創造するということ その3

引き寄せの法則という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。

自分が意識を合わせていることが、現実に引き寄せられるというものです。

きっと悪いことが起こると考えていると、実際に悪いことが起こり、楽しいことだけ考えていると、楽しいことが起こるというようなものです。

お金の心配ばかりしていると、いつまで経っても、お金のやりくりに苦労します。

お金がないなら、ないなりに、今できることに夢中になる。
そんな人は、お金のやりくりに振り回されません。

自分なんか、誰にも相手にしてもらえないと考えていると、ずっと独りぼっちの状態が続きます。

自分に自信を持って、暮らしていれば、自然と人は集まって来ます。

他にもいろいろあるでしょうが、こんな風に、自分の意識状態が、体験する世界を引き寄せるというわけです。

そうは言っても、引き寄せの法則が、本当にあるのかどうか、半信半疑になるでしょう。

でも、私たちも含めて、全てがエネルギーだという視点で見て下さい。

私たちは意思のあるエネルギーで、自らのエネルギー状態を選択し、その状態を強めたり弱めたりできます。

エネルギーの状態を強めるためには、同じ状態のエネルギーを、周囲から集める必要があります。

体を維持したり、強くするためには、それなりの食事を、しっかりと摂らねばならないのと同じ理屈です。

エネルギーとしての自分を維持し、強めるために、同じエネルギーを補充しないといけません。

その結果、ポジティブの意識には、ポジティブなエネルギーが集まり、ネガティブな意識には、ネガティブなエネルギーが集まるのです。

全てをエネルギーとして考えると、引き寄せの法則は、理に適っていると言えるでしょう。

また、中途半端なエネルギー状態だと、ポジティブになったりネガティブになったりと、どっちつかずの状況になると思われます。

大概の人が、この中途半端状態ではないでしょうか。

こんな状況は嫌だ、こんな状況から逃げ出したい、と思っているうちは、嫌なことに気持ちが向いているので、結局は嫌なエネルギーが集まり続ける、ということになるでしょう。

