パラレルワールド
パラレルワールドという言葉を、たまに聞くことがあると思います。
それは私たちが暮らす、この世界とは別の世界が、いくつも存在しているということです。
私たちは世界を、一つの宇宙(ユニバース)と認識しています。
ですから、パラレルワールドとは、無数の宇宙(マルチバース)という事でもあります。

物理学の宇宙論でも、宇宙は一つだけでなく、無限にあると考えられています。
ただ、これらの宇宙は別々の世界なので、一つの宇宙から他の宇宙を、観測できません。
物理学では、観測によって実証されなければ、認められないのです。
では、何故宇宙論では、宇宙が無限にあると、考えられているのでしょうか。
それは計算が、そのような答を、導き出しているからです。

ちょっと話がそれますが、みなさんは数学を、どのように考えていますか。
算数よりも高度な、数字の学問?
受験に出て来る、必須科目?
わけのわからない、複雑な計算のやり方?
私も高校の数学までは、何とかついて行けました。
でも、大学の数学はさっぱりわかりませんでした。
次元が違うと言うのか、世界が違うと言うのでしょうか。
大学の数学は、それまで自分が認識していた、数学のイメージとは、全くかけはなれたものだったのです。
それで私は、数学は凡人にはわからない、高度な数式の学問だと考えていました。
それはそれで、間違った表現ではないと思います。
でも今は、数学に対して、違ったイメージを持っています。
それは宇宙の描写です。
私たちが暮らすこの宇宙には、様々な法則があります。
万有引力の法則もそうですし、エネルギー保存の法則もそうです。
有名な相対性理論や、量子力学なども、宇宙の法則、宇宙の性質について、述べているものです。
そこで使われるのが数学です。
つまり数学というものは、宇宙の性質を、数字や計算式という形で、表現しているのです。
画家は絵画によって、宇宙を表現します。
詩人は言葉によって、宇宙を表現します。
音楽家は音楽によって、宇宙を表現します。
哲学は概念的に、宇宙を語ろうとします。
医学や生物学は、生命の神秘を通して、宇宙を語ろうとします。
物理学は物質の性質を通して、宇宙を語ろうとします。
そして数学は数式によって、宇宙を語り、表現しているのです。

物理学では計算によって、理論を導き出し、実験によって、その正しさを確かめます。
その結果、私たちは遠方の人とも、リアルタイムでやり取りができます。
地球の裏側へも、容易に移動できます。
月へロケットを飛ばし、小惑星や火星の探査までもが、できるようになったのも、正しい理論と正確な計算の賜です。
こういう事が可能になったのは、数学が宇宙を描写できる方法だからです。
芸術家や詩人が、芸術や詩で宇宙を表現するように、数学者は数式で、宇宙を描写できるのです。
一見、複雑に見える計算式は、宇宙の性質を記述した、一種の言語でもあるのです。
その計算式によって、パラレルワールドの存在が、導き出されているのです。
たとえ、それを実証する手段が見つからなくても、パラレルワールドが実在するのは、間違いないでしょう。
確かめようがないものについて語るのは、無意味だと考える人も、いるかも知れません。
でも、決して無意味ではないのです。
世界や私たちの存在を考えるに当たって、世界が一つしかないと考えるのと、世界が無限に存在していると理解するのとでは、考え方が違って来るでしょう。
他にも世界があるならば、そこはどんな世界なのだろうと、誰もが思うに違いありません。
歴史を左右させるような出来事、あるいは個人的な人生の、大きな問題となるもの。
実はそんなものが、世界を無数に、枝分かれさせているのかも知れません。
もしかしたら、絶滅したはずの恐竜たちの世界が、存在している事も有り得ます。
あるいは、今の人類よりも遥かに進化した、異星人のような地球人が、暮らしている可能性もあるでしょう。

案外、UFO に乗っているのは、異世界の地球人なのかも知れませんね。
もし、そうだとすれば、パラレルワールド間を、行き来できるという事です。
科学者や研究者は、何が何でもその方法を、開発してみたいと思うでしょう。
そして、いつかきっと、その方法を見つけることと思います。
その世界観は、地球上の勢力争いのような、ちっぽけでみみっちい思考を、根本から変えてくれる事でしょう。
許すということ その4

人生は一本の道を、歩んで行くようなものです。
でも、あなたが誰かに怒りを感じている間、あなたは前を向いていません。
歩みを止めて立ち止まり、振り返った後ろの道を、いつまでも見つめている状態です。
道の先に、素敵な事が待っていても、立ち止まっていると、そこへたどり着くはできません。
素敵な事に出会えませんから、あなたは人生が台無しにされたと、受け止めてしまいます。
でも、あなたが顔を前へ戻し、後ろを振り返ったりしないで、歩み始めれば、人生は修復されます。

