自分とは

自分とは何かと考える時、自分と認識しているものと、そうでないものを区別するでしょう。

言い換えれば、その区別があるからこそ、自分というものが認識できるわけです。

具体的に言えば、人は体を自分と見なし、体の外を自分以外と考えています。

体の皮膚の表面を境にして、自分と自分以外を、区別しているのですね。

wksさんによるイラストACからの画像です。

では、どうして体を自分と考えるのかと言いますと、体は思いどおりに動きます。

また、体の感覚によって、私たちは世界を感知しています。

私たちは自分を、体と一体化させて理解していますので、自分と言うと、体を基準にして考えるのです。

しかし、正確に言えば、自分=体 ではありません。

自分とは、心のことです。

その心においても、体を基準にして作られた概念が、多く存在しています。

自分は、日本の愛媛県に暮らす風野陽二だ、という自分の規定は、自分の体がどこに所属しているのかを、述べているに過ぎません。

俺は男だ、男とはこうあるべきだ、という考え方も、自分の体が男だから、そう考えるようになっただけのことです。

人間とは何ぞやという考え自体も、自分が人間だから、そう考えるのであって、別の存在であれば、そんな考えは無意味でしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

本当の自分というものは、産まれる前から存在しており、この世界で死んだあとにも、存在し続けるものです。

人間としての自分という概念は、人間に生まれたからあるだけで、別の世界の別の存在に生まれれば、別の自我を持つでしょう。

でも、産まれるまでは、自分はどこにも存在していなかったとか、死んだら自分という存在は、消えてなくなるのだと信じていると、どうしても体を基準にした自分こそが、本当の自分だと受け止めてしまいます。

それで何も問題が起こらないのであれば、別にそれでも構わないのですが、実際には自分に自信がないとか、自分には価値がないとか、死ぬのが怖いとか、様々な問題が起こっています。

それらは全て、自分というものが、よくわからないまま、他の人と同じような、曖昧な概念で生きているからです。

本当の自分とは、人間を超越した存在です。

人間というのは、一つの存在形式であり、人間体験から何かを学ぶための、一手段です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちが日常使っている、人間としての思考も、人間経験の一つです。

