昔の人の気概

松山から今治へ向かう海沿いの道は、今治街道と呼ばれています。

海の景色が素晴らしく、多くの車が行き交っていますが、昔もこの道は、たくさんの人が利用していました。

その途中に、粟井坂(あわいざか)という所があります。

上の写真は、粟井坂を上空から見たものです。

写真中央は、海際まで続いた、海抜50メートルほどの丘陵地です。

今は写真のように、奥の方が開発されて、団地になっています。

この丘陵地の北側が風早郡(かざはやぐん)、南側が和気郡(わけぐん)と呼ばれていて、ちょうどこの丘陵地が郡境になっていました。

写真の左下に「大谷口バス停」とありますが、昔の道はこの辺りから丘陵地を登り、峠を越えた後、写真左上の「粟井坂大師堂」の辺りへ出たそうです。

この丘陵地越えの坂道が、粟井坂と呼ばれているのです。

当時は丘陵地の端は崖になっていて、道はありませんでした。

丘陵地の反対側へ行くには、どうしても丘陵地を越えて行くしかなかったのです。

そのため、この峠には関所もあったようです。

ところが、この粟井坂を抜けるのは、人間にとっても、荷物を運ぶ牛馬にとっても、大変なことでした。

それで、粟井坂の北側、風早郡小川村の里正(りせい)であり、かつ風早郡副長を務めた大森盛寿(おおもり もりかず)氏は、迂回路を造ることを思い立ちます。

ちなみに里正というのは、庄屋のような役割で、里正という呼び名を使ったのか、庄屋という言い方をしたのかは、地方によって様々だそうです。

結局、迂回路の案は上司が受け入れてくれなかったため(恐らく費用の問題だったのでしょう)、大森盛寿氏は建設資金を蓄えることを決めます。

数年後、資金を用意できた大森盛寿氏は、あらためて新道建設を申請します。

すると今度は、新道建設の承認がもらえました。

しかも、県から補助金を出してもらえることになりました。

こうして明治13年4月、ついに新道工事は着工となり、同年7月に道路は完成しました。

それが今も利用されている、海沿いの道なのです。

この時の工事に携わった者は、延べ人数で 5,079名です。

すごい人数ですが、それだけ大変な工事だったと言えるでしょう。

この新道によって、多くの人々が助かりました。

その恩恵は、現在の私たちにまで、続いています。
まさに感謝と尊敬の念しかありません。

それにしても、当時の心ある人たちの気概というものは、凄まじいという言葉が、ぴったりではないでしょうか。

自分の信念を貫き通すという、強い想いを抱き続けるということは、並大抵のことではできません。

現代社会においては、大きな壁にぶち当たれば、すぐに諦めてしまうのではないでしょうか。

また、この大森盛寿氏が自分のためではなく、人々のために動いたというところが、素晴らしいと思います。

彼のその想いがあったからこそ、県も動いたし、人々も動いたのでしょう。

新型コロナ騒ぎで、国民・市民が思ったように動いてくれないと、嘆く政治家は多いでしょう。

でも嘆く前に、自分たちがどれほど、国民・市民の心を動かすような、言動を示せたのかを振り返ってみるべきでしょう。

自分の利益のためでなく、本気で動いている人を目にすれば、誰でも力になろうと思うものです。

政治家に限ったことではありませんが、昔の人の気概というものが、もっと注目されてもいいのではないでしょうか。

また、自分が何かを本気でやっていると言いながら、壁に突き当たって諦めそうになった時、大森盛寿氏のことを考えてみたらいいでしょう。

そうすれば、自分が本当に本気だったのかどうかが、わかると思います。

砥部焼(とべやき)

