は、よく聞きますよね。

子供は科学信奉者ではありませんから、自分の感覚に素直です。

何も否定しませんから、目の前に差し出された情報を、疑うことなく受け止めるのです。

しかし、成長するにつれて、そういう話をしてはいけないのだと、考えるようになると、次第に妖精たちの情報を、取り込まなくなるのです。

つまり、妖精たちの存在がわからないのは、私たちが現実と考える物質世界に、どっぷり浸かっているからなのです。

霊能者と呼ばれる方たちは、子供の頃から感覚が鋭敏で、なおかつ大人になっても、その感覚を大切にして来られたのだと思います。

ちなみに、私は霊能者ではありませんが、誰もいないはずの隣に、人の気配を感じたり、寝ている時に、ネコのようなものに、乗って来られた経験はあります。

ですから、肉体を持たない存在は、身近にもいるのだと思っています。

妖精や精霊にも、いつかは会ってみたいものですが、そのためには自然や他の生き物たちに、優しい気持ちを持たないと、いけないような気がします。

よく、地球に優しい環境だとか、エコという言葉を聞きますが、あれは全て人間に利点があることが、前提になっています。

人間中心の発想であって、本当に地球に心を寄せているとは言えません。

エコではなく、エゴですね。

そうではなく、自分は地球の一部であり、自然は自分の兄弟なんだ、という理解と感覚で、優しい気持ちを持つということです。

自分がいい思いをしたいとか、つらい思いをするのは嫌だから、という考えの下では、本当の地球への優しさは、持てないでしょう。

そして、そんな心持ちでは、妖精や精霊にも、会えないかも知れません。

あの世と幽霊 その2

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 ※ComfreakさんによるPixabayからの画像です。

自分の思いが、自分の状態を決めるのは、幽霊に限った事ではありません。
生きている私たちにも、言える事なのです。

でも、生きている間は、思い悩みや決めつけた考え方を、変えるチャンスがあります。

誰かとの出会いや、何かの出来事が、思い直すきっかけを与えてくれるのです。

しかし、肉体を離れて、心だけの存在になると、普通の人には認知されません。

たまに気配を感じたり、姿を見る人が、現れるかも知れませんが、大抵の場合、怖がって逃げてしまいます。

死者を諭して、未練を解消してくれるような人は、いないと言えるでしょう。

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 ※miiyaさんによるPixabayからの画像です。

地面を転がるビー玉が、いつか動きを止めるのは、地面との間に起こる、摩擦力のためです。

摩擦がない真空の中を、飛び続けるビー玉は、何かにぶつかるか、大きな引力に引っ張られるかしなければ、永遠に同じ速度で飛び続けます。

精神エネルギーの状態も、そこに新たな刺激が加わらない限り、ずっと同じ状態を維持すると思われます。

すなわち、怒りや悲しみ、恨みや後悔などの、強い念だけを抱いて死ぬと、死者の心は、その感情の渦の状態のまま、身動きが取れなくなるのでしょう。

生きていれば、何かの刺激が加わって、エネルギーの状態を変える事ができるのです。

しかし、この世とあの世の狭間にいては、何の刺激も加わりません。

死を迎えようとしている人の枕元に、既に亡くなった家族や知人が、訪れるという話を、聞く事があります。

彼らはその人が肉体を離れるまで、その人のそばに付き添い、その時が来れば、あの世への案内人になってくれるのでしょう。

実はこういう存在が、幽霊になってしまった者にも、声をかけているのではないかと思われます。

しかし、強い悲しみなどの念に囚われていると、それらの存在の声が、聞こえないのかも知れません。

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 ※Daniel RecheさんによるPixabayからの画像です。

生きている人間で言えば、部屋の中で、自分だけの世界に、引き籠もっているのと同じです。

ただ、永遠に引き籠もっているわけでは、なさそうです。

何故なら、鎧武者の幽霊の話はあっても、縄文時代や弥生時代に生きた人の幽霊話は、聞かないからです。

時間はかかるかも知れません。

でも、本人の中のわずかな心の変化が、いずれは全体の感情の渦を、引き止める力になるのだと思います。

あるいは、感情の渦の力が弱まる事で、あの世から迎えに来ている人の、声が聞こえるようになるとも考えられます。

ただ、いずれにしても、強いネガティブな想いを抱いたまま、この世を去るという事は、お勧めできません。

どんなに嫌な事があったにしても、避けた方がいいと思います。

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 ※TumisuさんによるPixabayからの画像です。

最近、自ら命を絶ってしまう人が、増えています。

一見、楽しく過ごしているように見える人が、ある日、突然、亡くなってしまう事もあります。

みんな、本当の心の内は、なかなか人に喋りません。

ですから、心の中の感情の渦を、違う状態に変化させられず、ただ増幅させてしまうのでしょう。

自分でも、どうにもできなくなるほど、感情の渦が大きくなると、その人は突発的に思いがけない行動を、取ってしまいます。

自分の中に、ネガティブな感情の渦がある人は、その渦が大きくなる前に、幽霊が示している事を、理解しておくべきでしょう。

自殺をする人は、この世の全てが嫌になり、そこから解放されたくて、命を絶つのだと思います。

それでも結局は、自分が消滅する事はないのです。

つらい思いは、そのまま残り、そこから抜け出す事は、かえって容易ではなくなるでしょう。

ただ、残された人々の悲しみを、知る事ができたならば、それが死者の心を正気に戻し、幽霊になる事を、防げるかも知れません。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

自ら命を絶った人の多くは、恐らく自分の取った行動を、大いに悔やんで、残された人たちに詫びるのだと思います。

そして、案内人に従って、次のステップのために、あの世へと移行すると思われます。

ただ、一部の人たちは残念ながら、幽霊になってしまうのでしょう。

それは、本当に気の毒な事です。

でも、必ず助けは来てくれます。

それに、家族や友人たちの祈りは、精神エネルギーの波として、きっと幽霊になった者の、心に届くでしょう。

それは感情の渦を抑える力となり、あの世への移行を、早める事ができるに違いありません。

あの世と幽霊 その1

 ※666sensesさんによるPixabayからの画像です。

日本では、死んだ者の魂は、あの世へ行くと、伝えられて来ました。

ほとんどの人が子供の頃に、そんな話を聞かされたのではないでしょうか。

でも、子供はあの世と言われても、よくわかりません。

喋っている大人だって、何も知らないまま話すのですから、仕方がありません。

ただ、大人も子供も、この世は自分たちが生きている世界で、あの世は死んだ者がいる世界だと、受け止めています。

宗教的な話はともかく、人の心を精神エネルギーととらえたならば、そのエネルギーが消滅する事はありません。

エネルギーは変化をする事はあっても、消え去る事はないのです。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

