焦点を合わせる

人にはそれぞれ波長というものがあります。

波長の合わない人といると、居心地が悪くなることがあると思います。

波長が合う人といると、テンションが上がることでしょう。

楽しい時には楽しい波長、悲しい時には悲しい波長になっています。

不安な時には不安の波長、怒っている時には怒りの波長です。

人は波長を上げたり下げたりしながら、いろんな波長の自分を体験しています。

ラジオで受信する電波を、いろいろと変えるようなものですね。

 ※Manfred RichterさんによるPixabayからの画像です。

テレビやラジオにお気に入りの番組があるように、人は自分が固執したくなる波長があるようです。

固執するからと言って、その波長に合わせていることが、その人にとって快適だとは限りません。

つらく苦しい場合もあるのです。

だったら、そんな波長に合わせなければいいのにと思うのですが、どうしてもその波長に合わせてしまうのですね。

ですから、いつも明るく楽しそうな人、何でも前向きにとらえる人もいれば、 不満ばっかり口にしている人や、不安になることばかり探している人もいるわけです。

 ※アート宇都宮さんによるイラストACからの画像です。

この世界には、いろんな波長の人が共存していますので、嫌でも自分とは異なる波長の人の存在を、知ることがあります。

それでも波長が違うと居心地が悪いので、大抵はどちらも互いに一緒にいようとはしません。

でも、あまりに強烈な印象を受けたり、普段とは異なる特別な経験をした時には、他の人の波長をまともにくらい、思いがけなくその波長に囚われてしまうこともあります。

たとえば、誰にでも突っかかって行くような人に、いきなり殴られたり、家族を傷つけられたら、どうでしょうか。

普段は温和で優しい人が、憤って暴力的になるかもしれません。

これは相手の波長そのものであり、思いがけなく相手の波長に、合わせているのです。

戦争や内戦、抗争などの残虐な争いを見せられると、とても不安な気持ちになるでしょう。
また、悲しい気持ちにもさせられてしまいます。

その気持ちから立ち直れたらいいのですが、ずっとその気持ちを引きずってしまうと、本来の波長とは違う波長に、囚われている状態になっています。

ずっと面白くない日々を送っている人が、ある時、優しさに遭遇したとしましょう。

その優しさに心が惹かれ、自分も誰かに優しくできるようになったなら、それも優しさの波長にはまってしまったという事です。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