 ※蒲鉾さちこさんによる写真ACからの画像です。

今日は家内と義母、私の三人で、砥部焼のイベントへ行って来ました。

松山から国道33号線を南へ進むと、久万高原の山があります。
その山の麓辺りが砥部の町で、古くから焼き物が作られていたと言います。

砥部焼の特徴は、厚ぼったくてぽってりした感じです。
とても丈夫で、他の食器と喧嘩をしても、まず負ける事はなさそうです。

伝統的な柄は、白地に紺の唐草模様ですが、最近は若い作家が増えて、いろんな模様や絵柄のものがあります。

特に女性作家が増えているそうです。

伝統的な模様は、力強くて男性的です。
それに対し、現代風の図柄や模様は、柔らかく温もりのある、女性的なものが多いようです。

今回は義母や家内が気に入った、お皿やカップが見つかったので、みんな大満足でした。


ところで、砥部焼の歴史を調べてみると、とても面白いのです。

砥部は、元は砥石で有名な土地だったそうです。

その砥石を切り出す時に出て来る、砥石の屑の処理がかなりの重労働で、村人たちから苦情が出るほどだったと言います。

江戸時代には、砥部は松山ではなく、大洲の殿さまの領地でした。

当時の大洲は経済的に、かなり大変だったそうです。

それで、砥石の屑で磁器ができる、という話を聞いた殿さまが、1775年 (安永4年) に、家臣に磁器を作るよう、命じたそうです。

しかし、初めての事なので、作業は順調に進まず、何度も失敗が繰り返されました。

そして、2 年半後の1777年 (安永6年)、ようやく白い磁器が誕生しました。
これが砥部焼の始まりです。

この頃の白というのは、少し灰色がかった白だったと言います。

しかし 1818年 (文政元年) には、新たな陶石が発見され、より白い磁器が作られるようになったそうです。

 ※happyjp2020さんによる写真ACからの画像です。

砥部焼が厚手に作られているのは、実用的であるためです。

砥部焼は壊れにくく、手に持っても料理の熱さを、感じにくいのです。

逆に言えば、料理が冷めにくいわけです。

値段も手頃で、庶民が購入しやすいというのも、特徴だそうです。


そうは言いましても、最近の砥部焼の中には、そんなに厚みがない物もあります。

まあまあいいお値段の物も、結構あります。

単なる実用品ではなく、芸術性も備えた実用品という物ですね。

その値段を高いと見るか、高くないと見るかは、買い手の価値観によるでしょう。

芸術性やオリジナリティを、評価しない人にとっては、何でそんな値段なのと、憤慨したくなるかも知れません。

しかし、その作品をとても気に入った人は、全然高くないと思うでしょう。

また、作家あるいは職人たちが、その作品を作るために、どれだけの努力と工夫、そして忍耐を続けて来たのかと、考えられる人は、妥当な値段だと思うに違いありません。

食器に限った話ではありませんが、どんな物でも、それを作った人がいるわけです。

そして、それをどんな想いで作ったのかを考えると、安い値段で買うのは、申し訳ない気持ちになってしまうでしょう。

自分が作品を作る側だったら、これより安い値段を言われたら、どう思うだろうと考えると、この値段は高過ぎるとは、なかなか言えないと思います。

とは言っても、現実の話として、手持ちのお金がそこまでなければ、いくら妥当な値段だと思っても、それを購入する事はできません。

作家の方にしても、作品を評価してもらえても、買ってもらえなければ意味がありません。

ここの所のさじ加減が、むずかしいのでしょうね。

しかし、毎日使う物であれば、見た目は高くても、高いとは思えなくなってしまいます。

少し無理をしたら買えなくはない、というような値段であれば、私なら絶対に買ってしまいます。

何故なら、それで毎日の暮らしが楽しくなるのであれば、逆に安いと思うからです。

同じ物を食べるにしても、食器が違うだけで、美味しさが変わって来ると思います。

生活に彩りを添えてくれる物は、有り難い物です。

実際に購入するかどうかは別にして、そういう物の価値というものを、確かめて楽しめば、それだけでも人生は、豊かなものになるでしょう。

二つの道後温泉駅

 ※現在の道後温泉駅と坊ちゃん列車

道後温泉のすぐ近くには、松山市内の路面電車の、終着駅があります。

この路面電車は、松山市唯一の私鉄会社、伊予鉄道が運営しています。

ところで松山の西端には、三津という港町があります。

古くは伊予水軍の拠点として使われ、江戸時代には参勤交代で、殿さまが安芸(広島)まで往来する、水路の港として利用されていました。

明治時代になってからは、三津は松山の玄関口として、海路による人や物資の輸送拠点として、大いに発展しました。

小説「坊ちゃん」で、松山を世に紹介した夏目漱石も、船で三津に降り立ちました。

「坊ちゃん」の中で、マッチ箱のような汽車とされたのは、伊予鉄道がドイツのミュンヘンから輸入したものです。

現在街中を走っている坊ちゃん列車は、当時の汽車を再現したものです。

 ※Google mapより 地図上の線路は、縞模様がJRで、黒の実線が伊予鉄

鉄道がまだなかった頃は、松山の中心から三津まで行くには、舗装されていない道を、歩いていました。

荷物を運ぶには、牛や馬に運ばせていましたが、雨などで道がぬかるんでいたりすると、運ぶのが大変だったそうです。

特に山で切り出した木材を、大阪まで運ぶのに、三津までの道には、難儀したと言います。

松山の中心から、三津までの距離は約6.5km。

