風野陽二の本棚
突然ですが
長らく続けて来ましたブログですが、小説執筆に専念するため、中止することになりました。
今後は、姉妹サイト「風野陽二の本棚」の方をお楽しみいただければと思います。
長い間、ありがとうございました。
その幸せ、本物ですか その3
本当の幸せをつかむために、まずやるべきこと。
それは、心に刷り込まれている考えを、変えることです。
人を比較して優劣をつけるような価値観が、世の中には蔓延しています。
しかし、全ては個性であり、そこに優劣はありません。
たとえば、学校へ行けなかった人が不幸に見えるのは、周りがそのような目で見て、本人もそうなんだと思い込んでいるからです。
どんな生き方の中にも幸せはあります。
それを人並みの幸せという、固定的な概念で見ようとするから、真実が見えなくなってしまうのです。
人並みの幸せに該当しない人の中にも、本当の幸せをつかんでいる人は、いくらでもいます。
できれば、そういう人と話をしてみるといいですね。
必ずや、大きな力を分けてもらえるでしょう。
次に、誰のことも責めないということです。
信じていたのに裏切られた。
こんな人だとは思わなかった。
いい所だと思っていたのに。
こうして人や環境を責め立てているうちは、被害者意識の塊になっています。
被害者意識を持っているうちは、決して幸せにはなれません。
幸せになるためには、全てを受け入れて許すことです。
その対象には、自分自身も含まれます。
落ち込んでいる人は、無力な自分を責めるものです。
自分を否定していては、幸せになれません。
とにかく、物事をいい悪いで判断するのをやめるのです。
そうして、心をニュートラルの状態にします。
その状態で、自分は本当は何を求めているのかを、探るのです。
お金だとか、注目というのはだめです。
そういうものは結果であって、本来求める物と考えてはいけません。
お金や注目を求めようとするのは、将来への不安や、自信のなさの表れです。
本当の幸せを探るのに、不安や自信の欠如は邪魔になります。
探るべきは、自分はどんなことに惹かれるのか、どんな物を素敵だと思うのか、どんな所に行ってみたいと思うのかということです。
そうして自分の本音が見えて来たならば、その本音に素直に従って行動するのです。
幸せはじっとしていても訪れません。
本当の自分らしく生きる。
そこには飽きることのない、深い喜びと充実感があります。
そして、それこそが本物の幸せなのです。
その幸せ、本物ですか その2
人はいつも自分と他の人を比べ、その違いに一喜一憂するものです。
それは子供の頃から、学校や家庭でそうするように、教え込まれたからです。
疑いを知らない子供の頃に、刷り込まれた考えは、大人になってからも、何の疑いも持たずに抱き続けるものです。
そうして、当たり前のことのように、人並みの幸せを追い求め、幸せに見える人たちと、同じような暮らしをしようとするのです。
でも、人並みの幸せというものは、まやかしです。
そんなものは存在しません。
あるのは、自分自身の幸せです。
本当の幸せとは、自分にしかわかりません。
誰かの真似をして、幸せになれるわけではないのです。
人並みの幸せという考え方が、心に刷り込まれていると、世間で幸せと考えられているような状況に、憧れを抱きます。
でもそこに至ることができなかったり、つかんだはずのその状況が失われた時に、自分は不幸のどん底に落ちてしまったと感じます。
そこから這い上がる気力もありません。
これから先、どうやって生きて行けばいいのかと、不安になったりもします。
でも、本当の幸せというものを、知ることができたなら、自分が置かれた状況を、乗り切って行くことができるでしょう。
だけど、本当の幸せがわからないから、悩むわけですね。
でも、大丈夫です。
ただ、いきなりは難しいと思います。
それを理解する前に、やらなければならないことがあるのです。
その幸せ、本物ですか その1
幸せは苦労しないと手に入らないし、誰もが幸せになれるわけではないと、考えていませんか。
たとえば、受験戦争を勝ち抜いて、念願の大学生になれるのは幸せなことだと思うのでしょうか。
そう思うのであれば、大学に入れなかった人たちのことは、気の毒に思えるでしょう。
大手企業に就職が決まった時に、自分は幸せだと思う人は、なかなか仕事が見つからない人たちを、哀れに思うかもしれません。
