不便な便利 その2

今の若い人たちには、自動車を買う余裕のない人が、多いと思います。

若い人たちの考える便利な物と言えば、やはりスマホでしょうね。

 ※Berutaさんによる写真ACからの画像です。

電話やメールはもちろん、カメラにもなりますし、インターネットを楽しんだり、ゲームをしたり、買い物をしたりと、使い方次第で様々なことができるようです。

私はスマホは持っていないので、詳しくはよくわかりませんが、ガラケーと呼ばれる携帯電話は持っています。

これも電話番号を登録したり、ちょっとしたメモにも使えますから、便利と言えば便利です。

でも、そのお陰で電話番号を、覚えられなくなりました。

また、携帯電話のメモ帳や、パソコンのワープロなどで、文字の自動変換機能を使っていると、ペンで字を書く時に、漢字を思い出せなくなるのです。

そんな経験をしている方は、とても多いと思います。
便利になった分、脳の機能が衰えたのです。

体も動かさなければ、どんどん筋肉が落ちて行きます。

それと同じように、頭も使わなければ、使用されない神経同士のつながりが、どんどん失われて行くのです。

ですから、スマホやパソコンのゲームにはまって、ひたすらゲームをしていたり、ただテレビやインターネットの動画や番組を、じっと見ているばかりだと、脳の機能は衰えて行くでしょう。

 ※Felix LichtenfeldさんによるPixabayからの画像です。

ただ、それしかやらない人は、脳機能の低下に気がつきません。

と言うのは、衰えて行く脳機能を、使う機会がほとんどないからです。

しかし何かの事情で、他のことをせざるを得ない状況が、訪れるかも知れません。

そんな時に、自分では何も考えられない、何も決められない、人に言われたことが理解できない、などの問題が出て来る可能性は、十分にあると思います。

また、今はいつでも無料で通話ができるようなので、特別用事もないのに、ずっと電話をつなぎっ放しにする人がいるようです。

ちょっとトイレに行って来るからと言って、何分も電話に出ないまま、相手を放っておいても平気だし、放っておかれた方も、お互い様なのか平気なようです。

世代の違いと言えば、それまでですが、私たちが若かった頃には、そんな簡単に電話などできませんでした。

市内の相手と喋るならば、3分10円と安かったですが、遠方の人と喋ると、みるみる通話料が増えて行きます。

公衆電話で喋る時には、10円玉を何枚も用意しないといけませんでした。

ですから、喋る時には短い時間で伝えられるよう、何を喋るのかを頭の中で、ちゃんとまとめておいたものです。

また、電話をかけた時に、相手がどんな状態にあるのか、わかりませんから、相手が電話をしていても大丈夫なのかを、必ず確かめていました。

相手が食事をしているだろうとか、仕事中かなとか、寝ている時間だなと思う時には、電話はかけません。

それに大概の家が同じだったと思いますが、電話と言えば、固定の電話が茶の間に一台あるだけです。

 ※リリ子さんによる写真ACからの画像です。

今の若い人は見たこともないかもしれませんが、指でダイヤルの番号を回すタイプの電話です。

のちに番号のボタンを押す、プッシュ式という電話機が出ましたが、固定電話であるのは同じです。

それが今は、パソコンとカメラと電話が一体化した、スマホというものを、一人が一台持っていて、24時間いつでも電話で自由に喋ることができるわけです。

自分が電話をしたいから、電話をする。

自分が目を覚ましているから、電話をする。

そこには相手への配慮や、相手の様子をうかがう想像力がありません。

相手が文句を言わなければ、別に構わないだろうと言えば、確かにそうなのですが、それでも他人を気遣う習慣というものが、失われているのは確かでしょう。

そいういう事は知り合いとの通話ばかりでなく、見知らぬ人との関係においても、相手の事情を考慮するという観点が抜け落ちて、自分勝手な行動を見せることに、なるかもしれません。

