月の起源

昨夜もきれいな満月でした。
でも、正確には一昨日の夜の月が、満月だったようです。
ぱっと見た目には、昨夜の月もまん丸でした。
この月ですが、天文学の世界では、その起源が注目されているみたいです。
月のように、惑星の周りを回っている星を、衛星と呼んでいます。
地球以外の惑星でも、衛星を伴っている星はあります。
火星、木星、土星、天王星、海王星です。
火星の衛星は二つだけですが、木星、土星、天王星、海王星は、二桁の数の衛星を伴っています。
これらの衛星は、周回の中心にある母惑星と比べると、とても小さなものです。
質量を比べると、最大でも母惑星の1000分の1だそうです。
半径を比べても、母惑星の数パーセントほどしかありません。
それなのに、月を地球と比べると、質量は地球の80分の1、半径比は27パーセントなんですって。
これは衛星にしては、母惑星と比べて大き過ぎるのです。
それで、月がどうしてできたのかということが、注目されているようです。
いくつかある仮説の中で、最も有力視されていたのが、他の星が地球にぶつかったというものです。
火星ほどの大きさの天体が、地球にぶつかって、その時に月ができたというのです。
しかし、それほど大きな天体がぶつかると、かなりの衝撃です。
計算によれば、地球の深い部分にある成分が、たくさん外へもぎ取られるとのこと。
それに、かなりの高温になるだろうから、揮発しやすい成分は、少なくなるそうです。
でも、実際の月の岩石の成分を調べると、そうはなっていないと言います。
そこで、最近出て来た説では、火星よりももっと小さな天体が、複数回に渡って地球に衝突したというものです。
一度の衝突で起こる、衝撃も熱も少ないので、月の岩石成分の説明がつくのです。
今のところは、この説が最も有力視されているようです。

でも、本当のところは、わかりません。
それなら、地球のすぐ隣にある、火星にだって、同じ理由で大きな衛星があっても、不思議ではありません。
どうして、地球の衛星だけが大きいのかと考えると、やはり謎です。
それでも、月は地球の妹みたいなものなんですね。
地球にそそがれる月の光は、物静かで柔らかな感じがします。
まるで、地球をそばで見守ってくれているように思えますよね。
でも、地球から引き離されて、ちょっぴり悲しげなようにも感じます。

潮止まり
暑いです。
今日も晴れ。
明日も晴れだそうです。
梅雨入りしたはずなのに、どうなってるのでしょう?
それでも雨が降るよりは、お日さまが出ている方が、気分が明るくなりますね。
日曜日だし、外へ出かける人も、多いと思います。
実際、コロナ騒ぎで自粛が求められていた頃と比べると、道路を走る車の数が、ぐんと増えたように思います。
でも、みなさん、完全に警戒を解いたわけでは、ないようですね。
観光や飲食関係の所は、まだまだ客足が伸びていないと耳にします。
お金の流れが止まってしまうと、みんなの動きも止まります。
まるで、海に釣りに行った時の、潮止まりみたいなものです。

魚は潮が動いている時でないと、あまり釣れません。
潮が止まっていると、目の前に餌があっても、食いつかないのです。
こういう時の魚が、何を考えているのかは、わかりません。
でも、経済の動きが止まっている時の、人間はどんよりしていますよね。
止まった潮が、再び動き出すように、止まっている経済も、必ずまた動き出します。
その時に、自分はどう動くのか、新しい波にどう乗るのか。
今はその事を、考える時期ではないかと思います。
再び動き出す波が、以前と同じ波とは限りません。
むしろ、今の状況から考えると、全く違った波が起こると思います。
今までと同じ事を、やっていたのでは、その波に乗れないかも知れません。
コロナ騒ぎで、いろんな問題が浮き彫りにされました。
それによって、人々は嫌でも、いろいろ考えさせられました。
その結果、みんなが求めるものが、以前とは変わるだろうと推測されます。
何かを作って売るにしても、サービスを提供するにしても、同じです。
相手が何を求めているのかを、読み取れない所は潰れてしまいます。
昔はこうだったのにと、泣き言を言っても始まりません。
かつては、少々質が悪くても、安いものが喜ばれました。
でも今は、少々値段が高くても、質のよい物が求められる傾向にあります。
品物をきれいな紙で包んだり、箱に入れると、見栄えがいいですよね。
でも今は、過剰包装として敬遠されがちです。

これからは、何が求められるのでしょうか。
それを追求するのも、熱意です。
自分が求めるものを探す熱意。
他の人が求めるものを探る熱意。
二つの熱意が絡み合い、互いを引き上げ合いながら、新しい波が始まるでしょう。
潮止まりである今の間に、何にどれだけ熱意を向けるのか。
それが、これからのあなたの人生の、方向を決めるのです。
英国への期待

