お互いの思いやり

 ※くりまんさんによるイラストACからの画像です。

思いやりのある人と出会うと、心が和みますよね。

また、誰かを思いやる時、とても優しい気持ちになっています。

優しい気持ちの自分って、すごくいいと思いませんか。

このように、誰かから親切にされた時、された方だけでなく、した方も気持ちがいいのです。

ところが、誰かを思いやったつもりが、予想外の嫌な態度を見せられることがあります。

そんな時には、とても悲しい気持ちになり、もう二度と誰かに親切なんか、するものかと思うかもしれません。

あるいは逆に、気持ちが尖っている時には、普段ならばどうでもいいような、ちょっとしたことでも、気に障ることがあります。

相手が親切な気持ちでしてくれたことでも、余計なお世話だと受け止めてしまいます。

どちらも誰にでも起こり得ることですが、いずれも残念なことですよね。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、混んでるバスや電車で、座っていた若い人が、途中から乗車して来た、年配の人に席を譲ろうとすることがあります。

普段から、ゆずり慣れている人はともかく、そうでない人が、知らない人に声をかけて、席を譲るというのは、相当勇気のいることです。

それを、迷いに迷った挙げ句、譲ってあげようと立ち上がったのに、他の乗客たちの見ている前で、年寄り扱いするなと怒られたら、どんな気持ちになるでしょうか。

恐らく、その人はお年寄りを見ても、再び席を譲ろうとはしないでしょう。

あるいは、怒られなかったにしても、結構です、大丈夫です、と断られても、大恥をかいたような気になるものです。

こんな場合には、自分はまだ年寄りではないと思ったとしても、にっこり笑って、ありがとうとお礼を述べ、座らせてもらった方がいいと思います。

できれば、一言二言、席を譲ってくれた人と、ちょっとした会話でもできれば、最高です。

もし、座れない事情があるのなら、相手の気持ちへの感謝を示してから、そのことを説明し、やはり一言二言、会話をかわすというのが、いいでしょう。

そういうのが、お互いを思いやるということなのです。

悪気はなかったにしても、誰かの好意に対して、嫌な態度を見せてしまったならば、次からはそうならないよう、気をつけましょう。

 ※ウラテツさんによるイラストACからの画像です。

お店などで、自分は客だということで、傲慢な態度を見せる人がいます。

一方で、せっかく来てくれたお客に、無愛想で不親切な応対をする店もあります。

こういう場面にでくわすと、とても残念ですし、悲しい気持ちになります。

みんな人間に生まれて来たのに、人間としての喜びを、自ら放棄しているようなものです。

お互いを思いやり、感謝し合う世の中であれば、世の中を騒がすような事件などが、ニュースで伝えられることはなくなるでしょう。

こういう世の中にするためには、子供の頃からの教育が大切です。

無理やり知識を詰め込む教育ではなく、人間としての基盤を築くような教育こそが、必要なのだと思います。

また、その教育は学校任せにするのではなく、家庭や地域でも、しっかりと子供に教えないといけません。

いずれは社会の中心を担う子供たちが、思いやりと感謝の心を、当たり前のこととして抱くことができれば、世の中は間違いなく、いい方向へ変わるでしょう。

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他人の人生

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他人の人生を、背負うことはできません。
もちろん、変えることもできません。

たとえ、それが自分にとって大切な人であっても、自分ではない人の人生を、背負うことはできません。

その人の世話をすることはできます。

その人を支えることはできます。

それでも、それでその人がどのように決断し、どのように行動するのかは、その人の自由です。

その人の人生を歩むのは、その人自身なのです。

こちらから見て、それがどう見えたとしても、それがその人の選んだ結果であれば、どうすることもできません。

怒ったり泣いたり、がっかりしても、どうにもならないことなのです。

できることは、それがその人の選択であるならば、それを受け止めて、認めてあげることでしょう。

否定すれば、その人の存在を否定するのと同じです。

その人が大切であるのならば、自分の感情は脇に置き、その人の選択を受け入れましょう。

 ※雰囲気イケメンさんによる写真ACからの画像です。

選択した結果は、全て本人に戻って来ます。

人はそうすることで学び、成長するものなのです。

たとえ、それが痛みや苦しみにつながるものだとしても、その中に、その人の学びがあるのならば、他人がとやかく言うものではありません。

その人が必要とするものが、その中にあるのであれば、それを引き止めることはできないのです。

私たちにできることは、その人が必ず、そこから何かを学びとり、成長することを信じて、見守るだけです。

また、その人がどんな選択をして、どのような結論に至ったとしても、それに対して、他人は責任を感じる必要はありません。

感じたところで、仕方がありません。

もっとこうすればよかったのではないかとか、ああしてやればどうだっただろう、と考えてしまうかもしれません。

しかし、それを言い出すときりがありません。

それに、相手がこうだと決めてかかっているものは、どうにもしようがないのです。

その時に自分ができることをして、あとは、やはり見守るだけです。

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もう一つ大切なことは、自分自身が自分の人生を歩むのを、忘れないということです。

