自分の翼

人は誰もが価値観を持っています。
それは大人だけでなく、子供も同じです。

価値観はその人の考え方や行動に影響を与えます。
生き方の方向を決定づけていると言ってもいいでしょう。

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辞書によれば価値観とは、「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断」と説明されています。

趣味や嗜好品、インテリアやファッション、こういうものは価値観の実例として、一番わかりやすいですね。

人によって好みが分かれるのは、価値観の相違というものであり、それは誰しもが理解しているところでしょう。

ところが、自分で価値観だと認識しづらい価値観というものがあるのです。
認識できている価値観は変更ができますが、認識できなければ変更は困難です。

自覚していない病気のような、この価値観。
それは、みんなが常識だと考えているものです。

義務教育の後は高校へ進学し、その後は大学に入る。
大学を卒業したら、どこかに就職してお金を稼ぐ。
勉強はいい学校へ入るためにするもので、大人になれば関係ない。

お金がなければ幸せになれない。
お金を稼いだり、好きなことができるのは、特別な才能や、恵まれた環境がある者だけだ。
学歴がなければ、まともな暮らしができない。
体の小さな者は、体の大きな者と争っても勝てない。

親や先生、あるいは立派に見える大人は、こういうことが常識だと、子供たちに教えます。
世の中を知らない子供や、人生経験の浅い若い人は、これに反論ができません。

 ※rickey123さんによるPixabayからの画像 です。

彼らはそのまま、それを自分自身の価値観の中に、組み込んでしまいます。
でも、それが価値観の一つだとは理解していません。

支配者が誰かを支配するには、どうするか。
相手から自信と思考能力を奪い取り、こちらの言うことに従わなければ、生きて行けないと信じ込ませるのです。

常識と呼ばれる価値観は、そういった支配に利用されることが多いのです。

理不尽な仕事を命じて、結果が出ないと部下のせいにする上司。
生徒がイジメに悩んでいても、問題が表沙汰にならないよう、担任に強いる校長。
力の弱い者に、暴力を振るったり恥をかかせたりして、自分に従わせようとする乱暴者。

こういう者たちは、相手が逆らえない状態にあるのがわかっています。
逆らえないのは、すり込まれた価値観で、自分をがんじがらめにしているからです。

世間を騒がしたり、事件を起こすような人たち。
彼らの背景にも、こういう価値観のすり込みがあって、自暴自棄になっていることが多いと思います。

本来、価値観はその人自身にプラスになるものです。
本人を苦しませるのは、本当の価値観とは言えません。それは洗脳です。

私は常識の全てを、否定するつもりはありません。
でも、理由をきちんと説明できずに、ただ常識だという形で、逆らえない者に押しつけられた価値観は、洗脳と同じだと思います。

 ※Khusen RustamovさんによるPixabayからの画像です。

あなたが悩む時、生きている実感が湧かない時、あるいは将来に漠然とした不安を感じている時、それは恐らく、あなたの中にすり込まれた、常識という名の価値観が原因です。

何事もなく自由に生きているつもりであっても、自分の翼で羽ばたいているわけではないのです。
常識という列車に乗せられて、お決まりの線路の上を走っているだけに過ぎません。

もし、列車が脱線したら、あなたは身動きが取れなくなるでしょう。
あるいは、列車の窓から見える風景が、自分が思っているものとは、全然違うように見えるかも知れません。

それはその列車が、本来のあなたの価値観ではないからです。
列車に乗るということ自体が、知らない間にすりこまれた、他人の価値観なのです。

 ※かねのり三浦さんによるPixabayからの画像です。

自分の翼で飛んでみませんか。

この言葉の意味は、自分の本当の価値観に従って、生きてみませんかということです。

人生の主役はあなたです。
あなたは自由であり、人生の主導権は、常にあなたにあるのです。

新型コロナの二面性

 ※国立感染症研究所より

世界的に多大なる被害を振りまいた新型コロナウィルス。
日本も例外ではなく、これまでに多くの命が奪われ、人々の生活が困窮させられています。

みなさんご存知のように、コロナに感染すると家族からも隔離されてしまいます。

それだけでも辛いことなのに、病状が重症の肺炎に進行し、治療の甲斐なく死に至る状況になると、もっと悲惨です。
家族に手を握ってもらうことも、声をかけてもらうこともできないのです。

これはご本人と家族の双方にとって、本当に辛く悲しいことです。
明日は我が身かも知れませんが、コロナで亡くなった方や家族を失われた方々には、謹んでお悔やみを申し上げます。

