いつもと違うこと その2

いつもと違うことを、生活に取り入れるのは、身体的にも精神的にもいいことです。

ここで言う精神的にいいというのは、ストレスから解放されることで、心が安らぎを覚えるということです。

でも、そこからさらにもう一歩進んだ、いつもと違うことをすることで、解放された心が、もっと自由を感じられるように、してみましょう。

それには、イメージを使います。

たとえば、草花や木々に心があると、想像するのです。

 ※MireXaさんによるPixabayからの画像です。

植物には目も耳もありませんが、周囲を感じていると考えて下さい。

口がないから、人間のように喋ったりはしませんが、テレパシーで思いを伝えることができると想定します。

そんな感じで、人間とは異なる、植物独自の心をイメージして、語りかけてみて下さい。

おはようとか、元気にしてるかいとか、今日もいい天気だねとか、口に出しても構いませんし、心の中で話しかけてもいいです。

毎日、声をかけていると、本当にその植物に心があって、挨拶を返してくれるように感じて来ます。

その草花や木々に触れなくても、見ているだけで、触感や質感、香りなどが心の中に、浮かんで来ると思います。

同じようなことを、あらゆる物に対して、やってみましょう。

すると、自分がいろんな心に囲まれ、つながっているような気がすると思います。

そうなると、世界観がまるで違って来るでしょう。

学者や知識人と呼ばれる人が、どう考えていようと、何を言おうと、そんなことはどうでもいいのです。

自分が世界をどう感じ、どのように認識しているのかが、何より重要なのです。

それに、これはただの想像だと思わないで下さい。

私たちが他の存在の心を、感じることができないのは、自分と他のものは別だと、完璧な線引きをしているからかもしれません。

想像という形で、その線引きを取っ払うことで、植物や他の存在たちの心を、実際に感じ取ったり、心を通わせていると考えることはできるのです。

そんなこと、あるもんかと思う人はいるでしょう。

でも、どうしてそうなのかを、その人は説明できないと思います。

否定したくなる人は、それまでの自分の習慣的な考え方に、そぐわないという理由だけで、否定したくなるのでしょうね。

 ※ikaflyさんによる写真ACからの画像です。

首から下の感覚が全くなく、体を動かすこともできない状態を、イメージしてみて下さい。

動かせるのは、首から上だけです。

目を動かすことで、何とか見える体は、自分の体とは思えないでしょう。

体が麻痺する前の記憶があるならば、動かすことができず、感じることができなくても、それは自分の体だと、理解することはできます。

しかし、生まれつき麻痺していたとすると、それが自分の体だと言われても、全然ぴんと来ないでしょう。

それが医療技術の進歩によって、体を感じたり、動かせたりするようになった時、自分という存在の認識が、大きく変わると思います。

自分ではないと思っていたものが、自分の一部だったと知るのは、驚きという言葉では、表現できないほどの、感動をもたらしてくれるでしょう。

植物や他のものたちの、心を感じるということは、麻痺していた体の感覚を、取り戻すのと同じです。

元々全ての存在は、一つだったわけですから、私たちに心があるのならば、他の存在にも心があるのです。

そして、それぞれの心は根っこの所で、つながっているはずです。

それが本当のことかどうかなど、証明する必要はありません。

自分が周囲の存在を感じ、交流できると認識することが、大切なのです。

他の人に理解してもらわなくても、いいのです。

普段認識している世界というのも、結局は個人的な体験に過ぎません。

自分が世界をどのように感じるのか。

いつもと違う感覚を、想像を通して解放してみて下さい。

間違いなく、あなたは映画の主人公になったような、特別な存在感を味わえるでしょう。

 ※alteredegoさんによるPixabayからの画像です。

いつもと違うこと その1

 ※_Alicja_さんによるPixabayからの画像です。

子供のうちは、いろんなことに興味を持ち、様々なことに挑戦しようとします。

歌ったり踊ったり、走ったり寝転がったり、遊んだり本を読んだり、体の全てを使いまくります。

喜んだら飛び跳ね、悲しくなったら大声で泣きます。

気持ちと体の動きが一つになっていて、その動きを見ているだけで、子供の気持ちが伝わって来ます。