意識とは思考するものだと理解していると、思考している自分が、本当の自分だと考えてしまうでしょう。

でも、人間の思考は紐のようなもので、細長く順序立てられた形を、取っています。

厚みはなく、紐全部を確かめないと、何を考えているのかがわかりません。

本当の自分が扱っている思考は、そのような薄っぺらいものではなく、細胞の遺伝子的なものでしょう。

つまり、一つの塊の中に、様々な種類の情報が練り込まれているようなものです。

テレパシーと呼ばれているような、意思疎通の仕方が、本来の私たちの思考形式だと思います。

言葉のように、長々と時間をかける思考ではなく、一瞬にして全てを理解できるような、そんな思考です。

私たちはそれを、閃きとして体験します。

情報源は無意識です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

閃きは、長々と順序立てて説明されたことを、なるほどそうかと、理解するものではありません。

一瞬にして、全てがわかるような感じです。

この閃きのような思考形態こそが、本来の思考であり、そういう思考をする自分こそが、本当の自分と言えるのです。

今の自分に自信がない人、悩んでいる人は、あまり深刻に考えないことです。

どの人も、本当の自分というものは、共通して光輝いています。

そこに優劣は存在しません。

何故なら、元はみんな一つの存在だからです。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

でもこの世界では、その考え方が受け入れられていません。

全ては細かく分類され、分離され、比較され、優劣をつけられます。

人間は最高の存在だと信じたいがために、他の存在を見下します。

同じように、自分は最高の存在だと信じたいがために、他の人たちを見下したくなるのです。

自分に自信がないとか、悩んだりする人というのは、本当の自分を感じ取っている人たちなのでしょう。

だから、今の世の中の仕組みに、上手く適応できないのです。

でも、適応する必要なんかありません。

世の中の方が狂っているのです。

誰かと自分を区別する必要はありませんし、自分のことも他の人のことも、批判する必要はないのです。

みんな自由に、ありのままの姿で生きればいいのです。

世の中がおかしいのに、自分の方がおかしいだなんて、思ってはいけません。

それよりも、今の自分にできること、今の自分がしたいこと、また本当の自分が、今の自分をとおして、何を学ぼうとしているのか、それを理解することが大切だと思います。

自分が先

我先に動く人は、日本では敬遠されます。

特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。

いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。

確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。

ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。

と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。

 ※Ani_Banany_StyleさんによるPixabayからの画像です。

十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。

しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。

いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。

お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。

幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。

喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。

他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。

助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。

全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。

他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。

これは大人にも、子供にも言えることです。

 ※Sammy-WilliamsさんによるPixabayからの画像です。

自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。

反発だって、したくなるでしょう。

反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。

これも大人にしても、子供にしても同じです。

表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。

その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。

十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。

気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。

それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。

そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。

いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。

大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。

大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。

「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。

それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。

ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。

ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。

大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。

やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。

一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。

罪悪感を感じる必要はありません。

他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

心と体 その3

体が不調を起こすのは、全てが心のせいだとは言えません。

まず、怪我は外部からの影響であり、心は関係ありません。

もっとも、そのような状況を作り出したことには、心が関係している可能性はあります。

しかし、怪我そのものは、外部エネルギーによって生じるものであり、心が傷口を創るわけではありません。

同じように、紫外線による皮膚癌や、ウィルス感染による病気、これらも直接的には、外部要因によるものです。

ただ、これらに対処するべき免疫機能が、うまく働かなかったという点においては、心の状態が関係しているのかもしれません。

極度の放射能を浴びた場合、体はこれに対処できません。

これは手の着けようがない、重症の怪我を負ったのと、同じことだからです。

このように、何もかもが心の状態によって、引き起こされるわけではありません。

また、心が通常は対処できないこともあるのです。

また、学ぶべき人生の目的のため、わざと病気の体に生まれて来る、ということはあると思います。

それは心の状態とは関係のないものであり、特殊な例だと言えるでしょう。

一般的に言えば、基本的に体は、病気にならないようにできているのです。

ほとんどの病気は、体が本来の機能を、果たせなくなったことの結果です。

 ※uni10さんによる写真ACからの画像です。

光がある所に手をかざせば、そこに影ができます。

この影が病気なのです。

影を恐れたり、影の前で騒いでも、仕方がありません。

影を消すためには、手をひっこめればいいのです。

光そのものが、影になることはありません。

それと同じで、私たちの体も、本来は病気になることはないのです。

この世を去る時期が来て、エネルギー的に弱った状態は、病気とは言いません。

それは寿命と言うのです。

まだ、本来の寿命が来ていないのに、体のエネルギーに余計なものを突っ込んで、そこに影を作るから、それが病気として表現されるのです。

 ※写真魚さんによる写真ACからの画像です。

その影を作るのは、精神エネルギーの乱れかもしれません。

あるいは、食事や水、空気の汚れなど、物質的生活環境の影響かもしれません。

ただし、それらの生活環境を選ぶのは、やはり心ですから、心は間接的ではありますが、影響しているのです。

逆に考えると、病気になった時に、自分のどこに問題があるのかを見直す、いい機会になります。

心が乱れているからなのか、生活環境が悪いのか、よく考えてみるといいでしょう。

原因がわかったとしても、その原因を手放せないとすれば、それは生きるための価値観が、歪んでいるということです。

自分は何のために生きているのか。
自分にとって、本当に大切なことは何なのか。
今していることや、今の環境は、自分が生きることよりも、大切なのか。

そんなことを考えて、本来の自分の姿、本来の自分の生き方を、取り戻すようにしたならば、いつの間にか、病気というエネルギーの影は、消え失せていると思います。

心と体 その2

心と体つながりを示す、体調不良は他にもあります。

 ※びーちゃんさんによるイラストACからの画像です。

精神的な支えがなく、何となく生きている人は、姿勢や歩き方が悪いかもしれません。

活き活きしている人は、姿勢がしゃんとしているものです。

姿勢が悪い人は、自分の何気ない精神状態を、さほど意識していないのでしょう。

でも、自分を支える骨の歪みや、筋力の低下という形で、その精神状態を体が表現しているように思います。

自分なりに目的を持って暮らすようになると、姿勢も自然によくなって来るかもしれません。

 ※みずさんによるイラストACからの画像です。

細胞はそれぞれが何らかの役割を持っていて、その役割に応じた形に、成長して行きます。

癌細胞というのは、役割がわからなくなった細胞が、持つべき形を持たないまま、増殖して行きます。

通常の細胞は、必要なだけ増殖して数を増やしますが、増える必要がなくなると増殖は止まります。

しかし、癌細胞は役割がわからないので、いつ増殖をとめればいいのか、わからない状態なのです。

体の中にある免疫細胞は、このような癌細胞を見つけると、不具合のある細胞として処理します。

癌細胞が増殖して、癌という病気になるというのは、癌細胞の増殖の勢いが、免疫細胞の攻撃をしのぐほど強いのか、癌細胞を抑える免疫の働きが、落ちているかのどちらかです。

