結婚と幸せ

結婚に幸せを求める人は、多いと思います。
実際、結婚して幸せだと思う人もいます。
でも、結婚して後悔する人もいます。
つまり、結婚したから幸せになれる、というわけではないのです。
そもそも、結婚すれば幸せになれるという、発想自体が間違っています。
何かをすれば、幸せになれるのだとすると、それができない今は、幸せではないということになります。
と言うことは、結婚に幸せを期待する人は、現在の自分は不幸せだ、と感じているのです。
しかし、そういう人は幸せが何であるかを、わかっていません。
幸せは、どこにでもあります。
それに気づけるかどうかだけの問題なのです。

足下に幸せがあるのに、それに気づけない人は、結婚したところで、やっぱり幸せは、見つけられないと思います。
自分が幸せではないと思う人は、自分が恵まれていないと、感じているのです。
だから、恵まれた環境に巡り会えたら、幸せになれると考えるわけです。
お金がないと、幸せになれないと思う人は、経済力や資産のある人との結婚に、期待を寄せます。
自分に取り柄がないと思う人は、特別な技術や能力、地位や肩書きを持っている人に、憧れるでしょう。
日本人のよさを認められない人は、結婚するなら外国人だ、と考えると思います。
でも、そんな理由で結婚相手を選んでも、幸せな結婚にはなりません。
幸せを感じられない人は、不幸せである理由を、見つけるのは得意です。
その得意技で結婚相手の中にも、自分が不幸せになる理由を、いくらでも見つけ出すでしょう。
生活習慣の違い、好みの違い、価値観の違い、生まれ育った環境の違い。
夫婦は元は他人なのですから、いろんな違いがあります。
そういうものは全部、不愉快の元となり、相手を見下す理由になります。
お金や才能などの、自分に欠けているものも、相手との違いです。
でも、これは自分が求めているものだから、構わないのです。
気に入らないのは、自分が求めていない違いです。
だけど相手にすれば、利用できる所だけ利用されて、あとは全否定されるわけですから、たまったものではありません。
必然的に争いが生じ、最終的に結婚は、破局となるでしょう。

相手と自分との違いを認め、それを楽しめる人は、幸せを一つ見つけた、と言えるでしょう。
特に好きになった人との、価値観の違いは、新鮮な刺激になるに、違いありません。
また、互いを大切に、思い合える夫婦であれば、共通した価値観も、持つようになります。
これも当然、幸せを感じさせてくれることです。
幸せな結婚を望むのであれば、独身であるうちに、幸せを感じられるようになることです。
何が幸せなのかを理解して、どんなに小さなことにでも、幸せを見つけられるようになるのです。
そうすれば、結婚生活の中にも、簡単に幸せを、見つけ出せるはずです。
いつでも幸せを、見つけられるのであれば、相手に幸せを、与えてもらう必要がありません。
逆に、自分が見つけた幸せを、相手に分けてあげたくなるでしょう。
そうできることで、また幸せを感じるのです。

あなたが誰かと、一緒になりたいと思う時、その人に何かをしてあげたい、その人を喜ばせたいと考えるでしょうか。
それとも、何かをして欲しい、喜ばせてもらいたいと、期待するのでしょうか。
好きな人に対して、何かをしてあげられる喜びを、噛みしめて欲しいと私は思います。
これは、結婚している人だけの、特権なのです。
一緒にいるからこそ、できる事なのですから。
相手から何かをしてもらおうと、期待していなければ、相手が何かをしてくれた時、それは驚きであり喜びです。
そこには、感謝の気持ちしかありません。
でも、初めから期待していれば、感謝の気持ちが薄れます。
そのうち、してもらうことが当たり前になると、感謝を忘れるようになります。
期待どおりにしてもらえなかったら、腹を立てるようになるでしょう。
誰かに感謝する時、自分にも相手にも喜びが広がります。
感謝とは思いやりに対して起こるものです。
互いに相手に思いやりを持って接すること。
そうすれば、それは感謝という形で戻って来て、それが再び、次の思いやりへとつながって行きます。
この連鎖が尽きることはありません。
そんな夫婦が、幸せな夫婦なのだと、私は思います。
そういう夫婦になるためには、普段から感謝と、思いやりの気持ちを持つ事です。
また、いろんな事に幸せを感じられるように、自分を磨いておく事が大切です。

銀河鉄道の夜
宮沢賢治という方を、ご存知でしょうか。
「銀河鉄道の夜」という物語を、世に出した方だと言えば、うなずく人も多いと思います。
他にも「雨ニモ負ケズ」という詩が有名です。

