地球温暖化

今日も暑いです。
調べて見ると、もう10日も、35℃前後の気温が続いています。
しかし、35℃なんて大したことはありません。
連日のように40℃超えの所が、日本各地で見られます。
ニュースで報道される気温は、気象庁が決めた場所での温度でしょう。
実際には、40℃を超える地域は、もっとたくさんあると思います。
温暖化に懐疑的な人も、この状況には、温暖化を認めざるを得ないでしょう。
温暖化の影響は、単に暑くなるだけではありません。
毎年のように起こる、世界中の異常気象は、温暖化に起因していると、言われています。

台風やハリケーン、サイクロンの大型化や、長雨、集中豪雨、竜巻、干魃など、以前は何十年に一度、というような激しい災害が、今では毎年、当たり前のように起こっています。
今年も日本各地が、水害に見舞われました。
中国の長江流域も、長雨に苦しめられました。
オーストラリアは熱波による、大規模な森林火災が生じました。
インドでは既に、スーパーサイクロンが発生しました。
アフリカ、アジア、南アメリカでは、バッタが大量発生しています。
これからも、何が起こるかわかりませんし、似たようなことは、これから毎年繰り返されるのです。
気温の上昇が加速されれば、異常気象の強度も頻度も、加速されて行くかも知れません。

最近は、あまり報道されていないようですが、海面上昇も深刻な問題です。
南太平洋のツバル、キリバス、インド洋のモルディブなどの小さな島国は、水没の危機に瀕しています。
2014年に発表された、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)では、今世紀末の気温が、産業革命前と比べて、4.8℃上昇すると言われていたそうです。
しかし、最近の調査結果によれば、4.8℃ではなく、6~7℃の上昇になるようです。

この産業革命が、いつ頃かと言うと、1800年前後です。
今から、200年ほど前のことですね。
その200年前の気温と比べて 4.8℃、あるいは6~7℃の、気温上昇があるというわけです。
しかし、これは地球全体の平均気温のことです。
地域によっては、これ以上の上昇をみる所もあれば、それほどでもない所があるはずです。
特に北極や南極、グリーンランドなど、氷の多い地域の温度上昇が、重要でしょう。
実際、南極やグリーンランドの氷は、研究者の予測の何倍も速く、溶けていると言います。

研究者が予測しているよりも、高い温度上昇が、続く可能性もあります。
そうなると、思っていたよりも速く、海面が高くなるのです。
まだ先のことだから大丈夫と、高をくくっていると、大変な事態になるかも知れません。
世界中の大都市の多くは、海岸線近くにあります。
今後の海面上昇により、いずれは水没してしまう可能性は、高いと言えます。
水没にまで至らなくても、大型化している台風などの影響を、受けやすくなるでしょう。
今後も気温が、さらなる上昇を続け、夏には40℃以上の日が、当たり前になるかも知れません。
そうなると、外には出られなくなるでしょう。
野菜や果樹などの食べ物も、暑さの変化について行けず、収穫できなくなる時が、必ず訪れると思います。
家畜も病気になったり、死んだりするでしょう。
家畜が食べる飼料を、手に入れることも、むずかしくなると思います。
様々な食料が手に入れにくくなり、物価は上昇するでしょう。
貧困な人は、まともな食事をするのも、困難になってしまいます。
そうなることは、素人でも考えればわかることです。
当然、国はちゃんと手を打っているだろう、と考えたいですが、今の様子を見ていると、とてもそうは見えません。
年金問題も、そうでした。
年齢別の人口を調べれば、何年後にどうなるのかということは、何十年も前に予測できたはずです。
それなのに、問題が膨れ上がって、どうにもならなくなるまで、政治家たちは見て見ぬふりをして来たのです。
温暖化対策と言えば、二酸化炭素の排出を制限することしか、頭にないのかも知れません。
二酸化炭素を減らすのは、将来の温暖化を、抑制するための手立てです。
既に起こり始めた異常気象や、それに伴う様々な社会問題を、解決する方法ではありません。
今まさに人類に襲いかかっている災害や、今後必ず起こるであろう問題について、具体的な行動を起こす必要があります。

遠くない将来に起こるとされている、南海地震や東南海地震と、それに伴う津波に対しても、そうです。
国が中心になって、被害が想定される地域の住民を、避難させる政策を、取っているかと言うと、そんなことはありません。
全て個人の責任という、スタンスなのでしょう。
一般の人々にとっても、温暖化というものは、熱中症に気をつければいいだけの、問題ではないのです。
黙っていても、必要な時には国が動いてくれると、期待するのは間違いです。
期待するのではなく、要求するべきです。
そのために選挙は、積極的に活用すればいいでしょう。
また、一人一人が安全な場所を、真剣に考えないといけません。
自分だけが助かろうと考えず、みんなが助かる手段を、見つける努力が必要です。
温暖化の本当の怖さは、これから姿を見せるのだと思います。
コロナウィルスと同じで、これまでと同じ暮らしを、続けることはむずかしくなるでしょう。
でも、それを恐れたり不安に思うのではなく、新たな時代を迎え入れるつもりで、立ち向かうのがいいと思います。
そこに悲惨な想いを、重ねてはいけません。
新たな環境は、新鮮な気持ちで受け入れるのです。
そして、人々と協力することに、喜びを見出すのです。

私は予言者ではありませんが、世界が大きく変わろうとしているように、感じています。
一つ一つの出来事は、一見無関係のように見えるでしょう。
でも、全ては一つにつながっています。
全ての出来事は、無関係ではありません。
大きな変化の力の影響が、場面によって、異なる形で表れているだけなのです。
私たちは今、地球の大変化の舞台に、立ち会っているのです。
この変化の向こうに、喜びの世界を見つけるのか、不安や悲しみの世界を見てしまうのか。
それは私たち自身の、選択にかかっていると思います。

