異星人の生まれ変わり

 ※PatchさんによるイラストACからの画像です。

最近、いろんな人が異星人に見えてしまいます。

テレビに出ている人も、道ですれ違う人も、みんな異星人のように見えるのです。

別に、私の頭がおかしくなったわけではありません。

ただ、そういうこともあるだろうなと考えると、どの人もそんな風に見えてしまうのです。

面白いですよ。

特に外国から日本に来た人などは、普通に見れば、その人の国から来たということですが、本当は宇宙の別の星から、人間生活を体験しに来ているのだと、思えてしまうのです。

たとえば、ジョークというものが理解できない、私たちから見れば、堅物の塊のような異星人が、吉本のお笑い芸人に生まれ変わって、みんなを笑わせていると考えてみて下さい。

 ※hummingbirdworksさんによるイラストACからの画像です。

本来であれば、どんな物でもパパッと作れてしまう、技術を持つ異星人が、焼き物の職人になり、手作りの良さを満喫しているかもしれません。

いろんな国の人が集まって、討論している様子を見ると、まるで銀河系のあちこちから集まって来た、異星人たちの会議を見ているようです。

地球人をあっと言わせてみせてやると、意気込んでいたはずの異星人が、家でごろごろしている、親爺になっているのも面白いですね。

 PatchさんによるイラストACからの画像です。

だけど、みんな生まれて来た時に、生まれて来る前の計画など、全部忘れてしまうので、予定とは違うことを、やっていても仕方がありません。

それに、その方が初めの計画よりも、よかったかもということもあるでしょう。

地球を征服してやろうと、悪意を持って生まれて来る、異星人がいるかもしれないと、考える人がいるかもしれません。

でも、征服するつもりなら、生まれ変わったりしなくても、直接攻めてくれば、いつでも征服できるでしょう。

ただ、ゲーム感覚で、みんなを自分に従わせてみたいと、考える者はいるかもしれませんね。

いずれにしても、本当の悪意を持った異星人が、生まれて来るとは思えません。

それに、仮に悪意があったとしても、生まれて来た時には、全部忘れているのです。

何も恐れることはありません。

異星人がどんな目的で、生まれ変わって来るのか、本人も忘れてしまうのであれば、どうでもいいことでしょう。

 ※いちようさんによるイラストACからの画像です。

人間として生まれた彼らは、自分は人間だと信じていますし、人間として生きて行くのです。

その中で、持ち前の能力や雰囲気を活かしながら、いろんな経験を仲間と分かち合い、学び合うのですね。

と、まるで異星人が本当に、人間として生まれ変わっているのが、事実であるかのように書いていますが、本当のところはわかりません。

でも、可能性はあります。

みなさん、異星人と言うと、UFOを探して空を見上げるでしょうが、一緒に空を見上げている、隣の人が異星人なのかもしれませんよ。

学校の先生や職場の同僚、友だちの誰か、その中に異星人が混ざっていたとしても、不思議ではありません。

だけど、そんなことは確かめようがありません。

だって、本人は何も覚えていないのですからね。

だから、異星人の生まれ変わりを、否定はできませんが、肯定もできないのです。

だとすれば、どう受け止めるのかは、各自の自由です。

自由なのですから、面白い方に受け止めたら、いいのではないでしょうか。

だから、私は思うのです。

世の中には、異星人の生まれ変わりがたくさんいて、世の中を盛り上げようとしてくれているのだと。

もしかしたら、あなた自身が異星人なのかもしれませんよ。

 ※PatchさんによるイラストACからの画像です。

何だか周囲に馴染めなくて、いじけがちだとすれば、それはあなたが異星人だから、人間社会の雰囲気に、悪酔いしているだけなのかもしれません。

そうか、自分は異星人だったのか、と納得をして、自分のペースで生きてみて下さい。

きっとそれは、他の人たちに大きな刺激になり、あなた自身も楽しい生活を、手に入れられるでしょう。

自分がやりたいことに、後先構わず突っ込んで行くような人も、異星人かも知れません。

何故なら、人間社会にある常識や、先入観というものに、縛られないからです。

その行動は、自分の殻を打ち破れ、というメッセージを、周囲の人に伝えることになるでしょう。

とにかく、異星人は人間社会に、たくさん入り込んでいて、欠かすことのできない存在に、なっているのです。

と、私は考えています。

みなさんも、そんな風に想像して、世の中を眺めてみて下さい。

自分と違う考え方の人、奇抜なファッションの人、すごい事をやってのける人、みんな、いろんな星から来た人たちだと思うと、とても楽しくなりますよ。

 ※とまこさんによるイラストACからの画像です。

砥部焼(とべやき)

