あれから10年

東北の震災が起こってから、昨日で10年が経ちました。

復興が進んでいるように見える部分もあれば、未だにあの時のまま、時が止まってしまったような所もあります。

それは土地や建物だけではありません。

人の心も同じです。

前を向いて生きて行くことを、決意した方もいれば、未だに一歩が踏み出せないまま、当時を見つめ続けている方もいます。

同じ状況にあっても、心の傷の深さや、癒やされる速さは、人によって違います。

10年という時の長さを、長く感じる人もいれば、あっと言う間だったと思う人もいます。

立ち直ることができるタイミングは、一人一人異なりますから、まだ立ち直れない人に対しては、見守ってあげることしかできません。

立ち直るというのは、その人自身の決意ですから。

映像を見ると、未だに胸が苦しくなりますが、それでも、あの震災の中に、希望を見出すことはできます。

それは震災が、人々の心を一つにしたことです。

テレビの映像がなければ、どんなにひどい被害であっても、結局は、地方の損害という話で終わっていたでしょう。

ところが、地震と津波と原発の爆発というものを、画面を通して、目の当たりにした人々は、国境を越えて同じ想いを抱いたはずです。

それは、その後、様々な所で起きた自然災害についても、現地の人に対する想いを、呼び起こすことになったと思います。

そして今、コロナ騒ぎで世界中がダメージを受けている中での、震災からの10年です。

10年も11年も変わらないと言えば、そうなのですが、人間にとっては、10年というのは一つの節目です。

その節目が、この時期に重なっていることは、偶然ではないように思えます。

誰が人々に、訴えようとしているのかはともかく、震災から10年という節目と、コロナ騒ぎが重なっているのは、何が大切なのかを忘れるなと、叫ばれているような気がします。

