焦点を合わせる

人にはそれぞれ波長というものがあります。

波長の合わない人といると、居心地が悪くなることがあると思います。

波長が合う人といると、テンションが上がることでしょう。

楽しい時には楽しい波長、悲しい時には悲しい波長になっています。

不安な時には不安の波長、怒っている時には怒りの波長です。

人は波長を上げたり下げたりしながら、いろんな波長の自分を体験しています。

ラジオで受信する電波を、いろいろと変えるようなものですね。

 ※Manfred RichterさんによるPixabayからの画像です。

テレビやラジオにお気に入りの番組があるように、人は自分が固執したくなる波長があるようです。

固執するからと言って、その波長に合わせていることが、その人にとって快適だとは限りません。

つらく苦しい場合もあるのです。

だったら、そんな波長に合わせなければいいのにと思うのですが、どうしてもその波長に合わせてしまうのですね。

ですから、いつも明るく楽しそうな人、何でも前向きにとらえる人もいれば、 不満ばっかり口にしている人や、不安になることばかり探している人もいるわけです。

 ※アート宇都宮さんによるイラストACからの画像です。

この世界には、いろんな波長の人が共存していますので、嫌でも自分とは異なる波長の人の存在を、知ることがあります。

それでも波長が違うと居心地が悪いので、大抵はどちらも互いに一緒にいようとはしません。

でも、あまりに強烈な印象を受けたり、普段とは異なる特別な経験をした時には、他の人の波長をまともにくらい、思いがけなくその波長に囚われてしまうこともあります。

たとえば、誰にでも突っかかって行くような人に、いきなり殴られたり、家族を傷つけられたら、どうでしょうか。

普段は温和で優しい人が、憤って暴力的になるかもしれません。

これは相手の波長そのものであり、思いがけなく相手の波長に、合わせているのです。

戦争や内戦、抗争などの残虐な争いを見せられると、とても不安な気持ちになるでしょう。
また、悲しい気持ちにもさせられてしまいます。

その気持ちから立ち直れたらいいのですが、ずっとその気持ちを引きずってしまうと、本来の波長とは違う波長に、囚われている状態になっています。

ずっと面白くない日々を送っている人が、ある時、優しさに遭遇したとしましょう。

その優しさに心が惹かれ、自分も誰かに優しくできるようになったなら、それも優しさの波長にはまってしまったという事です。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

