レッテルを貼るな その5
多くの人は、植物には意識がないと信じています。
その理由は、動物のような脳がないからです。
植物に意識がないのですから、鉱物や水、空気などに意識があるなど、思いつきもしません。
でも、本当にそうなのでしょうか。
多くの脳の研究者は、脳が意識を創っていると信じています。
それが研究の基盤になっていますから、脳と意識は同じではない、という考えは受け付けません。
意識についての説明も、脳の機能として語ろうとしますし、脳のどの部分が、意識のどの部分と関係があるとわかれば、それで全てを説明できたような気になってしまいます。
でも、いくら脳と意識の関係を説明したところで、それは意識そのものの説明にはならないのです。
彼らは意識について、自分なりの解釈に基づいたレッテルを貼り付けます。
専門家と呼ばれる人たちが貼るレッテルですから、多くの一般の人たちは、それを素直に受け入れてしまいます。
しかし、専門家が何でもわかっているのではなく、ここまでは事実であっても、ここから先は彼らの推測に過ぎない、という見方ができるようになれば、彼らが語ることは、彼らのレッテルの説明であるとわかるでしょう。
それは真実を語るものではないのです。
何が真実なのか。
それは自分で考えて、答えを導き出すものです。
誰かに任せるものではありません。
意識あるいは心を持つ人間が、自然の一部であり、宇宙の一部であるわけですから、人間でない他の存在に、意識や心がないと考える方がおかしいのです。
人の姿が、他の存在と異なるように、意識や心についても、人と他の存在では違っているでしょう。
石や植物が物を言わないから、何も考えていない、何も感じていない、と思うのは、事実ではなく、単なる推測に過ぎません。
それなのに、相手に心がないと決めつけてしまうと、その心を探ろうと思いもしませんから、いつまで経っても、石や植物についての心の存在は、わからなくなってしまいます。
それでは、どのようにすれば、石や植物の心の存在を、認めることができるのでしょうか。
人間が他の人に心があると理解するのは、意思疎通ができるからです。
しかし、人に心があるという前提に基づけば、意思疎通ができなくても、その人の行動を見ることで、その人に心があることが理解できます。
これと同じように、石や植物と意思疎通ができなくても、彼らにも心があるのだという前提があれば、石や植物の活動や反応を見ることで、そこに心の活動を知ることができるでしょう。
じっと動かないままの石の心は、人間で言えば、瞑想状態に近いものが、あるのかもしれません。
植物についても同様ですが、石と比べると変化を見せますから、周囲の存在との交流を、楽しんでいるのかもしれません。
ですから、人間が植物に話しかけたり、音楽を聴かせるということは、とても意義があることだと私は思います。
そんなことをする人たちを見ると、多くの人はただの変わり者と思うでしょう。
でも、そんなレッテルを貼らずに、彼らがしていることに、謙虚な目を向けたなら、あなたの世界は大きく広がるに違いありません。
レッテルを貼るな その4
これはこうだと決めつけることは、全てレッテルを貼っているのと、同じです。
一つの宗教が、自分たちが信じる神だけが正しく、他の神を否定するのは、どちらの神に対しても、レッテルを貼っていると言えます。
また、神なんているものかと、決めつけることも、レッテルを貼っているのです。
そもそも「神」という言葉を使う時、その「神」という言葉に、自分が見いだしている意味を、他の人もみんな、同じように見いだしているはずだと考えることから、誤解は生じていると思います。
何に対して「神」という言葉を用いているのか。
それは国や民族によって異なるでしょうし、同じ地域に暮らす者でも、個人によって違うでしょう。
日本語の「神」と英語の「God」は、そこに含まれている概念が、全く異なります。
Godの日本語訳なんて、本当はないのですが、それに該当する言葉を探した結果、「神」という言葉が、当てはめられただけでしょう。
それと同じことが、他の国の言語に対しても、言えると思います。
それぞれの地域の人たちには、それぞれの自然に対する理解があるわけで、その想いを表現するものが、言語となって現れるのです。
その違いを理解しないまま、言葉だけを拾い上げて、そちらの神はおかしい、というのは間違いです。
それぞれ目を向けている所が違うわけですから、それぞれの神の概念が異なるのは、当然なのです。
また、神など存在するものか、という考えも同じで、ここでも「神」という言葉に、どんな意味が含まれているかで、その結論は変わって来ることでしょう。
いずれにしても、自分が全てを知っているわけではない、という謙虚さがあったなら、「神」について決めつけるような言い方は、しないはずです。
