異星人の生まれ変わり

 ※PatchさんによるイラストACからの画像です。

最近、いろんな人が異星人に見えてしまいます。

テレビに出ている人も、道ですれ違う人も、みんな異星人のように見えるのです。

別に、私の頭がおかしくなったわけではありません。

ただ、そういうこともあるだろうなと考えると、どの人もそんな風に見えてしまうのです。

面白いですよ。

特に外国から日本に来た人などは、普通に見れば、その人の国から来たということですが、本当は宇宙の別の星から、人間生活を体験しに来ているのだと、思えてしまうのです。

たとえば、ジョークというものが理解できない、私たちから見れば、堅物の塊のような異星人が、吉本のお笑い芸人に生まれ変わって、みんなを笑わせていると考えてみて下さい。

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本来であれば、どんな物でもパパッと作れてしまう、技術を持つ異星人が、焼き物の職人になり、手作りの良さを満喫しているかもしれません。

いろんな国の人が集まって、討論している様子を見ると、まるで銀河系のあちこちから集まって来た、異星人たちの会議を見ているようです。

地球人をあっと言わせてみせてやると、意気込んでいたはずの異星人が、家でごろごろしている、親爺になっているのも面白いですね。

 PatchさんによるイラストACからの画像です。

だけど、みんな生まれて来た時に、生まれて来る前の計画など、全部忘れてしまうので、予定とは違うことを、やっていても仕方がありません。

それに、その方が初めの計画よりも、よかったかもということもあるでしょう。

地球を征服してやろうと、悪意を持って生まれて来る、異星人がいるかもしれないと、考える人がいるかもしれません。

でも、征服するつもりなら、生まれ変わったりしなくても、直接攻めてくれば、いつでも征服できるでしょう。

ただ、ゲーム感覚で、みんなを自分に従わせてみたいと、考える者はいるかもしれませんね。

いずれにしても、本当の悪意を持った異星人が、生まれて来るとは思えません。

それに、仮に悪意があったとしても、生まれて来た時には、全部忘れているのです。

何も恐れることはありません。

異星人がどんな目的で、生まれ変わって来るのか、本人も忘れてしまうのであれば、どうでもいいことでしょう。

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人間として生まれた彼らは、自分は人間だと信じていますし、人間として生きて行くのです。