ところが、大人になると、子供みたいなことをしなくなります。

それは成長することで、興味の対象が変わって来るということもあるでしょう。

でも、子供と同じようなことをすると、子供みたいだと言って笑われるので、そういうことを自制するようになるのです。

嬉しくても悲しくても、感情を表に出す前に、そこが感情を出していい場所かどうかを、確かめようとします。

他人がいると、喜びも悲しみも表現が制限されます。

気持ちを抑えることで、気持ちに伴う体の動きも制限され、日常の暮らしに必要な動きしか、しなくなるのです。

それは退屈で、機械の歯車のような、変化のない暮らしにつながって行きます。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

毎日毎日同じ動きしかしなくなりますから、使わない筋肉は衰え、関節も決まった範囲しか動かなくなります。

でも、みんながそんな感じになるので、それがおかしいこととは思いません。

人生、そんなものだと受け止めるのです。

それでも、体が弱って不都合を感じると、これはまずいと考え、慌ててジムに通い始めます。

それは、普段使っていない筋肉を、鍛え直すためです。

いつもと違う運動、いつもと違う動きをすることで、体を本来の状態に、戻そうとするのですね。

ジムには、そんな役目がありますから、いいことだとは思います。

でも、本当はジムなんかに行かなくても済むような、日常の暮らし方というものを、考えた方が、時間とお金を無駄にしなくていいでしょう。

私も人のことが言える立場ではありませんが、いつもと違うことのために、わずかな時間を割く習慣をつければ、楽しみながら体力の低下を、抑えることができると思います。

体力を維持しながら、人生を豊かにするためにも、いつもと違うことを、生活に取り入れることは大切です。

 ※Steven WeiratherさんによるPixabayからの画像です。

Cafe de 寺子屋

ニュースで、Cafe de 寺子屋という、NPO法人を紹介していました。

大学生が起こしたもので、子供たちが勉強というものに興味を持ち、心地よく自学自習ができる場を、提供しているそうです。

夕方閉店したカフェなどを借りて、大学生たちが地域の子供たちの、学習をサポートするというものです。

学校や塾のように、これをしなくてはいけない、これができないとだめだ、というような強制的な学習ではなく、子供が自分でやりたいことを、自分のペースで学び、わからない所は大学生が、一緒に考えるというものです。

インタビューに答えていた子供たちは、みんな活き活きした顔で、勉強がとても面白い様子でしたし、親御さんからも好評でした。

カフェなので、家や学校とは全然雰囲気が違いますし、カウンター席やテーブル席、ソファーなど、銘々が好きな所で、好きなように学べるのも、自然な気持ちを引き出せるのに、一役買っているようです。

子供たちは全く自由で、何にも縛られませんから、勉強が遊びの一環になっているようです。

学校などでは、勉強と遊びがきっちり分けられています。

しかし、それではついて来られない子供もいますし、ついて来ているように見える子供も、勉強とはしなくてはいけないものだから、やっているという考えを持つようになります。

ですから、社会に出ると、勉強から解放されたという思いで、何かを学んだり、自分で考えるということを、しなくなるのです。

Cafe de 寺子屋では、大学生が子どもたちの見本となり、子どもたちと一緒に学ぶことで、子どもたちに主体的な学びのきっかけを、提供するということです。

その大きな目的は「すべての価値観が尊重される中で、自分自身で判断し、言動を選択できる社会の実現」だそうです。

全く素晴らしいとしか言えません。

本来は国や自治体が、学校において、このような姿勢を見せるべきなのですが、古い体質の中で、古い考え方に凝り固まった人たちには、不可能なことなのでしょう。

これは大学生たちが、自ら考案し、自分たちで動くことで、始まったプロジェクトです。

学びの場を提供してくれる人たちも、間接的にこのプロジェクトのメンバーだと言えるでしょう。

現在は東京都と静岡県、山梨県で活動をしていますが、その他にも活動地域を広げて行く予定で、2022年3月までに、47都道府県すべてに寺子屋をつくるのが、目標だそうです。