前を向いたあなたの心は、怒りの振動が消えて、本来の状態に戻っています。
相手を許すというのは、相手への執着を捨てて、再び自分の人生を、歩み始める事なのです。
相手を利する意味ではありません。
あなたが相手を許そうと許すまいと、そんな事は相手には関係ありません。
相手を許すという事は、自分自身を癒やすという意味なのです。
自分のために、相手を許す。
つまり、どうでもいい相手への執着を捨て、本来の自分を取り戻す、という事なのです。
それが実際は、なかなかできないと思うかも知れません。
でも、呪文のように唱えてみて下さい。
私は、あいつを許す事に決めた。
もう、あいつに対して腹を立てないし、あいつの事は、どうでもいい。
私は自分の道を、進むだけだ。
いらいらしそうになったら、この言葉を繰り返し、自分自身に宣言するのです。
そうすれば、自分でも驚くほど、気持ちがすっきりして、あなたは怒りから、解放されるでしょう。
できれば、その時に鏡を見て、笑顔を作って下さい。
笑顔を作ったら、できるだけ変な顔の、百面相をしてみて下さい。
そこに小さな子供がいると考え、その子供を笑わせるような、顔をするのです。
そうすれば、あなたの怒りは消え、あなたは相手を、許せるようになっているでしょう。

あなたの心が癒やせるように、もう一言だけ。
私たちが、この世界に生きているのには、意味があります。
その意味は、一人一人違います。
それでも、その意味がとても重要だという事は、全ての人に共通しています。
ですから、存在価値のない者などいないのです。
宇宙にとって、全ての人は分身です。
どんな人でも、宇宙にとっては、意味がある存在なのです。
その事を念頭に置いて、自分が生きる意味を探って下さい。
頭で考えるのではありません。
考えてもわかりません。
これは考えるのではなく、心で感じ取るものなのです。
いろんな所、いろんな場面で、世界を感じて下さい。
もし、自分の意味を感じる事ができたならば、あなたを傷つける者はいなくなります。
体が傷つく事があっても、あなたという存在が、傷つく事はありません。
そして、それこそが本当の、心の癒やしになるのです。

許すということ その3

ほとんどの人が、自分が何のために、この世界に生きているのかを、知りません。
目的もルールも知りませんから、自分にとって都合のいい、目的やルールを作るのです。
そうして、自分のルールに従ってくれる、ゲームの参加者を探すのです。
あなたに嫌な思いをさせた人は、あなたを自分のゲームの中に引き込んで、ゲームを楽しんでいるわけです。
嫌な目に遭い、深く傷ついたあなたは、自信を失い、自分を価値のない存在だと、考えるようになります。
そして、それこそが相手の、望んでいた事なのです。
矛盾するように、聞こえるかも知れませんが、誰かをわざと傷つけるような人は、自分に自信がないのです。
そんな人は、自分に価値があるとは思えず、孤独を感じています。
それは本人にとって、楽しい事ではありません。
それで誰かを傷つけて自信を奪い、孤独を味わわせるのです。
自分は傷つける方ですから、傷つく者よりも優位です。
そうやって、自分に存在価値を、見出そうとするのです。
その時に、一緒に傷つける仲間を作れば、自分は独りぼっちではないと、自分を納得させる事もできます。
傷つけたつもりが、相手が平気であれば、ゲームは終了。
傷つけ作戦は失敗に終わり、ゲームは敗北です。
しかし、相手が傷ついて落ち込んでくれると、作戦は成功、万々歳です。
傷ついた人は自信を失い、孤独に陥ります。
つまり、ゲームのルールに、従ってくれているわけです。
しかも、引き立て役に徹してくれているのです。
こんな嬉しい事はありません。

これが、あなたを傷つけるような人たちが、作り出すゲームなのです。
そしてあなたは、まんまとはめられて、そのゲームに相手の引き立て役として、参加させられたのです。
あなたが落ち込めば落ち込むほど、相手は大喜びをするのです。
馬鹿馬鹿しいと思いませんか。
そう思ったなら、相手に付き合って、怒ったり悲しんだりするのは、やめましょう。
代わりに、こう言えばいいのです。
ざまあみろ!

理屈はわかっても、むりやり相手のゲームに、引き込まれた事への、腹立ちは残るかも知れませんね。
それでは、最後の仕上げです。
相手を許してあげましょう。
と、こう言うと、相手を許すだなんて、とんでもないと、反論されてしまいそうです。
でも、聞いて下さい。
ここで許すというのは、相手の無責任さや暴力的な残忍さ、狡猾さなどを認めて、受け入れるという事ではないのです。
一般的に、許すという言葉から受け止めるイメージは、悪い事をした者が、罰を免れるというものです。
でも私が言う、許すというのは、ちょっと違うのです。
歪んだ価値観、愚かな思考を持ち続ける人は、いずれはそれが原因で、苦しむ事になります。
ただし、苦しむというのは、心の中の様子です。
外見で判断する事はできません。