その中で、持ち前の能力や雰囲気を活かしながら、いろんな経験を仲間と分かち合い、学び合うのですね。

と、まるで異星人が本当に、人間として生まれ変わっているのが、事実であるかのように書いていますが、本当のところはわかりません。

でも、可能性はあります。

みなさん、異星人と言うと、UFOを探して空を見上げるでしょうが、一緒に空を見上げている、隣の人が異星人なのかもしれませんよ。

学校の先生や職場の同僚、友だちの誰か、その中に異星人が混ざっていたとしても、不思議ではありません。

だけど、そんなことは確かめようがありません。

だって、本人は何も覚えていないのですからね。

だから、異星人の生まれ変わりを、否定はできませんが、肯定もできないのです。

だとすれば、どう受け止めるのかは、各自の自由です。

自由なのですから、面白い方に受け止めたら、いいのではないでしょうか。

だから、私は思うのです。

世の中には、異星人の生まれ変わりがたくさんいて、世の中を盛り上げようとしてくれているのだと。

もしかしたら、あなた自身が異星人なのかもしれませんよ。

 ※PatchさんによるイラストACからの画像です。

何だか周囲に馴染めなくて、いじけがちだとすれば、それはあなたが異星人だから、人間社会の雰囲気に、悪酔いしているだけなのかもしれません。

そうか、自分は異星人だったのか、と納得をして、自分のペースで生きてみて下さい。

きっとそれは、他の人たちに大きな刺激になり、あなた自身も楽しい生活を、手に入れられるでしょう。

自分がやりたいことに、後先構わず突っ込んで行くような人も、異星人かも知れません。

何故なら、人間社会にある常識や、先入観というものに、縛られないからです。

その行動は、自分の殻を打ち破れ、というメッセージを、周囲の人に伝えることになるでしょう。

とにかく、異星人は人間社会に、たくさん入り込んでいて、欠かすことのできない存在に、なっているのです。

と、私は考えています。

みなさんも、そんな風に想像して、世の中を眺めてみて下さい。

自分と違う考え方の人、奇抜なファッションの人、すごい事をやってのける人、みんな、いろんな星から来た人たちだと思うと、とても楽しくなりますよ。

 ※とまこさんによるイラストACからの画像です。

大人になってから読んだ本

中学生の頃からは、読むとなったらマンガでした。
小説などの本は、ほとんど読んだ記憶がありません。

大学生になると、不思議な事が書かれた本は読みました。
でも、物語のような本は、やはり読まなかったですね。

たまに本屋さんで、話題になっているような本を、手に取ることはありました。

でも少し読むと、自分には向いていないと思って、元に戻しました。

何度かそんな経験をすると、大人が読む本なんて、面白くないものばかりだと、勝手に決めつけるようになりました。

それで、社会人になってからも、小説を読むことはありませんでした。

しかし、三十代に入ってから、何となく古本屋で、手に取った本を読んだ時、私は衝撃を受けました。

冒頭に記述された、物語の舞台の情景が、本当にそこにいるかのように、目に浮かんだのです。

思わず読み進めて行くと、主人公が登場するのですが、その暮らし様が、また目に浮かびます。

これは絶対に買うべきだと思い、すぐさまその本を購入しました。

それは藤沢周平氏が書いた、「蝉しぐれ」という時代小説です。

文庫本でしたが、他の文庫本と比べると、かなり分厚い本でした。

それでも話の展開が面白くて、二日かけて読み切りました。

その後も、藤沢氏の他の作品も読みたくなって、次々に購入しました。

むさぼるようにして読んだ本は、全部当たりでした。

私は、どうしてこの人の本は、こんなに心に響くのだろうと考えました。

そして、わかったのが、どの作品にも、著者の人柄が滲み出ているという事でした。

藤沢氏の作品に共通しているのは、一生懸命に生きている人の姿を、一生懸命に書き表している事です。

それは、懸命に生きる人々への、共感と励ましなのです。

藤沢氏は、ご自身が大変な苦労をされた方で、とても優しい人なのだなと思いました。

また、ユーモアもあって、読む者の心の緊張を、ふっと解いてくれるような、話し上手な方です。

作家は誰もが話し上手だと、思われるかも知れませんが、そうではありません。

作家によって、文章の文体は違いますが、そこには作家の人柄が表れています。

わかりにくい文体を、特徴とする作家もいるのです。

藤沢周平氏が登場人物たちを見る眼差しは、とても優しいのです。

また、この藤沢氏は山形の方なのですが、山形をとても愛しているのだという事も、読んでいて伝わって来ます。

作品に描かれた登場人物も舞台も、全て藤沢氏の心の中にあるもので、どの作品も藤沢氏自身の分身だと言えるでしょう。

だからこそ、藤沢氏の作品は心に響き、夕日が沈んだ後も紅く染まったままの空のように、読み終わってからも、心の中に深い余韻を残すのだと思います。

そんなわけで藤沢氏の作品は、私に読書の面白さを、思い出させてくれました。

それから藤沢氏以外の作品も、いろいろ読むようになりました。

しかし、読後に感動が胸に残る作品は、案外少ないと感じました。

藤沢氏以外で、私が心を惹かれた作家は、浅田次郎氏です。

とても有名な方ですが、とにかく泣かせるような物語を作るのが、得意な方です。

男とは、人とは、こういうものなのだと、訴えているような作品が、多いような気がします。

今の人たちは、本よりもネットゲームやネット動画に、夢中になっているようですが、何かのきっかけで読書も面白いと、思うようになるかも知れません。

ぜひ、そうなってもらいたいと思います。

全ての本が面白いとは、私は思いません。

自分に合う作家とは、滅多に巡り会えないかも知れません。

それでも、もし素敵な作家と出会えたなら、必ずや人生観が大きく広がるに違いありません。

本なんかつまらないやと、頭から決めてかからずに、機会があれば、本を手に取ってみるのも、いいと思います。