今日でブログを始めて1ヶ月。
無我夢中の1ヶ月でした。
ところで、イギリスのジョンソン首相が、中国政府が香港に「国家安全法」を導入したならば、香港に暮らす約290万人へ、イギリスの市民権を獲得する道を開くと表明したと、ニュースの記事にありました。
香港で大きなデモが起こり、市民が香港政府と衝突していた時も、イギリスはこれまで表立った行動は見せて来ませんでした。
それが、今回このような表明に出たのは、とても大きな変化だという印象を受けました。
イギリスはEU離脱で、大揉めに揉めて来ました。
一応は離脱すると決まったものの、具体的なことは、まだ何も決まっていません。
下手をすれば、合意なき離脱という形になる、可能性もあるのです。

イギリスは将来への方向性が、定まっていません。
イギリスを拠点にして、EUで活動して来た企業の中には、イギリスを離れる所も出て来ています。
失業者が増えて、経済的な不安が高まる中に、今度はコロナ騒ぎです。
多くのコロナ患者や死者を出す中、ジョンソン首相までもが感染して、重篤な状態に陥るなど、イギリスは混乱の極みでした。
とても香港に対して動きを見せるだけの、余裕などなかったと思います。
それが一転、今回のジョンソン首相の表明となりました。
表明どおりの事が、現実に行われた場合、移民問題で大きく揺れていたイギリス社会に、新たな問題を生じる可能性が、あると思います。
それでも、香港市民の受け入れを表明したのは、損得を超えた、人間としての想いを感じさせられます。
アメリカのトランプ大統領も、中国に対して文句を言います。
でも、トランプ大統領の言葉は、常に損得勘定があるように聞こえます。
ジョンソン首相が就任した時、私はトランプ大統領に似た、雰囲気の人だなと思っていました。
EUとの交渉でも、イギリスの言い分だけを、押し通そうとしているように見えました。
でも、コロナウィルスに感染して死にかけた後、生還してからジョンソン首相は、変わったように思えました。
ジョンソン首相は喜びを抑えきれない様子で、自分を助けてくれた人々の名前を、一人一人読み上げて、感謝を伝えました。
その中で、特に感謝した二人の看護士は、移民の女性たちでした。
イギリスが大問題にしていた、移民に対して心からの感謝を示したのです。

私は彼が変わったのだと、確信しました。
そして、香港市民に向けての、今回のメッセージです。
それによって起こる問題は、覚悟の上なのでしょう。
香港市民は受け入れて、他の移民は受け入れないのか、という話も出るでしょう。
でも、きっとこれまでとは違った対応を、他の移民の人たちにも、見せると思います。
もちろんイギリスという国や、国民を守るのが首相の役割です。
そのためには、できる限り妥協しない姿勢は、続くでしょう。
それでも、移民の人たちとの共存ができる、思いやりのある政策を、見つけてくれると期待しています。
かつての植民地の人々に、手を差し伸べるというのも、とても印象的かつ象徴的です。
以前は主従関係があった人々が、一つになるという構図です。
それは意図していないにしても、今の世界に対する、大きなメッセージとなるでしょう。
イギリスが、先進国のお手本として動けば、他の先進国も動かざるを得ません。
それによって、国同士のバランスが変わり、中国にも変化が訪れると思います。
それは、信じられないような、大きなものとなるかも知れません。
日本も人の心を示すような、模範となる姿を見せて欲しいものです。
四次元世界
時間というものが、何なのか、昔からいろいろ議論はあります。
でも、本当のところは、よくわかっていません。
一般的には、過去から現在を経て、未来へと進んで行く流れを、時間と言うのではないでしょうか。
そして、過去から現在に至る時の流れを、歴史と呼んでいるのです。
古い記録や遺跡、あるいは化石などから、過去にも人間や他の生き物たちが、確かに存在していたと、私たちは理解します。
そこにロマンを感じ、タイムマシンがあれば、そんな過去をのぞいてみたいと望みます。
人間や地球の未来がどうなっているのか、それも見てみたいですよね。
タイムマシンで行けるのなら、行ってみたいと思う人は多いでしょう。

だけど、私たちにとって、確かに存在している現実とは、今この瞬間だけです。
この瞬間と言っている間に、次の瞬間が現在になっています。
そして、さっきの現在はすでに過去になっているのです。
過去はどこへ行ってしまったのでしょう?
私たちに認識できないだけで、今もどこかに存在しているのでしょうか。
あるいは、消えてなくなってしまうのでしょうか。
それに、未来はどこから来るのでしょう?
いったい、誰が次の瞬間の未来を、決めているのでしょうか。
現れるということは、未来は見えていないだけで、すでに存在しているのでしょうか。
時間というものについて考えると、こんな疑問が出て来ます。
でも、結局わからないから、大概の方は考えるのをやめてしまいます。
それでも、四次元という言葉に出会うと、再び時間が登場します。
何故なら、時間軸が四次元世界の一つの要素だからです。