エッセンシャルワーカー2

エッセンシャルワーカーという、言葉の意味を理解できるのは、その仕事に助けられている人たちです。
簡単に言えば、一人一人の市民であり、消費者です。
でも、エッセンシャルワーカーを雇っている、企業のトップの人たちは、どうでしょうか。
自分たちの下で、働いてくれている従業員に、感謝しているかと言うと、そうでもないように思えます。
もちろん、従業員と一丸になって、世のために頑張る経営者もいるでしょう。
しかし、こんな状況にあっても、命を張っている従業員に対して、ねぎらいの気持ちを持たないトップもいるようです。
こういう心ない経営者の会社は、いずれは潰れるか、経営者が変わる事になるでしょう。
時代は今、そういう流れにあります。
それとエッセンシャルワーカーという言葉に関して、もう一つ思うところがあります。
世の中が危機に瀕している時でも、止めるわけにはいかない仕事。
そういう意味では、先に述べた職種の人たちを、エッセンシャルワーカーと呼ぶのは、正しいと思います。
しかし、他の仕事が必要不可欠ではないと、受け止められるのだとすると、この言葉の使用には注意が必要です。
たとえば、感染を広めないために、スポーツや芸術関係の仕事は、活動が制約されます。
つまり、これらの仕事は、必要不可欠ではないという扱いです。
多くの飲食業の店も、自粛を迫られて、店を畳んでしまった所が、少なくありません。
だからと言って、社会が立ち行かなくなるわけでなければ、これらの仕事もエッセンシャルワーカーには、該当しないのでしょう。

それでも、スポーツや芸術の仕事は、人々に夢や喜び、希望を与えてくれます。
活動ができない時があったにしても、それは感染防止のためであり、必要不可欠ではない、という意味ではないはずです。
逆に、今のような閉鎖的な状況においてこそ、スポーツや芸術は、その真価を発揮できるはずなのです。
事実、家から出られない人々を励ますために、歌や楽器の演奏を披露した人たちがいます。
インターネットで励ましの声を広げる、スポーツ選手たちも大勢います。
人々は彼らの活躍を待ち望んでいます。
だからこそ、彼らの励ましが、胸に響くのです。
私に言わせれば、スポーツや芸術の仕事も、エッセンシャルワーカーです。

今はスポーツも無観客や、観客を制限しながら、活動が再開されています。
しかし、今後のコロナ感染の状況次第で、どうなるかはわかりません。
それでも短絡的に、全てを中止するというのではなく、工夫をしながら、活動を継続できるような、努力をして欲しいと思います。
本人たちが感染を恐れて、やりたくないと言うのであれば、中止することに問題はありません。
しかし、みんなが仕事をしたいし、それによって人々に希望を与えたい、と言うのであれば、万全の体制を整えて、仕事をするべきでしょう。
そのための知恵を絞れば、コロナ騒ぎとは関係なく、素晴らしいアイデアも、出て来るかも知れません。
イメージというものは、大切なものです。
必要不可欠でないと言われれば、それがだめになっても仕方がないと、思われてしまいます。
しかし、必要不可欠だと認められれば、人は何とかそれを、守ろうと考えるでしょう。
国や自治体や企業、あるいは個人からも、支援が集まりやすくなると思います。
会場も、どうせ使わないのであれば、無収入になるのですから、利益を求めずに、貸し出せばいいのです。
その運営が大変になるのなら、それも国や自治体が支援をするべきでしょう。

飲食業にしても、自粛が終わった頃に、大半が潰れてなくなっていたら、どうするのでしょうか。
食事もまた、人間にとっては大いなる喜びです。
お客の喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、仕事を続けていた方も、多いと思います。
そんな想いでやっていた仕事が、必要不可欠ではないと見なされたら、どれだけ悲しいことでしょう。
こういう方たちの支援として、国は税金の支払いを遅らせてもいいようにすると、言っていたと思います。
でも、遅らせるのではなく、免除にしてあげるべきでしょう。
あとで二倍の税金を払えと言われると、経営が持ち直したとしても、それでまた打ちのめされてしまいます。
国会議員の先生方は、全員が3ヶ月ほど、資産も給料も特権も、全てを取り上げられて、自力で生きるという経験を、するべきだと思います。
保証を求めても、誰も助けてくれず、税金の免除もしてもらえない。
使える貯金もなく、明日をどうやって生きればいいのか、わからない。
そんな経験をしてみれば、もう少し国民に思いやりのある対策を、考えることができるのではないでしょうか。
いずれにしても、全ての人、全ての業種を、これまでどおりの状態に戻すのは、無理だと思います。
問題は今の経済システムにありますから、これを改善しない限りは、根本的な解決にはつながりません。
それでも困っている人に、何がしてあげられるのかを、国は考えることができるはずです。
いい案が見つかれば、それを国民に、呼びかけることもできるでしょう。
しかし、自らの責任を果たさずに、国民の善意にすがるようでは、説得力がありません。
それこそ、自らも血と汗を流しながら、努力する姿勢を、見せる必要があります。
何より、エッセンシャルワーカーから、外されている仕事に対しても、あなたたちの仕事も、エッセンシャルワーカーなのですよと、認めてあげて欲しいです。
自分たちは必要不可欠ではないのだと、相手に思わせてしまうようなことは、絶対に避けて欲しいと思います。
エッセンシャルワーカー1

今日は終戦記念日です。
毎年、この時期になると、戦争の悲惨を訴えるドラマや番組が、毎日のように放送されます。
過去の過ちを、繰り返さないということでは、大きな意味はあると思います。
特に、戦争を直接経験したことのない者にとって、これらの情報は貴重なものです。
しかし、過去のことばかりを強調しているうちは、新たな未来を迎えることは、むずかしいと思います。
確かに、過去のあの出来事は、繰り返すべきではない。
では、これからはどうすればいいのだろうか。
こういう感じで、過去についての反省を、未来に結びつけることが大切です。
しかし、政府もテレビ局も、まるで毎年のイベントのように、同じことを繰り返すばかりです。
未来に向けての、具体的なビジョンやメッセージを、国民に示してはくれません。
逆に言えば、そういう事は、私たち一人一人の国民が、自分たちで考えて、自分たちでメッセージを、発信して行かねばならない、ということなのかも知れません。
ただし、経験もなければ専門的知識もない人が、いろいろ考えていくためには、それなりの環境が必要でしょう。
同じ環境に置かれていても、何かに気づく人もいれば、何も気づかない人もいるはずです。
気づかない人には、気がつきやすくなるような、支援を考えるべきです。
そして、その人が気づくまで、待ってあげるだけの、心の余裕が欲しいところです。
ところで、今日は久しぶりに家内と二人、お気に入りのカフェで、モーニングを食べました。
正確に言えば、モーニングではなく、食べたい品とコーヒーを単品で頼みました。
お盆期間中なので、お店が開いているか、わからなかったのですが、行ってみると開いていたので、ラッキーでした。
昔からある老舗のカフェで、とても雰囲気のあるお店です。
このお店で食事をしながら、家内との話に出て来たのが、エッセンシャルワーカーです。
エッセンシャルワーカーとは、社会に必要不可欠な労働者、という意味です。
昔はなかった言葉ですが、コロナ騒ぎをきっかけにして、広まったようです。