子供の頃に読んだ本

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

若者の読書離れが言われ始めて、もう30年になるそうです。

紙の本を読む人は、加速度的に減っていますし、電子書籍もその穴埋めをするには、至っていないようです。

今の人たちは、本を読むよりも、ネットゲームやネット動画の方が、面白いと言います。

私も若い頃は、読書をするよりも、マンガの方が面白いと思いました。

その理由を考えますと、マンガですから絵が描かれているので、わかりやすくて目を惹かれたのでしょうね。

子供用のマンガは、子供が喜ぶようなストーリーになっています。
それに本の話と違って、いきなり面白い展開が、始まったりします。

登場するキャラクターたちも、性格が一目瞭然で、すぐに好き嫌いの判断ができます。

本の場合は、しばらく読まないと、話の状況がわかりません。

登場人物についても、そうですし、ストーリーそのものも、読み進めて行かないと、気に入るかどうかの判断ができません。

よくわからないまま読み続けると、読むのに疲れて、もういいやとなってしまいます。

私が小学生の頃、小学館が出版した「世界の名作文学全集」というものがありました。

一冊が百科事典のように分厚い本で、一冊の中にいくつかの話が収録されています。

そんな本が、全50巻もあるシリーズで、それを私の父が購入しました。
もちろん、自分の子供に読ませるためです。

その子供とは、私と兄と弟の三人です。

しかし、兄も弟も読みません。
それで私が、読むしかありませんでした。

 ※Sofía López OlaldeさんによるPixabayからの画像です。

一冊を全部読んだと言えば、親に喜んでもらえるし、読まなければ、がっかりされてしまいます。

親の期待に応えるために、私は本を必死に読みました。

それでも一冊全部を読むのは、かなり骨が折れました。

子供向きの面白い話は、すいすい読めました。

でも、ちょっとむずかしい話だと、読んだというより、文章を目で追ったという感じでした。

ただ、あとでどんな話だったのかと聞かれるので、物語の要所要所は、押さえるようにしていました。

そうやって、五十巻全部を読み切ったのに、頭に残っている話は、ほとんどありません。
ただ、読んだというだけです。

この話はよかったなとか、また読みたいなと思ったものは、一つもありませんでした。

でも、学校の図書館で、自分で選んで読んだ本は、とても気に入り、何度も同じ本を借りて、読みました。

それは「うりんこの山」という、三匹のイノシシの子供たちの話でした。

やいば、いぶき、すずか、という名の三匹のうり坊たちが、成長して行く話です。

 ※北村けんじさんの「うりんこの山」

子供の本なので、挿絵がありました。
この絵も、何だかとても魅力的でした。

私は次男だったので、同じく二番目のうり坊、いぶきがお気に入りでした。

懐かしく思って、インターネットで調べてみると、すでに廃刊となっているようで、古本屋でも手に入らないみたいです。

私と同じように、子供の頃にこの本を読んで感動し、大人になってから探し求めている人が、何人かいらっしゃるようなので、何だか嬉しい気持ちになりました。

そうそう、思い出しました。
「世界の名作文学全集」の中にも、一つだけ印象の強かった話がありました。

それは「子鹿物語」です。
話の内容は、ここには書きませんが、有名な話なので、ご存知の方も多いと思います。

私はこの本を読んで、人間がとても嫌いになりました。

人間が自分の都合で、生き物の命を奪うのです。

それが生きる事だと、作者は伝えたかったのかも知れません。

でも、それこそ大人の勝手な考えでしょう。

その怒りは今でも、胸の奥に残っています。
ですから、この物語は繰り返して読んだりしていません。

ただ、「うりんこの山」にしても、「子鹿物語」にしても、子供だった私の心に、強い印象を残した点では、同じです。

そういう意味で、二つの物語は、どちらも優れた話なのだと思います。

そして本とは、そういうものでなければならないと、思うのです。

無意識とのつながり その2

先日、行きつけのカフェで、素敵なショールが、目に留まりました。

青空のような爽やかな青色で、手に取ってみると、生地が厚手で、これから寒くなるのに、肩掛けや膝掛けとして、使えると思いました。

 ※koki yamamotoさんによるPixabayからの画像です。

もちろん、私が使うのではありません。

初めは家内に、どうだろうかと思ったのです。

このショールはカフェを経営している方の、お姉さんの手作りだそうでした。

自分で布を藍染めして、作られたそうです。

一点物で、他では売っていません。

しかし、値段を見ると、結構な値がついていました。

そこで、いったんは席に戻って、買うのを諦めようかと思いました。

それでも、どうしてもそのショールに、目が向いてしまうのです。

普段の私は、着る物には全くの無頓着で、穴が開いている物でも、平気で着る人間です。

ファションには、少しも関心がありません。

家内が服を買う時に、どれが似合うかの判定を、手伝う事はありますが、そうでない時には、衣類への関心は、全然湧かないのです。

それなのに、どうしてこのショールに惹かれてしまうのか、自分でも不思議な気がしていました。

食事をしながら、家内と喋っている間も、心の半分は、棚にある青いショールに、向いていました。

とうとう我慢ができなくなって、私はそのショールを持って、家内に感想を聞いてみました。

別に家内の誕生日ではありませんし、家内は別のショールを持っています。

それでも家内に感想を尋ねてみると、家内はそのショールが、素敵だと言いました。

でも、欲しいかと聞くと、今はいらないという返事。

それなのに、私はそのショールを、諦められませんでした。
気持ちは、ほとんど購入するつもりだったようです。