たとえば、相手がお金持ちになり、多くの取り巻きがいるとします。
一見、権力も金も地位も、手に入れていますから、苦しんでいるとは思えません。
でも、愚かな考えや価値観を持つ事自体、すでに不安におびえているという事なのです。
どんなに仲間がいるように見えても、本人は常に孤独で、誰の事も信用していません。
他人を大切にするという、価値観を持てない者は、自分しか信じられないのです。
仲間に見える者たちも、金や権力目当てに、集まっているだけなのは、わかっています。
だからこそ、お金や物を集める事に執着しますが、どれだけ集めても、不安を満たす事はできません。
いつ裏切られるのかわかりませんし、普段でも陰口を言われていると、疑い続けるでしょう。
また、いずれは訪れるであろう死を、極端に恐れます。
病気になって、体が不自由するようになれば、絶望しかないでしょう。
あなたが呪わなくても、あなたを傷つけるような人は、孤独な地獄に片足を突っ込んでいるようなものです。
いずれ両足を突っ込む事になりますから、放って置けばいいのです。

許すということ その2
さて、それでは今後、傷ついたあなたは、どうすべきなのでしょうか。
一生の間、傷ついた心を抱えながら、苦しまなければならないのでしょうか。
そんな事はありません。
あなたは、この苦しみから逃れられるのであれば、どんな事でもしたいと思うでしょう。
そして、それは可能なのです。
そのためには、あなたの価値観を、変えなければなりません。
あなたの価値観が、あなたを苦しみの中に、縛りつけているからです。
心の傷で苦しむ、あなたの価値観とは、どのようなものでしょうか。
恐らく、あなたは自分の存在を、とても小さく価値のないものと、見ているのだと思います。
自分に自信を失い、自分なんかに普通の暮らしは、訪れないだろうと、決めてかかっています。
本当だったら、今とは違う人生を、送っていたはずなのにと、悔しさで一杯です。
たった一度の人生、やり直しが利かない人生を、台無しにされてしまったと、嘆く思いと、相手を責める気持ちが、繰り返し起こります。
それらの思いが鎮まっている間は、常に虚無がつきまといます。

道端を、よく観察してみて下さい。
コンクリートの隙間に溜まった、土埃の中から、芽を出す草があるでしょう。
自分で望んで、そんな所に根を、下ろしたわけではありません。
たまたま種が落ちた場所が、そこだったのです。
それでも、草は精一杯生長しようとします。
恵まれた土地に、生える仲間のようには、大きくはなれません。
それでも、太陽に向かって精一杯伸び、小さいながらも花を咲かせます。
誰も見てくれないかも知れません。
虫も飛んで来てくれないかも知れません。
それでも草は、懸命に花を咲かせています。
人間も同じです。
どんなにひどい環境に置かれようとも、人間は人間なのです。
人として育ち、人としての喜びを、花咲かせることができるのです。
条件の悪い所でも、草花が生長し、花を咲かせることができるのは、何故でしょうか。
それが、草花の本来の姿だからです。
生長して花を咲かせるという、草花の本質にだけ、従って生きているからです。
では、あなたが人として、本来の人生を取り戻すためには、どうすればいいのでしょう。
身近に、あなたを傷つける要因があるのなら、そこから距離を置くのが一番です。
しかし、嫌なものから逃げるという、見方をしてはいけません。
スギ花粉やハウスダストなど、アレルギーを引き起こす、アレルゲンがある所から、ない所へ避難するぐらいに、考えるのです。

嫌なものから逃げる、と考えてしまうと、離れた先でも、嫌なものが頭から離れません。
つい嫌なものの事を考えてしまうと、怒りや悲しみの発作を、起こしてしまいます。
その点、アレルゲンから離れたと考えていれば、気分はかなり楽になるでしょう。
花粉症の人が、スギ花粉がない外国へ行くと、花粉症の症状は起こりません。
そんな時に、わざわざ花粉症で大変だった事を、思い出す人はいません。
思い出したところで、ただの花粉ですから、症状が出る事もないのです。
だから、嫌な相手のことも、花粉と同じだと考えるのです。
実際、愚かな人というのは、その程度のものなのです。
あなたが心の中で、相手を悪魔のように受け止めるから、離れていても苦しむのです。
でも実際の相手は、ただの愚かな人間に過ぎません。
あなたにとって、何の価値もありませんから、考えるだけ無駄な存在です。
それでも、傷ついた心が相手の事を、思い出させるという事はあると思います。
そんな時は、さらに価値観を変えましょう。
自分にとって、世界は孤独で不安に満ちていると、あなたは考えているに違いありません。
でも、それは事実なのではなく、そう思い込まされているだけなのです。

許すということ その1

嫌な事、腹が立つ事ってありますよね。
それが一時的で、ささいな事であれば、問題はありません。
でも、持続的であったり、腹に据えかねるほどのものであれば、事情が違います。
問題は現在進行形となって、あなたの気分を害し続けるでしょう。
この時、あなたの心は文字通り、怒りに打ち震えます。
怒りの振動の幅が、小さいうちは、まだ耐えられます。
しかし、振動の幅が極端に大きくなると、あなたは爆発するでしょう。
爆発する事で問題が解決すれば、あなたの心は、穏やかな状態に戻れます。
でも大概の場合、爆発する事で問題はこじれ、新たな問題が生じたりして、あなたの心は疲弊するに、違いありません。
心の傷は悪化して、怒りの振動に、悲しみの振動が加わります。
その状態が続くと、傷はさらに悪化して、今度は絶望や不安、恐れ、孤独などの、負の感情の振動が、現れるようになります。
まるで体の傷のように、傷口にいろんな菌が入り込んで、化膿して行くみたいです。