学びと成長は、自分にも必要なものです。

他人の人生に振り回されて、自身の人生に目を向けることができないのは、苦しい思いをするばかりで、少しもいいことはありません。

ただ、それも一つの学びでありますから、そこから自分の人生の大切さを知る、ということになるのかもしれません。

いずれにしても、それぞれの人生の選択権や決定権、そして責任は、その人自身にあります。

その人の人生は、その人のものなのです。

自分にできること、あるいは自分がするべきこと、それは自分の人生を生きるということです。

孤高の人

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出る杭は打たれると言いますが、それでも伸びる杭もあるのです。

ところが、伸びた杭は周りの杭と比べると、一本だけ高く伸びますので、周りから浮いてしまっているようにも見えます。

これが、いわゆる孤高の人です。

何かに懸命に打ち込む人。
大きな夢を抱いて、その夢に向かって進む人。
未知の世界に果敢に挑戦する人。
常識に囚われず、信念を貫く人。

こういう方たちは、みんな孤高の人です。

 ※ちょこっとさんによる写真ACからの画像です。

周囲にいる普通の人たちには、自分が考えていることや、やろうとしていることを、なかなか理解してもらえません。

場合によって、ただの変わり者とか、頭がおかしい人と、思われかねません。

でも、自分が信じた道を諦めて、他の人たちに合わせて生きると、自分が生きている実感が湧きません。

かと言って、自分が思ったとおりに生きると、孤独感を味わうのです。

進む道に壁があっても、それを乗り越えるための苦労を、誰も分かち合ってくれません。

新しい発見があっても、誰もそれを喜んでくれません。

そんな自分を悲劇の主人公のように、受け止めてしまうと、その人は挫折したり、自らの命を絶ったりするでしょう。

しかし、どんな苦労にもめげずに、己の道を突き進んで行けば、周囲より飛び出た杭は、どんどん高く伸びて行きます。

高くなればなるほど、周囲がよく見通せるようになるのです。

そうすると、すぐ近くには自分と同じような者が、一人もいなくても、離れた所には、自分と似たような高く伸びた杭が、見えて来ます。

 ※クランさんによる写真ACからの画像です。

その状況は、向こうの杭でも同じです。

互いの存在に気がついた杭同士は、自分の仲間がいることを喜び、それを励みにするでしょう。

この場合、必ずしも杭の種類が、同じである必要はありません。

つまり、相手が自分がやっていることと、全然違うことに打ち込んでいても、構わないのです。

周囲の無理解や多くの困難にもめげずに、目指すもののために打ち込む姿が、強い親近感を持たせてくれるのです。

やっていることが違っても、そういう人は仲間だと思うでしょう。

孤高とは、初めは孤独との戦いです。

それでも、自分の道を進み続けると、必ず本当の仲間、信頼できる仲間と、巡り合うことができます。

孤高における孤独とは、人生観や世界観が、周囲の人よりも高い位置から、眺めることなのです。

それは一般の人が登れないような、大きな山に一人で立ち向かい、とても高い所から、下界を見下ろしているようなものです。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

当然、それは孤独です。
しかし、とても高貴で神聖な孤独です。

山頂はまだまだ先にあっても、その山頂を目指して登り続ける、他の仲間たちの姿が見えると、力が湧いて来るでしょう。

孤高とは、そういうものなのです。

人と違う何かを、追い求めている人は、それなりの苦労をされると思います。

大変な孤独を味わうかもしれません。

それでも、その孤独は勲章です。

他の人が知らない世界へと、突き進んでいる証です。

その孤独を胸に飾って、さらに上を目指して下さい。

必ずや、仲間たちと巡り会い、喜びを感じる日が訪れますから。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

