擬人化の楽しさ
アニメ映画では、動物や植物が人間のように、お喋りをしたり、泣いたり笑ったりしますよね。
動物が衣服を身に着け、二本足で歩き、レストランで食事をしたり、仕事をしたりします。
植物は動きませんが、木の幹の部分や、草花の花の所が、顔になって喋ったり歌ったりします。
そんな映像は、子供たちをワクワクさせますし、大人も楽しい気分にさせてくれます。

動植物だけでなく、食器や時計などの品物が、やはり衣服を着て、人間のようにふるまったりもします。
空に浮かぶ、太陽や月や星たちが微笑むのも、お馴染みの場面でしょう。
そんな気分で空を見上げると、直接は星たちから、何もしてもらえなくても、空から見守ってもらえているようで、温かい気持ちになりますよね。

日本の最古の漫画として、有名な鳥獣戯画も、カエルやウサギが、人間のように描かれています。
同じ古い漫画で、百鬼夜行も面白いですね。
鬼や魔物たちが描かれているのですが、中には長年使われた家財道具などが、付喪神になった者もいます。
これも擬人化です。

このように擬人化された、動植物や品物などに、人はとても親しみを覚えます。
それは、自分とは全く別の存在と、見なしていたものが、自分と同じ人間のように、感じられるからです。
人と同じように考え、振る舞えるものは、外見が人と異なっていても、同じ仲間として見るのですね。
あなたにとって、お気に入りの品物があれば、その品物はあなたにとって、特別なものとなります。
たとえば車ですが、他の人から見れば、ただの車でしょう。
でも、あなたから見れば、大切な相棒のように、思えるはずです。
ペットの動物や、大切に育てている植物も同じです。
他の人から見れば、どこにでもいるような動植物です。
でも、あなたにとっては家族と同じです。

人間ではないものに、人間とおなじ価値を覚え、人間と同じように扱うと、その人の人生は、とても豊かで温かく、面白いものになります。
それは、その人が勝手に、妄想しているだけだと、思うかも知れません。
しかし、実際に相手にも、ちゃんとした意識があり、こちらの想いに、反応してくれるのだとすれば、どうでしょうか。
山や海、空に浮かぶ雲。
どれも、普段は自分という概念を、持っているようには見えません。
しかし、呼びかけることで、そこに呼びかけられた者としての自我が、一時的にでも生じるのではないかと、私は考えるのです。

呼びかけるのをやめれば、元の自我のない意識に戻ります。
しかし、長く呼びかけ続ければ、そこの部分に自我の意識が、定着するのかも知れません。
そうして生じた自我の意識は、呼びかける者との間にだけ、交流を行うのです。
それによって、呼びかける方の心には、愛着が生まれるのでしょう。
これと同じように、様々なものに意識を向けて、微笑んでみて下さい。
きっと向こうからも、微笑みが返されることでしょう。
もちろん、その微笑みは、あなたにしかわかりません。
その対象を地球や、太陽、月、星などに広げるのも、楽しいと思います。
空の上から微笑み返されて、アニメの主人公になったような、気分になれますよ。
そして宇宙という、この世界自体にも、微笑みかけてみて下さい。
そうすれば、あなたの人生は、微笑みに包まれることでしょう。

三人寄れば文殊の知恵

先日の球磨川に続いて、他の川でも氾濫が起こっています。
普段は、あまり雨が降らない松山も、昨日はかなりの雨が、降り続きました。
幸い、川の水があふれるには、至りませんでしたが、今後もずっと無事だという、保証はありません。
気象情報では、数十年に一度の大雨、という表現をしていました。
でも、それはこれまでの数十年、という意味に過ぎません。
今は記録的豪雨が、毎年どこかで発生しています。
安全だったはずの地域が、いつ同じような雨に見舞われても、不思議でないのです。
それに、今年被害を受けた地域が、来年は大丈夫だとも言えません。
9年前に東北で起こった津波の映像は、日本中にショックを与えました。
大雨で川が氾濫して、町が水浸しになったり、家や車が流される状態は、あの津波に共通するところがあるでしょう。
津波と洪水では、災害の規模や呼び名が違いますが、本質的な所は同じです。
東北の震災は、本当にショッキングな出来事でした。
多くの人が、恐れと同情を感じながら、自分たちが安全であったことへの、安堵を覚えたと思います。
そうして、結局は他人事と感じていれば、時の流れとともに、震災で受けた様々な思いは、薄れて行きます。
ところが今のように、毎年日本のどこかで、大きな水害が起こる状況では、多くの人が被災者となり、その苦悩を共有することになります。
繰り返し起こる災害は、人々の苦悩の記憶を蘇らせ、薄れることを防ぎます。
あちこちに被害が広がることは、いい事ではありません。
しかし、現実はそういう状況ですし、結果的に多くの人が想いを共有し、心を一つにすることになると思います。
どこかで起こった災害を、他人事とはとらえずに、現地の人たちと一緒になって、対策を考える人が、増えるでしょう。
現地の人たちも、外から来る人々に心を開き、再び前を向いて歩く力を、取り戻せると思います。