たとえば、公共の施設へパジャマにサンダルのような格好で、平気で入って行く。

駐車場があろうがなかろうが、お構いなしで、自分が好きな所に車を止める。

自分が飲み食いしたあとのゴミを、いらないからと言って、どこにでも捨てる。

決して悪気はないのかもしれません。
しかし、自分の行動によって、誰かが迷惑をこうむるかもしれないという、観点が抜けています。

 ※しらさんさんによるイラストACからの画像です。

世の中が平和なのは、みんながルールを守っているからです。

町がきれいなのは、ゴミを拾ってくれる誰かがいるからです。

みんなが好き勝手をするようになれば、どんな町、どんな社会になるのか、考えればわかるでしょう。

しかし、考える能力が低下していると、そういうことを頭に思い浮かべることすら、苦痛になるのかもしれません。

携帯電話やスマホなどを開発した人は、世の中がそんな風になることを、予想して開発したわけではないでしょう。

それでも、便利が産み出す不便というものが、実際に生じてしまうわけです。

自分勝手ではなく、他の人のことを思いやれるのであれば、スマホは本当に便利なグッズとなるでしょう。

そうでなければ、様々な社会問題を生み出す元凶と、みなされてしまうと思います。

でも、これはスマホが悪いのではなく、他人を思いやれるような教育が、なされて来なかったとことが問題でしょう。

これからの教育は、人と人のつながりを大切にできることを、一番の目的にするべきだと思います。

不便な便利 その1

人間は創意工夫によって、様々な便利な物を、創り出して来ました。

また科学の発展は、さらなる便利グッズの開発に、拍車を掛けました。

昔はなかったもので、現在普通に使われている、便利なものと言えば、まずは自動車でしょう。

それとスマホやパソコンなど、インターネット関連のものですね。

他にも録画や録音などの機器、エアコン、いろいろな家電製品。

昔は贅沢品と見られていた自動車も、今では多くの人が当たり前に使っています。

 ※phon-taさんによる写真ACからの画像です。

自動車があれば、昔であれば絶対に行けなかった遠い所へ、たった一日で訪れることができます。

雨が降っても、濡れることなく移動ができます。

荷物を手に持ったり、背中に背負う必要もありません。

あまりにも便利で、当たり前の移動手段になったため、ほんのすぐそこへ行くにも、自動車を使ってしまいます。

そのため、人はほとんど歩くことが、なくなってしまいました。

それによって体力が低下し、年を取ってから歩けなくなる人が、増えていると言います。

また、自動車で移動することは、目的地まで速く移動できるということで、人々は目的地に速く到達することが、当然のことのように考えるようになりました。

ですから、前をゆっくり走っている車があると、イライラしますし、横断歩道を渡ろうとしている人がいても、無視して突っ走ったりするのです。

 ※モッサイさんによるイラストACからの画像です。

そこまでして、どれぐらい速く目的地につけるのかと考えると、大して変わらないわけですが、それでも1秒でも速く着きたいと、思うのですね。

では、その人が普段から1秒を惜しんで、暮らしているのかと言うと、まずそんなことはないでしょう。

車で無理をして走れば、少々出るのが遅くなっても、その分を取り戻すことができると思い、家では無駄な時間を、過ごしているのではないでしょうか。

その結果、いつかは事故を起こし、人生を台無しにするようなことが、起こるのです。

車を降りて、自分の足で歩いて見ると、運転中には絶対に見ないような、町の景色が見えて来ます。

こんな所にこんな物があったのかとか、驚いたり感動することが、結構あるものなのです。

 ※ぶるーむーんべるさんによる写真ACからの画像です。

自動車で移動していると、出発点から目的地へ移動する、ということだけが重視されるので、途中の町の様子など、見えているはずなのに、何も頭に残らないのですね。

この発想は自動車の運転ばかりでなく、仕事への取り組み方にも、影響するようです。

それは、結果ばかりを追い求め、結果を出すまでの、途中経過はどうでもいいという考え方です。

つまり、どんな手段でもいいから、とにかく結果を出せばいいという考え方ですね。

そして、結果を上手く出せない者は、無能と見なすのです。

そういう歪んだ考え方が、今の世の中には、まかり通っているのではないでしょうか。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