波長が異なると、体験している世界は、人それぞれです。

同じ空間にいても、そこがいいと感じる人と、嫌だと感じる人では、体験している世界が違うのですね。

つまり、自分の波長が変わるということは、体験する世界が変わるということです。

同じ世界を体験しているように見えても、実際は別の世界を体験しているのです。

そして、知らず知らずのうちに、次から次に様々な波長の世界を、私たちは体験しているのですね。

どの体験も学びになるので、どんな波長の体験も否定することはできません。

しかし、自分にとって居心地のいい波長があるのなら、その波長を維持できた方が、快適な人生を送れると思います。

そのためには、自分の波長を知ることが重要です。

よくわからなければ、自分には合わないと思われる波長の世界を、ピックアップしていけばいいのです。

それらの世界を省いていけば、残った世界に自分の波長が合う世界が、あるはずです。

そうして自分の波長がわかったなら、その波長を維持するように心掛けることです。

嫌な波長に注目し、思わず見入ってしまったり、不愉快な気持ちを持ち続けると、その波長に囚われてしまいます。

逆に相手を、自分の波長の虜にするぐらいの気持ちで、自分というものを維持するようにすればいいのです。

そんな人は一般的に、物事に動じないとか、飄々としている、マイペースだ、などと言われます。

 ※Norman BosworthさんによるPixabayからの画像です。

世の中がどんな風になっても、自分というものは変わらない。

この姿勢が、豊かな人生には必要でしょう。

創造するということ その3

引き寄せの法則という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。

自分が意識を合わせていることが、現実に引き寄せられるというものです。

きっと悪いことが起こると考えていると、実際に悪いことが起こり、楽しいことだけ考えていると、楽しいことが起こるというようなものです。

お金の心配ばかりしていると、いつまで経っても、お金のやりくりに苦労します。

お金がないなら、ないなりに、今できることに夢中になる。
そんな人は、お金のやりくりに振り回されません。

自分なんか、誰にも相手にしてもらえないと考えていると、ずっと独りぼっちの状態が続きます。

自分に自信を持って、暮らしていれば、自然と人は集まって来ます。

他にもいろいろあるでしょうが、こんな風に、自分の意識状態が、体験する世界を引き寄せるというわけです。

そうは言っても、引き寄せの法則が、本当にあるのかどうか、半信半疑になるでしょう。

でも、私たちも含めて、全てがエネルギーだという視点で見て下さい。

私たちは意思のあるエネルギーで、自らのエネルギー状態を選択し、その状態を強めたり弱めたりできます。

エネルギーの状態を強めるためには、同じ状態のエネルギーを、周囲から集める必要があります。

体を維持したり、強くするためには、それなりの食事を、しっかりと摂らねばならないのと同じ理屈です。

エネルギーとしての自分を維持し、強めるために、同じエネルギーを補充しないといけません。

その結果、ポジティブの意識には、ポジティブなエネルギーが集まり、ネガティブな意識には、ネガティブなエネルギーが集まるのです。

全てをエネルギーとして考えると、引き寄せの法則は、理に適っていると言えるでしょう。

また、中途半端なエネルギー状態だと、ポジティブになったりネガティブになったりと、どっちつかずの状況になると思われます。

大概の人が、この中途半端状態ではないでしょうか。

こんな状況は嫌だ、こんな状況から逃げ出したい、と思っているうちは、嫌なことに気持ちが向いているので、結局は嫌なエネルギーが集まり続ける、ということになるでしょう。