それなのに、この6.5kmの木材の運び賃が、三津から大阪までの船賃よりも、高くついたそうです。

 ※松山と三津を結ぶ三津街道

そこで木材運搬のための、線路を引こうとなり、市内中心と三津を結ぶ、伊予鉄道が誕生しました。

初めて見る汽車に市民は熱狂し、伊予鉄は貨物運搬よりも、人の運搬が主となったと言います。

こうして三津の町は、ますます盛況を迎えたのですが、問題がありました。

三津の海は遠浅で、大型船が港に、直接入ることができませんでした。

それで当時は、大型船は三津の沖に停泊し、そこから小型の船に、人や物を移し替えて、港まで運んでいたのです。

 ※三津港の沖合に停泊する蒸気船と、人や物を移す小舟

こんな事をしていては、松山の発展が遅れると、三津よりももっと北にある、高浜という所に、新たに港を造る計画が、立ち上がりました。

当然、伊予鉄も線路を高浜まで、延ばすことになりました。

これを知った三津の町民は、猛反発しました。

三津は松山の玄関口として、栄えて来たのです。

ところが高浜が玄関口になると、三津はさびれてしまうと考えたのです。

三津の人々は、高浜に港を造ることに、猛反対しました。
しかし計画は進められ、高浜に新しい港が、建設されたのです。

伊予鉄も終点を、三津から高浜に変更しました。

怒った三津の町民たちは、伊予鉄の利用をボイコットしました。
そして馬車で、汽車に対抗しようとしました。

しかし馬車で汽車に、勝てるわけがありません。

そこで自分たちでお金を出し合って、伊予鉄に対抗するべく、松山電気軌道という会社を興したのです。

 ※三津街道を走る松山電気軌道

松山電気軌道が作った路線は、伊予鉄の線路に平行するようにして、三津から松山の街中まで造られました。

しかし、それだけでなく線路はさらに、道後温泉まで続いたのです。

三津から道後温泉まで、直行できるというわけです。
観光や仕事で、松山を訪れた人には、便利ですよね。

 ※黒い線路が伊予鉄 赤い線路が松山電気軌道

しかも伊予鉄は軽便鉄道で、線路の幅は小さく、車両も狭いのに対し、松山電気軌道は線路幅が広くて、車両も広かったのです。

さらに伊予鉄は汽車なので、黒煙を吐きますが、松山電気軌道は名前の通り、電気で走る電車だったのです。

伊予鉄が開業した後、道後温泉と市内を結ぶ道後鉄道という、路線が造られました。

松山電気軌道が開業した頃、伊予鉄はこの道後鉄道を合併していたので、道後温泉には伊予鉄と松山電気軌道の、二つの駅が並ぶことになったのです。

 ※右が伊予鉄の道後駅で、左が松山電気軌道の道後駅

両者は客の奪い合いをし、値引き合戦をしました。
松山電気軌道は、道後温泉の入浴料まで、負担したと言います。

伊予鉄は三津と高浜の間の、梅津寺という所に、海水浴場と遊園地も造りました。

松山電気軌道はこれにも対抗して、三津浜に海水浴場と遊園地を造り、松山の街の入り口辺りに遊園地も造りました。

そこまでやるかと言うぐらい、三津の人々の怒りのパワーは凄まじく、まるで映画かドラマでも観ているように思います。

それでも結局は、資金繰りが続かなくなり、松山電気軌道は伊予鉄に、合併されてしまうのです。

恐らく、そうなることは三津の人たちにも、わかっていたでしょう。
それでも自分たちの思いを、行動として表さざるを、得なかったということです。

列車の争いとしては、三津の人たちは、伊予鉄に敗北した形となりました。
しかしその意気込みは、歴史に残るほどになったのです。

この三津の人々の熱意というものには、見習うところがあると私は思います。

何でも政府の言うとおりになり、不満があっても我慢してしまう。

そんな傾向が日本人には強いのです。
言うべきところは、しっかり言うべきです。

しかし今、コロナ騒ぎをきっかけにして、多くの人が意見を、言うようになりました。

また、政府の指示を待たず、自分たちで行動を、示すようになったと思います。

松山電気軌道は資金が続かず、伊予鉄との戦いに、敗れてしまいました。

しかし、政府というものは、私たち国民が選ぶものです。
本気で争えば、国民が負けるわけがありません。

何が何でも政府に文句を言えと、言っているのではありません。

そうではなく、政府が筋が違うことをしたり、国民を切り捨てるような、態度を見せる時には、断固として反対する姿勢を、示すべきだと思うのです。


四国遍路2

 ※夏男さんによる写真ACからの画像です。

四国遍路には、奥深さがあると思うのですが、ここ何年もの間、お遍路さんの姿が、ぐっと減ったように、私は感じていました。

去年の秋の、日本経済新聞の記事にありましたが、経済のバブル崩壊が、人々を巡礼から遠ざけたようです。

お遍路さんの数は、2000年頃がピークで、13万5000人ほどだったそうです。

しかし、その後どんどん減り続け、2018年度は5万5000人になったと言います。

お遍路さんが減ると、お遍路さんたちが利用していた旅館の、経営が維持できなくなります。

宿屋が潰れてしまうと、泊まる所がなくなりますから、ますますお遍路さんの数は減ってしまいます。

お遍路さん相手の商売ができなくなると、その地域で暮らす人が減ります。
そうなると、遍路道を整備してくれる人が、いなくなるのです。

これもまた、さらにお遍路さんを減らしてしまう、要因になるでしょう。

四国巡礼には、お遍路さんを無料でもてなす、お接待という四国独特の風習があります。

でも、お遍路さんが来なかったり、お遍路さんのお世話をする、地域の人がいなくなると、それもなくなって行くのでしょう。

