ベーシックインカム
ベーシックインカムとは、生活に必要最低限のお金を、国民全員に給付する制度です。
全員ですから、年齢や性別、職業や収入などによる、区別はしません。
生活保障と少し似ていますね。
いわゆる生活保障と違うのは、このお金を受け取るための、条件がないということです。
生活保障では、他に収入があると受け取れません。
財産があってはだめです。
ベーシックインカムには、そんな制約が一切ないのす。

そんなことをすれば、働かなくなるのではないかと、心配する人もいるでしょう。
確かに、生活保障を受けながら、パチンコ通いをする人もいます。
もらったお金を、全部お酒や賭け事に使う人もいます。
しかし、お金を稼ぐ必要がなければ、働くモチベーションがなくなる、という考えは、お金が全てという価値観に、基づいたものでしょう。
お金の心配があるから、お金を目的に働くのです。
お金の心配がなくなれば、自分のために働くようになります。
嫌な仕事はしなくなり、好きな仕事に専念するのです。
保障を受けながら、娯楽に興じる人たちは、他に夢中になれるものが、ないのでしょう。
何が自分のためになるのか、自分が何をしたいのかが、わからなくなっているのです。
自分の存在価値や自信を、見失っている人も多いと思います。
また、生活保障による収入制限のために、働く意欲を失っているのかも知れません。
生活保障という形で、お金をもらうと、いろいろ窮屈な思いをするでしょう。
そういうお金を受け取ることで、自分が落ちぶれたと、受け止める人もいると思います。
だけど、国民全員がもらえるお金であれば、何の遠慮も気兼ねもいりません。
それに、他で仕事をしたからと言って、その分を減らされることもないのです。
収入が不安定な人や、職場を掛け持ちしなければならない人は、多いと思います。
必死に働いても出費がかさみ、貯金なんかする余裕もありません。
しかし、そこにベーシックインカムのお金が、加算されたらどうでしょうか。
少しぜいたくな暮らしを、楽しむことができます。
そうすれば、生活に張り合いが出て来ますよね。

堅実に、貯金に回すこともできます。
貯金がある程度貯まったら、それを元手に、以前からやりたかった仕事が、できるかも知れません。
お金をもらう事で、働く意欲が失せるのではありません。
かえって、意欲が湧いて来るのです。
実際、世界のいろんな国で、ベーシックインカムの試験が行われ、いい感触を得ているようです。
貧困率や犯罪率が下がった。
生活が向上した。
子供の死亡率が減った。
これらは、とても魅力的な結果です。
ただ問題はその財源を、どう確保するかです。

基本的には増税が必要となるでしょう。
それが消費税になるのか、所得税になるかはわかりません。
企業が税金を支払うのが嫌で、国外へ逃げてしまうことも、考えられるそうです。
そのため、ベーシックインカムの取り組みには、国際的な協力や約束が、求められるようです。
なかなか大変そうではありますが、これが上手く行けば、今よりも働きがいのある暮らしが、できるようになるでしょう。
そのためには、国民一人一人もそうなのですが、企業が協力して、納めるべき税金を、きちんと納めることが大切です。
損をすると思うから、拒みたくなるのです。
納めた税金で生活が潤い、従業員たちも、活き活き働くようになると思えば、少しも損ではありません。
でも本当に大切なのは、損得勘定ではなく、助け合いの精神だと思います。
普段から助け合い精神に基づいた、こういう制度を整えておく事が大切です。
そうすれば、コロナ騒ぎのような事が起きても、今みたいに生活におびえる必要はないのです。
もちろん、この制度だけで全てが、上手く行くわけではありません。
他にも思いやりのある制度を、いろいろと整える必要があると思います。
それでも、最も生活に直結した制度は、何より最優先で進めて行くべきでしょう。
コロナウィルスで深刻なダメージを受けたスペインでは、この制度を導入することを決定したと言います。
ただし、この場合の対象者は国民全員ではなく、貧困層に限定してのものだそうです。
それでも、お金に困っている人には朗報でしょう。
早く日本でも、こういう制度を、取り入れてもらいたいものです。
知らぬ間の悪魔崇拝

