不便な便利 その2

今の若い人たちには、自動車を買う余裕のない人が、多いと思います。

若い人たちの考える便利な物と言えば、やはりスマホでしょうね。

 ※Berutaさんによる写真ACからの画像です。

電話やメールはもちろん、カメラにもなりますし、インターネットを楽しんだり、ゲームをしたり、買い物をしたりと、使い方次第で様々なことができるようです。

私はスマホは持っていないので、詳しくはよくわかりませんが、ガラケーと呼ばれる携帯電話は持っています。

これも電話番号を登録したり、ちょっとしたメモにも使えますから、便利と言えば便利です。

でも、そのお陰で電話番号を、覚えられなくなりました。

また、携帯電話のメモ帳や、パソコンのワープロなどで、文字の自動変換機能を使っていると、ペンで字を書く時に、漢字を思い出せなくなるのです。

そんな経験をしている方は、とても多いと思います。
便利になった分、脳の機能が衰えたのです。

体も動かさなければ、どんどん筋肉が落ちて行きます。

それと同じように、頭も使わなければ、使用されない神経同士のつながりが、どんどん失われて行くのです。

ですから、スマホやパソコンのゲームにはまって、ひたすらゲームをしていたり、ただテレビやインターネットの動画や番組を、じっと見ているばかりだと、脳の機能は衰えて行くでしょう。

 ※Felix LichtenfeldさんによるPixabayからの画像です。

ただ、それしかやらない人は、脳機能の低下に気がつきません。

と言うのは、衰えて行く脳機能を、使う機会がほとんどないからです。

しかし何かの事情で、他のことをせざるを得ない状況が、訪れるかも知れません。

そんな時に、自分では何も考えられない、何も決められない、人に言われたことが理解できない、などの問題が出て来る可能性は、十分にあると思います。

また、今はいつでも無料で通話ができるようなので、特別用事もないのに、ずっと電話をつなぎっ放しにする人がいるようです。

ちょっとトイレに行って来るからと言って、何分も電話に出ないまま、相手を放っておいても平気だし、放っておかれた方も、お互い様なのか平気なようです。

世代の違いと言えば、それまでですが、私たちが若かった頃には、そんな簡単に電話などできませんでした。

市内の相手と喋るならば、3分10円と安かったですが、遠方の人と喋ると、みるみる通話料が増えて行きます。

公衆電話で喋る時には、10円玉を何枚も用意しないといけませんでした。

ですから、喋る時には短い時間で伝えられるよう、何を喋るのかを頭の中で、ちゃんとまとめておいたものです。

また、電話をかけた時に、相手がどんな状態にあるのか、わかりませんから、相手が電話をしていても大丈夫なのかを、必ず確かめていました。

相手が食事をしているだろうとか、仕事中かなとか、寝ている時間だなと思う時には、電話はかけません。

それに大概の家が同じだったと思いますが、電話と言えば、固定の電話が茶の間に一台あるだけです。

 ※リリ子さんによる写真ACからの画像です。

今の若い人は見たこともないかもしれませんが、指でダイヤルの番号を回すタイプの電話です。

のちに番号のボタンを押す、プッシュ式という電話機が出ましたが、固定電話であるのは同じです。

それが今は、パソコンとカメラと電話が一体化した、スマホというものを、一人が一台持っていて、24時間いつでも電話で自由に喋ることができるわけです。

自分が電話をしたいから、電話をする。

自分が目を覚ましているから、電話をする。

そこには相手への配慮や、相手の様子をうかがう想像力がありません。

相手が文句を言わなければ、別に構わないだろうと言えば、確かにそうなのですが、それでも他人を気遣う習慣というものが、失われているのは確かでしょう。

そいういう事は知り合いとの通話ばかりでなく、見知らぬ人との関係においても、相手の事情を考慮するという観点が抜け落ちて、自分勝手な行動を見せることに、なるかもしれません。