宮沢賢治は、とても独特な雰囲気の文体を用いる方です。
物語でよく描かれているのは、自然の中の生き物や、田舎の人々です。
個性的な表現の中に、科学的でハイカラな言葉が散りばめられ、何より思いやりのこもった優しさが、文章全体に満ち満ちています。
それは宮沢賢治が、世界や人生について深く考え、貧しく恵まれない人々を励ましたいと、心から願っていたからに違いありません。
宮沢賢治は多くの作品を創っていますが、その中でも、「銀河鉄道の夜」は格別だと思います。
まず、銀河鉄道という言葉が、ずいぶん洒落ていると思いませんか。
当時、宮沢賢治が暮らしていた岩手では、蒸気機関車は時代の最先端の乗り物でした。
蒸気機関車は、遠くにある未知の世界へ向かって、どこまでも自分を運んでくれるような、気分にさせてくれたのでしょう。
そして、今はどこでも見られるわけではなくなった、美しい銀河の夜空。
宮沢賢治が見上げた夜空には、いつも不思議な銀河が、広がっていたのでしょう。
宮沢賢治には、二つ違いの妹がいました。
でも、賢治が26才の時、妹のトシは結核で亡くなります。
可愛がっていた妹の死は、賢治を深い哀しみに追いやりました。
死んだ者がどこへ行くのか、賢治は探求していたようです。
しかし、死者の行き先など、わかるはずもありません。
無限の宇宙を眺めていると、その先に天国があるように、思えたのでしょう。
そこへ行けば、亡くなった妹にも会えると、賢治は考えていたのに違いありません。

「銀河鉄道」とは、祭りの夜に満天の星空を見上げながら、いつしか眠ってしまった主人公のジョバンニが、見た夢の話です。
ジョバンニは親友のカムパネルラと一緒に、銀河鉄道に乗って、宇宙を旅します。
旅の途中で、不思議な人々に出会ったり、神秘的で少し怖い感じの場所に、たどり着いたりします。
ジョバンニは、どこまでもカンパネルラと二人で、旅をしたいと考えていました。
しかし、気がつけばカムパネルラはいなくなり、ジョバンニは独りぼっちになってしまいます。
全てはジョバンニが見た夢でした。
ジョバンニが町へ戻ると、町は大騒ぎでした。
カムパネルラが川で溺れた級友を助けながら、自らは水に沈んだと言うのです。
それはちょうど、ジョバンニがカンパネルラと一緒に、銀河鉄道の旅をする夢を、見ていた時でした。
私がこの物語を読んだのは、まだ学生の時でした。
とても不思議で切なくて、生きているということが、嬉しいのに悲しい、そんな気持ちにさせられました。
人は死んだらどうなるのだろう。
そんなことを真剣に考え始めていた頃でした。
銀河鉄道の夜は、今でも大好きな物語ですが、当時の私に、大きな影響を与えた本の、一つでもありました。
宮沢賢治の深い洞察力と、博学の知識、そしてそれを物語に創り上げる文才は、本当に素晴らしいと、今でも思っています。
ただ、昔この物語を読んだ時と今では、少し受け止め方が違います。
今の私には、銀河鉄道の夜が、宮沢賢治が創作した物語と言うよりも、宮沢賢治の叫びであるような気がするのです。
ずっと苦労をして、悲しみを背負い、貧しい人々のために生きて来て、それでも思ったようにならない苦悩と絶望。
膝折れて、倒れ込んでいまいそうな中、それでも宮沢賢治は、自分を導く光を、感じていたのだと思います。
銀河鉄道の機関車は、その光が差す方向へ向かって、進んでいたのでしょう。
まだ生きている自分は、最後まで機関車に乗ることは、できなかったけれど、最後にはあの機関車に乗って、光の世界へ行けるんだ。
そんな想いを叫んだのが、銀河鉄道の夜ではないか、と感じるのです。

建築物に思うこと2

いい家族に恵まれ、仕事一筋で生きる人が、急に何もかも嫌になってしまう、という事があります。
人間関係でこじれた、というのではありません。
それなのに、好きでやっていたはずのことが、続けられなくなってしまうのです。
ちゃんと家族の大切さは、理解しています。
それでも活躍できなくなるのは、家族とは別の心の基盤が、だめになっているのです。
人間は生きて行く上で、個人的な価値観に加え、社会的な価値観を考慮します。
そうすることで、他人との摩擦を防ぎ、表面的に上手くやっているように、見せるのです。
やりたくないと思う仕事でも、笑顔でこなさなければなりません。
初めはやりたいと思って、始めたことなのに、いつの間にか、やらなければならない状況になっている。
そんなことって、ありませんか。
何とかこなしているので、特に問題はないし、それなりの達成感は得られる。
みんなも頑張っているのだから、自分もこのまま頑張ろう。
そう思って続けていると、心の本音がこらえきれなくなって、ノーを突きつけることがあります。
頭の配線が、切れてしまったみたいになって、全てを拒絶してしまうのです。

本当は、自分は何をしたかったのか。
そこに気づくまで、頭はずっと休息モードです。
人は仕事のために、生きているのではありません。
自分という存在を表現し、それを受け入れてもらえる、仲間を求めているだけです。
仕事こそが自分の生きる道だと、思い込んでいたのに、その仕事ができなくなると、情けなくなって、自分を責めたくなるでしょう。
しかし責めたところで、どうなるものでもありません。
かえって自分を、追い詰めてしまうだけです。
これは自分の本音、本当の想いを、貫けなくなっているのです。
自分の本当の気持ちというのも、心の基盤なのです。
人は自分の気持ちに、従って生きています。
それが、その人の自然な姿なのです。
自分の気持ちに従えない。
自分の本当の気持ちがわからない。
これでは、どう生きていいのか、わからなくなってしまいますね。
基づくべき指標が、ないわけですから。