先日、あるテレビ番組に出演した方が、ネットで誹謗中傷を受け、自らの命を絶ちました。
番組の熱心な視聴者は、そこに映された内容を、本気で受け止めたのでしょう。
だけど、テレビ局の人たちの、頭の中にあるのは、基本的には視聴率だけです。
視聴率を取るためであれば、彼らは何でもすると思っていれば、間違いないと思います。
この番組は、参加者たちの行動は、自発的に起こったもので、番組としては一切強要していない、というスタンスだったそうです。
しかし、実際は参加者にいろいろ指示を出して、視聴者を刺激するような場面を、作っていたようです。
また、あとで勝手に映像を編集し、実際にあった事とは違う場面を作り上げ、それを放送する事もあったそうです。
感動的な状況であれ、腹が立つような状況であれ、視聴者が真に受けて興奮すれば、それで視聴率が取れる、という算段なのでしょう。
その結果、今回のように参加者が、多くの人に憎まれてしまう事もあるわけです。
考えればわかる事ですが、視聴率以外は、どうでもいいのでしょうね。
もし大勢の人たちの前で、誰かれ構わず暴言を吐いたり、乱暴な事をしたらどうなるか。
その人は頭がおかしい乱暴者という、烙印を押されてしまうでしょう。
みんなが怒り出してから、実は芝居をしていたと弁解したところで、後の祭りです。
だから、まともな人は絶対にそんなことはしません。
しかし、テレビ局は事情がよくわからない参加者に、それと同じ事をさせたのです。
その結果が、こうです。
こうなるとは思わなかったなどという、言い訳は通用しません。
無免許で車を運転して、人をひき殺すのと同じです。
そんなテレビ局には、番組を作る資格などありません。
またお笑い芸人の一人を、「いじる」という言葉を大義名分にして、みんなで攻撃したり、痛めつけたりして、笑いを取ろうとする、バラエティ番組もありますよね。
やられている芸人は、笑いをとってなんぼ、名前を売るためには何でもします、という覚悟なのでしょう。
生活がかかっているわけですから、必死だと思います。
でも、それは芸ではありません。
それしかさせてもらえないのであれば、芸人として、それは悲しい事でしょう。
本当の芸人だとは、認めてもらえていないわけですから。
これは人の弱味につけ込んで、本人が嫌がる事をさせて笑い物にするという、いじめの構図と同じです。
このような事を公共の電波を使って、子供たちに堂々と見せているから、いつまで経っても、いじめの問題はなくならないのです。
誰かを生け贄にして、それで自分たちが潤うという状況を、想像してみて下さい。
映画に出て来るような、悪魔崇拝に似ていると思いませんか。

黒い衣装を身にまとい、悪魔の像を崇拝しながら、生け贄の女性や子供の命を奪う。
そんな場面を見たら、誰しもがおぞましいと思うでしょう。
だけど、見え方を変えてしまえば、どうでしょうか。
やっている事は同じなのに、気づかないで一緒に悪魔を崇拝してしまう人が、大勢いるのです。
生け贄にされた人が、画面の中で苦しむのを見て、笑っている人たちです。
あるいは、ネットで誹謗中傷されている人の事を、自業自得だと喜んだり、一緒になって攻撃する人たちです。
本人は、自分が悪魔を崇拝しているとは、思っていません。
でも、その行動は悪魔崇拝そのものです。
誰かを血祭りにあげることで興奮する人たちは、自分なりの正義感で動いているつもりなのでしょう。
でも、その実体は悪魔崇拝なのです。
誹謗中傷される人に、問題があるかどうかとは関係ありません。
ネットで誹謗中傷をする人たちだけでなく、愚かな番組を作る人たち、それを見て喜ぶ人たち、みんな同じです。

今回のことで、自分たちが好きで見ていた番組の、本当の姿がわかった人も多いでしょう。
そういう人たちは、その番組あるいはテレビ局から、離れて行くでしょう。
だけど、注意して下さい。
日常のいろんな場面で、自分の利益だけを求めている人に、出くわします。
それに自分自身が、同じ事をしてしまう時もあると思います。
どうか、そうならないよう自身を戒めて下さい。
世の中にあふれる様々な情報や番組が、何を目的としているものかを、見極めて下さい。
選挙も同じです。
普段の言動から、その政治家が本当は何を考えているのかを、しっかり見ていて下さい。
多くの人がそうする事で、世の中は今と違った、温かく暮らしやすいものに変わるでしょう。
いい世の中は、誰かが作ってくれるのではありません。
私たちが自分の手で作らない限り、いい世の中は訪れないのです。
学校のこと