新型コロナで問題になっているのは、コロナウィルスそのものではなく、人間社会の歪みです。

人々の荒んだ心なのです。

そこを理解しないままであれば、たとえコロナ騒ぎが沈静化したとしても、さらなる全世界的なパニック状況が、引き起こされるような気がしてなりません。

私にはこれらの災害が、地球の叫びであると同時に、人類自身の叫びであるように思えるのです。

目の前の状況に、パニックになるのではなく、人々の心、地球の心に気持ちを傾け、自分の心をつなぐこと。

それこそが、今求められていることなのでは、ないでしょうか。

大地震

また東北で大きな地震がありました。

あの震災から、ちょうど10年になりますが、そこでまた大きな地震があったので、以前に被災された方たちは、前の震災を思い出したのではないでしょうか。

あれだけの大被害を及ぼした震災も、10年という年月の間に、人々の記憶から次第に、忘れられそうになっているような気がします。

あの津波の映像を見た人は、被災地の者でなくても、とても強いインパクトを受けたはずです。

ですから、東北で震災があったこと自体は、忘れることはないと思います。

しかし、直接被災したわけでなければ、どうしても日々の暮らしに追われ、目の前の問題や、新たな事件などのニュースに、目を奪われてしまいます。

その結果、震災は遠い過去の存在、あるいは他人事のような気持ちに、なりがちでしょう。

そうならないように、今でも声に出して、被災地を応援しようとしている方たちは、少なくありません。

それでも、やはり忘れて行く人の方が、多いような気がします。

あの時は、被災地の人も、そうでない人も、恐ろしさと悲しさを共有していたと思います。

でも今は、被災地とそれ以外の所では、心が離れているのではないでしょうか。

それは仕方のないことかもしれません。

阪神大震災にしても、熊本大地震にしても、さらには大正時代の関東大震災にしても、それが大変な事だというのは、理解しているでしょう。

でも、感覚的には他の世界の出来事のように、感じているのではないかと思います。

しかし、地域が違っても、心を共有できなければ、いい世の中にはなりません。

新型コロナが教えてくれているのは、そのことなのです。

そして、東北の震災からちょうど10年になる今、今回の大地震が起こったのは、偶然ではないように思います。

忘れるな。

地震は、このことを伝える、地球からのメッセージだったような気がします。

自分が先

我先に動く人は、日本では敬遠されます。

特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。

いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。

確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。

ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。

と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。

 ※Ani_Banany_StyleさんによるPixabayからの画像です。

十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。

しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。

いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。

お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。

幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。

喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。

他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。

助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。

全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。

他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。

これは大人にも、子供にも言えることです。

 ※Sammy-WilliamsさんによるPixabayからの画像です。

自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。

反発だって、したくなるでしょう。

反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。

これも大人にしても、子供にしても同じです。

表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。

その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。

十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。

気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。

それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。

そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。

いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。

大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。

大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。

「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。

それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。

ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。

ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。

大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。

やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。

一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。

罪悪感を感じる必要はありません。

他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

正義のつもり

昨日は東京のコロナ感染者数が、1600人近くになり、過去最多を更新しました。

外国でもコロナの勢いは衰えず、世界中でコロナワクチンへの期待が、集まっています。

日本でも来月下旬に、ワクチンの接種を開始する予定ですが、テレビのワイドショーなどでは、相変わらず国民の不安を、かき立てるようなことばかり言っていました。

ワクチンが効くのか効かないのか。
効かなかったら、どうなるのか。

そんなことは、やってみないと、わかるはずもありません。

いくら専門家に尋ねても、専門家だって知らないのです。

聞かれたら何か答えないといけませんから、専門家の人たちは自分の考えを述べますが、そこには期待も含まれるし、最悪の可能性も考慮されます。

当然、意見は割れますが、それがまた不安の元になるわけです。

番組の司会者は、一体何を求めているのでしょうか。

誰かが100%の安全を保証してくれるのを、期待しているのでしょうか。

しかし、未来は常に不確定です。
全てにおいて、100%など有り得ません。

それに、どれほど安全や安心を示しても、疑う気持ちがあるうちは、何を言われても、信じる気持ちにはなれないでしょう。

結局、待たなければわからないのですから、黙って待っていればいいのです。

待っている間は、自分がやるべき事や、やりたい事を、淡々とこなしていたらいいでしょう。

何か問題が起こるようであれば、感情的になるのではなく、やはり淡々と対処するしかありません。

国がどんな政策を取ったとか、誰が何を言ったとか、そんなことで右往左往しては、いけないのです。

テレビの報道番組は、国民に真実を伝える役目を、果たしているつもりです。

それは正義の行いだと、考えているのでしょう。

しかし、その基盤には視聴率競争というものがあります。

国民に希望を与えるより、不安に落とす方が、インパクトが強くて、視聴率アップにつながるという、浅はかな考えが潜んでいると思います。

ただ、現場で動いている人たちの意識に、そういう考えがあるとは限りません。

みんな、指示されたとおりに動き、それが正義につながっていると、信じているのかも知れません。

それでも、結局やっていることは、騒がなくていいことを騒ぎ立て、視聴者の不安を煽っているだけです。

コロナウィルスは、単なるウィルスに過ぎません。

ワクチンがなくても、いずれは必ず、その影を潜めます。

ワクチンさえあれば、元の世界が戻って来るような、期待を持つ人がいます。

それは言い換えれば、ワクチンさえあれば、昔のような好き勝手を、やっても構わないという意味になります。

でも、本当の問題は、他人の事を顧みずに、自分さえよければそれでいいという、エゴイズムの世の中ではないでしょうか。

逆に言えば、それさえ正すことができたなら、コロナウィルスでここまで騒ぐ必要は、ないのだと思います。

ヨーロッパではロックダウンが行われ、指示に従わない者には、罰則が与えられます。

それでも、自由を奪われることに反発し、集会やパーティーを開いて、警察と揉める人が、後を絶ちません。

もし、一人一人が他人への配慮をしながら、自らの行動を管理できたなら、政府が法律で強制的に、人々を押さえ込む必要はありません。

ヨーロッパのような、強制力がある政策を、日本が取らないのは、過去の戦争の反省があるのだとは思いますが、他人を気遣える国民性に、期待をしているからだと思います。

ただ、その期待が甘えになっているようなので、国民からの信頼が得られないのでしょう。

とにかく、今の状況には、一人一人が自分の意志で、対処して行くしかありません。

それでも、一人ができることは限られますし、生活に困窮する人も出て来ます。

そんな時は、近くの人との協力が、大きな力となるでしょう。

今求められているのは、誰かに指示されたり、煽られたりして動くことではなく、自分で冷静に考えて行動するという事です。

行動の原動力にするべきなのは、恐怖や不安や焦りではなく、感謝と思いやりと好奇心です。

今こそ、みんなが力を合わせて助け合い、お金がなければ生きていけない世の中を、お金がなくても生きて行ける世の中に、変える時でしょう。

そして、人生というものを、見直すべき時でもあります。

すなわち、楽に生きる、面白く生きるということではなく、喜びのある生き方を求めるということです。

表面的に楽しい人生ではなく、深みのある生を感じられる人生を送る。
そんな時期が、訪れたのだと思います。

コロナ後への期待

7月22日に Go To キャンペーンが始まってから、どこの地域もコロナ感染者数は、第2波と呼べるピークを迎えました。

ただ、そのピークの高さは地域によって異なります。
それはキャンペーンによって、どれだけ多くの人が移動したかを、反映しているようです。

幸い愛媛県では、第2波のピークは高くありませんでしたし、すぐに落ち着きました。

他の県でも、愛媛県と同じような所は多いようですが、後になってから、再び感染者数が増えて来ている県もあります。

愛媛県と同じ経過を、日本全体が迎えているわけではありません。

 ※新型コロナ国内発生状況(厚生労働省ホームページより)