遍路旅を文化としてとらえた時に、その文化が廃れて行くのを見るのは、四国を愛する者の立場からは、ちょっとつらいものがあるようです。

それでお遍路さんの数を増やそうと、期待をかけられたのが、外国からの訪日客です。

労働者の数を補うために、外国人労働者を呼ぶのと、同じ状況ですね。

2018年には、訪日客のお遍路さんが、初めて1000人を超えたそうです。

でも、日本人のお遍路さんの穴埋めをするには、全然足りていません。

それで、もっと外国人のお遍路さんを増やそうと、四国4県では、八十八ヶ所巡りを世界遺産に登録しようと、運動を始めています。

それでも、今回のコロナ騒ぎの影響で、外国からの観光客は入って来ないし、札所のお寺も感染防止という理由で、納経所を閉鎖しています。

つまり、お寺を参拝しても、御朱印がもらえないのです。

なかなか思惑通りに行かないようで、お気の毒に思うのですが、でも、考えてみると、何かがおかしいような気がします。

 ※artworks_nさんによる写真ACからの画像です。

四国巡礼の遍路旅とは、基本的には宗教的なものです。

遍路旅には同行二人(どうぎょうににん)と言って、一人で回っていても、常に弘法大師がそばにいてくれるという、教えがあります。

これはまさに、宗教そのものです。

キリスト教で言えば、イエスさまがいつも一緒にいてくれますよ、と言っているのと同じです。

異教徒の人や無宗教の人には、同行二人なんて関係ないかも知れません。

でも、人生の問題を背負って遍路旅をする人には、その人なりの神聖さを、この旅に感じているはずです。

悩みや苦しみ、悲しみは、民族や宗教を超えたものです。
人間ならば、誰もが経験することです。

それを癒やしてくれるからこそ、大変な旅をするのでしょうし、他の人にも、遍路旅はいいものだと、伝えてくれるのだと思います。

この人たちにとって、四国巡礼が世界遺産になるかどうかなど、どうでもいいことでしょう。

あるいは、世界遺産登録によって、話のネタに回るだけの人が増えると、旅の雰囲気がぶち壊しにされるので、かえって迷惑に思うかも知れません。

確かに、お遍路さんを接待する人や、宿屋が消えて行くのは、大変だと思います。

でも、その人たちを維持するために、お遍路さんを増やそうと言うのでは、本末転倒のような気がします。

何故、お遍路さんが減ったのか。

それはひとえに、仏教への信仰心が減ったからでしょう。

つまり、今の世の中での、仏教の存在意義が薄れているということです。

 ※Florence D.さんによるPixabayからの画像です。

私たちが観光で訪れる以外に、日常生活の中で、お寺や仏教に関わる時というのは、どんな時でしょうか。

それは恐らく、お葬式と法事の時ぐらいでしょう。
しかし、今はお葬式のやり方も様々で、お墓を持たない人も、増えていると聞きます。

お葬式の時に、亡くなった方へ戒名という、あの世で使う名前を、お坊さんにつけてもらいますよね。

その戒名にも値段があって、お金をたくさん出せば、立派な戒名がもらえるのです。

お金がないから、一番安いのでいいと言うと、最低ランクの戒名だと、亡くなった方が気の毒だから、もう少し上のランクの方がいいと、お坊さんに勧められるようです。

その人が生前、どれほど優しくて、他人思いのいい人だったとしても、貧乏人だったら、いい名前がもらえないのですね。

しかも、名前をもらう時には、本人は死んでいますから、これがあなたの戒名ですと言われたところで、わかるはずがありません。

そもそも戒名というものは、生きている間に、お寺のためにいろいろ尽くしてくれた人に対して、お寺から感謝の気持ちで、与えてもらうものなのです。

もちろん、本人はそれが自分の戒名だとわかります。

また、これはその人の行いに対して、与えるものですから、お金で買えるものではないのです。

それなのに、今はお寺の方からお金を要求し、貧乏人の戒名だと、故人があの世で恥ずかしい思いをするようなことを、吹聴するのです。

昔の人ならいざ知らず、今どきの人たちに、こんな話が通じるわけがありません。

そういうことをする時点で、信用度はなくなってしまいます。

お寺の方々には、失礼な言い方になってしまいますが、今のお寺は、人々に生きる道を示すのではなく、算盤勘定をすることが、目的になっているように見えます。

だからこそ、若い人を中心に宗教離れ、仏教離れが進んでいると、私は思うのです。

ただ、お寺側の思惑とは関係なく、遍路旅、特に歩き遍路をする方たちは、その旅を通して素晴らしいものを、得るのは事実だと思います。

恐らく、遍路旅で何かを得られた人は、遍路旅が人生と同じなのだと、気づくのでしょうね。

ある地域で生まれ育ち、外を知らない人は、その地域のよさを、理解しにくいものです。

たとえば、田舎から憧れの東京へ出て、都会で暮らすことで、生まれ故郷の田舎のよさが、わかったという話は、よくあります。

それと同じで、自分の人生にどっぷりつかっていると、その人生がどういうものなのかが、見えにくいでしょう。

遍路旅は旅を通して、自分の人生を客観的に、見つめさせてくれます。

自分に与えられた仕事をこなし、いろいろ考え、苦労をしながら歩み続ける人生。

そんな人生を、時折温泉につかりながら、反省したり感謝したりする。

そして、いろんな人や物事のつながりが、理解できたならば、それは遍路旅をしたのと、同じなのだと私は思うのです。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