そこで、ふと思いついたのが、お義母さんにどうだろうか、という事でした。

お義母さんは冷えが原因で、神経痛が出るようでしたので、肩掛けや膝掛けにどうかと思ったのです。

その話をすると、家内は母親はきっと、喜ぶだろうと言いました。

ただ、値段の事を気にしていました。

それでも私は、お義母さんが喜んでくれるならと、購入を決めました。

翌日、家内はそのショールを、お義母さんに届けに行きました。

実は、ショールを買った翌日が、お義母さんの誕生日だったのです。

でも私は、その事を忘れていたので、結果的にショールは、誕生日プレゼントになりました。

 ※Michael SchwarzenbergerさんによるPixabayからの画像です。

家内の話によれば、ショールを目にしたお義母さんは、一目でそのショールが、高価な物だとわかったそうです。

実はお義母さんも、そこのカフェがお気に入りで、前に訪れた時に、この青いショールを見て、素敵だと思ったらしいのです。

でも値段を見て、とても買えないと思って、諦めたそうでした。

だから、そのショールを誕生日プレゼントとして、受け取れたことで、お義母さんはとても喜んでくれたようでした。

私はそのショールが、ずっとそこの棚に置かれてあった事を、その話で初めて知りました。

これまで何度も、そのカフェを訪れていたのに、これまでは一度も、そのショールに惹かれた事はなかったですし、ショールの存在自体に、気がつかなかったのです。

それなのに、その日は店に入った時から、どういうわけか、目がそのショールに、釘付けになっていたのです。

全く不思議な事だと思いました。

きっとあの時、私の無意識がそのショールを購入するようにと、私に囁き続けていたのでしょう。

そして、それに従った結果、思いがけない喜びに、巡り会えたわけです。

ですから、普段から常に、無意識の言葉に耳を傾けていれば、幸せな人生を送れるはずだと、私は思いました。

では、どうすれば無意識に、自分の心をつなぐ事ができるのか。

私はショールに心を惹かれていた時の事を、思い浮かべました。

 ※monicoreさんによるPixabayからの画像です。

あの時の感覚。
それは頭の中の感覚だけでなく、空間の感じも、普段とは違っていたように思います。

恐らく体を包む、気のエネルギーの状態が、いつもと違っていたのでしょう。

とにかく、自分を信じて行動を起こすんだと、体の中からも外からも、後押しされているような感覚です。

その感覚を思い出していると、今も心が無意識と、つながっているような気がします。

無意識とつながった感じがしていると、とても安心な気持ちになります。

今は世界中が、いろんな問題で大変な状態にありますが、そんなものとは無縁の世界に、いるような気になります。

みなさんも、誰かを想う気持ちから、思いがけない喜びにつながった時が、あると思います。

その時の感覚を、ぜひ忘れないようにして下さい。

世の中に不安が一杯あふれていても、あなたの周りには、きっと喜びが広がるでしょう。

夢が伝えてくれたこと

先日変わった夢を見ました。

私は乗り物に乗っています。
小さな列車のようで、向かい合った一人掛けのシートに、座っていました。

私は進行方向に、背を向ける形で座り、前のシートには男性が座っています。

後ろには、背中合わせのシートがあり、そこにも背が高い人が座っていました。

 ※kana imageさんによる写真ACからの画像です。

前に座っていた人物は、現実には見た事がない人でした。
でも夢の中では、知り合いだったようです。

私は何だかうとうととなって、背もたれに体を預けました。

しかし、背もたれが低いので、私の頭の位置が、後ろにいる人物の、肩の横になりました。
後ろの人物の顔を、のぞこうとしたみたいな格好です。

すると、その人物もうとうとしていたのか、私と同じような格好になりました。

それでお互いの顔が見えたのですが、その人物は若い男性で、私の知っている人のようでした。

その時、私の前に座っていた男性が、彼のことを、ほら、あいつだぞ、と教えてくれました。
それで私は、やっぱり彼は自分の知っている人物だと、わかったのです。

三十年前、私の家にアメリカの高校生が、ホームステイに来た事があります。
ユダヤ系の男の子で、名前をジャスティンと言います。

夢の中の私は、自分の後ろにいた人物を、このジャスティンだと理解したようでした。

でも、彼の顔は私が知っているジャスティンではなく、アメリカの子役俳優だった、マコーレー・カルキンの顔でした。

映画「ホーム・アローン」で一躍有名になった、あのマコーレー・カルキンです。

その顔は少し眠そうで寂しげでした。

彼は私だとわかると、笑顔で話しかけて来ました。
でも、日本語が上手ではないので、限られた言葉での、ぎこちない話し方です。

それでも彼は懸命に、自分の夢を私に語ってくれました。
それは、どうやって人々に喜びを与え、幸せになってもらうかという、彼の計画でした。

しかし、私には何故か、彼の未来の姿がわかっていました。
彼はエイリアンになってしまうのです。

 ※GeorgeB2さんによるPixabayからの画像です。

彼は将来、エイリアンになって、人類を滅ぼそうとするのです。
それなのに、目の前の彼は、自分がエイリアンになるなんて知りません。

どうすれば人類のためになれるかと、懸命に語るのです。
ただ、世間が彼を快く受け入れていない事は、その表情から理解ができました。

彼は自分の苦難に立ち向かいながら、何とか人々に自分を受け入れてもらい、みんなの役に立とうとしていたのです。

私は切なくなりながら、彼の話を聞いていました。

そして、彼の夢が叶って、将来エイリアンにならずに済むように願いながら、彼の話にうなずいていました。

どうして彼を、うちにホームステイした、ジャスティンだと思ったのでしょうか。

その理由は、ジャスティンという名前です。

英語にはジャスティスという言葉があります。