波長が異なると、体験している世界は、人それぞれです。

同じ空間にいても、そこがいいと感じる人と、嫌だと感じる人では、体験している世界が違うのですね。

つまり、自分の波長が変わるということは、体験する世界が変わるということです。

同じ世界を体験しているように見えても、実際は別の世界を体験しているのです。

そして、知らず知らずのうちに、次から次に様々な波長の世界を、私たちは体験しているのですね。

どの体験も学びになるので、どんな波長の体験も否定することはできません。

しかし、自分にとって居心地のいい波長があるのなら、その波長を維持できた方が、快適な人生を送れると思います。

そのためには、自分の波長を知ることが重要です。

よくわからなければ、自分には合わないと思われる波長の世界を、ピックアップしていけばいいのです。

それらの世界を省いていけば、残った世界に自分の波長が合う世界が、あるはずです。

そうして自分の波長がわかったなら、その波長を維持するように心掛けることです。

嫌な波長に注目し、思わず見入ってしまったり、不愉快な気持ちを持ち続けると、その波長に囚われてしまいます。

逆に相手を、自分の波長の虜にするぐらいの気持ちで、自分というものを維持するようにすればいいのです。

そんな人は一般的に、物事に動じないとか、飄々としている、マイペースだ、などと言われます。

 ※Norman BosworthさんによるPixabayからの画像です。

世の中がどんな風になっても、自分というものは変わらない。

この姿勢が、豊かな人生には必要でしょう。

楽観的と悲観的

物事をとらえるのに、楽観的や悲観的という言葉を使いますよね。

楽観的は物事を明るくとらえ、悲観的は物事を暗くとらえます。

 ※Heather PlewさんによるPixabayからの画像です。

物事を悲観的に見る人には、それなりの根拠があります。

それは、その人の経験や知識に基づくもので、こうなれば次はこうなる、と言ったような図式が、頭の中に出来上がっているのです。

その図式に照らし合わせると、どう考えても上手く行くはずがない、という結論に至り、悲観的になるのですね。

でも、この考えが正しいとするには、条件があります。

それはその人の経験や知識が、絶対的なものだというものです。

でも、そんなこと言えるはずがありませんよね。

別の人の経験や知識によれば、また違った結論が導き出されるでしょう。

結局は自分の考え方に対する固執が、悲観論の元になっていると言えます。

他の考え方や可能性について、思考できなくなっているのです。

悲観的になっていると、半分あきらめ気分です。

心配ごとに対しても、あきらめて何もしないか、何かをするにしても、どうせ無駄だという感じで、本気の行動を取りません。

その結果、悲観的な予想どおりの結末に至るわけです。

 ※xxolaxxさんによるPixabayからの画像です。

一方で、楽観的な人はどうかと言いますと、こちらは必ずしも経験や知識に基づいて、楽観的になっているわけではありません。

何とかなるよとか、その時はその時さ、という軽いノリの覚悟が、楽観的な考えの基盤になっているようです。

もちろん、経験や知識から考えて、大丈夫だと考える人もいるでしょう。

でも、悲観的な人と違って、楽観的な人は絶対に明るい未来が来ると、確信しているわけではありません。

明るい未来が保証されていないとなると、悲観的な人は、そこに不安を集中させますが、楽観的な人は、それを受け止める覚悟があるのです。

そう言いながらも、いざ困った状況になると、覚悟をしていたはずが、慌てふためく人もいるでしょう。

しかし、慌てることなく、覚悟をしていたように、自分が置かれた状況を見極めて、淡々とやるべき事をこなす人もいるのです。

この違いはどこにあるのかと言いますと、淡々と動ける人は、一見不幸に思われるようなことも、他の人とは違う視点でとらえるというところでしょう。

 ※Miren HayekさんによるPixabayからの画像です。

不幸の中にも、小さな幸せを見つけたり、将来への希望を見出す力があれば、何が起ころうと慌てることはありません。

その時にできることをして、一歩ずつ前に進むだけのことです。

それができずに、ただ楽観的というだけの人は、能天気な人と言われるでしょう。

能天気でない楽観は、誰もが持つべき視点です。

それに対して、悲観は思考停止を意味しますので、持ってはならない視点です。

楽観的に生きるとは、覚悟を持って生きるということであり、その時その時を前向きになって、懸命に生きるといことです。

それはつまり、過去を振り返ったり、将来を心配したりせず、今この瞬間を、一所懸命に生きるということなのです。

また、自分自身の生き方を認め、決して自分を否定しないということでもあります。

自分の心の赴くままに、生きるのです。

しかし、人は一人では生きられません。

それでも心の赴くまま生きられるのは、誰かの支えがあるからでしょう。

つまり、楽観的に生きるということは、人々を信じるということでもあるのです。

 ※Bob DmytさんによるPixabayからの画像です。

夢を与える

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

世の中で活躍している人を見て、夢を与えてもらったと感じる人は、多いでしょう。

また、そういう人たちを見習って、自分も人に夢を与えられる人間に、なりたいと考える人もいると思います。

それは、とても高貴で素晴らしいことだと思いますが、一方で、その考えが足かせになる場合も、あるのです。


人に夢を与えるということは、実際にはどんなことだと、みなさんは思うでしょうか。

誰もがなしえなかった、すごいことをしたり、前人未踏の記録を、打ち出したりすることでしょうか。

どんな困難にも耐え抜く、不屈の精神でしょうか。

人から注目される、アイドルになることでしょうか。

夢を与えてくれる人に共通しているのは、すごくがんばっている姿でしょう。

がんばっているという姿を見せられると、人は自分もがんばろうという、気持ちになるものです。

しかし、がんばり過ぎて倒れてしまう人、潰れてしまう人もいるわけです。

 ※けいごろうさんによるイラストACからの画像です。

日本では昔から根性というものが、重視されて来ました。

確かに精神力の強さは、重要ではあります。

でも、無理矢理がんばることで、精神力が強くなるというのは誤解です。

自分もすごい人間になろうとして、闇雲にがんばっても、なかなか上手くはいかないでしょう。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