いずれにしても、それが意味するところは、本来の体の形態や機能を、維持できないということです。

 ※なのなのなさんによるイラストACからの画像です。

これを心に置き換えてみると、普通に暮らしているはずの人でも、本来のその人の心が、活き活き出来る状態には、ないのかもしれません。

好きでしていたはずのことが、いつのまにか義務的になっていたり、そもそも生きるために、好きなことすら我慢する。

そんな状態は、自分を殺しているのと同じです。

本当の役割を見い出せず、維持するべき、本来の自分の姿も、わからなくなっているという状態が、体のエネルギーに反映されている可能性は、あると思います。

 ※あーやんさんによるイラストACからの画像です。


心臓はハートと言われ、愛や感情と深い関わりがあるように、理解されています。

愛や感情に問題があると、胸が締めつけられるように感じるのは、そのせいでしょう。

心臓の役割は、全身に血液を送り出すことです。

心臓が愛とつながりがあるのであれば、エネルギー的な心臓の役割は、愛のエネルギーを全身に、送ることなのかもしれません。

だとすれば、いつもイライラしていて、心臓の発作を起こすような人は、自分の中に愛のエネルギーを、うまく送り出せない状態に、あるのかもしれません。

 ※akizouさんによる写真ACからの画像です。

心臓発作は、命に関わる一大事です。

でも、もし自分の心が、愛を受け取れない状態にあったのだとすると、これは体の命以上に、一大事でしょう。

死んでしまえば、それでおしまいという考えであれば、やはり体が何より一番大切ということになるでしょう。

しかし、死んでもおしまいでなければ、心の状態こそが、一番大切なのだと思います。

心と体 その1

体の不調が、心の状態と関係があるという話は、いくつかの本などで紹介されています。

具体的なことの真偽は、わかりません。

しかし、心も体もエネルギー体であり、互いに密接に関わりがあるのですから、一方の状況が他方に影響を与えるのは、当然のことだと思います。

また、人間の体は、人間のためにあるのですから、人間の心の活動を、物質的に具現化したものが、体だとも言えるでしょう。

大雑把ではありますが、そんな心と体の関係を、見てみたいと思います。


飲食は体内に食べ物を取り込む行動です。

食べ物は体の構成要素になったり、体を動かすエネルギーの素になったりします。

一方で、心は様々な考え方や価値観を、取り込んで自分のものにします。

心の活動は思考ですから、その材料やエネルギーを、取り込むわけですね。

 ※Berutaさんによる写真ACからの画像です。

体が食べ物に対して、拒絶反応を起こすと、吐き気や嘔吐、腹痛、下痢などの症状が、現れます。

心の方は、自分の考えと合わない、別の考え方や価値観に対して、やはり拒絶反応を示します。

とても嫌な気分になり、滅入ってしまいます。

嫌なことが続いたり、何かを無理に強いられたりすると、お腹が痛くなったり、むかむかしたりするのは、双方のエネルギー状態が、連動しているからだと思われます。

似たような拒絶反応に、アレルギーがあります。

体が異物と認識したものを、体に取り込まないようにしたり、中へ入ってしまったものを、排除しようとするものです。

心の方では、拒絶したいものに近づくと、軽いものでは不安、ひどいものではパニックになります。

 ※hanamaruさんによる写真ACからの画像です。

体のアレルギー反応が、ストレスや疲労など、本人が置かれている状態によって、出たり出なかったりするのは、よくあることです。

直接の原因は、アレルゲンとなるものですが、その反応を増長させる要因として、心の存在は小さくないと思われます。

また、特に原因となるものが考えられないのに、疲れが溜まって、蕁麻疹が出るということもあるのです。

喘息はアレルギーの一種ですが、やはり、いつでも症状が出るのでは、ありません。

小児喘息にはアレルゲンの存在が大きいようですが、大人の喘息には、精神的ストレスが大きく関わっていると、言われています。

 ※FineGraphicsさんによる写真ACからの画像です。

喘息発作が起こると、呼吸ができなくなって、息が苦しくなります。

これを精神エネルギーに当てはめますと、心が窒息状態にあると、見ることができるでしょう。

誰かと心を通わせたり、自然と心を一つにすることで、心はエネルギーのやり取りをします。

それを心の呼吸と見るならば、これらのつながりがなく、自分が周囲の全てから、遮断されているように感じている時が、心の窒息状態です。

それは極度の不安となり、こういう時に、喘息の発作は起こりやすいと考えられます。


同じ免疫の病気でも、自分自身を攻撃してしまう、自己免疫疾患というものがあります。

この病気の方たちに、直接確かめたわけではありませんが、自分を攻撃する病気ですから、その裏には、自分を責めたり、自分を嫌うよう気持ちが、潜んでいる可能性はあると思います。