生きているというのは、心と肉体が結びついている状態を言います。

死ぬというのは、この結びつきがなくなる事です。

肉体の方だけ見ていると、心が消滅したように思えます。

しかし、肉体から解放された心は、それまでとは別の状態で、存在しています。

つまり、この世とあの世という考え方は、間違いではないと言えます。

科学がこれほど発達した現在でも、世界の本当の姿は、理解できていません。

遥か昔の人たちが、世界がこの世だけではないと考えただけでも、すごい事だと思います。

 ※Anand KumarさんによるPixabayからの画像 です。

ところで、肉体とのつながりを失った心は、その後、どこへ行くのでしょうか。

昔風の言い方で、あの世と呼ばれる領域へ、移るのだとすると、幽霊という存在は、どう説明できるのでしょう。

死んだ者がみんな、あの世へ行くのだとすると、幽霊の存在は、その説明とは矛盾する事になります。

それについて、幽霊が存在するのは、この世に未練があるからだと、説明されています。

つまり、未練なく亡くなった人は、すんなりとあの世へ移行し、未練を持った人は、この世に留まって、幽霊になるというわけです。

この場合の幽霊は、はっきり姿を現す者だけではなく、音や気配だけの者も含みます。

確かに、幽霊の話がある所には、悲惨な事件や事故が、付きもののように見えます。

思いがけない死や、恨みや悲しみを抱いた死は、死者が幽霊になる要因かも知れません。

 ※Michael SchwarzenbergerさんによるPixabayからの画像です。

ただし、例外もあります。

死の研究で世界的に有名な、故キューブラー・ロス博士は、その著書の中で、幽霊との遭遇について語っています。

それは日中、ロス博士が仕事をしていた時の事です。

廊下を歩いていたロス博士の前に、一人の女性が現れます。

その女性はロス博士の患者で、その時には既に亡くなっていました。

この女性はロス博士に、お世話になったお礼が言いたくて、現れたと告げました。

彼女の見た目は、生きている人間と全く変わりません。

ロス博士は、女性が自分の妄想ではない証拠を、示して欲しいと頼みました。

女性はそれを承諾し、ロス博士が持っていた書物に、ロス博士のペンで、サインをすると、すっと消えてしまいました。

女性がいなくなった後も、ロス博士の書物には、女性のサインが残されていました。

 ※Gundula VogelさんによるPixabayからの画像です。

この女性の幽霊は、ロス博士にお礼を言うために、現れました。

悲惨な事件や事故の、被害者ではありません。

ただ、何としてもロス博士に、感謝を述べたいという、一念があっただけです。

この一念も、一種の未練と考える事はできます。

ただし、この未練は、実際にロス博士に会って、お礼を述べる事で、果たせる未練です。

ロス博士に感謝をした事で、未練がなくなった女性は、あの世へ移行ができたのでしょう。

一方で、果たしたくても果たせない、未練を持った幽霊は、その未練に引っ張られ、この世を去る事が、できずにいるのかも知れません。

自分の思いが、自分の状態を決める。

それが幽霊から知る事のできる、真実ではないでしょうか。

あの世との交信

 ※Anastasia GeppさんによるPixabayからの画像です。

亡くなった人と、気軽に連絡が取り合えたら、どうでしょうか。

世の中の人の意識に、革命が起こるのではないでしょうか。

二度と会えないと思うからこそ、死別の悲しみは、とても深いものになるのです。

しかし、死後も簡単に会話ができたなら、今のような悲しみは、なくなってしまうでしょう。

肉体を伴った再会ができないのは、それはそれで寂しいと思います。

だけど、会話ができるのであれば、外国へ移住したのと、大差はありません。

小説や映画も、悲しみをテーマにしたものは、作りにくくなりそうです。

殺人事件も減るかも知れません。

まず、口封じに殺すという事は、全く意味がありません。
あの世から、何もかも喋られてしまうでしょう。

自分の姿が見えないようにすれば、相手を殺しても、自分の事はわからない。

そう考える者が、いるかも知れません。
でも、それも無意味です。

肉体を離れた意識は、全てを確認できます。
犯人はあの世からの通報で、すぐに捕まるでしょう。

自分が死んだら、自分が殺した相手に、あの世でひどい目に遭わされる。

そう考えると、恐ろしくて殺人なんて、できなくなるでしょう。

でも、あの世の方が、この世よりも暮らしやすそうだと、自ら命を絶つ人が、増えるかも知れません。

宗教も必要とされなくなるでしょう。
指導者の話を聞かなくても、あの世の情報を、直接知る事ができるからです。

人々はこの世で生きる意味を、これまで以上に、考えるようになるでしょう。

しかし、死んでもあの世で生きられると考え、好い加減に暮らす人も、出て来るかも知れません。

とにかく、人々の暮らしや価値観が、一変するのは間違いありません。

でも、そんな事が可能なのでしょうか。

 ※お国さんによるイラストACからの画像です。
  前頭葉・頭頂葉と、側頭葉の間にある実線部分が、シルビウス裂です。

1955年にアメリカの脳神経外科医、ペンフィールド博士が、脳に電気刺激を与える研究をしていた時の話です。

右脳のシルビウス裂という所に、電気刺激を与えると、被験者が体外離脱体験をしたと言うのです。

人の意識は、脳が創り出しているのではなく、脳と直結して、相互作用をしています。

意識自体は、物質の世界とは別の次元に、あると思われます。

別次元の意識を、この世界にある肉体に、結びつけるには、意識の焦点を、脳に合わせる必要があります。

これに関わっているのが、恐らくペンフィールド博士が刺激した、シルビウス裂の辺りにあるのでしょう。

そこの脳神経の活動が、意識を脳に結びつけるのだとすれば、その脳神経ネットワークを、電気回路的に再現する事で、亡くなった人の意識を、呼び込めるかも知れません。

そのような回路を組み込んだ、ロボットを作れば、亡くなった人が肉体の代わりに、それを利用して、この世界で活動ができるわけです。

 ※K.M=KARIBITOさんによる写真ACからの画像です。

死者との交信と言えば、青森県・恐山のイタコが有名ですね。

イタコが本当に、死者の言葉を伝えているのであれば、生者の意識と死者の意識が、結びついたという事です。

それはテレパシーと言っても、いいでしょう。

イタコではない普通の人が、そんな風に死者とやり取りが、できないものでしょうか。

実はできるのです。

 ※MesakCさんによるPixabayからの画像です。

アメリカのロバート A・モンロー氏によって、開発されたヘミシンクという技術があります。

左右の耳それぞれに、わずかに周波数が違う音を、聴かせます。
たとえば、左耳に105ヘルツ、右耳に100ヘルツという感じです。

左右から周波数がずれた音を聴かせると、その差の波長が脳の中に、脳波を作ると言います。
この場合であれば、105-100= 5ヘルツの脳波です。

この技術によって、様々な脳波を、脳の中に作ると、それに応じた意識の変容状態が、生じるようです。

つまり、死者と交流ができるような意識状態を、科学的に再現できるわけです。

もちろん、そこまでの意識の変容に至るまで、基礎的なトレーニングは必要なようです。

アメリカでは、このトレーニングをモンロー研究所で、受けることができます。

モンロー研究所は、モンロー氏が創った、ヘミシンクの研究所です。

でも、アメリカは遠いですよね。

実は、アメリカへ行かなくても、日本でもヘミシンク体験ができるのです。

モンロー研究所で経験を積まれた、坂本政道氏のアクアヴィジョン・アカデミーは、モンロー研究所公認の、ヘミシンク体験機関です。

私も以前からヘミシンクには興味があり、いつかは体験してみたいと思っていました。

しかし、メインの活動が関東なので、四国からではちょっと遠くて、行けませんでした。

でも、最近調べて見るとCDを使って、自宅でもできるようになっているみたいなので、近いうちに挑戦してみようかと考えています。

私の両親は既に亡くなっていますが、二人が向こうで元気にしている姿を、直接確かめられたら嬉しいですね。

ただ、ヘミシンク自体は、死者に会う事を、目的としているわけではありません。

異次元の存在や、異星人の心と、コミュニケーションを取る事もできます。

こう言うと、嘘っぽいとか、怪しいと思われる方も、いると思います。

しかし、そう思う前に、自分で確かめてみるといいでしょう。

このプラグラムの本来の目的は、意識というものが、通常考えられているようなものではなく、無限で不思議で素晴らしいものである事を、自ら体験して学ぶ事だと思います。

それによって、人生観や世界観が大きく変わるでしょう。

あの世の人と交流ができれば、意識革命が起こると述べました。

ヘミシンク体験は、まさにその意識革命を起こすものなのでしょう。

幽霊を科学する2

 ※Andreas LischkaさんによるPixabayからの画像です。

幽霊になるのが、無念の死を迎えた人だけであれば、幽霊はその人自身ではない、という考え方もあります。

死んだ人の心と言うより、その人が抱いていた強い思いが、念として残っていると、理解するのです。

要するに、死んだ人の心は消え去るけれど、その人の恨みや悲しみなどの、強いマイナスの思念の渦だけが、しばらくは幽霊という形で、残り続けるというわけです。

しかし、強い思念というものも、物質エネルギーではありません。

強い思念が残るというのであれば、結局は物質エネルギーとは別のエネルギーを、想定する必要が出て来ます。

精神が属するエネルギーを想定するのであれば、人の心が肉体の死後に、残っていても問題はありません。

それでも、肉体は死後に崩壊するから、心も死後に崩壊するだろうと、考えたくなるかも知れません。

確かに、それも一つの考え方だと思います。

しかし、それは推論に過ぎませんし、死後も心が、どこかに存在しているという、可能性を否定できるものではありません。

そのどこかを、昔の人はあの世という言葉で、表現していたのでしょう。

あの世があるのであれば、世界を考える時に、この世とあの世の両方を考慮する、必要が出て来ます。

また、あの世があるとなれば、当然、この世とあの世の間で、連絡を取り合う方法が、あるのではないかと考える人が、出て来るでしょう。

 ※edsavi30さんによるPixabayからの画像です。

「おじいちゃん、そっちの世界では、何をして暮らしているの?」
「生きていた頃と、同じだよ。違うのは、誰かに会いたいって思ったら、その相手が目の前にいるってことかな」