どういう職種に対して、使うのかと言うと、コロナ騒ぎのような状況においても、誰かがやらないと、世の中が立ち行かなくなってしまうような、とても大切な仕事に使うようです。
たとえば医療関係や、電気・ガス・水道関係、食料品店、必需品の製造業や運搬業、土木建築業、それと警察や消防などの治安関係のようです。
当然、自衛隊もエッセンシャルワーカーに属します。
この言葉が出て来た背景には、普段はあまり注目をされない所で、社会を支えてくれている人たちへの、敬意の念があります。
それは裏返せば、これまではほとんど、そういう人たちへは敬意が、払われていなかった、ということでもあると思います。

炎天下の中、汗水流して働いている、日雇いの工事現場の人が、いたとしましょう。
人によっては、そいういう人たちを、社会的に低い者として、とらえています。
その人たちの価値観では、たくさんのお金を、楽をして稼ぐことが、いいのです。
しかし、工事をしてくれる人がいるからこそ、私たちは安全快適に、道路を通ることができます。
また、いろいろな建物を、利用することもできるわけです。
今の日本を作ったのは誰か、と問われると、土木建築関係の人たちですと、私は答えます。
大阪城を築いたのも、豊臣秀吉ではありません。
大工の棟梁と、棟梁を手伝った農民たちです。
工事に携わっている人たちは、一人一人は、ちっとも有名ではありません。
その仕事で、大金持ちになれるわけでもありません。
それでも、その人たちが黙々と働いてくれたお陰で、人々は快適な暮らしが送れるわけです。
そういう事を理解した上で、汗まみれになって働いている人を見たら、どうでしょう。
感謝とねぎらいの気持ちこそ持っても、その人たちを低く見ることなど、決してないはずです。
でも、それは肉体労働の人に対して、だけではありません。
どの業種の仕事に対しても、言えることなのです。
その人の苦労や、仕事への想いを理解すれば、自ずと頭が下がるでしょう。
特に危険な状況においては、尚更です。
エッセンシャルワーカーという言葉は、そういう想いから、生まれた言葉なのです。

幽霊の話2
今からお話するのは、私自身の話です。
私はこれを、幽霊と言っていいのかどうか、わかりません。
確かに見たのですが、いわゆる幽霊とは、ちょっと感じが違うのです。
やはり仕事で、ホテルに泊まっていた時のことです。

夜中にふと目が覚め、私は暗い部屋の中で、目を開けました。
室内は暗かったので、ほとんど何も見えません。
でも部屋の暗さよりも、もっと黒々とした影が、私のすぐ目の前にあったのです。
正確に言えば、真正面よりも少し左側です。
それは枕元の壁から、足の方に向かって、ぬっと伸びた長細い影でした。
でも、足の方まで伸びているのではなく、先端は私の喉の辺りにありました。
こんな所に、こんな物があったかなと考えながら、私はそれを、何だろうと思って、じっと見ていました。
すると、暗闇に目が慣れて来たのか、その黒い影の姿が見えて来ました。
それが何なのかがわかった時、私はぎょっとしました。
それは何と、女性の足だったのです。
女性の左の素足が一本だけ、壁からぬっと突き出るように、伸びているのです。
別に動くわけでもないし、他に何かの気配がしたり、声が聞こえるわけでもありません。
ただ、足がそこに生えているだけでした。

私は驚きはしましたが、何故か怖いとは思いませんでした。
体が金縛りになった感じもありません。
私はその足をつかんで、足の裏をコチョコチョと、くすぐってみたい衝動に駆られました。
もし、これが幽霊だとしたら、足をくすぐれば、やはりくすぐったがるのだろうか。
でも、足しかないから、笑い声や悲鳴は聞こえないだろうな。
そんな事を考えて、私は手を伸ばそうと思いました。
でも、触ってひやっと冷たかったら、気持ちが悪いなと思うと、手が出なくなりました。
それに触る事で、何か悪い事になっても困るなと、ちょっと腰が引けた気持ちにもなりました。
それでも、一方では触ってみたいという思いが、私を急かします。
幽霊に触れる機会なんて、滅多にあるものではありません。
どうしようと迷っているうちに、その足はふっとかき消すように、消えてしましました。
しまったと思いましたが、後の祭りです。
すぐに壁を調べましたけど、ただの壁です。
それから二度と、その足が現れる事は、ありませんでした。
その時の残念な気持ちは、未だに残っています。
それでも私は考えました。
あれは何だったのかと。
相手には、私を恐怖に陥れるつもりは、なかったようです。
では、一体何のために、あんなふざけた事をしたのでしょう。
実は、私は学生時代、一人で暮らしていた時にも、不思議な経験をしていました。
布団の上に仰向けで寝ている時に、金縛りにあったのです。
意識ははっきりしているのですが、体がピクリとも動きません。
その私の背中を、たくさんの手が、撫でて回るのです。

背中は敷き布団の上にあり、布団の下は畳です。
人の手が入るわけがありません。
私の背中を、誰かが触るなんて、有り得ないのです。
しかし、確かにいくつもの手が、私の背中を触っているのです。
まるで目が見えない人が、手で物の形を、確かめるような感じです。
この手の主たちが、実在しているならば、彼らは畳の下から、私の背中を触れているわけです。
そんな事ができるのは、人間であるわけがありません。
うわっと思いましたが、体は動きませんし、手は私の背中をまさぐるだけで、襲いかかる様子はありません。
ですから、気味は悪いものの、怖いという感じはありませんでした。
そのうち、撫でている手が、少しずつ位置が変わって、背中から脇腹の方へずれて行きました。
私はやばいと思いました。
何故なら、私は大層なくすぐったがりでして、脇腹に触られると思っただけで、体をよじってしまうのです。
私は思わず、お願いだからそこには触らないでと、考えてしまいました。
すると、その考えが相手に、伝わってしまったのでしょうか。
手たちは一斉に、私の脇腹を探るようにして、移動し始めました。
すっと移動するのではありません。
行くぞ行くぞという感じで、近づいて行くのです。
私がくすぐったくて、笑い苦しむ様子を、楽しんでいるかのような感じです。
そして、とうとう脇腹に達した手たちは、私の脇腹をくすぐり始めました。
体を動かせない私は、笑いの拷問に、かけられたのと同じです。
よじれない体を硬直させ、止まらない笑いで、息が吸えなくなりました。
笑い死ぬというのは、あんな感じなのでしょう。
苦しくて息が吸いたいのに、笑いが止まらないのです。
あれが続けば、私は本当に、笑い死にをしたに違いありません。
でも、しばらくすると手は消えてしまい、体も動かせるようになりました。
でも、くすぐられた余韻が、ずっと残っていて、私は何度も体を、よじり続けていました。