ハイブリッド その3

ハイブリッドが新しい存在であるのなら、それは人類の進化と関係していると、言えるかもしれません。

それは新しい特徴を持つ人間の、登場を意味するだけではありません。

ハイブリッドの人たちを通じて、全ての人が互いを認め合い、心を一つにできれば、精神をも含めた、人類の大進化となり得るでしょう。

それは恐らく、個の意識を保ちながら、同時に全体の意識も併せ持つような、そんな存在になるのだと思います。

互いの違いで、争うことはありません。

多様性はハーモニーとして、受け止められるでしょう。

誰か一人が取り残されて、悲しむことはなくなります。

誰かの喜びは、全体の喜びになるのです。

人類が大進化すれば、そんな社会が訪れるのだと思います。

 ※🎄Merry Christmas 🎄さんによるPixabayからの画像です。

ところで、類人猿から人類への進化には、異星人が関わっているという話があります。

異星人が類人猿の遺伝子操作を行い、自らの遺伝子を混ぜることで、人類が創られたというのです。

そうであるならば、元々人類は地球の類人猿と、異星人との間に生まれた、ハイブリッドの存在と言えるでしょう。

また、そうやって誕生した人類と、異星人が直接性交渉を行えば、新たなハイブリッドが生まれるのです。

 ※Margit WallnerさんによるPixabayからの画像です。

神話を読むと、神さまが人間の女性を孕ませるような話が、ありますよね。

あれは単なる作り話ではなく、異星人が人間の女性との間に、ハイブリッドの子供をもうけていたところを、表したものかもしれません。

そうだとすれば、これまでにも異星人との間に生まれた、数多くのハイブリッドが存在していた可能性もあるでしょう。

異星人が人間の姿を装っていたならば、生まれて来た子供は、自分がハイブリッドだとは、知る由もありません。

きっと、自分はみんなと同じ、普通の人間だと思っていることでしょう。

しかし、何となく他の子供たちとは、興味の対象や、物事の考え方が違っていると、感じているかも知れません。

 ※Grae DickasonさんによるPixabayからの画像です。

場合によれば、強い疎外感を感じて、孤立してしまうこともあるでしょう。

でも、世の中を変革へ導いて行くのは、このような人たちなのかもしれません。

実際のところはわかりませんが、異星人との間に生まれた、ハイブリッドが存在していることは、十分可能性のあることだと思います。

また、地球に数多く存在している、人種や民族の違いを乗り越えて、人類が一つになることができれば、目の前に異星人が現れたとしても、さほどショックを受けないかもしれません。