三次元というのは、縦・横・高さの三方向でできた、立体空間のことです。
三方向の軸があるから、三次元です。
そこに、もう一つの軸を想定した世界が四次元です。
そして、このもう一つの軸というのが、時間軸です。
零次元は点です。
一次元は線です。
二次元は面です。
そして、三次元は立体です。
零次元の存在が認識できるのは、一点だけの情報です。
この一点の情報が、時間と共に変化するとしましょう。
それをつなぎ合わせると、線になります。
一次元ですね。
この線は、零次元である点の移動方向と重なります。
この移動方向を決める軸が、零次元にとっての時間軸です。
一次元の存在が認識できるのは、線上の情報だけです。
時間と共に変化する一次元の情報を、並べて行くと面になります。
二次元ですね。
この並べる方向を決める軸が、一次元にとっての時間軸です。
二次元の存在が認識できるのは、面上の情報だけです。
同じように二次元の情報を、時間的に重ねて行くと、立体ができます。
三次元ですね。
この時の、面を重ねる方向を決める軸が、二次元にとっての時間軸です。
同様に、三次元の瞬間瞬間の情報を、時間軸に沿って並べます。
想像しにくいでしょうけど、それが四次元です。

たとえば、半径8cm の円盤の上に、外側から中心に向かって、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の、直径1cmの円を掻き込みます。
赤は中心から7~8cm、橙は中心から6~7cm、黄は中心から5~6cm、緑は中心から4~5cm、青は中心から3~4cm、藍は中心から2~3cm、紫は中心から1~2cmの所です。
七つの円は半径に沿って、一直線に並べる必要はありません。
上図のように、中心から見て、てんでばらばらの方向で構いません。
この円盤をゆっくり回転させると、七つの点が動いているのがわかります。
一つ一つの点が、ちゃんと認識できるでしょう。
しかし、円盤を高速で回転させると、どうでしょうか。
一瞬一瞬の点の位置がわからなくなって、全ての点の位置が重なって見えますよね。
つまり、丸い円盤状の虹が、そこに現れるはずです。
四次元的に観察すれば、どんなにゆっくり、円盤が回転していたとしても、これと同じような円盤状の虹が見えるでしょう。
四次元では、三次元での時間軸上の情報が、一度に認識できるからです。

庭を犬が走り回っているとします。
その様子を四次元的に見たとすれば、全ての瞬間の犬の姿が重なって見えるでしょう。
犬が動きを止めて、じっとしていない限り、犬の色が作った線状の模様が、庭を埋め尽くしていると思います。
三次元の感覚では、それが何なのかは、さっぱりわからないでしょう。
でも、四次元の感覚では、犬が庭を走っているのだとわかるわけです。
ただし、私たちが四次元の存在であった場合、感覚機能が三次元とは異なる可能性があります。
今の説明は、あくまでも私たちが知る、視覚での説明です。
四次元では、別の感覚で状況を、認識しているのかも知れません。
そうだとすれば、私の今の説明は不適切です。
でも、いずれにしても四次元世界の様子など、三次元にいてはわからないと思います。
ただ理解できるのは、四次元世界では、三次元世界での時間軸に沿った情報が、同時に全てを認識できるということです。
また、四次元には四次元の時間軸というものがあるでしょう。
その時間軸を考慮すれば、五次元世界の存在を、知ることができるはずです。
三次元の私たちには、想像すらできないことですけどね。

話を戻しますと、四次元では三次元で言うところの、過去や未来を同時に認識できるのです。
打ち上げたロケットが、無事に飛ぶのか、途中で落ちるのかが、一目でわかるでしょう。
これから入る交差点に、信号無視の車が突っ込んで来るのも、一瞬でわかります。
はらはらするサッカーの試合も、その場で勝敗を知るでしょう。
原因があれば、同時に結果も出ます。
疑問は、すぐに答えとなります。
望みと現実は、同じ意味になるでしょう。
映画を観ようと思った途端、ストーリーも結末も、わかってしまいます。
ジェットコースターに乗った瞬間、ジェットコースターは終わります。
サプライズの誕生日パーティーをしようとしても、サプライズになりません。
何もかもわかっているようで、面白くないように感じるかも知れませんね。
でも、四次元世界にも時間軸があるのであれば、四次元世界なりの過去や未来があるでしょう。
ですから、四次元には四次元なりの、好奇心を刺激する楽しみ方が、あると思います。
四次元世界がどのようなものなのか、その具体的な様子はわかりません。
でも言えることは、時間軸がある以上、私たちにとっての過去や未来は、この瞬間も存在しているということです。
私たちが認識できないだけのことで、全ての時間は同時に存在しているのです。
私たちは、すでに存在している情報の塊を、時間軸に沿って順番に体験しているだけなのです。