結婚に憧れても、相手があってのことですから、いい人が見つからないと、結婚はできません。
そんな中で結婚相手を見つけた時には、有頂天になるでしょう。
おめでとうと言ってくれる、独身の知人たちが、自分たちを羨ましがっているように、見えるかもしれません。
確かに、苦労して大学に入れたり、大手企業に就職できたり、結婚ができた時には、喜びで一杯になるでしょう。
それで自分は幸せだと受け止めたくなるのでしょうが、このような幸せとは条件つきのものであり、状況が変わると脆くも崩れ去ってしまうものです。
たとえば、せっかく入学した大学も、授業についていけなくて、留年するかもしれません。
一緒に入ったはずの者たちが、上に進級できるのに、自分だけが同じ所に取り残されるのです。
そこで奮起できればいいのですが、同じことが繰り返されると、どんどん自信を失って、入学した時の喜びは、どこかに消え失せるでしょう。
大手企業に就職して喜んでいたのに、無理な仕事を押しつけられて、寝る間もなくし、心身がぼろぼろになったら、どうでしょうか。
こんなはずでは、なかったのにと思うでしょう。
あるいは、毎日毎日機械のように、同じ作業の繰り返しで、面白みが一つもなければ、それを幸せだと感じるでしょうか。
結婚をした時には、人生で最大の喜びだと思っていたのに、その結婚が破綻してしまうと、どうでしょう。
喜びの度合いが大きいほど、それが壊れた時の落ち込みは、激しいものとなるでしょう。
心は深く傷つき、自分は二度と幸せにはなれないと、思えるかもしれません。
でも、これは間違っています。
そもそもの前提が違っているのです。
幸せとは、苦労して手に入れるものではありません。
それなのに、幸せとはこういう状況のことだと、決めつけてしまうから、状況が変わると不幸に陥ってしまうのです。
自分は幸せだと思っていても、その幸せが何かにすがることで成り立っていたならば、それは本物の幸せとは言えません。
本物の幸せは、何にもすがる必要がないのです。
前を向こう その7
営業成績がよくて表彰され、みんなからちやほやされると、初々しかった頃の気持ちを、忘れてしまうかもしれません。
本当はお客の笑顔を見るのが嬉しくて、営業をしていたはずなのに、褒められて注目されることに気持ちが向いてしまったために、お客の顔を見なくなっていたならば、その人はその時点で、自分が進むべき道を誤ってしまったわけです。
わるい事が露呈した時が、転落の始まりのように見えますが、そうではなく、自分の本来の目的、本当の想いから外れた道へ、足を踏み入れた時こそが、本当の転落の始まりなのです。
でも、転落してしまい、何もかもがだめになってように見えても、それで自信を失ってはなりません。
それは要するに、この道は行き止まりですよ、と教えてくれているだけだからです。
普通の道でしたら、行き止まりだとわかったら、自分は道を間違えたのだと思って、違う道を進みますよね。
それと同じようにするだけのことなのですが、人生の転落を味わうと、なかなか次へ進む気力がわかないかもしれません。
それは何故かというと、人生の転落がいけないこと、恥ずかしいことだと、思い込まされているからです。
本当はそんな基準など、どこにもありません。
自分の進んで来た道、自分がやって来たことが、間違っていたなと思ったなら、それを修正すればいいだけのことです。
もちろん、それでも白い目を向ける人はいるでしょう。
でも、それはその人の勝手であり、人のことをそのような目で見る人は、自分自身をも同じ目で見ることになるのです。
そして、それはその人の人生の重しになるわけです。
ですから、他人がどう思おうと、放っておけばいいのです。
過去の楽しい思い出は、逃げ場所に使うのではなく、ようしもう一度やり直しだ、と考えるためのきっかけにしましょう。
同じことは、営業成績の争い以外でも、いろんなところで言えると思います。
SNSでみんなに注目を浴びることを、目的にするのもそうですし、何のために働いていたのかも忘れて、ひたすらお金儲けに邁進するのもそうです。
本当に自分が求めていたはずのものは、何だったのか。
過去の楽しい思い出は、それを思い出させてくれるものです。
昔のことを思い出したくなったなら、今の状況をよく見回して、思い出が何を伝えようとしているのか、心を傾けてみるといいと思います。