ところで形は違いますが、コロナは地震や津波、洪水や火山爆発などと同じ自然災害です。

他の自然災害と異なるのは、地域限定ではなく、どこまでも広がって行くことです。
それは、まるで大きな湖の真ん中に、巨大な岩が投げ込まれた時に生じた波紋のようです。

地域限定の災害の場合、その地域の方たちは今後の対策に真剣に取り組むでしょう。
また、その方たちは、同じような被害に遭った人たちへの、深い同情と励ましの念を抱くようになると思います。

一方で、災害を免れた地域の人たちは、少し事情が違います。
被害に遭った方たちを、気の毒には思うでしょう。
でも、どこか他人事のように、感じてしまうと思うのです。

これは良い悪いではなく、仕方がないことなのです。
被害がなかった所から、ボランティアとして駆けつける人々は、本当に素晴らしいです。

ご自分たちでは、普通のことだと認識しておられるのでしょう。
でも、やはり特別に立派な心を、持たれているのだと思います。

 ※smokefishさんによるPixabayからの画像です。

他人の不幸を他人事のように感じてしまうのは、自然災害だけではありません。
軍事基地や過疎、貧困や高齢者問題などの問題もそうです。
事故や殺人などの悲しみについても、同じです

いずれも自分が、直接関わるものでなければ、他人事のように感じるのです。
そして、時とともに忘れて行くのです。

しかし、コロナウィルスは老若男女を問いません。
国や民族・宗教を超えて、広がり続けます。

人々は嫌でも、この境遇を共有することなります。
他人事ではないからです。

その結果として、自然に思いやる対象の輪が、広がって行きます。
大変さを共有することで、互いに連帯感が強まるのです。

家で外出を自粛しながら、苦しむ人たちを励ますメッセージを出す人たち。
学校へ行けない子供たちを、楽しませる工夫を凝らす人たち。
その姿は、見ている者を感動させてくれます。

また、苦境に陥った店の経営を立て直す努力や、違う業種同士の助け合いも心を打ちます。
支援を受けた人たちや子供の笑顔は、とても心に残ります。

感染のリスクの中、人々のために仕事を続ける人たちには、感謝の念が絶えません。
その感謝の気持ちを表明される方たちも、また素晴らしいと思います。

こういった感動は、自分が何かの行動を取ろうとする、きっかけとなります。
どうしようかと迷っている時に、背中を後押ししてくれる、大きな力となるのです。

私が思い切ってブログを始めた理由も、実はここにあるのです。


人の心と宇宙の心

 ※95CさんによるPixabayからの画像です。

人が生きている時、私たちはそこに心の存在を認めます。
では、その心とは何でしょうか。

心について考えたという経験が、誰しもあると思います。
だけど、いくら考えてもよくわからない。そんなことは考えるだけ時間の無駄だ。
そんな風に結論づけて、この疑問を暮らしから遠ざけている人が、世の中の大半ではないでしょうか。

でも、これは大切なことなんです。
心はその人自身です。あなたの心は、あなた自身なんですよ。
心を探究するということは、自分が何者なのか追求することに他なりません。

私たちの体は物質でできています。それは、この宇宙が物質エネルギーで構成されているからです。私たちは宇宙の一部なのです。

では、私たちの心は何でできているのでしょうか。

心が物質エネルギーでないことは、多くの学者が認めています。
と言うことは、世の中には物質エネルギーとは別のエネルギーが存在する。そういうことですよね。

人間に心がある以上、人間がその一部である宇宙にも、心を構成している要素、ここでは精神エネルギーとしておきましょうか。そういうエネルギーが満ちていると考えるのが自然でしょう。

宇宙は精神エネルギーに満ちているのです。
物質エネルギーが何らかの形態を持った時、そこに見合った形で精神エネルギーが心として宿ると、私は考えているのです。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像 です。

動物にも心があるというのは、多くの人が認めることでしょう。
でも、動物以外にも心は存在するのです。
昆虫の心、魚の心、植物の心、微生物の心、石や岩や山の心、水や川や海の心、大気の心、炎や光の心、地球や太陽や月の心、銀河や星々の心、そして宇宙の心。

そこに心を認めることができた時、人はその対象に対して敬意を払うようになります。
その心に親しみやつながりを感じたならば、その心を自分の家族や仲間、あるいはもっと深く親密で感動的な存在と捉えるようになるでしょう。
この時、あなたは自分が何者かという問いに、それまでとは違う答を持つようになるのです。
それは、あなたの生き方そのものを変える力になるでしょう。