家族と自分の本音。
どちらも人生を歩む時の、心の基盤であり、拠り所です。
困った時には、そこへ立ち返れば、仕切り直せます。
しかし、家族がいないという不安があったり、自分の本音がわからないと、立ち返りようがありません。
そんな時は、この世界について、深く考えましょう。
世界の中での、自分の立ち位置がわからないから、心が乱れるのです。
これも家の基礎と同じですね。
ほとんどの人に、無視されがちですが、ここの部分が一番重要な、心の基盤なのです。
この世界とは、どのようなものなのか。
そこについての自分の認識を、まず整理します。

何故、自分は生きているのか。
死ぬことの、何を恐れているのか。
何故、自分は人間なのか。
人として生きるとは、どういうことなのか。
あの世はあるのだろうか。
前世は存在するのか。
過去はどこへ行ってしまったのか。
未来はどこから来るのだろう。
子供の頃に考えて、答がわからないまま、放置していた問題ばかりです。
素人が考えても、わかるはずがないと思わないで、できる範囲で考えて下さい。
絶対的な答が、必要なのではありません。
自分なりの解答が得られれば、それでいいのです。
じっくり時間をかけて考えて、情報が足らなければ、調べて下さい。
そうして、これまでと違った世界観や、人生観が得られたならば、成功です。
あなたは、あなたを束縛していた、古い価値観から解放されて、自由の身になれます。
家族がいないことで、悩まなくなるでしょう。
本当の気持ちも、わかるようになります。
その時、あなたは素敵な人生という家を、建てることができるのです。

建築物に思うこと1

アパートを借りる時、建物の外観が、重視されると思います。
自分でローンを組んで、念願の家を建てる時も、やはり外観に力を入れますよね。
自分が暮らす家の見栄えは、とても大切です。
だけど、家の基礎の部分に注目する人は、専門家でない限り、あまり多くないと思います。
大きな建物も小さな家も、基礎がしっかりしていないと、だんだん傾いて来るかも知れません。
大きな地震の時には、倒れてしまう可能性だってあります。
それほど基礎は重要なものです。
だけど、一般の人の注目を浴びることは、まずないと言えるでしょう。
ほとんどの人は、外観の方に気を取られて、足下の基礎になんか、目を向けません。
これは人生とよく似ています。
大抵の人が、人生を生きて行くための、心の拠り所を持っています。
それは家族です。
人生における家族は、建物の基礎部分と同じです。
でも、自分がやっている事で、頭が一杯になっていて、大切な家族の事を、忘れがちになる事が、あるのではないでしょうか。
心の拠り所はずの、家族を顧みないで、仕事や遊びにばかり、意識を向けている人は、少なくないと思います。

不幸にして、家族に恵まれなかった人がいます。
そいういう方たちは、何をしても気持ちが、浮ついてしまうと聞きます。
自分に自信がなく、何だか落ち着かないのです。
ただ生きるだけであれば、家族なんかいなくたって、食べる物さえあれば、生きて行けるでしょう。
しかし、成長するのは、身体だけではありません。
心も成長するのです。
人は家族の中で育ち、一人の人間として、扱われる体験をするのです。
楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立つこと、面白くないこと。
いろんなことを、家族のみんなと体験し、感情を共有するのです。
他の人には、わかってもらえなくても、家族だけは、自分を理解してくれる。
そんな気持ちが、その人の心を、安定させてくれるのです。
幼い頃に家族を失ったり、家族から虐待を受けたりした人は、この基盤がないまま成長し、大人として、扱われるようになります。
それは、まだ泳ぎ方を知らないのに、水の中へ放り込まれるようなものです。
どうすればいいのかわからず、溺れそうになりながら、途方に暮れてしまいます。

自分に居場所なんて、あるわけない。
そう思いながらも、暗闇の中を手探りするように、助けてくれる人を探します。
そうやって、やっと見つけたはずの人を疑ってしまい、自ら居場所をなくしてしまうこともあるのです。
それでも、いい人やいい仲間に巡り会え、ようやく居場所を、見つけた人もいるでしょう。
その人は、そこで人生という家の基礎を築き、素敵な家を建てるのです。
それでも自分には、本当の家族はいないんだと、ふと考える時もあるかも知れません。
そういう時は、突然切ない想いに、襲われるに違いありません。
そうなっては、せっかく見つけたはずの、人生の基盤が、揺らいでしまいます。
でも、それは家族の定義に、問題があるのです。
家族とは何かと考える時、大抵の人は、血が繋がった親子や兄弟などの関係を、考えるでしょう。
あるいは、結婚して配偶者との間にできた、新しい家庭のメンバーを、思い浮かべると思います。
その家族のイメージを、絶対的な真理として受け止めてしまうから、そこから外れてしまった事で、思い悩んでしまうのです。
この問題から抜け出すためには、家族とは何なのかという事を、自分の考えによって、定義し直す必要があるでしょう。
みんな神さま2