知らず知らずのうちに、目的地へ速く到達することが、いいことなのだという考え方が、すりこまれた結果のように思えてしまいます。

元は便利を求めて開発されたはずの、自動車などの機械は、結局は人々に不便な暮らしを、強いる結果になっているのかもしれません。

便利とはどういうことなのか。
不便に見えることは、いけないことなのか。

そんなことを子供のうちから、考えられるようになっていれば、便利なのに不便という世の中には、ならないと思います。

お互いの思いやり

 ※くりまんさんによるイラストACからの画像です。

思いやりのある人と出会うと、心が和みますよね。

また、誰かを思いやる時、とても優しい気持ちになっています。

優しい気持ちの自分って、すごくいいと思いませんか。

このように、誰かから親切にされた時、された方だけでなく、した方も気持ちがいいのです。

ところが、誰かを思いやったつもりが、予想外の嫌な態度を見せられることがあります。

そんな時には、とても悲しい気持ちになり、もう二度と誰かに親切なんか、するものかと思うかもしれません。

あるいは逆に、気持ちが尖っている時には、普段ならばどうでもいいような、ちょっとしたことでも、気に障ることがあります。

相手が親切な気持ちでしてくれたことでも、余計なお世話だと受け止めてしまいます。

どちらも誰にでも起こり得ることですが、いずれも残念なことですよね。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、混んでるバスや電車で、座っていた若い人が、途中から乗車して来た、年配の人に席を譲ろうとすることがあります。