タイトルについて

昨夜はきれいな満月が出ていました。夜中にベランダに出て、しばらくの間眺めていましたが、ほんとにきれいでした。
毎晩眺めるわけでもないのに、一度見だすと、いつまでも見ていたい気持ちになります。

この月明かりって、どのくらい明るいのか。みなさんは確かめたことがありますか。
私はたまに時代小説を読むのですが、小説の中では月明かりの下で、侍同士の決闘が行われることがあります。
そんな時には頭の中で、適当に月明かりをイメージするのですが、具体的にどのぐらい明るいのかは知りませんでした。

そんなある時、私は夜中のベランダが妙に明るいことに気がつきました。
ベランダは家の二階にあるのですが、家の周辺にはベランダよりも高い光源はありません。
不思議に思った私は、そっとベランダに出てみました。
そして、上を見上げると、そこにお月さまが浮かんでいたのです。

わたしは驚いて、思わずベランダに置いてある布団干しの影や、ベランダの壁の影を何度も確かめました。それで、それらの影の長さから確かめた光の方向に目をやると、そこには先ほど見たお月さまが、ニコニコしながら私を見下ろしていました。

これが私が月の明るさを体験で確認した最初の時でした。
それまで数十年生きて来て、それなりにいろんなことを知っていたつもりでした。
だけど、まだまだ何もわかっていなかったのだと思い知らされました。

ベランダを照らす月明かりは、驚くほど明るいです。
それに、押しつけがましくない優しく美しい光です。
初めてそれを知った時もそうですが、今でも月明かりを見るたびに感動を覚えます。

そんな月が空に浮かんでいると、周囲にある無数の星の姿が、月明かりに押されて少し見えづらくなります。
だけど、それらの星たちも月と同じように、地球に星明かりを投げかけながら、私たちをじっと見守ってくれているように、私は感じるのです。

このサイトのタイトルだけを見れば、きっと天文について紹介するブログのように思えるでしょう。
でも、ごめんなさい。そういう意味ではないのです。
いろんな星の写真を期待されていた方には申し訳ありません。

私は星にも生命があると考えているんです。
さらに言えば、私は宇宙全体が一つの生命だと理解しています。
私たちは自分では気づかないまま、大きな命に抱かれて生きているのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

生まれて初めてのブログ

これまで私は、ブログなんか全く関心がありませんでした。

欲しい情報を検索した時に、その情報を誰かのブログの中に見つけたということはありました。でも、そういう時以外で他人のブログを覗くということはありませんでした。

プロフィールにも書きましたように、私はスマホを持っていません。
家族はスマホを持っていますが、私だけ持っていないのです。理由はそれを使う必要性がないからです。

 Jan VašekさんによるPixabayからの画像 です。

電車やバスに乗ると、多くの人が鞄やポケットからスマホを取り出して、じっと画面を見つめながら、指で画面を操作し始めます。
昔であれば、新聞や文庫本などに目を通したり、ぼんやりと外の景色を眺めていたと思います。
だから、私は今でも乗り物に乗る時は、外の景色を眺めています。

どこかで時間を潰す必要がある時も、カフェでコーヒーを飲みながら雑誌を読むか、空に浮かぶ雲や、足下に咲く雑草の小さな花を眺めたりします。
あるいは、頭の中で勝手に始まった空想の物語を、映画やテレビでも観る気分で楽しむかですね。
そういうわけで、私に暇つぶしのためのスマホはいらないのです。

こんな感じでスマホを遠ざけている私ですが、ブログというものは、このスマホと同じ匂いがすると言いますか、昭和のものではないので、どうにも私には馴染みませんでした。

それでも還暦を迎えた今、私も世間に情報を発信してみようかと一念発起したのです。

でも、頭で考えるのは簡単。
実際にブログを書いてみようとしたら、これがとても大変な作業となりました。
ブログを書くには、それを載せるサイトを作らなければなりません。借り物は好きじゃないんです。
だけど、そのためのプログラムの扱いがさっぱりで、本を読んだり、インターネットで調べたりと悪戦苦闘を繰り返しております。

そんな感じで、このブログは見切り発車のように始まりました。
とにかく、作りながら慣れるしかありません。
慣れて来るまで、いろいろ問題が出て来るかも知れませんが、そこはどうかご容赦いただきたいと思います。