私たちが知る宇宙とは、宇宙の心が自身を、具現化した世界です。
この世界に存在するものは、宇宙の心のあらゆる要素が、自らを表したものです。
それがどのようなものであれ、自らを具現化しようとする動きがある時点で、そこに知性が存在している、と言えるでしょう。
そんな様々なタイプの、知性端末を使って、宇宙は具現化した自分自身を探っている。
そう考えると、面白いと思いませんか。
いろんな内視鏡を使って、自分の身体の中や外を、くまなく観察しているような感じです。
あらゆるものは、神が創造したのではありません。
宇宙の心を神とするならば、全てが神の一部であり、表現であり、端末なのです。
あなたも私も、飼っているペットや、庭に植えている草花も、みんな神さまなんです。
あなたについて言えば、神はあなたの身体を通して、自らを体験しているのです。
あなたが感じていることは、神が感じていることです。
楽しい、嬉しい、悲しい、つらい、寂しい、腹立たしい、死にたい。
全部、自分が神であることを忘れた、神さまが感じているのです。
それはつまり、あなたのことです。
神に救いを求めても、仕方がありません。
あなた自身が、神さまだからです。
誰かと誰かが争っていても、二人とも神さまなのです。
争いというものを、二つの立場から、体験しているのです。
人間の立場で考える、善や悪という考え方は、本来の神には関係ありません。
それは人間が勝手に考えた、判断基準に過ぎないからです。
宇宙の心にとっては、善も悪も、一つの表現に過ぎません。
もし、人間が考える悪というものが、宇宙にとって、不要のものであるならば、初めからそんなものは、存在していないでしょう。
しかし、現実に悪は存在します。
それは、その存在が認められているからです。

人類が滅亡の道を、歩んだとしても、そこに神としての、善悪の判断はありません。
あらゆる可能性を、具現化する宇宙にとって、具現化した一つ一つの存在が、そこで何をしようと、お構いなしです。
全ての可能性が、表現されるということは、表現されたものが、何をしようと自由なのです。
具現化したもの同士が衝突しても、宇宙全体としては、そこに一切の制限はありません。
人類が滅亡への道を、歩むのであれば、それは人類が望むことですから、そうなるでしょう。
宇宙はそれを引き止めません。
滅亡を恐れて、神に救いを求めても、宇宙は何もしてくれません。
人間自体が神の具現化なので、人間が決めたことが、神の意思と言えます。
滅亡を逃れたいのであれば、そうすることを決定し、そのように行動することです。
それ以外に、滅亡を逃れる道はありません。
地球の温暖化と、それに伴う大災害、自然破壊、経済の行き詰まり、世界に広がる感染症、少子化、貧困化、差別問題、戦争。
人類の行く末を、不安にさせることばかりです。
このままでは、人類は滅亡するのではないかと、心配になる人も、多いと思います。
しかし、どうすればいいのかわからず、誰もが様々な情勢に、翻弄されるばかりでしょう。
でも、本当にどうすればいいのかが、わからないのでしょうか。
そんなことは、ないはずです。
何故なら、私たちは神さまなんですから。

私たちの中には、無限の可能性があります。
その中から、どの要素を引き出するのか。
つまり私たちが、どんな存在になりたいのか。
それだけの話です。
多くの人が、自分に自信が持てず、責任を逃れたい一心で、物事の決定を、他人に委ねます。
それは自分が、神の知性であることを忘れ、思考を放棄しているわけです。
考えたとしても、自信がないので、行動に移せません。
それは、誰か他の人がやるだろうと、考えてしまうわけです。
でもそれは、人生を放棄することを、自分で決めたのと同じです。
まずは、自分が神の知性であると、理解することです。
そうすれば、自信を持っていろんな問題を、冷静に見つめることが、できるでしょう。
全ては、私たちが望んだことなのです。
目の前に起こっていることを、望まないのであれば、望むものに変えればいいのです。
神の知性で思考すれば、私たちはみんな、元は一つであったことが、わかるでしょう。
受精卵が分裂して、多くの種類の細胞が生まれるように、みんな元は一つの存在だったのです。
多様性を協調へと、向かわせなければ、細胞の集合体である、肉体は滅びます。
人間も多様性を、喜びにつなげなければ、滅亡への道を、歩むことになるでしょう。
個性を発揮しながらも、他の人たちとのつながりを、常に感じていることが、大切です。
私たちは望みさえすれば、今すぐにでも、地上に楽園を築けます。
何故なら、あなたも私も、みんな神さまなのですから。