こんな風に亡くなった家族と、いつでも気軽に会話ができれば、素敵だと思いませんか。

テレビ電話のように、モニター画面があれば、遠方で離れて暮らしているのと、何の変わりもないですよね。

未解決の殺人事件も、死んだ本人から話が聞ければ、解決できるかも知れません。

誰かを殺した人は、自分が死んであの世へ行くことを、とても恐れるでしょう。

死後の世界にいる人から、あの世の様子や、この世に生まれて来ることの意味などを、教えてもらえたら、どうでしょうか。

きっと人々の価値観に、革命が起こるに違いありません。

どうせ死んだらおしまいだから、生きている間にいい思いをしよう、という考えは、成り立たなくなってしまいます。

 ※TumisuさんによるPixabayからの画像です。

今の世の中は、科学技術ばかりが大きくなり、人としての心が未成熟な、いびつな社会です。

しかし、あの世の発見により、科学も社会も新たなステージを、迎えることになるでしょう。

新たな時代を迎えた社会は、これまでと違って、精神と科学のバランスが取れた、素晴らしい世の中になるに違いありません。

でも、そのためには幽霊の存在を認め、幽霊について研究しなければなりません。

ただ、幽霊とは、元々生きた人間だったのです。

穏やかな死を迎えた人が、研究に協力するということで、あの世から幽霊となって、現れてくれるのであれば、問題はありません。

しかし、無念の死を迎えて、幽霊になった人たちは、死んだ後も苦しみ続けていると、考えられます。

そういう方たちを研究対象にする場合、その苦しみや無念な思いに対する、配慮が必要なことは、言うまでもありません。

肉体があろうがなかろうが、みんな私たちと同じ人間なのです。

そうは言っても、実際に幽霊を研究しようという、学者はほとんどいないでしょう。

科学的な結論を待っていては、人々が抱えている悩みや、社会の問題を解決することができません。

科学的に研究すれば、必ず素晴らしい成果に、結びつくと思います。

でも一般の人々は、研究を学者任せにしないで、幽霊の存在が意味するところを、自分たちで考えるべきだと思います。

科学的な立証がなくても、自分が納得できれば、人生を生きて行くための指標を、持つことができます。

それは豊かで深みのある人生を、約束してくれるものなのです。

 ※Daniel RecheさんによるPixabayからの画像です。

幽霊を科学する1

猛暑はまだ続いていますが、セミの鳴き声には変化がありました。

朝のうちにシャワシャワと合唱していた、クマゼミの鳴き声が聞こえなくなり、代わりにツクツクボウシが鳴いていました。

暑いとは言いながら、秋の気配が近づいて来ているのでしょうね。

 ※きなこもちさんによる写真ACからの写真です。

ところで、最近は少し減ったような気がしますが、夏になるとバラエティ番組で、心霊写真や怖い話の体験談などの、特集がよく組まれますよね。

でも、テレビの司会者やコメンテーターも、ただ怖いだの恐ろしいだのと、言うばかりです。

たいてい専門家の先生や霊能力者が、心霊話や心霊写真の説明をし、みんなそれで納得しておしまいというのが、いつものパターンです。

テレビを見ている視聴者の方も、その姿勢は同じで、ああ怖かったというだけの話です。

でも、私はいつも思うのです。
ちょっと待ってくれないかと。

霊能力者が出て来て、これは霊ですと言えば、そうなのだと思い、学者が出て来て、これは明らかに思い違いですねと言うと、なるほどそうかと、うなずく。

どっちの言い分を信じるのかと問われても、大半の人は、わからないと言うのでしょう。

いずれにしても、番組が終わってしまえば、心霊の話もそれでおしまい。
日常生活には、何の影響も及ぼしません。

次の日には、全然違う話題に、夢中になっているでしょう。

でも、考えて下さい。

幽霊が存在するならば、それは大変なことなんです。

肉体が死んだ後も、その人の精神が、残っているという事なのですから。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