「神」に限ったことではありませんが、レッテルを貼るというのは、自分には謙虚さがないとうことを、公言しているのと同じです。
しかし、謙虚さがないと、新たな発見はありません。
それでもいいという人もいるかもしれませんが、私は発見による刺激と喜びがある人生をお勧めします。
レッテルを貼るな その3
病院で病名を告げられると、自分はその病気なのかと、納得してしまいます。
いくら調べても、具合が悪い理由がわからないと、何かとんでもないことが起こっているのだろうかと不安になります。
でも、病名が付けられると、それがひどい病名だったとしても、病名がわからないのと比べると、ほっとするようです。
それは、自分の今の状態が、世間で知られたものなのだという安心感があるからです。
でも、病名はついているものの、病気の原因も治療法も、まだわかっていないということはあります。
それは名前がついていないのと、実質的には同じことなのですが、名前が付けられた上で、原因も治療法もないとなると、もうだめなのだと宣告されたようなものです。
名前に説明が添えられることで、レッテルを貼られたのと同じになってしまいます。
また、レッテルを貼られた方も、それを受け入れてしまうのです。
自分の今後の人生は、このレッテルどおりになるのだと、信じ込んでしまうのですね。
もちろん、それに反発を覚えて、そんなレッテルなんか糞食らえだと言う人もいます。
そういう人は幸いです。
でも、それができない人の方が大半でしょう。
実のところ、他の病気だって、どうしてそうなったのかなんて、わかっているようで、わかっていないのです。
同じような生活をしているのに、一人は病気になって、もう一人は病気になっていないということもあります。
その理由を病院で説明することはできません。
恐らくですがと、聞かれた医師が自分の考えを述べるだけであって、それが正しいという証拠は、どこにもありません。
また、病気になったら病院で薬をもらって治してもらう、という構図ができあがっていますが、この構図が本当に正しいのかを、よく考えてみるべきでしょう。
人間は本来病気にならないようにできています。
それが病気になるのは、それなりの理由があるわけです。
その人自身の生き方ですね。
自分の体を弱らせるようなことを、知らずに続けているはずなのです。
それは人によって異なりますし、それを探って解決しない限り、本当の病気の治療にはつながりません。
慢性疾患として、死ぬまで病院とのお付き合いを求められるだけです。
治療法がないというのは、病院でもよくわかっていないという意味です。
本当に治療法がないという意味ではありません。
原因がわかれば、治療は可能です。
そして、その原因の多くは、その人の暮らしの中にあるのです。
しかし、治療法はありません、この病気は治りません、というレッテルを貼られてしまい、自分でもその気になってしまうと、そのレッテル通りの将来が待っています。
レッテルを信じることなく、自分で原因を見付けて改善すれば、病気はよくなるでしょう。
レッテルを貼らせない、信じないというためには、自分で考え、自分で行動し、自分の人生に自分で責任を持つ、という姿勢が大切です。
それを他人に任せようとするのは、自分の人生を他人に委ねるのと同じです。
今のコロナウィルスにしてもそうですが、専門家が貼りまくっているレッテルと、現状との違いが、浮き彫りになっているのではないでしょうか。
レッテルに惑わされることなく、自分で考えて行動したいものです。
レッテルを貼るな その2
競争の激しい社会の中では、そこで秀でた存在になるための条件が、まことしやかに言われがちです。
たとえば、優秀な人物になるのなら、何歳から訓練を始めなくてはならないとか、何歳を過ぎてからではもう遅いとか。
大学を出ていなければ、競争社会で生き残るのはむずかしいとか。
お金とコネがなければ、上には上がれないとか。
人間を勝ち組と負け組に分けて、勝ち組だといいけれど、負け組だと情けない人生だとか。
そうしたレッテルを貼ることで、自分は世の中を知っているのだと、言いたげな人がたくさんいます。
でも、その結果として、人生をあきらめなければならない人も、少なくありません。
本当は何もわかっていないのに、わかったつもりになって、自分自身に無価値のレッテルを貼ってしまうと、自分で自分を封印するようなものです。
わからないことは、わからないでいいのです。
お前、そんなこともわからないのかと、笑う者はいるでしょう。
そんなのは世の中の常識だぞと、言う者もいるでしょう。
でも、彼らも本当のところは何もわかっていませんから、どうしてそうなのかという、きっちりとした説明はできません。