自分はだめな人間だと、ひどく責めたりしなくても、自分に自信がなく、自分の価値を認められないというのも、自分を攻撃しているのと同じです。

 ※Stan MadoréさんによるPixabayからの画像です。

いつも他人と自分を比較して、自分のよさを見い出せない。
何か問題が起きると、自分のせいではないかと考えてしまう。
今の自分が嫌いで、別の人間に生まれ変わりたい。

こんな風に考えることは、自己免疫という状態を、導いてしまうのかもしれません。

温泉や水泳などで、リウマチによる痛みがよくなるという話を、聞いたことがあります。

恐らく、体の血行がよくなることが、いい影響を与えてくれているのでしょう。

でも、それだけでなく、自分をいたわったり、喜びや楽しさを感じることが、体のエネルギー状態にを安定させているのかもしれません。

願いが叶うとき

 ※(Joenomias) Menno de JongさんによるPixabayからの画像です。

自分一人の力で、何かを行える時、それを願いが叶ったとは言いません。

目玉焼きが食べたいと思い、自分で卵を焼いて、目玉焼きを作ったとしても、目玉焼きが食べたいという、願いが叶ったとは言わないでしょう。

何かを願うというのは、自分の力量を超えたところでの、望みや期待を持つということです。

目玉焼きが食べたいと思っても、家に卵がなく、卵を買うお金もなかったら、目玉焼きを作ることができません。

それでも、どうしても目玉焼きが食べたいと思った時、遊びに来た友だちが、差し入れだと言って、卵をくれたらどうでしょうか。

その卵で友だちが、目玉焼きを作ってくれれば、間違いなく願いが叶ったと言えるでしょう。

たとえ自分で目玉焼きを作ったとしても、やはり願いが叶ったと言っていいと思います。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。


願いが叶うとは、自分の力を超えた所で、自分の望みを叶えるような、思いがけない外部の動きが、あることを言うのです。

この目玉焼きの例では、自分の願いに、友だちの心が反応してくれた、ということです。

つまり、願いが叶う時には、誰かの心が反応を示し、願いが叶うように動いてくれるのです。

もちろん、動いてくれる人たちは、願いのことなど知りません。
何となく動いているだけです。

でも、それが結果的に、願いを叶えることに、つながっているのです。

人の心を無意識の領域で考えると、それぞれの人の無意識が、つながりを持っていると考えられます。

個人意識が、人類の意識の一部であるならば、人類の意識を通して、個人と個人の無意識が、つながりを持つのは、自然なことだと思います。

誰かの願いが、その人自身の無意識に届いた時、その願いは人類意識を介して、他の人たちの無意識へと、伝わるのです。

ただ、願いと言っても、表面的な願いと本音の願いでは、中身が異なる場合があります。

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宝くじを当てたい、と願ったとします。

その理由は、宝くじの賞金で、苦労した親に家を買ってあげたい、というものです。

結果として、宝くじが当たらなければ、願いは叶わなかったことになります。

しかし、借家ではあるけれど、便利で居心地のいい家が見つかり、親もその家をとても気に入ったとすれば、願いは叶ったと言えるでしょう。

この場合、本音の願いは、親にとって居心地のいい住処を、見つけたいということです。

そして、その願いを叶えるために、家を提供する人や、それを伝える人などが、自分では意図しないまま、動いたというわけです。

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願いが叶う場合、恐らく、その願いの規模に応じただけの、複数の人々の無意識が、関わっていると考えられます。

しかし、願いはしたけれど、やっぱり願いが叶うはずがないな、と考えていると、それは願いが外れた状況を、望んでいるのと同じになります。

それが本音として無意識に伝わると、願いが叶わないようにせよと、他の無意識たちに伝わります。

それで、誰も願いを叶えるための、動きを見せず、願いは叶わないこととなるのです。

また、自分が無意識とのつながりを否定していたり、他の人々との間に壁を作って、つながりを拒絶していると、やはり、その願いが叶うことはないでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