自分たちとは違う姿をしている異星人を見ると、それだけで怪物だと判断し、パニックに陥る人もいるでしょう。

人類に対して、友好的な気持ちを持っている異星人でも、面と向かって、そのような態度を見せられたら、とても悲しくなるに違いありません。

時たま UFO が目撃されることはあっても、異星人が堂々と姿を見せないのは、そういう事情があるからでしょう。

現在、地球上に存在しているハイブリッドの人たちは、自分たちでは意図していなくても、人類を大進化へと導き、異星人との交流を実現させてくれる鍵なのだと思います。

 ※いちようさんによるイラストACからの画像です。

ハイブリッド その2

国籍や民族というものを考える時、そこには血の濃さというイメージが、つきまといます。

家族かどうかというのも、基本的には血がつながっているかどうかが、重視されます。

しかし、子供が受け継ぐ親の遺伝子は、父親と母親の半分ずつです。

孫になると、そのさらに半分ですから、四分の一になります。

ひ孫になると、さらにその半分で、八分の一です。

こうして代を重ねるごとに、血の濃さは半減して行きますので、百年も二百年も昔の祖先の血は、とても薄まっているのです。

でも、この場合の祖先というのは、通常は父方の祖先です。

母方も含めて考えると、私たちの持つ遺伝子は、数多くの祖先から受け継がれたものが、入り交じっているという事が、わかるでしょう。

私たちは全員が、実に多様な遺伝子を持っており、血の濃さという発想は、全く無意味なのです。

 ※Elias Sch.さんによるPixabayからの画像です。

ハイブリッドの人が、多く存在するかどうかは、国や地域によって異なります。

多く存在する所は、文化的に開放的で、少ない所は閉鎖的だと、見ることができます。

小さな地域では、単に交通手段が少ないとか、外の者に関心を持たれていないなどの、事情があるでしょう。

しかし、行き来もしやすいし、たくさんの人から人気がある所なのに、ハイブリッドの人が少ないのであれば、よそ者を受け入れない、土地柄なのかもしれません。

かつて日本は、とても閉鎖的な国でした。

異国の人を見かけると、ガイジンと呼んで、特別視をしていました。

でも、最近は異国の人を見かけても、全然珍しさがなく、じろじろ見る人もいなくなったと思います。

テレビの番組を見ていても、ニュース番組からバラエティ番組まで、至る所にハイブリッドの人たちが、映っています。

また、自分の近所に、何人もハイブリッドの人たちがいる、という状況ではありませんが、いずれそうなる日が、やって来るものと思われます。

そうなると、肌の色や見かけだけで、日本人かどうかを決めるようなことは、なくなるでしょう。

外から来た人間か、日本で暮らしている者なのか、見ただけでは区別ができなくなりますし、いちいち国籍を尋ねるような、野暮で面倒臭いことも、しなくなると思います。

重視されるのは、その人と仲間意識を共有できるかどうかの、一点だけでしょう。

 ※OpenClipart-VectorsさんによるPixabayからの画像です。

仲間と言っても、とても近い仲間もあれば、ゆるい関係の仲間もあります。

それでも、みんな自分の仲間だと、感じられるようになるのです。

そういうことが、どこの国でも当たり前になって来ると、国境を決める意味が、なくなります。

何故なら、どこの国も同じような状況になるからです。

各地域の文化は尊重されながら、全体は一つという感覚を、みんなが持つようになり、誰もが自分の所属を聞かれた時に、自分は地球人だと答えるでしょう。

これは実に素晴らしいことです。

そして、ハイブリッドの人たちは、そんな世界を引き寄せるための、先駆けとなってくれているのです。

 ※🎄Merry Christmas 🎄さんによるPixabayからの画像です。

ハイブリッド その1

 ※Andre McenroeさんによるPixabayからの画像です。

女子テニスの全豪オープンで、大坂なおみ選手が2度目のベスト4進出を果たしました。

日本人選手としてプレイしてくれているので、彼女の活躍ぶりに、多くの日本人が感激していることと思います。

しかし、当の本人が自分のことを、どれだけ日本人だと意識しているのかは、わかりません。

恐らく、日本人が期待しているほどには、自分を日本人だとは考えていないような気がします。

そもそも国籍なんて、国境と同じで、人間が勝手に作ったものです。

どこで誰の子供として生まれるのかとは、全く関係のないことなのです。

それなのに、生まれてしまえば、どこの国の人間だとか、どこの民族だとか、自分の知らない所で分類がなされてしまいます。

先祖代々、ずっと同じ土地で生まれ育つ者ばかりだと、わかりやすいのでしょう。

でも、他の地域の者と結婚したり、それまでとは全然違う場所で暮らしたりすると、生まれた子供は自分がどこの人間なのかが、わからなくなってしまいます。

大坂なおみ選手もそうでしょうし、彼女のように両親の国籍が違った人は、みんな似たような苦労をして来たはずです。

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国籍がどこかということだけであれば、単なる事務的な話に過ぎません。

しかし、大抵の場合、子供の時に、お前はどこの人間だというような、いじめに遭っていると聞きます。

その根底には、見慣れないものへの不安や、憧れの裏返しのようなものが、入り交じっているのだと思います。

ほとんどの人が、両親の国籍や民族が違っていたとしたら、このような問題は起こらないはずです。

起こるとすれば、自分は優れた人間だと認められたい、信じたいという、自分に自信のないことによる、意図的な偏見や差別が原因です。

単に見た目が自分とは違うということで、生じる問題とは次元が異なります。

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話を戻しますと、国籍や民族が異なる、両親の元に生まれた人たちは、自分がどこの国の人間なのか、わからなくて当惑すると思います。