嫌な状況から抜け出すのは、ネガティブなエネルギーをポジティブに変える必要があります。

つまり、そこから抜け出したいと思うのではなく、楽しいことをやりたいと考えるのです。

学校や職場が、自分には合わないと思って、やめる場合があると思います。

そんな時も、こんな所にいられるもんか、と飛び出すのではなく、自分はここじゃなくて、あっちで違うことをやりたい、という感じで出るのがいいでしょう。

それまでいた所から出て行くという点は、同じに見えるかもしれません。
しかし、両者はエネルギー的に、真逆の状態になっているのです。

スタート時点は同じでも、進む方向が真逆になるわけですね。

こんな感じで、次の世界がその人のエネルギーで引き寄せられるのです。

それは、世界を創造するのと、同じ意味です。

引き寄せの法則も、結局は自分で世界を創造している、ということを説明しているのですね。

創造するということ その2

可能性と言えば、私たちの暮らしの中でも、いろんな場面で使われる言葉です。

昇進の可能性、勝負に勝つ可能性、結婚できる可能性、結果を出せる可能性。

何にしても、やってみないとわからない事ばかりです。

でも、可能性が完全に0でない限り、求める場面は無限の世界の、どこかに存在しています。

その場面に、上手く出会えるかどうかだけのことです。

ところで、私たちは何気なく生きていて、何気なく時の流れに身を任せています。

次の瞬間に何が起こるのかなど、わかりませんし、考えようともしていません。

それでも次の瞬間は来ますし、その連続で人生は成り立っているわけです。

でも、次の瞬間というものも、数ある可能性の中から、自動的に選ばれているのだとすれば、どうでしょうか。

私たちは呼吸をしていますが、意識的に大きく呼吸をしたり、数多く呼吸をしたりすることができます。

でも、何も考えていなくても、呼吸は自律神経によって調節されていますので、勝手に息が止まることはありません。

眠っている時でも、呼吸は勝手に起こっています。

それと同じように、次の瞬間というものは、自律的に選択されているけれど、意識的に選ぶこともできるのかもしれません。

あるいは、意識しているつもりはないのに、気がつかないうちに、自分の意識が反映された瞬間が、選択されていることも、考えられると思います。

たとえば、楽しいことをしようと考えている人は、常に楽しい瞬間を狙っているわけです。

何も考えていなかった場合と比べると、明らかに楽しくなるような、瞬間瞬間を選んでいるでしょう。

また、毎日がつまらないと考えている人は、何に対しても興味を持とうとしません。

もし選んでいれば、そこに楽しさがあるかもしれない瞬間を見逃して、何もないであろう瞬間を、選択してしまいます。

似たような者同士が集まってしまうのも、それぞれが似たような瞬間を選び続けるために、引き寄せ合う形になるのかもしれません。

私たちは、創造するという言葉に対して、何か大事(おおごと)のようなイメージを、持ってしまいます。

でも、創造するというのは、いろんな可能性の中から、何かを選び出し、選び出したもので、自分や世界を生み出すことなのです。

見た目に大事かどうかは、関係ありません。

世界に存在する全てのものが、自分も含めて、創造されているのです。

私たちは、自分自身をも創造していると言えるでしょう。

自分や自分の世界は、他の誰が創ったのでもなく、自分自身で創っているのです。

誰かに文句を言ったところで、どうしようもありません。

この瞬間をどう生きるのか、次にどんな瞬間を導くのか、選択権も決定権も、握っているのは自分自身です。

他の人と同じことをするのか、自分独自の道を進むのか、どんな世界を創造するのか、全ては自分の裁量なのです。

創造するということ その1

私たちは人間で、他の動物とは別の存在です。

また植物は動物とは、異なる存在です。

この世界には、顕微鏡がなければ見えないような、微生物のような存在もいます。

そんな様々な存在は全て、地球を構成している、物質でできています。

では、地球はどうかと言いますと、地球は元は星屑でした。

他の星々も、みんな星屑でした。

ですから、私たちもみんな、元は星屑だったと言えるのです。

実際にビッグバンと呼ばれる現象が、あったのかは知りません。

でも、宇宙の全ては、元々一つのエネルギーだったと思います。

一つのエネルギーが、様々な形を生み出し、いろんな存在が、生み出されたのでしょう。

その可能性は無限大です。

たとえば、地球に月は一つだけありますが、月が二つという可能性も、あったかもしれません。

その確率が1兆分の1だとすれば、私たちには0に等しいものに思えるでしょう。

つまり、可能性は0ということです。

しかし、この宇宙と同じような世界が、1兆個存在すれば、そのうちの一つの世界では、地球に月が二つあるわけです。

人間にとっては、0に見えるものであっても、その可能性が完全に0でない限り、無限の世界の中のどこかで、それは生じているのだと、考えることができます。

人間が想像し得るものはもちろん、まだ思いつきもしていないことでも、可能性のあるものは、全て無限の世界のどこかに、存在しているのです。

そう考えると、私たちが何かを発見したり、発明したりするというのは、既に存在しているものに、遭遇したと言えます。

つまり、何かを創る、あるいは生み出すということは、無から有にすることではなく、すでに存在しているものを、自分たちの世界へ導くということなのです。

自分とは

自分とは何かと考える時、自分と認識しているものと、そうでないものを区別するでしょう。

言い換えれば、その区別があるからこそ、自分というものが認識できるわけです。

具体的に言えば、人は体を自分と見なし、体の外を自分以外と考えています。

体の皮膚の表面を境にして、自分と自分以外を、区別しているのですね。

wksさんによるイラストACからの画像です。

では、どうして体を自分と考えるのかと言いますと、体は思いどおりに動きます。

また、体の感覚によって、私たちは世界を感知しています。

私たちは自分を、体と一体化させて理解していますので、自分と言うと、体を基準にして考えるのです。

しかし、正確に言えば、自分=体 ではありません。

自分とは、心のことです。

その心においても、体を基準にして作られた概念が、多く存在しています。

自分は、日本の愛媛県に暮らす風野陽二だ、という自分の規定は、自分の体がどこに所属しているのかを、述べているに過ぎません。

俺は男だ、男とはこうあるべきだ、という考え方も、自分の体が男だから、そう考えるようになっただけのことです。

人間とは何ぞやという考え自体も、自分が人間だから、そう考えるのであって、別の存在であれば、そんな考えは無意味でしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