嫌な状況から抜け出すのは、ネガティブなエネルギーをポジティブに変える必要があります。

つまり、そこから抜け出したいと思うのではなく、楽しいことをやりたいと考えるのです。

学校や職場が、自分には合わないと思って、やめる場合があると思います。

そんな時も、こんな所にいられるもんか、と飛び出すのではなく、自分はここじゃなくて、あっちで違うことをやりたい、という感じで出るのがいいでしょう。

それまでいた所から出て行くという点は、同じに見えるかもしれません。
しかし、両者はエネルギー的に、真逆の状態になっているのです。

スタート時点は同じでも、進む方向が真逆になるわけですね。

こんな感じで、次の世界がその人のエネルギーで引き寄せられるのです。

それは、世界を創造するのと、同じ意味です。

引き寄せの法則も、結局は自分で世界を創造している、ということを説明しているのですね。

創造するということ その2

可能性と言えば、私たちの暮らしの中でも、いろんな場面で使われる言葉です。

昇進の可能性、勝負に勝つ可能性、結婚できる可能性、結果を出せる可能性。

何にしても、やってみないとわからない事ばかりです。

でも、可能性が完全に0でない限り、求める場面は無限の世界の、どこかに存在しています。

その場面に、上手く出会えるかどうかだけのことです。

ところで、私たちは何気なく生きていて、何気なく時の流れに身を任せています。

次の瞬間に何が起こるのかなど、わかりませんし、考えようともしていません。

それでも次の瞬間は来ますし、その連続で人生は成り立っているわけです。

でも、次の瞬間というものも、数ある可能性の中から、自動的に選ばれているのだとすれば、どうでしょうか。

私たちは呼吸をしていますが、意識的に大きく呼吸をしたり、数多く呼吸をしたりすることができます。

でも、何も考えていなくても、呼吸は自律神経によって調節されていますので、勝手に息が止まることはありません。

眠っている時でも、呼吸は勝手に起こっています。

それと同じように、次の瞬間というものは、自律的に選択されているけれど、意識的に選ぶこともできるのかもしれません。

あるいは、意識しているつもりはないのに、気がつかないうちに、自分の意識が反映された瞬間が、選択されていることも、考えられると思います。

たとえば、楽しいことをしようと考えている人は、常に楽しい瞬間を狙っているわけです。

何も考えていなかった場合と比べると、明らかに楽しくなるような、瞬間瞬間を選んでいるでしょう。

また、毎日がつまらないと考えている人は、何に対しても興味を持とうとしません。

もし選んでいれば、そこに楽しさがあるかもしれない瞬間を見逃して、何もないであろう瞬間を、選択してしまいます。

似たような者同士が集まってしまうのも、それぞれが似たような瞬間を選び続けるために、引き寄せ合う形になるのかもしれません。

私たちは、創造するという言葉に対して、何か大事(おおごと)のようなイメージを、持ってしまいます。

でも、創造するというのは、いろんな可能性の中から、何かを選び出し、選び出したもので、自分や世界を生み出すことなのです。

見た目に大事かどうかは、関係ありません。

世界に存在する全てのものが、自分も含めて、創造されているのです。

私たちは、自分自身をも創造していると言えるでしょう。

自分や自分の世界は、他の誰が創ったのでもなく、自分自身で創っているのです。

誰かに文句を言ったところで、どうしようもありません。

この瞬間をどう生きるのか、次にどんな瞬間を導くのか、選択権も決定権も、握っているのは自分自身です。

他の人と同じことをするのか、自分独自の道を進むのか、どんな世界を創造するのか、全ては自分の裁量なのです。

創造するということ その1

私たちは人間で、他の動物とは別の存在です。

また植物は動物とは、異なる存在です。

この世界には、顕微鏡がなければ見えないような、微生物のような存在もいます。