学校の9月入学の話が、取り沙汰されています。
海外の学校は大半が9月入学だそうで、それに合わせることで、国際的な教育を進めたいという、思惑があるようです。
きっかけは、コロナ騒ぎで休校になった子供たちの、勉強の遅れをどうやって取り戻すか、という問題でした。
しかし、議論の重点は本来の問題から、グローバル教育の方へ、シフトしているようにも思われます。
9月を入学時期にするのなら、それはそれで結構だと思います。
ですが、それより先に考えることが、あるのではないでしょうか。
かつて、ゆとり教育と言われた方針が、今では間違いだったと、決めつけられています。
ゆとり教育のせいで、外国の子供と比べて、日本の子供の学力が落ちた、というのが理由です。
ですが、それまでの教育方針に問題があったから、ゆとり教育という話が、出たのではないでしょうか。
ゆとり教育にすれば、ある程度学力が低下することは、覚悟の上だったはずです。
それなのに、実際に学力低下を指摘されると、慌てて元に戻したのです。
これは、とても愚かなことだと思います。
ゆとり教育の問題は、子供に自由な時間を与えて、放置したことでしょう。
浮いた時間で、子供たちに人間として大切なことを、教えるべきだったのです。
ゆとり教育で叫ばれた教育の問題は、まだ解決していないのです。
そこを忘れて、授業を詰め込もうとしたり、国際化を論じても仕方がありません。
テレビのインタビューで、久しぶりに学校へ行けることを、喜ぶ子供は多いと思います。
しかし、学校がつまらないとか、学校へ行きたくない、ずっと休みだったらいいのに、と思う子供もいるはずです。
でも、こういう子供はインタビューから、はずされるのでしょうね。
そもそも学校へ行くことは、子供の教養を高めるのが、目的だったはずです。
しかし、今の学校の目的は、子供たちが最終的に大卒の資格を取って、どこかの会社に就職させるということに、なっているように思います。
子供が授業内容を理解していなくても、授業を進めたり、そのまま卒業させることが、その証でしょう。

成績が悪い子が自信を失い、自分の人生は他の子よりも、劣ったものだと信じてしまうような、学校教育には意味がありません。
学校は子供の教養を高める所です。
子供の好奇心を引き出し、やる気と喜びを経験させる所です。
決して、どこかの会社に入るための、予備校ではありません。
大学へ進もうと進むまいと、そんな事は子供の自由です。
行きたくない子を、無理矢理大学へ行かせたり、大学へ行きたいのに、お金がなくて行けない子がいるというのは、全くの矛盾です。
どうすれば子供たちみんなが、快適な学校生活を送れるようになるのか。
子供たちにとっての学校とは、どうあるべきなのか。
そちらの方が9月入学の議論より、真剣に討議されるべきだと思います。
新たな始まり

新型コロナウィルスについての、緊急事態制限が全面解除されました。
これまで制限されて来た活動が、これからは徐々に再開されるでしょう。
だけど、解除を待てずに閉めてしまったお店や、倒産した会社、職を失った人たちなど、元には戻れない状況もあります。
何とか持ちこたえて来た企業でも、これまでと同じようには行かないでしょう。
せっかく踏みとどまったはずが、ここ数ヶ月で潰れてしまうかも知れません。
困っているのは、日本人だけではありません。
経営が困難になったら、外国人労働者は真っ先に首を切られます。
バイトで頑張っていた留学生も、生活に困窮しています。
かと思えば、来ると思っていた外国人労働者が、入国できずに困惑する農家さんもいます。
何だか、とてもちぐはぐな話です。
一方で、テレワークやテレビ会議、あるはタブレットを利用した授業など、IT技術がもてはやされていますね。
確かに、これまでになかった業務や授業の形態を、築くことになるわけですから、いいことだと思います。
IT技術を活用すれば、日本中のどこに暮らしていても、他の所にいる人たちと一緒に、できる仕事もあるでしょう。
そんな仕事は、どんどん地方へ人を出したり、地方の人に働いてもらえばいいのです。
それで地方の人口が増えれば、地方の暮らしが、今より魅力的に見えるでしょう。