たとえば、公共の施設へパジャマにサンダルのような格好で、平気で入って行く。

駐車場があろうがなかろうが、お構いなしで、自分が好きな所に車を止める。

自分が飲み食いしたあとのゴミを、いらないからと言って、どこにでも捨てる。

決して悪気はないのかもしれません。
しかし、自分の行動によって、誰かが迷惑をこうむるかもしれないという、観点が抜けています。

 ※しらさんさんによるイラストACからの画像です。

世の中が平和なのは、みんながルールを守っているからです。

町がきれいなのは、ゴミを拾ってくれる誰かがいるからです。

みんなが好き勝手をするようになれば、どんな町、どんな社会になるのか、考えればわかるでしょう。

しかし、考える能力が低下していると、そういうことを頭に思い浮かべることすら、苦痛になるのかもしれません。

携帯電話やスマホなどを開発した人は、世の中がそんな風になることを、予想して開発したわけではないでしょう。

それでも、便利が産み出す不便というものが、実際に生じてしまうわけです。

自分勝手ではなく、他の人のことを思いやれるのであれば、スマホは本当に便利なグッズとなるでしょう。

そうでなければ、様々な社会問題を生み出す元凶と、みなされてしまうと思います。

でも、これはスマホが悪いのではなく、他人を思いやれるような教育が、なされて来なかったとことが問題でしょう。

これからの教育は、人と人のつながりを大切にできることを、一番の目的にするべきだと思います。

不便な便利 その1

人間は創意工夫によって、様々な便利な物を、創り出して来ました。

また科学の発展は、さらなる便利グッズの開発に、拍車を掛けました。

昔はなかったもので、現在普通に使われている、便利なものと言えば、まずは自動車でしょう。

それとスマホやパソコンなど、インターネット関連のものですね。

他にも録画や録音などの機器、エアコン、いろいろな家電製品。

昔は贅沢品と見られていた自動車も、今では多くの人が当たり前に使っています。

 ※phon-taさんによる写真ACからの画像です。

自動車があれば、昔であれば絶対に行けなかった遠い所へ、たった一日で訪れることができます。

雨が降っても、濡れることなく移動ができます。

荷物を手に持ったり、背中に背負う必要もありません。

あまりにも便利で、当たり前の移動手段になったため、ほんのすぐそこへ行くにも、自動車を使ってしまいます。

そのため、人はほとんど歩くことが、なくなってしまいました。

それによって体力が低下し、年を取ってから歩けなくなる人が、増えていると言います。

また、自動車で移動することは、目的地まで速く移動できるということで、人々は目的地に速く到達することが、当然のことのように考えるようになりました。

ですから、前をゆっくり走っている車があると、イライラしますし、横断歩道を渡ろうとしている人がいても、無視して突っ走ったりするのです。

 ※モッサイさんによるイラストACからの画像です。

そこまでして、どれぐらい速く目的地につけるのかと考えると、大して変わらないわけですが、それでも1秒でも速く着きたいと、思うのですね。

では、その人が普段から1秒を惜しんで、暮らしているのかと言うと、まずそんなことはないでしょう。

車で無理をして走れば、少々出るのが遅くなっても、その分を取り戻すことができると思い、家では無駄な時間を、過ごしているのではないでしょうか。

その結果、いつかは事故を起こし、人生を台無しにするようなことが、起こるのです。

車を降りて、自分の足で歩いて見ると、運転中には絶対に見ないような、町の景色が見えて来ます。

こんな所にこんな物があったのかとか、驚いたり感動することが、結構あるものなのです。

 ※ぶるーむーんべるさんによる写真ACからの画像です。

自動車で移動していると、出発点から目的地へ移動する、ということだけが重視されるので、途中の町の様子など、見えているはずなのに、何も頭に残らないのですね。

この発想は自動車の運転ばかりでなく、仕事への取り組み方にも、影響するようです。

それは、結果ばかりを追い求め、結果を出すまでの、途中経過はどうでもいいという考え方です。

つまり、どんな手段でもいいから、とにかく結果を出せばいいという考え方ですね。

そして、結果を上手く出せない者は、無能と見なすのです。

そういう歪んだ考え方が、今の世の中には、まかり通っているのではないでしょうか。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