願いが叶うというのは、少なくとも自分自身の無意識と、つながっている必要があると思います。

つまり、無意識の声に耳を傾け、自分の本音を知るということです。

こういう人の願いは、自分の本音とつながっています。

それは無意識の指示に従っているのと、同じ事です。
通常の意識の願いと、無意識の本音が一致しているのです。

通常の意識の願いと、無意識の本音が一致していないと、願いは無意識に伝わらないかもしれません。

無意識を通して、願いを叶えるために、他の人たちの協力を得るには、無意識の本音と願いの方向が、同じであることが、重要だと思われます。

両者が一致すると、無意識は願いを実現するため、他の人たちの無意識に、情報を伝達します。

そして、思いがけない形で、願いが叶うという仕組みなのだと、私は考えています。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

ただ、他の人を拒絶する習慣があると、せっかく自分の願いに従って、動いてくれる人がいても、その人たちを無視したり、拒絶するかもしれません。

そうなると、本来なら叶っているはずの願いを、自ら捨ててしまうことになるでしょう。

逆に考えれば、他の人たちのことも認め、その存在を受け入れるという姿勢が、願いを叶えるためには大切なのです。

繰り返しますと、まずは自分の心の声を聴き、自分の本音を知るということ。

それから、他の人たちとの間に、壁を作ったりしないで、その人たちの存在を受け入れ、感謝や思いやりの気持ちを、持つということです。

体で言えば、ある部分が痒みの信号を、発したとしましょう。

その信号は、全身に広がる神経ネットワークを通じ、痒みを解消してくれる部分の、動きを促します。

つまり、突然手が現れて、その部分の痒みを解消してくれるのです。

 ※hana73さんによる写真ACからの画像です。

それと同じで、私たちの意識は、人類の意識という、巨大な一つの意識を形成しています。

一人一人の無意識が、大きなネットワークを構築しているのです。

そのネットワークを通じて、個人意識の望みは、全体の意識へ伝わり、その望みに必要な者たちが、望みを叶える行動を取るのです。

痒い部分を掻く手は、自分の動きの意味は、わかりません。
そうしたくなったから、その部分を掻いただけなのです。

それと同じように、願いを叶えてくれた人たちは、個人的には自分の行動の意味を、理解していません。

無意識レベルでは理解しているでしょうが、通常の意識では、わからないのです。

そんな感じで、願いというものは、叶えられるのだと思います。

そのためには、自分を大切にし、他の人のことも大事に思うことが、必要なのです。

一番いいのは、全ての人が、本当は一つの存在なのだと、心から理解することでしょう。

自分たちは一つだと理解するほど、願い全体の無意識に伝わりやすくなり、叶えられる可能性が、高くなるに違いありません。

意識と時間

 ※Stefan KellerさんによるPixabayからの画像です。

意識と時間は、切っても切れない関係にあります。

意識の活動には、必ず時間という要素が、必要となります。

時間が凍りついた状態では、意識も凍りついて、活動ができません。

時間の変化なしに、何かを思考できるか、確かめてみて下さい。

あなたが何かを考えたり、何かを感じたりしている間、時間は必ず過ぎて行きます。

この時間とは、時計の針の動きのことではありません。

心の中にある時間です。

たとえば、ほんのわずかな時間、うたた寝をした時に見た夢で、1時間以上の時間が経ったと思っていたのに、目座覚めてみると、5分ほどしか経っていないということが、あると思います。