本当の自分というものは、産まれる前から存在しており、この世界で死んだあとにも、存在し続けるものです。

人間としての自分という概念は、人間に生まれたからあるだけで、別の世界の別の存在に生まれれば、別の自我を持つでしょう。

でも、産まれるまでは、自分はどこにも存在していなかったとか、死んだら自分という存在は、消えてなくなるのだと信じていると、どうしても体を基準にした自分こそが、本当の自分だと受け止めてしまいます。

それで何も問題が起こらないのであれば、別にそれでも構わないのですが、実際には自分に自信がないとか、自分には価値がないとか、死ぬのが怖いとか、様々な問題が起こっています。

それらは全て、自分というものが、よくわからないまま、他の人と同じような、曖昧な概念で生きているからです。

本当の自分とは、人間を超越した存在です。

人間というのは、一つの存在形式であり、人間体験から何かを学ぶための、一手段です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちが日常使っている、人間としての思考も、人間経験の一つです。

意識とは思考するものだと理解していると、思考している自分が、本当の自分だと考えてしまうでしょう。

でも、人間の思考は紐のようなもので、細長く順序立てられた形を、取っています。

厚みはなく、紐全部を確かめないと、何を考えているのかがわかりません。

本当の自分が扱っている思考は、そのような薄っぺらいものではなく、細胞の遺伝子的なものでしょう。

つまり、一つの塊の中に、様々な種類の情報が練り込まれているようなものです。

テレパシーと呼ばれているような、意思疎通の仕方が、本来の私たちの思考形式だと思います。

言葉のように、長々と時間をかける思考ではなく、一瞬にして全てを理解できるような、そんな思考です。

私たちはそれを、閃きとして体験します。

情報源は無意識です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

閃きは、長々と順序立てて説明されたことを、なるほどそうかと、理解するものではありません。

一瞬にして、全てがわかるような感じです。

この閃きのような思考形態こそが、本来の思考であり、そういう思考をする自分こそが、本当の自分と言えるのです。

今の自分に自信がない人、悩んでいる人は、あまり深刻に考えないことです。

どの人も、本当の自分というものは、共通して光輝いています。

そこに優劣は存在しません。

何故なら、元はみんな一つの存在だからです。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

でもこの世界では、その考え方が受け入れられていません。

全ては細かく分類され、分離され、比較され、優劣をつけられます。

人間は最高の存在だと信じたいがために、他の存在を見下します。

同じように、自分は最高の存在だと信じたいがために、他の人たちを見下したくなるのです。

自分に自信がないとか、悩んだりする人というのは、本当の自分を感じ取っている人たちなのでしょう。

だから、今の世の中の仕組みに、上手く適応できないのです。

でも、適応する必要なんかありません。

世の中の方が狂っているのです。

誰かと自分を区別する必要はありませんし、自分のことも他の人のことも、批判する必要はないのです。

みんな自由に、ありのままの姿で生きればいいのです。

世の中がおかしいのに、自分の方がおかしいだなんて、思ってはいけません。

それよりも、今の自分にできること、今の自分がしたいこと、また本当の自分が、今の自分をとおして、何を学ぼうとしているのか、それを理解することが大切だと思います。

楽観的と悲観的

物事をとらえるのに、楽観的や悲観的という言葉を使いますよね。

楽観的は物事を明るくとらえ、悲観的は物事を暗くとらえます。

 ※Heather PlewさんによるPixabayからの画像です。

物事を悲観的に見る人には、それなりの根拠があります。

それは、その人の経験や知識に基づくもので、こうなれば次はこうなる、と言ったような図式が、頭の中に出来上がっているのです。

その図式に照らし合わせると、どう考えても上手く行くはずがない、という結論に至り、悲観的になるのですね。

でも、この考えが正しいとするには、条件があります。

それはその人の経験や知識が、絶対的なものだというものです。