そんな様々な存在は全て、地球を構成している、物質でできています。

では、地球はどうかと言いますと、地球は元は星屑でした。

他の星々も、みんな星屑でした。

ですから、私たちもみんな、元は星屑だったと言えるのです。

実際にビッグバンと呼ばれる現象が、あったのかは知りません。

でも、宇宙の全ては、元々一つのエネルギーだったと思います。

一つのエネルギーが、様々な形を生み出し、いろんな存在が、生み出されたのでしょう。

その可能性は無限大です。

たとえば、地球に月は一つだけありますが、月が二つという可能性も、あったかもしれません。

その確率が1兆分の1だとすれば、私たちには0に等しいものに思えるでしょう。

つまり、可能性は0ということです。

しかし、この宇宙と同じような世界が、1兆個存在すれば、そのうちの一つの世界では、地球に月が二つあるわけです。

人間にとっては、0に見えるものであっても、その可能性が完全に0でない限り、無限の世界の中のどこかで、それは生じているのだと、考えることができます。

人間が想像し得るものはもちろん、まだ思いつきもしていないことでも、可能性のあるものは、全て無限の世界のどこかに、存在しているのです。

そう考えると、私たちが何かを発見したり、発明したりするというのは、既に存在しているものに、遭遇したと言えます。

つまり、何かを創る、あるいは生み出すということは、無から有にすることではなく、すでに存在しているものを、自分たちの世界へ導くということなのです。

矛盾が導いてくれること その3

さて、矛盾という言葉の由来になった、どんな盾でも貫く矛と、どんな矛でも防ぐ盾の話ですが、みなさんは、やはりこれを矛盾と考えるのでしょうか。

客を騙して、ろくでもない品を売ろうとする者の、売り口上ですから、矛盾も何も、ただのでまかせですよね。

でも、本当にこのような矛や盾が、実在するのかどうか、考えてみると面白いですよ。

ここでいう矛や盾というものは、一種の象徴ととらえます。

つまり、矛は攻撃を意味し、盾は守備を意味します。

どんな盾でも貫く矛というのは、どんな守備でも打ち砕く攻撃と、言い換えることができます。

また、どんな矛でも防ぐ盾というのは、どんな攻撃でも跳ね返す守備だと、言うことができます。

これらが矛盾だと思うのは、攻撃と守備が別々のものだと、考えているからですね。

実は両者が同じものだとすれば、それが攻撃に見えるのか、守備に見えるのかは、見る者の主観によるわけです。

たとえば、ファンタジー映画などでは、よく愛の力というものが、取り上げられますよね。

悪の帝王などが、暴力的に攻撃して来るのに対し、愛の力で団結し、これを打ち負かすというものです。

でも、この場合の打ち負かし方は、やはり暴力によるものです。

愛そのものは、敵の力に耐え抜くための力、すなわち守備の力として、受け止められています。

ところが、暴力で相手を支配しようとする者にとって、何が怖いかと言うと、愛なのです。

仲間たちの間に愛が広がると、誰も従わなくなり、軍団は崩壊してしまうからです。

悪の帝王にとって、これはどんな兵器よりも、恐ろしい攻撃でしょう。

愛による勝利というものは、こういうものであり、相手と同じ武力を用いて、相手を制圧することではありません。

しかし、愛そのものは、攻撃の力でも守備の力でもありません。

愛は道具でもなければ、武器でもないのです。

愛は、愛です。

でも、愛こそが最強であり、愛に抗うことを試みても、勝利を収める者はいません。

何故ならば、愛というものは、この世界のエネルギーそのものであり、エネルギーとしての私たちの本質だからです。

つまり、愛を感じるというのは、自分自身の本来の姿を、見せられたのと同じなのです。

自分自身に抗えるものなど、いないでしょう。

だから、武器でもない愛は、最強の矛であると同時に、最強の盾となるのです。

矛盾の話って、面白いでしょ?

矛盾が導いてくれること その2

人間には目が二つあります。