普段から、ゆずり慣れている人はともかく、そうでない人が、知らない人に声をかけて、席を譲るというのは、相当勇気のいることです。

それを、迷いに迷った挙げ句、譲ってあげようと立ち上がったのに、他の乗客たちの見ている前で、年寄り扱いするなと怒られたら、どんな気持ちになるでしょうか。

恐らく、その人はお年寄りを見ても、再び席を譲ろうとはしないでしょう。

あるいは、怒られなかったにしても、結構です、大丈夫です、と断られても、大恥をかいたような気になるものです。

こんな場合には、自分はまだ年寄りではないと思ったとしても、にっこり笑って、ありがとうとお礼を述べ、座らせてもらった方がいいと思います。

できれば、一言二言、席を譲ってくれた人と、ちょっとした会話でもできれば、最高です。

もし、座れない事情があるのなら、相手の気持ちへの感謝を示してから、そのことを説明し、やはり一言二言、会話をかわすというのが、いいでしょう。

そういうのが、お互いを思いやるということなのです。

悪気はなかったにしても、誰かの好意に対して、嫌な態度を見せてしまったならば、次からはそうならないよう、気をつけましょう。

 ※ウラテツさんによるイラストACからの画像です。

お店などで、自分は客だということで、傲慢な態度を見せる人がいます。

一方で、せっかく来てくれたお客に、無愛想で不親切な応対をする店もあります。

こういう場面にでくわすと、とても残念ですし、悲しい気持ちになります。

みんな人間に生まれて来たのに、人間としての喜びを、自ら放棄しているようなものです。

お互いを思いやり、感謝し合う世の中であれば、世の中を騒がすような事件などが、ニュースで伝えられることはなくなるでしょう。

こういう世の中にするためには、子供の頃からの教育が大切です。

無理やり知識を詰め込む教育ではなく、人間としての基盤を築くような教育こそが、必要なのだと思います。

また、その教育は学校任せにするのではなく、家庭や地域でも、しっかりと子供に教えないといけません。

いずれは社会の中心を担う子供たちが、思いやりと感謝の心を、当たり前のこととして抱くことができれば、世の中は間違いなく、いい方向へ変わるでしょう。

 ※Fuha_Wakanaさんによる写真ACからの画像です。

自分が先

我先に動く人は、日本では敬遠されます。

特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。

いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。

確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。

ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。

と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。

 ※Ani_Banany_StyleさんによるPixabayからの画像です。

十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。

しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。

いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。

お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。

幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。

喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。

他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。

助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。

全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。

他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。

これは大人にも、子供にも言えることです。

 ※Sammy-WilliamsさんによるPixabayからの画像です。

自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。

反発だって、したくなるでしょう。

反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。

これも大人にしても、子供にしても同じです。

表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。

その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。

十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。

気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。

それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。

そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。

いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。

大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。

大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。

「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。

それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。

ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。

ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。

大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。

やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。

一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。

罪悪感を感じる必要はありません。

他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

子供の教育2

今の学校は、決められた授業数をこなすことで、先生たちは頭が一杯になっています。

しかし、上の学校へ行くためには、それだけでは足りません。
学校とは別に、塾へ通わなければならないのです。

これでは何のための学校なのか、わからなくなります。

私が子供の頃は、塾なんかほとんどありませんでした。
塾なんかへ行けば、馬鹿にされたものです。

今の学校教育はこれまでの流れを、誰も止めることができないまま、ずるずると流されるように、毎年同じことを、繰り返しているだけです。

流れについて来られない子供がいても、目をつぶって見ないふりを、するしかありません。

目的は授業をこなすことです。

これでは先生たちも、嫌気が差してしまうでしょう。

そんな仕事がしたくて、先生になることを目指した人は、いないと思います。

今の学校教育は、子供たちだけでなく、先生方にも納得が行かないような、負担を強いるものなのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像 です。

こうなってしまった原因は、企業にあります。

多くの企業は、大卒を採用条件にしています。
大学を出ていなければ、面接すらしてもらえないのです。

高卒の人が採用してもらえる所もありますが、同じ仕事をしていても、高卒と大卒で基本給が違ったりします。

中卒の人の就職が、さらに困難なのは、言うまでもありません。

しかし、実際は大卒であれば、高卒の人以上に仕事ができるのかと言えば、そんなことはありません。

また、大学で学んだことを、活かせる職場で働ける人は、ほとんどいないと思います。

大学の学生たちは、いくつもの企業の面接を受け、とにかく内定をもらえた所に、飛び込むのです。

でも、その仕事に就くために、大学で勉強をしたわけではありません。

一方、企業の現場としては、教えたことがわかる理解力は、絶対に欲しいところです。

あとは、本人の素直さと、やる気です。

そこに大卒の資格は、関係ありません。

現場で働く者にとって、雇われる人の学歴など、関係がないのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像 です。