知らず知らずのうちに、目的地へ速く到達することが、いいことなのだという考え方が、すりこまれた結果のように思えてしまいます。

元は便利を求めて開発されたはずの、自動車などの機械は、結局は人々に不便な暮らしを、強いる結果になっているのかもしれません。

便利とはどういうことなのか。
不便に見えることは、いけないことなのか。

そんなことを子供のうちから、考えられるようになっていれば、便利なのに不便という世の中には、ならないと思います。

あれから10年

東北の震災が起こってから、昨日で10年が経ちました。

復興が進んでいるように見える部分もあれば、未だにあの時のまま、時が止まってしまったような所もあります。

それは土地や建物だけではありません。

人の心も同じです。

前を向いて生きて行くことを、決意した方もいれば、未だに一歩が踏み出せないまま、当時を見つめ続けている方もいます。

同じ状況にあっても、心の傷の深さや、癒やされる速さは、人によって違います。

10年という時の長さを、長く感じる人もいれば、あっと言う間だったと思う人もいます。

立ち直ることができるタイミングは、一人一人異なりますから、まだ立ち直れない人に対しては、見守ってあげることしかできません。

立ち直るというのは、その人自身の決意ですから。

映像を見ると、未だに胸が苦しくなりますが、それでも、あの震災の中に、希望を見出すことはできます。

それは震災が、人々の心を一つにしたことです。

テレビの映像がなければ、どんなにひどい被害であっても、結局は、地方の損害という話で終わっていたでしょう。

ところが、地震と津波と原発の爆発というものを、画面を通して、目の当たりにした人々は、国境を越えて同じ想いを抱いたはずです。

それは、その後、様々な所で起きた自然災害についても、現地の人に対する想いを、呼び起こすことになったと思います。

そして今、コロナ騒ぎで世界中がダメージを受けている中での、震災からの10年です。

10年も11年も変わらないと言えば、そうなのですが、人間にとっては、10年というのは一つの節目です。

その節目が、この時期に重なっていることは、偶然ではないように思えます。

誰が人々に、訴えようとしているのかはともかく、震災から10年という節目と、コロナ騒ぎが重なっているのは、何が大切なのかを忘れるなと、叫ばれているような気がします。