人間以外でも、動物の多くは目を二つ持っています。

どちらか片方の目だけで、何かを見ると、テレビの画面を見ているように、距離感がわかりにくくなります。

しかし、両方の目で見ると、世界は立体的に見え、私たちはそこに、空間を認識することができます。

これは今流行のバーチャル世界でも、できることです。

両方の目に異なる情報を伝えることで、あたかもそこに空間があるように、認識させるのです。

これはある意味、矛盾を解消することで、産み出された感覚と言えるでしょう。

何が矛盾なのかと言うと、右目と左目の位置が異なるために、それぞれの目がとらえる視覚情報は、微妙に違っているわけです。

双方の目が、自分が映している世界が、本物だと言い争ったとしたら、頭の中は混乱するでしょう。

しかし、頭は双方の言い分を認め、どちらも正しいと理解した上で、二つの視覚情報に基づいて、立体的な空間というものを、認識しているのです。

視覚以外の感覚についても、同じことが言えます。

嗅覚、味覚、聴覚、触覚などの感覚は、これが自分の感じた世界だと、主張しています。

それぞれの感覚の言い分だけを聞いたとすれば、世界がどんなものかは、さっぱりわからなくなるでしょう。

しかし頭の中では、それらを全て正しいと認め、うまく統合して、私たちの世界観を産み出しているのです。

面白いと思いませんか?

あまりにも当たり前過ぎる、私たちの世界観は、様々な感覚情報をまとめることで、創られているのです。

もし、ここに未知の感覚が加わったとすれば、そこには新たな世界観が創られるわけです。

そんな感覚など、あるものかと決めつけて否定することは、ナンセンスです。

動物や植物、あるいは微生物たちには、人間が理解できない感覚があるでしょう。

彼らには彼らなりの世界観があり、人間とは別の世界を感じて生きているのです。

幽霊を見たり、異世界の存在を感じたり、閃きのような形で新しい概念を受け取れる人たちは、通常の人とは異なる感覚を、持ち合わせていると思われます。

と言うか、恐らくそれは、誰にでもある感覚でしょう。

ただ、ほとんどの人が、その感覚を無視しているのです。

たとえば、目の前の空間に、何もないと思う人と、そこには空気が存在していると、考える人との違いです。

何もないと思う人も、風を感じていますし、呼吸もしています。
それでも空気が当たり前過ぎて、無視してしまうのです。

それと同じで、私たちも本当は感じているはずの感覚を、日常生活に必要ないと受け止めて、無視しているわけです。

でも、目に見える世界だけでなく、もっと別の大きな世界の存在を、認識しようとしている人たちは、この感覚の存在に気がつくのですね。

五感と同じで、感覚は鍛えれば強くなりますし、鍛えなければ衰えてしまいます。

霊能者や超能力者と呼ばれるような人たちは、感覚が研ぎ澄まされているのでしょう。

だからと言って、彼らが特別なわけではありません。

私たちと同じ人間です。

彼らを特別視するということは、自分自身の感覚を否定しているのと、同じ意味になります。

彼らの存在が意味するところは、私たちにも同じことができるのだ、ということです。

彼らはある意味、指導者であり教師です。

大切な事は、彼らの能力を認め、受け入れることで、新たな世界観を持ち、自分自身の可能性を切り開くことなのです。

矛盾が導いてくれること その1

辻褄が合わないことを、矛盾と言います。

有名な矛盾の説明に、どんな盾(たて)も貫く矛(ほこ)と、どんな矛も防ぐ盾があるとして、その矛でその盾を突くと、どうなるのかというものがあります。

これは武具を売る商人が、適当なことを言って、客を騙そうとしていたところが、客から矛盾を追及されて、返答ができなくなったという逸話です。

このため、矛盾という言葉は、矛と盾を合わせたものになっています。

警察官や裁判官が犯罪を犯したり、子供を守る立場の親や先生が、子供を虐待したり、国民のために働くと宣言したはずの政治家が、私腹を肥やしていたりと、世の中は矛盾だらけです。