東京や大阪などの大都市と、その周辺地域でも、第2波のピークは過ぎたようです。

しかし、感染者数は地方のようには下がりきらず、高止まりのまま推移しています。

それでも、諸外国の状況と比べると、国全体がパニックに陥るような数ではありません。

また、感染者数は多くても、重傷者数や死亡者数の割合は、減少傾向にあります。

これは多くの国民が、互いに感染しない、させないという配慮を、しているからだと思います。

コロナ騒ぎが始まった頃は、状況が全くわからず、不安ばかりが先行していました。

しかし、実態がわかって来た今、無闇に恐れる必要がないという印象を、みんなが持ち始めているような気がします。

それでも、日本人は警戒を怠りません。

国が警戒を緩める姿勢をみせても、それぞれが気をつけ続けているようです。

それだけでなく、お洒落なマスクを作ったり、家庭で子供たちと過ごす時間を楽しんだり、新しい仕事の在り方や、地方での暮らしを選択したりと、人々の価値観が大きく変化して来たと思います。

映画「鬼滅の刃」の大ヒットは、海外が驚くほどの興行成績で、コロナなどどこ吹く風といった感じです。

多くの人たち、特に若い人たちが、コロナへの不安ではなく、映画を通じて家族愛や勇気に、意識を向けるようになった事は、注目に値する事だと思います。

不安は、さらなる不安を呼び込みます。

不安から喜びに目を移す事で、希望への道が開けるのです。

もちろん、油断をしてはいけません。

でも、きっと日本は、このままの雰囲気で、進んで行くでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

コロナに苦しむ諸外国の様子は、ニュースでも報道され、コロナがいかに恐ろしい病気であるか、訴え続けています。

しかし、日本にいると、まるで別世界の話を、聞かされているように思えます。

それにニュースでは、コロナの恐ろしさが強調されていますが、本当の問題は、コロナ以外にあるように見えます。

以前からある問題が、露呈してしまったため、それをコロナのせいだと、言い逃れをしているようです。

もちろん、それは日本でも言えることです。

何でもかんでも、コロナのせいにしていては、いい世の中にはなりません。

コロナで発覚した問題は、本当の原因がどこにあるのかを、見極めないといけません。

コロナに感染しても、重症化する人は限定的と言えるでしょう。
感染しても回復する人が大半です。

しかし体力のない人や、持病がある人などが罹患すると、悪い結果になる事があります。

 ※truthseeker08さんによるPixabayからの画像です。

若い人でも、不摂生や過ぎたダイエットをしていたり、大きなストレスを抱えていたりすると、免疫力が落ちてしまいます。

そんな人がコロナに感染すると、やはり重症化する可能性はあると言えます。

でも、健全な体を持つ人は、それほどコロナを恐れる必要はないでしょう。

ただ、知らない間に感染したウィルスを、体の弱った人に移すかも知れないという、配慮は必要です。

つまり、健全な体と他者を思いやる心があれば、コロナをそれほど恐れる事はないのです。

経済を回す事は、社会を維持するためには、大切な事でしょう。

しかし、お金を動かす事だけを重視して、人々への思いやりを忘れた政策は、知恵に欠けていると言えます。

日本の被害が、この程度で済んでいるのは、政策のお陰ではなく、国民性の賜だと思います。

逆に言えば、どんなに素晴らしい政策を打ち出しても、国民同士が思いやりの気持ちを持てなければ、悪い結果に結びつくでしょう。

また、お金のない事が問題になるわけですから、国も国民も、お金ありきの発想を捨てて、新たな道を切り開くべきだと思います。

ボランティアの概念を超えた、助け合いを基本にした社会を、築くことができれば、コロナなどは恐れるに足らずです。

そして、真面目で思いやりのある日本人が、本気で考えれば、それは可能だと私は信じています。

 ※Anemone123さんによるPixabayからの画像です。

心を一つに

 ※41330さんによるPixabayからの画像 です。

8月になりました。

すっかり梅雨も明けて、夏の青空が広がっています。

こんな空を眺めていると、どこかへ出かけたくなってしまいます。

でもコロナウィルスが、広がりを見せてる今は、出かける意欲がなくなりますね。

具合が悪いのに出かけて行き、あとでコロナに感染している事が判明した。

そんな報道を聞くと、腹が立つと言うより、悲しくなります。

検査も100%ではありませんから、本当は陽性でも、陰性に出ることがあります。

ですから症状があれば、コロナに感染していると想定して、行動する必要があります。

それなのに、症状があるのがわかっていて、他の人がいる所へ出て行くというのは、あまりにも無責任で、あまりにも身勝手です。

症状がないから、自分は大丈夫。
あるいは、軽い症状があるのに、それを症状だと理解していない。
そんな人が、多くいるようです。

こういう人たちは、自分は感染していないと確信していますから、悪気なく出かけたり、帰省したりして、ウィルスを広げてしまいます。