では、運命というものは、決まっているのでしょうか。
それは、時間軸がたった一本しか、存在していない場合のことです。
情報の塊の上を走る時間軸は、途中に何度も、分岐点があるかも知れません。
それに、同じ情報の塊の上に、全く別の時間軸があるかも知れないのです。
異世界、あるいはパラレルワールドですね。
SF小説の中での話だけでなく、実際にそういう世界が存在している可能性は、十分にあると思います。
もし違う時間軸との接点があれば、知らない間に、知らない世界へ、迷い込んでしまうかも。
世界とは、考えれば考えるほど、不思議で面白いものですね。
梅雨に思うこと
知らない間に、四国地方は梅雨入りしていたようです。
最近は外へ出ることが、少なくなりました。
そのため以前ほどは、天気予報を気にしていませんでした。
でも、梅雨入りに気づかなかった人は、多いように思います。
雨の日が続いたわけではありませんし、今日だっていい天気です。
それで、天気予報の衛星画像を見てみました。
すると、確かに四国や九州のすぐ近くに、太い雲の帯が横たわっています。
今日の松山は、かろうじて前線の雲から、外れているようです。
それにしても、今年の梅雨入りは例年と比べて、かなり早いですね。
何でも、平年より5日、去年より26日早くなっているとか。
その分、梅雨明けも早くなると思いますが、それは真夏の到来です。
ここの所、毎年のように日本のどこかで、豪雨による災害が起こっています。
梅雨が長引けば、豪雨の危険性が高まります。
酷暑の夏にはうんざりしますが、早く梅雨が明けるのは、いいのかも知れません。

子供の頃は、梅雨と言えば、毎日のように雨がしとしと、降っていた気がします。
それと覚えているのは、でんでんむし。
カタツムリのことですね。
でんでんむしむし カタツムリ
お前の頭は どこにある
つの出せ やり出せ めだま出せ
でんでんむしの歌です。
今の子供たちには、何のことやら、わからないかも知れませんね。
でも、このでんでんむしも、見かけなくなりました。
昔は、学校の行き帰りの途中で、よく見かけたものです。
全然、珍しくはありませんでした。
それが、今では探しても、なかなか見つかりません。
蝶々や蜂、バッタなんかも、見かけなくなりました。
いつもであれば、春になると庭の花に、蝶々や蜂が飛んで来たものです。
でも、今年は全然見かけません。
それと、スズメも少なくなりました。
昔は、どこへ行っても、スズメの群れがいました。
朝になると、スズメの鳴き声が聞こえたものです。
でも、今はそれも聞かれません。
街に飛んで来るツバメも、ぐっと減りました。
今年は来ないのではないだろうかと、心配になるほど少なくなりました。
水を張った田んぼを見ても、虫一匹、メダカ一匹いない所が多いです。
アメンボでも見つければ、思わず感嘆の叫びを上げてしまいます。
本当に身近だった生き物が、いなくなってしまいました。

だけど、今は低農薬や無農薬で栽培した米や野菜を、求める人が増えて来ているようです。
商品としても、その方が高く売れます。
ですから、そういう作物を出荷する農家の方も、増えているのだと思います。
少しずつではありますが、何が大切なのかに、人々が気づき始めているのでしょう。
田舎で生まれ育った人が、都会に憧れて、大きな街で暮らすことは、よくあることです。
でも、そのうちに故郷のよさが思い起こされ、田舎に戻る人がいますよね。
それと似たような感じでしょうか。
梅雨などの気象は、温暖化の影響で、昔と同じにはならないでしょう。
これからの田舎も、どんどん人が少なくなって、以前と同じというわけには、いかないと思います。
しかし現代の人々は、田舎にはなかったアイデアや知識、技術を持っています。
そして何より、外にいたからこそわかる、田舎のよさを理解しています。
その知恵と力と希望は、きっと新しい田舎の暮らしを、築くことができるでしょう。
これから田舎へ移住するであろう、若者たちに期待です。

カオス
コロナの影響で、これまで封じ込められていたり、適当にあしらわれていたり、ごまかされていた問題が、世界中で噴出しています。
コロナ患者を救うため、命をかけて奮闘して来た、医療従事者への称賛。
危機を乗り越えて退院することができた、患者への祝福。
そこに人種の差別はなく、アメリカ国民が一体になったようでした。
しかし、警察官が無抵抗の黒人市民を、殺害する事件が起こりました。
それをきっかけに、黒人差別に対する怒りが、全米だけでなく、他国へも広がりを見せています。

あの一体感は、何だったのだろうと思わせるほど、コロナと戦う現場とは、矛盾したような出来事です。
でも、これがアメリカという国の、本当の姿なのでしょう。
人権尊重と人種差別が混ざり合った国、それがアメリカなのです。
人種差別が基盤にあるからでしょうが、アメリカは貧富の差が激しい国でもあります。
アメリカは、冨と貧困が混ざり合った国でもあるのです。
様々な人種が集まっているアメリカは、元々がカオスのような状態です。
その中で、力のある者が上に立つ構図が生まれ、それなりにまとまった形になっていました。
しかし、全ての国民がその構図に、賛同していたわけではありません。
多くの人々の心には、長い間ため込んでいた、不満があったでしょう。
その不満は、いつ爆発してもおかしくないほど、膨れ上がっていたのです。
それを、新型コロナによるストレスが、一気に噴出させたわけです。
今のアメリカは、文字通りカオスの状態に陥っているようです。