三人寄れば文殊の知恵、という諺があります。
文殊とは、知恵をつかさどる菩薩のことです。
凡人でも三人で考えれば、文殊のような素晴らしい知恵が、出るというたとえです。
災害について、被災地だけで考えても、いい方法は生まれないでしょう。
その理由は、その地域の地理的なことや、経済的なことだけではありません。
その地域の人々が長年抱いて来た、土地への愛着や風習、価値観などの影響もあるのです。
こんな所だから、災害に見舞われるのは、仕方がないという、諦めも出て来てしまいます。
しかし、他からの助けとともに、新しい知恵、新しい価値観が加わると、どうせだめだと思っていたことが、だめではなくなるのです。
三人寄れば文殊の知恵、という言葉は、三地域寄れば文殊の知恵と、言い換えることができるのです。
この三という数字は、三つの視点、三つの価値観、三つの感覚のような意味合いです。
同じ思考の凡人が、三人集まるということではないのです。
凡人でも一人一人が、異なる人間だというのが前提です。
全く同じ思考しかできない者が、何人集まったところで、文殊の知恵は出ないでしょう。

違う地域の人間が、集まって考えた方が、思いがけないアイデアが出て来たり、思い切って古い価値観から、新しい価値観に移りやすくなると思います。
ただし、相手を思いやることを忘れて、自分の意見ばかりを主張するようだと、争いや反発が生じます。
それでは何のために、話し合うのかが、わからなくなってしまいます。
意見はいろいろあった方が、いいと思います。
でも、その意見の基盤や背景を、思いやる気持ちが、お互いにないといけません。
大都会、地方の中心都市、田舎の集落。
三地域とも生活環境が違いますし、価値観も違います。
しかし、どこか一つだけでは、社会が成立しません。
互いが互いを、必要としているのです。
どこかの問題は、他の所の問題でもあるわけで、共に考えていかなくてはなりません。
行政についても同じです。
国、県、市町村では、視点も違えば、作業も異なるでしょう。
でも、人々の生活を守るという点では、その存在意義は同じです。
それに、それぞれの役所で働く人も、職場を離れれば、一人の日本人です。
みんな立場は同じなのです。
個人の財産は、個人で守る。
災害から立ち直るのは、個人の責任で。
こういう発想では、だめです。
みんなの幸せのために、それぞれの立場でできることを、行わねばなりません。
そのための行政です。
やりたくても無理がある、限界があると思う時こそ、文殊の知恵です。
一人では思いつかないような、様々な工夫や支援が、見えて来るでしょう。
三人寄れば文殊の知恵。
この言葉こそ、文殊の知恵そのものだと思います。
電磁場と身体

健康に対して、電磁場の影響があるのかないのか。
そんな議論が何年も前から行われています。
しかし、決定的な結論は出ていないようです。
携帯電話やコンピューターなど、電磁波を出す機器は、人々の身近に多くあります。
電磁場が身体に悪いと決めつければ、これらの機器の使用に、大幅な制限が必要となります。
また、健康被害が心配になった人たちは、電化製品を買わなくなるかも知れません。
そうなると、電化製品を製造している会社や、多くの機器を使って、システムを構築した組織は、とても面倒な状況に、追い込まれてしまうでしょう。
国もその組織の一つです。
電磁場の問題が大きくなって、全てのコンピューターや携帯電話に、何らかの処理を加える事は、できれば避けたいでしょう。
多くの時間や、多額の費用がかかりますし、処理の間、作業が中断されるかも知れません。
これまでに身体の不調を、訴えた者がいた場合、それが職場の電磁場によるものだとなると、その保障問題も絡んで来ます。
また、コンピューターや携帯電話の製造や使用に、制限がかけられることで、経済活動が低下する事も、恐れるでしょう。
そう考えると、電磁波による健康への影響はないと、国が主張しても、今ひとつ信用ができない面はありますね。
現実の問題として、明らかに病気になったと言える人が、目立つほどにはいません。
その事が、現在の電波の規制状況の、正当性を主張する根拠にはなるでしょう。
でも、たとえば誰かが癌になったとして、それが電磁波のせいだと、証明できるでしょうか。
癌の誘因となるものは、電磁波以外にもたくさんあります。
それらの影響ではなく、電磁波の影響だと言い切る事は、誰にもできないでしょう。
もしかしたら、他の誘因と電磁波の間に、癌を発生させるための、相乗効果があるのかも知れません。
しかし、それを誰かが証明しない限り、そういう効果があるとは、認められないのです。