 ※Rhonda JenkinsさんによるPixabayからの画像です。

嫌な仕事をしている時は、時間がなかなか流れないような気がします。

でも、好きな仕事をしている時は、知らない間にかなりの時間が、経っているということがあります。

心の外の世界と、心の中の世界とでは、時間の流れ方が、異なることがあるのです。

私がここで述べている時間とは、意識の活動が関わる時間です。

覚醒している時には、基本的に外の世界と同じ、時間の流れになります。

外の世界の時間に、心の時間を同調させるのですね。

しかし、ぼんやりしていたり、夢を見ている時など、意識が外の世界から遮断されている状態では、意識は外の世界とは、違う時間の流れにいるのです。

いずれにしても意識の活動に、時間の流れはつきものです。
時間の流れがなければ、意識は活動できません。

でも、これは意識と時間を、別物と考えての話です。

実は、時間というものは、意識の一つの側面なのです。

意識と時間とは別々にあるのではなく、意識の変化を時間という言葉で、表現しているだけなす。

意識は変化がなければ、存在していないのと同じです。

何らかの変化が生じるからこそ、それを活動と呼ぶことができるのです。

そして、その変化は時間に応じて起こるのではなく、変化する状態を、時間の流れという言葉で、表現しているのです。

意識がなければ、時間も存在しません。

でも、私がこの世を去ったとしても、この世界は残り続け、この世界の時間は流れ続けるでしょう。

それは、この世界自体が、大きな意識だからだと言えます。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

世界の意識は、私たち人間がイメージするような、意識ではないでしょう。

でも、世界の本質は精神エネルギーだと理解すると、時の流れが存在していることに、納得が行くと思います。

私たちの意識は、直接この物質世界に、存在しているのではありません。

物質で構成された肉体を介して、この世界を体験しているだけであり、この世界に直接関わっているわけではないのです。

目覚めている間は、肉体を通して認識する、この世界独特の時間の流れに、自分の意識を合わせています。

しかし、ぼんやりしたり眠ったりして、この世界とのつながりがなくなると、本来の自分の意識の持つ、時間の流れで思考するのです。

それは、私たちの意識が、直接には物質世界に、関わっていないからなのです。

意識と時間は、別物ではありません。

意識のあるところに、時間は存在します。

また、時間が存在しているところには、意識が存在しているのです。

自分の中の自分 その2

バルーンアートで使う長い風船の、端っこの部分をひねって、小さく区切ります。

その区切られた部分が、今の自分だと考えて下さい。

この時、長い風船の残った部分は、無意識と呼ばれる意識領域です。

何故、無意識と呼ばれるのかと言うと、通常の意識活動のように、表に出て来ない意識だからです。

しかし無意識こそが、心の本体なのです。

私たちが何かを思いついたりするのも、無意識からの情報が、具現化されるからです。

私たちの通常の暮らしの中では、その名の通り、無意識がその存在を認識されることは、まずありません。

本当は存在しているのですが、完全に無視された状態です。

でも、私たちが眠りにつくか、あるいは死んでこの世界を離れた時、風船のひねられた部分は元に戻され、私たちの意識は無意識と一体化します。

夢から目覚めた時に、夢の中の人格が保持されるように、私たちの個人意識も、無意識と一体化した後でも、保持されます。

しかし、どちらが本当の自分かと考えると、やはり全体の方を、本当の自分だと言わざるを得ないでしょう。

つまり、初めに述べたように、無意識こそが本当の自分であり、私たちが考えている自分というものは、あくまでも仮の自分なのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

元の意識である長い風船の中に、区切られた部分が、一ヶ所ではなく複数あったとしましょう。

すると、今の自分と同じような、元の自分の分身が、多く存在していることになります。

私たちは一度に多くのキャラクターを、イメージすることができます。

実生活の中においても、子供の頃の自分や、親としての自分、職業人としての自分や、男あるいは女としての自分など、多くの自分が入り交じっています。

それと同じように、私たちの本体である無意識の領域にも、私たち以外の分身が、多く存在していたと考えても、矛盾はないでしょう。

私たちには、自分の兄弟のような分身が、多く存在しているのです。

それぞれの自分たちは、違うパラレルワールドに、いるのかもしれません。

でも、今のこの世界を、別の立場から体験している、可能性もあるでしょう。

とにかく、いろんな自分の存在がいるということは、十分に考えられることです。

ここで、また違う状況を、想定してみましょう。

私たちの本体、本当の自分である長い風船が、実はもっと大きく長い風船の、一部が区切られたものだったとします。

また、そこには同じように区切られた部分が、たくさんあるのです。

そこの区切りがなくなると、私たちの無意識領域、つまり本当の自分は、さらに大きな存在である自分の一部であると、気がつくのです。

他の区切りの存在たちも同様で、区切りをなくすと、それだけ多くの存在が、互いに兄弟であることを、理解するのです。

そして、この大きく長い風船もまた、さらに大きな風船の一部であり、それが延々と繰り返されて行くのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