一般的には、人間は死んだらおしまい、とされています。

心や意識の本質が、何なのかという事については、うやむやにされたまま、死んでしまえば存在が、全て消え去ると、考えられているのです。

でも日本人の場合、あの世とか、ご先祖さまという考え方を、持ってる方が多いでしょう。

よくはわからないけど、あの世はあるのではないだろうかと、考える人も少なくないと思います。

そういう方は、幽霊の存在を、信じているかも知れません。

でも、幽霊なんて気のせいだし、あの世なんてあるわけがないと、科学知識を振り回す人から責められると、反論ができません。

結局、多くの人が幽霊について、バラエティ番組で楽しむものであって、日常の暮らしの中で、真剣に考える対象ではないと、考えるようになるのです。

幽霊の話なんかを、真面目にする人は、頭がおかしい変わり者だと、思われてしまうに違いないと、受け止めるからです。

この雰囲気作りに、テレビ局は大いに加担しています。

テレビ局は幽霊を紹介する一方で、幽霊を否定するような見解を中心に、番組を作ります。

その結果、テレビを見ている人は、何だ、結局、幽霊なんていないんじゃないかと、思うようになるのです。

幽霊は私たちの死後について、考える機会とヒントを、与えてくれています。

それなのに、幽霊を真面目に考えようとしないのは、いずれは必ず訪れる死について、目をつぶってしまうのと同じです。

そして、いざ死を迎える時になると、自分はどうなってしまうのかと、恐怖と不安に襲われるのです。

 ※enriquelopezgarreさんによるPixabayからの画像です。

私たちが本当は、どのような存在であるのかを、幽霊は教えてくれています。

また、世界が本当はどうなっているのかを、幽霊は示唆してくれているのです。

心が物質エネルギーではないことを、科学者たちは認めています。

しかし、心が何であるのかを、説明はできません。

物質エネルギーでないのであれば、違う種類のエネルギーの存在を、認めるべきなのです。

そのエネルギーは世界の構築に、大いに関わっているでしょう。

それを解明することは、世界を解明することに、つながるはずです。

生きている人間と比べると、偏りがあるようには思えますが、幽霊にも幽霊なりの意識があるでしょう。

それは恐らく人間の心と、同じ種類のエネルギーだと思います。

心の正体を解き明かすためにも、幽霊の研究は必要です。

死んだ人全てが、幽霊になるわけではありません。

幽霊の多くは、無念の死を迎えているように思えます。

そのために未練や恨み、怒りや悲しみなどの感情を、持ち合わせている事が多いのでしょう。

 ※1239652さんによるPixabayからの画像です。

幽霊の話2

今からお話するのは、私自身の話です。

私はこれを、幽霊と言っていいのかどうか、わかりません。

確かに見たのですが、いわゆる幽霊とは、ちょっと感じが違うのです。

やはり仕事で、ホテルに泊まっていた時のことです。

 ※よろづやさんによる写真ACからの画像です。

夜中にふと目が覚め、私は暗い部屋の中で、目を開けました。

室内は暗かったので、ほとんど何も見えません。

でも部屋の暗さよりも、もっと黒々とした影が、私のすぐ目の前にあったのです。
正確に言えば、真正面よりも少し左側です。

それは枕元の壁から、足の方に向かって、ぬっと伸びた長細い影でした。

でも、足の方まで伸びているのではなく、先端は私の喉の辺りにありました。

こんな所に、こんな物があったかなと考えながら、私はそれを、何だろうと思って、じっと見ていました。

すると、暗闇に目が慣れて来たのか、その黒い影の姿が見えて来ました。

それが何なのかがわかった時、私はぎょっとしました。

それは何と、女性の足だったのです。

女性の左の素足が一本だけ、壁からぬっと突き出るように、伸びているのです。

別に動くわけでもないし、他に何かの気配がしたり、声が聞こえるわけでもありません。

ただ、足がそこに生えているだけでした。

 ※自由工房さんによる写真ACからの画像です。

私は驚きはしましたが、何故か怖いとは思いませんでした。

体が金縛りになった感じもありません。

私はその足をつかんで、足の裏をコチョコチョと、くすぐってみたい衝動に駆られました。

もし、これが幽霊だとしたら、足をくすぐれば、やはりくすぐったがるのだろうか。
でも、足しかないから、笑い声や悲鳴は聞こえないだろうな。

そんな事を考えて、私は手を伸ばそうと思いました。

でも、触ってひやっと冷たかったら、気持ちが悪いなと思うと、手が出なくなりました。

それに触る事で、何か悪い事になっても困るなと、ちょっと腰が引けた気持ちにもなりました。

それでも、一方では触ってみたいという思いが、私を急かします。

幽霊に触れる機会なんて、滅多にあるものではありません。

どうしようと迷っているうちに、その足はふっとかき消すように、消えてしましました。

しまったと思いましたが、後の祭りです。

すぐに壁を調べましたけど、ただの壁です。

それから二度と、その足が現れる事は、ありませんでした。

その時の残念な気持ちは、未だに残っています。

それでも私は考えました。
あれは何だったのかと。

相手には、私を恐怖に陥れるつもりは、なかったようです。
では、一体何のために、あんなふざけた事をしたのでしょう。

実は、私は学生時代、一人で暮らしていた時にも、不思議な経験をしていました。

布団の上に仰向けで寝ている時に、金縛りにあったのです。

意識ははっきりしているのですが、体がピクリとも動きません。

その私の背中を、たくさんの手が、撫でて回るのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

背中は敷き布団の上にあり、布団の下は畳です。
人の手が入るわけがありません。

私の背中を、誰かが触るなんて、有り得ないのです。

しかし、確かにいくつもの手が、私の背中を触っているのです。

まるで目が見えない人が、手で物の形を、確かめるような感じです。

この手の主たちが、実在しているならば、彼らは畳の下から、私の背中を触れているわけです。

そんな事ができるのは、人間であるわけがありません。

うわっと思いましたが、体は動きませんし、手は私の背中をまさぐるだけで、襲いかかる様子はありません。

ですから、気味は悪いものの、怖いという感じはありませんでした。

そのうち、撫でている手が、少しずつ位置が変わって、背中から脇腹の方へずれて行きました。

私はやばいと思いました。

何故なら、私は大層なくすぐったがりでして、脇腹に触られると思っただけで、体をよじってしまうのです。

私は思わず、お願いだからそこには触らないでと、考えてしまいました。

すると、その考えが相手に、伝わってしまったのでしょうか。

手たちは一斉に、私の脇腹を探るようにして、移動し始めました。

すっと移動するのではありません。

行くぞ行くぞという感じで、近づいて行くのです。

私がくすぐったくて、笑い苦しむ様子を、楽しんでいるかのような感じです。

そして、とうとう脇腹に達した手たちは、私の脇腹をくすぐり始めました。

体を動かせない私は、笑いの拷問に、かけられたのと同じです。

よじれない体を硬直させ、止まらない笑いで、息が吸えなくなりました。

笑い死ぬというのは、あんな感じなのでしょう。

苦しくて息が吸いたいのに、笑いが止まらないのです。

あれが続けば、私は本当に、笑い死にをしたに違いありません。

でも、しばらくすると手は消えてしまい、体も動かせるようになりました。

でも、くすぐられた余韻が、ずっと残っていて、私は何度も体を、よじり続けていました。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