病気というほどではないけれど、頭が痛いとか、倦怠感があるとか、風邪を引きやすいとか、そんな症状が出る人は、どうでしょうか。
この程度の症状であれば、病院には行かずに、自分で薬を飲んだり休んだりして、何とかしようとするでしょう。
病院に行かなければ、こういう症状の人が多かったとしても、統計には反映されません。
それに、病院へ行ったとしても、やはり電磁波のせいだと、断定する事はできないのです。
それでも、高圧線の近くに暮らす子供の、小児癌の発生率の上昇が、電磁波と関係があると、指摘されています。
それを考えると、電磁波が何らかの形で、身体の細胞に影響を及ぼすのは、間違いないと思われます。

ただ、その影響力に対する、個人差が大きいのでしょう。
そのため、明らかな病気とわかる人が、それほど多くないように見えるので、あまり注目されないのだと思います。
その結果、電磁波を怖がる気持ちよりも、携帯電話や家電製品の便利さを、歓迎する気持ちの方が強くなるのです。
ところで、電磁波は身体に、どのようにして影響を与えるのでしょうか。
電磁波の影響で、細胞核の遺伝子が傷つけられると、いう事があるそうです。
核が傷つけられれば、癌細胞が生まれる原因になり得ます。
しかし、調子が悪いけれど、まだ病気とは言えないという場合は、どういう機序なのでしょうか。
細胞が活動する時、微弱な電気的変化が、細胞表面に生じます。
心臓が動く時に、心臓全体に流れる電気を、外から拾い上げたものが、心電図です。
脳の働きに応じて、脳神経細胞の間を伝わる電気を、外から記録したものが、脳波です。
心臓や脳の細胞だけでなく、全ての細胞が活動時に、微弱な電気を発生させています。
電気が流れる所には、磁場が生じます。
つまり、人間の身体には、微弱な磁場が発生してるのです。
どんな磁場になるかは、そこに流れる電流の、状態によって決まります。
逆に言えば、磁場を変化させれば、電流の動きに、影響を与えられるという事です。

強い電磁波に曝されると、恐らく細胞の磁場は影響を受け、細胞に発生する電気は、正常な流れを阻害されるのだと思います。
その間、その細胞の活動が、低下すると考えてみましょう。
そう仮定すれば、長時間、電磁波の影響を受け続けると、その間、身体の細胞の働きが、抑えられると推測できます。
ただ、それは細胞が破壊されたり、完全に動きを封じ込められるほどの、影響ではないと思います。
そんな事があるなら、既に世界中で原因不明の病気が、蔓延しているでしょう。
完全な活動停止にはならないので、身体全体として、様々な機能は維持されています。
それでも活動が抑制されるので、身体は負担がかかった状態、無理をしている状態になっていると思われます。
その結果、疲れやすくなり、風邪を引きやすくなるという事が、生じるのでしょう。
場合によっては、免疫機能が抑えられた結果、癌細胞が発生しやすくなる事も考えられます。
身体や細胞が作る、微弱な磁場を想像してみて下さい。
磁石の周りに鉄粉を撒いてできる、磁力線のようなものです。
次に、高圧線や家電製品が生み出す、強力な磁場を思い浮かべて下さい。
磁力線の太さは、細胞が作るものよりも、ずっと太くなります。
今度は、この強力な磁力線が、身体の微弱な磁力線を、乱している様子を考えてみて下さい。

磁力線を乱された細胞は、思うように活動ができません。
死ぬわけではありませんが、ぜーぜーと苦しんでいます。
そんな苦しむ細胞が集まった、身体を思い浮かべて下さい。
身体の持ち主は、自分が病気だとは思っていません。
何となく、身体の不調を感じていますが、細胞たちが喘いでいる事には、気がつきません。
どうでしょうか。
想像できましたか。
これが私が推測する、身体への電磁場の影響です。
ブロッコリーの芋虫

イギリスのサム・ダーラストンさん(27)という方の、記事がありました。
この方はテレビやラジオで、レポーターを務めてらっしゃるとのことでした。
サムさんはブロッコリーが大好物で、スーパーから買って来たブロッコリーを、調理しようと袋から出したところ、そこに芋虫がいるのを発見しました。
さらに別の袋から、6匹の芋虫が見つかり、サムさんは全部で7匹の芋虫を、そのまま育てることにしたと言います。
サムさんは芋虫の一匹一匹に名前をつけ、その成長する様子を公表したところ、多くの人たちから、応援の言葉が届けられたそうです。
芋虫は、初めに一匹がサナギになると、それに続いて、次々とサナギになり、順番にモンシロチョウへと、姿を変えて行きました。
初めは喜んでいたサムさんですが、次々にモンシロチョウたちが、旅立って行くにつれて、寂しくなったと言います。
最後の一匹が旅立った時には、すごく悲しかったそうですが、また芋虫を育ててみたいという、気持ちになったそうです。
自分の世話をしてくれた、サムさんのことがわかるのか、モンシロチョウはサムさんが手を伸ばすと、そこへ飛んで来て留まったと言います。
私はこの話のここの部分に、特に心が惹かれました。
自分を愛してくれる人の思いが、昆虫にも伝わるのですね。