何をやっても飽きっぽい人が、何かにはまった途端、ものすごい集中力を発揮することがあります。

それは、自分にぴったりのものを、見つけたということです。

他の人から見ると、とても大変そうに見えることでも、はまっている人は、強い精神力でやり抜いてしまいます。

これは、はまっているからできることであり、精神力の強さも、そこにはまっているからこそ、発揮できるのです。

それを他の人が同じようにしろと命じられ、根性論を唱えられても、強い精神力が出せるはずがありません。

それなのに、根性を出してがんばろうとすると、必ず心か体に不調を来します。

見た目にすごくがんばっているように見えて、しかも潰れることなく活躍し続ける人とは、そこにはまっている人なのです。

つまり、自分がしていることが、好きで仕方がない人たちなのです。

だから、とてつもない精神力を発揮できるし、その活躍で他の人に、夢を与えてくれるのです。

 ※Kiên TrịnhさんによるPixabayからの画像です。

誰かに夢を与えられる人間になりたいのであれば、まずは自分が打ち込めるものを、見つけることでしょう。

好きなものが見つからなければ、見つかるまで、いろんなことに挑戦してみて下さい。

思わぬところで、こだわりを持つものが見つかると、そこにはまって熱中するようになります。

その時には、誰かに夢を与えるなどとは、考えないでしょう。

そんなことを考えているうちは、熱中しているとは言えません。

もちろん、周囲の人々の力があるからこそ、自分はがんばれるんだという認識は、モチベーションになるでしょう。

でも、一番に考えることは、自分が熱中することです。

周りに感謝しながら、自分自身が熱中することです。

記録を出すとか、何かをやり遂げるということは、あくまでも結果です。

人々が注目し感動するのは、結果ではなく、熱意を持ってやり続ける姿勢なのです。

ですから、派手である必要はありません。

誰かに見てもらうことなど、少しも考えることなく、ひたすら熱中している姿がいいのです。

 ※photoBさんによる 写真ACからの画像です。

社会の目立たないところで、人知れず一生懸命何かをやり続けている人の姿は、本当に心を打たれるものです。

そんな人は案外身近にいるのに、目立たないために、気づかれないことが多いと思います。

自分のそばに、そんな人がいないか、周りをよく見てみるといいでしょう。

きっと、見つかると思います。

身近にそんな人を見つけると、テレビや舞台などで活躍している人よりも、もっと素敵な夢を与えてもらえるでしょう。

もしかしたら、知らないうちにあなた自身が、そんな人になっているかもしれません。

憧れ

子供の頃に憧れたものって、ありませんか。

私はウルトラマンに憧れました。

私が子供の頃のウルトラマンは、初代のウルトラマンでした。

科学特捜隊のハヤタ隊員が、何やら握った手を空へ向けると、巨大な銀色の宇宙人に変身するんですね。

今でこそウルトラマンはシリーズになって、少しも珍しくありませんが、当時は人間が巨大ヒーローに変身するなど、誰も考えつかなかったことでした。

子供はみんな、ウルトラマンに夢中でしたし、私もそうでした。

変身するときのアイテムの代わりに、ボールペンでも万年筆でも、何でも少し長い物があると、それを掲げて、ウルトラマンに変身するのです。

もちろん、変身するのは心の中の話です。

近くに人がいようとお構いなしで、すっかり自分の世界に、入り込んでしまうのですね。

毎日飽きずに、ウルトラマンごっこをして遊びました。

ちなみに、変身する時に手に持つアイテムは、調べてみると、ベーターカプセルというらしいです。

子供の頃は知っていたかもしれませんが、全然覚えていませんでした。


さて、憧れの話に戻りますが、憧れというものは、子供だけでなく、大人でも持っています。

ただ、子供の頃と違って、大人の憧れとは、大概の場合が、胸の中でひっそり抱くばかりです。

子供にとっての憧れというのは、自分と一体になるべきものです。

ですから、憧れたものがなんであれ、その憧れになったつもりで、いろんなことを真似するのです。

ところが、大人が抱く憧れは、陰からじっと見守っているという、イメージが強いですね。

下手に触れない、近づかない。
それが憧れの条件のようです。

好きというのと、憧れているというのは、どうもニュアンスが違うようです。

たとえば、好きというのであれば、好きなアイドルのコンサートには、躊躇することなく行くでしょう。

でも、憧れの場合は、行こうかどうか散々迷い、意を決して行くと、胸がどきどきして、失神しそうになるのではないでしょうか。

それだけ憧れとは、強い想いなのだと思います。