個人的には、愛しいはずの人に暴言を吐いたり、乱暴するという人もいるでしょう。

これも矛盾です。

人類なんか滅びればいいと考える者が、家族を守ろうとするのも矛盾です。

でも結局、矛盾というものは、人間の思考や行動においてのみ、生じるものです。

それは人の心が、枠にはめられるものではなく、様々な要素が混在しているということを、示しているのです。

これはこうあるべきだなどという理屈は、通用しません。

人の心には、強い部分と弱い部分があり、そのことを知っておかないと、社会における矛盾を理解することは、できないでしょう。


また、自然界の現象や出来事には、一見矛盾するように見えるものが、あったとしても、それは人間の理解能力が、低いというだけに過ぎません。

たとえば、リンゴは木から落ちたのに、月は空に浮かんだまま落ちて来ない、というのは、今の人には当たり前のことですよね。

でも、昔の人には不思議なことだったでしょう。

もちろん、それを当たり前と思わず、気にする人にとってはですが。

その矛盾から、万有引力の法則に気づいたのが、ニュートンです。

この法則により、リンゴは落ちるのに、月は落ちないという矛盾は、解消されたのです。

かつて、この世界は平面だと信じられていました。

しかし、多くの賢人たちは、地球は丸いと唱えていました。

そして大航海時代に、世界を一周した船が現れたことで、地球球体説が直接的に証明されました。

世界が平面だと信じている者にとっては、遠くへ向かったはずの船が、反対側から戻って来るのは、大いなる矛盾だったでしょう。

しかし、地球は丸いという発想を受け入れることで、この矛盾は解消されたのです。

また、光や電子は、とても小さな粒だと、昔は考えられていました。

ところが実験によって、これらが波の性質を持っていることが、わかったのです。

私たちにとって、波というものは、何かが揺れたり、振動する様子を言います。

そこには波を起こす実体が、存在します。

たとえば、水面の波を起こすのは水であり、水分子です。

声や音は空気中を伝わる、音波という波であり、これは空気の分子の振動が、伝わっているわけです。

ですから、真空状態では、声や音は生じません。

地震は地面の揺れであり、地殻を構成している石や岩などが、振動を伝えているのです。

このように、一般的な感覚では、波は現象であって、波を生じさせる何かの存在が必要です。

しかし、光や電子にはその何かがありません。

どちらも波なのです。

しかし、小さな粒子のような性質も持っています。

これは矛盾であり、謎です。

でも、これが矛盾のように思えるのは、私たちの思考に、物質とは形のあるものだという概念が、しっかり根付いているからなのです。

それ以上は分解することができないと、言われていた原子が、今では多くの素粒子という、微少なエネルギーの集まりであることが、知られています。

素粒子には形はありません。

ですから、エネルギーとしか表現ができません。

そして、これらも波の性質を持っています。

つまり、光や電子もこれと同じことで、波か粒子かではなく、エネルギーなのですね。

波や粒子という概念は、日常の暮らしの中から生まれたものです。

それは物事の本質ではなく、人間が感知し得た、本質の一つの側面に過ぎません。

たとえば、水は置かれた条件によって、固体にもなれば、液体にもなり、気体にもなります。

どれか一つの状態しか知らない人にとっては、これらが全て同じ水だとは、理解できません。

水とは固体なのか、液体なのか、気体なのか、という議論が巻き起こるでしょう。

でも、それらは全て、水というものの一つの側面に過ぎません。

このように、一見矛盾に思えるようなことは、新たな理解へつながり、それによって世界観も変わって来るのです。

何かが矛盾に見えた時、どちらか一方を、そんなの有り得ないと、切って捨てるのではなく、双方が成り立つような受け止め方を、模索するべきでしょう。

地球へのやさしさ

地球にやさしい
環境にやさしい

今、流行の言葉ですね。

この言葉のきっかけになったのは、地球温暖化だと思いますが、最近よく言われるのが、ナノプラスチックという、プラスチック分子の弊害です。

 ※ds_30さんによるPixabayからの画像です。

海に溶け込んでいるナノプラスチックは、オキアミなどの小さな生き物に、取り込まれます。

そのあと、オキアミなどを食べる生き物に取り込まれ、その生き物を食べる、もっと大きな生き物に取り込まれます。

食物連鎖の上位に行くほど、ナノプラスチックは濃縮されて、多量に取り込まれるということです。

天然マグロは食物連鎖の上位にいますので、ナノプラスチックの含有量が、とても多いそうです。

そして、それを今度は人間が食べるのですから、知らんぷりをして放置していたプラスチックが、巡り巡って人間の元へ戻って来るというわけです。

だから大変ということなのでしょうけど、ちょっと違うような気がします。

温暖化にしてもそうですが、このままでは人類はどうなるのか、ということで対策を訴えます。

南極の氷が溶けて、海水面が上昇すると、海岸近くにある大都市は、ほとんどが水没すると言われると、これは何とかしないと、と考えるのでしょうね。

 ※Juanlu FajardoさんによるPixabayからの画像 です。

環境のことに、全然見向きもしない人の目や耳を、この問題に向けさせるためには、こういう訴え方をしないと、仕方がないのでしょう。

だから、地球にやさしい、環境にやさしい取り組みをしようとなるのでしょうが、やはりちょっと違和感を覚えてしまいます。

仕方がないのはわかっていますが、本当はもっと突っ込んだ見方が、できるようになってくれればと願う次第です。

何が言いたいのかと言いますと、自分たちに悪影響があるから、やめましょうという考え方は、正しい考え方ではないということです。

また、地球に優しい、環境にやさしい、エコです、と言えば、その企業は優良企業ということになり、企業の宣伝になるのも、何か間違っています。

日本政府は脱炭素化を打ち出しましたが、そのために原子力発電所を復活させろという声が、出て来ているようです。

温暖化は地球に優しくないけれど、放射能汚染は地球に優しいとでも、言いたいのでしょうか。

結局は、自分たちの金儲けのことしか、考えていないのです。

温暖化にしても、プラスチック問題にしても、根っこは同じです。

金儲けになることには手を出すけれど、ならなければ知らんぷりなのです。

 ※Anastasia GeppさんによるPixabayからの画像です。

やさしくするという場合、その対象となるのは、生命のあるものであり、やさしくされることに反応できるものというのが、前提になると思います。

ですから、通常は人間に対して使う言葉です。

人間以外で使うとすれば、動植物まででしょう。

生き物としては認められていない、石や材木、山や海や川、空に浮かぶ雲や、燃えさかる炎などには、使いません。

しかし、地球や環境にやさしい、と言うのです。

この言葉を本気で使うのであれば、地球や、環境を構成している全ての存在を、生命のある存在と認めなくてはなりません。

人間とは全く異なる形態の存在だけれども、それでも生命があり、何かを感じているのだと、理解する必要があるのです。

また、地球や環境にやさしくするという言葉を使う時、地球や環境を、人間とは別物のように見ています。

これは宇宙を研究し、宇宙を語る学者が、自分自身が宇宙の一部であることを、忘れているのと同じです。

実際は人間も地球の一部であり、環境の一部なのです。

つまり、地球にやさしい、環境にやさしい、というのは、自分たち自身にやさしい、という意味になるのです。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

