宇和島の伊達
宇和島は、愛媛県の南西部に位置している、海辺の街です。
この街の名前を、まだ学生だった頃に、父から聞かされた事がありました。
明治24年(1891年)に、訪日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備担当の巡査に、切りつけられるという事件がありました。
これは当然、国際問題です。
当時の日本はロシアに対して、まだ非力でした。
そこで焦った政府は、この巡査を死刑にするよう、司法に迫ったと言います。
しかし、ニコライ2世は負傷しただけで、殺されたわけではありませんでした。
その罪は、法律上は死刑には、該当しませんでした。
当時の裁判官であった児島惟謙は、政府の圧力をはねのけて、巡査に無期懲役を言い渡しました。
これは一般の人間が犯した罪への処罰と、同じだったそうです。
私の父は児島惟謙のことを、宇和島出身の裁判官で、権力に屈せず法を守った、偉い人物だと、語ってくれました。
その時の記憶で、私の中では、宇和島と言えば児島惟謙という、図式になっていました。
ところが、実際に宇和島を訪ねてみると、小さなお城がある城下町でした。
児島惟謙という名前など、どこにも見かけません。
しかも、このお城にいたのは、あの有名な東北の伊達家の者だというから、驚きでした。
伊予宇和島の伊達家初代藩主は、伊達政宗の息子である、伊達秀宗という人でした。
あの正宗の息子かということで、さらに驚かされましたが、東北の伊達家の者が、四国で城を構えているとうことが、何だかとても不思議な感じに思えました。
秀宗は元は、政宗の世継ぎだったらしいのですが、母親は正室ではありませんでした。
その正室に男子が生まれてしまい、秀宗は世継ぎの立場ではなくなりました。
秀宗の居場所がなくなるため、政宗は徳川幕府に、秀宗が独立できるよう嘆願したと言います。
その結果として、秀宗には宇和島の領地が与えられ、この地を治めることになったそうです。
その伊達秀宗が故郷を懐かしみ、職人に作らせた魚の練り物が、今も残っています。
それはじゃこ天という、宇和島名物の食べ物です。
当時と全く同じなのかは、わかりませんが、かつてのお殿さまの好物です。
宇和島へお越しの際は、ぜひご賞味いただき、当時のお殿さまの気持ちを、感じてみて下さい。
宇和島の伊達家は幕末まで存続し、当時の藩主伊達宗城(むねなり)は、薩摩の島津斉彬、福井の松平春獄、土佐の山内容堂と並んで、四賢侯の一人に数えられた、優れた人物でした。
宗城は、先代が行っていた殖産興業策を、受け継いで発展させました。
また、軍備の西洋化による、富国強兵を進めました。
さらに、身分や出自を問わず、才能ある者を誰でも登用したのです。
中でもすごいのは、蒸気船である黒船を、建造するよう命じられた職人が、それを見事に造り上げたと言う話です。
この職人は嘉蔵と言い、仏壇・仏具や提灯を作る仕事をしていました。
とにかく器用だと言うので、蒸気船を作るよう命じられたのでした。
いくら器用だと言っても、船大工でも設計士でもありません。
ただの職人です。
無茶苦茶な話ですが、お殿さまの命令ですから、逆らえません。
結局、嘉蔵は蒸気船を、造ってしまったのです。
その直前に、薩摩が蒸気船を造ったので、国産としては第二号の蒸気船です。
しかし、薩摩が外国人技師を雇って造ったのに対し、宇和島の蒸気船は純国産でした。
この嘉蔵の腕前にも恐れ入りますが、嘉蔵に蒸気船を造るよう命じた、伊達宗城も大した人物です。
意外な所で意外な人物が活躍した町、それが伊予の宇和島なのです。