経済の繁栄の陰で、見過ごされていた問題や、抑圧されて来た不満は、アメリカ以外の国でもあるでしょう。
アメリカで起こっていることは、他人事ではないはずです。
一見、平和を装った体裁は、問題を覆い隠して、人々を無関心にさせて来ました。
でも、コロナ騒ぎによって、見せかけの平和のベールが剥がされ、一斉に様々な問題が、不安と一緒に浮上したのです。
それらの問題に多くの人たちが、これまで以上に、関心を持つようになっています。
同時に、これまでの価値観や立場、あるいは特権を死守しようとする人たちもいます。
他人を思いやり、祝福できる人。
やけくそになっている人。
自分さえよければいいと言う人。
何も考えていない人。
いろんな人の想いや、思考がぶつかり合って、大きな渦となり始めています。
それは、アメリカに限ったことではありません。
どこの国の政府も、何とかそれを抑え込もうとするでしょう。
でも、それは失敗に終わります。
ただでも混乱している各国の情勢は、米中の対決を筆頭に、国同士の争いや競争心によって、さらに悪化するでしょう。
コロナの再燃が、それに拍車をかけるのです。
世界経済はカオス状態になり、どこの国の政情も、今より不安定になるでしょう。
どこの国も助けが必要ですが、助けられるだけの力がある国は、一つもありません。
勝ち残れる国など、ないのです。

混迷から抜け出すには、世界の人々が、心を一つしなければなりません。
心を一つにするというのは、どこの国も取り残されない、という意味です。
どこかの国が、他の国を利用したり、支配してはいけないのです。
どこの国で暮らしていようと、人々の平等な権利が、保障されねばなりません。
それは本物の自由で平和な世界を、確立させるということです。
それまでは、どこの国にも混乱が起こるでしょう。
それは、あなたを不安にさせるかも知れません。
でも、不安になる必要はありません。
混乱は、いずれ落ち着きます。
そもそも、コロナ騒ぎが起こる前から、世界は不安定な状態にありました。
何故なら、これまでの状況に世界の多くの人が、不満を募らせていたからです。
これまで人々は世界の状況を、諦め気分で受け入れていました。
でも、現状に嫌気が差して、平和で喜びにあふれる世界を、求め出したのです。
コロナ騒ぎは、幸せを望む人々の想いを、露わにしただけです。
現状を変えたいと、願う人が増えたから、世界は不安定になっているのです。
安定を求めた結果の混迷であれば、行き着く先は、自由で平和な世界です。
世界中が混乱しても、あなたは慌てる必要はありません。
混乱の間は、いろいろ不自由もあるでしょうけど、待っているのは喜びです。
私の言葉を信じるのではなく、自分で観察して考えてみて下さい。
資本主義も共産主義も、終焉を迎えようとしているのが、わかるでしょう。
人々が求めているのは、主義ではなく平和と喜びなのです。
そこに国や民族、宗教などの違いはありません。
人類の意識が、一つになろうとしているのです。
新しい世界が、生まれようとしているのです。
混乱に見えるものは、青虫が蝶々に、変わろうとしているようなものです。
カオスの渦の中心には、輝く光があります。
その光が見えれば、あなたの不安は消えるでしょう。

不安が消えたら、新しい世界が少しでも早く産まれるように、手を貸して下さい。
どんなに些細なことでも、構いません。
自分の身近な所で、感謝と思いやりの気持ちを、はっきりと示せばいいのです。
遠い所へ行く必要はありませんし、大きな事をしなくても構いません。
普段の暮らしの様々な場面で、感謝と思いやりを示すだけです。
また、自分のやりたい事を、しっかりと楽しんで下さい。
楽しさや喜びは、あなたをますます、不安から遠ざけます。
お金があるかどうかは、関係ありません。
今できることで、生きる喜びを感じるのです。
喜びは喜びを生み、それが新しい世界を産み出す、大きな力になるでしょう。
油断大敵
多くの国でコロナ騒ぎが、収束に向かっているかのように見えます。
都市の封鎖や外出自粛が解かれ、大勢の人々が買い物やレジャーへと、流れ出しました。
日本でも、まだ慎重な姿勢が見られますが、流れとしては同じでしょう。

しかしコロナウィルスが、いなくなったわけではありません。
一時の勢いは失われたようでも、油断すると再び外出自粛や、都市封鎖となるでしょう。
新型コロナウィルスは潜伏期が長く、よほど悪くならない限り、症状が軽いようです。
無症状の人も多く、それが感染を広げてしまう、大きな要因になっています。
この潜伏期ですが、ウィルスが感染してから、症状が現れるまでの期間と、理解されている方が多いと思います。
これが長いということは、細胞に感染したウィルスが、細胞内で増殖している期間が、長いと考えられます。
発症した後でも、感染細胞から出て来たウィルスは、近くの正常細胞に新たに感染します。
このウィルスがその細胞の中で増殖して、出て来るまでの期間が長いわけです。