でも、そんなこと言えるはずがありませんよね。

別の人の経験や知識によれば、また違った結論が導き出されるでしょう。

結局は自分の考え方に対する固執が、悲観論の元になっていると言えます。

他の考え方や可能性について、思考できなくなっているのです。

悲観的になっていると、半分あきらめ気分です。

心配ごとに対しても、あきらめて何もしないか、何かをするにしても、どうせ無駄だという感じで、本気の行動を取りません。

その結果、悲観的な予想どおりの結末に至るわけです。

 ※xxolaxxさんによるPixabayからの画像です。

一方で、楽観的な人はどうかと言いますと、こちらは必ずしも経験や知識に基づいて、楽観的になっているわけではありません。

何とかなるよとか、その時はその時さ、という軽いノリの覚悟が、楽観的な考えの基盤になっているようです。

もちろん、経験や知識から考えて、大丈夫だと考える人もいるでしょう。

でも、悲観的な人と違って、楽観的な人は絶対に明るい未来が来ると、確信しているわけではありません。

明るい未来が保証されていないとなると、悲観的な人は、そこに不安を集中させますが、楽観的な人は、それを受け止める覚悟があるのです。

そう言いながらも、いざ困った状況になると、覚悟をしていたはずが、慌てふためく人もいるでしょう。

しかし、慌てることなく、覚悟をしていたように、自分が置かれた状況を見極めて、淡々とやるべき事をこなす人もいるのです。

この違いはどこにあるのかと言いますと、淡々と動ける人は、一見不幸に思われるようなことも、他の人とは違う視点でとらえるというところでしょう。

 ※Miren HayekさんによるPixabayからの画像です。

不幸の中にも、小さな幸せを見つけたり、将来への希望を見出す力があれば、何が起ころうと慌てることはありません。

その時にできることをして、一歩ずつ前に進むだけのことです。

それができずに、ただ楽観的というだけの人は、能天気な人と言われるでしょう。

能天気でない楽観は、誰もが持つべき視点です。

それに対して、悲観は思考停止を意味しますので、持ってはならない視点です。

楽観的に生きるとは、覚悟を持って生きるということであり、その時その時を前向きになって、懸命に生きるといことです。

それはつまり、過去を振り返ったり、将来を心配したりせず、今この瞬間を、一所懸命に生きるということなのです。

また、自分自身の生き方を認め、決して自分を否定しないということでもあります。

自分の心の赴くままに、生きるのです。

しかし、人は一人では生きられません。

それでも心の赴くまま生きられるのは、誰かの支えがあるからでしょう。

つまり、楽観的に生きるということは、人々を信じるということでもあるのです。

 ※Bob DmytさんによるPixabayからの画像です。

夢を与える

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

世の中で活躍している人を見て、夢を与えてもらったと感じる人は、多いでしょう。

また、そういう人たちを見習って、自分も人に夢を与えられる人間に、なりたいと考える人もいると思います。

それは、とても高貴で素晴らしいことだと思いますが、一方で、その考えが足かせになる場合も、あるのです。


人に夢を与えるということは、実際にはどんなことだと、みなさんは思うでしょうか。

誰もがなしえなかった、すごいことをしたり、前人未踏の記録を、打ち出したりすることでしょうか。

どんな困難にも耐え抜く、不屈の精神でしょうか。

人から注目される、アイドルになることでしょうか。

夢を与えてくれる人に共通しているのは、すごくがんばっている姿でしょう。

がんばっているという姿を見せられると、人は自分もがんばろうという、気持ちになるものです。

しかし、がんばり過ぎて倒れてしまう人、潰れてしまう人もいるわけです。

 ※けいごろうさんによるイラストACからの画像です。

日本では昔から根性というものが、重視されて来ました。

確かに精神力の強さは、重要ではあります。

でも、無理矢理がんばることで、精神力が強くなるというのは誤解です。

自分もすごい人間になろうとして、闇雲にがんばっても、なかなか上手くはいかないでしょう。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