 ※蒲鉾さちこさんによる写真ACからの画像です。

今日は家内と義母、私の三人で、砥部焼のイベントへ行って来ました。

松山から国道33号線を南へ進むと、久万高原の山があります。
その山の麓辺りが砥部の町で、古くから焼き物が作られていたと言います。

砥部焼の特徴は、厚ぼったくてぽってりした感じです。
とても丈夫で、他の食器と喧嘩をしても、まず負ける事はなさそうです。

伝統的な柄は、白地に紺の唐草模様ですが、最近は若い作家が増えて、いろんな模様や絵柄のものがあります。

特に女性作家が増えているそうです。

伝統的な模様は、力強くて男性的です。
それに対し、現代風の図柄や模様は、柔らかく温もりのある、女性的なものが多いようです。

今回は義母や家内が気に入った、お皿やカップが見つかったので、みんな大満足でした。


ところで、砥部焼の歴史を調べてみると、とても面白いのです。

砥部は、元は砥石で有名な土地だったそうです。

その砥石を切り出す時に出て来る、砥石の屑の処理がかなりの重労働で、村人たちから苦情が出るほどだったと言います。

江戸時代には、砥部は松山ではなく、大洲の殿さまの領地でした。

当時の大洲は経済的に、かなり大変だったそうです。

それで、砥石の屑で磁器ができる、という話を聞いた殿さまが、1775年 (安永4年) に、家臣に磁器を作るよう、命じたそうです。

しかし、初めての事なので、作業は順調に進まず、何度も失敗が繰り返されました。

そして、2 年半後の1777年 (安永6年)、ようやく白い磁器が誕生しました。
これが砥部焼の始まりです。

この頃の白というのは、少し灰色がかった白だったと言います。

しかし 1818年 (文政元年) には、新たな陶石が発見され、より白い磁器が作られるようになったそうです。

 ※happyjp2020さんによる写真ACからの画像です。

砥部焼が厚手に作られているのは、実用的であるためです。

砥部焼は壊れにくく、手に持っても料理の熱さを、感じにくいのです。

逆に言えば、料理が冷めにくいわけです。

値段も手頃で、庶民が購入しやすいというのも、特徴だそうです。


そうは言いましても、最近の砥部焼の中には、そんなに厚みがない物もあります。

まあまあいいお値段の物も、結構あります。

単なる実用品ではなく、芸術性も備えた実用品という物ですね。

その値段を高いと見るか、高くないと見るかは、買い手の価値観によるでしょう。

芸術性やオリジナリティを、評価しない人にとっては、何でそんな値段なのと、憤慨したくなるかも知れません。

しかし、その作品をとても気に入った人は、全然高くないと思うでしょう。

また、作家あるいは職人たちが、その作品を作るために、どれだけの努力と工夫、そして忍耐を続けて来たのかと、考えられる人は、妥当な値段だと思うに違いありません。

食器に限った話ではありませんが、どんな物でも、それを作った人がいるわけです。

そして、それをどんな想いで作ったのかを考えると、安い値段で買うのは、申し訳ない気持ちになってしまうでしょう。

自分が作品を作る側だったら、これより安い値段を言われたら、どう思うだろうと考えると、この値段は高過ぎるとは、なかなか言えないと思います。

とは言っても、現実の話として、手持ちのお金がそこまでなければ、いくら妥当な値段だと思っても、それを購入する事はできません。

作家の方にしても、作品を評価してもらえても、買ってもらえなければ意味がありません。

ここの所のさじ加減が、むずかしいのでしょうね。

しかし、毎日使う物であれば、見た目は高くても、高いとは思えなくなってしまいます。

少し無理をしたら買えなくはない、というような値段であれば、私なら絶対に買ってしまいます。

何故なら、それで毎日の暮らしが楽しくなるのであれば、逆に安いと思うからです。

同じ物を食べるにしても、食器が違うだけで、美味しさが変わって来ると思います。

生活に彩りを添えてくれる物は、有り難い物です。

実際に購入するかどうかは別にして、そういう物の価値というものを、確かめて楽しめば、それだけでも人生は、豊かなものになるでしょう。

いろんな方への感謝

 ※WordPress のタイトル画面です。

私のブログは、WordPressというプログラムを、利用して作っています。

WordPressは無料のプログラムですが、高性能です。