新型コロナで問題になっているのは、コロナウィルスそのものではなく、人間社会の歪みです。

人々の荒んだ心なのです。

そこを理解しないままであれば、たとえコロナ騒ぎが沈静化したとしても、さらなる全世界的なパニック状況が、引き起こされるような気がしてなりません。

私にはこれらの災害が、地球の叫びであると同時に、人類自身の叫びであるように思えるのです。

目の前の状況に、パニックになるのではなく、人々の心、地球の心に気持ちを傾け、自分の心をつなぐこと。

それこそが、今求められていることなのでは、ないでしょうか。

地球へのやさしさ

地球にやさしい
環境にやさしい

今、流行の言葉ですね。

この言葉のきっかけになったのは、地球温暖化だと思いますが、最近よく言われるのが、ナノプラスチックという、プラスチック分子の弊害です。

 ※ds_30さんによるPixabayからの画像です。

海に溶け込んでいるナノプラスチックは、オキアミなどの小さな生き物に、取り込まれます。

そのあと、オキアミなどを食べる生き物に取り込まれ、その生き物を食べる、もっと大きな生き物に取り込まれます。

食物連鎖の上位に行くほど、ナノプラスチックは濃縮されて、多量に取り込まれるということです。

天然マグロは食物連鎖の上位にいますので、ナノプラスチックの含有量が、とても多いそうです。

そして、それを今度は人間が食べるのですから、知らんぷりをして放置していたプラスチックが、巡り巡って人間の元へ戻って来るというわけです。

だから大変ということなのでしょうけど、ちょっと違うような気がします。

温暖化にしてもそうですが、このままでは人類はどうなるのか、ということで対策を訴えます。

南極の氷が溶けて、海水面が上昇すると、海岸近くにある大都市は、ほとんどが水没すると言われると、これは何とかしないと、と考えるのでしょうね。

 ※Juanlu FajardoさんによるPixabayからの画像 です。

環境のことに、全然見向きもしない人の目や耳を、この問題に向けさせるためには、こういう訴え方をしないと、仕方がないのでしょう。

だから、地球にやさしい、環境にやさしい取り組みをしようとなるのでしょうが、やはりちょっと違和感を覚えてしまいます。

仕方がないのはわかっていますが、本当はもっと突っ込んだ見方が、できるようになってくれればと願う次第です。

何が言いたいのかと言いますと、自分たちに悪影響があるから、やめましょうという考え方は、正しい考え方ではないということです。

また、地球に優しい、環境にやさしい、エコです、と言えば、その企業は優良企業ということになり、企業の宣伝になるのも、何か間違っています。

日本政府は脱炭素化を打ち出しましたが、そのために原子力発電所を復活させろという声が、出て来ているようです。

温暖化は地球に優しくないけれど、放射能汚染は地球に優しいとでも、言いたいのでしょうか。

結局は、自分たちの金儲けのことしか、考えていないのです。

温暖化にしても、プラスチック問題にしても、根っこは同じです。

金儲けになることには手を出すけれど、ならなければ知らんぷりなのです。

 ※Anastasia GeppさんによるPixabayからの画像です。

やさしくするという場合、その対象となるのは、生命のあるものであり、やさしくされることに反応できるものというのが、前提になると思います。

ですから、通常は人間に対して使う言葉です。

人間以外で使うとすれば、動植物まででしょう。

生き物としては認められていない、石や材木、山や海や川、空に浮かぶ雲や、燃えさかる炎などには、使いません。

しかし、地球や環境にやさしい、と言うのです。

この言葉を本気で使うのであれば、地球や、環境を構成している全ての存在を、生命のある存在と認めなくてはなりません。

人間とは全く異なる形態の存在だけれども、それでも生命があり、何かを感じているのだと、理解する必要があるのです。

また、地球や環境にやさしくするという言葉を使う時、地球や環境を、人間とは別物のように見ています。

これは宇宙を研究し、宇宙を語る学者が、自分自身が宇宙の一部であることを、忘れているのと同じです。

実際は人間も地球の一部であり、環境の一部なのです。

つまり、地球にやさしい、環境にやさしい、というのは、自分たち自身にやさしい、という意味になるのです。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