でも、逆に考えれば、こういう方たちは、人間社会に蔓延している、分類や仕分けの慣習を、打ち破るための存在だと、見ることができるでしょう。

かつては、こういう方たちの事を、日本では混血だとかハーフなどと、呼んでいました。

しかし、この表現には、珍しさや変わり者、あるいは明らかに自分たちとは異なる、異端児のようなニュアンスが含まれています。

これに対して、ハイブリッドという言葉は、二つのものを掛け合わせて生まれた、新しいものという意味合いで使います。

日本でハイブリッドと言えば、トヨタの自動車が頭に浮かびますが、あの車は状況に応じて、バッテリーとガソリンエンジンを、使い分けることができます。

つまり、二つの能力を活かしているわけですね。

それと同じように、人間も両親から受け継いだ特性を、うまく利用できれば、それまでにない能力を、発揮できる可能性があるのです。

ですから、二つの異なる血を受け継いだ場合、ハイブリッドという表現の方が、相応しいと思います。

上から目線

 ※happyjuneさんによる写真ACからの画像です。

上から目線で何かを言われると、ムッとしますよね。

でも、自分もつい、上から目線で言ってしまうことが、あると思います。

上から目線で言われると、相手の反発を招きます。

その場で反抗される場合もあれば、表面的には従順でも、心の中で反発をされている場合もあります。

素直に、はい、そうですか、となることは、少ないのです。

全くの赤の他人に、何かを伝える場合、普通は上から目線では言いません。

それがお願いであれば、低姿勢になるでしょう。

知人と話す場合も、相手と自分が対等の立場であれば、やはり上から目線では言いません。

親しさから言葉が荒くなったとしても、上から物を言うことはありません。

普通に言わねばならない場面で、上から目線で喋る人は、普段から自分に自信がなく、自分が他人より劣っていると、考えているのでしょう。

あるいは、誰も自分に注意を払ってくれないとか、周囲の人々に無視されていると、感じているのかもしれません。

こういう人は、何かにつけて、上から目線で物を言います。

そうすることで、相手に自分の存在を、認めさせようとしているのです。

これは少し、精神的に病んだ状態だと言えます。

でも普通の人でも、上から目線で言う時は、こういう人たちと、似たような思考が働いていると、言えるでしょう。

ただ、本人には、そのような認識はありません。

何故なら、そういう物言いをする時、その人は相手を指導する立場にあるからです。

別に威張っているわけではなく、相手に教えることを教えているだけで、それが指導する立場の者として、当たり前の姿だと信じているのです。

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たとえば、親、教師、上司、先輩、兄や姉。

こういう立場で物を言わねばならない時、それは大概の場合が指導になりますから、指導する者らしく振る舞うわけです。

でも、上から目線で言われると、反発したくなりますから、せっかくの指導が、指導にならなくなってしまいます。

上から目線で喋る時、本人はあまり意識をしていないかもしれませんが、自分の立場が上であることを、無意識に伝えようとしています。

頼み事にしても、忠告にしても、どうしてそうする必要があるのかを、相手が納得するように説明できるのであれば、まだいいのです。

しかし、説明できなければ、頭ごなしに、俺の言うことが聞けないのか、となってしまいます。

こうなると、自分に自信がないがために、自分より下の立場にいる者を利用して、自分の存在をアピールしているだけ、ということになります。

これでは目的が指導だとは、言えないでしょう。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

親や教師、あるいは上司など、相手を指導しようとして、上から目線で喋ってしまう人は、それが指導者のあるべき姿だと、信じているのだと思います。

恐らく、自分の親や先生や上司の姿が、そのように目に映ったのでしょう。

上から目線で言われた時には、自分自身も反発心を抱いたはずです。

それでも、指導されたら黙って言うことを聞くものだと、信じ込まされ、自分も同じことを繰り返すのです。

周囲を見渡せば、親や教師や上司であっても、フレンドリーな人がいるのが、わかるでしょう。

職場の上司や先輩にしても、威張っている人もいれば、親身になってくれる人もいるはずです。

最初に自分が目にした、モデルどおりにする必要はありません。

こっちの方がいいなと思えば、そちらのモデルを真似ればいいのです。

上から目線で物を言う時、それは相手を抑え込もうとする、意識が働いています。

こうしなくては、いけない。
こうでなければ、ならない。

それは相手から自由を奪い、苦しめることになりますが、同時に、自分自身をも束縛することになるのです。

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指導する立場で考えると、下の者には、いろいろ言いたくなるものです。

でも誰もが、失敗や痛い思いを経験して、成長していくのですから、そのチャンスを認めてやらねばなりません。

絶対にしてはいけないことだけ、しっかり伝えたら、あとは好きなようにさせるのが、いいでしょう。

痛い目に遭って初めて、言われていたことを理解することは、少なくないと思います。

相手を自由にしてやると、いろいろ言う必要がなくなった自分自身も、自由で楽になったことが、実感できるでしょう。

誰かに、上から目線で物を言いたくなった時、それは自分が何かの考えに、縛られているという証です。

つまり、そういう時には、自分を縛っている、何らかの考え方や価値観を、あぶり出すチャンスです。

そんな不要な考え方や、価値観を見つけ出し、それを手放すことができたなら、生まれ変わったような、新鮮な気分になれると思います。

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言葉の撤回

「~という言葉は、撤回させていただきます」

こんな言い回しは、よく耳にしますね。

でも、日常生活で聞くことは、まずありません。

こんな言い方をするのは、政治関係の人たちだけです。

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こういう言い方が、日本で始まったのか、外国から持ち込まれたのかは、よくわかりません。