そこへさらに、世界中の人たちが WordPressのために、様々な機能のプログラムを作ってくれています。

それらのプログラムを併用することで、WordPressの性能は、ますます高められるのです。

何と言ってもただですし、とても便利だと、本でもネットでも紹介されていましたので、これでブログを始めることにしたのです。

それでも、こういう事に慣れている人が、使うのとは違います。

全くのど素人ですから、マニュアルに書かれていない問題が起きると、どうしていいのかわかりません。

そういう時には、ネットでいろいろ検索をして、何とか問題を解決するのですが、今回、またもや問題が起こって、四苦八苦していました。

ついこないだまで、特に何の問題もなく、だいぶブログ作りにも慣れて来たな、と思っていました。

そんな頃に、何だか文字の打ち込みが、うまく行かなくなり始めたのです。

キーボードで文章を入力しても、画面に文字が表示されるまで、時間がかかるのです。

おかしいなと思いながらも、ブログを書き続けていると、次第に表示されるまでの時間が長くなりました。

キーボードを押しても、画面の方は全くの無反応。

壊れたのかなと思って、もう一度キーボードで入力すると、少ししてから、やっと文字が表示されました。

と思ったら、同じ言葉が続けて表示されます。

初めに表示された文字は、最初に打ち込んだものだったようです。

あまりにも症状がひどくなって、ブログを書くのに、支障をきたすようになったので、インターネットで調べてみたのです。

すると、ブラウザのプログラムが、打ち込んだ言葉のスペルを、勝手にチェックしているかも知れないから、それを止めたら、症状が改善するとありました。

そうだったのかと、指示どおりにやってみました。
でも、何も改善されません。

弱りました。

デスクトップのコンピューターに続いて、こっちのコンピューターもいかれてしまったのかと、新しいコンピューターの費用が、頭をよぎりました。

その時に、ふと気づいたのです。

ブログの文字を打ち込む時には、文字の表示が遅いのです。

でも、Yahoo検索やワープロでの文字の打ち込みは、これまでどおりで、何も問題がありません。
キーボードで打った文字が、即座に画面に表示されます。

と言うことは、コンピューターの問題ではなく、WordPressかサーバーの問題に違いないと考え、再び検索しました。

すると、次に出て来た解決策は、WordPressのキャッシュ領域を、きれいにするというものでした。

これまで書いて来た、ブログの下書きなどのデータが、WordPressのキャッシュ領域に、一杯貯まってしまい、プログラムが動けなくなる、というのが原因だと言うのです。

ブラウザのプログラムのキャッシュが、取り込んだデータで一杯になってしまうと、インターネットの画面表示の速度が、遅くなることがあります。

それと同じ理屈です。

なるほどと思い、そのキャッシュ領域のデータを消してくれるプログラムを、新たに導入しました。

もちろん、このプログラムも無料です。

でも、初めて使うプログラムですから、よくわかりません。

ネットで紹介されている使い方を、いくつも参考にして、それから気合いを入れて、キャッシュ領域をきれいにしました。

すると、あら不思議。
以前のように何の問題もなく、すらすらと画面に文字が、表示されるようになりました。

急いで新しいパソコンを、買う必要がなくなり、万々歳です。

と言うことで、本日のこのブログを、無事に書くことができました。

 ※Gordon JohnsonさんによるPixabayからの画像です。

感謝すべきは、インターネットでいろんなことを、親切に教えて下さる方々ですね。

お金も取らずに、本当に奇特な方ばかりです。

ブログを書いていると、それを自分一人で、作っている気持ちになりがちです。

でも、プログラムを提供してくれる方、その使い方を細かく説明してくれる方、また自分が困った時の解決方法を、親身になって教えてくれる方たちが、いらっしゃいます。

そんな方たちが、いてくれたからこそ、ブログができるのだと、いう気持ちになりました。

それに、インターネット回線を提供してくれる企業や、ブログのためのサーバーを用意してくれる企業、パソコンを作ってくれる企業や、それを売ってくれる企業、いろんな企業があるからこそ、世の中にブログを発信することができるのです。