四国遍路1

 ※ma35さんによる写真ACからの画像です。

四国には、八十八ヶ所のお寺を巡る、四国遍路というものがあります。

これは弘法大師(空海)が修行のために、四国の地を回った足跡を、訪ねて回るものです。

順路は徳島県の1番札所霊山寺から始まり、高知県、愛媛県と回って、最後は香川県の88番札所大窪寺で終わります。

その行程は、約1,400kmに及ぶと言います。

その間、それぞれの寺は、均等に建てられているのではありません。

道中、いくつかの寺が近くにある所もあれば、寺がなくて、ずっと長い距離を移動するだけの所もあります。

道が平坦な所もありますが、険しい山道を通ることもあります。

今では、車やバスで移動する人も、多いようです。

そういう人には道の険しさは、あまり関係ないかも知れません。

でも、歩き遍路を行う人は、かなり体力と気力が必要でしょう。

 ※Google Mapより 青マークの所が、八十八カ所の札所寺院

私が松山で暮らすようになったのは、今から30年ほど前のことです。

その頃には、札所のお寺や、お寺へ向かう道には、お遍路さんの姿を、よく見かけました。

お遍路さんは白装束に身を包み、菅笠をかぶって、杖を持っておられます。

遠くからでも、すぐにお遍路さんだとわかりますので、見間違えることはありません。

そのお遍路さんの中には、外国の方の姿も、よく見かけたものです。

お遍路旅は異教徒の人でも、構わないそうなんですね。

一方、外国の人の方も、それぞれ自分の宗教を持っていると思うのですが、そんなことは気にしないで、仏教の遍路旅を楽しまれている様子でした。

宗教を気にしないで巡礼ができるのは、和やかでいいですね。

お寺を回る都度、御朱印をもらえるので、コレクション感覚で、お寺巡りをされる方も、いると思います。

しかし、人生に行き詰まったり、最愛の人を失ったり、いろいろ悩みや苦しみ、悲しみを抱えて旅をされる方も、少なくないようです。

長い距離を歩き続ける方は、途中で遍路旅に出たことを、後悔することもあるそうです。

それでも頑張って歩き続けていると、道中で地域の人々のお世話になったり、様々な人と出会ったりします。

それで感激し、人間であることの喜びを、感じたりするのです。

また、一人で歩いていると、世間の忙しさや価値観から解放されて、時間やお金に追われない、素の自分を見つけることも、できると言います。

そういう経験をしながら、一つ一つお寺を回り、全部回りきることで、大きな達成感が得られるのですね。

それは、その人にとって、とても大きな人生経験となり、その後の人生に対しても、大きな影響を与えることになるようです。

 ※Hiro1960さんによる写真ACからの画像です。

宇和島の伊達

 ※Google map より

宇和島は、愛媛県の南西部に位置している、海辺の街です。

この街の名前を、まだ学生だった頃に、父から聞かされた事がありました。

明治24年(1891年)に、訪日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備担当の巡査に、切りつけられるという事件がありました。

これは当然、国際問題です。

当時の日本はロシアに対して、まだ非力でした。
そこで焦った政府は、この巡査を死刑にするよう、司法に迫ったと言います。

しかし、ニコライ2世は負傷しただけで、殺されたわけではありませんでした。

その罪は、法律上は死刑には、該当しませんでした。

当時の裁判官であった児島惟謙は、政府の圧力をはねのけて、巡査に無期懲役を言い渡しました。

これは一般の人間が犯した罪への処罰と、同じだったそうです。

私の父は児島惟謙のことを、宇和島出身の裁判官で、権力に屈せず法を守った、偉い人物だと、語ってくれました。

その時の記憶で、私の中では、宇和島と言えば児島惟謙という、図式になっていました。

ところが、実際に宇和島を訪ねてみると、小さなお城がある城下町でした。

児島惟謙という名前など、どこにも見かけません。

しかも、このお城にいたのは、あの有名な東北の伊達家の者だというから、驚きでした。

 ※Takacchiさんによる写真ACからの画像です。

伊予宇和島の伊達家初代藩主は、伊達政宗の息子である、伊達秀宗という人でした。

あの正宗の息子かということで、さらに驚かされましたが、東北の伊達家の者が、四国で城を構えているとうことが、何だかとても不思議な感じに思えました。

秀宗は元は、政宗の世継ぎだったらしいのですが、母親は正室ではありませんでした。

その正室に男子が生まれてしまい、秀宗は世継ぎの立場ではなくなりました。

秀宗の居場所がなくなるため、政宗は徳川幕府に、秀宗が独立できるよう嘆願したと言います。

その結果として、秀宗には宇和島の領地が与えられ、この地を治めることになったそうです。

その伊達秀宗が故郷を懐かしみ、職人に作らせた魚の練り物が、今も残っています。

それはじゃこ天という、宇和島名物の食べ物です。

当時と全く同じなのかは、わかりませんが、かつてのお殿さまの好物です。

宇和島へお越しの際は、ぜひご賞味いただき、当時のお殿さまの気持ちを、感じてみて下さい。

 ※チョコクロさんによる写真ACからの画像です。

宇和島の伊達家は幕末まで存続し、当時の藩主伊達宗城(むねなり)は、薩摩の島津斉彬、福井の松平春獄、土佐の山内容堂と並んで、四賢侯の一人に数えられた、優れた人物でした。