 ※cheetahさんによる写真ACからの画像です。

このことを考えると、いくら自分が元気でも、できるだけ人混みに行くことは避け、帰省や食事会も、遠慮する心構えが必要でしょう。

自分たちで、どのように行動するかを、責任を持って決めるよう心がけること。

そうすれば、Go To キャンペーンのような、タイミングを考えない、愚かな政策が実行されても、問題は起こりません。

みんなが、それに乗らなければいいのです。

政府が旅行を勧めたから、遊びに出かけただけだと、言い訳をしても仕方がありません。

それは政府に責任を押しつけて、自分の責任を放棄しているのです。

そんな人たちが、誰かにウィルスを、感染させてしまうのは、とても残念なことです。

でも、その事よりも、その無責任な姿勢に、人々は怒りや悲しみを覚えるわけです。

こういう方たちに、ネットなどを通して多くの人が、非難や中傷を浴びせかけるのは、みなさん、ご存知のことでしょう。

また、感染を恐れるがために、県外ナンバーの車を見つけると、その車に対して攻撃的な態度を見せたり、嫌がらせをするということもありますよね。

その人が、同じ県内で暮らしている人であっても、お構いなしに、出て行けと言ったりします。

感染への不安や、好い加減なことをする人に対する腹立ちは、理解できます。

しかし、度を過ぎた個人攻撃や、その人の家族や職場まで、攻撃するようなことは、絶対にやめなければなりません。

大切なことは、好い加減な人がいたら、その人に自分がしたことを、理解させることです。

本人に反省させ、他人を思いやるように、考え方を変えさせることなのです。

感染したことを公表したら、バッシングを受けて、家族や職場までもが、ひどい目に遭わされる。

そう思ったら、感染が疑われる他の人は、検査もしないまま、自分の症状を隠し通そうとするでしょう。

そうなれば、わからない所で、感染はどんどん広がって行きます。

 ※coji_coji_acさんによる写真ACからの画像です。

外出を自粛してくれるなら、まだいいのですが、自粛してくれるとは限りません。

感染疑いを隠しているので、捕まえて隔離することは不可能です。

本来であれば、国や自治体が、毅然とした態度を、見せるべきなのです。

感染者のプライバシーは守りながら、非常識な態度を見せる感染者には、その責任を理解させることを、きちんとやらねばなりません。

ただ、ホテルや病院に隔離する、というだけではだめです。

感染について理解できていない人には、ちゃんと理解させるという事を、国民に示さないといけません。

それをしないから、人々は無責任な行動に腹を立て、その無責任さに対して、自分たちが鉄槌を下してやろうなどと、考える人が出て来るのです。

この人たちは、自分は正義を貫いていると、信じているのでしょう。

でも、やっていることは犯罪です。

感染拡大を防ぐという意味でも、無意味どころか、かえって逆効果です。

バッシングを繰り返す人は、世の中を正すつもりが、バッシングそのものが、目的になって行きます。

そして、毎日バッシングの獲物を、探し回るようになるのです。

今は、みんなが一つに、ならねばならない時なのです。

みんなが思いやりによって、心を一つにする必要があるのです。

そうしなければ、この難局を乗り越えることはできません。

 ※Darko DjurinさんによるPixabayからの画像 です。

体調を壊して、熱が出たり、お腹が痛くなったりしたとしましょう。

たいていの人は、解熱剤や胃薬などを、飲もうとします。

それで症状が軽減すれば、一安心です。

だけど、体調を壊した本当の理由を探って、そこに対処しなければ、本当の治療にはなりません。

軽減したように見えても、症状は治りきらず、いつまでもだらだらと続きます。

それと一緒で、コロナ騒ぎというのは、病んだ社会が出している、うめき声なのです。

今は世界中が、そのうめき声を抑えようと、必死になっている状態です。

でも、本当の病巣部を見つけ出して、適切な処理を施さない限り、うめき声はいつまでも続くでしょう。

では、その病巣部とは、どんなものなのでしょうか。

それは思いやりの欠如です。

もちろん、個人的には思いやりに満ちた人は、たくさんいます。

しかし、社会という広い範囲で見るならば、思いやりに欠けていると、言わざるを得ません。

民主主義という言葉も空しく、この社会は権力を握っている者たちが、自分たちに都合のいいように支配しています。

その結果、冨は一部の者たちに集中し、ほとんどの人たちは、困難な暮らしを強いられているのです。

今の社会は、この権力者たちが作ったものですから、思いやりなどありません。

思いやりがあるように見せかけますが、実際は大した助けになりません。

あるいは、権力者たちに協力する者たちにとっては、思いやりがあるような、仕組みでしょう。

思いやりがない世の中だから、一般の人たちの中にも、それが当たり前だと受け取って、他人に平気でつらく当たる人が、出て来るのです。

しかし、そのような人たちも、自分たちが騙されていることに、気がつく時が来たのです。