ですから、もし本物のウルトラマンが目の前に現れたら、ウルトラマンに憧れている子供は、みんな興奮で固まってしまうでしょうね。

それは喜びの極致であり、もっと憧れに近づきたいと、思うようになるでしょう。

大人も同じことで、憧れている人を、身近に感じることができれば、ただ見守っているだけの状態から、自分も同じことをしてみようという、気持ちになれると思います。

では、憧れの人に近づけなかった人は、どうでしょうか。

やはり自分の気持ちに正直になって、行動を起こすのがいいでしょう。

じっと見守っているだけというのは、はっきり言って損ですね。

せっかく心が、こうすれば楽しいよと、察知しているのに、何もしないのは、もったいない話です。

スポーツ選手に憧れるのであれば、別に同じスポーツでなくても構いませんから、身近なスポーツを楽しんでみればいいでしょう。

歌手に憧れたのであれば、自分も歌を練習したり、パソコンを使って作曲をすることもできるでしょう。

何か楽器を自分の手で演奏できれば、気分はミュージシャンですね。

別にプロになって、お金を稼ぐ必要はありませんし、多くのファンを集めることも、いりません。

自分が楽しめれば、それでいいのです。

一緒に楽しんでくれる人が、身近にいてくれれば、何も言うことはないでしょう。

自分が何に惹かれているのかを、よくよく考えてみると、憧れの人がやっていることでは、ないのかもしれません。

もしかしたら、その人自身の人格や生き様に、憧れているということもあるわけです。

その場合、その人と同じことをしなくても、仕事や生活の様々な場面で、その人の生き方を見習った行動を、するようにすればいいのです。

どんなに誰かに憧れたところで、その人になれるはずがありません。

憧れるというのは、そういうことではなく、その人が示してくれている何かを、自分の人生にも取り込みたいという想いなのです。

だから、その人と同じように、できる必要はありません。

また、同じでないからこそいいのです。

自分は自分ということを、しっかり押さえながら、憧れの人が見せてくれる素敵なものを、自分の人生の一部にすればいいのですね。

子供のように、何もむずかしいことは考えず、心が惹かれるまま楽しく生きれば、これが本当の人生なのかと、感動することでしょう。

ありがとう

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ありがとう。

私はこの言葉が大好きです。

日本人が当たり前に使う言葉ですから、この言葉に込められた気持ちが、言葉と一緒に伝わって来るのですね。

ありがとうは、漢字で書くと、「有難う」となります。

つまり、語源は「有り難き」にあるわけです。

時代劇などで、武士がかしこまって、「有り難き仕合わせ」と言う場面を、観たことがありませんか。

あの「有り難き」ですね。

「有り難き」は「有ることが難しい」という意味ですから、当たり前のことではない、ということになります。

つまり、相手がしてくれたことを、当たり前とは思っていませんよ、という意味が、「ありがとう」という感謝の言葉になったわけです。

最近、誰かに何かをしてもらっても、何の反応も見せない人が、多いように思います。

まさに、有り難きこととは感じていないのでしょうね。

やってもらって当然という気持ちなのでしょう。

これでは人間関係が悪くなりますし、自分自身がつまらない人生を送ることになると思います。

本当は大切な人なのに、その人が永遠にいてくれるなんて、勝手に信じていると、ある日突然、その人がいなくなる。

その時に初めて、その人の大切さを知るということは、ドラマでも現実でも見られることです。

でも、失って初めて知るなんて、馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。

初めから、有り難きことと思っていれば、お互いに一緒にいられる間に、楽しい思い出をたくさん作ることが、できるのです。

みなさんも「ありがとう」という言葉の意味を、今一度噛みしめてみて下さい。

当たり前に使っている言葉に、深い意味があったのだと知れば、同じ言葉を使う時に、人生の豊かさを感じることは、間違いありません。

 ※PenguinGraphicsさんによるPixabayからの画像です。

ちなみに、英語では感謝を伝える時に、Thank you と言いますね。

この thank という言葉は、「思う」という think から来ているそうです。

つまり、Thank you というのは、「あなたを思っています」という意味になるわけです。

あなたがしてくれたこと、あなたの気持ちを、私は忘れませんよ、という意味なのですね。

これもまた、いい言葉じゃないですか。