この頃、私は他にも不思議な経験をしています。

不思議な話が大好きで、いろんな本も読み、自分でもあれこれと考えました。

しかし、ある時からそういうものへの興味が、次第に薄れて行ったのです。

死んだ後の世界は、自分が死んだらわかる事。

それより、今は生きているのだから、生きる事を懸命になろうと、考えたのです。

それから、生きる事について、いろいろ考えるようになり、奇妙な経験はパッタリと止んでいました。

ところが、ホテルの足の登場です。
久方ぶりの不思議体験です。

私を笑い死にさせようとした手たち同様、恐怖を感じさせない、とてもふざけたシチュエーションです。

きっと足は、私に何かを、伝えようとしたのでしょう。

物質世界だけが全てではないし、死んで全てが、終わるわけではない。

そんな事は、わかっています。

それでは、足は私に、何を伝えようとしたのでしょう。

それは私に再び、物質世界とは別の世界の事を、考えるようにと言う、メッセージだったのではないかと、私は考えています。

生きるという事は理解できただろうから、今度は改めて別の世界の事を考えよ、ということなのでしょう。

それはつまり、この世、あの世と分けて考えるのではなく、全体としての世界を、考えなさいという事なのです。

それから私は再び、異世界や異次元について調べたり、自分で考えたりという事を始めました。

そして、現在の考えに至りました。

宇宙とは、生命そのものであり、私たちはその一部なのだと。

 ※beate bachmannさんによるPixabayからの画像です。

そうそう、もう一つだけ、自分の経験をお話しておきます。

自宅の寝室で、寝ていた時の事です。

隣には、私の家内が寝ていました。

夜中に目が覚めた私は、金縛りにあって、誰かに後ろから、強く抱きつかれました。

その抱きつく力は凄まじく、プロレスラーに締めつけられているような感じでした。

息ができなくて、死にそうになりながら、私は胸の近くにあった手を、必死に動かそうとしました。

後ろから私に抱きついている手を、振り解こうと思ったのです。

その手は、私の胸をしっかりと抱えていました。

わずかずつですが、私の手が動きました。

初めは指先だけ。
それから手全体が、ほんとに少しずつ動きました。

そうしていると、手がもう少し動くようになったので、私は胸の前にある、相手の手をつかみました。

すると驚いたことに、私がつかんだその手は、小さな子供の手だったのです。

 ※Holger LangmaierさんによるPixabayからの画像です。

どこの子供か知りません。

でも私は、この子が愛情が欲しくて、構ってもらいたいのだと思いました。

それで、つかんだその手をぐいっと引っ張り、後ろにいる相手を、自分の前の方へ引き寄せました。

顔も何もわかりません。

私はその子供をぎゅっと抱き締めると、構って欲しいのなら、いくらでも構ってあげようと、心の中で相手に伝えました。

こうして抱いて欲しいのなら、さっきのように無茶苦茶はしないで、抱いて欲しいとちゃんと伝えなさいとも、言いました。

捕まえた子供らしき相手は、もがくこともせず、いなくなりました。

それでも、私はいなくなった子供を、そのまま抱き続けました。

それから、そんな事は起こっていません。

いかがでしたか。

そんなの、ただの気のせいだと言われれば、そうかも知れません。
私は反論はしません。

それでも、私にとっては、ここでお話したことは、全て本当の事なのです。

幽霊の話

今日からお盆です。

お盆と言えば、亡くなった人たちをしのぶ期間です。

私たちのご先祖さまたちは、普段はあの世に暮らしていて、この期間だけこの世に戻って来ると言われています。

 ※sakura3939さんによる写真ACからの画像です。

一方で、幽霊という存在がいます。

こちらも亡くなった人のはずなのですが、あの世へは行かずに、この世に留まっていると考えられています。

今日はこの幽霊の話をしましょう。

あなたは幽霊、あるいは幽霊らしきものを、見たことはありますか。

普段はあまり、そんな話を耳にする事はありません。

でも聞いてみると、幽霊を見たという人が、案外身近にいるものなのです。

私の家内も、若い頃に幽霊を見ています。

家内は昔、病院で働いていたことがありました。
まだ、私と結婚する前の話です

その頃は、一部屋を同僚と二人で使う、生活だったそうです。

今で言うところの、シェアルームですね。

その同僚と二人で寝ていた、ある夜のこと。

家内は、ふと目が覚めたのです。

目は覚めたものの、体は金縛りにあって動けません。

その時、自分の枕元に、誰かが座っていたそうです。

その誰かは、寝ている家内の顔をのぞきこむように、上からぬっと顔を近づけて来ました。

 ※Khusen RustamovさんによるPixabayからの画像 です。

それは白い服を着た、髪の長い女の人で、家内が見たことがない人でした。

体が動かないので、家内は横目で、隣に寝ている同僚を見たそうですが、彼女は何も気がつかないまま、眠っていたそうです。

家内の顔をのぞきこんだ女性は、家内にこう話しかけて来たと言います。

「どうして、あなたはここにいるの?」

そう聞かれて、家内は混乱の中、その問いの答を、考えようとしました。
でも、すぐに答が思い浮かびません。

どうしてだろうと、考えているうちに、その女性は姿を消し、家内は体を動かせるようになったそうです。