宗城は、先代が行っていた殖産興業策を、受け継いで発展させました。

また、軍備の西洋化による、富国強兵を進めました。

さらに、身分や出自を問わず、才能ある者を誰でも登用したのです。

中でもすごいのは、蒸気船である黒船を、建造するよう命じられた職人が、それを見事に造り上げたと言う話です。

この職人は嘉蔵と言い、仏壇・仏具や提灯を作る仕事をしていました。

とにかく器用だと言うので、蒸気船を作るよう命じられたのでした。

いくら器用だと言っても、船大工でも設計士でもありません。
ただの職人です。

無茶苦茶な話ですが、お殿さまの命令ですから、逆らえません。
結局、嘉蔵は蒸気船を、造ってしまったのです。

その直前に、薩摩が蒸気船を造ったので、国産としては第二号の蒸気船です。

しかし、薩摩が外国人技師を雇って造ったのに対し、宇和島の蒸気船は純国産でした。

この嘉蔵の腕前にも恐れ入りますが、嘉蔵に蒸気船を造るよう命じた、伊達宗城も大した人物です。

意外な所で意外な人物が活躍した町、それが伊予の宇和島なのです。

蓮池公園

もう3年になるでしょうか。

ちょうど今頃、高知県の蓮池公園という所まで、蓮の花を見に行きました。

今と同じ梅雨時だったので、その日は朝から雨が降っていました。
それもバケツをひっくり返したような、土砂降りです。

 ※Hans BraxmeierさんによるPixabayからの画像です。

梅雨なので、雨は覚悟していました。
でも、まさかそれほど降るとは、思っていませんでした。

さすがに中止にした方が、いいのではないかと、私は思いました。

しかし家内が、それでも見に行きたいと言うので、仕方なく土砂降り雨の中、車を出しました。

ほんとに、ものすごい雨でした。

車のワイパーを最速で動かしても、前方がよく見えません。

とにかくスピードを、出さないようにしながら、ゆっくり車を走らせました。

どうして、そこまでして行ったのか。

それは、花の咲き具合のちょうどいい時期と、仕事を休める日が、限られていたからです。

それに蓮の花は朝開いて、昼には閉じてしまうと、聞いていました。

花を見るためには、朝の早いうちに、現地に着いておく必要があったのです。

それで、高知までの移動に3時間と考えて、朝の6時前に自宅を出発しました。

まだ薄暗くて、雨がザアザア降っていました。
天気予報では一日雨です。

これでは、向こうへ着いたところで、花の鑑賞なんか、できるわけがありません。

しかし、現地に着く頃になると、ぴたりと雨がやんだのです。

こんな事もあるものなんだと、とても驚きました。

お陰で雨にも濡れず、無事に蓮を観賞する事ができました

実は高知には、毎月仕事で訪れています。
しかし蓮池公園は、来た事がありませんでした。

正直なところ、あまり期待はしていませんでした。

しかし、その期待は見事に裏切られ、蓮池公園の眺めは、それは見事なものでした。

それに、土砂降りの雨をも止めてしまう、家内の一念にも感心しました。

今年はコロナのお陰で、外出もずっと、自粛が求められて来ました。

その自粛が解かれたので、あちこちへ遠出する人が、たくさんいる事と思います。

きっと蓮池公園へ、蓮を見に行かれた人も、多かったでしょう。

やはり、人はいろんな所を訪れて、普段は触れる機会がないものに、接するのがいいですね。

楽しいですし、気持ちがリフレッシュされます。

人は好奇心の塊です。

刺激があれば、いつもはひっそりしていたはずの、好奇心が大きく膨らみ始めます。

蓮池公園では、いろんな表情の花を、楽しませてもらいました。

他にも、花に集まる虫たちや、葉っぱの上に溜まった水滴の玉、それに水の中の生き物などが見られて、とても面白かったです。

元気で気分のいい時に、こういう物を鑑賞するのは、もちろん楽しいです。

でも、そうではない時に鑑賞しても、きっと気持ちを、和らげてもらえると思います。

何かで悩んでいても、好奇心の方が悩みより大きくなれば、悩みに対する心配は、ずっと小さく抑えられます。

落ち込んでいたとしても、好奇心が元気にしてくれます。

気持ちが塞いでいる時には、少しでも気が引かれるようなものがあれば、そちらへ足を運ぶ事をお勧めします。

気が引かれるというのは、好奇心が癒やしの道を、示そうとしてくれているのです。

その指示に従ったなら、きっとあなたの心の中にも、きれいな蓮の花が咲くことでしょう。

内子に思うこと

 ※内子の街並み

夏のような日が続いていたので、梅雨が開けたような気になっていました。

でも、今日からまた雨がしばらく続くようです。

昨日は内子を訪れました。

内子と書いて、「うちこ」と読みます。
江戸時代の頃には、内ノ子(うちのこ)と呼ばれていたそうです。

愛媛の観光と言えば、松山城と道後温泉が挙げられますが、どちらも松山市にあります。

内子は愛媛の中で、松山に次いで人気のある観光地です。

江戸時代末期から明治時代にかけての、街並みが保存されている、歴史を感じさせてくれる所です。

松山から国道56号線を、一時間ほど南下した所に、内子はあります。
もう少し先へ進むと、大洲市です。

大洲市にはお城があり、江戸時代には、松山とは別の領主が治めていました。

内子は、この大洲の支配下にありました。

 ※Googleの地図です。赤いマークの所が内子です。

内子は盆地になっていて、周辺の山から三本の川が集まり、一本に集約される地形です。

この川はその先で、肱川(ひじかわ)という大きな川と合流し、大洲の城下町の脇を通って、瀬戸内海へと注ぎます。

かつて川は物資を運ぶための、重要なルートでした。

また、内子からは往還と呼ばれる道が、何本も放射状に出ていて、周囲の山村と結ばれていました。

このような立地のお陰で、内子は物資を集める拠点として、発展しました。

 ※Googleの地図です。内子の町のすぐ脇で、川が一つになっています。

元々内子は、お寺の門前市として栄えた町です。

中世に、この辺りを治めていた河野氏は、海の向こうの芸州(今の広島西部)の厳島から、ありがたい荒恵比寿を勧請しました。

本家の厳島では、恵比寿さまのご開帳はなかったのに、こちらでは毎月二十日の市に合わせて、ご開帳したと言います。