 ※Enlightening ImagesさんによるPixabayからの画像です。

今は、みんなが心を一つにする時です。

コロナウィルスは、そのことを私たちに、教えてくれています。

政府が何を言おうとも、思いやりの気持ちに基づいて、自らの考えで行動しましょう。

自然の猛威

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

世界的に、新型コロナウィルスの勢いは、まだ衰えていません。

地域的には、衰えたように見える所もあます。
しかし、人々の日常生活を元に戻せば、すぐにまた感染は増えるでしょう。

日本でも東京を中心に、各都市で感染者数が激増しています。
そして、そこから周辺地域へ、着実に感染は広がっています。

それでも国は安易に、緊急事態宣言は出せないでしょう。

出したところで、ウィルスを撲滅できるわけではありません。

それに、国民やお店の経営者へ、経済支援をする余裕もないようです。

できればお金を出したくないでしょうから、宣言はしたくないのです。

しかし国や県の指示を、待っている暇はありません。

結局は一人一人が、自分で考えて行動するよりないのです。

 ※Peggy und Marco Lachmann-AnkeさんによるPixabayからの画像です。

我が身は自分で守りながら、困っている者がいれば、手を差し伸べる。
自分の行動によって、他の人に迷惑がかからないかを、常に考える。

コロナウィルスに限ったことではありませんが、これが基本だと思います。

コロナ騒ぎが終息したとしても、すぐにまた、次の新たなウィルスが登場するでしょう。

人間への感染能力を持った、コロナウィルスが現れたのは、偶然ではありません。

動物から人へ感染する機会が増えたから、今の状況になったのです。

現に中国では、人に感染する能力を持った、新型インフルエンザウィルスが、豚から発見されています。

中国当局は問題視していないようですが、新型コロナウィルスの時も、医療現場からの警告は無視されていたのです。

他にも、人に感染して死に至らしめる、新たなウィルスの出現の可能性は、常にあると考えねばなりません。

新型コロナウィルスが、特別であるはずがないのです。

コロナウィルス自体が、今後どのように変異するかは、わかりません。

今より感染率・致死率が高くなることも、考えられます。

また、別の新たなウィルスは、若い人でも重篤になるかも知れません。

そういうことは想定できることです。

現在のコロナウィルスで、軽症者が多いからと高をくくっていると、あとで手ひどい目に遭わされるでしょう。

私たちは新型コロナウィルスの広がりで、右往左往しています。

でも、これは今後必ず起こるであろう、もっと強力なウィルスの拡散に備えた、予行演習だと考えるべきだと思います。

動物から人に感染する、ウィルスの出現について、人間による環境破壊が、原因だという考えがあります。

森林を伐採し、開拓をすることで、自然の動物が暮らす領域は、狭められます。

そこへ、最近の異常気象が追い打ちをかけ、動物たちは餌を求めて、人里へ現れるようになります。

 ※Capri23autoさんによるPixabayからの画像です。

人間と動物が接触する機会が、増えているのは確かです。

それが動物から人への、ウィルス感染が起こる理由だという考えは、間違いではないと思います。

しかし、私はそれだけが理由ではないと、考えています。

人間が動物に及ぼしている悪影響は、異常気象だけではありません。

大気汚染や電磁波、酸性雨による土壌や水の汚染。

こういうものも自然の生き物たちに、影響を与えているのではないかと思うのです。

それは、すぐにバタバタ死ぬような、悪影響ではないでしょう。

でも、動物たちの体力を蝕み、免疫力の低下を招いていることは、十分に考えられます。

それによって、ウィルスに感染する個体が増えます。

そうなると、動物を食する人たちに、そのウィルスが感染する機会も増えるのです。

動物の間でウィルスが広まったとしても、ウィルスの毒性が強くなければ、その動物が死ぬことはありません。

人間で言えば、多くの若い人が、あまり症状を感じない、というのと同じです。

しかし、その動物が人間に捕まり、ウィルスが人間に感染すると、そのウィルスが強い毒性を示すことがあるのです。

動物と人間との接触が、ウィルス感染の原因だとすれば、今後の感染を防ぐ根本的な対策は、両者が接触しないような、環境を作ることでしょう。

短期的対策としては、自然の動物を食べたり、飼育するのを禁止することです。

長期的には、動物たちが人里へ来ないよう、生息するための領域を、確保してやることです。

とにかくお金を稼ぐために、むやみに自然環境を破壊することを、やめなければなりません。

 ※Jody DavisさんによるPixabayからの画像です。

コロナウィルスに限らず、温暖化による気候変動、それに伴う水害や干魃、巨大台風やハリケーン、猛暑や冷害あるいは冷夏や暖冬など、多くの自然災害が猛威を振るっています。