これまた改めて、ありがたいことだと思いました。

そう考えると、電力会社もそうですし、パソコンなどの部品を、作ってくれる企業も同じです。

そこで働く人々の生活環境を、提供してくれている方たちもそうです。

みんなに活躍の場を与えてくれている、この地球もそうなんですね。

みんなの力があったから、私はブログを発信することができるのです。
本当に感謝したいと思います。

自分が何をするにしても、そこにはいろんなつながりが、あるんですね。

もちろん、自分の行為が、誰かに影響を与えているなんて、一人一人の方たちが、考えているわけではありません。
それでも、影響しているのです。

その人が気づいていなくても、その人の存在は思いがけない所で、誰かの役に立っているんですね。

自分みたいなちっぽけな人間に、何ができるんだと思っていても、それでもちゃんと、その人から発せられた力は、どこかで必ず、誰かに影響を与えているんです。

それは、かく言う私にも、当てはまることです。

誰も読んでくれないかも知れないブログです。

それでもずっと書き続けていると、きっと誰かの目に留まり、その人の役に立つのではないか、と考えています。

その方と直接お目にかかることは、ないかも知れません。

それでも、顔も知らないその人が、笑顔を取り戻したり、好奇心に目を輝かしてもらえれば、これ以上の喜びはありません。

そんな誰かの様子を、思い浮かべながら、これからもブログを続けて行きたい、と思います。

 ※Vlad BitteによるPixabayからの画像です。

パソコンの故障

 ※EdarさんによるPixabayからの画像です。

長らく使っていました、デスクトップのパソコンが、そろそろ寿命を迎えそうな様子です。

この何年か立ち上がりに、随分時間がかかるように、なっていました。

それでも、待っていれば起動するので、気にせずに使っていたのです。

しかし、時々プラグラムが途中で止まったかのように、動作が遅くなることが、よくありました。

Windowsや ウィルス対策ソフトが、CPUやメモリーを占領するために、他のプログラムの動きが、悪くなっているのだろうかとも、考えました。

タスクマネージャーで調べてみると、CPUも特に活発に動いている様子もないし、メモリーも余裕がありました。

それでも、ハードディスクが作動しているランプが、ずっと点灯しっ放しなので、どうしたことなのかと、ずっと不思議に思っていました。

でも、その理由が今回の不具合で、ようやく理解できました。

パソコンを立ち上げた時に、パソコンが起動すると、普段はパソコンメーカーのロゴマークが、モニター画面に出て来ます。

でも、今回はロゴマークが表れず、タイプライターで打ち出したような、意味不明のアルファベットや、数字を並べた文のようなものが、ずらずらっと出て来て、動かなくなったのです。