この頃、私は他にも不思議な経験をしています。
不思議な話が大好きで、いろんな本も読み、自分でもあれこれと考えました。
しかし、ある時からそういうものへの興味が、次第に薄れて行ったのです。
死んだ後の世界は、自分が死んだらわかる事。
それより、今は生きているのだから、生きる事を懸命になろうと、考えたのです。
それから、生きる事について、いろいろ考えるようになり、奇妙な経験はパッタリと止んでいました。
ところが、ホテルの足の登場です。
久方ぶりの不思議体験です。
私を笑い死にさせようとした手たち同様、恐怖を感じさせない、とてもふざけたシチュエーションです。
きっと足は、私に何かを、伝えようとしたのでしょう。
物質世界だけが全てではないし、死んで全てが、終わるわけではない。
そんな事は、わかっています。
それでは、足は私に、何を伝えようとしたのでしょう。
それは私に再び、物質世界とは別の世界の事を、考えるようにと言う、メッセージだったのではないかと、私は考えています。
生きるという事は理解できただろうから、今度は改めて別の世界の事を考えよ、ということなのでしょう。
それはつまり、この世、あの世と分けて考えるのではなく、全体としての世界を、考えなさいという事なのです。
それから私は再び、異世界や異次元について調べたり、自分で考えたりという事を始めました。
そして、現在の考えに至りました。
宇宙とは、生命そのものであり、私たちはその一部なのだと。

そうそう、もう一つだけ、自分の経験をお話しておきます。
自宅の寝室で、寝ていた時の事です。
隣には、私の家内が寝ていました。
夜中に目が覚めた私は、金縛りにあって、誰かに後ろから、強く抱きつかれました。
その抱きつく力は凄まじく、プロレスラーに締めつけられているような感じでした。
息ができなくて、死にそうになりながら、私は胸の近くにあった手を、必死に動かそうとしました。
後ろから私に抱きついている手を、振り解こうと思ったのです。
その手は、私の胸をしっかりと抱えていました。
わずかずつですが、私の手が動きました。
初めは指先だけ。
それから手全体が、ほんとに少しずつ動きました。
そうしていると、手がもう少し動くようになったので、私は胸の前にある、相手の手をつかみました。
すると驚いたことに、私がつかんだその手は、小さな子供の手だったのです。

どこの子供か知りません。
でも私は、この子が愛情が欲しくて、構ってもらいたいのだと思いました。
それで、つかんだその手をぐいっと引っ張り、後ろにいる相手を、自分の前の方へ引き寄せました。
顔も何もわかりません。
私はその子供をぎゅっと抱き締めると、構って欲しいのなら、いくらでも構ってあげようと、心の中で相手に伝えました。
こうして抱いて欲しいのなら、さっきのように無茶苦茶はしないで、抱いて欲しいとちゃんと伝えなさいとも、言いました。
捕まえた子供らしき相手は、もがくこともせず、いなくなりました。
それでも、私はいなくなった子供を、そのまま抱き続けました。
それから、そんな事は起こっていません。
いかがでしたか。
そんなの、ただの気のせいだと言われれば、そうかも知れません。
私は反論はしません。
それでも、私にとっては、ここでお話したことは、全て本当の事なのです。
幽霊の話
今日からお盆です。
お盆と言えば、亡くなった人たちをしのぶ期間です。
私たちのご先祖さまたちは、普段はあの世に暮らしていて、この期間だけこの世に戻って来ると言われています。

一方で、幽霊という存在がいます。
こちらも亡くなった人のはずなのですが、あの世へは行かずに、この世に留まっていると考えられています。
今日はこの幽霊の話をしましょう。
あなたは幽霊、あるいは幽霊らしきものを、見たことはありますか。
普段はあまり、そんな話を耳にする事はありません。
でも聞いてみると、幽霊を見たという人が、案外身近にいるものなのです。
私の家内も、若い頃に幽霊を見ています。
家内は昔、病院で働いていたことがありました。
まだ、私と結婚する前の話です
その頃は、一部屋を同僚と二人で使う、生活だったそうです。
今で言うところの、シェアルームですね。
その同僚と二人で寝ていた、ある夜のこと。
家内は、ふと目が覚めたのです。
目は覚めたものの、体は金縛りにあって動けません。
その時、自分の枕元に、誰かが座っていたそうです。
その誰かは、寝ている家内の顔をのぞきこむように、上からぬっと顔を近づけて来ました。

それは白い服を着た、髪の長い女の人で、家内が見たことがない人でした。
体が動かないので、家内は横目で、隣に寝ている同僚を見たそうですが、彼女は何も気がつかないまま、眠っていたそうです。
家内の顔をのぞきこんだ女性は、家内にこう話しかけて来たと言います。
「どうして、あなたはここにいるの?」
そう聞かれて、家内は混乱の中、その問いの答を、考えようとしました。
でも、すぐに答が思い浮かびません。
どうしてだろうと、考えているうちに、その女性は姿を消し、家内は体を動かせるようになったそうです。
その女性が現れたのは、その時一回きりだったようです。
その女性と関係があるかどうかは、わかりませんが、家内と同僚が使っていた部屋は、昔の結核病棟の部屋だったそうです。
家内は私と一緒になった後も、幽霊と思えるようなものを、目にしています。
夜、小学校の体育館を使わせてもらい、知り合いとソフトバレーボールを、やっていた時のことです。
夏の暑い時で、体育館の横にある扉や窓は、全部開けてありました。
その開いた扉の下の端から、おじいさんの顔が、みんなの様子を眺めていたと言うのです。
見た時には、誰かの家族かと、家内は思ったそうです。
でも、よく考えてみれば、いつもはそんな人は来ないし、扉の下の端に、顔があるのも不自然です。
座っていたとしても、顔の位置は、もっと上にあるはずです。
顔があった位置を考えると、そのおじいさんは外で、腹ばいになっていた事になります。
おかしいなと思って、もう一度扉に目をやった時には、そのおじいさんの顔は消えていたそうです。
次は私の息子の話です。
私の息子が学生の頃、友人たちと自殺の名所と言われる橋へ、肝試しで訪れたそうです。
息子と一人の友人は、橋の手前にいたそうですが、もう一人の友人が、橋の中ほどまで行ったらしいのです。