いずれにしても、一度口から放たれた言葉を、撤回することは無理でしょう。

撤回というのは、取り下げるという意味です。

たとえば、指示や命令を取り止めるという場合は、先ほどの指示は撤回する、などと言えるでしょう。

しかし、普通の会話の中で、一度口に出した言葉を、撤回するということはできません。

日常会話では撤回という言葉は、少し固い表現になりますが、あえて使うとすれば、言い換えさせて下さい、という意味になると思います。

たとえば、誰かのことをべた褒めしていたのに、その当人がとんでもない事を、しでかした時などに、さっきの言葉は撤回すると言って、その人の事を悪く言うというような場合です。

つまり、指示や命令でない時に、撤回という言葉を使うならば、別の表現をしないといけないのです。

そうでなければ、撤回したことになりません。

主義や主張を撤回する、ということはあるでしょう。

でも、これも日常会話での表現というより、議論の場でのことです。

そして、その意味はと言うと、相手との妥協を図ったり、相手を理解した結果、自分の考え方を、より良いものに改める、ということです。

そうでなければ、撤回することになりません。

ところが、日本の政治家を見ていると、自分の発言が問題視された時、撤回しますとさえ言えば、何もなかったことにしてもらえると、誤解をしているようです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

また、与党の政治家が問題発言をした時に、野党の政治家が意気込んで、今の言葉を撤回しろと、騒ぎます。

これも馬鹿な話で、撤回しますとさえ言えば、勘弁してやろうという姿勢です。

だから相手は、撤回しますと言えば大丈夫なのだと、日常的に自分の言葉に、責任を持たなくなるのです。

誰かを傷つけるような発言をした時に、その言葉を撤回しますと言って、問題が解決するのでしょうか。

たとえば、学校の先生が一人の児童に対して、とても偏見に満ちた言葉を投げかけて、その子供が学校へ行けなくなったとしましょう。

それで親が怒り、新聞沙汰にもなった時に、その先生が自分の発言は撤回しますと言って、それで済むのでしょうか。

済むわけありませんよね。

私の言葉で子供を傷つけてしまったことを、心よりお詫びします、などと言われたところで、やはり解決になりません。

口先で何を言われようと、どうにもならないのです。

 ※c*****************pさんによる写真ACからの画像です。

本気で解決しようと思うのであれば、実際に自分の考えを改め、傷ついた子供の気持ちを、理解しようという姿勢を、行動で示さなくてはなりません。

それも一時的なものであれば、許して欲しいがための、パフォーマンスと言われます。

本当にその気があるのならば、改めた姿勢は、死ぬまで変わらないでしょう。

ただ、そこまでしても、傷ついた子供の心が、癒やされるという保証はありません。

それでも本当に反省しているのであれば、改めた姿勢を貫き通すでしょう。

今のは、子供に対して悪意のある先生を、例にした話ですが、日常会話の中で、さり気なく出た言葉で、誰かが傷つくことはあると思います。

その時に、相手が過敏なのであって、自分は間違っていない、と思いがちになるかもしれませんが、それでも相手への配慮が足らなかったことは、素直に認めるべきでしょう。

騒がれて仕方がなくなり、言葉を撤回するなどと、かっこをつけた言い方をすれば、火に油を注ぐようなものです。

それは考えを改めるということではなく、その言葉で騒ぐというのなら、面倒臭いからその言葉を引っ込めよう、という意味だからです。

心の中身は何も変わっていません。

しかし、みんなが問題にするのは、そういう言葉を放った、その人の心の有り様なのです。

 ※bBearさんによる写真ACからの画像です。

日本人は、臭い物に蓋をするというところがあります。

特に古い人ほど、そういう傾向があると思います。

そんな考え方があるから、表面だけ体裁を整えていればいいのだ、という発想になり、問題発言だけでなく、いろんな社会問題が、真剣に取り組まれないのです。