私がいる愛媛県には、まだありませんが、とても期待しています。

初めは小さな活動でも、それがいいとなると、あっと言う間に広がることでしょう。

未来を創る子供たちが、全てにおいて受け身で、自分では何も考えないような、大人になったとしたら、どんな世の中になるのでしょうか。

恐らく、今以上にひどい世の中になるでしょう。

しかし、このプロジェクトが広まり、子供たちが大人になっても、学ぶ喜びを忘れず、常に自分たちで考える力を、持ち続けることができたなら、今とはまったく異なる社会に、なるでしょう。

現在の人々が、何も疑わずに受け入れている、資本主義社会についても、本当にこれでいいのか、もっといいやり方があるのではないかと、多くの人が考えるようになると、そのような社会は簡単に実現すると思います。

Cafe de 寺子屋 の活動は、そんな社会が近づいて来ていることを、知らせてくれています。

また、社会を変えるためには、どうすればいいのかということを、自らの活動を通して、人々にお手本を見せてくれているのです。

ここで学んだ子供たちは、勉強の楽しさだけでなく、社会に出た時に、自分たちがどのような行動を取るべきなのかも、学んでいることでしょう。

想像してみて

想像してみて下さい。
お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。

想像してみて下さい。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。

想像してみて下さい。
歳をとって、一人きりになっている自分を。

想像してみて下さい。
死に瀕している自分を。

何かを想像する時、単なる映像だけでなく、そこに何等かの感情が、付加されています。

 ※Ellen26さんによるPixabayからの画像です。

たとえば、山を散策している時に、大きなクマに出くわしたと想像すると、クマに対する恐怖感も、一緒に思い浮かぶでしょう。

呼び鈴を鳴らされて、玄関を開けたら、そこに包丁を持った男が立っていた。
ぞっとしますよね。

崖っぷちに立って、下をのぞき込んでいた時に、誰かに背中を押されて、落ちてしまった。
思わず悲鳴を上げたくなるでしょう。

恐怖や驚き、不安などのネガティブな感情が付加することで、想像の世界はとても嫌なものになります。

でも、想像とは自分勝手な設定で、創り上げた世界です。

設定を変えたり、自分が知らなかった情報を、付け加えることで、同じ場面が全然違うものになってしまいます。

たとえば、山で出くわしたクマは、自分が子供の頃から育てたクマで、とても人懐っこく、躾けもできている、クマだとしましょう。

クマを見たあなたは、恐怖を感じるでしょうか。
感じませんよね。

自分を出迎えてくれたクマに対して、喜びの笑みを浮かべるでしょう。

呼び鈴が鳴ったので、玄関に出ると、男が包丁を持って立っていた。

でも、実はその人は包丁研ぎのおじさんで、表で包丁を研ぎ終わったので、終わりましたよと知らせてくれたのです。

全然怖くありませんよね。
どうも、ありがとうございましたと、頭を下げるでしょう。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

