言葉の撤回

「~という言葉は、撤回させていただきます」

こんな言い回しは、よく耳にしますね。

でも、日常生活で聞くことは、まずありません。

こんな言い方をするのは、政治関係の人たちだけです。

 ※bBearさんによる写真ACからの画像です。

こういう言い方が、日本で始まったのか、外国から持ち込まれたのかは、よくわかりません。

いずれにしても、一度口から放たれた言葉を、撤回することは無理でしょう。

撤回というのは、取り下げるという意味です。

たとえば、指示や命令を取り止めるという場合は、先ほどの指示は撤回する、などと言えるでしょう。

しかし、普通の会話の中で、一度口に出した言葉を、撤回するということはできません。

日常会話では撤回という言葉は、少し固い表現になりますが、あえて使うとすれば、言い換えさせて下さい、という意味になると思います。

たとえば、誰かのことをべた褒めしていたのに、その当人がとんでもない事を、しでかした時などに、さっきの言葉は撤回すると言って、その人の事を悪く言うというような場合です。

つまり、指示や命令でない時に、撤回という言葉を使うならば、別の表現をしないといけないのです。

そうでなければ、撤回したことになりません。

主義や主張を撤回する、ということはあるでしょう。

でも、これも日常会話での表現というより、議論の場でのことです。

そして、その意味はと言うと、相手との妥協を図ったり、相手を理解した結果、自分の考え方を、より良いものに改める、ということです。

そうでなければ、撤回することになりません。

ところが、日本の政治家を見ていると、自分の発言が問題視された時、撤回しますとさえ言えば、何もなかったことにしてもらえると、誤解をしているようです。

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また、与党の政治家が問題発言をした時に、野党の政治家が意気込んで、今の言葉を撤回しろと、騒ぎます。

これも馬鹿な話で、撤回しますとさえ言えば、勘弁してやろうという姿勢です。

だから相手は、撤回しますと言えば大丈夫なのだと、日常的に自分の言葉に、責任を持たなくなるのです。

誰かを傷つけるような発言をした時に、その言葉を撤回しますと言って、問題が解決するのでしょうか。

たとえば、学校の先生が一人の児童に対して、とても偏見に満ちた言葉を投げかけて、その子供が学校へ行けなくなったとしましょう。

それで親が怒り、新聞沙汰にもなった時に、その先生が自分の発言は撤回しますと言って、それで済むのでしょうか。

済むわけありませんよね。

私の言葉で子供を傷つけてしまったことを、心よりお詫びします、などと言われたところで、やはり解決になりません。

口先で何を言われようと、どうにもならないのです。

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本気で解決しようと思うのであれば、実際に自分の考えを改め、傷ついた子供の気持ちを、理解しようという姿勢を、行動で示さなくてはなりません。