橋の中ほどまで行った友人は、息子たちの方を振り返って、何もないと伝えて来たそうです。
でも、その友人の向こうから、黒い人影が、ゆらゆらと近づいて来たのです。
息子と、手前にいた友人の二人には、その黒い影が見えていました。
でも、橋の中ほどにいる友人には、それがわからなかったそうです。
息子たちは大声で、早くこっちへ、逃げて来るようにと言いました。
しかし、なかなかそれが、相手には伝わりません。
その間にも、黒い影は次第に、その友人に近づいて来ます。
結局、息子たちの言葉に従って、橋の中ほどにいた友人は、こちらへ移動して、事なきを得たそうです。
今度は、私の仕事関係の人の話です。
以前に名古屋へ、仕事で出張した時、私が宿泊するホテルを、出張先に頼んで予約をしておいてもらいました。
そのホテルは、何と温泉つきのホテルでした。
初めの日は移動だけだったので、私はホテルへ直行し、自分の部屋でくつろいでいました。
する事がないので、持って行った本を、ベッドに寝転びながら読んだのですが、これが怖い話の本だったのです。
初めから読むのではなく、私は適当に開いたページを、読むことにしました。
それで開いたページに書かれていたのが、名古屋の話だったのです。
ああ、この名古屋じゃないか、奇遇だなと、私は思いました。
それで話を読み進めると、その話を伝えているのが、かつてホテルで働いていた人ということでした。
そのホテルの名前は、伏せられていました。
でも、、市内で温泉のある、某ホテルとあるではないですか。
そのホテルに幽霊が出る、という話なのです。
街中で温泉つきのホテルなんて、ざらにはありません。
もしかして、このホテルだろうかと思いましたが、私の部屋では何事も起こらず、無事に過ごすことができました。
翌日、仕事先へ行って、そこの課長さんに、その話をしてみました。
課長さんは、恐らくそのホテルは、私が泊まったホテルでしょうと言いました。
その話をきっかけに、幽霊というのではないのですがと前置きをしてから、課長さんが自分の不思議な体験を、話してくれました。
その課長さんの家が、二階建ての家だったのか、マンションだったのかは、忘れてしまいました。
とにかく課長さんの寝室というのは、高い所にある和室だったのです。
その部屋で寝ていると、閉まっているはずの部屋の入り口から、いろんな人がぞろぞろ入って来るんですよと、課長さんは言うのです。
それで、寝ている自分の周りを、ぐるぐる歩き回るのだそうです。
そして、しばらくすると、今度は閉まっているはずの窓から、出て行くという話でした。

課長さん、それは幽霊でしょう、と私が言うと、課長さんは嬉しそうに、やっぱりそうでしたかと仰いました。
こんな話を誰にも聞いてもらえず、やっと私に聞いてもらえたと、課長さんは喜んでいました。
その翌日にも、そこへ行くと、よほど嬉しかったのでしょう。
あれはやっぱり幽霊だったのですねと、課長さんの方から、もう一度話かけて来られました。
本当は怖いはずの話なのに、嬉しそうにしている課長さんを見ると、自分が役に立てたような気がして、私もちょっぴり嬉しくなりました。
確かに、幽霊を見たなんて話をしても、信じてもらえなかったり、馬鹿にされたりすることが多いと思います。
それで誰にも話ができずに、悩んでいる方が、あなたのそばにも、いるかも知れませんよ。
興味がある方は、一度確かめてみたら、いかがでしょうか。
新たな社会を作る若者たち

香港の民主活動家、周庭さんが釈放されました。
ひとまずは彼女の無事を、喜びたいと思います。
しかし、今後の彼女の安全が、保証されたわけではありません。
日本政府には、香港の人々の自由のために、具体的な動きを、見せてもらいたいと思います。
また、ウィグルの人々についても、同じように支援の態度を、示して欲しいものです。
一方で、日本では広島の黒い雨訴訟について、広島県と広島市が控訴しました。
広島県も広島市も、控訴には消極的だったものの、国が控訴するよう指示したため、控訴をすることにしたということです。
国が控訴を求めたのは、原告の訴えが、科学的でないという理由です。
それならば、どこが科学的でなくて、自分たちの主張の何が科学的なのか、国は具体的に説明するべきでしょう。
今の政治家たちは、科学的という言葉を使えば、何でも自分のたちの言い分が、通ると考えているようです。
今回のコロナ騒ぎの対応についても、やたらと専門家という言葉を使って、自分たちの立場を守ることにばかり、懸命になっていました。
それと同じです。
原爆の被災者に寄り添うと、語っていた安倍総理は、日本語の意味が、わかっていないのかも知れません。

あまりにも言っている事と、やっている事が違います。
それに気がつかないのは、政治家に相応しいかどうか、以前の問題でしょう。
世界を見回してみれば、どこの国の指導者たちも、みんな同じようなものです。
国民をないがしろにしても、自分たちはずっと守られているから、大丈夫だと信じているように見えます。
一昔前の人々であれば、政府の思惑どおりに、ごまかされたり、うやむやにされて、黙ってしまったかも知れません。
でも今の人たちは、昔の人々とは違います。
指導者が、人間の心を持っているのか、今の人々は、ちゃんと見極める目を持っています。
特に若い人たちは、価値観が変わって来ています。
昔ながらのやり方で、押し通そうとしたところで、政府の考えたとおりには、動かないでしょう。

今の若い人は、お金や物よりも、自由や生き甲斐を、大切に思っています。
また、今の若い人たちは、自分の友だちが、どこの国の人間なのかを、気にしません。
新しい世代は確実に、自由と平和や多様な個性への、平等な扱いを求めています。
これは世界的な流れであり、力でこの流れを、抑えることはできません。
むりやり押さえ込んだつもりでも、新しい価値観を持った若者は、次から次に産まれて来ます。
見た目は、古い人間と同じ姿でも、その体に宿っているのは、新たな時代を築くため、大きく進化した心です。
彼らは古い人間たちとは、求めるものが違うのです。

これまで古い体勢、古いシステムの中で、バラバラに存在していた彼らは、自分たちの居場所がないと、感じていたことでしょう。
中には、それが元で精神が病んでしまったり、自ら命を絶ってしまう者もいました。
しかし、古い社会に馴染めないのは、当然と言えば当然なのです。
新しい社会で生きる者たちですから、古い社会には、波長が合わないのです。
その彼らの多くが、この混乱の中で気づいたでしょう。
どうして、自分たちの居場所が、見つからなかったのか。
どうすれば、自分たちの居場所が、見つかるのか。
今、自分たちが何をするべきなのか。
また、こうも理解したと思います。
自分は独りぼっちでは、なかったのだと。
自分にも、できることがあるのだと。
今こそ、自分が動くべき時なのだと。