下らないことで争ったり、国同士で戦争をしたり、こんなことをしていて、地球にやさしい、環境にやさしい、もないでしょう。

また、自分のことを無価値だと決め込む人も、地球にやさしいという言葉は使えません。

地球にやさしくする、地球を大切にするというのは、自分にやさしくする、自分を大切にするとうことと、同じ意味なのです。

全ては一つなのです。

別のものに見えたとしても、みんな根っこは同じなのです。

自分に影響があるかどうかなど考えているうちは、やさしさは偽物です。

自分と他の存在が一つであると感じている場合、その存在のために行動することで、自分がどうなるのかなど考えません。

自分の大切な人のために、我が身を顧みずに、行動するのと同じです。

お金が儲かるかどうかを考えるなど、愚の骨頂でしょう。

それに、温暖化や環境汚染によって、人間や生き物が暮らせない状態になったとしても、地球はそんなことで潰れるほど、やわではありません。

人間には想像もつかないような年月をかけて、地球は自分自身を浄化するでしょう。

 ※WikiImagesさんによるPixabayからの画像です。

人間は地球や自然の管理者を気取っていますが、とんでもない話です。

こちらが地球や自然のお世話になり、生かしてもらっているのです。

子供が親に、好き勝手をさせてもらっているのと同じです。

その子供が他の所で、親の世話は大変だと、偉そうに喋っているようなものです。

地球に人間の勝手な世話はいりません。

そんなことではなく、自分が地球の一部であり、自分と他の存在たちは、一つなのだと理解してもらうことを、地球は望んでいるに違いありません。

そうなれば、地球にやさしくなどと、無理に叫ばなくても、誰も地球を汚すような真似は、しないはずです。

虹が教えてくれること その5

 ※torsmedbergさんによるPixabayからの画像です。

虹を見ればわかるように、光には七色の光が混在しています。

しかし、プリズムなどで分散されなければ、七色の光が混ざっているとはわかりません。

全部混ざった状態の、白い光があるだけだと思います。

それと同じように、世界には様々な波長が混在していると、考えることができます。

実際、世界のある所では、戦争や飢餓などで苦しむ人がいますが、別の所では、みんなが楽しそうに暮らしています。

同じ地域の中でも、いろんな不安を抱えて生きている人もいれば、何も心配せずに暮らしている人もいるのです。

そして、この状況がこれからもずっと続くと、誰もが考えていることでしょう。

しかし、光がプリズムに当たって、七色の光に分散するように、私たちの世界も、私たちの知らない所で、プリズムのような環境に置かれることが、あるかもしれません。

そうなると、どうなると思いますか。

混在していた七色の光が、それぞれの波長ごとに、分散するのと同じように、私たちの世界も、その波長ごとに分散して行くのです。

それぞれがパラレルワールドになるわけですね。

 ※OpenClipart-VectorsさんによるPixabayからの画像です。

虹をたとえにしたので、七つに分かれるようなイメージになりましたが、実際はいくつに分かれるかは、わかりません。

いくつに分かれるにしても、自分にとっては、常に世界は連続性を持った、一つの世界として認識するでしょう。

そうであれば、分離した世界のことなど、さっぱりわかりません。

ただ、もしかしたら分離したんじゃないだろうか、と考えたくなることが、あるかもしれませんね。

たとえば、誰のことも信じられず、周りはみんな敵ばかりで、力こそが生きるために必要なものだと、信じ込んでいる人が、いるとしましょう。

一方で、どんな人で合っても、必ず心は通じるものだと疑わず、誰に対しても、愛に満ちた態度で接する人が、いるとします。

この二人は水と油のような存在です。

 ※A_Different_PerspectiveさんによるPixabayからの画像です。

現在は水と油が混在している状態ですが、世界が波長ごとに分離すると、水と油の人たちは、同じ時空間に存在できなくなるでしょう。

存在できるのは、それぞれの波長に合った時空間だけです。

誰も信じられない人を、Aさんとしましょう。

誰のことも信じている人を、Bさんとします。

世界が分離をしても、AさんもBさんも、そのことを認識することはできません。

でも、お互いに存在する世界は、離れて行くわけです。

これをAさんの視点で見てみますと、Bさんがいなくなってしまうわけです。

幽霊のように、スッと消えてなくなるのであれば、わかりやすいですね。

でも、そうではなく、Aさんが知っているBさんは、病気や事故で亡くなってしまうのかもしれません。

一方、Bさんの視点で見ても、同じ状況になります。

Aさんがいなくなってしまうのですが、スッと消えるのか、病気や事故で亡くなるかの、どちらかでしょう。

スッと消える場合、目の前で消えない限り、その人は行方不明になったと、見られるはずです。

もちろん、どこを探しても見つかりません。

病気や事故で亡くなる場合、その人はこちらの世界から、いなくなるわけですが、もう一方の世界では存在していることになります。