正義という意味です。

ジャスティンという名前の語源は、ジャスティスだそうです。
日本語で言えば、まっすぐな男の子、正しい男の子という意味になるようです。

つまり、この青年は真面目で真っ正直な人物だったと、いうことなのです。

どうして、マコーレー・カルキンだったのか。

それは本物のマコーレー・カルキンが、気の毒な家庭環境にあったという、事実が関係しているのでしょう。

天才子役として、もてはやされた彼は、家庭の問題が原因で、映画界を去りました。
才能があったのに、環境がだめにしてしまったのです。

こんな夢でした。

私はこの夢で、世間から極悪人だとか、テロリストだとか呼ばれる人たちも、初めからそうだったのではないのだと、改めて理解しました。

赤ん坊の時から、誰かを傷つけようと考える者はいません。

みんな喜びを求めて生きているだけですし、周りの人たちと、楽しく過ごしたいと願っているはずです。

 ※Joshua ChoateさんによるPixabayからの画像 です。

それなのに、ある人たちは、極悪人やテロリストの道を、歩む事になるのです。

でも、それは決して本意ではありません。

彼らが本当に願っていた事は、違う所にあったのだと思います。

ひどい事をした人を、責めるのは簡単です。

でも、その人たちの本当の気持ちや、その人たちがひどい事をするようになった経緯を、知る事は大切だと思います。

何故ならば、その人たちをむりやりに、怪物に仕立て上げたのは、私たち自身かも知れないからです。

奇妙な夢

 ※Peter HさんによるPixabayからの画像です。

今朝、奇妙な夢を見ました。

登場人物は、みんな知らない人たちばかりです。
自分がいる場所も、見たことがない所でした。

私自身も、現在の私ではありませんでした。

現在の私と共通しているのは、自分が男であるという事だけです。

夢の中で認識している自分は、現在の自分とは、全く別人のようでした。

しかも、自分がいるその場所が、過去の世界だと認識しているのです。

夢の中の自分が、現在と理解しているのが、どんな所なのかまではわかりません。

それでも夢の中の私は、意図的に過去の世界へ、タイムスリップしていたようでした。


こんな感じで、今の自分とは、全く別の人格、別の記憶を持った人物である夢を、何度か見た事があります。

 ※Pascal KönigさんによるPixabayからの画像です。

女性だった事もあります。
夢の中の私は、酒場で男性と一緒に、お酒を飲んでいました。

この時は、目覚めてからしばらくの間、とても戸惑いました。

今の私の中には、自分を女性だと信じる要素は、これっぽっちもありません。
男性を求める気持ちも、全くありません。

ですから、どうしてそんな夢を見たのか、理解ができずに困惑するばかりでした。

また、夢の内容は忘れてしまいましたが、目が覚めた時に、しばらくの間、自分がどこにいるのかが、わからなくなった事もあります。

寝ていたのは、いつもの寝室で、目を開けると、いつもの部屋の様子が、見えていました。

でも、その時は自分が全然知らない所へ、運ばれて来たように思っていました。

目覚めているのに、頭の中は、まだ夢の世界にいたのです。

 ※Ulrike LeoneさんによるPixabayからの画像です。

夢は無意識の非言語的思念を、通常の意識が理解できる、言語的思考への変換だと、私は理解しています。

私たちは睡眠中、通常の意識を眠りにつかせて、無意識の状態となって、精神活動を続けていると考えられます。

その無意識だけになっている時に、私たちは何を考え、何を体験しているのでしょうか。

単に覚醒時の経験を、整理しているだけとは思えません。

もしかしたら、他の精神エネルギーと、交流しているのかも知れません。

あるいは、今の現実世界とは別の世界にも、つながりを持っているという、可能性もあるでしょう。

現実とは全く関係のない、別の世界のような夢があります。

そんな夢は、自分の勝手な妄想ではなく、本当にある別の世界の体験を、再体験しているのかも知れません。

それはパラレルワールドなのか、この世界の過去や未来なのか、あるいは、その両方なのか。

とにかく、私という存在の分身が、あちこちの世界に、いるかも知れないのです。

ひょっとしたら、この現実世界の今、同じ時空間の中に、自分の分身が別人格となって、暮らしている可能性もあるのです。

案外すぐ近くに、自分の分身がいるかも知れません。

嫌なやつと思っている、まさにその相手が、自分の分身という事も、有り得ると思います。

戦い合ったり、殺し合ったりしている相手の中に、自分の分身がいるかも知れないのです。

 ※ThePixelmanさんによるPixabayからの画像です。

考えてみれば、全ては同じ所から、生まれたのだと言えます。

私たちはみんな、ある意味、地球の分身です。

全然違う存在と思っているものも、元をずっとたどって行けば、遠い分身と言えるでしょう。

つまり、自分以外の存在を、痛めつけたり苦しめたりする行為は、自分を傷つけているのと、同じという事になるわけです。

今日見たような不思議な夢は、そういう事を伝えようと、していたのかも知れません。

体外離脱体験2

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

学生の頃、ひょんなことから、体外離脱を体験した私は、体外離脱を意図的に行えないかと、体外離脱について書かれた本を参考に、何度か挑戦をしました。

どういう時に体外離脱が、起こるのかと言うと、眠りと覚醒の中間状態です。

体は眠っているけれど、意識はまだ、目覚めている状態の時です。

金縛りの状態に似ていますが、金縛りの時は、緊張してしまうせいでしょうか、体を抜け出すことはできません。

意識ははっきりしているのに、肉体は動かせませんし、意識の体も動きません。

これは自分の意図に反して、そんな状態になってしまうため、驚いてしまうのでしょうね。