学者たちは人間を、生物の頂点の存在として、考えがちです。
それは知性あるものが、最高のものだという、価値観によるものです。
そして、その知性の証を脳に求めます。
そのため、脳が身体の割に小さな生き物ほど、下等な存在として決めつけるのです。
脳を持たない植物や微生物など、生きているだけで、何もわからない存在だと、考えているのでしょう。
しかし、生き物と直に触れ合う人々は、そうは思いません。
日本では昔から、一寸の虫にも五分の魂と言います。
小さく弱い者にも、それ相当の意地や根性がある。
だから、どんな相手でも侮ってはならない。
という、たとえです。
このたとえの前提にあるのは、どんなに小さな生き物にも、心があるのだという事です。
昔の人は、小さな生き物にも、心の存在を感じていたのでしょう。
今でも、生き物に関わっている方であれば、同じように感じるのはないでしょうか。
学者は、自分が知っている理屈だけで、理解しようとします。
でも、それでは本当のことは、わからないと思います。
同じ地球に暮らす生き物と、心を通わせられるのは、どれだけ素晴らしいことでしょうか。
そして、その事をサムさんは、多くの方とシェアできたと言います。
これも、とても素敵なことだと思います。
今の地球に必要なのは、こういう想いの広がりなのです。
とてもいい記事に巡り会えたことを、感謝します。
球磨川の氾濫

昨夜から降り続いた豪雨で、熊本県の球磨川が氾濫しました。
球磨川上流のダムが、水が一杯になったために、すでに氾濫している川に、水を放流するという話もありました。
幸い、ダムの放流は中止になり、その点はよかったと思います。
以前に愛媛の大洲で、同じような状況の中、ダムの緊急放流が行われ、町も人命も失われるという、大惨事になりました。
町を守るはずのダムで、町が壊れてしまったのでは、本末転倒です。
球磨川でダムの緊急放流が、中止になった事は、本当によかったです。
それでも、やはり氾濫や土砂崩れで、被害に遭われた方や、亡くなられた方がいらっしゃいます。
もう少しで、梅雨明けを迎えただろうにと思うと、本当にお気の毒かつ残念でなりません。
毎年のように起こる水害ですが、やはり温暖化のせいで、気候が変わってしまったように感じます。
コロナウィルスもそうですが、一人一人の人間が、いろいろな事に目を向けて、自分の頭で考え、正しい道を選ぶように、地球から求められているような気がします。
被害に遭われた方や、亡くなられた方が、そういう事を求められているわけではありません。
求められているのは、人類全体です。
被害に遭われた方たちは、人類が大切な事から、目を背けて来た事による、犠牲者だと言えます。
その責任は、私たち一人一人にあるのです。
もちろん、一人の人間にできる事は、限られています。
それでも、その一人が多く集まる事で、大きな変化、大きなうねりを作る事ができます。

一人の言動の影響は、水面に小石を投げ込んだ時の、波紋のように、その人が知らない所で、周囲に広がって行きます。
自分一人に何ができるかと思わずに、自分が正しいと思った事は、行動に移して下さい。
それは必ず周囲に伝わって行きます。
温暖化を防ぐためにできることには、次のようなものがあります。
電気の無駄遣いをしない。
ちょっとの距離なら、車やバイクを使わずに、歩いたり自転車で移動する。
遠方であれば、なるべく電車やバスを利用する。
国や企業の温暖化対策を、できる限り支援する。
自分にできる事は、本当に知れています。
それでも、その心意気は周囲に伝わります。
大切な事は心意気が広がって、世の中の雰囲気が変わる事だと、私は思います。
それは、温暖化対策に限った事ではありません。
どんな事でも、一人一人の気持ちが大事です。
それを何かの形で表現し続ければ、必ずそれに共鳴する人が、増えて来ます。
そうして世の中は、変わるのです。
エネルギー政策

経済産業省が今後10年の間に、石炭火力発電所を100基休廃止すると、発表しました。
その狙いは CO2対策で、効率が悪くCO2排出量が多い、古いタイプの石炭火力発電所の、発電量を9割削減する方針のようです。
その分の電力を、どういう形で補うかが問われていますが、原子力発電所を増やす事は、今の日本ではむずかしいと思われます。
政府は自然再生エネルギーの割合を、増やす方針と述べています。
でも具体的な事は、これから話し合って決めるようです。

恐らく、水素発電への取り組みも、含まれていることでしょう。
水素発電の本格導入が、2030年頃を目標とされているそうですが、これがちょうど10年後の事です。
つまり、政府は水素発電に本腰を入れる事を、視野に入れた上で、旧式の石炭火力発電を、減らして行くつもりなのでしょう。
自動車も水素電池を主流にと考えているようですし、いずれは石油や石炭を使わない、エネルギー政策というものが、実現されるのだと思います。
世界中がコロナ騒ぎに翻弄されている中で、エネルギー政策の担当の方たちは、目標実現へ向けて、着実に動かれていたようです。
日本人らしい、その真面目さや堅実さには、頭が下がる思いです。
今後の10年の間に、いろんな反発や思いがけない事があるでしょうが、負けずに頑張って欲しいと思います。
エネルギー政策が大きく変われば、それに合わせて、新しい仕事や商品が、生まれることでしょう。
失業対策にもなりますし、新たな社会を構築する動きに、自分たちも参加しているという、期待と喜びが、人々の間に広がることと思います。
そして、それは世界へと広がって行くことでしょう。
その未来の姿が目に浮かぶようで、何だか浮き浮きした気分になります。
迷走する中国