免疫細胞は、細胞の外にいるウィルスと戦います。
細胞の中に潜んでいるうちは、ウィルスは攻撃されません。
そのため、免疫細胞が外にいるウィルスを退治した後に、新たなウィルスがこっそり出て来るのです。
潜伏期間が短ければ、まだ免疫細胞が働いている所に、潜んでいたウィルスが出て来ます。
この場合、ウィルスはすぐに、免疫細胞に捕らえられるしょう。
潜伏期間が長いと、潜んでいたウィルスが出て来た時に、そこの免疫細胞が、少なくなっていることが考えられます。
そうなると、このウィルスの一部は、免疫細胞に捕らえられる前に、近くの正常細胞に感染してしまいます。
このウィルスが増殖して、外へ出て来るのは、何日も経ってからです。
そこで再び、免疫細胞の監視を逃れたウィルスが、同じように近くの正常細胞に感染します。
これを繰り返すので、新型コロナウィルスは治りが悪く、治ったと思ったのに、再燃するのだと思います。
それでも、いずれは免疫細胞の方が、完全勝利を収めるでしょう。
しかし、その途中で免疫力を落とすようなことがあると、大変です。
せっかく減っていたウィルスが、あっと言う間に増殖し、元のひどい状態に戻るかも知れません。

潜伏していたゲリラが、忘れた頃に出没するようなウィルスです。
症状が出ていない場合、免疫細胞が何とか抑えている状態です。
それでも、免疫細胞を逃れたウィルスが、誰かに感染する可能性はあるでしょう。
症状が消えても、それはウィルスが消失した証拠にはなりません。
ウィルス検査が陰性でも、偽陰性が多く含まれているようです。
ですから、やはりウィルスが、いなくなったとは言えません。
1ヶ月程度、人との接触を控えても、ウィルスが完全に消えるとは限りません。
恐らく今後も、あちらこちらで散発的に、ウィルス感染の報告が続くでしょう。
油断をすれば、感染はすぐに広範囲に、及ぶことになると思います。
効果的な薬があれば、安心です。
しかし、現在取り沙汰されている薬は、ウィルスを殺すわけではありません。
ウィルスの増殖を抑えるだけなのです。
それに長期に服用すると、副作用の危険性が高くなるでしょう。
結局、最終的にウィルスを押さえ込むのは、本人の免疫力なのです。
免疫機能が低下している方に、この薬を投与したところで、いずれはウィルスを押さえ切れなくなるでしょう。
そうなったら命取りです。

元々コロナウィルスは、風邪の原因の一つです。
風邪は一度引いても、また罹かることがあります。
その理由は、ウィルスが次々に変異するからです。
風邪が治る時、ウィルスに対する抗体が、体の中に作られています。
しかし、ウィルスが違う形に変異すると、この抗体が効かなくなることがあります。
それで、再び風邪を引いてしまうのです。
同じ理由で、新型コロナウィルスに対する抗体ができても、二度と感染しないという、保証にはなりません。
集団免疫でウィルスを、はねのけようという発想もあります。
しかし、変異したウィルスが来ると、やはり感染が広がってしまうわけです。
予防接種ができるようになったとしても、ウィルスが変異すると、効果がなくなるかも知れません。
では、どうすればいいのでしょうか。
結局は、ウィルスに感染しても、負けない免疫力を、身に着けておかねばなりません。
初めに感染した時に、粘膜にある免疫細胞が、素早くウィルスを退治すれば、抗体ができるのを待たずに、発症を押さえ込む事ができます。
そのためには、食事や運動などに加え、笑いの多い暮らしを、手に入れることが大切です。

心身に大きな負担をかけるような環境は、免疫機能にとって、大きなマイナスになります。
ただ、個人の努力だけでは、なかなかそうした生活を送ることが、難しいかも知れません。
今回のように、経済がストップしてしまえば、それが大きなストレスになってしまいます。
それを防ぐためには、今のような状況でも困らないような、新しい経済システムが必要となるでしょう。
貧困層へのベーシックインカム制度を、スペインが承認しました。
最低限の生活を守る保証です。
働いて収入を得ても、削られることがありません。
この制度には、世界中が注目しています。
今後、コロナウィルスに負けない、豊かな暮らしを手に入れられるかは、この制度にかかっていると思います。
40年前の話
6月になりました。
今日は、40年前の今頃、私が体験したお話をします。
当時、私は大学生でした。
暮らしていたのは、大学近くのアパートです。
近所には、スーパーがありません。
それで買い物をする時には、当時流行のミニサイクルに乗って、山の向こうにあるスーパーまで、買い出しに行きました。

山越えの道もあったのですが、自転車でその道を登るのは大変です。
ですから、山の向こうへ行く時には、山を迂回して、山裾の道を通っていました。
買い物を済ませてスーパーを出たのは、夕方でした。
山裾の道まで戻って来た時、辺りは夕闇に包まれていました。
空はまだ、ほのかに明るさが残っていました。
しかし、山陰になっていたこともあって、辺りは夜のような暗さです。
それでも、完全に夜というわけではありません。
どこに何があるという程度の、辺りの様子はわかりました。