thank you は日本語英語として定着し、日本人も軽い気持ちで、「サンキュー」と言いますよね。

その時に、「あなたのことを思ってるよ」という思いを込めて、「サンキュー」と言ってみて下さい。

その瞬間に、あなたと相手の方との周りには、とても温かいものが広がるでしょう。

卵の殻 その4

人類は一つということは、以前にも言われて来たことです。

でも、これは言葉や理屈でしか、理解されませんでした。

それでは本当の理解とは言えません。

本当の理解とは、感覚的なものでなければならないのです。

たとえば、本当に仲のよい家族や仲間たちの関係を、言葉や理屈だけで説明できるでしょうか。

血がつながっているからとか、同じ経験を積んでいるからとか、互いに優しいからとか、いくら言葉を並べてみたところで、本当の説明にはならないでしょう。

本当に仲がよい人たちは、心がつながっているのです。

一体感を感じているのです。

そこに権利、義務などの言葉は、必要ありません。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

これも、言葉でこんな風に述べたところで、一体感というものを知らない人には、通じないでしょう。

つまり、理解してもらえないのです。

これと同じで、人類は一つだと言ったところで、一体感を知らない人には、理解ができません。

でも、何等かの形で一体感を経験できると、その一体感の範囲を広げることで、人類は一つなのだと、感覚的に理解できるようになります。

そして今、そのように感じる人たちが、急速に増えて来ているように思います。

もちろん、さっぱり感じられない人の方が、まだまだ多いとは思います。

それでも、人々の間に一体感の経験が、波紋のように広がっていますから、理解できる人はどんどん増えるでしょう。

これまでこの感覚は、一部の者だけが理解するだけで、理屈が中心の人類全体には、なかったものです。

人類の大半は見えない殻に、閉じ込められていたのです。

だからこそ、この感覚が全体に広がると、知性体としての人類は、殻を打ち破って大進化を起こすでしょう。

 ※Hans RohmannさんによるPixabayからの画像です。

何を考えるにも、人類は一つという理解を、その根本に持つようになります。

また、人類が一つであるならば、全ての存在も一つという、理解に到達するでしょう。

本当の理解は感覚を伴うものですから、理屈だけの世界観から、感覚的な世界観を持つようになります。

それは人類の感覚が、現在の五感から、さらにグレードアップされるということです。

言葉で地球に優しい、環境に優しいと言うのではなく、自分は地球の一部であり、自然の一部なのだと、感じるようになるのです。

今、世の中は多くの大変な事が、次から次に起きています。

それは、人類の進化すべき方向が、明らかになって来ているので、逆の方向もまた、露わになって来たということなのです。

右があれば左があるのと同じです。

人類は今、大進化を始めようとしているのです。

そして、人類のエネルギーに新たなエネルギーを加えているのは、現在の人類よりも、はるかに進歩している知性でしょう。

それは異星人かもしれませんし、高次元世界の存在かもしれません。

 ※Thomas BudachさんによるPixabayからの画像です。

いずれにしても、世界に存在している知性体は、人類だけではなく、もっともっと優れた知性体が存在しているのは、間違いないでしょう。

何故、そんな知性体が、人類の大進化に力を貸そうとするのでしょうか。

その答えは簡単です。

それは、彼らが全ては一つだと、理解しているからに、ほかなりません。

卵の殻 その3

 ※Okan CaliskanさんによるPixabayからの画像です。

人間は心の存在です。

人間の本質は意識であり、その実体は精神エネルギーなのです。

進化というと、どうしても姿形の変化を、思い浮かべるでしょう。

でも姿形とは、本質のエネルギーが、視覚的に表現されたものです。

それは本質のエネルギーの状態の、視覚的な結果と見ることができるでしょう。

本当の進化とは、本質のエネルギー状態の変化を言うのです。

エネルギー全体は変化を見せず、その中の状態だけが変化する場合、視覚的には小さな進化に見えるでしょう。

たとえば、動物や植物を掛け合わせることで、新しい種類を作りだすようなものです。

でも、どんなに新しい種類を作ったところで、犬は犬ですし、桜は桜なのです。

犬が猫になることはありませんし、桜がヒマワリになることもありません。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