自分で体を抜け出そうとしている時は、わかってやっていますので、似たような状態になっても、気持ちは落ち着いています。

 ※愚木混株 Cdd20さんによるPixabayからの画像です。

どんな風になるのかと言うと、最初は足の辺りが、軽くビリビリと、痺れたような感じになるのです。

でも、長時間正座をして痺れるのとは、違います。

そんな苦痛な感じはありません。
ただ、軽くビリビリした感じがするだけです。

正確に言えば、痺れているというよりも、細かく振動しているような、感じかも知れません。

その振動している部分は、通常の感覚が、麻痺した感じです。

そこで驚いたり、慌てたりすると、我に返ると言いますか、ビリビリ感は消えてしまい、普通の状態に戻ってしまいます。

それは、野生の動物や鳥たちが、安全かどうか確かめながら、少しずつ近づいて来るような感じです。

ちょっとでも動いて、驚かせてしまうと、さっと逃げ出して、姿を消してしまいます。

とにかく、ビリビリした感じが起こったら、そのまま放置して、様子を見ておきます。

すると、ビリビリ感は次第に、上の方へ広がって来ます。

足から太もも、腰からお腹、胸から背中と、ビリビリした感じが広がるのです。

ここで体を、抜け出そうとしてはいけません。

まだ機が熟していないのに、体を抜け出そうとすると、意識の体ではなく、本物の体が動いてしまいます。

肉体の体が少しでも動いたら、ビリビリ感は瞬時にして、消えてしまいます。

一度消えてしまったビリビリ感が、もう一度戻って来るのは、むずかしいのです。

慣れている人なら、そんなことはないかも知れません。

でも、素人の場合、そこで完全に目が覚めてしまうか、再挑戦しているうちに、眠ってしまうことの方が、多いと思います。

とにかく、ビリビリ感が首の辺りまで広がって来ても、知らんふりをして、放っておきます。

すると、ビリビリ感は頭の先まで広がります。

足先から頭のてっぺんまで、すっぽりとビリビリ感に包まれた感じになるのです。

この時も、まだ動いてはいけません。

早く体外離脱を経験したくて、動いてしまうと失敗してしまいます。

この時に抜け出そうとすると、一瞬、体を抜け出せたような、感じにはなるのです。

でも、意識のどこかが肉体に癒着していて、完全に抜け出すことはできません。

背中に強力なゴムでもつけられているみたいに、すぐに引き戻されておしまいです。

肉体と意識がビリビリ感に完全に馴染んで、熟した状態になるまでは、ピクリとも動いてはいけないのです。

 ※WikimediaImagesさんによるPixabayからの画像です。

何度も同じような失敗を繰り返しながら、私は完全に肉体から、意識を離脱させることに成功しました。

その時の感覚は、初めて離脱した時と比べると、もっとリアルな感じでした。
本当に離脱したのか、疑わしくなるほどです。

部屋にはスチールの机があるのですが、その机に触れることができました。

幽霊のような存在になっているのであれば、手が突き抜けるはずです。

でも、手は突き抜けず、机に触れてその形状を、確かめることができたのです。

しかも触った感触が、肉体の手で触れるのと、全く同じでした。

机は硬くてツルッとしていて、冷たいのです。

おかしいなと思いながら、机を押してみましたが、硬くて手は突き抜けません。

私は窓から、外へ出てみようとしました。

でも、やはり窓が邪魔です。

それでも、意識の体だから、必ず突き抜けて行けるはずだと、私は思いました。

そこで、水の膜を抜けるような、イメージで挑戦してみました。

すると、あららという感じで、体は窓を通り抜けました。

その時は明け方で、外は明るくなっていました。

体外離脱の練習を、私はよく寝入りばなにしていました。

でも、そのまま眠ってしまうことが、ほとんどでした。

一方で、明け方にふと目が覚めた時は、チャンスでした。

そのまま動かないでじっとしていると、あのビリビリ感が現れることが、あったのです。

そして、この時もそんな明け方でした。

 ※kakkikoさんによる写真ACからの画像です。

私は窓の外にある、一階の屋根瓦の上に、裸足で立っていました。

普段見るのと同じ景色が、目の前に広がっています。

外には、まだ誰もいませんでした。

そよ風が気持ちよく、本当に肉体で、そこに立っているかのようです。

感覚的には、普段の世界と何一つ変わりません。
本当に体外離脱をしているのか、疑うほどでした。

その時に、ふと私は視線を落とし、そこに立っている、自分の姿を見たのです。

瓦の上に立つ足は、裸足です。
その上には、寝る時に来ていたはずの、パジャマがありません。

私は何と、パンツ一枚の姿で、屋根の上に立っていたのです。

感覚は肉体の時と、何も変わりません。
体外離脱をしないで、そこに立っているかのようでした。

私は焦りました。

自分では、体外離脱をしたつもりでした。
でも、もしかしたら体外離脱を、していないのかも知れない、と思ったのです。

窓を突き抜けて、外へ出たはずなのです。

だけど、本当はそれは妄想で、実は普通に窓から、外へ出ただけかも知れません。

そう考えると、どうしようとパニックになりました。

だって、そうでしょう?
パンツ一枚で、早朝の屋根の上に、立っているわけですよ。

もし誰かに見られたら、完全に頭がいかれていると、思われてしまいますよね。

下手をすれば、そこに住めなくなってしまいます。

これは大変だ、早く部屋に戻らないと、と焦っているうちに、はっと気がつくと、私は蒲団の中にいました。

私はちゃんと蒲団を、かぶって寝ていました。

蒲団を剥いでみると、パジャマもちゃんと着ています。

しまった、やっぱり体外離脱ができていたんだと、後悔したけど、後の祭りでした。

もう完全に目が覚めてしまったので、どうにもできませんでした。

体外離脱体験

体外離脱という言葉を、聞かれたことがあるでしょうか。