下らないことで争ったり、国同士で戦争をしたり、こんなことをしていて、地球にやさしい、環境にやさしい、もないでしょう。

また、自分のことを無価値だと決め込む人も、地球にやさしいという言葉は使えません。

地球にやさしくする、地球を大切にするというのは、自分にやさしくする、自分を大切にするとうことと、同じ意味なのです。

全ては一つなのです。

別のものに見えたとしても、みんな根っこは同じなのです。

自分に影響があるかどうかなど考えているうちは、やさしさは偽物です。

自分と他の存在が一つであると感じている場合、その存在のために行動することで、自分がどうなるのかなど考えません。

自分の大切な人のために、我が身を顧みずに、行動するのと同じです。

お金が儲かるかどうかを考えるなど、愚の骨頂でしょう。

それに、温暖化や環境汚染によって、人間や生き物が暮らせない状態になったとしても、地球はそんなことで潰れるほど、やわではありません。

人間には想像もつかないような年月をかけて、地球は自分自身を浄化するでしょう。

 ※WikiImagesさんによるPixabayからの画像です。

人間は地球や自然の管理者を気取っていますが、とんでもない話です。

こちらが地球や自然のお世話になり、生かしてもらっているのです。

子供が親に、好き勝手をさせてもらっているのと同じです。

その子供が他の所で、親の世話は大変だと、偉そうに喋っているようなものです。

地球に人間の勝手な世話はいりません。

そんなことではなく、自分が地球の一部であり、自分と他の存在たちは、一つなのだと理解してもらうことを、地球は望んでいるに違いありません。

そうなれば、地球にやさしくなどと、無理に叫ばなくても、誰も地球を汚すような真似は、しないはずです。

刑務所の話 その2

日本の刑務所でも、高齢化した受刑者たちが、出所したあとも、わざと軽犯罪を犯して、刑務所へ戻って来るようです。

テレビで見せられた刑務所の様子は、刑務所と言うより、老人ホームのような感じでした。

食事は用意してもらえるし、病気になっても無料で診てもらえます。

中には、透析まで受けている受刑者がいました。

出所しても独りぼっちだけど、刑務所にいると、お友だちが一杯いるという受刑者もいるのです。

もちろん、お友だちというのは、刑務官ではなく、似たような高齢の受刑者たちのことです。

刑務官も困惑の様子で、こういう人たちを扱う所は、本当はここではないと思うのだけれどと言うのですが、どうしようもありません。

凶悪な犯罪を犯す者も、刑務所での暮らしが忘れられずに、罪を繰り返す者も、どちらも根っこは同じだと思います。

つまり、社会の中では居場所がない、幸せを感じられない、疎外感がある、などの状況が犯罪を生むということです。

本当に犯罪を減らしたいのであれば、何故犯罪が起こったのかを、徹底的に調べることが重要です。

恐らく、調査はされているのだと思いますが、その結果が、犯罪防止に活かされていないのが、現状でしょう。

その理由は、議員の方たちが、こういうことを真剣に考えていないからだと思います。

真剣に考えているのであれば、もっと多額の税金を投入し、現場に多くの有能な人材を、投入しているはずです。

使える税金は限られているから、限られた中でするしかないと、議員の方たちは考えるのかもしれません。

でも、これは病気にどう対処するのか、という事と同じです。

本当に具合が悪くなってから、病院で治療を受けるよりも、悪くならないよう、予防に力を入れる方が、お金はかかりません。

本人も病院の人たちも、その方が楽です。

犯罪を防ぐことにお金を使うことは、起こった犯罪に絡んだ、様々な費用を捻出するよりも、遥かに安上がりでしょう。

それにお金のことよりも、被害者であれ加害者であれ、不幸な人間を生まずに済むのです。

何でも個人の責任にする人は、基本的に人間が好きではないのでしょうね。

人間が好きなのであれば、個人の責任だと言いながらでも、困っている人を見ると、助けようとするものです。

国のことを、本当によくしたいと思うのであれば、議員の方たちには、すぐにでも動いてもらいたいものです。

お金をかけるだけでなく、現場に関わっているような人たちに、集まってもらって、いろいろ意見を募るのもいいと思います。

会社などでもそうですが、現場の声を聞かずに、上から指示を出して、とにかくこれに従えというのは、状況改善にはつながりません。

また私たち自身も、何でも国任せにするのではなく、困っている人には手を差し伸べるだけの、優しさと心の余裕を持ちたいものです。

刑務所の話 その1

世界一受刑者に優しいと言われる、ノルウェーのハルデン刑務所を取り上げた、番組を見ました。

刑務所には格子がなく、受刑者は全く普通の暮らしを、刑務所内で過ごすことができます。

建物の内装も立派です。

受刑者の部屋は個室で、テレビもDVDもあります。

小さなスーパーもあって、受刑者はそこで買い物をし、自分たちが食べる物を、自分で調理して食べるのです。

当然、殺人犯のような重大な事件を、起こした者もいます。

でも、お互いに相手が起こした事件など、全然気にしない様子で、みんな和気あいあいとしていました。

気の合う者同士で、ゲームをしたり、歌を歌ったり、ラジオ局までが入って来て、彼らの声を国民に届けています。

毎週末、刑務所を訪れた家族と、自分たちだけで過ごすことができる建物もあり、生まれたばかりの子供を、受刑者が腕に抱くこともできるのです。

日本人で言えば、遠方に単身赴任している夫と、週末に会う家族のようですね。

そこには監視がまったくないので、悪巧みをしたり、薬物を持ち込むことも可能ですが、基本的に受刑者たちは、信頼されている形です。

こうした人間的な扱われ方は、実情を知らずに入所した受刑者を、戸惑わせるようです。

普通は、刑務所とは罰を受ける所であり、嫌な場所だと思われているからです。

また、実情を知っている者の中には、この刑務所に入ることを、警察と交渉した者もいます。

麻薬の密売をしていた受刑者は、この刑務所で勉強をし、資格や技術を手に入れて、外に出ることを目指していました。

彼が言うには、何もないまま外へ出ると、きっと同じことをしてしまうが、もうそんなのは御免だから、ここで勉強をするのだそうです。

ごくわずかながら、所内で自殺をしたり、脱走をする者もいるようですが、ほとんどの受刑者は、この刑務所を好意的にとらえています。

そして、この刑務所を出所した者たちの再犯率は、かなり低いと言われています。

ただ問題は、これだけの刑務所を造るのに、多額の費用がかかることと、受刑者全員に快適な暮らしを提供することに、国民全員が納得しているわけでは、ないということでしょう。