政治家や古い人間は、何をそんな細かいことに、目くじらを立てて、と思うでしょう。

ところが、そういう所が好い加減な人間は、何をやっても好い加減なものです。

上手く行っているように見えたとしたら、誰かが忖度をして、陰で手助けをしてくれているからでしょう。

職人にしても研究者にしても、あるいは趣味を持っている人にしても、みんな細かい所にこだわりを持っています。

ちょっとの事でも、軽視したりはしません。

また、優れた指導者は、現場で働く人々の苦労を知っています。

みんなが動いてくれるからこそ、計画が実行されるということを、理解していますし、感謝の念を持っています。

その人たちを軽視したり、傷つけるようなことを、やったりはしません。

現場の人間が不満を抱いていると、期待していたような結果につながらないことを、賢い指導者はわかっているのです。

不適任な指導者でも、これまで続いて来たのは、誰も彼らの責任を、本気で問うことがなかったからです。

しかし、これからは違います。

日本だけでなく、世界中の若い人々を中心とした、変革を求める声が、互いに共鳴し合って、広がっています。

この声を止めることは、不可能です。

政治家の中でも心ある人は、大物と呼ばれて来た人たちに遠慮するのではなく、世界に広がる声に、耳を傾けて欲しいと思います。

さもなくば、ぼろ船と一緒に、深い海の底へ沈んでしまうでしょう。

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自己犠牲

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自分の気持ちを抑えて、他の人のために動く。

そんな話は、よく美談として伝えられます。

本当はやりたいことがあるのに、辛抱して仕事をする。

本当は買いたい物があるのに、我慢してお金を他へ回す。

外国の事は、よく知りませんが、日本では自己犠牲が尊ばれる傾向が、あると思います。

大切な人を守るため、自らの命を犠牲にする。

こういう話は、多くの人の涙を誘います。

そして、自分を犠牲にした人は、人間の鏡とされます。

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確かに、自分のことよりも、他人のことを考えて行動できる人は、素晴らしい感性を持っていると思います。

でも本人が、他人のために自分を犠牲にしたと、思ったかどうかは、本人に確かめてみなければ、わからないでしょう。

こういう方たちをお手本にして、人間とはこうでなくてはいけないと、思い込んでしまった人は、我が身を犠牲にして、他人を助けようとするかもしれません。

一方で、他人のために動くことが、自らの喜びだと感じる人は、咄嗟の場面で反射的に動いてしまいます。

その結果、自らの命を落としてしまうことも、有り得ますが、本人はそれを犠牲だとは、考えないに違いありません。

命を落とすのは結果であって、命を捨てたわけではないのです。

その行動の原動力は、ポジティブなエネルギーであり、その行動は、本人の意思に従ったものです。

それに対して、いい人間は自分を犠牲にするものだと、思い込んでいる人のエネルギーは、ネガティブです。

見た目は同じような行動であっても、エネルギー的には全然別物です。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

親が子供に、人としての生き方を教える時、誰かのために行動する人を、お手本にすることは、よくあることです。

でも、そのお手本となる人が、他人のために自分を犠牲にしていると説明し、自己犠牲を美化してはいけません。

子供がそれを真に受けると、その子は将来、とても窮屈な人生を送ることになるでしょう。
場合によっては、悲惨な結末を迎えるかもしれません。

教えるのであれば、他人を助けることが自分の喜びであることの、素晴らしさを教えるべきなのです。

自分の喜びと、他人の喜びが一致する時が、最高の喜びであることを、教えないといけません。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