それも一時的なものであれば、許して欲しいがための、パフォーマンスと言われます。

本当にその気があるのならば、改めた姿勢は、死ぬまで変わらないでしょう。

ただ、そこまでしても、傷ついた子供の心が、癒やされるという保証はありません。

それでも本当に反省しているのであれば、改めた姿勢を貫き通すでしょう。

今のは、子供に対して悪意のある先生を、例にした話ですが、日常会話の中で、さり気なく出た言葉で、誰かが傷つくことはあると思います。

その時に、相手が過敏なのであって、自分は間違っていない、と思いがちになるかもしれませんが、それでも相手への配慮が足らなかったことは、素直に認めるべきでしょう。

騒がれて仕方がなくなり、言葉を撤回するなどと、かっこをつけた言い方をすれば、火に油を注ぐようなものです。

それは考えを改めるということではなく、その言葉で騒ぐというのなら、面倒臭いからその言葉を引っ込めよう、という意味だからです。

心の中身は何も変わっていません。

しかし、みんなが問題にするのは、そういう言葉を放った、その人の心の有り様なのです。

 ※bBearさんによる写真ACからの画像です。

日本人は、臭い物に蓋をするというところがあります。

特に古い人ほど、そういう傾向があると思います。

そんな考え方があるから、表面だけ体裁を整えていればいいのだ、という発想になり、問題発言だけでなく、いろんな社会問題が、真剣に取り組まれないのです。

政治家や古い人間は、何をそんな細かいことに、目くじらを立てて、と思うでしょう。

ところが、そういう所が好い加減な人間は、何をやっても好い加減なものです。

上手く行っているように見えたとしたら、誰かが忖度をして、陰で手助けをしてくれているからでしょう。

職人にしても研究者にしても、あるいは趣味を持っている人にしても、みんな細かい所にこだわりを持っています。

ちょっとの事でも、軽視したりはしません。

また、優れた指導者は、現場で働く人々の苦労を知っています。

みんなが動いてくれるからこそ、計画が実行されるということを、理解していますし、感謝の念を持っています。

その人たちを軽視したり、傷つけるようなことを、やったりはしません。

現場の人間が不満を抱いていると、期待していたような結果につながらないことを、賢い指導者はわかっているのです。

不適任な指導者でも、これまで続いて来たのは、誰も彼らの責任を、本気で問うことがなかったからです。

しかし、これからは違います。

日本だけでなく、世界中の若い人々を中心とした、変革を求める声が、互いに共鳴し合って、広がっています。

この声を止めることは、不可能です。

政治家の中でも心ある人は、大物と呼ばれて来た人たちに遠慮するのではなく、世界に広がる声に、耳を傾けて欲しいと思います。

さもなくば、ぼろ船と一緒に、深い海の底へ沈んでしまうでしょう。

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女性蔑視

オリンピック組織委員会会長が、女性蔑視発言をしたことで、大きな騒ぎになっています。

しかし、この方は以前から、失言癖の多い人物として有名です。

それにも関わらず、オリンピック組織委員会会長に就任できたのは、この方が度々される失言を、周囲も容認していたということになります。

今回の女性蔑視発言も、それを聞いていた周囲の人間が、誰もそれを問題としなかったことが、問題だと指摘する声もあります。

まさに、そのとおりであり、そこにこそ、この問題の本質があるように思います。

人間の数だけ、いろんな見方、いろんな意見がありますから、今回のような発言、あるいは考え方があることは、どうしようもありません。

いいとか悪いとかいう判断基準が、人によって異なるため、どうしたところで、人の怒りを買うようなことを、口にしてしまう人はいるものです。

ですから、この方がどのようなことを考えようが、それはこの人の勝手なのです。

問題なのは、こういう人をオリンピック組織委員会会長に、据える人たちの方でしょう。

そこにはオリンピックの成功とは、別の目的があるように見えてしまいます。

昔であれば、このようなことがあっても、そのうちにうやむやに、なってしまうでしょう。

でも今は昔とは違います。

今の人たちは黙っていません。

今回のことでも、多くの方が声を上げ、問題の是正を訴えています。

昔では考えられないことです。

この方に限りませんが、政治家の先生たちが、筋違いの言動や、差別的発言などを見せるたびに、国民は怒りを見せます。

以前であれば、白けてしまって、政治に無関心という人が、多かったように思います。

しかし、無関心は政治家の先生たちに、好きなようにさせると、気がついた人々は、選挙以外の方法も使って、自分たちの意思表示をするようになりました。

これは非常にいいことだと思います。

古い指導者たちが、老害と呼ばれるような言動を示すたびに、国民が賢くなり、自ら動くよういなって行くのかと思うと、この方たちの役割は、意外に重要なのかも知れませんね。

権利と義務

権利とは何か。

辞書によると、「ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力」とありました。

また、「一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力」とも書かれていました。

これに対して、義務の意味は次のとおりです。

「人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め」
「倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと」
「法律によって人に課せられる拘束」

要するに、権利とは、やりたいことを自由気ままに行うことを、当然のものとして認めてもらうことですね。

一方で、義務とは、やらなければならないことです。

権利にしても義務にしても、自分以外の存在が必要です。

権利を行使するにも、義務を果たすにも、相手がいなくては、どうにもしようがありません。

山に向かって、土地の所有権を叫んだところで、土砂崩れで埋もれてしまえば、おしまいの話です。

絶滅に瀕している生物がいた時に、その生物を救うか、その生物の遺伝子情報を残すのは、人間の義務であると、考える人がいるかもしれません。

でも、それは義務ではなく、その人が勝手に信じている、使命感でしょう。

 ※Linus SchützさんによるPixabayからの画像です。

権利にしても義務にしても、人間が安心して暮らして行くために、人間によって作られた決まり事です。

それが通用するのは、人間社会の中だけです。

それも、共通の理念を持った者で、構成された社会の中だけです。

国や民族、宗教によって、理念が異なる場合、互いが主張する権利や義務は、噛み合わないことがあります。

その場合、大抵相手が間違っているという結論になり、相手を非難するか、時には暴力的な争いが生じます。

つまり、権利にしても義務にしても、その効能があるのは、地域限定の社会の中においてだけなのです。

それを他の地域に行って、そこで自分の権利を主張すると、トラブルになるのは当然です。

また、その地域における義務を、不本意だと憤慨するのも、間違っています。

こういう問題には、時々いろんな所で遭遇します。

トラブルを避けたいのであれば、あらかじめその地域の風習や、慣習などを調べておき、自分に合う場所か、確かめておけばいいのです。

しかし、元々いる地域でも、差別や無関心が絡んで来ると、権利が平等でなく、一部の者に偏っていたり、その人の事情に関係なく、これは義務だからと言って、無理難題を押しつけるということが、あるでしょう。

結局、社会を安定させるための権利や義務は、力の強い者にとって、有利な内容になってしまうのです。

そもそも、権利や義務という言葉が存在するのは、そういうものがなければ、社会がまとまらないという事情があるからでしょう。

権利や義務が、しっかりしている所は、進んだ社会であるように思われがちです。

しかし、裏を返せば、そんなことを明記しなければ、成り立たない貧弱な社会だとも、言えるでしょう。

無益な争いや、虐げられた者が存在するから、権利や義務という言葉が、生まれるのです。

 ※ねんど130さんによる写真ACからの画像です。

たとえば、育児放棄をする親がいます。

こんな親には、子供を育てるのは、親の義務だと説教が必要になります。

でも、本当は子供は義務で育てるのではなく、愛情で育てるものでしょう。

子供に対する愛情を、感じられないというところが問題なのです。

義務だからと言って、無理に育児をさせようとしても、こういう親は、他の人が見ていない所で、何をするかはわかりません。

そして、それは子供の心に、深い傷を負わせることになるのです。

子供の立場から言えば、ちゃんと育ててもらう権利が、自分にはあるということでしょう。

でも、そんな事を訴えられる、子供なんていません。

訴える力があったとしても、子供が求めるのは権利ではなく、愛情のはずです。

相手への思いやりや配慮が、十分になされる社会であれば、権利や義務について、一々明記しなくても、何も問題は起こらないでしょう。

逆に明記するから、これは書かれていないぞ、という論法で、好き勝手をする者が出てくるのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