それがわかれば、再び前を向いて、人生を歩むことになるでしょう。
前を向こう その6
目の前に置かれた状況が何であれ、そこには元々はいいも悪いもありません。
いいか悪いかを決めるのは、人間であり、あなた自身なのです。
何がよくて、何が悪いのかを決めるためには、基準が必要になります。
基準がなければ、いいも悪いも決められません。
この基準をどこに取るかで、対象となるものは、いいものにもなれば、悪いものにもなるのです。
今、自分が置かれている状況が、とても悪いもので、それで前に進めないのだとすれば、まずは、それが本当に前なのかどうかを、確かめてみましょう。
そのためには、自分が何を求めているのか、自分が本当に目指しているのは、どんなものなのかを、明らかにする必要があります。
たとえば、営業成績の一位を目指し、実際に一位を取って表彰されることがあったとしましょう。
誰よりもたくさんの契約を取り、みんなに注目されることが心地よくて、そのあとも、それを維持することを目的にしているとします。
でも、上位の成績を維持することは、容易ではありません。
営業とは相手があってのことですし、環境の変化も影響します。
また上位を狙うライバルは、いくらでもいます。
それでもトップに立ち続けたくて、そのことを一番の目標にした結果、お客を騙すような契約を取ってしまったとします。
一度やってしまえば、同じことを当たり前のように繰り返します。
また、他のライバルたちの邪魔をするべく、こっそりとライバルの悪い噂を、お客に伝えることもしたとしましょう。
でも、悪いことを隠し続けることはできません。
そんなことを続けていると、ある日、全てが露呈することになり、その人はその職場にいられなくなるでしょう。
元の同僚たちからも白い目を向けられ、かつては自分を信頼してくれていたはずの人々にも、相手にされなくなってしまいます。
家族からも見放され、独りぼっちになった時、その人の頭の中には、まだ将来が決まっていなかった頃の、仲間と楽しく騒いでいた思い出が蘇ります。
ああ、あの時はよかったなぁ。
あの時に戻れるものならば、戻ってやり直したいなぁ。
こんな風に考える時、自分はもうだめだと、人生にあきらめを感じているのです。
それでも、そんな状況の中での誰かとの出会いとか、思いがけないような出来事との遭遇が、その人を復活へ導いてくれたりもするのです。
もちろん、その復活とは営業成績トップということではありません。
その人が本当に求めていた人生へ、復帰できるということです。
前を向こう その5
楽しかった思い出があると、ふと当時のことを思い出したくなるでしょう。
ちょっとだけ思い出すだけならいいのですが、昔の楽しい思い出に耽ってしまうと、前へ向かう足が止まってしまいます。
嫌な思い出に引き留められるより、楽しい思い出に引き留められる方が、いいように思えるかもしれません。
でも、そこで足が立ち止まって前に進めないことでは、どちらも同じなのです。
人生は前へ進むものです。
それが遮られてしまうのは、決していいことではありません。
昔の思い出に耽り、あの時はよかったなぁ、と思うようになった人は、現在の状況に大きな不満を抱いています。
今に夢中になっている人は、どんなに楽しい思い出があったとしても、その思い出に耽りません。
そんな暇などありませんから。
前へ進めなくなって、途方に暮れている人が、こんなはずじゃなかったんだけどなと、過去の楽しい思い出に救いを求めるのです。
しかし、どんなに昔の楽しいことを思い出したところで、前へ進むことはできません。
過去を思い出すということは、気持ちが後ろを向いているわけですから、かえって前には進めなくなるのです。
昔のことを思い出すことが、いけないとはいいませんが、やはり顔は前を向けていた方がいいでしょう。
そして、前に進めないと思ったなら、その理由を探らなければなりません。
もしかしたら、自分が前だと思っていた方向が、実は前ではないのかもしれないのです。
前を向こう その4
親や先生との関係で、自分が自信を失ったのだとわかった時、親や先生に対する怒りが、湧き起こるかもしれません。
今の自分がこうなったのは、全部あの人たちのせいだ、と恨みたくなるのです。