心がこういう状態の時、あなたは相手に対して、強い怒りを覚え、その相手を絶対に許さないと思うでしょう。
その相手を呪い、相手がひどい目に遭う事を、願います。
ところが実際は、なかなかそうはなりません。
あなたがどう思っていようと、相手は平気な顔をしています。
その事が、余計にあなたを怒らせ、苦しめる事になります。
初めの怒りは、相手の態度や行動に、対するものです。
そこに、平穏な生活を一変させられた事への、怒りが加わります。
それなのに、相手は一見楽しげに、暮らしているように見えるわけです。
これもまた、怒りを誘うでしょうね。
さらに、こういう状況をどうにもできない、自分への情けなさも、怒りにつながります。
全てが嫌になったあなたは、相手から離れようとするでしょう。
そうする事で、相手からの直接の刺激は、なくなります。
それで幾分、楽になりますが、心に生じた様々な振動は、強くなったり弱くなったりを、繰り返しながら、依然として残ります。
忘れたように思えても、ふとした拍子に、怒りや悲しみが、突然湧き起こる事もあります。
タイムスリップをしたかのように、過去の感情が再び、今の心を大きく揺さぶります。
相手が目の前にいないというのに、心は怒りや悲しみで、一杯になるのです。
自分の心の傷は癒えないのに、相手は自分に詫びる事もなく、平穏な暮らしを送っているのかと思うと、無性に腹が立って来ます。
でも、相手が現れて土下座をしたとしても、とても許せる気持ちには、ならないでしょう。
そんな事をされたところで、自分の心の傷が、癒えるわけではないからです。

おめでとう 照ノ富士関

大相撲7月場所で、元大関で東前頭17枚目の、照ノ富士が優勝しました。
14年春場所新入幕した翌年には、大関昇進した照ノ富士ですが、膝の怪我に病気が重なり、18年には番付が、幕下まで下がりました。
その後、休場が続き、19年春場所には序二段にまで、番付を落としました。
体力も落ち、何度も相撲を辞めようと、考えたと言います。
しかし、その都度親方になだめられ、何とか辞めずに、続けて来たそうです。
そして気持ちを切り換え、再び身体を鍛え直して、徐々に番付を上げて行き、今日、幕内優勝を果たしました。
本当に立派なことだと思います。
落ちる所まで落ち、そこから這い上がって来て、優勝を果たした照ノ富士の頑張りは、多くの人を勇気づけたことでしょう。
大関だった頃の照ノ富士は、酒を浴びるように飲み、健康のことなど、ほとんど考えていなかったそうです。
病気の治療中にも、お酒を完全に断つことは、できなかったと言いますが、気持ちを入れ替えてからは、一切飲むことをやめたそうです。
そうして病気を克服し、体力を取り戻すことで、健康の大切さを実感した照ノ富士は、他にも大切なことに気づいたと言います。
それは、本当に困っていた時に、誰が一緒にいてくれたか、ということです。
相撲を辞めようと思うほど、落ち込んでいた時に、周囲の人々が、ずっと支えて励ましてくれていた。
そのことに照ノ富士関は、とても感謝し、その人たちのためにも、もう一度頑張ろうと思ったそうです。
もし照ノ富士関が、かつて大関になった勢いで、横綱になっていたとしたら、どうだったでしょう。
自分は強いから、横綱になれた。
強さこそが全てだ。
そう思い込んでいたかも知れません。
しかし、相撲人生を諦めるような苦難に遭い、照ノ富士関は、今の心境にたどり着いたのです。
照ノ富士関が相撲を諦めていたら、周囲の人々に支えられていた事に、気がつかなかったかも知れません。
そうなれば、絶望と悔恨と諦めに満ちた、人生を送る事になったでしょう。
再び頑張ると決めて、それをやり通した強い意志が、照ノ富士関を気づきの人生へと、導いてくれたのです。
人生は、好きなことをやっていたとしても、必ず壁やスランプのようなものが、立ちはだかることがあります。
しかし、諦めずにに頑張り続けたら、再び道が見えて来るのです。
そのことを照ノ富士関は、身をもって示してくれました。
本当に素晴らしいし、感謝の気持ちで一杯になりました。
これからも頑張って、ぜひとも横綱になってもらいたいと思います。
照ノ富士関、本当におめでとうございました。
心を一つに

8月になりました。
すっかり梅雨も明けて、夏の青空が広がっています。
こんな空を眺めていると、どこかへ出かけたくなってしまいます。
でもコロナウィルスが、広がりを見せてる今は、出かける意欲がなくなりますね。
具合が悪いのに出かけて行き、あとでコロナに感染している事が判明した。
そんな報道を聞くと、腹が立つと言うより、悲しくなります。
検査も100%ではありませんから、本当は陽性でも、陰性に出ることがあります。
ですから症状があれば、コロナに感染していると想定して、行動する必要があります。
それなのに、症状があるのがわかっていて、他の人がいる所へ出て行くというのは、あまりにも無責任で、あまりにも身勝手です。
症状がないから、自分は大丈夫。
あるいは、軽い症状があるのに、それを症状だと理解していない。
そんな人が、多くいるようです。
こういう人たちは、自分は感染していないと確信していますから、悪気なく出かけたり、帰省したりして、ウィルスを広げてしまいます。