崖から下に落ちた場面も、実はゲームだったら、どうでしょうか。

のぞき込んでいたのは、スポンジ状の巨大なスクリーンで、落ちると同時に、落ちる時の周囲の情景が、スクリーンに映し出されるのです。

もちろん、これがゲームなのは、落とされる前からわかっています。

わからないのは、いつ突き落とされるかということだけです。

どうですか。
ワクワクドキドキしませんか。

ゲームだとわかっていても、悲鳴を上げてしまうかもしれませんね。

こんな感じで、同じように見える状況でも、そこをどのように見るのか、そこにどのような感情を付加するかで、全く違った世界になります。

これは想像の世界だけでなく、現実の世界でも同じことです。

私たちは自分が知っている情報に基づいて、物事を判断しています。

その情報が間違っていたり、情報量が限られていると、物事を正しく判断できなくなります。

その結果、本当はそんなに不安にならなくてもいいのに、不安に押し潰されそうになったりします。

困った時は、それに応じた動きをすればいいのに、そんな動きはできないと思い込んでいると、文字通り身動きが取れなくなってしまいます。

 ※99mimimiさんによるPixabayからの画像です。

想像してみて下さい。
お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。

想像してみて下さい。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。

想像してみて下さい。
歳をとって、一人きりになっている自分を。

想像してみて下さい。
死に瀕している自分を。

これらの想像が、あなたにとって不吉に思えるのだとしたら、それはあなたが持つ情報に、問題があるということです。

私たちは世界の全てを、知り得ているわけではありません。
知ったつもりになっているだけです。

何かを嫌だと判断したくなる時、あるいは、物事がうまく行かないと感じている時、自分は知ったかぶりをしているのだと、考えて下さい。

状況が悪いのではなく、自分の持つ情報が足らないのか、間違っているのだと考えてみて下さい。

何故なら、同じような状況でも、笑顔を見せられる人がいるからです。

笑顔が嫌いであるのなら、仕方がありませんが、自分も笑顔になりたいのであれば、笑顔を知る人の情報を、自分も持つようにすればいいのです。

新たな情報を得て、新しい物の見方ができるようになった時、再び想像してみて下さい。

お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。
歳をとって、一人きりになっている自分を。
死に瀕している自分を。

状況は同じでも、きっと真逆のイメージが、思い浮かぶことでしょう。





意識を探る

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

手で自分の体に触れてみて下さい。

皮膚の感触や温もり、皮膚の下の脂肪や筋肉、骨などの感じも伝わって来ますよね。

体から手を離さずに、そのまま手をずらすようにして、他の部分を順番に触れて見ましょう。

手には次々に、体の各部位の感触が、連続して伝わって来ます。

この感じは、意識においても、同じことが言えます。

私たちの意識は、時間に応じて変化する部分と、変化しない部分があります。

言語的な思考は、変化する方です。

非言語的な思考は、変化しない方です。

非言語的な思考は、一瞬一瞬をじっと見つめている感じです。

言語的な思考は、一瞬一瞬で変化して行きます。

つまり、一瞬一瞬が連続することによって、生じる思考です。

言語的な思考は、時間の流れの中においてのみ、有効な思考なのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

自分の体を手で触れた時の、手が非言語的な意識で、触れられる体の各部位が、言語的思考を構成する、一瞬一瞬の要素です。

手の動きは時間を示します。

手の動きがなければ、手は一ヶ所の感触しかわかりません。

それは言語的思考が、止まっている状態です。

何が言いたいかと言いますと、私たちが通常行っている思考というものは、意識体としての自分自身の中に、創られた意識の焦点が、意識体の中を動き回ることで、生じているということです。