6月30日に中国の全人代常務委員会で、香港国家安全維持法案が全会一致で可決しました。
その法案は翌日の7月1日、つまり昨日から施行され、早速一人が逮捕されました。
と思ったら、あれよあれよと言う間に、180以上が逮捕されたという事です。
日本で何かの法案が成立しても、その施行まで猶予期間があるのが、普通です。
法案を成立させても、その周知を徹底させるための、準備期間が必要なのです。
成立の翌日から、新しい法律が施行されるのは、極めて異例な事でしょう。
それほど緊急性かつ重大性のある、法案という事だと思います。
つまり、中国は今すぐ香港の、自由を要求するデモを、押さえ込む必要に、迫られていたと言えるでしょう。
香港では、近く選挙が行われ、民主化支持の議員が、多数当選することが、予測されます。
それを阻止するためにも、選挙前の今、反政府的な人々を、捕まえたかったのだろうと、考える人がいます。
確かに、それはあるだろうと思います。
でも、それだけではないと、私は考えています。

香港国家安全維持法案の施行は、日本を含めた西側諸国に、中国に対する強い不信感を、植え付けました。
これは中国にとって、損以外の何物でもありません。
今後も西側諸国との間で、これまでのような関係を維持できると、中国は考えているのでしょうか。
もしそうならば、それは大いなる見誤りです。
西側諸国は、中国を警戒しています。
中国が何かを提案しても、慎重な態度を見せるでしょう。
貿易関係においても、中国を利するような取引は、敬遠されると思います。
しかし、きっと中国は、そんな事は百も承知なのでしょう。
その上で、香港を鎮圧する必要があったのです。
それは何故でしょうか。
恐らく、中国国内で政府に対する不満が、広がっているのだと思います。
中国の経済活動は、以前のような活気がなく、停滞気味だと言われていました。
そこへコロナ騒ぎが起きて、多くの国民が恐怖におののき、不自由を強いられました。
失業者も多く出て、生活の不満は、急増しているでしょう。
経済活動を再開させても、世界の国々が不安定な状態なので、経済が上向きになる事はありません。
先日、北京でコロナのクラスターが出た途端、人々は外に出なくなったと言います。
商売を再開した多くの店や街から、一斉に人の姿が消えました。
こんな事を繰り返していたのでは、経済の復活など望めません。
このような状況の中で、生活の不安が膨れ上がって爆発する事を、中国政府は心配しているのでしょう。
みんなが我慢している間は、大丈夫かも知れません。
しかし、どこか一ヶ所で大きな暴動が起きれば、それが引き金になって、国中で暴動が起きるに違いありません。

香港市民は、公然と政府を批判していました。
その動きには、すさまじいものがありました。
その姿が中国本土の人々を刺激する事を、中国政府は最も恐れているのだと思います。
だから、世界中から非難される事がわかっていても、香港を制圧するしかなかったのでしょう。
しかし、結果的には香港市民を弾圧した事で、中国政府はさらなる苦境に陥ります。
世界を相手にした経済活動が、これまで以上に落ち込むからです。
今の中国に、経済の命綱を握らせたいと思う国は、一つもないと思います。
今後は中国以外の国との取引に、シフトしていくはずです。
私は人類が、転換期を迎えているのだと考えています。
アメリカのような個人主義ではなく、中国のような全体主義でもない、新しい価値観が世界中に、広がりつつあるように感じています。
その中でコロナウィルスは、この価値観を広めるための、一定の役割を担っているように思えるのです。