どこの国も、若い力を封じることはできません。
封じようとすればするほど、自らの愚かさを、示すことになるでしょう。
それは古い人たちでさえ、白けさせて離反させるようなものです。
あまりの無能さは、冷笑を超えて、哀れみを集めるでしょう。
周庭さんは強い人です。
まだ若い普通の女の子なのに、恐怖を感じているはずなのに、それでも中国政府の理不尽に、体を張って立ち向かっています。
彼女は香港の自由を通して、もっと大切なことも、世界中の人々、特に若い人々に訴えているのです。
そんな彼女の声は、数え切れない人々の心をつかみ、一つにしています。
どこの国の政治家に、彼女ほど強力な言葉を、発することができるでしょうか。
彼女は一人の人間として、真っ当な意見を、素直な気持ちで、表明しているだけです。
同じ香港に、暮らす人たちのことを思って、発言しているに過ぎません。
決して無茶苦茶なことを、喋っているわけではなく、当たり前のことを、述べているのです。
政治家たちのように、パフォーマンスで訴えたりはしません。
政治家たちのように、選挙やお金目当てで、動いたりはしません。
政治家たちのように、安全に守られた所で、喋っているのではありません。
イスラム国に襲われて、命を失いかけた、パキスタンのマララさんもそうです。
温暖化対策を訴えた、スウェーデンのグレタさんもそうです。
他にも多くの若い人たちが、世界を変えるために立ち上がり、声を上げています。
たとえテレビで報道されていなくても、その声は確実に広がっています。
よく観察して下さい。
そして、世界に広がるパワーを、感じて下さい。

若い人々を中心に、人間の本来の姿が、求められています。
人類は今、大きく変わろうとしているのです。
壊れる香港

昨日、香港の民主活動家である、周庭さん(アグネス・チョウさん)が、香港警察に逮捕されました。
容疑の詳細が、明らかにならないままの逮捕です。
イギリスから中国に、香港が返還されたのは、23年前のこと。
その時に、一国二制度を50年維持するという約束が、イギリスと中国の間で為されました。
しかし、中国は50年を待たずして、香港の共産化を推し進めようとしています。
そして、その都度、香港市民から猛反発をくらいました。

周庭さんは民主的な選挙を求めた、2014年の雨傘運動に参加し、それ以降、民主化運動の先頭に立って来ました。
市民が自由を求めるのは、当然のことです。
それを国家転覆を企てていると見なし、正当な理由もなく逮捕するのは、独裁政権が行う卑劣なやり方です。
中国は四大文明に数えられるほど、素晴らしい文化を持った国のはずでした。
現在の日本文化があるのも、中国があったからこそです。
しかし、いつの時代も、どこの国でも、権力者はさらなる権力を求めるものです。
権力にほころびを感じると、自らを正すのではなく、逆らう者たちの口を、封じることに専念します。
かつて大きな戦争へと、突き進んで行った日本が、そうでした。
戦争に反対すると、非国民と罵られ、特高警察に捕まえられて、拷問にかけられたのです。
人類は歴史に学び、誤った過去を、繰り返してはなりません。
そのための頭脳が、人間にはちゃんと備わっています。
戦争へ突き進んだ日本を、中国は身を持って知っているはずです。
あの時の日本が、どれほど狂っていたかを、理解していたはずです。
それなのに、今の中国は、昔の日本にそっくりです。

今の中国を擁護できる国が、あるのでしょうか。
あるとすれば、中国と同じ独裁政権だけでしょう。
ほとんどの国は、中国に対して、そっぽを向くことになると思います。
中国は経済によって、相手の国を縛ることができると、考えているように思えます。
しかし、教養の高い国ほど、そういうやり方には、逆に反発心を抱きます。
個人的にも、いくらお金をたくさん持っていても、弱い者いじめをしたり、自分がいい思いをすることしか、考えないような人と、誰が友だちになろうと思うでしょうか。
恐らく、中国は四面楚歌になるでしょう。
気の毒なのは、真面目な中国の国民です。
国が嫌われることで、そのとばっちりを、受けてしまう可能性があります。
悪いのは、今の中国政府です。
関係のない一般の中国の人たちを、決して責めるような事を、してはいけません。
そんな事をすれば、中国政府と同じになってしまいます。
これからは国境を越えて、全ての国の人々が手を取り合って、助け合わなければなりません。
自分は地球人だという感覚を、持つようにならないとだめです。
日本を訪れる、多くの中国の人たちも、そうなることを願っている人は、少なくないと思います。
中国政府がなりふり構わず、今のような暴挙に出ているのは、一党独裁体制の維持に、ただならぬ危機感を、抱いているからに違いありません。
香港は世界中から注目されているので、大きな話題になります。
でも中国本土でも、自由を求めた結果、香港の人たちと同じ目に、遭わされている人が、たくさんいるはずです。
ウィグルの人たちが、強制的に洗脳教育を、受けさせられている事も、明らかにされました。
人権派の弁護士や記者たちが、ある日捕まえられて姿を消すのも、よくある事のようです。
長江流域の長雨で、洪水が多発する中、中国政府は大都市を守るために、ダムを壊して、小さな村を水没させたりもしています。
尖閣諸島へ送り込まれる、大量の漁船団も、むりやり政府の命令で、動かされていると聞きました。

今の中国政府にとって、守るべきは国民ではなく、共産党の独裁体制と、トップに居座る者たちの、地位と権力なのです。
国民は好きなように使える、駒に過ぎません。
人口が多いだけに、代わりの駒はいくらでもいると、考えているのでしょう。
それでも多くの国民が、黙って従うとすれば、それは安定した生活を送れるからです。
政府に逆らって、ひどい目に遭うよりも、自分たちの生活を、守る方が大事です。
しかし、生活を守れないのであれば、黙っている必要はありません。
中国政府にとって、国民の経済的な安定は、命綱とも言えます。
その命綱も、世界中の国々から、そっぽを向かれては、いつプツリと切れるかわかりません。
そうならないよう、諸外国との揉めごとに、国民の目を向けさせようと、しているのでしょうか。
次から次に、中国と外国とのトラブルの話が出て来ます。
でも、今の中国国民は、昔とは違います。
政府の言うことを、鵜呑みにはしないでしょう。