意識の焦点を創っているのは、全体としての意識体です。

自分の意識体の中の、どの部分に焦点を合わせるかで、その人の思考が決まります。

つまり、物の考え方や価値観が、決まるのです。

新しい考え方や価値観を得るという時は、焦点を合わせる部分が移動した、あるいは焦点の移動範囲が広くなった、と言えるでしょう。

考え方ががらりと変わったならば、以前に焦点を合わせていた部分には、もう焦点を合わせなくなったということです。

これは人間的な成長を示していますが、大きな飛躍となる思考の変化の場合、人間的な進化を示します。

通常は意識の焦点は、同じような所を、行ったり来たりしています。

刺激を感じないような日々を、機械的に送っている場合、意識の焦点の移動領域は、狭い範囲に限られます。

落ち込んだり、世の中を否定的に見てしまうような、ネガティブな思考に囚われている時は、意識の焦点は極めて狭い領域に、閉じ込められたようになっています。

私たちの思考は、意識の焦点が、平面的な移動をしている結果だとしましょう。

しかし、意識の焦点が動ける範囲というものは、実は立体的だとします。

平面的にしか動かないのは、動ける領域がそこだけだと、意識の焦点が認識しているからです。

ネガティブな思考に囚われている時は、ほとんど動ける範囲がないと、意識の焦点は認識しています。

そうじゃないと理解すると、広い範囲で動けるようになります。

それと同じで、平面的な移動だけでなく、立体的に移動できるんだと、意識の焦点が認識できれば、人は今とは全く異なる思考を、手に入れることになるでしょう。

 ※rkrkさんによるイラストACからの画像です。

それには、どうすればいいのか。

それは固定観念を捨てるということです。

人間の科学は万能ではありません。

人間が知っている知識や情報というものは、ごく限られた範囲のものです。

データとして確認したと言っても、その知識が地球を遠く離れた所でも、通用するという保証はありません。

意識というものを、理解しようとしない科学は、その時点で不完全だと言えます。

そんな科学や、日常の経験に基づいた、いわゆる常識を、絶対的なものだと信じているうちは、意識の焦点は立体的に動くことはできません。

自分が生まれて来る前から、この世界には様々な思考や価値観が、渦巻いています。

ですから、それが当たり前のように思ってしまうわけですが、そうではないのだと理解することが、人間の進化への第一歩となるのです。

人生は畑仕事

 ※八木迷々さんによる 写真ACからの画像です。

人生とは畑仕事、野良仕事のようなものです。

汗水流してがんばって、できた物を収穫します。

でも、他の人の畑は豊作なのに、自分の畑は貧弱で、出来の悪いものばかり。

そんな風に思える人は、結構いるのではないでしょうか。

野良仕事の手を休めていたのなら、結果が悪くても納得が行く。

しかし、自分なりにがんばったのに、全然うまく行かない。

今度こそ、うまく行くかと期待してると、台風や日照りなどで、収穫直前の作物がだめになる。

そんながっかり気分が、世の中にはたくさんあると思います。

でも、世の中というものは、バランスでできています。

いいことがあれば、悪いこともあります。

どちらか一方だけというのは、有り得ません。

それは人生全体でも言えることですが、一つ一つの出来事についても言えます。

どんなに悪い出来事でも、それがあったから、こうなったという、良い局面があります。

つらく悲しい経験があるからこそ、小さな喜びに気がついた、ということもあるでしょう。

 ※ぴぴふぉとさんによる写真ACからの画像です。

他の人の畑がよく見えても、見ているのは、作物が実る景色だけです。

その作物ができるまで、その畑の持ち主が、どれほど苦労したのかは見えません。

また、どんなにいい作物が実っているように見えても、それが畑の持ち主が、求めるものでなければ、それは不作と同じ意味になります。

他人の畑がどのように見えたとしても、そこの事情までは知る由がありません。

ですから、自分の畑と他人の畑を見比べることには、意味がないのです。

表面的な部分だけを見て、ああだこうだと悩むのは、時間の無駄というものです。

それよりも、自分が畑にどのような作物を、期待しているのかを、確かめるべきでしょう。

流行に追われて、人と同じような作物を作ろうとしても、うまくは行きません。

作物を育てるには、土壌が大切です。

土壌の状態が違えば、同じ作物でも、うまく育ったり、全く育たなかったりします。