何かを根拠にして説明するのですが、その根拠が正しいことが前提です。
どうしてその根拠が正しいのかと聞かれると、たちまち言葉に窮してしまうでしょう。
レッテルどおりに行かない人は、どこにでもいるものです。
歳を取ってから、新しいことに挑戦して、素晴らしい結果を出す人もいます。
素人のはずなのに、それまでになかったような、新しい芸術の風を吹かせる人もいます。
you tubeなどのネット動画などを見れば、日々、素人の人たちが、素晴らしいものを見せてくれます。
でも、レッテルにこだわる人たちは、そういう人たちに目を向けないでしょうし、目を向けても、そんな人たちが特別で例外なのだと考えるでしょう。
自分の人生ですから、その人が何をどのように考えても自由なのですが、その人たちの考えを、他の人たちに強要することはできません。
他の人たちも自由なのです。
誰かが何かにレッテルを貼ったとしても、それはその人が考えたレッテルに過ぎず、絶対的なものではないのだということを、常に知っておく必要があります。
たとえ、その人がものすごい経歴の持ち主であったり、権威のある人であったとしてもです。
親や先生であっても、同じことです。
その人物が、それはこんなものだとレッテルを貼ったとしても、それを鵜呑みにしてはいけません。
そして、実際にレッテルとは異なる人の存在を知ったのであれば、その人たちを特別視するのではなく、自分にもその可能性があるとういことを、知るべきでしょう。
自分はわかっていないのだという謙虚な姿勢こそが、物事を新鮮に見せてくれますし、失敗を恐れずに、興味を持ったことに挑戦することができるのです。
レッテルを貼るのは、この人わかってるなと、他人から見てもらいたいという、気持ちの表れです。
他人の評価なんか気にしなければ、何に対してもレッテルを貼ることなく、新鮮な気持ちで接することができるのです。
レッテルを貼るな その1
人はいろんなものに、名前を付けたがります。
名前がないと、これは一体どういうものなのかと、興味を持ったり不安を覚えたりします。
でも名前があると、すでに誰かが調べて、世に知れたものなのだと思います。
それでも、それに対して興味や不安を、持ち続けることはあります。
しかし、誰かが知っていることなのだという、安心感があるからでしょう。
それに名前があるとは、知らなかった時と比べると、興味も不安も、その度合いが薄れてしまいます。
名前を付けられていると、それがどのようなものなのか、という説明がついていることが多いですね。
それを読むと、それはそんなものなんだと、勝手に思い込んでしまいます。
本当は、そうではないのかもしれません。
その説明が間違いではないにしても、それが全てではないはずです。
でも、説明を読むと何となくわかったような気になって、それ以上の興味を持たなくなってしまいがちになります。
もちろん、興味津々の人は、そこに書かれている以上のことを調べるでしょう。
しかし、大半の人は説明を読んでおしまいになると思います。
それは、それはそんなものなんだと、レッテルを貼るようなものです。
名前を付けたり、説明を付けた人は、そこまで決めつけたつもりはないかもしれません。
でも、それを読んだ人は、何だそんなものなのかと、その人の理解度に応じたレッテルを、そこに貼るのです。
そもそも、どのくらいの興味を持ち合わせているかで、さらなる情報を集めようとするか、そんなものだと思い込むかの違いが出て来るわけです。
実はそこに面白い情報や、大切な情報が隠れているかもしれないのですが、わかったつもりになっていると、その情報を見過ごすことになってしまいます。
本当は何もわかっていないのに、わかったつもりでいると、あとで損をすることになるかもしれません。
誰かが何かに名前をつけたり、説明することがあっても、本当にそうなのか、さらなる情報があるのではないかと、常に情報のアンテナは持っておくべきです。
わかったつもりのレッテルを貼るのは、決して得にはなりません。
断捨離の意味 その5
別にコレクションを楽しんでいるわけではないけれど、いろんな物をたくさん貯め込んで、なかなか処分ができない場合、それはこの先に対する不安があると言えます。
これは何かの役に立つかもしれないから、取っておこう。
今はいらないけど、あとで誰かが使うかもしれないな。
残しておけば、あとでお金になるかも。
特に思い入れがあるわけでもないのに、何となくいろんなものを残してしまうことがあります。
また、思い入れがあるようでも、よく考えたらそれほどでもなかった、という物もあるでしょう。
何かを手放せない時は、それを手放すことへの、不安があると言えます。
これを手放して、あとで困ったことにならないだろうか。