みんな神さま

私は宇宙にも、心があると考えています。
宇宙の絶対的な真理とは、宇宙の心のことだと思うのです。
何故そう考えるのか。
それは宇宙の一部である、私たちに心があるからです。
人は自分と宇宙を、別のものだと考えがちです。
人間は観察する側、宇宙は観察される側、というような見方です。
しかし、よく考えてみて下さい。
私たちは一人残らず、時空間の一部であり、宇宙の一部なのです。
その私たちに、心があるのです。
宇宙に心があると考える方が、自然ではないでしょうか。
その心は、物質エネルギーには属していません。
ということは、物質エネルギーとは別のエネルギー場が、存在するということです。
私はそれを精神場と呼ぼうと思います。
物質世界というものは、電磁場で構成されています。
電磁場とは、電気のプラスとマイナス、磁気のNとSによって作られる、空間の歪みです。
この歪みによって、引き合ったり反発したりする力が生まれます。
体や物体が、しっかりした形を、維持できている理由を、ご存知でしょうか。
体や物体は、ちょっとやそっとでは、壊れない構造の原子で、構成されているからです。

原子は、プラスに帯電した原子核と、マイナスに帯電している電子が、引き合うことでできています。
電子は原子核の周囲に存在していますので、原子はその表面が、マイナスに帯電しているわけです。
ですから、他の原子が近づくと、互いにマイナスの力で反発し合います。
その結果、私たちは何かに触れる事ができるのです。
スマホに触れられるのは、私たちの手の表面に並ぶ原子と、スマホの表面に並ぶ原子の、マイナスの電荷が、反発しているからです。
つまり、それ以上はお互いに、近づけなくなる所で、手がスマホに触れた、となるわけです。

もし、この原子同士の反発力がなければ、何かに触ろうとしても、手はスカッとその物体を、通り抜けてしまうでしょう。
まるで幽霊になったような感じですね。
このように物質世界は、電磁場の力によって、成立しているのです。
しかし心は、電磁場とは別のエネルギーです。
それが何であるのかを、説明できる科学者はいません。
ですから私は、心が属するエネルギー場を、精神場と呼ぶのです。
精神場は電磁場に働きかけて、物質を形作ったり、何らかの活動を行わせると、私は考えています。
それは私たちの心が、私たちの肉体を、動かすのと同じです。

私たちの肉体を構成している細胞にも、細胞レベルの精神エネルギー、すなわち細胞レベルの心があると思います。
また、その細胞を構成している様々な物質にも、物質レベルの心があるのです。
宇宙全体に満ちた精神場とは、あらゆる存在の心が、混ざったものだと考えられます。
逆に言えば、宇宙の心に存在する、様々な要素が組み合わさることで、いろんなレベルの心が、生まれるのでしょう。
人間に知性があるのは、宇宙の知性が人間という形に、具現化したのだと私は思います。
そして全ての物質は、それぞれのレベルの精神エネルギーが、電磁場を利用して具現化したものと言えるでしょう。
宇宙の心を、神ととらえるならば、私たちは神の知性が、具現化されたものなのです。

しかし、知性があるのは、人間だけではありません。
動物にだって、動物なりの知性があります。
ペットを飼っていたり、動物の飼育をしている人であれば、わかるでしょう。
では、動物以外の生き物には、知性はないのでしょうか。
花は蜜の香りで、虫を引き寄せて、受粉させてもらいます。
研究者はこれを、植物の戦略と表現することがあります。
でも、戦略を立てられるのは、知性です。
植物にも知性があると、言えそうですね。

細菌に抗生物質を与えると、死んでしまいます。
しかし耐性菌と言って、抗生物質を分解する酵素を作るための、遺伝子を持つ細菌がいます。
この細菌はその遺伝子を、抗生物質で死んでしまう細菌たちに、配って広げます。
そうすると、細菌たちはみんな、耐性菌になるのです。
面白いでしょう?
まるで細菌同士で声をかけ合い、助け合っているようです。
細菌にも、知性があるように見えますね。
人は知性を持つための、最低条件として、脳の存在を挙げるでしょう。
しかし、脳は複雑な知性を、表現するのに必要なだけです。
単純な知性の具現化には、恐らく脳は、必要ないのだと思います。
脳のあるないに関わらず、生き物はそれぞれのレベルの、知性を持っているのです。
つまり、全ての存在は神の知性が、具現化したものだと言えるのです。
宇和島の伊達

宇和島は、愛媛県の南西部に位置している、海辺の街です。
この街の名前を、まだ学生だった頃に、父から聞かされた事がありました。
明治24年(1891年)に、訪日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備担当の巡査に、切りつけられるという事件がありました。
これは当然、国際問題です。
当時の日本はロシアに対して、まだ非力でした。
そこで焦った政府は、この巡査を死刑にするよう、司法に迫ったと言います。
しかし、ニコライ2世は負傷しただけで、殺されたわけではありませんでした。
その罪は、法律上は死刑には、該当しませんでした。
当時の裁判官であった児島惟謙は、政府の圧力をはねのけて、巡査に無期懲役を言い渡しました。
これは一般の人間が犯した罪への処罰と、同じだったそうです。
私の父は児島惟謙のことを、宇和島出身の裁判官で、権力に屈せず法を守った、偉い人物だと、語ってくれました。
その時の記憶で、私の中では、宇和島と言えば児島惟謙という、図式になっていました。
ところが、実際に宇和島を訪ねてみると、小さなお城がある城下町でした。
児島惟謙という名前など、どこにも見かけません。
しかも、このお城にいたのは、あの有名な東北の伊達家の者だというから、驚きでした。