Aさんの世界で、Bさんが亡くなっていなくなったとします。

でも、Bさんの世界では、Bさんは生きています。
亡くなるのは、Aさんの方なのです。

こうなると、どっちが本物のAさん、あるいはBさんなのかと、なるでしょう。

スッと消える方が、わかりやすいはずです。

もし波長の合わない人が、亡くなる形でいなくなるとした場合、問題はその人の自我は、どうなっているのかということでしょう。

私たちは、自分というものを、唯一の存在として認識しています。

しかし、その概念が間違っているのかもしれません。

 ※Saurabh GさんによるPixabayからの画像です。

自分とは何なのか。

潜在意識や無意識という言葉があるように、私たちの意識は、表面的には認識しづらい要素を、秘めています。

その要素こそが、自分というものの核であるわけですが、そこの部分については、一般的には理解も認識もされていないと、言えるでしょう。

でも、本当の自分を認識できたなら、先に述べたような、分離した世界の矛盾も、理解できるかもしれません。

もし世界が分離したら、どうなるのか。

そんなの、あるわけないだろ、と決めつけないで、面白いから考えてみて下さい。

それは自分を探求することでも、あるわけですから。

虹が教えてくれること その4

自分が体験しているのは、自分だけの世界だと言っても、どこかからミサイルが飛んで来たり、大災害に巻き込まれたら、どうするのか。

そんな声も聞こえて来そうです。

でも、そこで大事なのが、この世界をどう見るか、ということなのです。

この世界が全てであり、人間は死んだらおしまい、と考えていると、悪意のある誰かの行いや、予期しない自然災害は、とても脅威でしょう。

 ※Hans BraxmeierさんによるPixabayからの画像です。

しかし、人間は何度も生まれ変わり、死ぬことがわかった上で、今の人生を経験しているのだと理解すれば、死を迎える場面にでくわしても、うろたえることはありません。

ただ、ここがむずかしいところで、死んだあとも意識は残り、次の世界へ移行するのだと、信じている人は、死を迎える時に、パニックになるかもしれません。

と言うのは、信じるということは、疑うということと、表裏一体だからです。

要するに、わからないという意味であり、信じるという言葉の裏には、不安が隠されているのです。

これに対して、知っているという人は、全く焦ることはありません。

知っているのですから、焦る理由がないのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

どんなに書物を読んだり、誰かの話を聞いて、わかったつもりになっていても、自分が知っているのでなければ、どうしても不安が付きまといます。

じゃあ、どうすれば知ることができるのか、となりますよね。

私のお勧めは、ヘミシンクというものです。

左右の耳から、少しだけ波長の異なる音を聴かせることで、計画的に脳波を操作するのです。

これによって、簡単に深い瞑想状態になり、肉体と意識が別であるという体験ができるのです。

そんな体験ができれば、死んでおしまいではないと、信じるのではなく、知ることになるでしょう。

ヘミシンクはアメリカで開発された技術ですが、日本では坂本政道氏が、普及させています。

興味がある方は、調べてみて下さい。

 ※toraemonさんによる写真ACからの画像です。

ところで、類は友を呼ぶ、という諺がありますよね。

これは、気の合う者や似た者は、自然に寄り集まって仲間を作るもの、という意味です。

波長の合う者同士は、互いに引き寄せ合うってことですね。

これは単なる理屈ではなく、現実にそうなるのです。

ですから、諺として表現されているのですね。

これは人間同士の関係ですが、エネルギー的に考えますと、寄り集まる対象は、人間だけとは限らなくなります。

つまり、状況や環境、出来事なども、引き寄せられるということです。

マイナスのエネルギーに満ちている人には、マイナスの事が引き寄せられるのです。

これも諺にありますが、泣きっ面に蜂、と言いますよね。

どうして自分には、嫌なことばかり続くのだろうと、考える人もいるでしょう。

それは自分が嫌なことを、引き寄せているわけです。

自分のエネルギー状態を変えれば、引き寄せられるエネルギーパターンも変わります。

しかし、これが自分なんだと、自分の考え方や価値観を、頑として変えずにいると、いつまでも同じようなことが、続くのです。

考え方や価値観を変えることで、物事の受け止め方が変わります。

そうしたところで、自分自身が変わるわけではありません。

ある波長の自分から、違う波長の自分になるだけです。

価値観を変えるというのは、季節によって服を着替えるようなものです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ミサイルや災害で命を落とすことが、生まれて来る前に、自分で決めていたのであれば、どんな価値観を持っていようと、そうなるでしょう。