意味がわからないので、このブログを書くのに使っている、ノートパソコンを使い、インターネットで状況を調べてみました。

すると、Windowsを立ち上げるための、Biosというものを、初期化する必要があるとのこと。

しかも、それでも上手く行かない場合は、パソコンの機械が Windowsプログラムが入っている、ハードディスクにアクセス出来ていないと、いうことらしいのです。

つまり、もう機械がだめだってことですね。

それで、書かれてある指示に従って、恐る恐る Biosを初期化してみると、今度はロゴマークが出て来ました。

それで、ほっとしていたのですが、立ち上がったはずのデスクトップ画面にある、たくさんのアイコンが真っ白のままです。

しばらく待ってみたのですが、変化がないので、再起動。

今度はアイコンも元通りになったので、やれやれでした。

しかし、何をするにしても反応がとても鈍く、これはやはり、ハードディスクとのやり取りが、順調に行っていないのだと判断しました。

古い保証書を探し出して調べてみると、このパソコンを購入したのは、平成23年6月でした。
まるまる9年が過ぎて、10年目に入ったところだったのです。

そもそも、このパソコンは Windows7でして、去年の暮れにマイクロソフトのサポートが、終了した代物です。

インターネットに接続するのをやめて、ワープロ専用機として使っていたのですけど、やっぱり無理だったようです。

今はノートパソコンがあるので、特に困るわけではないのですが、このノートパソコンも、いつ壊れるかわかりません。

それに画面が小さいのは、若くない私には、ちょっと見づらくもあるのです。

ですから、いずれまたデスクトップのパソコンを、購入しようと思うのですが、資金がないので、それはもうしばらく、先のことになりそうです。

まあ、それはいいとして、このデスクトップパソコンの中には、家族の写真やら、自分で作った文書や、いろいろ集めた資料が、たくさん詰め込まれているのです。

パソコンが完全に、おシャカになってしまう前に、それらのデータを、外付けハードディスクへ、移しておかねばなりません。

それで昨日から、かかりきりでやっているのですが、動作が非常に遅いので、本来なら1、2分でできてしまうことでも、数十分かかってしまうのです。

大変だから、寝ている間に、勝手にやっといてもらおうと思ったのですが、今朝起きて見ると、動きが止まっていて、画面にメッセージが出ています。

「このフォルダーはほかの人と共有されています」
「このフォルダーを移動すると共有は解除されます」

それで、このまま続行するのか、キャンセルするのかと、こちらに尋ねているわけです。

データの移動作業は、ほとんどできていません。

がっくりしながら、続行ボタンをポチッと押しました。

そう言えば、昨日の作業をしている時も、同じことを求められたなと反省です。

 ※きのこさんによるイラストACからの画像です。

今もこのブログを書きながら、横で時々、この続行ボタンを押しています。

何だか動きがおかしくなって来たなと、感じ始めた時に、必要な作業を済ませておくこと。

自分が体調を崩した時の対処と、同じことでした。

ところで、データを移される外付けハードディスクの、ピコピコ点灯するランプを見ていて、ふと思いました。

この機械の中に、記録されている磁気のデータは、それだけを見ると、0か1なのだなと。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

一つ一つの情報は、0か1のどちらかだけです。

このデータが物を言えたとすると、「ぼくは 0だぞ」「あたしは 1よ」ということしか、言えないでしょう。

それ以外のことは、何もわからないのです。

それなのに、「0のぼく」と、「1のあたし」がたくさん並ぶことで、様々なデータやプログラムが、作られるのです。

しかし、そのデータやプログラムも、自分たちがモニター画面に出て来る、文字や映像、スピーカーの音などを、作っているとは、露ほども知らないのです。

面白いですよね。

モニターで動き回っているキャラクターや、映像などは、自分たちがプログラムとデータの合作だなんて、これっぽっちも考えないでしょう。

ましてや、0と1が並んだだけだなんて、理解の範囲を超えているでしょう。

これと同じことが、私たちにも言えるのですね。

私たちの体も、様々な臓器や筋肉や骨が、皮膚にくるまれているのですが、誰もそんなことを考えながら、生きてはいません。

その臓器なども、小さな細胞でできていて、これらの細胞が、私たちが起きていようと寝ていようと、活動を続けてくれるので、私たちは生きていけるのです。

でも、細胞のことなど、臓器以上に思い浮かべることなど、ありません。

その細胞も、目に見えないほど小さな、原子や分子の集まりです。

そして、原子や分子は、さらに小さな素粒子の集まりなのです。

 ※XpicsさんによるPixabayからの画像です。

今の科学では素粒子よりも、小さなエネルギー単位は、設定されていません。

その素粒子になると、私たちが当たり前に考えている、形というものがないのです。

形というものは、電磁的な力によって、構成されています。

電磁的な力で、原子が引き合ったり、反発し合ったりして、物の形や境界が、形成されるのです。

でも、電磁的な力を働かせる元である、素粒子には形がありません。

つまり形というものは、本質を言えば見せかけであって、本当に存在しているのは、素粒子が集まった、エネルギー体ということなのです。

一種の幽霊みたいなものでしょうか。

幽霊との違いは、幽霊の体を構成する力が、私たちの体を構成する電磁力とは、別の力だということです。

あなたの体も、あなたの周囲に存在している物も、全てがまやかしで、本当はみんな、ただのエネルギー体だと考えると、不思議な気持ちになりませんか。

それは私たちの心にも言えると、私は思うのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちの心は、知性、感情、感覚、記憶によって、構成されています。