伊予宇和島の伊達家初代藩主は、伊達政宗の息子である、伊達秀宗という人でした。
あの正宗の息子かということで、さらに驚かされましたが、東北の伊達家の者が、四国で城を構えているとうことが、何だかとても不思議な感じに思えました。
秀宗は元は、政宗の世継ぎだったらしいのですが、母親は正室ではありませんでした。
その正室に男子が生まれてしまい、秀宗は世継ぎの立場ではなくなりました。
秀宗の居場所がなくなるため、政宗は徳川幕府に、秀宗が独立できるよう嘆願したと言います。
その結果として、秀宗には宇和島の領地が与えられ、この地を治めることになったそうです。
その伊達秀宗が故郷を懐かしみ、職人に作らせた魚の練り物が、今も残っています。
それはじゃこ天という、宇和島名物の食べ物です。
当時と全く同じなのかは、わかりませんが、かつてのお殿さまの好物です。
宇和島へお越しの際は、ぜひご賞味いただき、当時のお殿さまの気持ちを、感じてみて下さい。

宇和島の伊達家は幕末まで存続し、当時の藩主伊達宗城(むねなり)は、薩摩の島津斉彬、福井の松平春獄、土佐の山内容堂と並んで、四賢侯の一人に数えられた、優れた人物でした。
宗城は、先代が行っていた殖産興業策を、受け継いで発展させました。
また、軍備の西洋化による、富国強兵を進めました。
さらに、身分や出自を問わず、才能ある者を誰でも登用したのです。
中でもすごいのは、蒸気船である黒船を、建造するよう命じられた職人が、それを見事に造り上げたと言う話です。
この職人は嘉蔵と言い、仏壇・仏具や提灯を作る仕事をしていました。
とにかく器用だと言うので、蒸気船を作るよう命じられたのでした。
いくら器用だと言っても、船大工でも設計士でもありません。
ただの職人です。
無茶苦茶な話ですが、お殿さまの命令ですから、逆らえません。
結局、嘉蔵は蒸気船を、造ってしまったのです。
その直前に、薩摩が蒸気船を造ったので、国産としては第二号の蒸気船です。
しかし、薩摩が外国人技師を雇って造ったのに対し、宇和島の蒸気船は純国産でした。
この嘉蔵の腕前にも恐れ入りますが、嘉蔵に蒸気船を造るよう命じた、伊達宗城も大した人物です。
意外な所で意外な人物が活躍した町、それが伊予の宇和島なのです。
現実世界2
この世界が現実だと思う理由は、次の三つです。
①五感による安定した持続的な知覚。
②記憶による確認。
③人の一生よりも、長い存在。
でも、この三つの理由があれば、本当にこの世界は現実だと、言えるのでしょうか。
①の理由ですが、リアルな夢では、この世界と同じような、しっかりした知覚があります。
映画のマトリックスで描かれていたように、リアルなバーチャル世界を体験させられると、あたかもそこが現実世界のように、認識してしまうでしょう。

つまり、現実世界の証として、知覚を挙げても、実は証にはならないのです。
体験している世界が、現実かどうかを確認するためには、本物の記憶が必要です。
本物の世界の記憶がなければ、この世界が現実なのかバーチャルなのかを、区別することはできません。
正しい記憶が、世界が現実かどうかを、判断するために必要なのです。
②の理由としても、記憶を挙げました。
しかし問題なのは、私たちが現在持っている記憶が、本当に正しい記憶なのかということなのです。
私の夢の中での経験ですが、私は夢の世界における、記憶がありました。
私は夢の中で、ある状況にいました。
それが、どんな状況だったかは、忘れてしまいました。
その夢の中の私は、その状況が起こるより、ずっと前の事を、思い出しました。
もちろんそれは、その夢の世界での記憶です。
その状況が起こった理由を、私は夢の中で、思い出したわけです。
しかし、その理由としての場面は、その夢では体験していません。
ちょっとわかりにくいですが、たとえば、車で事故を起こす夢だったとしましょう。
見ている夢は、事故の場面です。