それでも、そうせざるを得ない事情が、ノルウェーにはあるのです。

と言うのは、ノルウェーには死刑も終身刑もありません。

どんなに重大な事件を起こしても、いつかは必ず、受刑者は社会に出て来るのです。

と言うことは、再犯率をいかに下げるかという事が、一番の問題になります。

そのため、感情は脇に置いて、様々な取り組みを試行錯誤する、必要があるのです。

犯罪に巻き込まれた側からすれば、受刑者が罰を受けずに、快適な暮らしをしていることに、違和感を覚えることでしょう。

下手をすれば、被害者よりもいい暮らしを、させてもらっているかもしれないのです。

それに国が犯罪者を罰しないのであれば、自ら手を下して、犯罪者を罰してやると考える人が、現れるかもしれません。

再犯率が低いことは、大いなる魅力ではありますが、被害者の個人レベルでは、再犯率などどうでもいい事でしょう。

要は、犯罪というものを、個人レベルで見るのか、社会レベルで見るのか、という事です。

社会レベルでの視点を優先するのであれば、国や自治体は被害者のフォローを、責任持ってしなければなりません。

ただ、この問題が教えてくれているのは、刑務所の話だけではないのです。

人間的な扱いをされることで、再犯率が減るということは、受刑者たちは犯罪を犯す前は、人間的に扱われていなかったと、見ることができるでしょう。

彼らが初めから人間的に扱われていたならば、彼らが犯罪を犯すこともなかったということです。

お互いの思いやり

 ※くりまんさんによるイラストACからの画像です。

思いやりのある人と出会うと、心が和みますよね。

また、誰かを思いやる時、とても優しい気持ちになっています。

優しい気持ちの自分って、すごくいいと思いませんか。

このように、誰かから親切にされた時、された方だけでなく、した方も気持ちがいいのです。

ところが、誰かを思いやったつもりが、予想外の嫌な態度を見せられることがあります。

そんな時には、とても悲しい気持ちになり、もう二度と誰かに親切なんか、するものかと思うかもしれません。

あるいは逆に、気持ちが尖っている時には、普段ならばどうでもいいような、ちょっとしたことでも、気に障ることがあります。

相手が親切な気持ちでしてくれたことでも、余計なお世話だと受け止めてしまいます。

どちらも誰にでも起こり得ることですが、いずれも残念なことですよね。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、混んでるバスや電車で、座っていた若い人が、途中から乗車して来た、年配の人に席を譲ろうとすることがあります。