ミニサイクルの電灯をつけて走る、暗い道には誰もいません。
道の両脇は田んぼです。
左側の田んぼのすぐ向こうには、山裾が広がってできた丘がありました。
その丘には小さな祠があります。
私がそこの道を走っていた時、左前方にその祠が見えていました。
自転車を走らせながら、私は何気なく祠の方に目をやりました。
すると、そこから誰かが降りて来るのが見えました。
闇の中だし離れていますから、直接人影を認めることはできません。
人だとわかったのは、その人物がペンライトを持っていたからです。
ペンライトを持つ手を、振りながら降りているのでしょう。
小さな明かりが、強くなったり弱くなったりしながら、揺れ動いています。
その明かりが祠の長い階段を、ゆっくり降りて来るのが見えたのです。
こんな時間に、あんな所で何をしていたのだろう。
私はいぶかしく思いました。
昼間なら、何も思いません。
真っ暗になってから、丘にある祠に行くのは不気味です。

階段の下には、私が進む道に向かって、細い道が真っ直ぐ伸びています。
そのペンライトの人物は階段を下りきると、そのまま細い道を進んで来ました。
その間、私はずっとミニサイクルを、走らせているわけです。
当然、その人物との距離は、どんどん縮まって来ますよね。
ところがです。
距離は近づいているのに、そこに人影が見えないのです。
いくら暗いと言っても、近づけば動く人影ぐらいは、見えそうなものです。
実際、他の構造物は暗闇の中でも、確認できていました。
それなのに、その人物だけが見えないのです。
見えていたのは、ゆらゆら動くペンライトの灯だけでした。
これは絶対におかしいと、私は思いました。
この距離であれば、そこに人がいれば見えるはず。
だけど、いくら目を懲らしても、見えるのはペンライトの灯だけです。
私は背筋がぞわっとしました。
これは人間じゃない!
人魂か?
そう思いながらも、ペダルをこぐ私の足は止まりません。
何も自分から、怖いものに近づかなければいいのにと、今なら思います。
でも、その時は恐怖に固まってしまったわけですね。
固まっているのに、足だけが勝手にペダルをこぎ続けているのです。

その人魂のような小さな光は、私が走る道へ出て来ると、こちらへ向きを変えました。
まるで、大きな道に出て来た人間のように、カクッと90度方向転換したのです。
私が走っている道の真っ正面です。
人だったら、見えないわけがありません。
でも、そこにいるのは、その光だけでした。
光はふわふわと漂いながら、私の方へ向かって来ました。
私の自転車も、光に向かって走って行きます。
光が目前にまで迫った時、私は心の中で叫び声を上げました。
胸の中では、心臓がバクバクしています。
全身に鳥肌が立っているような感じでした。
そして、ついに光が私のすぐそばまで、やって来たのです。
だけど、その光は私に何をするでなく、すっと私の横を通り過ぎました。
その時、私はようやく恐怖の呪縛を、解くことができました。
ああ、怖かった。
それが、その時の正直な気持ちでした。
私は自転車を止めると、光を振り返りました。
光はそれまでと同じ調子で、ふわふわと飛んでいます。
私は足下の田んぼに、目を向けました。
すると、稲の葉の陰に、いくつか似たような光が、点滅しています。
そうです。
私が人魂だと思っていた、その光。
それはホタルだったのです。
私はそれまで、ホタルを見たことがありませんでした。
初めてホタルを見た私は、驚きと感動で一杯になりました。
でも、ホタルを人魂だと思い込んで怖がった。恥ずかしさもありました。
辺りに誰もいなかったことが、救いでした。
しばらくホタルを眺めた後、私は無事にアパートへ戻りました。
40年前の話です。
今年も、ホタルの季節になりました。

神さまと God
日本語で神さまという言葉を、英語に訳すと、Godとなります。
しかし、日本人が神さまという言葉を使う時、Godのニュアンスはありません。
他に訳語がないために、神さま=God のように訳されてしまいます。
でも正しくは、神さまとGod は別物なのです。

日本人がいう神さまとは、目には見えない世界から、この世に影響を及ぼす、超越的な力を持った存在のことです。
日本を創った神さまもいますが、地域を治める神さまや、山の神さま、海の神さまもいます。
他にも人間の暮らしに密接した、商売の神、縁結びの神、学業の神、福の神、台所の神、便所の神など、様々な神さまがいます。
貧乏神や、死神なんていう、有り難くない神さまもいますね。
人間でさえ、死んだら神さまにされることもあります。
狐や狸などの動物も、神さまとして祀ったりします。
とにかく日本の神さまは、バラエティに富んでいるのです。