自分は事故の場面を見ながら、事故になったのは、家を出る時に、妻と言い争いをしたからだと、その時の事を思い出すのです。
でも夢の中で、妻と言い争う場面はありません。
こんな感じです。
夢の中のことですから、脳が勝手に都合のいい記憶を、創作したのだろうと、考える人はいるでしょう。
私はその意見を、否定するつもりはありません。
でも、それはその人の考えであって、事実だと言い切れるものではないことも、理解しています。
重要なのは、この世界とは別の記憶というものが、存在したということです。
夢の中では、その記憶が本物の記憶なのです。
目覚めた後は、今の記憶が本物です。
しかし、絶対的な意味で、今の記憶が本物だと、断定することはできません。
映画のように何らかの形で、すり込まれた記憶かも知れないのです。
この世界における記憶が、本物でなかったとしても、それを証明することはできません。
それを証明するためには、本当の現実世界における記憶が、必要になります。
その本物の記憶がない限り、ひょっとして、この世界がバーチャルだったとしても、それを見破る術はありません。
次に③についてですが、実際にこの世界が、バーチャルだとすれば、どうでしょうか。
用意された記憶をすり込まれて、バーチャル世界のゲームに、参加していると考えて下さい。
ゲームですから、私たちが登場する前から、世界は存在しています。
同じ理由で、私たちが去った後も、世界は残ります。
つまり③についても、この世界が現実だという、証拠にはならないのです。

もしかしから、人類は集団でバーチャル世界を、体験しているのかも知れません。
そんな馬鹿なと思う人が、ほとんどでしょう。
しかし、そうではないと言い切れるだけの、証拠を示せる人は、いないと思います。
この世界が現実だと考える理由は、そうだと信じる、信念以外にないのです。
現実世界
現実とは何でしょうか。
辞書で調べると、「いま目の前に事実として現れている事柄や状態」とありました。
しかし、この説明は曖昧と言いますか、説明になっていません。
現実とは何なのかという問いは、目の前で起こっていることが、事実であるかどうかを、問うているのです。
つまり、どうやってそれが事実であると、確かめるのかという問題なのです。
目の前にあることが、事実であるという前提で、現実かどうかを決めるのは、質問をはぐらかしているようなものです。
一般的な感覚で、自分が現実世界にいると認識している理由を、挙げてみましょう。
まずは、五感による安定した状況の知覚です。

物に触れれば、それが硬いか柔らかいか、温かいか冷たいか、ざらざらしているのか滑らかなのか、重いのか軽いのか、というような感触が伝わって来ます。
目に見える光景や、耳に聞こえる音も、突然変化したり消えたりすることなく、安定して持続しています。
目を閉じると光景は消えますが、目を開けると、再び同じ光景が見えます。
耳についても、同じことが言えます。
匂いや味も、安定した感覚です。
これらの持続的に安定した感覚が、私たちに世界の存在を認識させ、その世界が本当に存在していると、確信させるわけです。
私たちがこの世界を、現実世界だと考えるのには、もう一つの理由があります。
それは私たちの記憶です。
目を閉じた後、再び目を開けても、そこに同じ世界が存在しています。
それと同じように、私たちが眠りについて、再び目を覚ました後にも、そこに眠る前と同じ世界があるわけです。
眠る前と目が覚めた後の世界が、同じ世界であると理解できるのは、私たちの中に、眠る前の世界の記憶が、残っているからです。

もし、この記憶が残っていなければ、あるいは別の記憶があったなら、目を覚ました人は、自分が違う世界にいると思うでしょう。
実際、認知症になった人で、過去の記憶しか思い出せない人は、現在の自分が置かれた状況が理解できず、困惑してしまいます。
世界が現実だと考える、三つ目の理由は、生と死です。
生き物はこの世界に生まれ、やがては死を迎えます。
それは人間も同じです。
ところが、この世界は私たちが、生まれる前から存在しています。
私たちが死んだ後も、存在し続けます。

自分が死んだ後も、世界が存続しているのか、確認しようがないと考える人も、いるかも知れません。
確かに、自分が死んだら確認ができないでしょう。
しかし、他の人が死んでも、世界は存続しているのです。
そこから自分が死んだ後も、世界はそのまま残っているだろうと、推測できるわけです。
人間が生まれる前から存在し、人間が死んだ後にも存在している。
そういう存在である世界は、存在としては、人間より上位にあると言えます。
自分が実在の存在であるわけですから、それより大きな存在である世界は、間違いなく現実のものだと考えるのです。
いかがですか。
あなたが、この世界を現実だと認識しているのは、こんな理由ではありませんか。
もののけ姫

今治の映画館で、ジブリ作品を上映中なので、昨日、家族と一緒に、もののけ姫を観に行きました。
ちなみに今治は、松山市の北西に隣接しています。
しまなみ海道で本州の広島とつながっている、造船とタオルで有名な町です。
もののけ姫を観たのは久しぶりですが、あの映画は奥が深いですね。
ただ面白いだけの映画とは違います。
宮崎駿監督は、本当にすごい方だと思います。
この作品をご覧になった方は、多いと思いますが、あえて物語の概要を、説明しておきます。
ある日、東国にある村が、祟り神と化した、巨大イノシシに襲われます。
主人公のアシタカは、弓で祟り神と戦い、見事に討ち取りますが、その際に呪いを受けてしまいます。