その女性が現れたのは、その時一回きりだったようです。

その女性と関係があるかどうかは、わかりませんが、家内と同僚が使っていた部屋は、昔の結核病棟の部屋だったそうです。


家内は私と一緒になった後も、幽霊と思えるようなものを、目にしています。

夜、小学校の体育館を使わせてもらい、知り合いとソフトバレーボールを、やっていた時のことです。

夏の暑い時で、体育館の横にある扉や窓は、全部開けてありました。

その開いた扉の下の端から、おじいさんの顔が、みんなの様子を眺めていたと言うのです。

見た時には、誰かの家族かと、家内は思ったそうです。

でも、よく考えてみれば、いつもはそんな人は来ないし、扉の下の端に、顔があるのも不自然です。

座っていたとしても、顔の位置は、もっと上にあるはずです。

顔があった位置を考えると、そのおじいさんは外で、腹ばいになっていた事になります。

おかしいなと思って、もう一度扉に目をやった時には、そのおじいさんの顔は消えていたそうです。


次は私の息子の話です。

私の息子が学生の頃、友人たちと自殺の名所と言われる橋へ、肝試しで訪れたそうです。

息子と一人の友人は、橋の手前にいたそうですが、もう一人の友人が、橋の中ほどまで行ったらしいのです。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

橋の中ほどまで行った友人は、息子たちの方を振り返って、何もないと伝えて来たそうです。

でも、その友人の向こうから、黒い人影が、ゆらゆらと近づいて来たのです。

息子と、手前にいた友人の二人には、その黒い影が見えていました。

でも、橋の中ほどにいる友人には、それがわからなかったそうです。

息子たちは大声で、早くこっちへ、逃げて来るようにと言いました。
しかし、なかなかそれが、相手には伝わりません。

その間にも、黒い影は次第に、その友人に近づいて来ます。

結局、息子たちの言葉に従って、橋の中ほどにいた友人は、こちらへ移動して、事なきを得たそうです。


今度は、私の仕事関係の人の話です。

以前に名古屋へ、仕事で出張した時、私が宿泊するホテルを、出張先に頼んで予約をしておいてもらいました。

そのホテルは、何と温泉つきのホテルでした。

初めの日は移動だけだったので、私はホテルへ直行し、自分の部屋でくつろいでいました。

する事がないので、持って行った本を、ベッドに寝転びながら読んだのですが、これが怖い話の本だったのです。

初めから読むのではなく、私は適当に開いたページを、読むことにしました。

それで開いたページに書かれていたのが、名古屋の話だったのです。

ああ、この名古屋じゃないか、奇遇だなと、私は思いました。

それで話を読み進めると、その話を伝えているのが、かつてホテルで働いていた人ということでした。

そのホテルの名前は、伏せられていました。

でも、、市内で温泉のある、某ホテルとあるではないですか。

そのホテルに幽霊が出る、という話なのです。

街中で温泉つきのホテルなんて、ざらにはありません。

もしかして、このホテルだろうかと思いましたが、私の部屋では何事も起こらず、無事に過ごすことができました。

翌日、仕事先へ行って、そこの課長さんに、その話をしてみました。

課長さんは、恐らくそのホテルは、私が泊まったホテルでしょうと言いました。

その話をきっかけに、幽霊というのではないのですがと前置きをしてから、課長さんが自分の不思議な体験を、話してくれました。

その課長さんの家が、二階建ての家だったのか、マンションだったのかは、忘れてしまいました。

とにかく課長さんの寝室というのは、高い所にある和室だったのです。

その部屋で寝ていると、閉まっているはずの部屋の入り口から、いろんな人がぞろぞろ入って来るんですよと、課長さんは言うのです。

それで、寝ている自分の周りを、ぐるぐる歩き回るのだそうです。

そして、しばらくすると、今度は閉まっているはずの窓から、出て行くという話でした。

 ※ami さんによるイラストACからの画像です。

課長さん、それは幽霊でしょう、と私が言うと、課長さんは嬉しそうに、やっぱりそうでしたかと仰いました。

こんな話を誰にも聞いてもらえず、やっと私に聞いてもらえたと、課長さんは喜んでいました。

その翌日にも、そこへ行くと、よほど嬉しかったのでしょう。

あれはやっぱり幽霊だったのですねと、課長さんの方から、もう一度話かけて来られました。

本当は怖いはずの話なのに、嬉しそうにしている課長さんを見ると、自分が役に立てたような気がして、私もちょっぴり嬉しくなりました。

確かに、幽霊を見たなんて話をしても、信じてもらえなかったり、馬鹿にされたりすることが多いと思います。

それで誰にも話ができずに、悩んでいる方が、あなたのそばにも、いるかも知れませんよ。

興味がある方は、一度確かめてみたら、いかがでしょうか。

怪談話に思うこと

夏と言えば、昔は怪談というのが、お決まりでした。

夏休みには、よくお昼のテレビ番組で、「あなたの知らない世界」というのを、見ていました。

映画番組でも、四谷怪談や牡丹灯籠、番町皿屋敷に化け猫などは、毎年必ず放送されました。

こちらは夏に限りませんが、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」や、楳図かずおの「赤ん坊少女」「黒いねこ面」などの漫画も、よく本屋さんで立ち読みしたものです。