どんなに情報制限をしても、その制限をかいくぐって、外の情報は国民に広がります。
今の中国が、どのような状態にあるのか、政府は国民に隠すことはできません。
いずれは、何かがきっかけになり、抑圧された国民の怒りが、爆発することになるでしょう。
もし中国が、どこかで戦争でも始めれば、間違いなく暴動が起きます。
愚かな政府のために、命を落としたいと思う、国民はいません。
中国本土の民主化を望む人たちが、各地で気勢を上げると思います。
そうなれば、共産党はあっという間に解体されるに違いありません。
周庭さんを逮捕したことで、中国政府は自分の首を、絞めたのです。
周庭さんの逮捕は、民主化運動をする人たちへの、見せしめのつもりかも知れません。
でも彼女の逮捕は、共産党独裁政治の、崩壊ののろしです。
これは、中国だけの問題ではありません。
地球全体の平和を望む人たちの、問題なのです。
地球に独裁者は必要ありません。
誰も争う理由がありません。
敵を作る必要もないのです。
多くの人が望んでいるのは、平和なのです。
自分だけがよければいい、と思っている人は、それほど多くはありません。
日本の人も、中国の人も、その他の国の人も、困っている人がいたら、助けてあげたいと思うでしょう。
自分も相手も笑顔でいられるのが、いいのです。
世界中の人々が、中国の民主化を望んでいます。
そして、周庭さんや、濡れ衣で逮捕された他の人々の、無事を心から祈っています。
怪談話に思うこと
夏と言えば、昔は怪談というのが、お決まりでした。
夏休みには、よくお昼のテレビ番組で、「あなたの知らない世界」というのを、見ていました。
映画番組でも、四谷怪談や牡丹灯籠、番町皿屋敷に化け猫などは、毎年必ず放送されました。
こちらは夏に限りませんが、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」や、楳図かずおの「赤ん坊少女」「黒いねこ面」などの漫画も、よく本屋さんで立ち読みしたものです。
こんな話をしても、若い人にはわからないかも知れませんね。
水木しげるは、妖怪漫画で有名な漫画家です。
そして楳図かずおは、人間の狂気や怨念を描く、恐怖漫画の漫画家です。
これらの怖い漫画を読んでいると、非日常の世界へ引き込まれてしまいます。
その怖さは、漫画を読んでいない時でも、心のどこかに残っていました。
でも、本当に怖いと思わされたのは、小泉八雲の怪談話でした。

私の父は五人兄弟の長男で、私が子供の頃には、父の末の弟になる叔父さんが、時々遊びに来ていました。
叔父さんは子供の私や兄弟に、小泉八雲の怪談・奇談という本を、よく読み聞かせてくれました。
とても読むのが上手な叔父さんで、私たち兄弟は、怖がりながら話を聞いていました。
中でも私のお気に入りは、「耳なし芳一のはなし」「むじな」「鳥取の蒲団のはなし」「死骸に乗る者」「破約」「幽霊滝の伝説」です。
「耳なし芳一のはなし」は、みなさんご存知、盲目の琵琶法師の話です。
平家の亡霊の前で、芳一が琵琶をかき鳴らして、平家物語を語ります。

芳一が危険な状態にあると知った、お寺の和尚は、芳一の姿が亡霊から見えなくなるよう、芳一の全身に、お経を書きました。
しかし和尚は、両方の耳にだけ、お経を書き忘れてしまったのです。
芳一を訪ねて来た亡霊は、宙に二つの耳だけが、浮かんでいるのを見つけます。
芳一を連れて行けない亡霊は、代わりにその二つの耳を、もぎ取って去って行くのです。
私はこの話を聞くたびに、和尚をなじったものです。
そもそも芳一が危険な状態の時に、芳一を残して出かけるのかと、憤りました。
和尚は両耳をもがれて、血だらけになった芳一を見て、大いに悔やむのですが、奪われた耳は戻りません。
お経を書き忘れた事よりも、芳一より仕事を重視した、和尚の姿勢に問題がありました。
どんなに謝っても、取り返しがつかなくなる事があるのだと、私はこの話で学びました。
「むじな」は題名だけでは、聞いたことがないと言う人が、いるかも知れませんね。
でも、のっぺらぼうの話と言えば、ああ、あの話かと思い出されるでしょう。
そもそも、むじなが何なのかを、当時の私は、よくわかっていませんでした。
キツネやタヌキのように、人を化かす動物なのだろうとは思いました。
でも、実在する生き物なのかは、知りませんでした。
調べて見ると、むじなとは、アナグマのことのようです。
アナグマが人を化かすとは、聞いたことがありません。

でも、むじなという呼び方になると、化かすようです。
そのむじなが、東京の赤坂通りの坂に現れて、そこを通る人を化かすという話です。
坂の途中で、しゃがんで泣いている、若い娘がいました。
その娘を認めた人が声をかけると、娘は立ち上がって、片手でつるりと、自分の顔を撫でました。
その顔は、目も鼻も口もない、のっぺらぼうでした。
驚いたその人は、慌てて坂を逃げ上り、そこにいた蕎麦屋に、今の話をしようとします。
すると、その蕎麦屋が自分の顔を、つるりと手で撫でました。
蕎麦屋の顔は、のっぺらぼうになりました。
とても単純でわかりやすく、それでいて怖い話です。
今でこそ、のっぺらぼうと言うと、どこかユーモラスな感じがします。
でも、当時の人にとっては、こんなに恐ろしいものはなかったでしょう。
むじなではありませんが、母方の祖父がタヌキに化かされて、同じ山道をぐるぐる回り続けたという話を、聞いたことがあります。
祖父が困っていると、山犬が現れて、その山犬が祖父を先導する形で、家まで戻してくれたそうです。
どこまで本当の話なのかは、わかりません。
でも、むじなの話も、祖父の話も、自分が知らない間に、異世界に引き込まれることがあるのだと、思わされる話でした。

「鳥取の蒲団のはなし」は悲しいお話です。
鳥取で新しく開いた宿屋が、初めての旅人を迎えた時のこと。
旅人が寝るのに使った蒲団が、一晩中、「あにさん寒かろう?」「おまえ寒かろう?」と喋り続けたと言います。
その話を聞いた宿屋の主人は、蒲団を買った店へ行き、その蒲団の出所を確かめました。
そうして何軒もの店を渡り歩いた後、蒲団は町外れの小さな家の、家主が売りに出したものだとわかりました。
かつてその家には、両親と幼い兄弟二人の、貧しい家族が住んでいました。
しかし、両親は次々に亡くなり、残された兄弟は、鬼のような家主に、家を追い出されたのでした。
食べる物もなく、着る物もない幼い兄弟は、極寒の中、二人で蒲団にくるまり、「あにさん寒かろう?」「おまえ寒かろう?」と互いを思いやっていました。
しかし恐ろしい家主は、兄弟からこの蒲団さえも、奪い取ってしまいます。
それから何日も経った頃、兄弟は雪の中で、冷たくなって見つかりました。
宿屋の主人は、お寺のお坊さまにお願いして、兄弟のために祈ってもらいました。
すると蒲団は、もう物を言わなくなりました。
私はこの話を聞くたびに、この兄弟が可哀想でたまらなくなりました。
また、鬼のような家主が、憎くて仕方ありませんでした。
この話は私の人間形成に、大いに影響を与えたのではないかと思っています。
自分だったら、こんな場面に出会したら、どうしていただろう。
自分がいたら、この兄弟を絶対に助けてあげたのに。
そんな思いが、ずっと私の心に残り続けていました。
「死骸に乗る者」「破約」「幽霊滝の伝説」の三編は、ほんとに怖い話です。
映画や絵本ではありませんから、映像はありません。
しかし、叔父が言葉を発するたびに、私の目にはその光景が浮かぶのでした。
「死骸に乗る者」は、男に騙され、男を恨みながら死んだ女が、死骸になってから、相手の男を殺しに行くという話です。