もちろん、コロナウィルスがそんな事を、考えているわけではありません。
ただ、コロナウィルスの脅威を、乗り越えるためには、新しい価値観が必要なのです。
コロナウィルスがなくても、いずれこの価値観は、広がって行くと思います。
それをコロナウィルスが、後押しをする形になっているのです。
その価値観とは、どのようなものでしょう。
それは他の人への、感謝や思いやりの気持ちを、大切にするというものです。
そうする事で、人としての喜びと心の安定が、得られるという価値観です。
日本もあまり他の国の事は、言えません。
それでも今の中国には、自国民を思いやる姿勢が、見られません。
全ては共産党指導部の、面子のためのように見えます。
国民のために、動いているように見えても、実際は共産党指導部を、守るためなのでしょう。
人々の不満に耳を傾け、相手の立場に立って、問題の解決法を、とことん探るべきなのです。
しかし中国政府は、不満を力で抑え込み、何も問題がないかのように、振る舞います。
病気で言えば、何か症状が出るたびに、その症状を抑える対症療法の薬を、投与するようなものです。
患者は、飲み薬ばかりが増えますが、根本的な治療は、施されません。
そのような状態が続くと、最終的には症状が、抑えきれないほどひどくなり、患者は死んでしまいます。
それと同じで、今の中国のやり方では、一時は不満を封じ込めても、いつかは積もり積もった不満が、大爆発を起こすと思います。
今後もコロナウィルスは、中国で新たな猛威を振るうでしょう。
もちろん、それは日本や他の国々でも同じです。
その時に、政府がどのような施策を見せるか、それに対して、国民がどのような反応を見せるのか、そこが問われるでしょう。
日本もどうなるかはわかりません。
しかし、少なくとも香港市民への、中国政府の仕打ちには、思いやりの欠片も見られません。
あのような政府の傲慢さを、むき出しにしたような動きをしている限り、コロナウィルスの真の脅威から、逃れる事はできないと思います。

今、人類は国境を越えた、存在になろうとしているのです。
民族や文化の違いを、多様性として認め合い、同じ方向を向こうとしています。
それは、互いへの感謝と思いやりの心によって、導かれる方向です。
そこには、他人を傷つけるようなものはありません。
今の中国政府が、目指している世界ではないのです。
中国は何千年も前から、アジア一帯で崇拝されて来た国です。
日本の文化は、ほとんどが中国から、伝わって来たものだと言っても、過言ではないでしょう。
その栄光は、力で得られるものでは、ありません。
人々の尊敬を集めて、初めて得られるのです。
今の中国の行いは、世界の国々の尊敬を、集められるものではありません。
その真逆です。
しかし、それは中国国民の望むところではないと思います。
中国には尊敬されるべき人々が、たくさんいるでしょう。
そういう人たちが中心となった中国に、世界の尊敬を集められる、本当のリーダー国になって欲しいと、心から願うところです。
今後のコロナウィルス対策
7月になりました。
九州や東海など、あちこちで大雨が降りましたが、幸い洪水や土砂崩れなどの被害は、なかったようです。
このまま何事もなく、梅雨が明けてくれる事を願います。
四国の雨も思ったほどではありませんでした。
愛媛では、新たなコロナ感染の報道もなく、かつての日常が戻って来たかのような、平穏な日々が続いています。
しかし、東京を中心とした関東地域や、北海道などでは、相変わらずコロナ感染が、増加傾向にあるようです。
特に東京と周辺地域は、仕事も生活も一体化している状態です。
地方と比べると、状況をコントロールしづらいと思います。
前回の自粛に伴った、経済的損失を考えると、東京都も簡単に再自粛を、求めるわけにはいきません。
それに緊急宣言をして、再び外出や商売の自粛を求めたところで、コロナウィルスはなくなりません。
現在の状況が、その事を証明しています。
しかし、感染者の増加は明らかなので、放って置くこともできません。
かと言って、どう対処すればいいのかがわからず、国も東京都も途方に暮れているようです。

責任も取れないし、これ以上お金も出せない。
だから、強制的な指示を、出すことはむずかしい。
こんな国や東京都ができるのは、国民・都民の自主的な判断に、すがる事だけでしょう。
愛媛にいると、何も問題が起きていないような、錯覚を覚えます。
でも、東京と他県との移動制限が解除されましたから、いずれ再び愛媛でも、コロナ感染が増えるのでしょう。
世界に目を向けてみると、EUが日本など14カ国からの、渡航制限を解除する事を決めました。
しかし、EU諸国がコロナウィルスから、解放されたわけではありません。
それなのに、自粛制限が解除された事で、ウィルスへの警戒心が、吹っ飛んでしまったような、ヨーロッパの人々の姿が、テレビで紹介されていました。
恐らく、コロナウィルスの感染者は、爆発的に増えるでしょう。
その影響は、当然日本にも届きます。
その時に政府はまた、専門家の人たちの意見を聞くばかりで、右往左往するのでしょうね。
アメリカやブラジルなど、まだまだコロナウィルスが、猛威を振るっている国も、多くあります。
コロナウィルスを封じ込めた、と主張している中国でも、新たなウィルス患者が増えて来ています。
そして今度は、首都北京が、危険な状態にあるようです。

その中国では、豚から新型インフルエンザウィルスが、見つかったそうです。
100%人に感染する型だそうで、誰も免疫を持っていないので、一度広がり始めたら大変な事になると、研究者が警告を発しています。
コロナウィルスは若い人が感染しても、大した症状が出ないと言われています。
しかし、新型インフルエンザウィルスとダブル感染したら、若い人でも命の危険を、伴う事になると思われます。
この新型ウィルスに限らず、今後も人間に感染する、強力なウィルスが出現する可能性は、いつでもあります。
もはや想定外とか、100年に一度などという事は言えません。
いつ、新たなウィルスが発生しても、それに対応できる体制を、調えておく必要があります。
それは人々が外出を自粛しても、生活に困らないような、経済システムの構築です。
そういうシステムは、ウィルスの脅威がない平常時でも、役に立つはずです。