しかし企業は多くの所が、大卒を採用条件にしています。

理由は恐らく、面接だけで全ては、わからないからでしょう。

わからない分を、学歴を参考にして、判断しているつもりなのです。

職業差別がなく、大学に行かなくても、働ける所がたくさんあれば、どうでしょうか。

研究に興味がない人は、大学に行かずに働くでしょう。
嫌な勉強に、しばられる必要がなくなるからです。

大学へ行く人は、研究がしたいから行くだけのことです。

大学へ行かない人よりも、大学へ行く人が優秀ということにはなりません。
大卒であろうとなかろうと、立場は全く対等です。

大学へ行った人は、自分の研究を活かせる所で、働きます。

今のように、研究に関係のない職場を、必死に探し回る必要はありません。

問題が出るとすれば、大学でしょう。
入学生が減って、経営が成り立たなくなるからです。

しかし、大学は研究機関です。

本当に必要な研究機関であれば、国はお金を出し惜しみすることなく、ちゃんと支援するべきなのです。

お金が儲かるかどうかで、研究を評価するのは愚の骨頂です。

本当に研究をしたい者だけを入学させれば、授業は活発な議論の場になるでしょう。

また先生たちは、本来の仕事である研究に、もっと没頭できるようになります。

結果的に、研究の質は上がり、大学は今以上に、社会に貢献できるでしょう。

大学は社会人予備校の役目を終え、本来の価値を取り戻せるのです。

 ※缙 徐さんによるPixabayからの画像 です。

受験競争がなくなれば、子供たちは進学を、唯一の目標にする必要がありません。

それぞれが将来の夢を、大きく膨らませることができるでしょう。

授業も今よりも少ない時間で、子供たちの興味に合わせた、意味も内容もある授業を、行うことができます。

先生の目標も、子供たちがいい点をとることではなく、勉強の面白さを教えることになるでしょう。

特に専門の科目を、受け持っている先生は、自分が好きな科目の面白さを、どうやって子供たちにわかってもらおうかと、楽しく考えることができるでしょう。

試験の成績が悪ければ、それは子供が悪いのではなく、教え方が悪かったということになります。

だからと言って、先生が責められることはありません。

その子が理解できるような、もっと面白い授業をしてみようと、先生は自分で情熱に燃えるからです。

 ※mauriciodonascimentoさんによるPixabayからの画像です。

学校の授業が、これまでと同じようにできなくなった今、子供にも大人にも、本当に喜ばれるような教育というものを、社会全体で見直せたらいいなと思います。

子供の教育1

 ※yoocoさんによる写真ACからの写真です。

コロナ騒ぎの影響で生じた、授業の遅れを取り戻そうと、学校は必死でしょう。

受験が迫っている子供たちも、授業が進まないことで、不安を抱えていると思います。

それでも今は、これまでの学校教育が、本当によかったのかを、見直すチャンスでもあります。

一時、詰め込み教育が批判されて、ゆとり教育が推奨された時期がありました。

しかし、子供の学力が低下したという理由で、ゆとり教育は見直され、再び授業時間数が増えました。

その状態が、今に続いているのですが、結局は詰め込み教育に、戻っているのではないのか、検証するべきでしょう。

そもそも、子供たちに受けさせている授業が、どうして必要なのか、本当に必要なのかを、きちんと答えられる大人が、いるのでしょうか。

 ※andreas160578さんによるPixabayからの画像 です。

勉強をしておかないと、社会に出ても仕事がない。
成績が悪ければ、いい学校へ入れない。
頭が悪いと、国際競争に勝てない。

勉強が必要な理由を、大人が説明するとしたら、こんな感じではないでしょうか。

そのくせ大人が、今の子供たちが受ける試験で、どの科目でも100点を取れるのかと言うと、まず無理でしょう。

学校の先生でも、自分の担当の教科でなければ、50点も採れないかも知れません。

親なんか、さっぱりわからないから、子供の勉強は、学校や塾にお任せです。

それでも大人は、それなりに生きているのです。

それなのに、どうして子供たちに、いろんな勉強を、むりやり押しつけようとするのでしょうか。

子供の頃に受けた授業なんか、私は何も覚えていません。

覚えているのは、授業の途中で、先生が話してくれた雑談だけです。

面白いと思ったことしか、頭に残っていません。

勉強に関して、大人になっても、まだ理解できるのは、自分が興味を持ってやった事だけです。

そういう事は、大人になってからも、個人的に役立つことがあるからです。

しかし、他の授業は何の役に立っているのか、未だにわかりません。

大人になってから思うのは、勉強が必要なのは、大人も同じだということです。

社会に出て働くようになると、あれはどうなっているのか、こんな場合はどうするべきか、など自分でいろいろ考えます。

そして、必要に応じて本を読んだり、インターネットで調べたりして、知識を増やします。

私が社会人になった頃は、パソコンすら一般的ではありませんでした。
ですから調べるのは、もっぱら書物でした。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