これだけ人間の数が増え、様々な主義主張が、飛び交う世の中ですから、権利や義務を規定しないといけない事情は、理解できます。

しかし、権利や義務という言葉があるうちは、人間はまだまだなのです。

現に、起こらなくてもいいはずの争いが、様々な場面で起こっています。

自分の権利を主張するがあまり、憎まなくてもいい人のことまでも、憎むようになっています。

自分が何かを主張したい時は、必ず相手の事情を、考慮するという、思いやりを持つべきでしょう。

主張するにも言葉を選び、相手の気持ちも考えて、どうすればいいのかを、共に考えて行くという社会を、作らなくてはなりません。

義務と言われることも、自ら進んで行えば、義務とはなりません。

互いを思いやり、みんなでやろうという思いがあれば、義務など必要ないでしょう。

そんな中でも、参加できない人には、それなりの事情があるはずです。

それを強制的に参加させるのは、思いやりがあるとは言えません。

今の世の中は、自分の権利を守ろうと固執する人が、とても目立ちます。

自分勝手と思えるほどの、権利への固執は、人々を不快な思いにさせるかもしれません。

でも、権利への固執にも理由があるのです。

恐らく、権利を失えば、大きな損失により、不便かつ不愉快な人生を、強いられるという不安があるのでしょう。

でも、損失と思えるものよりも、よくなったと思えるものの方が、大きいと理解できれば、権利に固執する必要はなくなります。

互いを思いやれる世の中になり、何かを失うことを、恐れる必要がなくなれば、権利に固執することはなくなるでしょう。

 ※Daniel RecheさんによるPixabayからの画像です。

人は誰もが自由です。

自分が自由でいるためには、他の人の自由も、尊重しなければなりません。

自由の多様性と協調を、楽しめるようになれるのが、一番いいのです。

権利も義務も、あとから作られたものであって、最初からあったわけではありません。

権利や義務は、社会を安定させるための、一つの方策ではあります。

しかし、もっと優れた安定方法を、人類は求めて行かなくてはならないと思います。

SOGI その2

人の本質は体ではなく、心にあります。

心のエネルギーが男性的であれば、自分を男性だと感じるでしょう。
女性的であれば、自分を女性だと感じます。

心のエネルギーの質と、体の性が一致しないのは、前世でその性に対する、強い執着があったのかも知れません。

でも、他の可能性もあります。
人々の価値観を変えるために、あえて心と体の性が一致しない状況で、生まれて来たということも、考えられるのです。

子供は親を選べないと言います。
でも、それは違うと思います。

この世界での暮らしは、それぞれの人の学びの場なのだと、私は考えています。

同じようなことを言われる人が、結構いらっしゃいます。
私は、その人たちの意見に賛成です。

人は優れた知性の存在です。

前世や来世があるのなら、その間、ずっと知性は維持されると思います。

その知性を持って、新たに生まれて来るのに、何も状況を選ばないとは思えません。

そもそも何故、この世界に人は、生まれて来るのでしょうか。

それは知性を刺激するようなものが、この世界にあるからでしょう。

だからこそ、この世界は学びの場なのだ、と思うのです。

実際、生まれて来た時には、それ以前の事なんか、何も覚えてはいません。

でも、そんな事は何度も経験しているでしょうから、想定した上で生まれて来るはずです。

何を学ぶのか、そのためには、どんな環境に生まれるべきなのか。

そういった目的のための舞台設定は、念入りに決めているでしょう。

ちなみに、人生設計をしている自分とは、この世界に生きていると認識している、自分ではありません。

今の私たちは肉体を通して、世界を認識していますので、意識の働きも、かなり制限されています。

細かい過去の事は思い出せませんし、将来を予見することもできません。

テレパシーによる意思疎通もできませんし、他の次元のこともわかりません。

ですから、生まれる前に人生設計を行えるのは、今の私たちで言えば、無意識と呼んでいる領域だと言えるでしょう。

 ※Karin HenselerさんによるPixabayからの画像 です。

私たちが何かを思いついたり、虫の知らせを感じたりするのは、この無意識からの連絡があるからなのです。

話を戻しますと、人は人生設計をして、生まれて来るのです。

ただ、生まれて来たら、全部忘れていますから、設計どおりに行かないことも、あるでしょう。

でも、自分の気持ちに正直に生きれば、その設計どおりの道を、歩むことになるのだと思います。

心と体の性が一致しないのも、たまたまそうなったのではなく、自ら設定した人生なのです。

その経験から学べることは、多いでしょう。

他の人生では、学べないことでもあると思います。

一方で、その人生設計の中に、自らの学びだけでなく、社会への貢献という要素も、入っているのではないかと、私は強く思うのです。

社会への貢献とは、人々の価値観を変えて、人類の集合意識を進化させる、という意味です。

それは簡単なことではありません。

がっちり固まった固定観念から、人々を解放するわけですから。

人々のために生まれて来たのに、その人たちから疎外されては、たまったものではないでしょう。

でも、それをあえて行っているのです。

みなさんは他の人たちよりも、かなりパワフルな心の持ち主なのだと思います。

みなさんは自分の全存在をかけて、世の中に問いかけているのです。

どうして、自分たちのことが、理解できないのかと。

みなさんは理解を求めます。

それは、自分たちのためのように、見えるかも知れません。

でも本当は、人々を固定観念から、解放させるためなのです。

みなさんを理解し、受け入れることができた人たちは、権力者の洗脳から解放されます。

その人たちは、何でも自分で考えて判断する力を、発揮できるようになるのです。

実際、そういう人たちが、急増していると思います。

そして、そういう人たちは力を合わせて、世の中を変えようとしています。

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自分はそんな大それたことなんか、何もしていないと、思う方もいるでしょう。

でも、同じような戦士が、世界中にいるのです。

自分一人で、全てを変える必要はありません。

自分の家族や知人、周囲の人たちの中に、理解してくれる人ができたなら、それで十分役目は果たしていると思います。

必要なのは、あなたが一人の人間として、活き活きと楽しく過ごすことです。

みなさんが置かれた状況を、不幸な事だととらえる人がいます。

それは、歪んだ価値観です。

楽しく過ごすことは、みなさんにとっても、大切なことです。

でも、誰かを歪んだ価値観から、解放してあげるためにも、重要なことなのです。

みなさんは、むずかしい事を、考えなくてもいいのです。

今の自分をそのまま受け入れて、今の自分を心から楽しめば、それでいいのです。

それだけで、世の中は変わって行くのです。

みなさんが暗い顔になるのは、世間の歪んだ価値観を、肯定することになってしまいます。

みなさんがそんな価値観に、自分を合わせる必要はありません。

逆なんです。
みなさんの方が、人々の価値観を変えるのです。

そうすれば、性問題に限らない、あらゆる偏見を捨て去り、自由で多様性のある平和な社会が、築かれることになるでしょう。

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SOGI その1

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性的指向を Sexual Orientation、性自認を Gender Identity と呼びます。

SOGI は性的指向と性自認の総称で、それぞれのアルファベットの大文字、S、O、G、I を合わせた言葉です。

一般的には、ソジと読みますが、ソギと読むこともあるそうです。

性的指向とは、好きになった相手の性のことです。

つまり、異性を好きになるのか、同性を好きになるのか、ということです。

中には、どちらの性に対しても、心が動かないという人もいるようです。

性自認とは、肉体的な性別とは関係なく、自分の性を、どのように認識しているかということです。

たとえば、体は男性なのに、心は女性だと思う人がいます。

体が女性なのに、心は男性だと認識している人もいます。

自分がどちらの性なのか、よくわからないという人も、いるかも知れません。

自分が認識している性に関係なく、肉体上の性別に従って、生きて行くというのは、かなりの苦痛だと思います。

性的指向について言えば、一般的には異性に惹かれる人が、大多数でしょう。

しかし、自分が強く心が惹かれた人が、同性であるという場合は、昔からあったはずです。

ただ、昔は口が裂けても、そんな事は言えませんでした。

そんな事を言えば、変態扱いされて、いじめや差別の対象にされてしまいます。

昔と比べると現在は、肉体の性と心の性の不一致や、同性を好きになることに対して、世の中がかなり寛容になっています。

しかし、それでもまだLGBTの人たちを、受け入れることができない人々が、結構いるのが現状です。

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彼らを受け入れられないのは、昔からの価値観に、がんじがらめにされている人でしょう。