このことを考えると、いくら自分が元気でも、できるだけ人混みに行くことは避け、帰省や食事会も、遠慮する心構えが必要でしょう。
自分たちで、どのように行動するかを、責任を持って決めるよう心がけること。
そうすれば、Go To キャンペーンのような、タイミングを考えない、愚かな政策が実行されても、問題は起こりません。
みんなが、それに乗らなければいいのです。
政府が旅行を勧めたから、遊びに出かけただけだと、言い訳をしても仕方がありません。
それは政府に責任を押しつけて、自分の責任を放棄しているのです。
そんな人たちが、誰かにウィルスを、感染させてしまうのは、とても残念なことです。
でも、その事よりも、その無責任な姿勢に、人々は怒りや悲しみを覚えるわけです。
こういう方たちに、ネットなどを通して多くの人が、非難や中傷を浴びせかけるのは、みなさん、ご存知のことでしょう。
また、感染を恐れるがために、県外ナンバーの車を見つけると、その車に対して攻撃的な態度を見せたり、嫌がらせをするということもありますよね。
その人が、同じ県内で暮らしている人であっても、お構いなしに、出て行けと言ったりします。
感染への不安や、好い加減なことをする人に対する腹立ちは、理解できます。
しかし、度を過ぎた個人攻撃や、その人の家族や職場まで、攻撃するようなことは、絶対にやめなければなりません。
大切なことは、好い加減な人がいたら、その人に自分がしたことを、理解させることです。
本人に反省させ、他人を思いやるように、考え方を変えさせることなのです。
感染したことを公表したら、バッシングを受けて、家族や職場までもが、ひどい目に遭わされる。
そう思ったら、感染が疑われる他の人は、検査もしないまま、自分の症状を隠し通そうとするでしょう。
そうなれば、わからない所で、感染はどんどん広がって行きます。

外出を自粛してくれるなら、まだいいのですが、自粛してくれるとは限りません。
感染疑いを隠しているので、捕まえて隔離することは不可能です。
本来であれば、国や自治体が、毅然とした態度を、見せるべきなのです。
感染者のプライバシーは守りながら、非常識な態度を見せる感染者には、その責任を理解させることを、きちんとやらねばなりません。
ただ、ホテルや病院に隔離する、というだけではだめです。
感染について理解できていない人には、ちゃんと理解させるという事を、国民に示さないといけません。
それをしないから、人々は無責任な行動に腹を立て、その無責任さに対して、自分たちが鉄槌を下してやろうなどと、考える人が出て来るのです。
この人たちは、自分は正義を貫いていると、信じているのでしょう。
でも、やっていることは犯罪です。
感染拡大を防ぐという意味でも、無意味どころか、かえって逆効果です。
バッシングを繰り返す人は、世の中を正すつもりが、バッシングそのものが、目的になって行きます。
そして、毎日バッシングの獲物を、探し回るようになるのです。
今は、みんなが一つに、ならねばならない時なのです。
みんなが思いやりによって、心を一つにする必要があるのです。
そうしなければ、この難局を乗り越えることはできません。

体調を壊して、熱が出たり、お腹が痛くなったりしたとしましょう。
たいていの人は、解熱剤や胃薬などを、飲もうとします。
それで症状が軽減すれば、一安心です。
だけど、体調を壊した本当の理由を探って、そこに対処しなければ、本当の治療にはなりません。
軽減したように見えても、症状は治りきらず、いつまでもだらだらと続きます。
それと一緒で、コロナ騒ぎというのは、病んだ社会が出している、うめき声なのです。
今は世界中が、そのうめき声を抑えようと、必死になっている状態です。
でも、本当の病巣部を見つけ出して、適切な処理を施さない限り、うめき声はいつまでも続くでしょう。
では、その病巣部とは、どんなものなのでしょうか。
それは思いやりの欠如です。
もちろん、個人的には思いやりに満ちた人は、たくさんいます。
しかし、社会という広い範囲で見るならば、思いやりに欠けていると、言わざるを得ません。
民主主義という言葉も空しく、この社会は権力を握っている者たちが、自分たちに都合のいいように支配しています。
その結果、冨は一部の者たちに集中し、ほとんどの人たちは、困難な暮らしを強いられているのです。
今の社会は、この権力者たちが作ったものですから、思いやりなどありません。
思いやりがあるように見せかけますが、実際は大した助けになりません。
あるいは、権力者たちに協力する者たちにとっては、思いやりがあるような、仕組みでしょう。
思いやりがない世の中だから、一般の人たちの中にも、それが当たり前だと受け取って、他人に平気でつらく当たる人が、出て来るのです。
しかし、そのような人たちも、自分たちが騙されていることに、気がつく時が来たのです。