普段から、ゆずり慣れている人はともかく、そうでない人が、知らない人に声をかけて、席を譲るというのは、相当勇気のいることです。

それを、迷いに迷った挙げ句、譲ってあげようと立ち上がったのに、他の乗客たちの見ている前で、年寄り扱いするなと怒られたら、どんな気持ちになるでしょうか。

恐らく、その人はお年寄りを見ても、再び席を譲ろうとはしないでしょう。

あるいは、怒られなかったにしても、結構です、大丈夫です、と断られても、大恥をかいたような気になるものです。

こんな場合には、自分はまだ年寄りではないと思ったとしても、にっこり笑って、ありがとうとお礼を述べ、座らせてもらった方がいいと思います。

できれば、一言二言、席を譲ってくれた人と、ちょっとした会話でもできれば、最高です。

もし、座れない事情があるのなら、相手の気持ちへの感謝を示してから、そのことを説明し、やはり一言二言、会話をかわすというのが、いいでしょう。

そういうのが、お互いを思いやるということなのです。

悪気はなかったにしても、誰かの好意に対して、嫌な態度を見せてしまったならば、次からはそうならないよう、気をつけましょう。

 ※ウラテツさんによるイラストACからの画像です。

お店などで、自分は客だということで、傲慢な態度を見せる人がいます。

一方で、せっかく来てくれたお客に、無愛想で不親切な応対をする店もあります。

こういう場面にでくわすと、とても残念ですし、悲しい気持ちになります。

みんな人間に生まれて来たのに、人間としての喜びを、自ら放棄しているようなものです。

お互いを思いやり、感謝し合う世の中であれば、世の中を騒がすような事件などが、ニュースで伝えられることはなくなるでしょう。

こういう世の中にするためには、子供の頃からの教育が大切です。

無理やり知識を詰め込む教育ではなく、人間としての基盤を築くような教育こそが、必要なのだと思います。

また、その教育は学校任せにするのではなく、家庭や地域でも、しっかりと子供に教えないといけません。

いずれは社会の中心を担う子供たちが、思いやりと感謝の心を、当たり前のこととして抱くことができれば、世の中は間違いなく、いい方向へ変わるでしょう。

 ※Fuha_Wakanaさんによる写真ACからの画像です。

大腸癌の治療

ニュースで、進行性大腸癌の治療成績についての、報告がありました。

それによれば、進行性大腸癌の治療で、手術をして抗がん剤を使用した人と、手術をせずに抗がん剤のみで治療した人では、治療成績に大きな差がなかったとのことです。

また、抗がん剤の副作用では、手術をした人の方が、苦しむ人が多かったそうです。

どちらも生存率は2年2ヶ月ほどだったので、今後の治療方針としては、出血などの合併症がない限り、手術はせずに化学療法中心の治療に、なるだろうということでした。

かつては癌と言えば、不治の病の代表で、映画やドラマでも、悲劇のヒロインが癌に罹っているという話が、よくありました。

今では不治の病という印象がなくなったのと、似たような話ばかりになると、飽きられるからでしょうか、こういうストーリーの映画やドラマは、少なくなったように思います。

そうは言っても、癌が治ると言われるのは、早期発見と早期治療の結果でしょう。

見つかるのが遅かった場合や、本人の体力がない場合などは、癌は不治の病になってしまいます。

ところで、昔はこれと言った治療法がなかったため、手術できるものは切除してしまえという風潮が、医療界にはあったようです。

癌と診断がつくと、内科はお手上げ状態で、外科だけが頼みの綱という感じでした。

また、患部を切り取ってしまえば、それで治ったことにするという、暗黙の了解があったように思います。

しかし、たとえば胃癌で胃を切除してしまうと、癌はなくなるかもしれませんが、胃もなくなってしまいます。

それでも生きることができるのだから、それでよし、とされていたのですが、やはり、それまであった胃がなくなると、その方の生活にも影響が出て来ます。

食事の仕方を工夫しないといけませんし、胃を取ったせいで貧血になることもありますから、それを予防する薬も、必要になって来ます。

胃がないと、食べた物がいきなり腸に流れ込みますから、血糖値が急激に上昇することもあります。

このように、癌を切除しても、元の健全な状態に、戻るわけではありません。

それができるのは、ごく早期の癌で、本当にその部分だけを、プチッと取れる場合だけです。

そうでない場合は、癌がある状態を、体の一部(胃癌の場合は胃)が欠如した状態に、置き換えるのです。

癌だと死ぬけれど、体の一部が欠如しても、死なないのだからいいだろう、という感覚ですね。

当然、失われた部分が担っていた役割は、果たす者がいなくなるのですから、その分は何らかの、体の不調という形で現れます。

今回、発表がありました、大腸を切除する場合と、切除しない場合では、切除しない方が、抗がん剤の副作用が少なかったとありました。

と言うことは、癌と一緒に切除されてしまう大腸には、抗がん剤の副作用を抑える、何らかの影響力があったと、考えられるのです。

もしかしたら、大腸を失ったことによる、体力低下が関係しているかもしれません。

しかし、大腸には消化機能以外の、隠された役割があるのかもしれないのです。

いずれにしても、今後は薬による癌治療が、飛躍的に発展して行くでしょう。

その結果、手術による切除というものは、どんどん減って行くことと思います。

ただ、知っておいて欲しいのは、病院は私たちの体について、何でもわかっているように見えますが、実はわかっていないことが、まだまだ、たくさんあるということなのです。

また、寿命や遺伝的なものでない限り、基本的に体は病気にならないように、できています。

病気になる場合は、体の機能を損ねるようなことを、本人が気づかずにしているのです。

これからの癌治療は、自然免疫力を高める方向へ、進んで行くでしょう。

コロナウィルスやインフルエンザなどの感染症についても、やはり自然免疫力が、大きく物を言います。

こういう免疫力を高めるのに、いちいち病院に相談する必要はありません。

自分の生活を見直せば、健全な体を取り戻す、あるいは維持することができるのです。

深刻な病気というものは、表面から見えない所で、徐々に進んで行くものです。

今は元気であっても、知らないところで、病気が進んでいるかもしれません。

それがどんな病気かと、不安になって検査を重ねるより、病気になりそうな状況を、自分が作っていないか確かめて、それを改善することが、手っ取り早くて効果的です。

ただ、歪んだ環境に慣れ親しんでいる場合、それを改善するのは一苦労です。

歪んでいたとしても、その環境が心地よいというのであれば、それなりの理由があるはずです。

環境を整えることは大切ですが、何故歪んだ環境が心地よいのかを、確かめることも重要です。