古い価値観は重い鎧となって、本人からも自由を奪います。

しかし、本人は鎧の姿が、本当の自分だと思い込んでいるので、鎧を脱ごうとはしません。

だから、こういう人たちに理解してもらうのは、なかなかむずかしいと思います。

また、自分を中心とした基準しか、受け入れられない人たちも、LGBTの人たちを理解できないでしょう。

こういう人たちは、自身が同じような、つらい目に遭わないと、理解ができないのです。

これは性の問題に、限ったことではありません。

人種差別だって、同じ事情で起こるのです。

他の地域の文化や、考え方を否定する人。
見慣れないものや、聞き慣れないものは、全て否定したくなる人。

そんな人たちは、どうしても存在するのです。

これからの世界は、そういう人たちこそが、肩身の狭い思いをするものに、変わって行くでしょう。

でも、そうなるまでの間にも、性の問題で嫌な思いをする方が、出て来るのは間違いありません。

中には、それが理由で病気になったり、自らの命を絶つ人もいるでしょう。

そういう方たちに、私は伝えたい事があります。

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どうして、自分が感じる性が、他の人と違うのか。

それを病気や、一種の障害と考える人が、いるかも知れません

でも、それは違います。
みなさんは病気でもなければ、障害でもありません。

みなさんは人々の価値観を変えるために、あえて他人と異なる性の感覚を、持って生まれて来たのです。

これまでの世界は、権力者にとって都合のいい者だけが、上に上がれるようになっていました。

権力者が作った社会は、競争を煽る社会です。

そうすることで、人が自分に従うようにしているのです。

そんな社会が当たり前だと、洗脳された人たちは、自分より下の地位の人を、見つけようとします。

そうする事で、相対的に自分の地位を、上げようとするわけです。

でも結局、自分も誰かから、低く見られるわけですし、ずっと今の地位を、保てるわけではありません。

権力者が作った、価値観に従っていては、決して自由にはなれないのです。

しかし、人は自分が洗脳されているとは、なかなか考えません。

ですから、みんな、つらい思いをしながら、権力者の価値観を、受け入れ続けるのです。

だけど今、世の中は変革の時代を、迎えています。

これまで押さえつけられ、ごまかされて来た多くの問題が、世界中で噴き出しています。

コロナウィルスを初めとする、世界中の災害は、社会の歪みを浮き彫りにしました。

どんなに政府が隠そうとしても、もう隠しきれない状態です。

今の状況を乗り切るためには、人々が権力者の呪縛を逃れ、自分たちの新しい価値観の下、一致団結することが、求められています。

そんな中に生まれたみなさんは、社会に問題を投げかけているのです。

みなさんが問題なのではありません。
みなさんを認められない、社会の問題です。

みなさんの状況を理解するためには、知性が必要となります。
知性を働かせた時、人は自分で考える力を、取り戻せます。

みなさんを受け入れるためには、他人を理解し、思いやる心が必要です。
権力者のルールでは、弱者に対しての思いやりがありません。

知性を働かせ、思いやりの心を持つことで、権力者のルールが間違っていると、みんなは気がつくようになるのです。

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そもそも誰かを好きになるのに、理由なんて必要ありません。

お金持ちだから好きになったのであれば、お金がなくなれば、さよならです。

ハンサムだとか、美人だとかいう理由で好きになったなら、顔に怪我をしたらおしまいです。

スポーツ万能だから好きになったのなら、大怪我や病気で動けなくなったら、だめになります。

優しく構ってくれるから好きになったなら、相手が大切な仕事で、手が離せなくなった時、自分より仕事が大事なのだと、泣き崩れるでしょう。

本当に誰かを好きになったなら、理由を聞かれても、答えることはできません。

心が勝手に、引きつけられてしまうだけで、その理由はわからないのです。

つまり、本当に誰かを好きになるというのに、性は関係ないのです。

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素晴らしい大坂なおみ選手

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女子テニスの大坂なおみ選手が、全米オープンで2年ぶり2度目の優勝を果たしました。