以前は、幽体離脱という表現もされていましたが、幽体という表現が、よくなかったのでしょうか。
今では、体外離脱という言い方が普通になっているみたいです。

とは言っても、体外離脱が何なのかを知らない人には、幽体離脱でも体外離脱でも、同じですよね。

体外離脱とは、意識が体から、抜け出ることを言うのです。

この時、体は眠った状態ですが、意識はしっかりと目覚めています。

よっこらしょっと起き上がった時に、何だか体が、ふわふわしたような感じがあるのです。

後ろを振り返ると、そこに自分が横になって、寝ているのを目にするわけです。

あるいは、知らない間に、意識だけが天井近くへ、浮き上がっているということも、あるようです。

この場合、下を見下ろすと、そこに眠っている自分の姿があるのです。

この状態というのは、生きたまま幽霊に、なったようなものでしょうか。

体から抜け出す時の状況は、人によって異なると思います。

でも、大体みんな、こんな感じなのではないでしょうか。

どうして、そんな事が言えるのかというと、私も体外離脱を何度か、体験しているからです。

 ※acworksさんによる写真ACからの写真です。

初めて体外離脱を体験したのは、大学生の頃でした。

当時は、一軒家の形のアパートに、同じ大学の学生四人で、暮らしていました。

四畳半の部屋が一階と二階に、それぞれ二部屋ずつあり、私は二階の西側の部屋にいました。

その時は夕方で、私は万年床の蒲団を二つに折りたたみ、それを背もたれにして座ったまま、うたた寝をしていました。

ふと目が覚めたので、私は背もたれの蒲団から体を起こし、そのまま立ち上がりました。

でも、何だかふわふわして、妙な感じでした。
高熱で寝込んだ後で、立ち上がった時に、重心が定まらないのに似ていました。

その時の部屋の空気も、変な感じでした。
水の中に潜っているような感じで、部屋の中に水が詰まっているかのようでした。

でも、体を動かすのに、水のような抵抗は感じません。
逆に、ちょっと動いたつもりが、動き過ぎてしまい、体のバランスを取るのが、大変でした。

どうも、おかしいなと思って、後ろを振り返ると、蒲団を背もたれにして座っている、自分が見えました。

私は驚きました。

でも、体外離脱のことは知っていたので、これが体外離脱なのかと、感動しました。

一階の部屋は、学生たちの溜まり場になっていて、この時も集まった友人たちが、麻雀をして遊んでいました。

その楽しげな騒ぎ声が、二階の部屋にまで聞こえていました。

私はこのままこっそり下へ行き、みんなの様子を眺めてみようと考えました。

みんなからは、私の姿は見えないはずです。
何故なら、私は幽霊みたいな状態ですから。

でも、実際はその状態の自分の姿が、他人から見えるかどうかは、わかりませんでした。

もしかしたら、いつもと同じように見えて、声をかけられるかも知れません。

どっちにしても、それは一つのデータであり、私はわくわくしました。

その時の私の部屋の扉は、閉まっていました。
でも、この状態だったら幽霊みたいに、扉を通り抜けられるかも知れない、と思いました。

ふわふわする体の体勢を整えながら、私は扉の前に移動しました。
扉は引き戸です。

 ※雰囲気イケメンさんによる写真ACからの画像です。

扉に手を伸ばした時、私の頭を、ふと不安がよぎりました。
もしかしたら、これは罠ではないのかと。

何者かが私の意識を、私の体から引き出したのではないかと、疑ったのです。

そうであれば、私がこの場を離れている間に、その何者かに私の体を、乗っ取られてしまうかも知れません。

一度疑うと、その疑いは急速に膨らみました。

私は居ても立ってもいられなくなり、急いで体に戻ろうと思いました。

でも、どうやったら戻れるのかが、わかりません。

それで、余計にパニックになってしまいました。

私は漫画みたいに、自分の体の中に飛び込めば、元に戻れるかも知れないと考えました。

それで、私は跳び上がったのです。

重力が働けば、その後、私の体はすぐに下へ落ち、その勢いで体に、飛び込めるはずでした。

しかし、そうはならず、私の体は部屋の天井まで浮かび上がり、そこから下へ降りられなくなったのです。

私は天井のそばで、手足をばたばたさせながら、宙を泳ぐようにして、何とか体の中へ入ろうと、藻掻きました。

それでも、体は浮いたまま下がりません。

私は藻掻き続けました。
もう必死です。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

自分が回転したのか、周囲が回転したのかはわかりません。

私は渦に巻き込まれたみたいに、ぐるぐる回転し、うわーっと心の中で叫びました。

そして、はっとすると、蒲団を背もたれにして座っていたのです。

私は自分が体と一つになっていることを、確かめました。

自分が動かしている手や足は、間違いなく自分の肉体の手足です。

触ってみると、いつもどおりの体でした。

立ち上がってみると、全然ふらふらしません。

部屋の中もいつもと同じで、水の中のような感覚はありません。

下からは、友人たちの声が、聞こえています。

私はしばらく部屋の中を歩き回り、自分が体に戻れたのだと、確信しました。

途端に、何て馬鹿なことをしてしまったのだろうと、とても後悔しました。

二度とないかも知れない、貴重な体験を、不安が台無しにしてしまったのです。

下の部屋へ行って、みんなが遊んでいる様子を、こっそり確かめていれば、自分が体外離脱をした証明ができたのです。

それはまさに、千載一遇のチャンスでした。

私は悔しがりながら、もう一度蒲団を背もたれにして、眠ろうとしました。

でも、すっかり目が冴えてしまって、眠ることができません。

体外離脱を体験したのは事実です。

でも、そんな体験をした喜びよりも、下の部屋へ行けなかったことの後悔で、その日の私の頭は一杯でした。

それから私は、意図的に体を抜け出す、練習を繰り返したのです。

砥部焼(とべやき)