その気持ちはわかりますが、でも、ここでも冷静に考えて欲しいと思います。
誰かのせいで、こうなった。
それは、自分の人生は台無しにされた、という意味です。
台無しというのは、元には戻らないということですね。
しかし、それはまだ世の中の支配者たちが、刷り込んだゆがんだ価値観が、作動している証です。
まず、他人と同じような人生でなければならない、という思い込みです。
これは明らかにゆがんだ考えです。
自分の状況だけを見て、そう思うのでしょうが、この考えに従えば、生まれながらに身体に不具合がある人や、生まれた時には片親しかいなかったり、あるいは両親ともにいなかったという人は、初めから価値がないということになります。
そんなつもりはないのかもしれませんが、他の多くの人と同じ人生を歩めないということを、悪いととらえるのは、そういう意味なのです。
人はそれぞれ違うのです。
見た目だけでなく、生まれ育つ環境も違うのです。
そこに、いいも悪いもありません。
見た目に大変そうでも、その環境の中でしか見つけられない価値というものもあるのです。
そんな環境の下に生まれて来る者たちは、とても力強い魂の持ち主だと言えるでしょう。
それは自分に対しても、言えることなのです。
自分が他人と異なることを認めて受け入れる。
これは、とても大切なことで、自分の人生を歩む上で、基本的なことなのです。
次に、自分で自分の人生を、コントロールできると認識している人は、何があってもそれを他人のせいにはしません。
他人のせいにしたくなるのは、自分は人生をコントロールできない、つまり無力な存在だという気持ちがあるのですね。
それは、やはり刷り込まれた価値観でしょう。
元々無力な者など、一人もいません。
無力に見えたとしたなら、そう見ている人が、その人の価値を見い出せていないだけのことです。
目が曇っているということですね。
お前は無力だと思い込ませることで、支配者は人々を自分の言うことを聞かせようとするのです。
無力で何もできないのだから、こちらの言うとおりにしてれば、間違いないよと言うのです。
そうして、人々を自分の手下として、好きなように扱うのです。
自分はそんな支配者から逃れて自由の身になれたのに、未だに捉えられたまま、いいようにされている親や先生たちを、気の毒だと思いませんか。
ある意味、生きた屍にされているのです。
自分がどんな状況に置かれているのか、気づくことすらできずに、貴重な人生を支配者のために捧げるわけです。
可哀想だと思いませんか。
彼らの考えを、他人が改めることは難しいです。
でも、彼らを許すことはできるでしょう。
彼らを許せる時、自分は彼らよりも高い視点にいます。
それは人間として、大きく成長したということです。
自分を直接傷つけた者がいたとしても、同じことです。
その人物も生きた屍です。
本当に自分の人生を歩んでいる者たちは、決して誰かを傷つけようとしません。
みんな仲間だと理解しているからです。
高い視点に立って人生を歩んでいれば、同じ視点に立つ者としか、付き合わなくなります。
そこには互いを高め合う要素しかありません。
人生はますます楽しく豊かなものとなり、あの苦しかった人生は何だったのかと、思うほどになるでしょう。
ポイントは許すということです。
自分を傷つけた人たちを許すことで、傷つけられた自分を許せるようになるのです。
つまり、自分はこのままでいいんだ、と思えるようになるのです。
前を向こう その3
自分を傷つける価値観だとわかっているのに、それを手放すことができないのは、自分を低く見てしまう価値観が、心の奥底に隠れています。
自分なんかには価値がないから、他人に傷つけられても当然で、そんな人生が自分にはお似合いなんだという思い込みが、心の目立たない所に刷り込まれているのです。
生まれて来た時には、そんな考えなんか持ち合わせていなかったはずです。
生まれたあとに、どこかで刷り込まれたのですね。
それは、自分を護ってくれるはずの、家庭内かもしれません。
兄弟姉妹間で比べられ、自分は他の兄弟姉妹よりも劣っている、自分は他の兄弟姉妹のようには、親から愛されていないし、認められていない。
そんな風に思うようになったら、自信を失って当然です。
他の家の子供と比べられるということもあるでしょう。
あそこの家の子は、こんなに出来がいいのに、どうしてあなたはこうなの?