日本も毎年のように、水害に襲われています。

世界中で洪水が起こり、中国の長江流域も、大洪水に見舞われています。

他にも、大量のバッタなどの虫害、海面上昇による高潮、山火事、大地震などがあります。

その結果、食糧難や飢餓、怪我や病気、あるいは死亡と、多くの被害が出ています。

しかし、これらのうち地震以外は全て、人間の勝手な振る舞いが、影響していると考えられるのです。

同じような勝手な振る舞いは、人間社会の中でも見られます。

自分さえよければいいという、自分勝手な考えは、多くの国々に蔓延しています。

コロナ騒ぎは、そう言った人間社会の、醜い部分を露わにしました。

今の世界は、権力を握る人々の大半が、自分勝手な考えを、持っているように見えます。

国民に対しても、都合のよい者を優遇し、そうでない者は死んでも構わない、という姿勢です。

自国民の扱いがそんな感じですから、他国の人間に対しては、もっと冷酷です。

ましてや人間ではない、自然の生き物や環境に対して、気遣いを見せるなど、到底無理でしょう。

 ※Arek SochaさんによるPixabayからの画像です。

何か行動を見せるとしても、それは損得勘定で動くだけです。

他の人々や、自然の生き物を思いやる気持ちで、動くわけではありません。

ですから、これは損をするぞと思うと、手のひらを返したように、行動するのをやめてしまいます。

世界を動かせる地位にいるのに、そのために必要な知性も思いやりも、持ち合わせていないのです。

そして、その結果が、今の世界の状況なのです。

今の地球の環境を見て、自然が人間に牙をむいたと、受け止める人もいるでしょう。

しかし、自然はそんなことはしません。

向けられた力に対して、それに応じた反応を、示しているだけです。

別に自然が人間を嫌ったり、人間を排除しようと、しているわけではありません。

人間の方が自然に対し、勝手に喧嘩を売って、勝手に怪我をしているのです。

ちょうど、大きな壁に思いきり投げつけた球が、跳ね返って自分に当たったような感じです。

 ※Gordon JohnsonさんによるPixabayからの画像です。

人はせっかくの知性を、もっとうまく活用しないといけません。

知性を使って、物事の道理が理解できれば、自分が思いやれる対象が広がります。

みんな仲間であり、みんなの助けがあるから、自分は生きていられるのだと、理解することが必要なのです。

知性の欠片もない指導者たちに、人生の舵取りを、任せるべきではありません。

指導者には知性のある者を、選ぶべきです。

同時に、個人個人も知性に基づいた、暮らし方を模索するのです。

そうすれば、人間社会の問題も、自然の猛威も、全て解決するでしょう。

三人寄れば文殊の知恵

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

先日の球磨川に続いて、他の川でも氾濫が起こっています。

普段は、あまり雨が降らない松山も、昨日はかなりの雨が、降り続きました。

幸い、川の水があふれるには、至りませんでしたが、今後もずっと無事だという、保証はありません。

気象情報では、数十年に一度の大雨、という表現をしていました。

でも、それはこれまでの数十年、という意味に過ぎません。

今は記録的豪雨が、毎年どこかで発生しています。

安全だったはずの地域が、いつ同じような雨に見舞われても、不思議でないのです。
それに、今年被害を受けた地域が、来年は大丈夫だとも言えません。

9年前に東北で起こった津波の映像は、日本中にショックを与えました。

大雨で川が氾濫して、町が水浸しになったり、家や車が流される状態は、あの津波に共通するところがあるでしょう。

津波と洪水では、災害の規模や呼び名が違いますが、本質的な所は同じです。

東北の震災は、本当にショッキングな出来事でした。

多くの人が、恐れと同情を感じながら、自分たちが安全であったことへの、安堵を覚えたと思います。

そうして、結局は他人事と感じていれば、時の流れとともに、震災で受けた様々な思いは、薄れて行きます。

ところが今のように、毎年日本のどこかで、大きな水害が起こる状況では、多くの人が被災者となり、その苦悩を共有することになります。

繰り返し起こる災害は、人々の苦悩の記憶を蘇らせ、薄れることを防ぎます。

あちこちに被害が広がることは、いい事ではありません。

しかし、現実はそういう状況ですし、結果的に多くの人が想いを共有し、心を一つにすることになると思います。

どこかで起こった災害を、他人事とはとらえずに、現地の人たちと一緒になって、対策を考える人が、増えるでしょう。

現地の人たちも、外から来る人々に心を開き、再び前を向いて歩く力を、取り戻せると思います。

 ※qq QQさんによるPixabayからの画像 です。

三人寄れば文殊の知恵、という諺があります。

文殊とは、知恵をつかさどる菩薩のことです。