人は一人一人異なる存在です。

求めているものが違いますから、そこに植えるべき作物も、違うのです。

それなのに、他の人と同じ作物を育てようとすると、うまく育ちません。

ちゃんと土壌に合った作物を、育てる必要があるのです。

つまり、自分の本音がどこにあるのか、自分が本当は何を求めているのか、ということが、人生においては、非常に大切なことなのです。

それさえしっかりしていれば、作物はすくすく育つことでしょう。

 ※2条ひろさん による写真ACからの画像です。

時に、台風などの災害に見舞われることもあるでしょうが、そんなものにもへこたらず、折れても曲がっても、作物は育ちます。

そして、素晴らしい収穫の時が訪れるでしょう。

それは、畑一杯に採れるものかもしれませんが、わずかにしか採れないものかも、しれません。

でも、それは不作なのではなく、そういう作物なのです。

つまり、誰もが手に入れられるようなものではない、非常に貴重で価値ある作物なのです。

これもバランスです。

畑一杯採れる収穫の価値が、わずかな収穫に凝縮されているわけです。

さぁ、あなたの畑の土は、どんな作物を植えて欲しがっているでしょうか。

一周年

このブログを始めて一年が経ちました。

今日から二年目に突入です。

思いつきで始めたことですが、我ながら、よく一年続いたと思います。

スマホは、まだ持っていません。

でも、手持ちの携帯電話が3Gのため、今年いっぱいで使えなくなると、携帯電話会社からの通知がありました。

外に出たところで、スマホをいじることは、ほとんどないでしょうから、新しい契約でもガラケーの携帯電話で、全然不都合はありません。

でも、スマホに附属のカメラには、魅力を感じます。

空を眺めていると、雲が見えますが、これがたまに、面白い形になることがあるんですよね。

でも、上空は強い風が吹いているので、見ているうちに、あれよあれよと、形が変わってしまいます。

あ、と思った時に、パシャッと写真が撮れたら、面白いなと思いました。

そう考えると、スマホが便利かもしれないと考えています。

また、最近いろんな花を目にするのですが、見たことがないような花が多いですね。

道端に咲く小さな花も、改めて眺めてみると、とても愛らしいですし、こんな形をしていたのかと、つい写真を撮りたくなってしまいます。

そんなことも考えると、次回はスマホを購入するかもしれません。

でも、まだしばらく先のことですけど。

それにしても、この一年は世界中が大変でした。

それは、まだ終わっておらず、今年も引き続き大変なようです。

みなさん、ワクチンが神頼みのような感じですが、恐らくその効果は限定的だと思います。

と言うのは、世界を混乱させている問題の本質は、そこにはないからです。

コロナとは別の一般的な話ですが、具合が悪くなって、病院へ駆け込む人がいますよね。

でも、どうして悪くなったのかは、理解している人が多いと思います。

病院に行くのは、病気になった状況を維持しながら、どうすれば具合をよくできるのか、という相談に行くのですね。

たとえば、寝る間もなく、お金の心配や仕事への不満ばかりを抱えて、ずっと働き続けている人が、仕事を休むように言われても、そんなことはできないと、拒否するようなものです。

みんな、できれば自分の状況や環境を、維持したいと思っているのです。

それなりに安定して来たことを捨てて、新しい環境に飛び込むのが、怖いのでしょう。

でも、医者の忠告を聞いて、あるいは病気や怪我によって、半強制的に新しい生き方を送るようになると、みんな目が覚めたように、今までの暮らしは何だったのかと、思うわけです。

今の人類は、そんな状態にあるように思えます。

これまでの暮らし、これまでの社会、これまでの価値観に、しがみついていたいのです。

たとえ、それがいい暮らしではなかったとしても、これを手放したら、本当に終わりだと思うのでしょう。

これから沈没する豪華客船に、必死にしがみついているようなものですね。

しかも、その豪華客船には、人を襲う猛毒のアリが、一杯いるのです。

アリから逃れるためには、船から海に飛び込まなければなりません。

海に飛び込むのは怖いことですが、本当は船に留まる方が、もっと怖いはずなのです。

それなのに、多くの人はそのことが理解できず、船にしがみついていようとするのです。

海に飛び込んだらおしまいだと、思うのでしょうが、実際に飛び込んでみると、早くから海に飛び込んで、自分たちの小振りで自由に動ける船を、持っている人たちが助けてくれます。