地方の仕事と言えば、農業や漁業などが、思い浮かびます。
今、農業の分野では、無農薬や有機農法、あるいは自然農法といった、健康にいい作物を作る方法が、注目されています。
ただ、手間がかかったりすることで、商品の値段が高く、お金のある人しか、購入できないのが現状です。
でも、値段が安くなったとしても、生産者の数が少ないので、誰もが購入できるほどは、作物も多くないのです。
身体にいい物を、金持ちしか買えないのは、おかしいと思います。
生産している人たちも、それを望んでいるわけではないでしょう。
今の経済システムが、そういう状況を生んでいるのです。
こういう付加価値がある、作物を生産する農家には、国が援助をするべきです。
自然相手の仕事は、毎年同じように、収穫があるわけではありません。
収穫が少なければ、生活は不安定になります。
そうなると未経験の若い人たちは、そういう仕事に就くことに、尻込みをするでしょう。
天候に関わらず、基本的な暮らしが、守られる状況にあれば、就農を希望する人は増えます。
なおかつ国の支援によって、いい商品が今よりも安くなるのであれば、人々の健康にも大いに役立つでしょう。
こういう所にこそ、お金をかければ、結果的に医療費の抑制につながります。

漁業についても同じです。
人々の食を守ってくれている方々です。
漁師さんがいなくなれば、どうやって魚を食べると言うのでしょうか。
何でもかんでも、個人の責任でというのは、間違っています。
国を支えてくれている仕事には、それなりの援助をするべきです。
これらの仕事が、子供たちに魅力的に見えるような環境を、整えることが求められています。
コロナ騒ぎから立ち直り、新たに動き出すのであれば、そういう社会を見据えて、動いて欲しいと思います。
やっぱりブログは難しい
ブログのことがわからないなりに、ここまで何とか記事を、毎日投稿して来ました。
ですが、ふとブログページのアドレスバーに目をやると、セキュリティ保護なしと、書かれているではありませんか。
ぎょっとして他のページを見てみると、他の所はその部分に、鍵の絵が出ているのです。
ところが、私のブログのページだけ、セキュリティ保護なしと、出て来るのです。

ブログを開設する時に、SSL認証の手続きはやりました。
ですから、サイトのアドレスは http ではなく、https になっています。
それなのにセキュリティ保護なしって、どういうことなんだ!
慌ててネットの記事を調べ、同じようなことで困った人がいないか、調べてみました。
すると、さすがはネットですね。
同じことで悩んでいた人がいました。
それでわかったのは、ブログのサイトを https のアドレスに変えたとしても、ブログで使用している写真なんかのアドレスが、http のままになっていると、安全ではないと判断されるということでした。
何だ、そういうことか。
まだ、ブログを始めて一ヶ月も経っていません。
アップロードした写真の数も、知れています。
そこで写真の保存場所の url を、全部手作業で http から https に修正しました。
ところがブログのサイトは、セキュリティ保護なしのまんまです。
もう、どうすりゃいいんだと憤りましたが、ここで諦めるわけにはいきません。
気を取り直して、もう一度調べてみました。
それで理解したのが、とにかくブログのページを表示するための、データの中に http と書かれた所が,、あるはずだということです。
一番可能性があるのは、写真です。
でも投稿した写真は、全部修正しました。
他に何があるのか、皆目見当がつきません。
その時に思いついたのが、ページのソースを調べるということでした。
ソースには、ページの情報が書かれています。
ここを見れば、どこに httpと書かれてあるかがわかります。
表示したソースを http で検索した所、一番初めの辺りに一つ、http とありました。
やった、これだ!
だけど、これは一体何だろうと、首を傾げて考えました。
それで、やっとわかったのです。
それは、プロフィールに載せた、私の写真でした。
これは投稿記事の写真とは違うので、すっかり見落としていました。
そこで、プロフィールの写真を確かめてみると、ありました。
写真の在処が、http のままです。
それをhttpsに修正し、天に祈りながらブログのページを開きます。
そこには、他のページと同じ鍵の絵がありました。
見事、セキュリティ保護なしの、言葉は消えています。

やれやれでした。
あなただけじゃない

人は嫌なこと、悲しいこと、腹が立つことなんかに遭って、思い悩みます。
そんな時、その悩みとは別な思いが、出て来ます。
こんな辛い目にあっているのは、自分だけだと。
自分の周囲の人たちや、テレビなどで目にする、世間の人々。
あの人たちは、苦しんでいる自分とは違って、悩みなんか一つもなく過ごしている。
誰も自分の気持ちなんか、わかってくれない。
そう思って、自分と世の中の人たちとの間に、見えない壁ができたように、感じるでしょう。
その気持ちが、本来解決しないといけない問題を、ややこしくしてしまいます。
嫌なことの原因を探る力が、削がれてしまうのです。
そんなことは忘れて、楽しくやって行こう。
そうできれば、いいのです。
楽しくしていれば、嫌な事も忘れます。
気持ちが落ち着けば、いろいろな事を、冷静に考える事もできるでしょう。
しかし、そんな気分になれず、思い悩み続ける時は、他の人の話を聞いてみると、いいと思います。