これに対して、あるエネルギーに別のエネルギーが混じることによって、エネルギー全体が変化する場合があります。

これは見た目にも大きな進化となるでしょう。

それまで存在しなかった、全く新しい生き物が登場することになるのです。

恐らく、地球上で見られる大進化は、このような仕組みで起こっているのだと思います。

さて、人間に目を向けてみますと、歴史は繰り返すと言われるように、これまで人類は同じようなことばかりを、繰り返して来ました。

殺人や戦争を批判しておきながら、自らが同じことをやってしまい、それを正当化することに躍起になっています。

それは世界の現状を見ても、明らかでしょう。

世の中を歴史と照らし合わせて見ている人は、どうせまた、同じようなことになり、真の平和など訪れるわけがないと、考えたくなります。

力で世界をまとめる、いや、話し合いで解決しよう、やっぱり力尽くでないとだめだ、だけど外交努力をやるべきだなどと、世の中はいつも堂々巡りです。

その根底にあるのは、自分と他の存在は、別々のものだという考え方です。

別の存在同士が、心を一つにすることなど、有り得ません。

ですから、そこには必ず法やルールがあり、契約や権利、義務、罰などの発想が生まれるのです。

誰かが上になって、他の者たちを指導、あるいは支配しない限り、世界がまとまるはずがないと、考えるわけです。

その考えが卵の殻となり、人々から本当の自由を、奪い取ってしまいます。

このような、自他を分離させる考えが変わらない以上、人類全体のエネルギーは何も変わらないまま、同じパターンを繰り返すフラクタル状態です。

 ※alto2さんによるPixabayからの画像です。

しかし、無意識と呼ばれる心の領域の、ずっと奥深くから新たな理解が、もたらされつつあるようです。

それは、人類は一つの存在だということです。

卵の殻 その2

 ※Henryk NiestrójさんによるPixabayからの画像です。

人間社会で誰も疑うことがなかった、常識や価値観は、目に見えない卵の殻なのです。

これらの固定的な考え方は、人間を一つの枠に閉じ込めてしまいます。

その枠の外のことを、考えることを許しませんし、枠にはまらない者を、社会に適合できない人間だとみなします。

それは、この枠を創った者たちにとって、不都合なことだからです。

多くの人々は、枠によって洗脳されています。

映画「マトリックス」に出て来た、架空の世界に生きる人々のようなものです。

安定した暮らしが、保証されていると信じ込まされ、支配者の望み通りに動く人間に、仕立て上げられているのです。

人々を支配するのに、宗教が利用されることがあります。

多くの人は、神の名の下に事件を起こす者たちを見て、洗脳されていると思うでしょう。

実は自分たちも、宗教とは別の信念に、洗脳されているのです。

でも、洗脳されている者は、そのことに気がつきません。

それでも中には、洗脳が効かない人たちがいて、卵の殻を打ち破ろうと藻掻きます。

だけど、この人たちも自分が卵の殻に閉じ込められいると、しっかり認識できているわけではありません。

とにかく、窮屈さから逃れようとして、藻掻くのです。

 ※Stefan KellerさんによるPixabayからの画像です。

結局、藻掻くばかりで、殻を破ることができず、心身を病んだり、死んでしまったりする人がいます。

しかし、一方で偶然に殻を打ち破ることに成功し、清々しい新しい世界を、発見する人もいるのです。

そして、今や新しい世界を発見する人が、増えて来ています。

そういう人たちの存在は、見えなかった卵の殻が、他の人々にも見えるようにしてくれます。

自分が殻の中に閉じ込められているのだと、気がつくことさえできれば、その人は殻の外へ出ることを目指すでしょう。

未だに殻の中にいながらも、そこから出ようと四苦八苦している人が、大勢いるように感じます。

 ※medetaiさんによる写真ACからの画像です。

魚の卵から、幼魚が孵化する場面を、テレビなどで観たことがありませんか。

初めは数匹が、ちょろちょろと孵化し始めるのですが、やがて全体が次から次へと、一斉に孵化を始めるのです。

人間も今、そんな状況にあるように思います。

自分が何をすればいいのかわからない、自分が社会の何の役に立つのかわからない。

そんな風に思う人は、少なくないでしょう。

でも、何も特別に考える必要はありません。

自分が好きなように、自分が思ったとおりに、生きればいいのです。

 ※カメラ日和さんによる写真ACからの画像です。

誰かのためにと思わなくても、見てくれている人は、必ずいます。

そして、自由に生きる生き方が、そういう人たちに刺激を与え、その人たちが卵の殻を破るための、大きな力となるのです。

具体的に何をするのかが、重要なのではありません。

自由に生きるということこそが、重要なのです。

卵の殻の外の世界が、どんな世界なのかは、もう想像がついたと思います。

