四国遍路2
四国遍路には、奥深さがあると思うのですが、ここ何年もの間、お遍路さんの姿が、ぐっと減ったように、私は感じていました。
去年の秋の、日本経済新聞の記事にありましたが、経済のバブル崩壊が、人々を巡礼から遠ざけたようです。
お遍路さんの数は、2000年頃がピークで、13万5000人ほどだったそうです。
しかし、その後どんどん減り続け、2018年度は5万5000人になったと言います。
お遍路さんが減ると、お遍路さんたちが利用していた旅館の、経営が維持できなくなります。
宿屋が潰れてしまうと、泊まる所がなくなりますから、ますますお遍路さんの数は減ってしまいます。
お遍路さん相手の商売ができなくなると、その地域で暮らす人が減ります。
そうなると、遍路道を整備してくれる人が、いなくなるのです。
これもまた、さらにお遍路さんを減らしてしまう、要因になるでしょう。
四国巡礼には、お遍路さんを無料でもてなす、お接待という四国独特の風習があります。
でも、お遍路さんが来なかったり、お遍路さんのお世話をする、地域の人がいなくなると、それもなくなって行くのでしょう。
遍路旅を文化としてとらえた時に、その文化が廃れて行くのを見るのは、四国を愛する者の立場からは、ちょっとつらいものがあるようです。
それでお遍路さんの数を増やそうと、期待をかけられたのが、外国からの訪日客です。
労働者の数を補うために、外国人労働者を呼ぶのと、同じ状況ですね。
2018年には、訪日客のお遍路さんが、初めて1000人を超えたそうです。
でも、日本人のお遍路さんの穴埋めをするには、全然足りていません。
それで、もっと外国人のお遍路さんを増やそうと、四国4県では、八十八ヶ所巡りを世界遺産に登録しようと、運動を始めています。
それでも、今回のコロナ騒ぎの影響で、外国からの観光客は入って来ないし、札所のお寺も感染防止という理由で、納経所を閉鎖しています。
つまり、お寺を参拝しても、御朱印がもらえないのです。
なかなか思惑通りに行かないようで、お気の毒に思うのですが、でも、考えてみると、何かがおかしいような気がします。
四国巡礼の遍路旅とは、基本的には宗教的なものです。
遍路旅には同行二人(どうぎょうににん)と言って、一人で回っていても、常に弘法大師がそばにいてくれるという、教えがあります。
これはまさに、宗教そのものです。
キリスト教で言えば、イエスさまがいつも一緒にいてくれますよ、と言っているのと同じです。
異教徒の人や無宗教の人には、同行二人なんて関係ないかも知れません。
でも、人生の問題を背負って遍路旅をする人には、その人なりの神聖さを、この旅に感じているはずです。
悩みや苦しみ、悲しみは、民族や宗教を超えたものです。
人間ならば、誰もが経験することです。
それを癒やしてくれるからこそ、大変な旅をするのでしょうし、他の人にも、遍路旅はいいものだと、伝えてくれるのだと思います。
この人たちにとって、四国巡礼が世界遺産になるかどうかなど、どうでもいいことでしょう。
あるいは、世界遺産登録によって、話のネタに回るだけの人が増えると、旅の雰囲気がぶち壊しにされるので、かえって迷惑に思うかも知れません。
確かに、お遍路さんを接待する人や、宿屋が消えて行くのは、大変だと思います。
でも、その人たちを維持するために、お遍路さんを増やそうと言うのでは、本末転倒のような気がします。
何故、お遍路さんが減ったのか。
それはひとえに、仏教への信仰心が減ったからでしょう。
つまり、今の世の中での、仏教の存在意義が薄れているということです。
私たちが観光で訪れる以外に、日常生活の中で、お寺や仏教に関わる時というのは、どんな時でしょうか。
それは恐らく、お葬式と法事の時ぐらいでしょう。
しかし、今はお葬式のやり方も様々で、お墓を持たない人も、増えていると聞きます。
お葬式の時に、亡くなった方へ戒名という、あの世で使う名前を、お坊さんにつけてもらいますよね。
その戒名にも値段があって、お金をたくさん出せば、立派な戒名がもらえるのです。
お金がないから、一番安いのでいいと言うと、最低ランクの戒名だと、亡くなった方が気の毒だから、もう少し上のランクの方がいいと、お坊さんに勧められるようです。
その人が生前、どれほど優しくて、他人思いのいい人だったとしても、貧乏人だったら、いい名前がもらえないのですね。
しかも、名前をもらう時には、本人は死んでいますから、これがあなたの戒名ですと言われたところで、わかるはずがありません。
そもそも戒名というものは、生きている間に、お寺のためにいろいろ尽くしてくれた人に対して、お寺から感謝の気持ちで、与えてもらうものなのです。
もちろん、本人はそれが自分の戒名だとわかります。
また、これはその人の行いに対して、与えるものですから、お金で買えるものではないのです。
それなのに、今はお寺の方からお金を要求し、貧乏人の戒名だと、故人があの世で恥ずかしい思いをするようなことを、吹聴するのです。
昔の人ならいざ知らず、今どきの人たちに、こんな話が通じるわけがありません。
そういうことをする時点で、信用度はなくなってしまいます。
お寺の方々には、失礼な言い方になってしまいますが、今のお寺は、人々に生きる道を示すのではなく、算盤勘定をすることが、目的になっているように見えます。
だからこそ、若い人を中心に宗教離れ、仏教離れが進んでいると、私は思うのです。
ただ、お寺側の思惑とは関係なく、遍路旅、特に歩き遍路をする方たちは、その旅を通して素晴らしいものを、得るのは事実だと思います。
恐らく、遍路旅で何かを得られた人は、遍路旅が人生と同じなのだと、気づくのでしょうね。
ある地域で生まれ育ち、外を知らない人は、その地域のよさを、理解しにくいものです。
たとえば、田舎から憧れの東京へ出て、都会で暮らすことで、生まれ故郷の田舎のよさが、わかったという話は、よくあります。
それと同じで、自分の人生にどっぷりつかっていると、その人生がどういうものなのかが、見えにくいでしょう。
遍路旅は旅を通して、自分の人生を客観的に、見つめさせてくれます。
自分に与えられた仕事をこなし、いろいろ考え、苦労をしながら歩み続ける人生。
そんな人生を、時折温泉につかりながら、反省したり感謝したりする。
そして、いろんな人や物事のつながりが、理解できたならば、それは遍路旅をしたのと、同じなのだと私は思うのです。