凡人でも三人で考えれば、文殊のような素晴らしい知恵が、出るというたとえです。

災害について、被災地だけで考えても、いい方法は生まれないでしょう。

その理由は、その地域の地理的なことや、経済的なことだけではありません。

その地域の人々が長年抱いて来た、土地への愛着や風習、価値観などの影響もあるのです。

こんな所だから、災害に見舞われるのは、仕方がないという、諦めも出て来てしまいます。

しかし、他からの助けとともに、新しい知恵、新しい価値観が加わると、どうせだめだと思っていたことが、だめではなくなるのです。

三人寄れば文殊の知恵、という言葉は、三地域寄れば文殊の知恵と、言い換えることができるのです。

この三という数字は、三つの視点、三つの価値観、三つの感覚のような意味合いです。

同じ思考の凡人が、三人集まるということではないのです。

凡人でも一人一人が、異なる人間だというのが前提です。

全く同じ思考しかできない者が、何人集まったところで、文殊の知恵は出ないでしょう。

 ※Christine SponchiaさんによるPixabayからの画像です。

違う地域の人間が、集まって考えた方が、思いがけないアイデアが出て来たり、思い切って古い価値観から、新しい価値観に移りやすくなると思います。

ただし、相手を思いやることを忘れて、自分の意見ばかりを主張するようだと、争いや反発が生じます。

それでは何のために、話し合うのかが、わからなくなってしまいます。

意見はいろいろあった方が、いいと思います。

でも、その意見の基盤や背景を、思いやる気持ちが、お互いにないといけません。

大都会、地方の中心都市、田舎の集落。

三地域とも生活環境が違いますし、価値観も違います。

しかし、どこか一つだけでは、社会が成立しません。

互いが互いを、必要としているのです。

どこかの問題は、他の所の問題でもあるわけで、共に考えていかなくてはなりません。

行政についても同じです。

国、県、市町村では、視点も違えば、作業も異なるでしょう。

でも、人々の生活を守るという点では、その存在意義は同じです。

それに、それぞれの役所で働く人も、職場を離れれば、一人の日本人です。

みんな立場は同じなのです。

個人の財産は、個人で守る。
災害から立ち直るのは、個人の責任で。

こういう発想では、だめです。

みんなの幸せのために、それぞれの立場でできることを、行わねばなりません。
そのための行政です。

やりたくても無理がある、限界があると思う時こそ、文殊の知恵です。

一人では思いつかないような、様々な工夫や支援が、見えて来るでしょう。

三人寄れば文殊の知恵。

この言葉こそ、文殊の知恵そのものだと思います。

球磨川の氾濫

 ※NHK Webニュースより

昨夜から降り続いた豪雨で、熊本県の球磨川が氾濫しました。

球磨川上流のダムが、水が一杯になったために、すでに氾濫している川に、水を放流するという話もありました。

幸い、ダムの放流は中止になり、その点はよかったと思います。

以前に愛媛の大洲で、同じような状況の中、ダムの緊急放流が行われ、町も人命も失われるという、大惨事になりました。

町を守るはずのダムで、町が壊れてしまったのでは、本末転倒です。

球磨川でダムの緊急放流が、中止になった事は、本当によかったです。

それでも、やはり氾濫や土砂崩れで、被害に遭われた方や、亡くなられた方がいらっしゃいます。

もう少しで、梅雨明けを迎えただろうにと思うと、本当にお気の毒かつ残念でなりません。

毎年のように起こる水害ですが、やはり温暖化のせいで、気候が変わってしまったように感じます。

コロナウィルスもそうですが、一人一人の人間が、いろいろな事に目を向けて、自分の頭で考え、正しい道を選ぶように、地球から求められているような気がします。

被害に遭われた方や、亡くなられた方が、そういう事を求められているわけではありません。

求められているのは、人類全体です。

被害に遭われた方たちは、人類が大切な事から、目を背けて来た事による、犠牲者だと言えます。

その責任は、私たち一人一人にあるのです。

もちろん、一人の人間にできる事は、限られています。
それでも、その一人が多く集まる事で、大きな変化、大きなうねりを作る事ができます。

 ※rony michaudさんによるPixabayからの画像です。

一人の言動の影響は、水面に小石を投げ込んだ時の、波紋のように、その人が知らない所で、周囲に広がって行きます。

自分一人に何ができるかと思わずに、自分が正しいと思った事は、行動に移して下さい。

それは必ず周囲に伝わって行きます。

温暖化を防ぐためにできることには、次のようなものがあります。

電気の無駄遣いをしない。
ちょっとの距離なら、車やバイクを使わずに、歩いたり自転車で移動する。
遠方であれば、なるべく電車やバスを利用する。
国や企業の温暖化対策を、できる限り支援する。