何故、イノシシが祟り神になってしまったのか。
それを物語るような、鉄の玉がイノシシの死骸から見つかります。
アシタカは呪いを解く方法を探しながら、イノシシが来た西国で、何が起こっているのかを、確かめる旅に出ます。
旅の先でアシタカが知ったのは、虐げられていた女たちが、自由と引き換えに鉄を作るたたら場と、そのたたら場を狙う侍たちの争いでした。
たたら場の者たちは鉄を求めて、いにしえの神が暮らす、山を切り開こうとして、そこに暮らす山の主たちと、争いを繰り広げます。
そこに不老不死を求める帝の命で、生命を司るダイダラボッチの首を狙う、密命団が加わり、争いは二重、三重と絡み合って行きます。
山の主たちも一枚岩ではなく、人間との争いが理由で揉め合い、冷静さを失って行きます。
山の主の一つ、山犬のモロは人間の娘、サンを我が子として育てていました。
そのサンの存在も、山の主たちのいがみ合いの、原因となっています。

アシタカは呪いに苦しみながら、争いを鎮め、平和的な解決を探ろうとします。
しかし、アシタカの声は誰の耳にも届かず、争いは拡大して行き、最終的にダイダラボッチは、首を奪われてしまいます。
首を奪われたダイダラボッチは、首を探し求めて、それまで守って来たはずの森を、崩壊させてします。
アシタカとサンは、ダイダラボッチの首を奪い返し、ダイダラボッチに返します。
しかし、首を取り戻したダイダラボッチは、朝日を浴びて消えてしまいます。
その時に、死んだ山々は生き返り、崩壊した森は蘇ります。
ただ、ダイダラボッチはいなくなり、多くの山の主たちも失われました。
互いに惹かれ合うアシタカとサンは、時々逢う約束を交わして、それぞれ人里と山に別れて、暮らすことになります。
物語は、ざっとこのような感じで、無益で馬鹿げた争いがもたらしたものと、それでも再生される生命を、表現していました。

物語の舞台は、遥か昔の日本のようですが、その頃の時代を借りて、現代の私たちを描いているように見えます。
あるいは、人間というものは昔も今も、中身は何も変わらない、ということなのかも知れません。
争う人々には、それぞれの事情や言い分があります。
しかし、違う立場の者の気持ちを、思いやる姿勢を見せません。
自分の立場を守ることに、終始している姿は、エゴそのものです。
人間と対立する山の主たちは、自然を守る立場に、立っているつもりです。
しかし、イノシシたちが山を荒らすと、山犬はこぼしています。
彼らは自分たちこそ、神を護る存在だと主張しています。
でも、神であるダイダラボッチは、山の主たちのことなど、何とも思っていない様子です。
これは山の主たちの姿を通して、自分こそが神の意思を伝える者だと主張している、多くの宗教関係の教祖や、自分たちこそが自然を守っているのだと訴える、自然保護団体などを表しているように見えます。
自然の生命そのものであるダイダラボッチは、山の主であろうと人間であろうと森の木々であろうと、お構いなしにその命を奪ったり、あるいは命を与えたりしています。
それは自然の本質というものが、様々な考えや理屈を超えたものであることを、示しているのだと思います。
そして、自然と対峙しているつもりの人間も、自然の一部に過ぎないことを、伝えているのでしょう。
死ぬという現象は、命を失う、あるいは命を奪われるということです。
生命そのものであるダイダラボッチには、死ぬという状態はありません。
死ぬことがない代わりに、自然はバランスが崩されると、安定を求めて暴走状態になります。
首を奪われたダイダラボッチが、まさにそれです。

現代社会でも人間が、科学の発展や生活の便利さを口実にして、自然環境を破壊しています。
そのしっぺ返しとして、気候変動、アレルギーや癌などの疾病、食糧危機などの危機に、さらされているのです。
悪いのは人間であっても、一度バランスを崩した自然は、そこに存在する者全員に対して、見境なく牙を剥きます。
そうして多くの命が奪われた後、やがては再び安定を取り戻した自然から、新たな生命の息吹が生まれるのです。
それを人が、どのように判断するかは、関係ありません。
それが自然というものなのです。

アシタカとサンが、人里と山に別れて暮らすのは、惹かれ合う二人が、人間と自然を結びつける、絆の役割を果たすことを、示しています。
ダイダラボッチが朝日に当たって消えたのも、人間が自然を自分たちと別物だと、見なさなくなることを、示唆していると思います。
人は自然の一部です。
たとえ別物に見えたとしても、根っこでつながっているのです。
こういう事を言葉にして、一つ一つ語ったところで、なかなか相手に伝わりません。
話を聴いてもらえたとしても、次の日には忘れられてしまうでしょう。
しかし、宮崎監督はアニメという技法と、綿密に練られた物語を通して、とても多くの深い事柄を、たった二時間弱という時間の中で、世界中の人々に伝えたのです。
この作品は一度観たから、もういいやというレベルのものではありません。
何度観ても、また観てみたいという作品です。
ですから、作品に込められたメッセージは、忘れ去られることなく、人々の心に知らず知らずのうちに、焼き付かれることでしょう。
本当に素晴らしい作品でした。