あるいは、そういうもので構成された人格が、いくつも集まってできているとも、考えられます。

普段は全てが、一つになっていますから、特に分けて考えることもないでしょう。

でも、たとえば重なっている人格が、分離したような感じになると、精神的な疾患と診断されます。

知性、感情、感覚、記憶、これらの要素が、どれだけ深く、その人物の構成に関わっているかによって、その人の個性や性格といったものが、独自のものになるのでしょう。

あなたが別の人の記憶を、自らの中に取り込んだとしましょう。

すると、あなたは今の自分という、認識を維持しながら、他人の経験を自分の経験として、受け止めることになるのです。

あなたがコンピューターのような知性に、アクセスできたならば、いわゆる数学的天才になります。

人生がつまらないと思っていた人が、何かをきっかけにして、豊かな人生を送るようになったとします。

きっと、その人は感情の要素が、とても豊かになっているはずです。

あなたがコウモリやイルカのように、超音波を聞き取れるようになったり、渡り鳥のように地球の磁気を、感じられるようになったら、どんな感じになるでしょうか。

人の想いを、直接感じられるようになったなら、世界はどんな風になると思いますか。

いろいろ考えると、面白いですね。

 ※Enrique MeseguerさんによるPixabayからの画像です。

知性、感情、感覚、記憶。

こういったものも、恐らくは素粒子のような、小さなエネルギー単位が、集まってできているのです。

一方で、私たちの一人一人の意識が、素粒子のように、もっと大きな何かを、構成している可能性があります。

一番身近な構成物は、集団の意識というものです。

家族、民族、宗教、国、性、年代、いろんな要素が、集団を作るきっかけになります。

誰か一人が孤立する時、目には見えませんが、集団の意識と、そこに入り込めない一つの意識という、エネルギー体の対峙があるのでしょう。

人々が対立し合う時、あるいは、それぞれが自分のことばかり考えている時、そこにあるエネルギー体はバラバラで、一つにまとまることはありません。

一つ一つのエネルギー体は小さいですから、大したことはできません。

しかし、協力し合ったり、互いを思いやったりするようになると、バラバラだったエネルギー体が、一つに集まって大きな集合意識を、形成することになります。

大きなエネルギー体は、パワーがありますから、何をするにも、小さなエネルギーより有利です。

この場合、一人一人は自分で考えて行動している、という自覚を持っています。

しかし、集合意識の立場で考えると、一人一人は自分の分身です。

全員が一つの目的を持って、動いているという認識を、集合意識は持つでしょう。

この集合意識が国や民族、宗教などを超えて、地球全体に広がる、全人類の集合意識となったと考えてみて下さい。

全員が全人類の集合意識の、分身なのです。
そこに敵は、一人も存在しません。

 ※Gerd AltmannにさんよるPixabayからの画像です。

個性は維持されています。
しかし、個性を理由にした対立や、イジメなどは起こりません。

個性は可能性として喜ばれ、多様な個性によるハーモニーが、美しく感動的な振動を、全ての人の心に広げることでしょう。

一人の悩みは、全員の悩みです。
一人の喜びは、全員の喜びです。

どんなに遠方に離れていても、人々の心は、一つにつながっているのです。

そのつながり、そのハーモニーは、肉体を持っていようと、肉体から離れていようと、関係がありません。

心のつながりが、感じられるようになったなら、今の世界でいう生死の問題は、単なる変化として、とらえられるようになるでしょう。

そして、全人類の集合意識が地球を越えて、他の星の集合意識と交流し、やがて一つになって行くとすれば、こんなに楽しく素晴らしいことは、ないのではないでしょうか。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