それだけでも素晴らしいことですが、彼女は一人の人間があるべき姿を、世界中に示してくれました。
それが、彼女をさらに素晴らしくしています。

大坂選手は今大会、1回戦から決勝まで、毎回アメリカの黒人市民の名前が書かれた、マスクを着けて入場しました。

名前が書かれた黒人市民というのは、これまでの黒人差別で、亡くなられた方たちです。

大坂選手は今までも SNS を通じて、黒人差別に対する、抗議の声を上げて来ました。

全米オープンの前に開催された、ウエスタン・アンド・サザン・オープンでは、大会直前に起こった、黒人男性銃撃事件に心を傷め、準決勝を棄権しようとしました。

大会運営を担う女子テニス協会は、彼女の思いに賛同して、その日の準決勝開催を中止し、翌日開催としました。

それで、大坂選手は棄権を撤回し、準決勝に出ました。

この時の彼女の決意と行動を、称賛する声は多かったものの、批判的な声も聞かれたと言います。

その一つは、スポーツに政治を持ち込むな、と言う意見です。

しかし、これは単なる政治運動とは違います。
人間としての問題です。

大坂選手も、これは人権問題ですと、この意見に返しています。

棄権するぐらいなら、初めから大会に出場しなければよかったのに、という意見もあります。

これに対する彼女の答えを、私は知りません。
でも、恐らく彼女の中でも、葛藤があったのだと思います。

どうすればいいのかと悩みながら、大会は進んで行き、行動を起こすしかないと決意した時には、準決勝になっていたということでしょう。

当然、大会運営に迷惑をかけるでしょうし、試合を期待していたファンを、裏切ることになるかも知れません。

それでも大坂選手は、黙ったままでいることが、できなかったのでしょう。

それだけ、アメリカで起こっている黒人差別問題に、強い危機感を覚えたのに、違いありません。

彼女の取った行動を、誰も責めることはできません。
彼女を責めることが、正しいとは私は思いません

一度何かをやると決めてから、これではいけないと気がついて、途中で行動を変えるということは、正しいことです。

また、とても勇気のいることでもあります。

いったん決まったら、それが大きな問題を起こすとわかっても、なかなかやめようとしない。

そういうことが、日本政府にはよく見られますよね。

大坂選手は、それと逆のことを、行ったのです。

これまでアメリカの多くのスポーツ界で、黒人差別に対して声を上げた選手たちは、引退に追い込まれるなどの、代償を払わされて来たと言います。

それは大坂選手も、例外ではなかったでしょう。

自分がどういう処遇を受けるのかという、怖さが大坂選手にもあったはずです。

それでも、自らが信じる行動を示した、大坂選手は称賛に値すると思います。


大坂選手の行動を、彼女自身が黒人だからと、考える人はいるでしょう。

また、確かにその一面は、あると思います。

でも、彼女が声を上げたのは、肌の色に関係なく、人間として黙っていられなかったからではないかと、私は感じています。

差別され殺され続けているのが、黒人でなかったとしても、彼女は同じ行動を取ったに違いありません。


プロのテニス選手なのだから、棄権ではなく、他の方法で差別への抗議をしても、よかったのではないかと言う人もいました。

それが間違いとは言いません。

だけど、自分の仲間たちが、虫けらのように殺されたのを知りながら、平然とテニスをする気持ちには、なれなかったのだと思います。

もし、自分の家族が理不尽に殺されても、あなたは今の仕事を、これまでどおりに続けられるでしょうか。

恐らく、できないでしょう。
普通はできないと思います。

大坂選手が黒人差別による殺人を知り、テニスをプレイする気にならなくなったのは、それだけ亡くなった方に対して、深い悲しみの念を、抱いたからだと思います。

彼女の決断が理解できない人は、結局、差別による殺人を、他人事のように感じているのでしょう。

こんな場面でプロ意識云々と言う人は、プロというものを、ロボットか何かのように、考えているのだと思います。

でも、大坂選手はロボットではありません。
みんなと同じ、一人の人間なのです。

それに今回、彼女が棄権を表明したことで、テニス協会が彼女に同調し、試合日を延期しました。

これは、とても大きな意義があることだと思います。

結果論ではありますが、黒人差別に反対する表明を、テニス協会が出す状況を作ったのです。

大坂選手の棄権宣言がなければ、有り得なかったことです。
これは社会的にも、大きな影響があったと私は思います。

その後、大坂選手はテニス協会と話し合い、出場することになりました。

理由は、より強い抗議の意思を、示すことができると、考え直したからだと言います。

もちろん、自分に賛同してくれたテニス協会への、感謝もあったと思います。

一度棄権すると表明したことを、取り下げたわけですが、これも正しいやり方がわかったから、それを行うことにしたというだけです。

やはり、これも素晴らしいことでしょう。

そして全米オープンで大坂選手は、試合に出ることで、黒人差別問題への、より強い抗議を示しました。

それが入場時に着けていた、名前を書いたマスクです。

そして、それは彼女が予想したとおり、世界中への強いメッセージとなったのです。

アメリカでは黒人差別で、頻繁に黒人の命が奪われています。

そのため被害者の名前は、すぐに新たな被害者の名前に書き換えられてしまうのです。

そうなると、それまでの被害者の名前は、人々の記憶から、忘れ去られてしまいがちに、なってしまいます。

大坂選手はそれを嫌い、亡くなった人たち一人一人のことを、忘れないで欲しいという想いを、マスクの名前に込めたそうです。

また、そうすることで差別問題について、人々に話し合ってもらいたかったと言います。

決勝まで用意した七つのマスクを、全部着けるためには、勝ち進むしかありません。

そのことは、今回の大会での、彼女の大きなモチベーションに、なっていたそうです。

大坂選手は、ただ大会で優勝するために、戦っていたのではないのです。
亡くなった方や、その遺族のために、戦ったのです。

その思いは、彼女の姿に現れていました。

ミスをしても取り乱さず、落ち着いていたのは、人として成長し、強い心を持っていたからでしょう。

全米オープンの決勝では、過去25年間、第1セットを落とした方が、勝つことはなかったそうです。

第1セットを落とすことが、相当のプレッシャーになるのでしょうね。

しかし大坂選手は、第1セットを落としたのにもかかわらず、逆転優勝を成し遂げました。
この事だけでも、彼女がどれだけ強い心を、持っていたのかわかります。

大坂選手は本当のトッププレイヤーが、どういうものなのかを、世界中に示したと言えるでしょう。

ただ強ければいい、という時代は終わったのです。

これからは人間性を、強く求められるようになるでしょう。

それは恐らく、巨大な経済力を持つ個人や、企業にも言えることです。

これからの社会では、お金を多く稼いだ者ではなく、稼いだお金をどう使ったかが、問われることになるでしょう。

そして、人々から称賛されるのは、人間性のある者だけになるのです。

大坂選手は日本国籍を持ちながら、アメリカで暮らしています。
黒い肌を持っていますが、顔は東洋人です。

あなたはどこの人間かと問われても、彼女は答えるのに、窮してしまうかも知れません。

でも、彼女の気持ちはシューズに、書かれていました。

“Home is where the heart is”
(家とは愛がある所)

これが大坂選手の気持ちなのです。
そして、これは多くの人が、願っていることでもあるのです。

大坂選手は、まだ22歳です。

若いのにすごいね、という話ではありません。

これからの世界、これからの社会は、彼女のような若い人たちが、創って行くのです。

その若者たちのあるべき姿を、大坂選手は示してくれました。

これはまさに、これからの世界の姿を、象徴しているように思います。

本当に素晴らしい。

私は改めて、彼女の強靱的なテニスの強さ、そして強靱的な心に対し、称賛を送ります。

繰り返される悲劇2

 ※Fajrul FalahさんによるPixabayからの画像です。

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。

そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。

この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。

しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。

また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。

それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。

そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。

しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。

黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。

仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。

こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。

多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。

それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。

黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

 ※Wilhan José Gomes wjgomesさんによるPixabayからの画像です。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。

その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。

それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。

でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。

色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。

この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。

そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。

しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。

教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。

ここで言う教養とは、学歴のことではありません。

社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。

本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。

肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。

そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。

景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。

いわゆる八つ当たりであり、いじめです。

それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。

人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。

その知性を活用できなければ、動物と同じです。

 ※Tania Van den BerghenさんによるPixabayからの画像 です。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。