客船に乗っていた時から、その人たちの存在はわかっていましたが、みんな、そんな人たちのことを、ただの変わり者としか、見て来ませんでした。

でも、そういう人たちは、勇気を持って海に飛び込んだ人を、決して見捨てたりはしません。

必ず手を差し伸べて助けてくれます。

助けてもらった人は、彼らと共に過ごすことで、彼らが何を求めているのかを、知ることができるでしょう。

そして、それは自分が本当に求めていたものだと、気づかされるのです。

今は変革の時です。

みんなが黙って、権力者に従う時期は、終わりを迎えています。

ただ、そのあとどうすればいいのか、わからないために、人々は混乱しているのでしょう。

私はその案内人になったつもりで、このブログを続けて行きたいと思います。

全ての人にとは言いません。

私と縁があった人に、その人のためだけに、役に立ちような情報を発信して行くつもりです。

感覚の話 その2

 ※Gundula VogelさんによるPixabayからの画像です。

電話の受話器に伝わる音声というのは、電話線の向こうにある、別の電話の受話器が、拾った音声です。

向こうにある音声を、こちらで再現しているというわけです。

ということは、私たちが感じている感覚というものは、体の神経に伝えられた情報が、再現されたものだと、考えることができます。

私たちが感じている感覚とは、私たちの心の振動パターンです。

言い換えれば、感覚とは、精神エネルギーの振動なのです。

そして、それは元の情報源の持つ、精神エネルギーの振動を、再現したものなのです。

これは、全ての存在が、心と同じ性質のエネルギーで、できていると考えることが、前提になっています。

物質エネルギーと呼ばれているものも、ある種の精神エネルギーであるという考えです。

波長や振動数の違いはあっても、全ての物は、同種のエネルギーで構成されていると、考えるわけです。

そう考えると、光や音や匂いというものも精神エネルギーの一種ですし、それらを発した何かのエネルギー状態を、伝達しているものでもあるのです。

それに対して、味覚や触覚は、対象物から直接得た情報と言えるでしょう。

何かに触れている時の感覚というものは、言ってみれば、その対象物の心を、直接感じているわけですね。

 ※pasja1000さんによるPixabayからの画像です。

木に触れてみて下さい。
そこに感じるものは、木の心の一部です。

石に触れてみて下さい。
そこに感じるものは、石の心の一部です。

空気や水を感じてみて下さい。
それは、空気や水の心の一部なのです。

気がつかなかったり、当たり前過ぎて、気に留めていないかもしれません。

でも、私たちは常に何かに触れています。

それは、私たちが常に何かの心と、触れ合っているということです。

私たちが向こうの心を感じる時、向こうも私たちの心を、感じているはずです。

自分の足に触れてみて下さい。

足に触れている手の感覚と、手に触れられている足の感覚が、わかりますよね。

何かに触れている時、その何かには、足で感じたような、触れられている感覚が、生じているはずなのです。

私たちがわからないだけで、周りにある全ての物は、私たちのことを認識しているのです。

多くの人が視覚ばかりを重視して、他の感覚に注意を向けていないと、言われています。

でも、視覚以外の感覚にも、意識を向けて下さい。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

特に触覚は重要です。

そうして何かを感じている自分を、味わってみて下さい。

それは何かと、心の交流をしているということなのです。

あなたがその何かに、愛着があるのなら、その気持ちを十分に伝えてあげて下さい。

その何かは、きっと喜び、あなたに愛を返してくれるでしょう。

感覚の話 その1

感覚と言えば、五感を思い浮かべる人が多いと思います。

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの感覚ですね。

触覚というのは、皮膚の感覚のことで、物に触れた時の熱い、冷たい、痛いなどの感覚も、含まれています。

五感以外にも、平衡感覚とか、体の位置感覚とか、内臓の感覚などがありますが、外界の情報を知るための感覚としては、五感が基本と言えるでしょう。

 ※johanさんによるイラストACからの画像です。

解剖学的には、外界の刺激を感知した、神経細胞の情報が脳に伝わり、感覚として受け止められるわけです。