つい、ブログを書くのに、夢中になってしまいました。

デスクトップのパソコンのモニターが、続行するかどうかと尋ねています。

久しぶりの高速バス

 ※ALP(福岡県朝倉市)さんによる写真ACからの画像です。

今日は久しぶりに、高速バスに乗って、お隣の高知県まで行って来ました。

普段なら、JRバスと民間バスの、合わせて10往復の便があります。

でも、今はコロナ騒ぎの影響で、民間バスの方は全面的に運行中止。
JRバスは朝昼夕の3往復だけ、運行しています。

つまり、朝移動できるバスは1本だけということです。

以前は、結構乗っている方が多くて、たまに知らない人と、相席になることもありました。
でも、今日乗ったバスは、私を含めて乗客は4~5名。

朝のバスが1本しかないので、混んでいるかと思っていたのですが、ガラガラでした。

アナウンスによれば、コロナ対策のために、販売していない座席もあるそうです。

以前は外国人、日本人に限らず、旅行かなと思われる人が、多く見受けられました。
仕事で移動する人たちは、多分、車で動くことが多いのでしょう。

乗客が少ないということは、旅行で高知を訪れる人が、少ないということだと思います。

自粛解除になったとは言え、バスで旅行に出るのは、まだまだ先なのかも知れません。

それに、外国の方たちの入国制限がなくならないと、元の人数には戻らないでしょうね。

それでも、先日乗ったJR予讃線(松山と高松や岡山を結ぶ列車)の特急は、ほぼ満席でした。

この特急は、真ん中の通路の両脇に、二人用のシートが並んでいるタイプです。
満席と言っても、一人で二人用のシートを占めている形です。
自分が座る席の隣に、荷物を置くので、相席をしにくい状態です。

 ※あみん30さんによる写真ACからの画像です。

都会の通勤列車と比べたら、全然混んでないと言われそうですね。
でも、地方の特急列車では、一人で2席を占めて座るのが通常です。
それでも普段なら、席を探す苦労もなく、すっと座れるのです。

今は乗客の数が、減っているからでしょうが、車両の数が以前より少ないです。
それに、一日の運行本数も減らされています。
そのせいで、混み合っていたのでしょう。

コロナ感染の危険性を考えた場合、もう一両増やして、客が座る座席の間に、隙間を作った方がいいと思います。

とは言っても、JR四国は赤字らしいので、できるだけ余計な車両は、つなげたくないのでしょうね。

車内のアナウンスで、国土交通省からのお願いを、放送していました。

コロナ感染予防のため、都会へ行くことは極力避けて、テレワークなど仕事の工夫をして欲しいとのことでした。

そのアナウンスが流れる下では、お客がびっしり座っているのです。
何だか矛盾しているみたいで、妙な感じでした。

梅雨に思うこと

知らない間に、四国地方は梅雨入りしていたようです。

最近は外へ出ることが、少なくなりました。
そのため以前ほどは、天気予報を気にしていませんでした。

でも、梅雨入りに気づかなかった人は、多いように思います。
雨の日が続いたわけではありませんし、今日だっていい天気です。

それで、天気予報の衛星画像を見てみました。
すると、確かに四国や九州のすぐ近くに、太い雲の帯が横たわっています。

今日の松山は、かろうじて前線の雲から、外れているようです。

それにしても、今年の梅雨入りは例年と比べて、かなり早いですね。
何でも、平年より5日、去年より26日早くなっているとか。
その分、梅雨明けも早くなると思いますが、それは真夏の到来です。