こんな話をしても、若い人にはわからないかも知れませんね。

水木しげるは、妖怪漫画で有名な漫画家です。
そして楳図かずおは、人間の狂気や怨念を描く、恐怖漫画の漫画家です。

これらの怖い漫画を読んでいると、非日常の世界へ引き込まれてしまいます。

その怖さは、漫画を読んでいない時でも、心のどこかに残っていました。

でも、本当に怖いと思わされたのは、小泉八雲の怪談話でした。

私の父は五人兄弟の長男で、私が子供の頃には、父の末の弟になる叔父さんが、時々遊びに来ていました。

叔父さんは子供の私や兄弟に、小泉八雲の怪談・奇談という本を、よく読み聞かせてくれました。

とても読むのが上手な叔父さんで、私たち兄弟は、怖がりながら話を聞いていました。

中でも私のお気に入りは、「耳なし芳一のはなし」「むじな」「鳥取の蒲団のはなし」「死骸に乗る者」「破約」「幽霊滝の伝説」です。


「耳なし芳一のはなし」は、みなさんご存知、盲目の琵琶法師の話です。

平家の亡霊の前で、芳一が琵琶をかき鳴らして、平家物語を語ります。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

芳一が危険な状態にあると知った、お寺の和尚は、芳一の姿が亡霊から見えなくなるよう、芳一の全身に、お経を書きました。

しかし和尚は、両方の耳にだけ、お経を書き忘れてしまったのです。

芳一を訪ねて来た亡霊は、宙に二つの耳だけが、浮かんでいるのを見つけます。

芳一を連れて行けない亡霊は、代わりにその二つの耳を、もぎ取って去って行くのです。

私はこの話を聞くたびに、和尚をなじったものです。

そもそも芳一が危険な状態の時に、芳一を残して出かけるのかと、憤りました。

和尚は両耳をもがれて、血だらけになった芳一を見て、大いに悔やむのですが、奪われた耳は戻りません。

お経を書き忘れた事よりも、芳一より仕事を重視した、和尚の姿勢に問題がありました。

どんなに謝っても、取り返しがつかなくなる事があるのだと、私はこの話で学びました。


「むじな」は題名だけでは、聞いたことがないと言う人が、いるかも知れませんね。

でも、のっぺらぼうの話と言えば、ああ、あの話かと思い出されるでしょう。

そもそも、むじなが何なのかを、当時の私は、よくわかっていませんでした。

キツネやタヌキのように、人を化かす動物なのだろうとは思いました。

でも、実在する生き物なのかは、知りませんでした。

調べて見ると、むじなとは、アナグマのことのようです。

アナグマが人を化かすとは、聞いたことがありません。

 ※itkremさんによる写真ACからの画像です。

でも、むじなという呼び方になると、化かすようです。

そのむじなが、東京の赤坂通りの坂に現れて、そこを通る人を化かすという話です。

坂の途中で、しゃがんで泣いている、若い娘がいました。

その娘を認めた人が声をかけると、娘は立ち上がって、片手でつるりと、自分の顔を撫でました。

その顔は、目も鼻も口もない、のっぺらぼうでした。

驚いたその人は、慌てて坂を逃げ上り、そこにいた蕎麦屋に、今の話をしようとします。

すると、その蕎麦屋が自分の顔を、つるりと手で撫でました。

蕎麦屋の顔は、のっぺらぼうになりました。

とても単純でわかりやすく、それでいて怖い話です。

今でこそ、のっぺらぼうと言うと、どこかユーモラスな感じがします。

でも、当時の人にとっては、こんなに恐ろしいものはなかったでしょう。

むじなではありませんが、母方の祖父がタヌキに化かされて、同じ山道をぐるぐる回り続けたという話を、聞いたことがあります。

祖父が困っていると、山犬が現れて、その山犬が祖父を先導する形で、家まで戻してくれたそうです。

どこまで本当の話なのかは、わかりません。

でも、むじなの話も、祖父の話も、自分が知らない間に、異世界に引き込まれることがあるのだと、思わされる話でした。

 ※かえるWORKSさんによるイラストACからの画像です。

「鳥取の蒲団のはなし」は悲しいお話です。

鳥取で新しく開いた宿屋が、初めての旅人を迎えた時のこと。

旅人が寝るのに使った蒲団が、一晩中、「あにさん寒かろう?」「おまえ寒かろう?」と喋り続けたと言います。

その話を聞いた宿屋の主人は、蒲団を買った店へ行き、その蒲団の出所を確かめました。

そうして何軒もの店を渡り歩いた後、蒲団は町外れの小さな家の、家主が売りに出したものだとわかりました。

かつてその家には、両親と幼い兄弟二人の、貧しい家族が住んでいました。

しかし、両親は次々に亡くなり、残された兄弟は、鬼のような家主に、家を追い出されたのでした。

食べる物もなく、着る物もない幼い兄弟は、極寒の中、二人で蒲団にくるまり、「あにさん寒かろう?」「おまえ寒かろう?」と互いを思いやっていました。

しかし恐ろしい家主は、兄弟からこの蒲団さえも、奪い取ってしまいます。

それから何日も経った頃、兄弟は雪の中で、冷たくなって見つかりました。

宿屋の主人は、お寺のお坊さまにお願いして、兄弟のために祈ってもらいました。

すると蒲団は、もう物を言わなくなりました。

私はこの話を聞くたびに、この兄弟が可哀想でたまらなくなりました。

また、鬼のような家主が、憎くて仕方ありませんでした。

この話は私の人間形成に、大いに影響を与えたのではないかと思っています。

自分だったら、こんな場面に出会したら、どうしていただろう。
自分がいたら、この兄弟を絶対に助けてあげたのに。

そんな思いが、ずっと私の心に残り続けていました。


「死骸に乗る者」「破約」「幽霊滝の伝説」の三編は、ほんとに怖い話です。

映画や絵本ではありませんから、映像はありません。

しかし、叔父が言葉を発するたびに、私の目にはその光景が浮かぶのでした。