自分が喜ぶことは大切です。

そこに加えて、他人が喜んでくれれば、喜びは何倍にも膨らみます。

その経験は、自分の喜びは誰かの笑顔だ、という思いを創るでしょう。

誰かにつくすために、犠牲は必要ないのです。

犠牲を求める風潮は、ブラック企業をはびこらせます。

誰かを利用して、自分が得をしようという、ずる賢い者たちに、力を与えることになるのです。

自己犠牲が当然のものとして強いられ、それを拒絶できない人には、悲劇が待っています。

自己犠牲を称賛したくなる時、自分はブラック企業や、ずる賢い者たちを応援しているのだと、考えて下さい。

自己犠牲はいらないのです。

まず、自分を大切にする。

自分を大切にできない人に、他人を大切にすることはできません。

そのためにも、まず自分を大切にするのです。

それを維持しながら、他人へも気持ちを向けると、自分を犠牲にしなくても、他人のために動けるようになります。

自分が満足し、世の中が喜びに満ちたものになるためにも、自分を大切にしなければなりません。

子育ては種まき

 ※marcisimさんによるPixabayからの画像です。

子供を育てた経験がある方、あるいは現在子育て中の方は、わかると思います。

親というものは、人として大切な事を、我が子に伝えたいと考えるものです。

子供も小さいうちは、親の話を素直に聞いてくれるかも知れません。

でも思春期に入ると、親の話など聞こうとしなくなります。

どうしても楽しい事や興味を覚えた事に、気持ちが向いてしまうからです。

それに、思春期だと自分は一人前だと、考えるようになります。

いちいち小言を言われるのは、嫌なのです。

口では、わかったと言いながら、子供は注意された事を、繰り返します。

それで何度も注意されると、今度は開き直ったように、逆切れします。

 ※Hanna KovalchukさんによるPixabayからの画像です。

子供が何でも、親の言う事に従うと、自我が育っていないのではないかと、心配になります。

でも、ちっとも言う事を聞かない子供も、心配になるものです。

おやっと思うような事をする子供が、よその子供であれば、あえて何も言わない事が、多いと思います。

しかし、その子供が我が子であったなら、きびしく咎めるのではないでしょうか。

それは周囲への迷惑や、子供の将来を考えての事です。

中には、子供が他人に迷惑をかけても、平気な親もいます。

子供の行動を見守ると言うより、子育てを放棄しているような親も、時々見かけます。

そういう親や子供を目にすると、自分の子供だけは、ちゃんとしつけようと、普通の親は考えると思います。

ところが、それで子供にうっとおしがられたり、無視されたりする事も多いでしょう。

好い加減な親を、うらやましがられたりすると、親として情けないやら悲しいやらです。

思わず子供と口論になったり、喧嘩をしたりすれば、子育てが嫌になってしまいます。

 ※Khusen RustamovさんによるPixabayからの画像 です。

でも、自分を振り返ってみると、どうでしょうか。

若かった頃には、自分も親の言う事を、素直に聞いていなかった方が、多いのではないでしょうか。

子供なんて、こんなものだと思う事ができれば、少しは気が休まるでしょう。

それでも、どうしても親ですから、子供の事は期待もしますし、心配もします。

その事自体は、親ですから仕方がないと思います。

しかし、その気持ちを子供には、あまり見せない方が、いいのかも知れません。

期待も心配も、子供にとっては、余計なお世話でしょう。

子供の方から何か相談があれば、話を聞いてやればいいと思います。

でも、何も言われなければ、親の方からは何も言わずに、見守っていた方がいいでしょう。

子供は痛い目に遭って、育つものだと受け止めて、あれこれ注意したい気持ちを、ぐっと呑み込むのです。

また、いつか立派になった子供の姿を、見てみたいと思うでしょう。

でも、そこもこだわるのは、やめましょう。

親が生きている間に、子供が立派になるとは限りません。

親が死んだ後からでも、とにかく子供が本当の一人前になったなら、それでよしとするのが、いいと思います。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

親が子供に対してできるのは、子供が一人前の人間になるための、知恵の種まきだけです。

まいた種がいつ発芽して、大きく育って、花や実をつけるのか、それはわかりません。

同じ兄弟姉妹でも、一人一人が違う人間です。

同じように種をまいても、種の育ち方が違うのです。

それに、まいた種自体が、実は不良品だったという事も、有り得ます。

自分では最高だと思っていた種が、時代の流れに合わないものに、なる事もあるのです。

いずれにしても、いい質の種とタイミングがあれば、きっと花は咲くでしょう。

運がよければ、その花を見せてもらえるかも知れません。

でも死ぬまでに、花を見られない可能性もあります。

それでも大切なのは、子供が花を咲かせる事です。

それを親が確かめる事が、大切なのではありません。

花が見られなくても、がっかりする必要はないのです。

親は自分がまいた種が、いつか必ず、きれいな花を咲かせると信じて、子供を見守るだけでいいのです。

そもそも自分自身の花が、どうなったのかも、定かではないでしょう。

私たちにも親が、種をまいてくれたはずです。

その種は今の時代に、合わないものかも知れません。

でも、その種をまいてくれた親の気持ちは、理解ができると思います。

親がまいた種が、花を咲かせる事がなかったとしても、問題はありません。

自分を想ってくれた親の気持ちは、私たちの心の中に、きれいな花を咲かせているでしょう。

 ※Hans BraxmeierさんによるPixabayからの画像です。