多くの人が、悲しみや苦しみとは、無縁のように見えるでしょう。
でも本当は、誰もが悩みを抱えて、苦しんでいるのです。
それを顔や態度に出さないだけなのです。
それがわかれば、あなたと世間の間に、あると思っていた壁は、すっと消えてしまうでしょう。
私はよくNHKの番組を見ます。
別にNHKの宣伝を、しているわけではありません。
とてもいい番組があるので、見ているだけです。
その中に一般の人の人生を、インタビューで語ってもらうものがあります。
見た目は、何も悩みがないような人たちです。
きれいな格好の女性や、ラフな姿の男の人、明らかに会社員と思われる人や、若く明るい女の子。
街へ行けば、どこにでも見られるような方々です。
そういう人たちが、自分の人生を語ってくれるのです。

悩みとは無縁に思われる人たちでも、聞くといろいろ辛い体験があります。
みんな、それを頑張って乗り切ったり、乗り切ろうと一生懸命です。
そこで語られる話は、どれも心を打たれるようなものばかりです。
平凡に見える人たちの、一人一人に人生があるのだと、実感させられます。
普段、人は自分が何かで悩んでいても、それを周囲の人に喋らないものです。
喋るとすれば、よほど困った時、最も親しい人に相談するぐらいでしょう。
それ以外の人をつかまえて、話を聞いて欲しいと、訴えたりはしません。
それはあなたもそうでしょうし、他の人もみんな同じなのです。
何か辛いことがあっても、それはあなただけではありません。
自分だけが、ひどい目に遭っているとは、考えないで下さい。
それに悩みは、人を成長させてくれます。
みんなも頑張っているんだと思って、問題に立ち向かいましょう。
星の言葉
この記事のタイトルは、心理占星学研究家の方が、ネットの記事で書かれていたものです。
とてもいい言葉なので、私も使わせてもらうことにしました。
私は占星術を、100%信じているわけではありません。
それは疑っているからではなく、自分自身がそういう知識を持っていないからです。

私の星座は牡羊座です。
牡羊座の人の性格などが、書かれているのを見ると、ほとんど当たっているなと、感心させられます。
ですが、自分以外のことはわかりません。
東洋医学は、理屈よりも経験を元に、発展して来ました。
占星術あるいは占星学というものも、同じなのだと思います。
占星術による説明が、事実とは異なっていたならば、それは星の動きを読む人の力量が、足らなかったということかも知れません。
病気の見立てが、ドクターによって違うのと同じですね。

さて、その心理占星学研究家が述べられている記事ですが、今年の年末に約20年に一度の、木星と土星の再接近が起こるそうです。
木星は力の拡大や解放を象徴し、土星は責任・義務・試練を意味するそうです。
この二つの星の会合が起きると、相反する力が、ぶつかり合い始めると言います。
世界中で衝突や崩壊が起こり、その後は解放・建設へと進むそうです。
政治や経済が従来の在り方から、変革を余儀なくされる時期だと記事では述べています。
過去200年間においては、この二つの星の会合は、地の星座と呼ばれる牡牛座・乙女座・山羊座に重なって生じたと言います。
でも今度の会合は、風の星座である水瓶座と、重なって起こるそうです。