今は、みんなが心を一つにする時です。
コロナウィルスは、そのことを私たちに、教えてくれています。
政府が何を言おうとも、思いやりの気持ちに基づいて、自らの考えで行動しましょう。
ベーシックインカム その後
コロナ惨禍の中、スペインは貧困者に限っての、ベーシックインカムを導入しました。
それでも、まだコロナ騒ぎは落ち着かず、失業率も高いまま続いていると言います。
しかし、この状況はベーシックインカムを、否定的に見る理由にはなりません。
国や企業が混乱している状況の中で、これまでどおりの仕事を求めることは、むずかしいのです。
重要なことは、そんな状況の中においてでも、貧困者の生活が保障され、将来への希望を夢見るチャンスが、与えられているということです。
仕事というものは、世の中の需要に対して、必要なものを供給できるもの、でなければなりません。
需要に対して、供給が過剰になると、その業界では、潰れる会社が出て来ます。
資金のある所、力の強い所が生き残るわけですが、そういう大きな会社でさえ、市場そのものが縮小すれば、やがては行き詰まってしまいます。
どの時代もそうでしょうが、本当に生き残れる企業というのは、世の中の新たな需要を見出し、それに対する供給を、提供できる所なのです。
コロナウィルスをきっかけにして、世界中の様子が変わりました。
人々の価値観も大きく変化しており、もはやコロナ騒ぎ以前に、戻ることは不可能でしょう。
それはつまり、人々の需要が大きく変わったことを、意味しています。
既存の企業の価値観では、それに応えることはできません。
そういう企業は、人員を整理して人件費を削り、それで何とかしのごうとするでしょう。
そんな企業を頼って、失業率を改善させようという考えは、間違っています。
今、3密を避けたり、移動をしなくて済む、IT関連のシステムが、もてはやされています。
IT関連企業以外の会社は、ダメージからの回復が、困難なように言われています。
それは世の中の変化に、それらの会社が、ついて行けていないということです。
いつの世も、潰れる企業や、だめになる仕事はあるものです。
今回、潰れる企業が多数出て、失業者が増えたとしても、それは仕方がないことでしょう。
しかし、ここは嘆くところではありません。
新たな仕事を創り出す時なのです。
自分たちが困っているのなら、どういうサービスが求められているかが、わかりやすいはずです。
そして、できる範囲で、人々の求めに応じる仕事を、新たに生み出して行くのです。
生活に困窮しているのであれば、仕事は生活費の確保が、目的になるでしょう。
しかし、ベーシックインカムなどで、最低限の生活が保障されるのであれば、純粋に人々の求めに応じた仕事、自分の性に合った仕事を、始めることができます。
スペインでこうした動きが、出て来るまでには、まだもう少し時間が必要です。
必ずいい方向へ動き出しますから、長い目で見守りたいと思います。
一方で、とても期待を寄せたくなる、記事がありました。
ツイッターCEOのジャック・ドーシー氏が、アメリカの15都市の市長が作る団体、メイヤーズ・フォー・ア・ギャランティード・インカムに、300万ドル(約3億2100万円)を提供すると発表したそうです。
この市長たちは、ベーシックインカムを導入して、人々を貧困から救い、コロナウイルスによる経済的打撃や、失業の影響を和らげるという、実証実験を計画しています。
ジャック・ドーシー氏は、この計画に資金を提供したわけです。
これはとても素晴らしいことです。
特にアメリカで、このような動きがあったことや、動きを起こしているのが、多くの市長やツイッターCEOであることが、驚きでもあり、期待感を持たせてくれます。
連邦議員の中にも、ベーシックインカムに、賛同している方がいるそうです。
ツイッターCEOが協力することで、アメリカにいる多くの大富豪が、セレブとしての価値を、その品格に求めるようになるでしょう。
そして、自分たちは世界を変える力を、持っているという事に、気づくのです。
そうなれば、ベーシックインカムへの資金は、急速に膨らんで行きます。
資本主義の象徴であるアメリカで、ベーシックインカムを、推し進める動きが広がれば、その影響は、世界中へと広がるでしょう。
また、アメリカのように裕福ではないスペインでも、ベーシックインカムが成功すれば、国が裕福かどうかにかかわらず、ベーシックインカムは広がって行くと思います。
資金が足らない国には、資金がある国が、見返りを求めずに援助するでしょう。
その時には、国境線は意味を持たなくなり、人々は地球人としての、自覚を持つことになるのです。
地球に暮らす人類の意識は、確実に変わりつつあります。
初めは時間がかかるように、見えるでしょう。
しかし、ある程度の広がりを見せた後、新しい価値観は一気に、世界中の古い価値観と、入れ替わると思います。
未来を作るのはあなた