一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。

後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。

そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。

そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。

しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。

どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。

考えれば、わかることだと思います。

何故、同じような事件が繰り返されるのか。

それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。

そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。

病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。

自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。

それが知性を働かせるということです。

そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。

繰り返される悲劇1

 ※Meli1670さんによるPixabayからの画像です。

またもやアメリカで、警察が黒人男性に発砲する事件が起きました。

場所はアメリカ中西部ウィスコンシン州です。

撃たれた男性は、二人の女性の口論を、止めようとしていたそうです。
この二人は、男性の身内だという話もあります。

誰が通報したのかわかりませんが、駆けつけた警察官に、無抵抗の状態の男性は、背後から撃たれました。


その様子を撮影した動画が投稿され、大きな騒ぎになっています。

私もその動画を見ました。
映像では、二人の白人警察官が、銃を構えていました。

しかし、黒人男性はそれを無視するように、乗用車の中へ体を入れようとしました。
乗り込もうとしたのか、何かを取り出そうとしたのか、そこは不明です。

撮影した人の話では、この男性は女性を家に入れた後、自分も続いて家に入ったと言います。

その後、撮影した人が再び外を見ると、この男性が警察官たちと、問答していたそうです。

目を離していた間に、何があったのかは、撮影した人には、わからないとのことです。

何があったのかは、警察でも発表していません。

二人の白人警察官は、黒人男性に銃を向け、威嚇をしていました。

男性は素手で、武器は持っていません。

男性は警察官を無視するように、背中を向けると、歩き出します。

警察官たちは、銃を向けるほど男性のことを、危険視していたのなら、この時点で取り押さえれば、よかったのです。

相手は無防備で、背中を向けているのです。

警察官との距離は、ほとんどありません。
飛びかかろうと思えば、いつでも飛びかかれる距離です。

それなのに警察官たちは、男性が車まで移動するのを、そのままにしていました。

そして男性が車の扉を開けて、中へ体を入れたところで、後ろからシャツをつかみ、そのまま発砲したのです。

撃たれた弾は七発か八発で、全弾命中しました。

気の毒な男性は、命は取り留めたものの、下半身麻痺になる可能性が、高いようです。

ネット記事のコメント欄には、どうして警察に逆らったのかとか、警察官も命懸けだから、発砲は仕方がない、というものが目立ちました。

警察官が七発も八発も撃つのは、やり過ぎとしながらも、発砲した警察官を、擁護する雰囲気があるのが、気になりました。

確かに、銃社会であるアメリカでは、日本と違って、警察官はすぐに発砲します。

だから、事情はどうあれ、警察官に逆らってはいけないというのが、アメリカを知る人たちからの、忠告のようです。

それは、警察官の制止を無視した、黒人男性の方にも非がある、という見方でもあります。

それはある意味、間違いではありません。

しかし、警察官の偏見に嫌気が差していると、制止を無視することも、あると思います。

普段、差別や偏見の脅威にさらされていない人が、今の自分の立場から、黒人男性の行動を非難することは、できないでしょう。

警察官が意味もなく、銃を構えるはずがないと、記事にコメントしている人もいました。

でも実際は、必要もないのに銃を構える場合も、アメリカではあるのではないでしょうか。
特に相手が黒人だった場合、そういう事は、大いに有り得ることだと思います。

映像にはありませんから、警察官たちが男性に銃を向ける前に、何があったのかはわかりません。

でも、仮に男性が警察官たちを、挑発するようなことがあったとしても、この発砲は許されるものではないでしょう。

何故なら、男性は無防備な上に、警察官たちに背を向けているのです。

男性を危険人物だと、判断したのであれば、発砲せずに、後ろから取り押さえることは、できたはずです。

相手は一人、警察官は二人です。

警察官ですから、逮捕術も学んでいるはずです。

それなのに捕まえようとしないで、男性が車に入ろうとするまで、放置していたのです。

その様子に、私はとても違和感を覚えました。

まるで発砲する機会を、待っていたかのようです。

 ※Marcus TrappさんによるPixabayからの画像です。

アメリカでは、市民も銃を持つことができます。

ですから警察官たちは、相手が銃を隠し持っていると、常に疑って行動するのです。

相手が銃を、取り出そうとしたと思えば、警察官は相手を、撃っても構わないのです。

結果的に、取り出そうとしたのが、身分証明書だったとしても、警察官は身の危険を感じたと言えば、それが言い訳にできるのです。

つまり、身の危険を感じたとさえ言えれば、警察官は公然と殺人を行うことが、できるわけです。

もちろん、まともな警察官が、そんな事をするはずがありません。

しかし、偏見と憎しみを持っている警察官であれば、有り得ることです。

事実、それらしい事件が、たまにテレビなどで紹介されています。

今回の事件も、それと同じではないかと、私は考えています。

捕まえようと思えば、いつでも捕まえられるのに、そうしないで、男性を車の所まで行かせたのは、どう見ても不自然です。

捕まえたかったが、捕まえられなかったと言うのなら、あまりにも無能な警察官だと、言わざるを得ません。

男性が車の所へ行くまで、放置していたのに、車に体を入れた時点で、背後からいきなり撃つのは、計画的であったように見えます。

男性を撃ち殺すための、口実作りのために、あえて男性を、取り押さえなかったのでしょう。

男性が車の中に、体を入れたことを、武器を持ち出そうとしたと言えば、正当な発砲になると考えたに、違いありません。

殺す気でなければ、二人してあそこまで銃弾を、撃ち込む必要はないでしょう。

目撃者の話では、発砲する直前に、警察官は男性に、ナイフを放せと叫んだそうです。

しかし実際は、ナイフも拳銃も発見されていません。

つまり、ナイフを放せと叫ぶことによって、発砲が正当な理由であることを、周囲にアピールしたと考えられます。

しかも、車の後部座席には、男性の子供たちが、乗っていたと言います。

目の前で父親が、惨殺されそうになったのです。
子供たちは、どれだけおびえたことでしょう。

警察官のくせに、そんな子供たちの気持ちや安全を、考慮しないなんて考えられません。

きっと黒人の子供など、どうでもいいという思いが、あったのでしょう。

 ※Fajrul FalahさんによるPixabayからの画像です。

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。

そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。

この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。

しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。

また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。

それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。

そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。

しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。

黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。

仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。

こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。

多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。

それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。

黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

 ※Wilhan José Gomes wjgomesさんによるPixabayからの画像です。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。