そういう死に方をすることで、何かを得ようと計画するのかもしれませんし、自分の死をとおして、家族や世間の人に対して、何等かの影響を与えるつもりなのかもしれません。

それは他人からはわからないことですが、何か深い意味があるのだと思います。

理不尽な亡くなり方をされる人は、現実にいらっしゃいますが、恐らく、何か深い意図があるのでしょう。

でも、そんな亡くなり方を予定していないのであれば、基本的には、時が来れば違う形で、世を去ることになると思います。

いずれにしても、この世を離れる時は、必ず来るのです。

ですから、この人生で死ぬということよりも、この人生で何を学ぶのか、ということが重要なのです。

自ら命を絶たない限り、自分が予定している時が来るまで、この世を去ることはありません。

しかし、自ら命を絶つというのは、いわゆる自殺とは限りません。

そんな事をすれば死ぬとわかっているのに、それをしてしまう自殺行為と呼ばれることが、ありますよね。

それで命を落とすのも、自ら命を絶つのと同じです。

それは言い換えれば、心の声を少しも聞こうとしていない、ということです。

 ※miyukiiiさんによるイラストACからの画像です。

心の声に耳を傾けるというのは、生まれる前に予定していた、生き方をするということです。

それは予定どおりの生き方をするわけですから、この世を去るべき時が来るまで、死ぬことはありません。

つまり、自分は守られているのですから、余計な心配はせず、心の赴くままに生きればいいのです。

思いやりと感謝の気持ちを持ちながら、より深い知性を持つよう心掛けていれば、素晴らしい人生を送れると思います。

ただ、その人生を他人の目から見た場合、大変な人生に見えるかもしれません。

それでも、あなた自身は自分の人生に、十分満足することができるのです。

虹が教えてくれること その2

世界の波長と自分の波長は同じです。

でも、ここで言う世界とは、一人一人が体験している世界のことです。

一見すると、誰もが同じ世界にいて、同じ経験をしているように思えます。

でも、私たちが体験できるのは、自分の体を通して得られる知覚情報と、それに応じた感情や価値観で構築された世界です。

隣にいる人が体験している世界と、あなたが体験している世界は、同じ世界のように見えますが、実際は違うのです。

あなたが赤いと思っている色を、隣の人が赤だと認識しているとは、限りません。

隣の人に幽霊が見えたとしても、あなたには見えないかもしれないのです。

それは、あなたと隣の人が体験している世界が、異なるからなのです。

 ※bBearさんによる写真ACからの画像です。

隣の人と運動会で、二人三脚で走ったとしましょう。

みんなが見ている前で、あなたたちは派手に転び、観客たちは大笑いをします。

この時に、あなたは大恥をかいたと思って、怒りと悲しみを感じたとしましょう。

ところが、隣の人は転んでしまったことが面白くて、大笑いをしています。

同じ体験をしたはずなのに、受け止め方が異なるため、このような違いが起こるのです。

それは二人が体験している世界が、別々だということなのです。

物理的な現象は同じなのに、片方は怒りの世界を経験し、もう片方は喜びの世界を経験する。

その違いは、感情です。

つまり、感情の差が、二つの世界を大きく隔てていると、言えるのです。

と言うことは、何を感じたのか、どう感じたのかということが、体験している世界の波長を決めていると、言うことができるでしょう。

 ※bBearさんによる写真ACからの画像です。

世界の波長と自分の波長が同じだと言うのは、こういうことなのです。

あなたが怒りを感じていると、世界は怒りに満ちたものになります。

あなたが喜びを感じていると、世界は喜びに満ちたものになります。

世界の波長と自分の波長が同じだと言っても、それは未来永劫変わることのない、固定的なものではありません。

喜怒哀楽というように、人間の感情はころころと変わります。

それに応じて、世界もころころと変わるのです。

ところで、あなたが世の中に対して、常に受け身で、世間の目を気にしたり、世の中の流れに乗ることばかり考えているとします。

この場合、あなたと世界の波長を決める主導権は、あなた自身にはありません。

あなたは自分の波長の決定を、他の人たちに委ねているのです。

世の中で楽しいことがあれば、あなたも楽しい気分になります。

嫌なことがあれば、嫌な気持ちになります。

世の中がずっと楽しければいいのですが、ずっと不安に満ちたままだと、あなたもずっと不安を抱えたままになります。

主導権は自分にありませんから、自分ではその不安を、どうすることもできません。

でも、自分の波長を決める権利を、自分自身が持つと、不安を消すことができます。

他の人が不安におびえていても、あなただけは、のんびり構えていることができるのです。

お金があるかないかは、関係ありません。

お金を持っていても、不安な人は不安なのです。