しかし、そもそも感覚とは何なのでしょうか。

神経や脳が関わっているのは、情報の伝達です。

電話で言えば、電話線の部分です。

そして、感覚は受話器から発せられる、音声ということになります。

受話器から聞こえる音声とは、電話線を通して、そこに届いた電気信号が、スピーカーを振動させ、その振動が空気に伝わった振動エネルギーです。

電話線を通る電気信号には、その情報は含まれていますが、電気信号そのものが、音声ということではありません。

つまり、神経は情報を伝達しているだけで、神経そのものが感覚を再現しているわけではないのです。

脳はどうでしょうか。

脳も神経細胞の集まりですから、基本的には同じでしょう。

ただ、複雑なネットワークを作っていますから、そこには様々な組み合わせ、無限のパターンの、三次元的電気回路が、瞬間瞬間に作られるわけです。

 ※K-factoryさんによる イラストACからの画像です。

これによって、微弱ではありますが、複雑な形の電磁場が生まれます。

恐らく、この電磁場が心の活動と、互いに影響し合っているのだと思います。

先ほどの電話の話に戻しますと、脳神経ネットワークが作る、微弱な電磁場が、受話器のスピーカーです。

スピーカーの振動から、空気に伝わった振動エネルギーが音声ですが、脳の電磁場に応じて、振動する心が空気で、心に再現された聴覚が、空気を振動させている音声です。

つまり、感覚というのは、心の振動パターンなのです。

粛々と

粛々と。

この言葉は、政治家が言い訳をする時に、よく使います。

意味は、慌てず騒がず、身を引き締める気持ちで、真剣に厳しい姿勢で取り組む、です。

好い加減な政治家が使うことで、言葉のイメージが悪くなっているかもしれませんが、この言葉自体に罪はありません。

それに、とても大事な意味の言葉です。

嫌なことが起こったり、問題が生じたり、思ったとおりに行かなかったりすると、人は落ち込んだり、うろたえたり、怒り狂ったりと、感情に振り回されてしまいます。

ロボットなどの機械や、コンピュータープログラムが働く時は、予定通りに行かなくなっても、感情的になることはありません。

そもそも感情がないでしょうからね。

やるべきことを、淡々と続けようとするだけです。

ただ、決められたことだけを、行うように設定されていると、問題が起こったところで、動きが止まったままになってしまいます。

どこに問題があるのか、どうしてそうなるのか、と問題を探って修正できるのならば、その作業を済ませて、本来の仕事の続きを始めるでしょう。

その時に、舌打ちをしたり、悪態をついたり、ぶつぶつ不平をこぼしたりは、機械もプログラムもしません。

与えられた作業を、淡々とこなして行くだけです。

人間も同じようにすれば、何か問題が起こっても、そこで身動きが取れなくなったり、追い詰められたりすることは、ないでしょう。

でも、ロボットやコンピューターのようになれと言うのでは、ありません。

人間には感情がありますし、感情は人生を豊かにしてくれる、大切なものです。

ただし、感情に振り舞わされては、せっかくの人生が台無しになってしまいます。

嫌なことがあったと言って、嘆き悲しみ、落ち込み続けていても、何の解決にもなりません。

かえってマイナスの感情が、前進しようとする気持ちを、削いでしまいます。

思いがけない問題が起こったからと言って、いちいちパニックに陥っていても、何もできません。

そういう時こそ、冷静さが求められます。

いろんな感情が湧き上がって来ても、常に機械のような冷静さというものを、心のどこかに据えておくように、心掛けておくといいでしょう。

怒りや悲しみ、恐怖や不安、そんな感情を完全に抑え込むことはできません。

しかし、どこかに開き直った自分というものを、創っておけば、その自分は感情に左右されることなく、物事を冷静に見つめることができるでしょう。

たとえば、落ち込むことがあって、お酒に酔いながら、こんなことをしている場合ではないぞと、自分を戒める心を持つようなものです。

どんなに辛く悲しいことが起こっても、その状況を冷静に見定め、辛さ悲しさ以外の何かを、そこに見つけたり、次に自分が取る行動を決めたりできる、自分というものが必要です。

するべきことを粛々とする。

そんな自分というものを持つことができれば、コロナ騒ぎを含めて、世の中の出来事に振り回されたり、自分に起こった事で右往左往したりは、しなくなるでしょう。