教えるということ その2
相手に何かを教えて理解してもらうためには、相手に興味を持ってもらう必要があります。
どんなに頭のいい者であっても、興味がないことに対しては、その頭を使おうとはしないでしょう。
ですから、本当はすごい才能がある子供がいても、教える側の教え方が下手であれば、その子はせっかくの才能を伸ばす機会を、得られないままになってしまいます。
日常の暮らしの中で、相手に何かを伝えようとするならば、まずそれがどんなもので、どれだけすごいことなのか、あるいはどれほど大変なことなのか、などを十分にアピールしながら話すでしょう。
そうすることで、相手の気持ちを強く引き寄せながら、情報を伝えるのです。
学校の授業や、職場での研修においても、これから伝えるべきものが、どれほど大切で役立つことなのか、どれほど面白く興味深いものなのかを、よくわかるようにしっかりと理解してもらう必要があります。
ところが、日常の場ではなく学習の場と規定されている所では、学習するのは当たり前だと思われているのか、これから教わることの大切さについて、説明されることはほとんどありません。
これでは、教えられる方が退屈するばかりですし、とても疲れてしまいます。
何のために勉強するのか。
受験戦争に勝つためだ。
これでは、受験が終わればおしまいです。
だから、せっかく大学に受かっても、勉強をしない若者が増えるのです。
勉強は日常生活にこそ、役立つものでなければなりません。
少しむずかしい学問的なことであっても、それを学問という特別なものとして捉えるのではなく、普段の暮らしに大きく関係していることだと理解すれば、その人の生き方そのものに、大きな影響を与えることになるでしょう。
学問とは本来そうあるべきものなのです。
決して、特別な学者だけのものではありません。
教えているのに、教えられる方がついて来られないからと言って、それを相手のせいにするのはよくありません。
まずは、自分が教えるべきことの大切さや面白さ、意義などを伝えられているのかを、よく検証してみる必要があります。
試験でも営業でも研究でも、ただ数字や結果を求めるばかりでは、仕方がありません。
さらに、成績が悪かった者に対して、懲罰的なレッテルを貼ったりするのは最低です。
ただ、どうしてもそれについて、相手が興味を抱いてくれないことは、あるでしょう。
それは自分を振り返ってみればわかることです。
自分が世の中のあらゆることに、興味があるかと考えると、そうではないとわかるはずです。
また、何か一つに興味が持てなかったとして、自分がだめな人間なのかと言うと、そうではないこともわかるでしょう。
あることに興味がなくても、他には興味が持てるものがあるからです。
つまり、学校の勉強や職場の仕事がうまくできなかったとしても、それはその人が、そこには興味を持てなかった、というだけのことなのです。
適材適所という言葉のように、その人が本当に興味を持てるものを、見つけてやることが大事なのです。
本当に面白いものと出会たならば、その人はそのことについて、さぼったり手を抜いたりすることはありません。
失敗しても、決してあきらめたりせずに、上を目指してがんばるでしょう。
それを理解せずに、結果を出せない者や反応が悪い者をつかまえて、叱りつけるというのは間違っています。
適材適所で言えば、その人こそが、人を指導する立場には、向いていないとういことになるでしょう。