これが意味するところは、どんなに見た目が違っていても、全ての存在は兄弟であり、分身なのだということです。

考えると、頭がおかしくなりそうに、なるかもしれませんね。

だけど、少なくとも私たち人間は、性別や民族の違いを超えて、一つの存在であり、同じ存在の分身なのだということだけは、理解して欲しいと思います。

知識として知るのも大切ですが、感覚的に理解することが、最も重要です。

そして、その感覚こそが、愛と呼ばれるものなのです。

自分の中の自分 その1

 ※ぶぶちゃんさんによる写真ACからの画像です。

バルーンアートって、ありますよね。

細長い風船を膨らませ、一部をキュッキュッとひねることで、一本だった風船をいくつかのソーセージみたいに、区切って行くのです。

いろんな大きさの区切り部分を作り、それをねじ曲げたり、合わせたりして、全体で犬や花や剣など、様々な形にします。

あんなことをすれば、きっと割れてしまうと怖くなるので、私はバルーンアートが苦手です。

でも、ソーセージみたいな所を、さらにひねって、もっと小さくしても、案外割れないもののようで、バルーンアートを作る人が、風船を割るところを、見た事はありません。

とは言っても、自分がやるのは、やっぱり怖い気がします。
別に割れたところで、怪我をするわけでは、ないのですけどね。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ところで、あの長い一本の風船が、一つの意識であると考えてみて下さい。