必要性に応じて調べていたはずが、読んでいるうちに、そちらの内容が面白くなることがあります。

それで同じような本を、何冊も読んだりしました。

同じような経験をされた方は、少なくないと思います。

本当の勉強というものは、大抵は大人になってから、行うものなのです。
それも自発的にです。

それは大変かも知れませんが、楽しいことでもあります。

嫌になったらやめてもいいという、主導権が自分にありますから、全然苦痛になりません。

それなのに、日本では勉強は、子供のうちにするものだと、思い込んでいる人が、多いように思います。

それも義務だから仕方なくするのだと、認識している人が、ほとんどでしょう。

その結果、勉強という言葉の響きが、アレルギーを起こしそうになるほど、嫌なものになってしまうのです。

学校教育が如何にまずいのかという、証拠だと思います。

 ※Daniela DimitrovaさんによるPixabayからの画像 です。

子供の勉強というものは、生活に直接役立つようなこと、最低限必要なことを、年齢に応じて教えればいいのです。

子供のうちは、何でも覚えやすいからと言って、あれもこれもと教えるべきではありません。

子供に必要なのは、自分で考える力を養うことと、勉強が楽しいことだと理解することです。

そして何より大切なのは、自分が楽しいと思うことを追求することと、他の人が喜んでくれることで、自分も嬉しいと思えるようにすることです。

それ以外のことは、必要ありません。

外国の子供と学力を比較したところで、何の意味もないのです。

しかも評価される科目が、偏っているのも問題です。

その科目が苦手でも、他の科目が優秀な子供もいるのです。

しかし、その子たちは自分の得意分野では評価されず、一般的な評価で低く見られてしまいます。

それは、その子の自信を奪うことになり、人生を諦めさせることにもなるのです。

 ※Michal JarmolukさんによるPixabayからの画像です。

求められる対策とは2

 ※madsmith33さんによるPixabayからの画像です。

困った人を助けたい。

その気持ちがあれば、そこに新たな仕事、新たな産業が生まれます。

これまでは、誰かの笑顔を見たいと言うより、お金をたくさん稼ぎたい、という考えの上に立った仕事が、多かったのではないかと思います。

その結果が、今の状況につながっているのだと、私は考えています。

世の中が大変な今こそ、社会はお金を稼ぐことに、主眼を置くのではなく、人々に喜びを与えることにこそ、着目しないといけません。

喜びは、世の中から求められています。

誰かを喜ばせたい、という思いで始めた仕事は、必ず成功へつながると思います。

 ※Engin AkyurtさんによるPixabayからの画像です。

初めは、赤ん坊が産声をあげたような、小さく弱々しいものかも知れません。

しかし利用者から、多くの感謝の声が出て来ると、事業は拡大を迫られるようになります。

大きくするつもりがなくても、そうなるよう求められるのです。

また、これまでなかったような楽しい遊びや、ゲームなど、人々の心を楽しませ、和ませるようなものも、いいと思います。

人を傷つけたり、自分だけがいい思いをする、という趣旨のものではなく、参加して幸せな気持ちになれるような、人と人をつなげるようなものが、求められるでしょう。

地球温暖化への対策も、考えねばなりませんが、それに関する研究や仕事も、もっと増えて行くでしょう。

自然環境への取り込みを、人々に広げて行く、仕事も大切です。

元々ロボット好きな、国民性の日本ですから、ロボット関係の仕事も、大いに期待されていると思います。

地方の過疎地の活性化と、食料自給率を上げることを、共に考えるのもいいですね。

もっと都会の人が、農業へ参入できるよう、具体的かつ強力に、働きかけて行くべきでしょう。

今の状況下でも、必要な仕事は、たくさんあります。
優秀な人材も、たくさんいると思います。

両者のマッチングを上手くすれば、社会は活気づくでしょう。

また、以前よりもいい社会になると思います。

 ※khamkhorさんによるPixabayからの画像です。

子供たちにも、受験勉強ばかりさせてはいけません。

どうすれば、人を喜ばせることができるのか、アイデアを出して実践する、という経験を、学校でさせてみるといいでしょう。

子供は大人よりも考え方が、新鮮で柔軟です。

大人が考えつかないようなことを、さらりと思いつきます。

それに、人を喜ばせるということを学べば、いじめ問題もなくなるでしょう。

そういう子供たちが成長して、社会に出るようになると、社会におけるいじめも、なくなると思います。

目の前に、何か問題が起こった時、目先だけの対処をしてはだめです。