何をやっても飽きっぽい人が、何かにはまった途端、ものすごい集中力を発揮することがあります。

それは、自分にぴったりのものを、見つけたということです。

他の人から見ると、とても大変そうに見えることでも、はまっている人は、強い精神力でやり抜いてしまいます。

これは、はまっているからできることであり、精神力の強さも、そこにはまっているからこそ、発揮できるのです。

それを他の人が同じようにしろと命じられ、根性論を唱えられても、強い精神力が出せるはずがありません。

それなのに、根性を出してがんばろうとすると、必ず心か体に不調を来します。

見た目にすごくがんばっているように見えて、しかも潰れることなく活躍し続ける人とは、そこにはまっている人なのです。

つまり、自分がしていることが、好きで仕方がない人たちなのです。

だから、とてつもない精神力を発揮できるし、その活躍で他の人に、夢を与えてくれるのです。

 ※Kiên TrịnhさんによるPixabayからの画像です。

誰かに夢を与えられる人間になりたいのであれば、まずは自分が打ち込めるものを、見つけることでしょう。

好きなものが見つからなければ、見つかるまで、いろんなことに挑戦してみて下さい。

思わぬところで、こだわりを持つものが見つかると、そこにはまって熱中するようになります。

その時には、誰かに夢を与えるなどとは、考えないでしょう。

そんなことを考えているうちは、熱中しているとは言えません。

もちろん、周囲の人々の力があるからこそ、自分はがんばれるんだという認識は、モチベーションになるでしょう。

でも、一番に考えることは、自分が熱中することです。

周りに感謝しながら、自分自身が熱中することです。

記録を出すとか、何かをやり遂げるということは、あくまでも結果です。

人々が注目し感動するのは、結果ではなく、熱意を持ってやり続ける姿勢なのです。

ですから、派手である必要はありません。

誰かに見てもらうことなど、少しも考えることなく、ひたすら熱中している姿がいいのです。

 ※photoBさんによる 写真ACからの画像です。

社会の目立たないところで、人知れず一生懸命何かをやり続けている人の姿は、本当に心を打たれるものです。

そんな人は案外身近にいるのに、目立たないために、気づかれないことが多いと思います。

自分のそばに、そんな人がいないか、周りをよく見てみるといいでしょう。

きっと、見つかると思います。

身近にそんな人を見つけると、テレビや舞台などで活躍している人よりも、もっと素敵な夢を与えてもらえるでしょう。

もしかしたら、知らないうちにあなた自身が、そんな人になっているかもしれません。

憧れ

子供の頃に憧れたものって、ありませんか。

私はウルトラマンに憧れました。

私が子供の頃のウルトラマンは、初代のウルトラマンでした。

科学特捜隊のハヤタ隊員が、何やら握った手を空へ向けると、巨大な銀色の宇宙人に変身するんですね。

今でこそウルトラマンはシリーズになって、少しも珍しくありませんが、当時は人間が巨大ヒーローに変身するなど、誰も考えつかなかったことでした。

子供はみんな、ウルトラマンに夢中でしたし、私もそうでした。

変身するときのアイテムの代わりに、ボールペンでも万年筆でも、何でも少し長い物があると、それを掲げて、ウルトラマンに変身するのです。

もちろん、変身するのは心の中の話です。

近くに人がいようとお構いなしで、すっかり自分の世界に、入り込んでしまうのですね。

毎日飽きずに、ウルトラマンごっこをして遊びました。

ちなみに、変身する時に手に持つアイテムは、調べてみると、ベーターカプセルというらしいです。

子供の頃は知っていたかもしれませんが、全然覚えていませんでした。


さて、憧れの話に戻りますが、憧れというものは、子供だけでなく、大人でも持っています。

ただ、子供の頃と違って、大人の憧れとは、大概の場合が、胸の中でひっそり抱くばかりです。

子供にとっての憧れというのは、自分と一体になるべきものです。

ですから、憧れたものがなんであれ、その憧れになったつもりで、いろんなことを真似するのです。

ところが、大人が抱く憧れは、陰からじっと見守っているという、イメージが強いですね。

下手に触れない、近づかない。
それが憧れの条件のようです。

好きというのと、憧れているというのは、どうもニュアンスが違うようです。