そこに対処しなければ、いくらいい環境にしても、すぐに歪んだ環境に戻ってしまうでしょう。

うまく対処して、心も体も本当に居心地の良い環境を、作って行きましょう。

大地震

また東北で大きな地震がありました。

あの震災から、ちょうど10年になりますが、そこでまた大きな地震があったので、以前に被災された方たちは、前の震災を思い出したのではないでしょうか。

あれだけの大被害を及ぼした震災も、10年という年月の間に、人々の記憶から次第に、忘れられそうになっているような気がします。

あの津波の映像を見た人は、被災地の者でなくても、とても強いインパクトを受けたはずです。

ですから、東北で震災があったこと自体は、忘れることはないと思います。

しかし、直接被災したわけでなければ、どうしても日々の暮らしに追われ、目の前の問題や、新たな事件などのニュースに、目を奪われてしまいます。

その結果、震災は遠い過去の存在、あるいは他人事のような気持ちに、なりがちでしょう。

そうならないように、今でも声に出して、被災地を応援しようとしている方たちは、少なくありません。

それでも、やはり忘れて行く人の方が、多いような気がします。

あの時は、被災地の人も、そうでない人も、恐ろしさと悲しさを共有していたと思います。

でも今は、被災地とそれ以外の所では、心が離れているのではないでしょうか。

それは仕方のないことかもしれません。

阪神大震災にしても、熊本大地震にしても、さらには大正時代の関東大震災にしても、それが大変な事だというのは、理解しているでしょう。

でも、感覚的には他の世界の出来事のように、感じているのではないかと思います。

しかし、地域が違っても、心を共有できなければ、いい世の中にはなりません。

新型コロナが教えてくれているのは、そのことなのです。

そして、東北の震災からちょうど10年になる今、今回の大地震が起こったのは、偶然ではないように思います。

忘れるな。

地震は、このことを伝える、地球からのメッセージだったような気がします。

自分が先

我先に動く人は、日本では敬遠されます。

特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。

いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。

確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。

ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。

と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。

 ※Ani_Banany_StyleさんによるPixabayからの画像です。

十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。

しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。

いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。

お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。

幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。

喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。

他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。

助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。

全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。

他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。

これは大人にも、子供にも言えることです。

 ※Sammy-WilliamsさんによるPixabayからの画像です。

自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。

反発だって、したくなるでしょう。

反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。

これも大人にしても、子供にしても同じです。

表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。

その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。

十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。

気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。

それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。

そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。

いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。

大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。

大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。

「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。

それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。

ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。

ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。

大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。

やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。

一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。

罪悪感を感じる必要はありません。

他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。