その陰に隠れた、問題の本質を探らねばなりません。

そのためには、一つの問題を通して、社会全体に目を向けるのです。

どんな問題も、その本質は社会にあります。

本質を見極めたなら、社会の全体的な対策というものを、取らなければなりません。

その中には、子供の教育も含まれます。

教育は、あらゆる問題の、根本的な解決方法です。

そのことを、政府も私たちも、理解して置く必要があるのです。

求められる対策とは1

 ※MediamodifierさんによるPixabayからの画像です。

コロナ騒ぎの影響で、2020年4~6月期のGDP (国民総生産) が、戦後最大の落ち込みになりました。

GDP (国民総生産) とは、一定期間内に国内で生産された物や、サービスの付加価値のこととされています。

つまり、生産物やサービスで、どれだけ儲けたかということです。

それは国民が消費した金額と、国内企業が投資したお金、それと政府が使ったお金と、貿易の輸出額から、輸入額を差し引いた金額を、合わせたものだそうです。

GDPが落ち込むというのは、主に国民がお金を使わない、企業が投資しない、ということを意味しているのでしょう。

要するに、景気が悪いということです。

コロナ問題は日本だけでなく、世界規模のことです。

日本だけが頑張ったところで、外国企業との取引が、元通りになるのは、むずかしいと思われます。

外国と取引がある企業は、経営が困難になる所が増えるでしょう。

そうなると倒産するか、倒産を免れるために、人員を削減したり、投資を控えたりします。

クビにならずに済んだ人も、給料が減ったり、ボーナスが出なくなったりするかも知れません。

直接外国との取引がない所が、安心というわけではありません。

自分の取引先が、外国と提携していた場合、そこが潰れるという事は、有り得るのです。

そうなると、外国とは関係ない自分の所が、連鎖倒産する可能性があるのです。

ご存知のように観光業や飲食業も、コロナ対策での外出自粛、あるいは外国人観光客の激減で、大打撃を受けています。

スポーツ観戦やコンサートは、観客数に制限がかけられていて、未だに客席を満席にするわけにはいきません。

将来的な不安から、個人も企業も、お金を手元に、残して置こうとします。
それが消費を抑え込み、さらなる景気悪化へと、進んで行きます。

急ぎの物や必需品でなければ、購入は後回しにされてしまいます。
物作りを生業にしている人たちは、廃業の危機にあると言えます。

 ※fernando zhiminaicelaさんによるPixabayからの画像です。

この状況を打破するためには、コロナへの不安が、払拭される必要があるでしょう。

人が安心して、自由に行き来できるようになるまでは、社会の活気は、取り戻せないと思います。

それは日本だけでなく、世界中の国で言えることなのです。

しかし、コロナが解決したとしても、新たに他の感染症が、広まる可能性はあります。

そうなると、また元の制限された暮らしを、余儀なくされることになるでしょう。

その不安は、コロナ騒ぎが落ち着いても、ずっと残り続けます。

ところで、コロナ騒ぎの前の状況が、本当によかったのかと問われると、そうとも言えないと思います。

コロナ騒ぎの前は、誰もが安定に幸せな暮らしを、送れていたでしょうか。

一度貧困に陥った人は、そこから脱却するのは、容易なことではありませんでした。

元々家が貧困であれば、そこの子供は何かを学ぶにしても、遊ぶにしても、他の家庭に比べて、大きく制限されていたはずです。

それでも受験戦争は、子供たち全員を、巻き込んでしまいます。

塾に通うことの善し悪しは別にして、経済的に余裕がなければ、塾に子供を通わせることはできません。

子供の将来のために、スポーツや音楽、あるいは英語や、コンピュータープログラムなどを、学ばせたいと親は思うでしょう。

でも、やはりお金がなければ、そんなことも不可能です。

それでもがんばって勉強して、奨学金をもらったり、アルバイトをしてお金を貯めたりして、目指す学校へ行く子もいると思います。

しかし、学校を卒業して就職となると、何十もの企業の面接を受けても、内定をもらえないかも知れません。

何とか仕事が決まっても、自分に合わない仕事だったり、大学の勉強とは全然無関係だったり、あるは明らかなブラック企業だったりと、困難にぶつかることも多いでしょう。

貧困のために、学校へ行けなかったり、就職先で上手く行かなかったりして、自信を喪失する子も、少なくないと聞きます。

これからの社会を、担って行く若い人たちが、そのような状況にあった社会が、いいと言えるのでしょうか。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