風の星座は、知性とコミュニケーション、知識と情報、ネットワーク、理想や概念など、目に見えない分野の世界を、司ると言います。
また水瓶座は、自由と平等、オリジナリティ、改革精神、友愛、博愛精神がキーワードだそうです。
発明・最新テクノロジー・AI・ソーシャルメディアなども、水瓶座の領域にあるようです。
結局、水瓶座に重なった木星と土星の会合は、具体的には何を意味するのでしょうか。
それは一人一人が個性を発揮しやすい、環境作りが進むという事だそうです。
つまり、誰にでもチャンスが開かれる、時代が訪れるのです。
しかし、社会が大きく変わるには、どうしても痛みを伴います。
良かれ悪しかれ、私たちはこれまでの社会や価値観に、馴染んでしまっています。
そういうものから、引き離される痛みですね。
ところで今年の一月上旬には、山羊座で土星と冥王星の最接近がありました。
山羊座は社会構造や政治・権力・伝統と関わりが深いそうです。
冥王星は破壊や消去、刷新、復興をキーワードとする星です。
制限や抑圧を表す土星との会合は、世界に起こる大変な出来事と、関係があるようです。
過去には、第一次世界大戦や第二次世界大戦、あるいは中世ヨーロッパで黒死病と恐れられたペストなどが、冥王星と土星の会合の時期と符号するそうです。
これはまさに、現在世界中を震撼させている、新型コロナウィルスを示していたと、そう考えるのは、私だけではないでしょう。
今回の騒ぎや後遺症が、一年以上続くと考える、各種専門家の方は多いようです。
この記事でも、この騒ぎは少なくとも一年は続くとありました。
しかし、その大変な時期も、必ず終わりを告げる時が来ます。
そして、新しい希望が今年の末あたりから、具体的に見えて来るのでしょう。
それは旧態依然とした、古い価値観や政治形態などに、別れを告げる事なのだと思います。

今、人類は変革の時を迎えています。
占星術とは関係なく、私はそう見ています。
それを占星術で、同じ事を示されたので、正直とても驚いています。
いずれにしても、いつまでも暮らしにくい世の中が、続くわけではありません。
必ずみんなが過ごしやすい、真の平和な時代が訪れるでしょう。
そのキーワードは、感謝と思いやりです。
独りぼっちのあなたへ

あなたは一人じゃありません。
独りぼっちに見えても、一人じゃありません。
独りぼっちだと感じていても、本当はそうではありません。
あなたの身体は借り物です。
この世界で、人間として暮らすために、地球から借りた物なのです。
身体は、あなた自身ではありません。
人間としてのあなたは、この世界での仮の姿なのです。
宇宙は意識に満ちています。
宇宙自体が、一つの心だと思って下さい。
あなたは、心の海の中にいるのです。
昔の人が言ったように、自然にも物にも、魂が宿っています。
あなたの身の回りにある物にだって、心があるのです。
もちろん、人間のような心ではありません。
でも、心はあるのです。
心は、見たり触れたりするものではありません。
感じるものです。
そんなの、あるわけないと思ったら、心を感じることはできません。
動物や植物を、ただの食べ物だと考えているうちは、彼らの心を感じません。
でも、相手に愛着を感じていれば、彼らにも心があるとわかります。

見上げた空に、浮かぶ雲。
遠くに、そびえる山。
静かに浜辺に、波を送る海。
みんな、生きているのです。
あなたが彼らの心を感じれば、あなたのことがわかっているよと、彼らも返事をしてくれます。
それは誰かと握手を交わすようなものです。
あなたが手を握れば、あなたの手も相手に握られるのです。
あなたは様々な心に、包まれています。
決して、独りぼっちではありません。
あなたが心の手を差し伸べれば、必ず心の手で握り返されます。
私たちが見たり触れたりできる、物や身体。
これは、世界に満ちている心の一部が、形を持って現れているのです。
そして、あなた自身もそうなのです。

心の海の中には、形を持たないままの心が、たくさんあります。
亡くなった人や、これから生まれて来ようとしている人たちの心。
生まれるかどうか、まだ決めていない人たちの心。
そういう人たちの心は、そこにあってもわかりません。
でも、あなたとつながりがある心たちは、いつもあなたをそばで、見守ってくれています。
その人たちの存在を、感じてみて下さい。
今のあなたには、その人たちに会った記憶は、ないかも知れません。
それでも、あなたを大切に思う人たちの想いは、あなたを包んでくれています。
あなたが気づいてくれなくても、あなたを想い続けてくれています。
何も見返りを求めない、純粋な想いで、見守ってくれているのです。
愛情という言葉で表現するには、あまりにも足らないほどの、優しさと思いやりの心。
そんな心に包まれていると、思い浮かべて下さい。
思い浮かべるというのは、自分勝手な妄想ではありません。
それは、心で感じるということなのです。
すぐには、わからないかも知れません。
でも、たくさんの人に、抱きしめられていると想像して下さい。
そして、その人たちのあなたへの想いを感じて下さい。
胸の中が温かくなって、心が安らげば、それはあなたを想う人たちの、心を感じているのです。
あなたは一人ではありません。
いつだって、あなたは見守られているのです。