そう、それは自由で多様性に満ちた、喜びの世界なのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

卵の殻 その1

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

卵と言えば、大体想像するのは、ニワトリの卵でしょうね。

でも、ニワトリ以外にも、卵から孵って生まれる生き物は、たくさんいます。

鳥類、爬虫類、両生類、魚類。
みんな卵から産まれますよね。

卵から産まれる時、卵の中で成長した子供は、卵の殻を破って、外へ出て来ます。

 ※Myriams-FotosさんによるPixabayからの画像です。

もし卵の殻が破れなければ、どうなるでしょうか。

誰でもわかると思いますが、子供は卵の中で死んでしまいます。

死ぬまでの間も、窮屈な卵の中で、苦しい思いをするでしょう。

何故、卵の話をするかと言いますと、卵の中にいて、外に出られない子供の様子が、今の人間の状態に似ているからです。

卵の中で育つ子供は、初めのうちは窮屈な思いもせず、何の苦労もすることなく、ぬくぬくと生きています。

しかし、成長するにつれて、次第に窮屈になって来るし、さらに成長するためには、養分が足らなくなります。

生きるためには、殻を破って外に出て、今度は自分で餌を見つけて、口からその餌を食べなくてはなりません。

卵の中の生き方とは、全然違う生き方が、必要となるのです。

 ※Philipp KleindienstさんによるPixabayからの画像です。


人間はこれまで経済中心の暮らしをして来ました。

誰もそのことを疑問に思わず、その暮らしを当然のものと受け止めていました。

中には、暮らして行けなくなる人もいますが、大方の人々は、それなりに生きて来たわけです。

しかし、近年になると、経済中心の暮らしにほころびが見え始め、今はそれが様々な問題や事件の、共通した原因であることが、浮き彫りにされています。

それによって、これまでの暮らし方、今までのような生き方でいいのかと、疑問を持つ人が増えて来ています。

これまでも、そういう人たちはいましたが、大多数の人たちが経済中心的な考え方をしているので、自分の方がおかしいのだろうかと、悩んでいたでしょう。

今でも、何だか世の中の雰囲気に、自分は合わないと悩みながらも、世の中が正しくて、自分の方が変なのだと、理解してしまう人もいると思います。

でも、そうではなく、今の雰囲気に違和感を覚える人や、もっと違う生き方を求める人たちは、卵の殻を破って、新たな世界へ生まれ出る時期が、来ているのです。

そして、それは人類の進化の前兆でもあるのです。

結婚とは その2

人生において、結婚は重視される傾向にあります。

確かに、結婚によって人生が豊かになることや、多くを学べることはあります。

しかし、必ずしもそうではありません。

結婚は人生の終着駅だとか、結婚は地獄だとか、半分冗談半分本気で言う人もいます。

結婚が自分がイメージしたものとは違うとか、結婚によって自由がなくなったなどと、考える人にとっては、結婚なんてするんじゃなかった、ということになるでしょう。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

では、何故結婚したのでしょうか。

それは、結婚とはいいものだという話を、耳にしたからかもしれません。

大抵の場合、結婚はいいよと聞かされると、結婚相手が自分に尽くしてくれると、受け止めてしまうのでしょう。

あるいは、結婚をしていないと、社会的に一人前には見なされないと、考えている場合もあると思います。

この場合は、したくてした結婚というより、仕方なく受け入れた結婚、という感じでしょう。

また、結婚するつもりはなかったけれど、相手との間に子供ができてしまったから、というのも少なくないように思えます。

こういう結婚からも、何かを学び取ることはできますから、これが無駄なことだと思う必要はありません。

しかし、こういう形の結婚で学ぶことを、すでに理解している人は、似たような結婚をしなくてもいいのです。

もっと言えば、一生独身のままでも構わないのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

多くの人が、人生は一回こっきりだ信じているでしょう。

その考えがあるので、たった一回の人生で、結婚できなかったり、結婚に失敗したら、人生は絶望だと受け止めてしまうのです。

でも、人生は一回こっきりだと、言い切るだけの根拠を、持っている人はいないでしょう。

何となく、そう思い込んでいるだけのはずです。

面倒臭がらずに、世の中のいろんな部分に目を向ければ、この世界が全てではないと、思えるようになるでしょう。

そう思えるようになれば、結婚に対する考え方も、違うものになると思います。

結婚はしてもいいし、しなくてもいいのです。

大切なのは、今の人生で何を学ぶのか、何を体験するのか、ということです。