 ※蒲鉾さちこさんによる写真ACからの画像です。

今日は家内と義母、私の三人で、砥部焼のイベントへ行って来ました。

松山から国道33号線を南へ進むと、久万高原の山があります。
その山の麓辺りが砥部の町で、古くから焼き物が作られていたと言います。

砥部焼の特徴は、厚ぼったくてぽってりした感じです。
とても丈夫で、他の食器と喧嘩をしても、まず負ける事はなさそうです。

伝統的な柄は、白地に紺の唐草模様ですが、最近は若い作家が増えて、いろんな模様や絵柄のものがあります。

特に女性作家が増えているそうです。

伝統的な模様は、力強くて男性的です。
それに対し、現代風の図柄や模様は、柔らかく温もりのある、女性的なものが多いようです。

今回は義母や家内が気に入った、お皿やカップが見つかったので、みんな大満足でした。


ところで、砥部焼の歴史を調べてみると、とても面白いのです。

砥部は、元は砥石で有名な土地だったそうです。

その砥石を切り出す時に出て来る、砥石の屑の処理がかなりの重労働で、村人たちから苦情が出るほどだったと言います。

江戸時代には、砥部は松山ではなく、大洲の殿さまの領地でした。

当時の大洲は経済的に、かなり大変だったそうです。

それで、砥石の屑で磁器ができる、という話を聞いた殿さまが、1775年 (安永4年) に、家臣に磁器を作るよう、命じたそうです。

しかし、初めての事なので、作業は順調に進まず、何度も失敗が繰り返されました。

そして、2 年半後の1777年 (安永6年)、ようやく白い磁器が誕生しました。
これが砥部焼の始まりです。

この頃の白というのは、少し灰色がかった白だったと言います。

しかし 1818年 (文政元年) には、新たな陶石が発見され、より白い磁器が作られるようになったそうです。

 ※happyjp2020さんによる写真ACからの画像です。

砥部焼が厚手に作られているのは、実用的であるためです。

砥部焼は壊れにくく、手に持っても料理の熱さを、感じにくいのです。

逆に言えば、料理が冷めにくいわけです。

値段も手頃で、庶民が購入しやすいというのも、特徴だそうです。


そうは言いましても、最近の砥部焼の中には、そんなに厚みがない物もあります。

まあまあいいお値段の物も、結構あります。

単なる実用品ではなく、芸術性も備えた実用品という物ですね。

その値段を高いと見るか、高くないと見るかは、買い手の価値観によるでしょう。

芸術性やオリジナリティを、評価しない人にとっては、何でそんな値段なのと、憤慨したくなるかも知れません。

しかし、その作品をとても気に入った人は、全然高くないと思うでしょう。

また、作家あるいは職人たちが、その作品を作るために、どれだけの努力と工夫、そして忍耐を続けて来たのかと、考えられる人は、妥当な値段だと思うに違いありません。

食器に限った話ではありませんが、どんな物でも、それを作った人がいるわけです。

そして、それをどんな想いで作ったのかを考えると、安い値段で買うのは、申し訳ない気持ちになってしまうでしょう。

自分が作品を作る側だったら、これより安い値段を言われたら、どう思うだろうと考えると、この値段は高過ぎるとは、なかなか言えないと思います。

とは言っても、現実の話として、手持ちのお金がそこまでなければ、いくら妥当な値段だと思っても、それを購入する事はできません。

作家の方にしても、作品を評価してもらえても、買ってもらえなければ意味がありません。

ここの所のさじ加減が、むずかしいのでしょうね。

しかし、毎日使う物であれば、見た目は高くても、高いとは思えなくなってしまいます。

少し無理をしたら買えなくはない、というような値段であれば、私なら絶対に買ってしまいます。

何故なら、それで毎日の暮らしが楽しくなるのであれば、逆に安いと思うからです。

同じ物を食べるにしても、食器が違うだけで、美味しさが変わって来ると思います。

生活に彩りを添えてくれる物は、有り難い物です。

実際に購入するかどうかは別にして、そういう物の価値というものを、確かめて楽しめば、それだけでも人生は、豊かなものになるでしょう。

いろんな方への感謝

 ※WordPress のタイトル画面です。

私のブログは、WordPressというプログラムを、利用して作っています。

WordPressは無料のプログラムですが、高性能です。

そこへさらに、世界中の人たちが WordPressのために、様々な機能のプログラムを作ってくれています。

それらのプログラムを併用することで、WordPressの性能は、ますます高められるのです。

何と言ってもただですし、とても便利だと、本でもネットでも紹介されていましたので、これでブログを始めることにしたのです。

それでも、こういう事に慣れている人が、使うのとは違います。

全くのど素人ですから、マニュアルに書かれていない問題が起きると、どうしていいのかわかりません。

そういう時には、ネットでいろいろ検索をして、何とか問題を解決するのですが、今回、またもや問題が起こって、四苦八苦していました。

ついこないだまで、特に何の問題もなく、だいぶブログ作りにも慣れて来たな、と思っていました。

そんな頃に、何だか文字の打ち込みが、うまく行かなくなり始めたのです。

キーボードで文章を入力しても、画面に文字が表示されるまで、時間がかかるのです。

おかしいなと思いながらも、ブログを書き続けていると、次第に表示されるまでの時間が長くなりました。

キーボードを押しても、画面の方は全くの無反応。

壊れたのかなと思って、もう一度キーボードで入力すると、少ししてから、やっと文字が表示されました。

と思ったら、同じ言葉が続けて表示されます。

初めに表示された文字は、最初に打ち込んだものだったようです。

あまりにも症状がひどくなって、ブログを書くのに、支障をきたすようになったので、インターネットで調べてみたのです。

すると、ブラウザのプログラムが、打ち込んだ言葉のスペルを、勝手にチェックしているかも知れないから、それを止めたら、症状が改善するとありました。

そうだったのかと、指示どおりにやってみました。
でも、何も改善されません。

弱りました。

デスクトップのコンピューターに続いて、こっちのコンピューターもいかれてしまったのかと、新しいコンピューターの費用が、頭をよぎりました。

その時に、ふと気づいたのです。

ブログの文字を打ち込む時には、文字の表示が遅いのです。

でも、Yahoo検索やワープロでの文字の打ち込みは、これまでどおりで、何も問題がありません。
キーボードで打った文字が、即座に画面に表示されます。

と言うことは、コンピューターの問題ではなく、WordPressかサーバーの問題に違いないと考え、再び検索しました。

すると、次に出て来た解決策は、WordPressのキャッシュ領域を、きれいにするというものでした。

これまで書いて来た、ブログの下書きなどのデータが、WordPressのキャッシュ領域に、一杯貯まってしまい、プログラムが動けなくなる、というのが原因だと言うのです。

ブラウザのプログラムのキャッシュが、取り込んだデータで一杯になってしまうと、インターネットの画面表示の速度が、遅くなることがあります。

それと同じ理屈です。

なるほどと思い、そのキャッシュ領域のデータを消してくれるプログラムを、新たに導入しました。

もちろん、このプログラムも無料です。

でも、初めて使うプログラムですから、よくわかりません。

ネットで紹介されている使い方を、いくつも参考にして、それから気合いを入れて、キャッシュ領域をきれいにしました。

すると、あら不思議。
以前のように何の問題もなく、すらすらと画面に文字が、表示されるようになりました。

急いで新しいパソコンを、買う必要がなくなり、万々歳です。

と言うことで、本日のこのブログを、無事に書くことができました。

 ※Gordon JohnsonさんによるPixabayからの画像です。

感謝すべきは、インターネットでいろんなことを、親切に教えて下さる方々ですね。

お金も取らずに、本当に奇特な方ばかりです。

ブログを書いていると、それを自分一人で、作っている気持ちになりがちです。

でも、プログラムを提供してくれる方、その使い方を細かく説明してくれる方、また自分が困った時の解決方法を、親身になって教えてくれる方たちが、いらっしゃいます。

そんな方たちが、いてくれたからこそ、ブログができるのだと、いう気持ちになりました。

それに、インターネット回線を提供してくれる企業や、ブログのためのサーバーを用意してくれる企業、パソコンを作ってくれる企業や、それを売ってくれる企業、いろんな企業があるからこそ、世の中にブログを発信することができるのです。

これまた改めて、ありがたいことだと思いました。

そう考えると、電力会社もそうですし、パソコンなどの部品を、作ってくれる企業も同じです。

そこで働く人々の生活環境を、提供してくれている方たちもそうです。

みんなに活躍の場を与えてくれている、この地球もそうなんですね。

みんなの力があったから、私はブログを発信することができるのです。
本当に感謝したいと思います。

自分が何をするにしても、そこにはいろんなつながりが、あるんですね。

もちろん、自分の行為が、誰かに影響を与えているなんて、一人一人の方たちが、考えているわけではありません。
それでも、影響しているのです。

その人が気づいていなくても、その人の存在は思いがけない所で、誰かの役に立っているんですね。

自分みたいなちっぽけな人間に、何ができるんだと思っていても、それでもちゃんと、その人から発せられた力は、どこかで必ず、誰かに影響を与えているんです。

それは、かく言う私にも、当てはまることです。

誰も読んでくれないかも知れないブログです。

それでもずっと書き続けていると、きっと誰かの目に留まり、その人の役に立つのではないか、と考えています。

その方と直接お目にかかることは、ないかも知れません。

それでも、顔も知らないその人が、笑顔を取り戻したり、好奇心に目を輝かしてもらえれば、これ以上の喜びはありません。

そんな誰かの様子を、思い浮かべながら、これからもブログを続けて行きたい、と思います。

 ※Vlad BitteによるPixabayからの画像です。