心が奏でるメロディー

音楽にはメロディーがつきものです。
楽しいメロディー、悲しいメロディー、明るいメロディー、暗いメロディー。
明るく楽しいメロディーを聴けば、明るく楽しい気分になれます。
暗く悲しいメロディーを聴けば、暗く悲しい気持ちになります。
また、メロディーを表現する、楽器の種類や演奏の仕方によって、同じメロディーでも、雰囲気が違ったものになります。
本来はしっとりした曲も、リズミカルで弾むようなものに、変身したりしますよね。
こうなると、メロディーそのものは、同じかも知れませんが、もう全然違う曲と言えるでしょう。
もちろん、著作権の話は別ですよ。
ところで、楽しいメロディーを楽しく感じたり、悲しいメロディーを悲しく感じるのは、どうしてなんでしょう。
どちらも高さの違う音を、並べただけです。
和音だって、いくつかの音の、組み合わせに過ぎません。
それなのに一方は楽しく感じ、他方は悲しく感じる。
これは何故なのでしょう。

昔の話ですが、私は不思議な夢を見ました。
ギリシャ神話に出て来るような、白い衣装を身にまとった、きれいな西洋の女性の夢です。
その女性が、かなり離れた所から私に向かって、悲しそうな顔で歌を歌うのです。
でも、何故かその歌は、人の声ではありませんでした。
バイオリンで奏でたような、音だったのです。
かなり高音の、とても悲しげなメロディーでした。
そのメロディーが、私の耳に届くや否や、私の心は、悲しみで一杯になりました。
私に悲しむ理由はありません。
その悲しみは彼女のものでした。
まるで彼女の声が、私の心の中に入り込み、私の心全部に広がった感じです。
気持ちを落ち着けながら、私は自分の考えが正しいかどうかを、確かめようと思いました。
それで、もう一度歌いかけて欲しいと、心の中で彼女に願いました。
すると、彼女は同じメロディーの歌を、私に向かって歌ってくれました。
その声が耳に届くと、さっきと同じように、悲しみが再び、私の心に広がりました。
そこで私は悟ったのです。
彼女の歌とは、彼女の想いそのものなのだと。
歌という形で、彼女は自分の悲しい気持ちを、私に投げかけたのでしょう。
そして、それを受け止めることで、私は彼女の悲しみを、直接体験したわけです。
どうして、そんな夢を見たのかはわかりません。
その女性が何を伝えたかったのか、私と彼女の間にどんな関係があるのか、そんなことは何もわかりませんでした。
でも、その夢を見てから、メロディーとはその人の心が、形を持って表現されたものなのだと、私は理解しました。

物理学的に言えば、メロディーは音ですから、空気中を伝わる、振動エネルギーに過ぎません。
だけど、それは恐らく、一面的な捉え方なのでしょう。
メロディーとは音の形をとった、その人の心の一部なのだと、私は思うのです。
メロディーに、歌詞がついているかどうかは、関係ありません。
歌詞も言葉を通して、気持ちを表現したものです。
でも、メロディーはもっと根源的な所で、心を表現したものなのです。
だから、楽しい気持ちで作ったメロディーは、他の人が聴いても楽しく感じるのです。
また、悲しい想いがこもったメロディーは、聴いた人を悲しい気持ちにさせるのです。
誰かが作った歌を、別の人が自分の歌い方で歌った場合、それはもう初めの歌とは全然別物です。
誰が作った歌かではなく、誰がどういう気持ちで、歌っているかがポイントなのです。
時代によって流行る音楽を、いろいろ聴いてみると、きっとその時代に生きる人々の、心の状態を探ることができるでしょう。
そういう目、いや、耳で現代の音楽を確かめてみると、どんな心に触れられるのでしょうね。

何気ない一言
ふとした言葉で、一喜一憂する事ってありませんか。
言葉を発した人は、それほど深い意味で言ってるわけではないのでしょう。
でも、それを聞いた方は、胸がドキンとするのです。
それが嬉しい言葉であれば、胸がときめくでしょう。
でも、傷つくような言葉であれば、憂鬱な気分になりますよね。
もちろん、相手は自分が傷つけた事には、気がつきません。
何だか相手の本音が、垣間見えたような気がして、余計に悲しくなったりします。
そのせいで、仲がよかった人との関係が壊れたり、疎遠になったりする事もあるでしょう。
それこそ悲しい事ですよね。