あとで後悔しても、捨ててしまうと、もう手に入らないかもしれない。
そんな風に考えると、なかなか手放せないものです。
でも、そう考える根底には、人生はどうなるかわからないぞ、という不安が付きまとっています。
人生は自分のものであり、自分でコントロールしているし、どんな結果が来ても受け止める、という気持ちがあれば、人生に対する不安は出て来ません。
今持っている物を手放したら、あとで後悔しないかなんて考えません。
自分の本当の生き方に、これは必要ではないから手放す、というだけのことです。
それがあとで必要になるかどうかも、ちゃんと見極めることができるのですね。
また、本当に必要なもの、あるいは情報は、適切なタイミングで、必ず手に入ると思っていれば、何かのためにこれを取っておこうとは思いません。
世の中は不安を煽るようなことが多いですが、自分が充実した人生を送ることだけに集中していれば、不安に振り回されることはありません。
不安があるから、いろんなものが手放せないのです。
物品もそうですが、人間関係や仕事もそうです。
今の状態は気に入らないけれど、これを手放すと生きていけないかもしれないから、手放せない。
こんな風に捉えている人は、少なくないのではないでしょうか。
でも断捨離を進めると、そんな不安は不安の元と一緒に、捨て去られてしまいますから、ぜひ断捨離をして、すっきりした自分らしい暮らしを手に入れて下さい。
必ずできますから。
断捨離の意味 その4
断捨離の本当の意味合いは、物品の整理ではなく、心の整理です。
いろんな思考や価値観で、ぐちゃぐちゃになって、何をどうすればいいのかわからず、流れに流されっ放しになっている人が、自分の心の中を整理して、本来の自分を取り戻すのです。
そうなると、当然その人の考え方や価値観が、それまでとは違ったものになります。
興味を向けるものも変わって来ますし、付き合う人も変わるでしょう。
断捨離をすると、結果的に人間関係や、生活行動や環境までもが、整理されて行きます。
付き合う人は限られて来て、本来の自分にそぐわない人とのつながりは、切れて行くでしょう。
自分がやろうと思うことでないものには、関心が向かなくなり、持っているエネルギーを、自分が興味を向けたものに集中するようになります。
もしかしたら、友達が誰もいなくなってしまうかもしれません。
でも、それはこれまで本当の友達と、付き合っていなかっただけなのです。
本当の自分として暮らし始めると、その自分が放つオーラに引き寄せられて、気が合う人との新たな出会いがあるでしょう。
人は同じ波長を持つ者に引き寄せられますから、そんな出会いは自然に起こります。
そうしてできた友達は、一緒にいるだけで気が休まるような、本当の友達です。
仕事や暮らす場所も、自分の波長に合ったものを、選ぶようになりますから、生活全部がそれまでとは、がらりと違ったものになるでしょう。
そして、それこそが自分が求めていたものだと、実感するはずです。
そこまで考えて断捨離を始める人は、少ないかもしれません。
それでも断捨離をすることで、品物だけでなく心の中まで整理されたと、感じられるようになったなら、もっと整理をしたくなって、気づけば自分の願った暮らしを、手に入れることになると思います。
断捨離の意味 その3
断捨離とは、基本的に身の回りの物を整理する、という意味ですから、お金がなくて物を持てない人には、関係がないように思えるかもしれません。
でも断捨離とは、実は心の中を整理するものだと捉えたならば、身の回りに物がなくても、断捨離をした方がいい人は、少なくないと思います。
お金や物がない暮らしをしていても、そこに自分が求めるものを見い出している人や、十分に幸せを感じている人は、問題がありません。
しかし、同じような暮らしをしながら、不安や不満、悩みや心配を抱えている人は、今後自分がどうすればいいのかが、わからない状態にあります。
そんな人の心の中には、知らない間にすり込まれた、余計な考え方や価値観が、たくさんあるのです。
その場合、それらを一つ一つ整理して、本当にそれは自分に必要な考えなのかを、よく吟味する必要があります。
そうしながら、いろんな考えの下に埋もれた、本来の自分の想いを、表に引っ張り出してやるのです。
本来の自分が見えて来ると、鎧のように心にへばりついている、多くの考えや価値観が、自分にとって必要なのか不要なのかが、わかりやすくなります。
そうしてそれらを整理すれば、どんどん本来の自分の想いが、はっきりと姿を見せるようになって、最終的にはとてもすっきりした気持ちになれるでしょう。
行動は気持ちの表れですから、本来の自分の想いで心が満たされたなら、必ずその想いに従った動きを、取るようになります。