その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。

それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。

でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。

色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。

この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。

そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。

しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。

教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。

ここで言う教養とは、学歴のことではありません。

社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。

本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。

肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。

そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。

景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。

いわゆる八つ当たりであり、いじめです。

それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。

人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。

その知性を活用できなければ、動物と同じです。

 ※Tania Van den BerghenさんによるPixabayからの画像 です。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。

一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。

後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。

そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。

そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。

しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。

どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。

考えれば、わかることだと思います。

何故、同じような事件が繰り返されるのか。

それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。

そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。

病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。

自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。

それが知性を働かせるということです。

そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。

驚きの黒い雨訴訟

 ※はなちょこさんによる写真ACからの画像です。

広島に原子爆弾が投下された後、放射性物質を含んだ黒い雨が、広島県内に降りました。

その雨を浴びたり、雨に汚染された水や、野菜を口にしたことで、被爆した人たちが、被爆者手帳の交付を、求めて起こした訴訟が、黒い雨訴訟と呼ばれるものです。

その訴訟の広島地裁判決が、今日下されました。

訴えていたのは、70~90代の男女84人(うち9人は死亡)だそうです。

国は黒い雨が降った範囲の内、大雨が降った地域を選定しました。

そして、その地域内で、黒い雨を浴びた住民については、無料で健康診断を行いました。

その中で、癌や白内障などの、国が指定した疾病と診断された者には、被爆者健康手帳を交付しました。

被爆者健康手帳を交付されると、医療費が原則無料となります。

しかし、大雨地域と認定された所以外で、黒い雨に濡れた者は、別扱いされたそうです。

被爆によるものと思われる症状が出たり、病気になっても、被爆者として認定されず、被爆者健康手帳を、交付されなかったと言います。

この方たちが具合が悪くなっても、医療費は無料になりません。

境界線のこちらと、向こうにいるというだけで、一方は医療費が無料とされ、もう一方は自己負担を求められるのです。

この理不尽に、耐えきれなくなった方たちが、2015~18年に提訴して、この訴訟を起こしました。

原爆が投下された1945年から、実に70年が経ってからのことです。

それまでこの方たちは、ずっと我慢を強いられて来たのです。

そして、初めの提訴から5年目の今日、ようやく地裁の判決が出ました。

結果は、訴えが全面的に認められた、原告の勝利です。

よかったよかったと思って、話を聴いていた私は、被告が誰なのかを知って驚きました。

当然、被告は国だと思っていたのです。
しかし、被告になっていたのは、広島県と広島市でした。

そこで、この訴訟について書かれた記事を、詳しく調べてみました。

すると、被爆者健康手帳の交付対象となる、地域を決めたのは国でした。

広島県と広島市は、国からの法定受託事務として、実務を担わされていたようです。

つまり、国が決めた規定に基づいて、手帳の交付という事務作業を、広島県と広島市が、執り行っていたわけです。

そして広島県と広島市は、国の規定に基づき、大雨地域にいなかった者の、手帳交付の申請を却下していたわけです。

一方で、広島市は大雨地域が決められてから、このエリアを拡大するよう、国に働きかけて来たと言います。

それは大雨地域以外にも、被爆者がいると認識していたからです。

それなのに、その人たちが手帳の交付を申請すると、それを拒んだわけですね。

そこのところが、私はどうも合点が行きません。

市の言い分としては、自分たちは市民の立場に、寄り添って来たつもりだけれど、市の立場上、国が決めた基準に基づいて、動くしかないという事なのでしょう。

県が手帳の交付を、受け付けなかったのも、同じ理由なのだと思います。

ただ県は市のように、手帳交付の対象地域の拡大を、国に求めてはいなかったようなので、市ほどは被爆住民の立場に、寄り添ってはいなかった、と言えるでしょう。

それにしても、矛盾を感じてしまうのは、私だけではないと思います。

 ※写真提供:広島県

県も市も対外的に、原爆で被爆した事をアピールして、その悲惨さを二度と繰り返さないようにと、訴え続けていたはずです。

それなのに、自分たちは被爆に苦しむ、住民の訴えに対して、耳を塞いでいるわけです。

こういう姿を見せられると、毎年8月に行われる、あのイベントは何なのだろう、と考えてしまいます。

本気で原爆の悲惨さを、訴えていたわけではなく、そうする事で単に広島の名前を、世界に知ってもらおうと、していただけなのかと疑いたくなります。

でも、もちろん戦争の愚かさ、原爆の悲惨さを、本気で世に訴えている人々は、いるわけです。

実際に、つらく苦しい体験をしながら、生き延びて来た方たちや、その方たちの実情を知って、自分たちも力になりたいと、心から願った人たちがいるのです。