そんなことを言われても困るでしょう。
親は子供を励ましているつもりかもしれませんが、子供にすれば、たまったものではありません。
そんな気持ちを抱えたまま大きくなると、大人になっても同じ想いで、生きて行くことになります。
何をするにも自信がなく、ちょっとしたことで傷ついてしまいます。
そんな人に狙いを定めて、いじめをする人もいます。
そうなると、状況はさらに悪化して、何もかもが嫌になってしまうでしょう。
学校で先生から、他の生徒と比較されても、同じことになります。
親も先生も、子供から見れば絶対的な存在です。
その絶対的な存在から、否定的な目を向けられれば、子供がそれに抗うことはできません。
自分は大した人間ではないんだ、大した価値などないんだと、勝手に思い込んでしまうのです。
でも、大人になって、いろいろ冷静に考える力を、持てるようになっていると思います。
その冷静な思考力を使って、親や先生という存在が、本当に絶対的な存在なのか、考え直してみるのです。
そうすれば、みんな同じ人間であって、何でも知っているわけではないし、知らないことの方が多いということが、わかるはずです。
彼らが世の中のルールを作ったわけではないし、世界を創ったわけでもないのです。
ただ、世の中こんなものだと思い込まされ、自分には子供に何でもできる権限があると、信じ込まされているだけです。
本当はそんなルールも権限もありません。
それらを作っているのは、人々を支配して、思い通りに動かそうと考えている者だちです。
彼らは、ロボットのように従順な粒ぞろいの人間を、作ろうとします。
また、自分に疑いの目が向かないように、互いに競争させて、競争社会が当たり前だと思い込ませます。
そして、ただの個性を優劣という基準で見るように仕向け、自分よりも下の者を叩くことで、今の自分が置かれた状況への、不満が溜まらないようにするのです。
不満が支配者に向けられたら困るから、そうするのです。
しかし、支配者は直接誰が劣っているとは言いません。
そうは言わずに、自分に都合のいい人間を褒め称えます。
そうすると、結果的に都合がよくない者たちは、仲間内から低く見られるようになるのです。
本当は全ての人間は個性ある仲間です。
競い合ったり、争ったりするものではありません。
みんなで心を一つにして、力を合わせれば、どんなことでもできます。
支配者はそれを恐れているのです。
だから、みんなが一つにならないよう、あの手この手で人々を分断しようとします。
誰かが喜べば、誰かが泣くような仕組みを作るのです。
そんなゆがんだ心の者たちが作った価値観が、知らない間に刷り込まれています。
どうしてその価値観があるのかが、本当に理解できたならば、それを捨て去るのは簡単でしょう。
自分に価値がないと思いたくなる時は、自分に刷り込まれている、ゆがんだ価値観を見つけ出し、さっさと捨て去って下さい。
そうすれば、自然と目は前に向き、本来のあなたの人生を歩み出すことができるでしょう。