今動けないために並べている理由は、もはや使い道のないゴミとして、捨て去られていますので、行動を邪魔するものは何もありません。
そうやって動くことで、自分の本来の生き方をつかめば、どうしてあんな考えにしがみついていたのだろうと、過去の自分を振り返って、不思議に思うことでしょう。
今の暮らしに疑問を持ちながら、身動きが取れなくなっている人は、心の中の断捨離をお勧めします。
断捨離の意味 その2
ほとんどの人が、世の中で起こっていることや、流行していること、あるいは将来への不安に対して、関心を持っていると思います。
これが健康にいいよと言われると、すぐにそれに飛びつきますし、インスタグラムは面白いと言われると、あちこちで写真を撮りまくって投稿します。
また、コロナは怖いぞと言われると、言われるがままにワクチンにすがろうとしますし、癌になったらどうするのと言われると、どうしようとうろたえてしまいます。
楽しいことでも、怖いと思うことでも、どちらも流されてそのように思ったり感じたりしているだけで、本当に自分で考えて選んだ結果として、楽しんだり恐れたりしているのではないでしょう。
楽しいと思うことでも、本当にそれが自分が望んでいることなのかを、見極めなければなりません。
実際は不安や不満を抱えていても、そんな自分をごまかすために、みんなと同じように流行に乗ったり、騒いだりしているだけかもしれないのです。
フォロアーの数が気になる人は、他人から注目されていないと、不安になります。
誰かに認められていなければ、自分というものに自信が持てないのですね。
そうなると、何かに投稿することを本当に楽しんでいるとは言えません。
自分に対する不安を抑えるために、必死にフォロアー数を増やす作業を、続けているだけです。
また、世の中にある多くの不安や心配ごとを、自分でも抱えている場合、本当にそれが不安や心配の元になるのかを、自分で検証しないといけません。
検証する時の根拠についても、本当にそれが根拠となり得るのかを、自分で考えて確かめる必要があります。
そうでなければ、実際は間違ったことを教え込まれ、それで不安を煽られているだけなのに、そのことに気がつかないで、いいように利用されるだけになってしまいます。
端から見ると、ごく普通の暮らしをしているように見える人、あるいは多くの仲間がいて、いつも楽しそうにしている人、お金があって苦労をしなくて済むように見える人なんかであっても、心の中にはいろんな余計な考えが、ひしめき合っていると思います。
今の自分が本当の自分だと思い込んでいても、実際は自分を偽っている可能性は、十分にあります。
本当の自分を生きているのなら、とても深い充実感、満足感、幸福感があるでしょう。
それらがないか、あったとしても一時的、表面的なものであるのなら、その人は自分を偽っています。
また、自分でもそのことに気がついていません。
何となくつまらないと感じ、人間であること自体に、嫌気が差すかもしれません。
断捨離をして身辺整理をすると、整理する物を通して、自分の中の気持ちも整理されます。
断捨離は、自分では気がつきにくい、本当の自分を思い出させてくれるのです。
断捨離の意味 その1
一見、むずかしそうな断捨離という言葉ですが、今やほとんどの人が知っていると思います。
単純な意味合いとしては、身の回りにある不要な物を整理して、それを手放すということです。
使う物と使わない物、必要な物と不必要な物、大切な物とどうでもいい物、これらを区別して、いらないと思われる物は、どんどん手放して身辺をすっきりさせるわけです。
手持ちの物の整理のように見えますが、実はその物に対する自身の想いを、整理するわけです。
たとえば、他の人から見れば、ただの薄汚れたぬいぐるみでも、本人にとっては大切な相棒であったり、大切な人から贈られた物であれば、とても手放すことができません。
別に使うわけでなくても、傍に置いておくだけでいいと思うのは、別に喋るわけでなくても、身近に家族がいてくれていると、安心するのと同じなのですね。
しかし、いくら想い出の詰まったものであっても、それが今のその人の暮らしや行動を、制限するのであれば、想い出は残したまま、品物は整理した方がいいでしょう。
本当に大切なのは想いですし、その想いを糧にして、今を活き活きと生きるということです。
足かせになるような物については、気持ちを整理した方がいいでしょう。
それがあるから前へ進めないのに、それを手放せないのであれば、本当の問題はその品にあるのではなく、過去の想い出にしがみついたまま、前進を拒む自分の心にあると言えます。
そこに目を向けないまま、品物の整理ばかりを考えても、うまくはいきません。
つまり断捨離とは、自分の気持ちを向き合うということなのですね。