その人たちの想いを考えると、広島県と広島市が、被爆者たちに取って来た態度というのは、裏切り以外の何物でもないでしょう。

手帳交付地域の拡大を、国に訴えなかった広島県は、話になりません。

しかし、訴えを続けて来た広島市も、被爆者への具体的な救いの手を、差し伸べなかった点では同罪です。

だからこそ県のみならず、市までもが被告にされてしまったのだと思います。

 ※Sasin TipchaiさんによるPixabayからの画像 です。

自分に子供が二人いたとしましょう。
そのどちらもが、国の政策が原因で、不治の病になったと考えて下さい。

国は一人の子供については、保証をすると言います。

でも、もう一人の子供については、国に責任があるとは言えないとして、何の保証もしません。

あなたは、どうしますか。

一応、国に文句は言ったけれど、国が一つも動いてくれない。
だから、お前は諦めてくれと、保証をされない子供に言いますか。

私ならば、国を動かす努力は続けながら、保証をされない子供の力になります。

保証をされないがために、生活に困るのであれば、躊躇なく生活支援をします。

親であれば、家族であれば、当然だと思います。

県や市が、住民を家族のように考えているのならば、住民に代わって、国に対する訴訟を起こすべきでしょう。

また、国が被害者健康手帳の交付を認めないため、交付ができないと言うのであれば、その分の保障を、県や市が独自に行うべきだと思います。

大切なのは、苦しむ人たちの立場に、立つということです。

被爆で身体を壊すのもつらいことですが、自分たちがのけ者にされていると思わされるのも、とても悲しくつらいことです。

きっと、被爆で苦しむ以上に、つらい思いをされたのだと思います。

戦争が終わって何十年も経つ内に、被爆地域の行政に関わる人々さえもが、被爆を他人事のように、受け止めるようになったということでしょうか。

 ※Inushitaさんによる写真ACからの画像です。

それにしても、いつものことながら、腹が立つのが、国の姿勢です。

国民を何だと思っているのでしょうか。

税金さえむしり取ってしまえば、死のうが苦しもうが、関係ないという事なのでしょうか。

恐らく、そうなのだろうという事は、今のコロナ騒ぎにおける、政府の動きを見ていると、よくわかります。

国民の立場に立った政策など、何一つありません。

一応体裁だけ整えたような、政策ばかりです。

強調するのは、どれだけ多くのお金を、使ったかという事だけです。

どれだけ国民の気持ちに添った、政策をしたかという事は、一つも言えません。

しかも、じゃぶじゃぶ無駄に使うお金は、全て国民の血税です。

今は各都道府県の知事の、聡明さが求められています。

国には何も期待できないと、ほとんどの国民が、考えているでしょう。

実際、優秀な知事は、県内外から称賛されています。

広島の知事や市長も、反核を訴えるパフォーマンスもいいですが、もっと違う所で人々から称賛されるような、リーダーシップを取って欲しいと思います。

差別問題3

差別問題が起こった時、差別をした者が、個人的に非難を受けます。

しかし、その人がそういう価値観を、持つようになったのには、必ず理由があるのです。

それは、その人が育った生活環境や、教育環境です。

 ※sathyatripodiさんによるPixabayからの画像 です。

この世に生を受けた時、何かの価値観を持っている者は、一人もいません。
誰もが、可愛らしい赤ちゃんだったはずです。

ところが、その可愛い赤ちゃんが、偏見に満ちた差別者になるわけです。

でもそれは、その子自身のせいではありません。
その子が置かれた環境が悪いのです。

環境がその子に、間違った価値観を、植え付けてしまったのです。

つまり差別問題とは、社会が病んでいる事の表れなのです。

病気になれば、いろんな症状が出て来ます。
差別問題とは、社会が抱える病の、一つの症状に過ぎません。

病気の治療には、対症療法と根治療法があります。

対症療法は症状を和らげますが、病気自体を治すわけではありません。

病気を治すには、根本的な原因を見つけて、解決する必要があります。

差別問題と直接戦うのは、対症療法と同じです。

ですから並行して、根本的な社会の病と、戦わねばなりません。

では、その社会の病とは、どのようなものでしょうか。
それは癌と似たようなものです。

人間の身体は、数え切れないほどの細胞で、構成されています。

各部位の細胞は、どれも個性的で、見た目の姿も違いますし、役目や働きも違います。

しかし、どの細胞にも共通の目的があります。

それは細胞たちにとっての世界である、身体の健康を維持するというものです。

神経細胞も筋肉細胞も、皮膚や粘膜の細胞も、骨の細胞も、みんな違う細胞に見えます。

でも、どの細胞も受精卵が分裂し、それぞれの形に分化することで、生まれたのです。

ですから、見た目はバラバラでも、みんな受精卵の分身であり、兄弟なのです。

だからこそ、身体という世界を維持するという、共通の目的を持っているのです。

 ※Bellezza87さんによるPixabayからの画像です。

しかし癌細胞は、共通の目的がありません。

癌細胞は自分の役割がわからず、自分の存在を誇示する事に、必死になります。

どんどん分裂して数を増やし、無理矢理自分の居場所を、作ろうとします。

それが他の細胞たちの障害になっても、全然お構いなしです。

癌細胞が増え続けたら、いずれ身体は死んでしまいます。
細胞たちにとっての、世界が崩壊するのです。

そうなれば、癌細胞も死滅します。

しかしそんな事より、自分を誇示する事の方が、癌細胞には大事なのです。

これまでの社会を思い浮かべて下さい。
世界の事を常に考えて動く人が、どれほどいたでしょうか。

ほとんどの人が、自分の生活に必死です。
世界どころか、周囲の人を思いやる余裕もありません。

全ての人間が、共通の祖先を持つと言うのに、みんな自分勝手な事ばかり、考えています。

それでも、大半の人たちは善良です。

細胞にたとえるなら、まだ癌細胞にはなっていません。
その一歩手前の、異型細胞の状態です。

異型細胞は癌細胞ではありません。
でも将来的には、癌細胞に変化する、可能性があるのです。

つまり、偏った思想や価値観に毒され続けると、善良な人が差別者に、変身するかも知れないのです。

根が善良な人々に、毒気を吐き続けているのが、癌細胞にたとえられる者たちです。

完全な癌細胞である彼らは、自分が生き残り、勝ち残る事しか考えていません。

このままでは、将来地球が、危機的状況になると言っても、聞く耳を持ちません。

人類が滅びるかも知れないと訴えても、自分だけは、生き残るつもりでいます。

彼らは毒を吐き続け、他人を利用して生き残るのが、賢いやり方だと、人々を洗脳します。

相手に不安を抱かせ、不安から逃れたければ、自分の指示に従うようにと、脅します。

脅されて彼らに支配された者たちは、自らも癌細胞になって、他の者を支配しようとします。

こうやって癌細胞人間は、どんどん仲間を増やして行き、最後には世界を滅亡させてしまうのです。

でも今、若い人たちを中心に、自分たちの本当の姿、本当の役割、本当の目的を、取り戻す動きが出て来たようです。

現在、世界中に巻き起こっている、差別反対運動はその表れだと思います。

今は差別の事を抗議していますが、様々な社会問題の根底に、共通の問題が横たわっている事に、やがて彼らは気づくでしょう。

そして、それらを改善するべく、動き出すに違いありません。

彼らが起こす風は、癌細胞になりかけている人々を、正常な状態へ呼び戻すでしょう。

いろんな人たちが、それぞれの仕事や暮らしを送りながら、その意識は自然な形で、同じ方向を向くようになるのです。

そうなった時、差別はなくなり、多様性は喜びのハーモニーとなるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。