たとえば、好きというのであれば、好きなアイドルのコンサートには、躊躇することなく行くでしょう。

でも、憧れの場合は、行こうかどうか散々迷い、意を決して行くと、胸がどきどきして、失神しそうになるのではないでしょうか。

それだけ憧れとは、強い想いなのだと思います。

ですから、もし本物のウルトラマンが目の前に現れたら、ウルトラマンに憧れている子供は、みんな興奮で固まってしまうでしょうね。

それは喜びの極致であり、もっと憧れに近づきたいと、思うようになるでしょう。

大人も同じことで、憧れている人を、身近に感じることができれば、ただ見守っているだけの状態から、自分も同じことをしてみようという、気持ちになれると思います。

では、憧れの人に近づけなかった人は、どうでしょうか。

やはり自分の気持ちに正直になって、行動を起こすのがいいでしょう。

じっと見守っているだけというのは、はっきり言って損ですね。

せっかく心が、こうすれば楽しいよと、察知しているのに、何もしないのは、もったいない話です。

スポーツ選手に憧れるのであれば、別に同じスポーツでなくても構いませんから、身近なスポーツを楽しんでみればいいでしょう。

歌手に憧れたのであれば、自分も歌を練習したり、パソコンを使って作曲をすることもできるでしょう。

何か楽器を自分の手で演奏できれば、気分はミュージシャンですね。

別にプロになって、お金を稼ぐ必要はありませんし、多くのファンを集めることも、いりません。

自分が楽しめれば、それでいいのです。

一緒に楽しんでくれる人が、身近にいてくれれば、何も言うことはないでしょう。

自分が何に惹かれているのかを、よくよく考えてみると、憧れの人がやっていることでは、ないのかもしれません。

もしかしたら、その人自身の人格や生き様に、憧れているということもあるわけです。

その場合、その人と同じことをしなくても、仕事や生活の様々な場面で、その人の生き方を見習った行動を、するようにすればいいのです。

どんなに誰かに憧れたところで、その人になれるはずがありません。

憧れるというのは、そういうことではなく、その人が示してくれている何かを、自分の人生にも取り込みたいという想いなのです。

だから、その人と同じように、できる必要はありません。

また、同じでないからこそいいのです。

自分は自分ということを、しっかり押さえながら、憧れの人が見せてくれる素敵なものを、自分の人生の一部にすればいいのですね。

子供のように、何もむずかしいことは考えず、心が惹かれるまま楽しく生きれば、これが本当の人生なのかと、感動することでしょう。

ありがとう

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ありがとう。

私はこの言葉が大好きです。

日本人が当たり前に使う言葉ですから、この言葉に込められた気持ちが、言葉と一緒に伝わって来るのですね。

ありがとうは、漢字で書くと、「有難う」となります。

つまり、語源は「有り難き」にあるわけです。

時代劇などで、武士がかしこまって、「有り難き仕合わせ」と言う場面を、観たことがありませんか。

あの「有り難き」ですね。

「有り難き」は「有ることが難しい」という意味ですから、当たり前のことではない、ということになります。

つまり、相手がしてくれたことを、当たり前とは思っていませんよ、という意味が、「ありがとう」という感謝の言葉になったわけです。

最近、誰かに何かをしてもらっても、何の反応も見せない人が、多いように思います。

まさに、有り難きこととは感じていないのでしょうね。

やってもらって当然という気持ちなのでしょう。

これでは人間関係が悪くなりますし、自分自身がつまらない人生を送ることになると思います。

本当は大切な人なのに、その人が永遠にいてくれるなんて、勝手に信じていると、ある日突然、その人がいなくなる。

その時に初めて、その人の大切さを知るということは、ドラマでも現実でも見られることです。

でも、失って初めて知るなんて、馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。

初めから、有り難きことと思っていれば、お互いに一緒にいられる間に、楽しい思い出をたくさん作ることが、できるのです。

みなさんも「ありがとう」という言葉の意味を、今一度噛みしめてみて下さい。