ここの所、毎年のように日本のどこかで、豪雨による災害が起こっています。
梅雨が長引けば、豪雨の危険性が高まります。

酷暑の夏にはうんざりしますが、早く梅雨が明けるのは、いいのかも知れません。

 ※Josep Monter MartinezさんによるPixabayからの画像です。

子供の頃は、梅雨と言えば、毎日のように雨がしとしと、降っていた気がします。

それと覚えているのは、でんでんむし。
カタツムリのことですね。

でんでんむしむし カタツムリ
お前の頭は どこにある
つの出せ やり出せ めだま出せ

でんでんむしの歌です。
今の子供たちには、何のことやら、わからないかも知れませんね。

でも、このでんでんむしも、見かけなくなりました。

昔は、学校の行き帰りの途中で、よく見かけたものです。
全然、珍しくはありませんでした。
それが、今では探しても、なかなか見つかりません。

蝶々や蜂、バッタなんかも、見かけなくなりました。

いつもであれば、春になると庭の花に、蝶々や蜂が飛んで来たものです。
でも、今年は全然見かけません。

それと、スズメも少なくなりました。
昔は、どこへ行っても、スズメの群れがいました。

朝になると、スズメの鳴き声が聞こえたものです。
でも、今はそれも聞かれません。

街に飛んで来るツバメも、ぐっと減りました。
今年は来ないのではないだろうかと、心配になるほど少なくなりました。

水を張った田んぼを見ても、虫一匹、メダカ一匹いない所が多いです。
アメンボでも見つければ、思わず感嘆の叫びを上げてしまいます。

本当に身近だった生き物が、いなくなってしまいました。

 ※Ngo Minh TuanさんによるPixabayからの画像 です。

だけど、今は低農薬や無農薬で栽培した米や野菜を、求める人が増えて来ているようです。

商品としても、その方が高く売れます。

ですから、そういう作物を出荷する農家の方も、増えているのだと思います。

少しずつではありますが、何が大切なのかに、人々が気づき始めているのでしょう。

田舎で生まれ育った人が、都会に憧れて、大きな街で暮らすことは、よくあることです。

でも、そのうちに故郷のよさが思い起こされ、田舎に戻る人がいますよね。
それと似たような感じでしょうか。

梅雨などの気象は、温暖化の影響で、昔と同じにはならないでしょう。

これからの田舎も、どんどん人が少なくなって、以前と同じというわけには、いかないと思います。

しかし現代の人々は、田舎にはなかったアイデアや知識、技術を持っています。
そして何より、外にいたからこそわかる、田舎のよさを理解しています。

その知恵と力と希望は、きっと新しい田舎の暮らしを、築くことができるでしょう。
これから田舎へ移住するであろう、若者たちに期待です。

 ※naturalogyさんによるPixabayからの画像です。

 ※wal_172619さんによるPixabayからの画像です。

今日は一日雨です。

雨と言えば、二年前に初めての雨漏りを、体験しました。

吹き抜け部分の二階の屋根に、開閉できる天窓があるんです。
その辺りから侵入した雨水が、壁紙の下を伝って来て、途中でめくれた壁紙の隙間から、ポトポトと落ちるのです。

昔見たテレビで、雨漏りする場所の下にバケツを置いて、落ちて来る雨水を受ける、場面を見たことがあります。

でも自分が、それと同じ事をする羽目になるとは、夢にも思っていませんでした。

西日本豪雨の後のことでしたので、豪雨の被害に遭った家の修理で、どの業者も手が一杯でした。
そのため、なかなか修理してもらえる業者が、見つかりませんでした。

それで、もうすぐ台風シーズンになるのに、どうしようと、不安な毎日を送っていました。

そんな時、義父母がお世話になっている、鍼の先生が工務店を紹介してくれました。
そこは先生の知人が、経営されている工務店だったので、安心でした。

早速、修理をお願いすると、すぐに来ていただけました。

とてもいい方たちで、仕事は丁寧だし修理代も安く、その後は雨漏りも、ぴたりと止まりました。
本当に、感謝しかありません。

 ※acworksさんによる写真ACからの写真です。

この鍼の先生は、仕事や研究に熱心な方で、患者の治療に結びつくのであれば、様々な治療方法を、鍼に限らず勉強し、実践されています。

その考え方に感銘を受け、先生の鍼治療は、よく利用させていただいています。

この先生とのお付き合いがなければ、雨漏りの修理もできないまま、家の中が水浸しになっていたでしょう。

まさか、鍼の先生が工務店の人と、つながっていたとは思いもしませんでした。
人のつながりとは、本当に不思議なものだと思いました。

でも振り返ってみれば、みなさんにも似たようなことが、あるのではないでしょうか。

自分が何かに悩んでいた時に、思いがけない所から、助けの手が差し伸べられる。

やりたいと思いながら、できなかった仕事を、全然関係ない所で、紹介してもらえた。

そんな事は、ありませんか。

人生には所々に、助けてくれる人がいて、適切なタイミングで、現れるのだと思います。
いわゆる、人の縁というものですね。

誰がどこで、どうつながっているのか、わからない所が、不思議で面白いです。

人生って、そんなものなのだなと、雨が降るたびに思うのです。

 ※PhotoramaさんによるPixabayからの画像です。