何かで急に仕事ができない状態になっても、生活ができなくなる不安を、抱える必要がなくなるわけです。
つまり、人々の暮らしに寄り添った、思いやりのある政策やシステムが、求められているのです。
それさえあれば、どんなウィルスが現れたとしても、今のような状況にはならないでしょう。
前にも述べましたが、結局ウィルスは、人間社会のいびつさを、浮き彫りにしているだけなのです。
政治家の方たちには、そこに早く気づいて、動いてもらいたいと思います。
白か黒か

人は物事に対して、白か黒かという二者択一を、求めるきらいがあります。
たとえば、敵か味方か。
勝ち組か負け組か。
善か悪か。
争っている人たちに、お前は敵か味方かと問われても、困りますよね。
しかし、争っている人たちは、少しでも自分の勢力が、大きくなるようとします。
そのため、無理矢理にでも仲間を、増やそうとするのです。
意志の強い者は、どちらの味方もしないと、答えるでしょう。
でも、意思の弱い者や、断りにくい立場にいる者は、そうはいきません。
自分の考えとは別に、どちらかの味方である事を、宣言させられるのです。
こういう事は、子供の争いだけでなく、大人の世界でもあります。
選挙や派閥の争いでがそうです。
国同士の関係でも、そんな事がありますよね。
こういう時には、はっきりと自分の考えを、相手に伝えねばなりません。
自分が自分自身でいるために、しっかりした心の強さが、求められます。

勝ち組負け組という考え方は、人生を勝負と見なしています。
人生を謳歌できるのは、勝ち組だけです。
負け組には、惨めな人生しかありません。
それが、このルールに従う人たちの考えです。
このルールに従えば、生まれ育った環境で、既に人生に勝負がついていると、考えたりもするでしょう。
生まれつき大金持ちの人に、貧乏な家に生まれた者が、勝てるわけがないと思うのです。
そうなると残されるのは、似た者同士での争いです。
似た者同士なので、その順位はいつ入れ替わるか、わからないほど不安定です。
この考え方は、大金持ちの家に、生まれなかった事への、諦めや空しさが、根底にあります。
その気持ちをごまかすために、ドングリの背比べの中で、わずかな優越感を、味わおうとするのです。
しかし、勝ち組負け組のルールの下には、本当の幸せはありません。
勝ち組にいても、いつ負け組に落とされるかという、不安がつきまといます。
ずっと勝ち続けていないといけませんから、ストレスがかかります。
ちょっと仕事の流れが変わったり、体調を崩したりしたら、大変です。
勝ち組であるプライドが、負け組に落ちる事を許しませんが、それでも落ちる時は落ちるのです。

そんな人はプライドがある分、ずっと負け組にいる人たちよりも、悲惨でしょう。
とにかく勝ち組負け組という考えには、幸せはないのです。
それは落ち着いて考えれば、誰でもわかる事でしょう。
それなのに、このルールを気にしてしまうのは、何故でしょうか。
それは、自分に自信がなくて、自由に生きているという、実感がないからです。
自分なんかが幸せになる事は、絶対にないだろうと、信じているのです。
勝ち組負け組という考え方に、合点が行ってしまうわけですね。
自由に生きられないと、考えてしまうのは、他の人と同じでないとだめだ、という思いがあるからでしょう。

これは子供の頃から、学校で教え込まれている事です。
また、社会に出てからも、職場で求められます。
だから、自分が好きなように生きるなんて、とんでもない事だと、思いたくなるのです。
でも、人は誰もが自由なのです。
自由は権利だと言う人がいますが、あれは間違っています。
自由は権利ではありません。
自由とは、生きている存在に、初めから備わっている、性質なのです。
権利は奪えますが、性質は奪えません。
権利だと考えるから、奪われたと受け止めるのです。
どんな状況にあっても、あなたは自由です。
あなたが本気で、何かを望めば、他人がそれを力づくで、変える事はできません。
自分のルールで生きている人は、特別な人間のように、思えるかも知れません。
でも、特別な人なんて、一人もいません。
もし、誰かが特別だとしたら、あなただって特別なのです。
自分は自由なんだと、気づく事。
それが勝ち組負け組という、偏った考え方から、抜け出す方法です。

善か悪かと決めつけるのも、よくある事です。
しかし、善か悪かは人によって、判断がわかれます。
それは善悪の基準が、その人の立場によって異なるからです。
人を殺せば、普通は悪と見なされます。
でも、戦争で人を殺せば英雄です。
極悪人は殺されても、仕方がないと考えたりもします。
でも極悪人の生い立ちを知り、極悪人になってしまった経緯を理解すれば、考え方が変わるかも知れません。
善悪を決める時、自分の立場が善になるようにして、決めるのが通常でしょう。
しかし、これでは本当の意味での、善悪を論じる事はできません。
自分の立場を考えずに、善というものをイメージしてみて下さい。
頭に浮かぶのは、感謝と思いやりの心ではないでしょうか。
そう考えれば、悪というのは、感謝と思いやりの心が、欠けている状態だと言えますね。