「死骸に乗る者」は、男に騙され、男を恨みながら死んだ女が、死骸になってから、相手の男を殺しに行くという話です。

 ※『瞽女(ごぜ)の幽霊』(3代歌川広重 画)の一部

陰陽師から危険を知らされた男は、陰陽師の言葉に従って、一晩中、女の死骸の髪を両手に巻きつけ、その背にまたがり続けるのです。

相手の男を背負っていることに、死骸は気づかないまま、一晩中、男の行方を探し求めます。

結局、男を見つけられなかった死骸は、元の場所に戻って、ただの死骸に戻ります。

「破約」は、死を迎えた妻に、夫の武士が再婚はしないと、誓うところから始まります。

妻は自分の墓に、小さな鈴を一つ入れるよう願い、息を引き取ります。

しかし、結局夫は妻の死後、妻との約束を破って、新しい妻を迎えます。

その新妻の元へ、夜な夜な鈴の音と共に、死んだ前妻が現われ、新妻に家を出て行くよう迫ります。

家を出て行かず、このことを夫に喋ったならば、八つ裂きにすると言い置いて、前妻は姿を消します。

新妻は里に帰りたいと申し出るも、夫は理由も聞かずに返せません。

そこで新妻は、前妻が現れた話をしました。

夫は新妻が里帰りすることを許さず、前妻から守ると約束をしますが、結局、新妻は前妻の亡霊に、首をもぎ取られてしまいます。

 ※幽霊図(左は河鍋暁斎 画 右は渓斎英泉

「死骸に乗る者」も「破約」も、女性の執念というものを描いていますが、悪いのはどちらも男です。

私は亡霊たちを、恐ろしいと思いながらも、同情する気持ちも持ちました。

そして、自分は決して、こんな男たちのようにはなるまいと、心に誓ったものです。


最後の「幽霊滝の伝説」は、冬の夜、仕事を終えた麻取り女たちが、怪談話に興じているうちに、幽霊滝へ行ってみようかと、誰かが言い出します。

しかし、怖いですから、誰も行こうとはしません。

そんな中、お勝という、名前のとおり勝ち気な女性が、自分が行くと手を挙げました。

幽霊滝まで行って来たら、今日取った麻を、全部自分がもらうと、お勝は言いました。

他の女たちはそれを了承し、滝まで行った証拠に、滝にある小さな賽銭箱を、持って来るようにと、条件を出しました。

寝ている二歳の子供を、背負ったお勝は、幽霊滝へ向かいます。

滝に着いて、賽銭箱に手を伸ばすと、「おい、お勝さん」という声が聞こえました。

お勝はひるまず、賽銭箱を抱えると、一目散に麻取り場へ戻りました。

 ※SadChellさんによる写真ACからの画像です。

みんなはお勝の大胆さを称賛し、麻を全部お勝にあげる、と言いました。

そして、お勝が背負った子供の世話を、しようとした時、子供の着物に血が付いているのに、気がつきました。

着物からは、手と足ばかりが出ていて、子供の頭は、ありませんでした。

「ゲゲゲの鬼太郎」の話には、よく「入らずの山」というものが出て来ます。
決して人が、立ち入ってはならない山という意味です。

この幽霊滝も、この「入らずの山」と同じようなものなのだと、私は思いました。

人が触れてはならないものがあって、それに触れると、恐ろしい目に遭うのです。

この話では、お勝に対して、警告らしき言葉が発せられています。

しかし、お勝はその言葉を無視して、自分が麻を独り占めできることだけ考えて、賽銭箱を盗むのです。

この話は、現在のいろんな場面に、当てはまるのではないかと、大人になってから思うようになりました。

右を向いても左を向いても、権力や金や名誉欲しさの、業突く張りばかりです。

自分の利益や保身のために、平気で他人の権利を侵害したり、自然環境を破壊したりします。

あとで処理する能力もないくせに、原子力を推進しようとするのも、同じことでしょう。

そう考えると、「幽霊滝の伝説」は、かなり奥の深い話なのですね。

怪談話は、怖いばかりではありません。

読み方によって、多くの教訓を読み取ることができるのです。


もう一つだけ紹介したい話がありました。
それは「はかりごと」です。

この話では、打ち首になる罪人が、打ち首を命じた殿さまを、呪ってみせると誓います。

首切り役人は、呪うと言うのならば、その証拠を見せろと、罪人に言います。

そして、首を切られた後、生首のまま目の前にある石に、かじりついて見せよと命じました。

いきり立った罪人は、絶対に石にかじりついてみせると宣言し、その言葉を呟きながら、首を切り落とされます。

果たして、転がり落ちた首は、罪人の言葉どおりに、石にかじりつきました。

首はしばらく必死にかじりついた後、力尽きました。

それを見て、恐れおののく人々に、首切り役人は涼しい顔で言います。

断末魔の最後の一念が、恐ろしいのは事実であり、その一念を復讐に向けられては、危ないところだった。

しかし、男は石にかじりつくことに、その一念を当てたため、復讐のことは頭になく、何も心配はいらない。

そして、その言葉どおり、男が祟ることはありませんでした。

この話も、とても興味深いものです。

死に際の一念の、重要性というものを、昔の人は、よくわかっていたのでしょう。

安らかな死を迎えることが、どれだけ大切なのかが、この話を読めば理解できます。

この世への未練もなく、満ち足りた心で死を迎えた者は、満ち足りた世界へ、向かうことになるのでしょう。

一方、恨みや妬み、未練などを抱いたまま死ぬと、その一念に引っ張られ、幽霊となってこの世を漂うことに、なるのかも知れません。

どんなに人から羨まれるような、人生を送っていたとしても、心が汚れたまま死を迎えたら、その心に応じた結果が、待ち受けているとも言えます。

逆に、どんなにつらく困難な、人生を送ったとしても、最期によかったと思えるのであれば、その人は報われるに違いありません。

この「はかりごと」も、まことに奥が深い話です。

いや、怪談というものが、奥が深いものなのでしょうね。