若い人たちの話だけではありません。

長年頑張っていた方の仕事や職場が、コロナ騒ぎを含めた災害によって、だめになったことも少なくないでしょう。

特に、ここ何年もの間、日本は多くの災害で、様々なものを失って来ました。

それでも、期待したような支援は、受けられません。

基本的に、全て個人の責任で、という事になっているからです。

都会にばかり人が集中し、過疎地では集落が、消えて行く所もあります。

しかし、何でもあるはずの都会でも、急病の時の病院のたらい回しや、子供を預ける保育所不足、お年寄りの介護施設不足など、問題は山積みです。

親の介護ができる者がおらず、今の仕事を辞めて、親元で暮らす人もいます。

でも、親の介護をしながらできる仕事は、なかなか見つかりません。

やっと見つけた仕事も、相当無理をしなければ、続けることができません。

その結果、体を壊すと、親の介護どころか、自分の事もできなくなってしまいます。

これまでの社会は、多くの人がとりあえず、何とか生きて来たというだけです。

それほどよかったと、言うわけではありません。

実際は、何とか生きる事ができない人も、たくさんいるのです。

その事実は、社会から見て見ぬふりをされていた、というのが本当でしょう。

そういう事が見えないようにしながら、何とか暮らして行ける社会のように、見せかけていただけなのです。

それでも、無事に生きて来た人にとっては、コロナ騒ぎで仕事を失いそうな今よりも、過去の世界の方が、いいように見えるでしょう。

でも本当は、過去にすがるのではなく、もっといい未来を創る方向へ、舵を切った方がいいのです。

 ※Rudy and Peter SkitteriansさんによるPixabayからの画像です。

学校のこと

学校の9月入学の話が、取り沙汰されています。
海外の学校は大半が9月入学だそうで、それに合わせることで、国際的な教育を進めたいという、思惑があるようです。

きっかけは、コロナ騒ぎで休校になった子供たちの、勉強の遅れをどうやって取り戻すか、という問題でした。

しかし、議論の重点は本来の問題から、グローバル教育の方へ、シフトしているようにも思われます。

9月を入学時期にするのなら、それはそれで結構だと思います。
ですが、それより先に考えることが、あるのではないでしょうか。

かつて、ゆとり教育と言われた方針が、今では間違いだったと、決めつけられています。
ゆとり教育のせいで、外国の子供と比べて、日本の子供の学力が落ちた、というのが理由です。

ですが、それまでの教育方針に問題があったから、ゆとり教育という話が、出たのではないでしょうか。

ゆとり教育にすれば、ある程度学力が低下することは、覚悟の上だったはずです。
それなのに、実際に学力低下を指摘されると、慌てて元に戻したのです。

これは、とても愚かなことだと思います。

ゆとり教育の問題は、子供に自由な時間を与えて、放置したことでしょう。
浮いた時間で、子供たちに人間として大切なことを、教えるべきだったのです。

ゆとり教育で叫ばれた教育の問題は、まだ解決していないのです。
そこを忘れて、授業を詰め込もうとしたり、国際化を論じても仕方がありません。

テレビのインタビューで、久しぶりに学校へ行けることを、喜ぶ子供は多いと思います。

しかし、学校がつまらないとか、学校へ行きたくない、ずっと休みだったらいいのに、と思う子供もいるはずです。
でも、こういう子供はインタビューから、はずされるのでしょうね。

そもそも学校へ行くことは、子供の教養を高めるのが、目的だったはずです。

しかし、今の学校の目的は、子供たちが最終的に大卒の資格を取って、どこかの会社に就職させるということに、なっているように思います。

子供が授業内容を理解していなくても、授業を進めたり、そのまま卒業させることが、その証でしょう。

 ※Alexas_FotosさんによるPixabayからの画像 です。

成績が悪い子が自信を失い、自分の人生は他の子よりも、劣ったものだと信じてしまうような、学校教育には意味がありません。

学校は子供の教養を高める所です。
子供の好奇心を引き出し、やる気と喜びを経験させる所です。

決して、どこかの会社に入るための、予備校ではありません。

大学へ進もうと進むまいと、そんな事は子供の自由です。

行きたくない子を、無理矢理大学へ行かせたり、大学へ行きたいのに、お金がなくて行けない子がいるというのは、全くの矛盾です。

どうすれば子供たちみんなが、快適な学校生活を送れるようになるのか。
子供たちにとっての学校とは、どうあるべきなのか。

そちらの方が9月入学の議論より、真剣に討議されるべきだと思います。