自分にできる事は、本当に知れています。

それでも、その心意気は周囲に伝わります。

大切な事は心意気が広がって、世の中の雰囲気が変わる事だと、私は思います。

それは、温暖化対策に限った事ではありません。

どんな事でも、一人一人の気持ちが大事です。

それを何かの形で表現し続ければ、必ずそれに共鳴する人が、増えて来ます。

そうして世の中は、変わるのです。

今後のコロナウィルス対策

7月になりました。

九州や東海など、あちこちで大雨が降りましたが、幸い洪水や土砂崩れなどの被害は、なかったようです。

このまま何事もなく、梅雨が明けてくれる事を願います。

四国の雨も思ったほどではありませんでした。

愛媛では、新たなコロナ感染の報道もなく、かつての日常が戻って来たかのような、平穏な日々が続いています。

しかし、東京を中心とした関東地域や、北海道などでは、相変わらずコロナ感染が、増加傾向にあるようです。

特に東京と周辺地域は、仕事も生活も一体化している状態です。

地方と比べると、状況をコントロールしづらいと思います。

前回の自粛に伴った、経済的損失を考えると、東京都も簡単に再自粛を、求めるわけにはいきません。

それに緊急宣言をして、再び外出や商売の自粛を求めたところで、コロナウィルスはなくなりません。

現在の状況が、その事を証明しています。

しかし、感染者の増加は明らかなので、放って置くこともできません。

かと言って、どう対処すればいいのかがわからず、国も東京都も途方に暮れているようです。

 ※fujiwaraさんによる写真ACからの画像です。

責任も取れないし、これ以上お金も出せない。
だから、強制的な指示を、出すことはむずかしい。

こんな国や東京都ができるのは、国民・都民の自主的な判断に、すがる事だけでしょう。

愛媛にいると、何も問題が起きていないような、錯覚を覚えます。

でも、東京と他県との移動制限が解除されましたから、いずれ再び愛媛でも、コロナ感染が増えるのでしょう。

世界に目を向けてみると、EUが日本など14カ国からの、渡航制限を解除する事を決めました。

しかし、EU諸国がコロナウィルスから、解放されたわけではありません。

それなのに、自粛制限が解除された事で、ウィルスへの警戒心が、吹っ飛んでしまったような、ヨーロッパの人々の姿が、テレビで紹介されていました。

恐らく、コロナウィルスの感染者は、爆発的に増えるでしょう。
その影響は、当然日本にも届きます。

その時に政府はまた、専門家の人たちの意見を聞くばかりで、右往左往するのでしょうね。

アメリカやブラジルなど、まだまだコロナウィルスが、猛威を振るっている国も、多くあります。

コロナウィルスを封じ込めた、と主張している中国でも、新たなウィルス患者が増えて来ています。

そして今度は、首都北京が、危険な状態にあるようです。

 ※Aneta EszさんによるPixabayからの画像です。

その中国では、豚から新型インフルエンザウィルスが、見つかったそうです。

100%人に感染する型だそうで、誰も免疫を持っていないので、一度広がり始めたら大変な事になると、研究者が警告を発しています。

コロナウィルスは若い人が感染しても、大した症状が出ないと言われています。

しかし、新型インフルエンザウィルスとダブル感染したら、若い人でも命の危険を、伴う事になると思われます。

この新型ウィルスに限らず、今後も人間に感染する、強力なウィルスが出現する可能性は、いつでもあります。

もはや想定外とか、100年に一度などという事は言えません。

いつ、新たなウィルスが発生しても、それに対応できる体制を、調えておく必要があります。

それは人々が外出を自粛しても、生活に困らないような、経済システムの構築です。

そういうシステムは、ウィルスの脅威がない平常時でも、役に立つはずです。

 ※bBearさんによる真ACからの画像です。

何かで急に仕事ができない状態になっても、生活ができなくなる不安を、抱える必要がなくなるわけです。

つまり、人々の暮らしに寄り添った、思いやりのある政策やシステムが、求められているのです。

それさえあれば、どんなウィルスが現れたとしても、今のような状況にはならないでしょう。

前にも述べましたが、結局ウィルスは、人間社会のいびつさを、浮き彫りにしているだけなのです。

政治家の方たちには、そこに早く気づいて、動いてもらいたいと思います。