それで恵比寿さまの姿を拝もうと、市の日には遠方から大勢の人が訪れて、市は大いに繁昌したそうです。

 ※現在の廿日市恵比寿神社。

その他にも、遍路や金比羅参りの道も、内子を通っていますし、松山と大洲を結ぶ街道もあります。
そのため内子は、旅人も多く訪れる宿場町でもありました。

このように、いろんな点で恵まれていた内子は、発展するべくして発展したと言えます。

しかし、時代の流れで町の勢いは失われ、今は昔を偲ぶ観光地になっています。

ただ、観光客が訪れるのは、土日や祝日などの休日が中心で、平日は閑散としています。

特に今の時期は、外国人観光客がいませんので、観光地としては頭を抱えている事と思います。

昨日は平日だった事もありますが、街並みを歩いている人は、一人もいませんでした。

でも、このような事は全国の観光地、特に中心地から離れた地域では、どこでも見られる光景でしょう。

何とかしてあげたいと思うのですが、どうにもなりません。

ところで、内子のような田舎の観光地が、人を呼び込もうと努力するのは、単純に観光客相手の、商売のためだけではないと思います。

その背景には、一次産業の衰退や後継者不足、町の高齢化や過疎化があるのです。

元々の仕事で収益を増やす事が、様々な要因で困難になっています。

若い人がいなければ、独自に全国展開するような仕事も、簡単には行きません。

ですから、その地域を訪れた人に、町を気に入ってもらい、若い人に移住してもらおうという、期待もあると思います。

 ※D:5さんによる写真ACからの画像です。

内子のように、観光で人を呼べる地域は、まだいいでしょう。
観光材料がない所は、本当に大変だと思います。

日本人の食や、暮らしを支えているのは、地方の方々です。

地方がだめになるというのは、中央もだめになるという事です。

二つを分けて考える事はできません。

地方の活性化という声は、選挙のたびに聞かれます。

でも、その言葉を実現しようとする、国会議員は皆無のように思われます。

では地方は、このまま廃れてしまうのかと言うと、そうではないと思います。

都会を離れて、生まれ故郷である田舎に、戻る若者がいます。

見知らぬ田舎へ、自然と人間味のある暮らしを求めて、移住する若者たちがいます。

私は彼らに、期待したいと思います。

定年後に田舎へ、移り住む人を紹介する、テレビ番組があります。

でも、大概が実家へ戻るとか、周りがみんな知人で、いろいろ手伝ってもらえるとか、あるいは資金的に余裕がありそうだとか、条件に恵まれている方たちばかりに見えます。

憧れはするけれど、真似できないなと思う視聴者は、多いのではないかと思います。

若いうちには移住は無理だなと、番組を見た若い人に、思われるかも知れません。

それは地方にとっては、いい事ではないでしょう。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

これからは田舎へ移住して、新しい仕事や暮らしにチャレンジする、若い人を紹介する番組を、テレビ局には作ってもらいたいですね。

どういうきっかけで、その地域を選んだのか。

移住するための資金や、仕事はどうするのか。

子供が産まれたら、学校はどうなるのか。

病院や買い物など、不便に思われる事について、どう考えているのか。

正直なところ、田舎のどういう所が、馴染むのに大変なのか。

逆に、田舎で暮らして嬉しかったことは、何なのか。

そんな情報を発信しながら、地方で元気に暮らす若者たちの姿を、全国番組で紹介するのです。

そうすれば、きっと地方をめざす若者は、今よりぐっと増えると思います。

憧れはあるけど、ためらいもあるという人がいるのなら、その理由を徹底的に、確かめるのです。

理由がわかれば、国や地方の自治体できちんと対処して、移住希望者が安心できるような環境を、どんどん整えればいいのです。

子供の親御さんも、普段から地方の素晴らしさを、子供たちに伝えた方がいいと思います。

都会が都会でいられるのは、地方のお陰である事を、ちゃんと教えてあげて下さい。

地方は仕事がないとか、お店や遊ぶ所がないとか、年寄りばかりだとか、悪いイメージばかりが、強調される傾向があると思います。

そんな事ばかり聞かされていれば、地方で暮らそうと思わない人が、増えるのは当然です。

そうではなく、地方だからこその楽しさや可能性、みんなの生活を守っているという誇り、そういう事を、子供に伝えてやらねばなりません。

また、大人もその事を、再確認、再認識するべきです。

何度も繰り返しますが、地方の方たち、特に農業や漁業、林業などに携わっている方たちへの、感謝と思いやりの気持ちを、子供たちが持てるような、教育を望みます。


伊予の軽井沢

今日、仕事で久万高原町という所を訪れました。

ここは松山から高知へ向かう、国道33号線沿いの町で、標高550~1,400メートルの高地にあります。

町の中心まで、松山から車で1時間弱で行けます。

久万高原町は、伊予の軽井沢と呼ばれるぐらい、涼しく過ごしやすい所です。
冬になると雪で真っ白になります。

スキー場もありますし、リンゴ栽培もしていて、麓の平地にある松山とは、別世界のようです。

近くには、西日本最高峰の石鎚山や、面河渓谷などの名所があり、自然豊かな地域です。

また四国遍路のお寺もあり、お遍路さんが訪れる所でもあります。
今日も五、六名のお遍路さんが、歩いているのを見かけました。

町と言っても、マンションのようなビルはありません。

山に囲まれた田畑と点在する民家という、昔ながらの山里と言った感じです。

夜の星空が自慢で、天文台まであります。

 ※結枝さんによる写真ACからの写真です。

今日は仕事で、久しぶりに久万高原町を訪れました。

途中で、田んぼをのぞいてみると、ささっと水の中を、素早く動くものがいました。
それは、オタマジャクシでした。

以前に松山市内にある田んぼを、同じようにのぞいたことがあります。
でも田んぼに張った水に、生き物の姿はありませんでした。
学校のプールのように、ただ水が張ってあるだけという感じでした。