政治家たちが、よく法律的には問題ないと、逃げ口上を述べます。
そんな彼らには、感謝と思いやりの心など、微塵もないように見えてしまいます。
つまり、そういう政治家たちは、善ではなく悪なのです。
それを判断している私たち自身も、常に善である事はないでしょう。
善であったり、悪であったり、その瞬間瞬間で変わるはずです。
だから、悪い事をした人がいても、その人の全人格を否定するような見方は、するべきではありません。
もちろん、直接悪い事をされた人は、相手をとことん詰りたくなります。
それは人間の反応として、当たり前の事でしょう。
でも、被害を与えた相手の事を、思いやれる人もいます。
本来は憎むべき相手にすら、思いやる気持ちを持つ事は、不可能ではないのです。
善悪を考える時、決して目に見える一面だけを見て、即断しないで下さい。
善に見えるようでも、何かの下心が、隠れているかも知れません。
悪に見えるようでも、そこに思いやれる何かを、見い出せるかも知れません。
単純に、善か悪かと考えるのではなく、人間の心の深さを見るようにして下さい。
これは道徳的な話ではありません。
誰かについて、どう判断するかという事を、話しているのでもありません。
人を善悪で判断するという、安っぽい価値観から、あなた自身を解放するという事なのです。
蓮池公園
もう3年になるでしょうか。
ちょうど今頃、高知県の蓮池公園という所まで、蓮の花を見に行きました。
今と同じ梅雨時だったので、その日は朝から雨が降っていました。
それもバケツをひっくり返したような、土砂降りです。

梅雨なので、雨は覚悟していました。
でも、まさかそれほど降るとは、思っていませんでした。
さすがに中止にした方が、いいのではないかと、私は思いました。
しかし家内が、それでも見に行きたいと言うので、仕方なく土砂降り雨の中、車を出しました。
ほんとに、ものすごい雨でした。
車のワイパーを最速で動かしても、前方がよく見えません。
とにかくスピードを、出さないようにしながら、ゆっくり車を走らせました。
どうして、そこまでして行ったのか。
それは、花の咲き具合のちょうどいい時期と、仕事を休める日が、限られていたからです。
それに蓮の花は朝開いて、昼には閉じてしまうと、聞いていました。
花を見るためには、朝の早いうちに、現地に着いておく必要があったのです。
それで、高知までの移動に3時間と考えて、朝の6時前に自宅を出発しました。
まだ薄暗くて、雨がザアザア降っていました。
天気予報では一日雨です。
これでは、向こうへ着いたところで、花の鑑賞なんか、できるわけがありません。
しかし、現地に着く頃になると、ぴたりと雨がやんだのです。
こんな事もあるものなんだと、とても驚きました。
お陰で雨にも濡れず、無事に蓮を観賞する事ができました

実は高知には、毎月仕事で訪れています。
しかし蓮池公園は、来た事がありませんでした。
正直なところ、あまり期待はしていませんでした。
しかし、その期待は見事に裏切られ、蓮池公園の眺めは、それは見事なものでした。
それに、土砂降りの雨をも止めてしまう、家内の一念にも感心しました。
今年はコロナのお陰で、外出もずっと、自粛が求められて来ました。
その自粛が解かれたので、あちこちへ遠出する人が、たくさんいる事と思います。
きっと蓮池公園へ、蓮を見に行かれた人も、多かったでしょう。
やはり、人はいろんな所を訪れて、普段は触れる機会がないものに、接するのがいいですね。
楽しいですし、気持ちがリフレッシュされます。
人は好奇心の塊です。
刺激があれば、いつもはひっそりしていたはずの、好奇心が大きく膨らみ始めます。
蓮池公園では、いろんな表情の花を、楽しませてもらいました。
他にも、花に集まる虫たちや、葉っぱの上に溜まった水滴の玉、それに水の中の生き物などが見られて、とても面白かったです。
元気で気分のいい時に、こういう物を鑑賞するのは、もちろん楽しいです。
でも、そうではない時に鑑賞しても、きっと気持ちを、和らげてもらえると思います。
何かで悩んでいても、好奇心の方が悩みより大きくなれば、悩みに対する心配は、ずっと小さく抑えられます。
落ち込んでいたとしても、好奇心が元気にしてくれます。
気持ちが塞いでいる時には、少しでも気が引かれるようなものがあれば、そちらへ足を運ぶ事をお勧めします。
気が引かれるというのは、好奇心が癒やしの道を、示そうとしてくれているのです。
その指示に従ったなら、きっとあなたの心の中にも、きれいな蓮の花が咲くことでしょう。