そして、意識である長い風船の端っこの方を、摘まんでひねってみるのです。

完全にひねるのではなく、そっとゆっくりひねりながら、その時の長い風船の意識を、思い浮かべて下さい。

一つであるはずの意識が、二つに分離しようとしているのです。

それが、どんな状態であるのか、風船の意識に、自分の意識を置き換えてみて下さい。

でも、自分の意識が分離すると言われても、想像ができないかもしれませんね。

では、心の中に、ある人物をイメージして下さい。

実際にいる人物ではなく、自分のオリジナルのキャラクターです。

映画やドラマに登場する主人公や、脇役のようなものを、思い浮かべればいいのです。

勇者のような英雄でもいいですし、悪役でも構いません。

頭がいい学者タイプや、自分に自信が持てない臆病者、疑い深いくせに寂しがり屋。

何でもいいですから、オリジナルのキャラクターを思い浮かべて下さい。

そのキャラクターは、あなたがイメージしているのですから、あなたの一部です。

 ※klimkinさんによるPixabayからの画像です。

あなたがキャラクターを、思い浮かべている状態が、風船の意識をひねって、小さな部分を区切ろうと、しているところなのです。

自分の中に、特定のキャラクターを創り出すことが、意識を分離させるということなのです。

でも、単にキャラクターをイメージしている間は、完全に意識が分離したわけではありません。

風船を区切るためのひねりは、中途半端な状態です。
まだ、完全には区切られていません。

頭の中で、キャラクターが活動するのを想像している間は、キャラクターと同時に、想像している自分を自覚しています。

キャラクターがどんな状況で、どんな風に考え、どう感じるのかを、あなたは体験できますが、元の自分の意識も、同時に認識されています。

この時、キャラクターの行動は、自分が想像したとおりに、変化させることができます。

それは、あなたの想いがキャラクターに、反映されるということです。

ここで、あなたがキャラクターに意識を集中して、他のことを何も考えず、キャラクターになりきったとしましょう。

キャラクターになりきっていますから、キャラクターを自分が創り出したという、認識はありません。

いわば、妄想の世界に入り込むか、夢の世界に入っているようなものです。

この状態の時、元の自分は意識されていません。

これが風船の端を、完全にひねって区切った状態です。

でも、どんなにしっかり区切ったところで、その部分が全体の一部であることには、違いがありません。

ひねった所を元に戻せば、区切られた部分は、自分が全体の一部であることを、思い出します。

夢から目が覚めて、今のは夢だったのか、と気づくのと同じです。

キャラクターになりきった妄想の白昼夢から、はっと我に返るのも、同じ状況です。

白昼夢よりも夢の方が、馴染みがあるでしょうから、ここからは夢で話を続けます。

 ※Marfa BogdanovskayaさんによるPixabayからの画像です。

夢から目覚めた後、夢の中の自分が、どうだったのかという記憶は残っています。
夢の中で感じた、感情も残ります。

つまり、覚醒後の意識でありながら、夢の中の人格も、そのまま保ち続けることができるのです。

この時、夢を思い出して、夢の中の人格を再現しても、そこには同時に、目覚めている自分の意識も存在しています。

両者の区別は、はっきりしたものではなく、その境界は曖昧です。

しかし、どこに意識の主体があるのかは、明らかです。

夢の中では、自分だと認識していたはずの人格も、目覚めてからは、元の意識の一部であることが、理解されます。

さて、次は少し条件を変えて、考えてみたいと思います。

混乱の意味

物事が思い通りに進んでいるうちは、心は安定しています。

刺激的なことがなくても、特に生活を脅かすようなものがなければ、心はそれなりに安定しています。

ところが、病気や怪我、事件や事故、あるいは今のような、社会全体の問題が起こると、それまでとは同じ状態を、維持できなくなると思って、混乱に陥ってしまいます。

何かの問題が起きても、個人個人の状況や状態が異なりますから、ある人は混乱していても、別の人は全く平気、ということもあるでしょう。

しかし、混乱の規模が大きくなると、そんな人たちをも巻き込むことになります。

 ※fujiwaraさんによる写真ACからの画像です。

混乱すると、人はパニック状態になります。

思考や行動を制御できず、何をどうすればいいのかが、わかりません。

何もできず動けなくなる人もいれば、思いがけない行動に出る人もいます。

それは生物として生き残ろうとする、本能的な側面が強いのですが、他の人とのつながりを考慮するという、人間的な側面も関わって来ます。

つまり、混乱の最中にどのような行動を取るかは、本能的な側面と人間的な側面が、どれほど強いかということで、決まると言えるでしょう。

普段は理性によって、精神状態をコントロールし、本来の自分とは別の自分を、装うことができます。

しかし混乱していると、理性が麻痺して、精神状態のコントロールができません。

その時の精神状態が、そのまま表に現れるのです。

 ※Olya AdamovichさんによるPixabayからの画像です。

貧富の差に関係なく、自分のことしか考えられない人と、他人への配慮ができる人では、取る行動が全く別のものになるでしょう。

身の回りのことが自分でできる人と、そうでない人の態度にも、大きな差が出るに違いありません。

臆病な人と、臆病でない人も、その違いは一目瞭然です。

普段の心の中には、本音以外に、いろんな要素が混じり合っています。

場合によっては、自分でもどれが本音なのかが、わからなくなるほどです。

それは、いろんな大きさの砂や石が、混ざり合っているような状態です。

ぱっと見た目には、砂が多いのか石が多いのか、よくわかりません。

 ※Engin AkyurtさんによるPixabayからの画像です。

混乱というのは、この砂や石の集まり全体を、大きな力で揺さぶるのと、同じです。

揺さぶられると、それまでまんべんなく混ざっていたものが、それぞれの大きさや重さによって、層をなしながら分離して行きます。

粉のような砂粒から、砂利のような石まで、きれいに分かれて行きます。

表面を見ただけでは、よくわからなかった、砂や石の構成割合が、分離することで一目瞭然になります。

そんな感じで、本音がよくわからない心の中も、混乱に陥ることで、どれが本音なのかが、露わになるのです。

これは個人的な混乱でも、社会的な混乱でも、同じことです。

混乱は自分でもわからなかった本音を、わかるように浮き彫りにしてくれます。

本音がわかれば、あとはそれに従うだけですが、本音の内容によっては、争いが起こるかもしれません。

争いを避けるためには、本音が違う者同士が、お互いの本音を尊重し合うか、別々に離れて暮らすかの、どちらかでしょう。

つまり、多様性を受け入れるか、受け入れないかの違いです。

そこは人間が優れた知性を、備えているかどうかが、試されるところでしょう。

いずれにしても、混乱とは本音を導き出す、一つのきっかけであり手段でもあります。

 ※Nikola BelopitovさんによるPixabayからの画像です。

もし、同じような砂粒しかないものを、大きく揺さぶると、どうなるでしょうか。

砂粒しかなければ、どんなに揺さぶられようと、その中身は変わりません。

それと同じように、自分というものがしっかりしている人は、どんなに混乱している状況に追いやられても、他の人のように混乱することがありません。

揺さぶられはしても、心の中は常に一定の状態が、保たれているからです。

と言うことは、普段から自分の本音と向き合い、本音を大切にして、余計なものは捨て去るようにしていれば、世の中で何が起ころうとも、混乱しないと言えるでしょう。

このような人は経済社会を超えた、もっと大きな視点に立っています。

その視点に基づいた本音ですから、経済社会が揺らいでも、この人の本音が揺らぐことはありません。

では、経済社会を超えた視点に立つには、どうすればいいのでしょうか。

そのためには、生きるということ、自分という存在、宇宙や世界などについて、深く考える習慣を持つことが、大切だと思います。