何を言われても、傷ついたりしなければ、何事も起こりません。
つまり、その言葉に傷つく自分にこそ、問題があるのです。
相手の言葉が、正しいかどうかではありません。
自分が傷つくか否かに、それは関係がないのです。
もし誰かに、何かを言われて傷ついたとします。
そんな時には、どうしてそんな事で、傷ついてしまうのだろうかと、その理由を自問するのです。
たとえば、稼ぎが悪いと言われて、傷つく事があるでしょう。
自分は一生懸命働いているのに、これ以上どうしろと言うのかという話です。
でも考えてみて下さい。
もっと稼ぎを得るために、何か工夫はしただろうか。
資格や技術を取る、努力をしているのか。
職場や生活の場が、ここでないとだめだと決めつけていないか。
あるいは、こんな風にも考えられます。
稼ぎが少ないと言うが、本当に今の稼ぎでは、不十分なのか。
自分が働く以外に、稼ぎを増やす事はできないのか。
そもそも今の暮らしを、続ける必要があるのだろうか。

何かの固定観念で、自分の動きを縛りつけている。
こういう事は、よくあります。
その結果、自分の可能性を、うまく引き出せずにいる。
そうだとすれば、問題は固定観念にあるわけです。
固定観念を打ち破るのは、容易ではありません。
何か強い感情や衝動が必要です。
何気ない一言に対する反発心が、自分を固定観念から、自由にしてくれた。
そう思えた時、相手の人に腹を立てるのではなく、感謝する事になるでしょう。
美人じゃないとか、太っているとか、あるいは頭が悪いとか、体の事を言われて傷つく場合は、どうでしょうか。
この場合、あなた自身がそういう体の持ち主を、見下していないか確かめて下さい。
そんな事はない。
自分は、人を見下したりしない。
そう言い返したくなる人は多いでしょう。
でも、本当にそうでしょうか。
あなたは心のどこかで、そういう人たちの事を、惨めだとか気の毒だとか、思っていませんか。
気の毒にという言葉は、相手をねぎらう言葉です。
でも、それは相手が今の自分の立場より、低い所にある事を示しているのです。
相手を悪く見ているつもりはなくても、相手は自分より辛い立場にあると、考えているわけです。
自分が太っていて、ダイエットに成功したとしましょう。
あなたは、すっきりと細い体になりました。
そこに、とても太った人が来たとします。
その人を見て、気の毒にと思ったなら、あなたはその人を、低く見ているのです。

世の中は、お金のあるなしや、結婚しているか否か、どんな体型をしているか、などと勝手に誰かを比較して、勝ち組負け組と区別する傾向があります。
多くの人が、この勝ち組負け組の概念を、心の中にすり込まれ、自分や他人をそういう価値観で、判断してしまうのです。
誰かに何かを言われて、傷つく本当の理由は、このような価値観にあるからでしょう。
自分が負け組にいると思うと傷つきますし、勝ち組に入れたと思うと、安心するのです。
これは昔の日本の士農工商や、インドのカースト制度なんかと同じです。
こういう身分制度はよくないと知りながら、そこから抜け出せないようなものです。
あなたが体型や頭の事で、他の人を気の毒だとか、変なのと思わなくなれば、自分の体型や頭の事も、気にならなくなるでしょう。
誰かを低く見ている人は、いつか自分が、その立場にならないかと不安になります。
実際にそうなったら、その人にとって、人生は終わりとなるでしょう。
たとえば、お金や権力を持った人が、それらを失った時がそうです。
人の顔を不細工だと笑う人が、顔に大怪我をした時も同じです。
体が不自由な人を邪険にする人が、事故や脳卒中で、体に麻痺を伴った時もです。

あなたの事を馬鹿にする人がいても、放って置けばいいのです。
人生の善し悪しは、体型や頭のよさとは関係ありません。
それらは全て、個性に過ぎないのです。
怪我や病気で見た目が変わっても、それは新たな個性が、加わっただけのことです。
ぽろっとひどい事を言った人が、あなたにとって大切な人だったなら、穏やかに相手の間違いを、諭してあげましょう。
それが通じなければ、黙って様子を見ていればいいのです。
あなたが傷つかなければ、とりあえずは問題はありません。
あなたが相手を、本当に大切に思うのであれば、相手の価値観は尊重してあげましょう。
そして、その価値観が原因で、その人自身が傷つく事があれば、その時に改めて諭してあげればいいのです。