一方、西欧でいうGod とは、世界を創造した存在です。
Godと呼べるのは、この存在以外にはありません。
西欧では、人はGod のしもべであり、God は人に絶対服従を求めます。
日本では、人は神さまに何かをお願いしたり、崇めたりはします。
でも、神さまは人を支配しません。
だから、しもべではありませんし、逆らったって構わないのです。
このように、神さまとGod とは全然違うのです。
西欧に神さまはいませんし、日本にGod は存在しません。
全然違う神さまとGod ですが、似ている点もあります。
どちらも目に見えないし、人智を越えた力を持っています。
人間は自分たちの力が及ばない、あまりにも強大な存在に対して、無力感を覚えます。
そういう存在は崇めたくなるか、恐れおののいてしまいます。
それは天変地異などの自然災害に対しても、同じことが言えます。
自然法則が理解できない人は、天変地異を神が怒っていると解釈するでしょう。
この自然法則とは、宇宙を成立させる絶対的な真理に、基づいています。
科学の研究者たちは、みんなこの真理を、様々な角度から追求しているのです。
私たちが目にする宇宙は、この真理が具現化されたものです。
私たち自身も、やはりこの真理が具現化したものです。
そう考えると、宇宙の絶対真理こそが、現代人にとっての神と見ることができるでしょう。

国境を越えて

新大久保駅で、線路に落ちた人を助けようとして、列車に引かれて亡くなった韓国人留学生、李秀賢さんと遺族についての、ドキュメンタリー番組を見ました。
李秀賢さんは日韓の架け橋になりたいと、生前家族に打ち明けていたと言います。
その当時、ご両親は日本について、あまりいい印象を持っておられなかったようです。
しかし、多くの見知らぬ日本人が、息子の死を悼んでくれたことに、ご両親は驚いたそうです。
そして、息子の意志を継ぐことを、決意されました。
お二人は李秀賢さんが通っていた、日本人学校の先生たちと協力し、日本に留学する韓国人のための、奨学金の基金を立ち上げました。
その基金は、毎年多くの留学生を日本へ送り出しています。
今では、その数は1000人を超えたそうです。
それだけでなく、お二人はあちこちの学校で、日本と韓国が手をつなぐことの大切さを、子供たちに教えて来られました。
しかし、最近御主人が病気で亡くなられ、奥さまが一人で、この活動を続けられています。
私はこの話に感動を覚えるとともに、一人の日本人として、頭が下がる思いでした。
それなのに、日本でも韓国でも、互いを非難するようなことばかりです。
全く腹が立ちます。
それぞれの国に、非難を煽っている者がいるのです。
それは相手のことを、悪く見るしかできない人たちだけではありません。
騒ぎを起こすことで、自分たちの立場や方針を、正当化しようともくろんでいる人たちです。

相手を悪く見る人は、まだ話し合うことで、理解し合うことは可能です。
どんなに口汚く罵っていたとしても、あるいは暴力に訴えることがあったとしても、それは相手への理解が、足らないのが理由です。
真心を持って、語り合うことができれば、違う考えを持てるようになると思います。
問題なのは、自分の立場を守るために、わざと騒ぎを大きくしようとする人たちです。
この人たちは、自分が間違っているのは承知の上で、相手を非難するのです。
騒ぎを大きくすることだけが、目的です。
こういう人たちは、何を言っても聞く耳を持ちません。
人として生きるために、何が大切なのかが、わかっていないのです。
彼らの心は病んでいます。
ところが、こういう人たちが、人を指導する立場にいたり、情報を操作できたりするのです。
これでは、いつまで経っても、問題は解決しません。

似たようなことは、どこの国でもあります。
それが、世界中に蔓延している、様々な問題を引き起こしています。
これを何とかするためには、全ての国の国民一人一人が、賢くならねばなりません。
何が正しくて何が間違っているのかを、地球規模で見極めないと、いけないからです。
それと、何度も繰り返しますが、相手への思いやりの気持ちが必要です。
自分勝手な考えや、相手を思いやる気持ちの欠如が、争いの大きな原因です。
この場合、目の前にある争点は、本当の問題ではありません。
本当の問題は、どうして自分勝手な考えになったり、相手を思いやることができないのか、ということです。
生まれながらにして、そんな風になっている人は、世界のどこにもいないでしょう。
みんな、生まれ育つ過程の中で、誰かに言われたり、自分が経験したことなどで、そういう考え方を持つようになるのです。
互いの意見の背景にある、そういう事情を考慮し、相手の立場を理解してこそ、目の前にある問題の解決を、導き出すことができるのです。
そうでなければ、いつまで経っても、どっちが正しいかという議論の、繰り返しになるでしょう。

今日、私が見た番組は、素晴らしい韓国の青年と、家族の話でした。
でも、この方たち以外にも、いろんな国の人が、国境に囚われない、人としての心のつながりを求めて、奮闘しています。
そういう方たちの思いを、感謝を込めて受け止め、少しでもその気持ちに報いるために、自分には何ができるだろうかと、考えようではありませんか。
その気持ちがあれば、愚かな人たちが騒ぎを大きくしようと、煽ったり挑発したりしても、それに乗ることはありません。
みんなが彼らに、同調さえしなければ、世の中は平和で素晴らしい、楽園になるのです。