当たり前に使っている言葉に、深い意味があったのだと知れば、同じ言葉を使う時に、人生の豊かさを感じることは、間違いありません。

 ※PenguinGraphicsさんによるPixabayからの画像です。

ちなみに、英語では感謝を伝える時に、Thank you と言いますね。

この thank という言葉は、「思う」という think から来ているそうです。

つまり、Thank you というのは、「あなたを思っています」という意味になるわけです。

あなたがしてくれたこと、あなたの気持ちを、私は忘れませんよ、という意味なのですね。

これもまた、いい言葉じゃないですか。

thank you は日本語英語として定着し、日本人も軽い気持ちで、「サンキュー」と言いますよね。

その時に、「あなたのことを思ってるよ」という思いを込めて、「サンキュー」と言ってみて下さい。

その瞬間に、あなたと相手の方との周りには、とても温かいものが広がるでしょう。

卵の殻 その4

人類は一つということは、以前にも言われて来たことです。

でも、これは言葉や理屈でしか、理解されませんでした。

それでは本当の理解とは言えません。

本当の理解とは、感覚的なものでなければならないのです。

たとえば、本当に仲のよい家族や仲間たちの関係を、言葉や理屈だけで説明できるでしょうか。

血がつながっているからとか、同じ経験を積んでいるからとか、互いに優しいからとか、いくら言葉を並べてみたところで、本当の説明にはならないでしょう。

本当に仲がよい人たちは、心がつながっているのです。

一体感を感じているのです。

そこに権利、義務などの言葉は、必要ありません。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

これも、言葉でこんな風に述べたところで、一体感というものを知らない人には、通じないでしょう。

つまり、理解してもらえないのです。

これと同じで、人類は一つだと言ったところで、一体感を知らない人には、理解ができません。

でも、何等かの形で一体感を経験できると、その一体感の範囲を広げることで、人類は一つなのだと、感覚的に理解できるようになります。

そして今、そのように感じる人たちが、急速に増えて来ているように思います。

もちろん、さっぱり感じられない人の方が、まだまだ多いとは思います。

それでも、人々の間に一体感の経験が、波紋のように広がっていますから、理解できる人はどんどん増えるでしょう。

これまでこの感覚は、一部の者だけが理解するだけで、理屈が中心の人類全体には、なかったものです。

人類の大半は見えない殻に、閉じ込められていたのです。

だからこそ、この感覚が全体に広がると、知性体としての人類は、殻を打ち破って大進化を起こすでしょう。

 ※Hans RohmannさんによるPixabayからの画像です。

何を考えるにも、人類は一つという理解を、その根本に持つようになります。

また、人類が一つであるならば、全ての存在も一つという、理解に到達するでしょう。

本当の理解は感覚を伴うものですから、理屈だけの世界観から、感覚的な世界観を持つようになります。

それは人類の感覚が、現在の五感から、さらにグレードアップされるということです。

言葉で地球に優しい、環境に優しいと言うのではなく、自分は地球の一部であり、自然の一部なのだと、感じるようになるのです。

今、世の中は多くの大変な事が、次から次に起きています。

それは、人類の進化すべき方向が、明らかになって来ているので、逆の方向もまた、露わになって来たということなのです。

右があれば左があるのと同じです。

人類は今、大進化を始めようとしているのです。

そして、人類のエネルギーに新たなエネルギーを加えているのは、現在の人類よりも、はるかに進歩している知性でしょう。

それは異星人かもしれませんし、高次元世界の存在かもしれません。

 ※Thomas BudachさんによるPixabayからの画像です。

いずれにしても、世界に存在している知性体は、人類だけではなく、もっともっと優れた知性体が存在しているのは、間違いないでしょう。

何故、そんな知性体が、人類の大進化に力を貸そうとするのでしょうか。

その答えは簡単です。

それは、彼らが全ては一つだと、理解しているからに、ほかなりません。