しかし、今日見た久万高原町の田んぼには、数え切れないほどの、オタマジャクシがいました。

もっとよく見ようと、足を一歩踏み出すと、何かちっちゃな生き物たちが、慌てたように足下を逃げ回りました。

見ると、それは1センチほどの、オモチャみたいなアマガエルでした。

恐らくオタマジャクシから、カエルに成長したばかりなのでしょう。
本当にきれいな緑色の、可愛いアマガエルたちでした。

 ※ぽんぴんさんによる写真ACからの写真です。

田んぼの中には、オタマジャクシの他にも、アメンボもいましたし、小さな巻き貝もいました。

あんまりゆっくりしている、時間がなかったので、それ以上は探索する事は、できませんでした。
でも調べれば、もっと他の生き物を、見つける事ができたでしょう。

松山では滅多に見かけなくなった、モンシロチョウやシジミチョウも、飛んでいました。

足の近くでは、巣があったのか、たくさんのアリが、忙しそうに動き回っていました。

子供だったら、一日中そこにいても、飽きる事はないでしょう。

時の流れをさかのぼって、過去に戻る事はできません。

でも、自分の心は子供に戻る事ができます。

と言うか、大人になって還暦を迎えた今でも、子供の頃の私は、ずっと私の心の中にいるんですね。

普段は、大人の私の陰に隠れていますが、今日のような場面になると、大人の私を押しのけて顔を突き出し、好奇心一杯の目を、大きく見開くのです。

どうですか。
あなたには、そんな一瞬が、訪れた事はありませんか。

思いがけなく、子供心が姿を見せる瞬間です。

その瞬間だけ、私たちは過去の自分に戻ります。

現在ある余計な事は全部忘れ、目の前の興味を引かれるものに、釘付になります。

それはとても楽しい時間であり、自分をリフレッシュできる、機会でもあります。

あなたの中にいる、子供の心。

普段のあなたの陰に隠れながら、興味が引かれるようなものがないか、探っていますよ。

じっと耳を澄まし、目を凝らして、ワクワクする瞬間を、待っているんです。

ほら、わかるでしょ?

 ※Joshua WoronieckiさんによるPixabayからの画像です。

四国のタヌキ

 ※ スマートショットさんによる写真ACからの画像です。

四国にはキツネが少なく、タヌキが多いと言われています。
その理由には、二つの伝説があります。

一つは、キツネが人に悪さをするので、弘法大師がキツネを、四国から追い出したというものです。

弘法大師に関する言い伝えは、数多くあります。
でも、弘法大師が聞いたら、びっくりするようなものばかりです。

この話もそうですが、タヌキだって人を化かすと言われているのです。

それなのに、キツネだけを追い出すなんて、ひどい人だと言われそうで、弘法大師がお気の毒です。

さて、もう一つの説明は、中世に道後温泉の近くに暮らしていた、河野伊予守道直(こうのいよのかみみちなお)というお殿さまが、追い出したというものです。

ある日、キツネがこのお殿さまの奥方に化けて、奥方が二人になったそうです。
お殿さまは困惑しましたが、食事の様子で、どちらがキツネかを、見破ったと言います。

お殿さまは、捕まえたキツネを殺そうとします。

しかし、このキツネはキツネの頭領で、多くの家来キツネが現れて、お殿さまに許しを乞うたそうです。

許されたキツネは、仲間を連れて四国から立ち去り、それで四国からキツネが、いなくなったという話です。

 ※あほうどりさんによる写真ACからの画像です。

実際は四国にも、少ないながらも、キツネは生息しているようです。
それでも目撃されるのは、圧倒的にタヌキが多いです。

私もこれまで何度もタヌキを見ました。

道路に車にひかれて死んだ、タヌキの死骸も時々見かけます。

確かに四国では、タヌキはそれほど珍しくない生き物で、人間のすぐそばで暮らしています。

有名なスタジオジブリのアニメ映画に、「平成たぬき合戦ポンポコ」というタヌキの物語があります。

この話では、都会のタヌキの力になるため、四国から神通力を持った、三匹のタヌキが登場します。

それは、讃岐の太三郎狸、伊予の狗神刑部狸、阿波の金長狸の三匹です。

この三匹は、いずれも有名なタヌキで、神社に祀られています。

 ※愛媛の刑部狸が祀られている山口霊神

他にも名前をつけられて、人々から親しまれるタヌキの話は、たくさんあります。
それほどタヌキは、四国の人々にとって、とても身近な存在という事なのでしょう。

それにしても面白いのは、祠を作ってタヌキを祀る、日本人ですね。
日本人は何でもあがめて、祀ってしまいます。

唯一神を信仰する、外国の方から見れば、とても奇妙に見えるでしょう。

外国の人の信仰は、厳格なイメージがあります。

個人的には、それほど強く信仰していない人も、いるとは思います。

でも、宗教としての雰囲気は、やはり厳格な感じです。

それに対して、日本人の信仰というのは、とても軽い雰囲気があります。

相手は神さまですから、みなさん、敬意の念は持っています。
でも、日本人はその神さまを、とても身近に感じているように思えます。

まるで、アパートや下宿の大家さんか、小学校の校長先生のようなものでしょうか。

とにかく頭は下げますが、世間話をしたり、冗談を言っても、許される相手なのです。

タヌキやキツネのように、いわゆる神さまでないものが祀られるのは、やはりそこに身近な親しみが、あるからでしょう。

地域によっては、それがヘビであったり、イノシシであったり、河童や鬼や龍などの、異界の存在が祀られています。

それぞれ畏怖の対象ではありますが、敬愛の対象でもあり、人々が親しみを持つ相手なのです。

 ※Markus WinklerさんによるPixabayからの画像です。

それが現実に、存在するかどうかは、関係ありません。
人々が、そこに存在を感じれば、それは確かにいるわけです。

そういう存在たちは、人々の念が、産み出したものです。
ですから、それらは人々の、心の表れと言えるでしょう。

いろんな神さま、あるいは神さまみたいなものが、祀られているのは、とてもユーモラスです。
それは人々こそが、ユーモラスという事なのですね。

いろんなものが祀られるのは、人々がいろんなものを身近に感じ、親しみを覚えている証拠です。
それは人々の生き方であり、生活感なのです。

四国にキツネが少なくて、タヌキが多い本当の理由はわかりません。

でも、その結果として四国の人たちは、タヌキに親しみを感じるのでしょう。

タヌキにまつわる話に花を咲かせ、タヌキに化かされる事を楽しみ、タヌキを神さまみたいに祀るのです。

それは、タヌキを通して表された、四国の人々のユーモアなのです。