今日、九州北部と中国地方、そして四国が梅雨明けしました。
いつもと比べると、かなり長い梅雨でしたが、ようやく夏の始まりです。
とは言っても、すぐにお盆になります。
お盆が過ぎると、もう夏も終わり。
梅雨が長かった分、今年の夏は短いですね。
その上、コロナが再び広がりを、見せていますから、外に遊びに出ることも、はばかられます。
それに子供たちは、コロナ騒ぎで授業が受けられなかった分、夏休みが短縮されるそうです。
これでは、ますます夏を感じる期間が、短くなるでしょう。
それにしても、去年の今頃、一年後に日本や世界が、このような状態になると、誰が予想できたでしょうか。
本来であれば今頃、世界は東京オリンピックに沸き、日本は大勢の外国人客で、賑わっていたはずです。
それが、オリンピックは一年延期。
外国の訪日客のほとんどは、入国が制限されて、日本から外国人観光客の姿が消えました。
コロナウィルスの勢いは止まらず、収束しそうに見えた国でも、再びコロナが広がり始めています。
以前のように、外国人観光客や外国人労働者が、訪日できるようになる日は、まだまだ先のようですし、恐らくオリンピックも中止になるでしょう。
しかし、一年後の今頃、訪日客が戻らずオリンピックが中止、というだけで済むとは思えません。
去年、コロナ騒ぎが予想できなかったのと同じく、来年の世界は、誰も予想できないような状況に、陥っていると思います。

昨日、台湾の李登輝元総統が亡くなりました。
97歳だったそうです。
親日家の元総統は、台湾を民主化させた方です。
この人がいなければ、今の台湾はなかったと言っても、過言ではないでしょう。
その死は多くの人に、悲しみを与えたことと思います。
でもこの事は、一つの時代の終わりを象徴すると同時に、今後は自分たちの力で、未来を勝ち取るようにという、元総統のメッセージのようにも思われます。
そして、このメッセージは台湾の人々だけでなく、私たち日本人、そして世界の人々に向けても、発せられたように感じられます。
誰かの指示を待ったり、誰かの力を当てにするのではなく、自分たちで考え、自分たちで未来を作る。
それが、これからの世界に、求められている事なのでしょう。
そのためには、何がいい事で、何が悪い事なのか、見極める目を育てる必要があります。
コロナウィルスによる混乱が続けば、世界規模で経済活動は、停滞してしまいます。
いろいろ自粛や制限が、求められるでしょう。
しかし、際限なく耐え忍ぶという事は、できるわけがありません。
コロナだけでも、苦しい状況が続きます。
そこへ自然災害や人種差別、貧富の差などによる騒動、米中関係を中心とした、国家間の争いなど、今も目にする多くの問題が、幾重にも重なるわけです。
抑圧された人々の怒りが、いつ大爆発しても、不思議ではありません。
国民の怒りが爆発することで、どこかの国で政権が崩壊するような事態が、起こることも考えられます。
それも、もしかしたら複数の国で、起こるかも知れません。
どの国の政権も、国民の怒りをそらせようと、問題を他国のせいにしたり、戦争寸前の衝突をしようとする事も考えられます。
その時に、国民が政権の言い分に乗せられてしまうと、世界は危機的状況を迎えるでしょう。
しかし、国民が問題の本質を見逃さず、そのような政権を、打倒する方向へ動けば、世界は見せかけの平和とは全く異なる、真の平和を求めるようになると思います。
具体的な事は、何もわかりません。
でも、どんな事が起こったとしても、国民の意識がしっかりしていれば、決して悪い方向には、行かないでしょう。
国や世界が、どの方向へ向かうのかは、私たち一人一人の意識にかかっているのです。
何かが起きてから、どうしようかと慌てて考えるのでは、間に合いません。
今のうちから、世の中をいい方向へ変えるために、どうするのかという事を、政治家や学者たちに任せずに、自分で考えておく事が肝要だと思います。
驚きの黒い雨訴訟

広島に原子爆弾が投下された後、放射性物質を含んだ黒い雨が、広島県内に降りました。
その雨を浴びたり、雨に汚染された水や、野菜を口にしたことで、被爆した人たちが、被爆者手帳の交付を、求めて起こした訴訟が、黒い雨訴訟と呼ばれるものです。
その訴訟の広島地裁判決が、今日下されました。
訴えていたのは、70~90代の男女84人(うち9人は死亡)だそうです。
国は黒い雨が降った範囲の内、大雨が降った地域を選定しました。
そして、その地域内で、黒い雨を浴びた住民については、無料で健康診断を行いました。
その中で、癌や白内障などの、国が指定した疾病と診断された者には、被爆者健康手帳を交付しました。
被爆者健康手帳を交付されると、医療費が原則無料となります。
しかし、大雨地域と認定された所以外で、黒い雨に濡れた者は、別扱いされたそうです。
被爆によるものと思われる症状が出たり、病気になっても、被爆者として認定されず、被爆者健康手帳を、交付されなかったと言います。
この方たちが具合が悪くなっても、医療費は無料になりません。
境界線のこちらと、向こうにいるというだけで、一方は医療費が無料とされ、もう一方は自己負担を求められるのです。
この理不尽に、耐えきれなくなった方たちが、2015~18年に提訴して、この訴訟を起こしました。
原爆が投下された1945年から、実に70年が経ってからのことです。
それまでこの方たちは、ずっと我慢を強いられて来たのです。
そして、初めの提訴から5年目の今日、ようやく地裁の判決が出ました。
結果は、訴えが全面的に認められた、原告の勝利です。
よかったよかったと思って、話を聴いていた私は、被告が誰なのかを知って驚きました。
当然、被告は国だと思っていたのです。
しかし、被告になっていたのは、広島県と広島市でした。
そこで、この訴訟について書かれた記事を、詳しく調べてみました。
すると、被爆者健康手帳の交付対象となる、地域を決めたのは国でした。
広島県と広島市は、国からの法定受託事務として、実務を担わされていたようです。
つまり、国が決めた規定に基づいて、手帳の交付という事務作業を、広島県と広島市が、執り行っていたわけです。
そして広島県と広島市は、国の規定に基づき、大雨地域にいなかった者の、手帳交付の申請を却下していたわけです。
一方で、広島市は大雨地域が決められてから、このエリアを拡大するよう、国に働きかけて来たと言います。
それは大雨地域以外にも、被爆者がいると認識していたからです。
それなのに、その人たちが手帳の交付を申請すると、それを拒んだわけですね。
そこのところが、私はどうも合点が行きません。
市の言い分としては、自分たちは市民の立場に、寄り添って来たつもりだけれど、市の立場上、国が決めた基準に基づいて、動くしかないという事なのでしょう。
県が手帳の交付を、受け付けなかったのも、同じ理由なのだと思います。
ただ県は市のように、手帳交付の対象地域の拡大を、国に求めてはいなかったようなので、市ほどは被爆住民の立場に、寄り添ってはいなかった、と言えるでしょう。
それにしても、矛盾を感じてしまうのは、私だけではないと思います。

県も市も対外的に、原爆で被爆した事をアピールして、その悲惨さを二度と繰り返さないようにと、訴え続けていたはずです。
それなのに、自分たちは被爆に苦しむ、住民の訴えに対して、耳を塞いでいるわけです。
こういう姿を見せられると、毎年8月に行われる、あのイベントは何なのだろう、と考えてしまいます。
本気で原爆の悲惨さを、訴えていたわけではなく、そうする事で単に広島の名前を、世界に知ってもらおうと、していただけなのかと疑いたくなります。
でも、もちろん戦争の愚かさ、原爆の悲惨さを、本気で世に訴えている人々は、いるわけです。
実際に、つらく苦しい体験をしながら、生き延びて来た方たちや、その方たちの実情を知って、自分たちも力になりたいと、心から願った人たちがいるのです。
その人たちの想いを考えると、広島県と広島市が、被爆者たちに取って来た態度というのは、裏切り以外の何物でもないでしょう。
手帳交付地域の拡大を、国に訴えなかった広島県は、話になりません。
しかし、訴えを続けて来た広島市も、被爆者への具体的な救いの手を、差し伸べなかった点では同罪です。
だからこそ県のみならず、市までもが被告にされてしまったのだと思います。

自分に子供が二人いたとしましょう。
そのどちらもが、国の政策が原因で、不治の病になったと考えて下さい。
国は一人の子供については、保証をすると言います。
でも、もう一人の子供については、国に責任があるとは言えないとして、何の保証もしません。
あなたは、どうしますか。
一応、国に文句は言ったけれど、国が一つも動いてくれない。
だから、お前は諦めてくれと、保証をされない子供に言いますか。
私ならば、国を動かす努力は続けながら、保証をされない子供の力になります。
保証をされないがために、生活に困るのであれば、躊躇なく生活支援をします。
親であれば、家族であれば、当然だと思います。
県や市が、住民を家族のように考えているのならば、住民に代わって、国に対する訴訟を起こすべきでしょう。
また、国が被害者健康手帳の交付を認めないため、交付ができないと言うのであれば、その分の保障を、県や市が独自に行うべきだと思います。
大切なのは、苦しむ人たちの立場に、立つということです。
被爆で身体を壊すのもつらいことですが、自分たちがのけ者にされていると思わされるのも、とても悲しくつらいことです。
きっと、被爆で苦しむ以上に、つらい思いをされたのだと思います。
戦争が終わって何十年も経つ内に、被爆地域の行政に関わる人々さえもが、被爆を他人事のように、受け止めるようになったということでしょうか。

それにしても、いつものことながら、腹が立つのが、国の姿勢です。
国民を何だと思っているのでしょうか。
税金さえむしり取ってしまえば、死のうが苦しもうが、関係ないという事なのでしょうか。
恐らく、そうなのだろうという事は、今のコロナ騒ぎにおける、政府の動きを見ていると、よくわかります。
国民の立場に立った政策など、何一つありません。
一応体裁だけ整えたような、政策ばかりです。
強調するのは、どれだけ多くのお金を、使ったかという事だけです。
どれだけ国民の気持ちに添った、政策をしたかという事は、一つも言えません。
しかも、じゃぶじゃぶ無駄に使うお金は、全て国民の血税です。
今は各都道府県の知事の、聡明さが求められています。
国には何も期待できないと、ほとんどの国民が、考えているでしょう。
実際、優秀な知事は、県内外から称賛されています。
広島の知事や市長も、反核を訴えるパフォーマンスもいいですが、もっと違う所で人々から称賛されるような、リーダーシップを取って欲しいと思います。