陰陽師から危険を知らされた男は、陰陽師の言葉に従って、一晩中、女の死骸の髪を両手に巻きつけ、その背にまたがり続けるのです。
相手の男を背負っていることに、死骸は気づかないまま、一晩中、男の行方を探し求めます。
結局、男を見つけられなかった死骸は、元の場所に戻って、ただの死骸に戻ります。
「破約」は、死を迎えた妻に、夫の武士が再婚はしないと、誓うところから始まります。
妻は自分の墓に、小さな鈴を一つ入れるよう願い、息を引き取ります。
しかし、結局夫は妻の死後、妻との約束を破って、新しい妻を迎えます。
その新妻の元へ、夜な夜な鈴の音と共に、死んだ前妻が現われ、新妻に家を出て行くよう迫ります。
家を出て行かず、このことを夫に喋ったならば、八つ裂きにすると言い置いて、前妻は姿を消します。
新妻は里に帰りたいと申し出るも、夫は理由も聞かずに返せません。
そこで新妻は、前妻が現れた話をしました。
夫は新妻が里帰りすることを許さず、前妻から守ると約束をしますが、結局、新妻は前妻の亡霊に、首をもぎ取られてしまいます。

「死骸に乗る者」も「破約」も、女性の執念というものを描いていますが、悪いのはどちらも男です。
私は亡霊たちを、恐ろしいと思いながらも、同情する気持ちも持ちました。
そして、自分は決して、こんな男たちのようにはなるまいと、心に誓ったものです。
最後の「幽霊滝の伝説」は、冬の夜、仕事を終えた麻取り女たちが、怪談話に興じているうちに、幽霊滝へ行ってみようかと、誰かが言い出します。
しかし、怖いですから、誰も行こうとはしません。
そんな中、お勝という、名前のとおり勝ち気な女性が、自分が行くと手を挙げました。
幽霊滝まで行って来たら、今日取った麻を、全部自分がもらうと、お勝は言いました。
他の女たちはそれを了承し、滝まで行った証拠に、滝にある小さな賽銭箱を、持って来るようにと、条件を出しました。
寝ている二歳の子供を、背負ったお勝は、幽霊滝へ向かいます。
滝に着いて、賽銭箱に手を伸ばすと、「おい、お勝さん」という声が聞こえました。
お勝はひるまず、賽銭箱を抱えると、一目散に麻取り場へ戻りました。

みんなはお勝の大胆さを称賛し、麻を全部お勝にあげる、と言いました。
そして、お勝が背負った子供の世話を、しようとした時、子供の着物に血が付いているのに、気がつきました。
着物からは、手と足ばかりが出ていて、子供の頭は、ありませんでした。
「ゲゲゲの鬼太郎」の話には、よく「入らずの山」というものが出て来ます。
決して人が、立ち入ってはならない山という意味です。
この幽霊滝も、この「入らずの山」と同じようなものなのだと、私は思いました。
人が触れてはならないものがあって、それに触れると、恐ろしい目に遭うのです。
この話では、お勝に対して、警告らしき言葉が発せられています。
しかし、お勝はその言葉を無視して、自分が麻を独り占めできることだけ考えて、賽銭箱を盗むのです。
この話は、現在のいろんな場面に、当てはまるのではないかと、大人になってから思うようになりました。
右を向いても左を向いても、権力や金や名誉欲しさの、業突く張りばかりです。
自分の利益や保身のために、平気で他人の権利を侵害したり、自然環境を破壊したりします。
あとで処理する能力もないくせに、原子力を推進しようとするのも、同じことでしょう。
そう考えると、「幽霊滝の伝説」は、かなり奥の深い話なのですね。
怪談話は、怖いばかりではありません。
読み方によって、多くの教訓を読み取ることができるのです。
もう一つだけ紹介したい話がありました。
それは「はかりごと」です。
この話では、打ち首になる罪人が、打ち首を命じた殿さまを、呪ってみせると誓います。
首切り役人は、呪うと言うのならば、その証拠を見せろと、罪人に言います。
そして、首を切られた後、生首のまま目の前にある石に、かじりついて見せよと命じました。
いきり立った罪人は、絶対に石にかじりついてみせると宣言し、その言葉を呟きながら、首を切り落とされます。
果たして、転がり落ちた首は、罪人の言葉どおりに、石にかじりつきました。
首はしばらく必死にかじりついた後、力尽きました。
それを見て、恐れおののく人々に、首切り役人は涼しい顔で言います。
断末魔の最後の一念が、恐ろしいのは事実であり、その一念を復讐に向けられては、危ないところだった。
しかし、男は石にかじりつくことに、その一念を当てたため、復讐のことは頭になく、何も心配はいらない。
そして、その言葉どおり、男が祟ることはありませんでした。
この話も、とても興味深いものです。
死に際の一念の、重要性というものを、昔の人は、よくわかっていたのでしょう。
安らかな死を迎えることが、どれだけ大切なのかが、この話を読めば理解できます。
この世への未練もなく、満ち足りた心で死を迎えた者は、満ち足りた世界へ、向かうことになるのでしょう。
一方、恨みや妬み、未練などを抱いたまま死ぬと、その一念に引っ張られ、幽霊となってこの世を漂うことに、なるのかも知れません。
どんなに人から羨まれるような、人生を送っていたとしても、心が汚れたまま死を迎えたら、その心に応じた結果が、待ち受けているとも言えます。
逆に、どんなにつらく困難な、人生を送ったとしても、最期によかったと思えるのであれば、その人は報われるに違いありません。
この「はかりごと」も、まことに奥が深い話です。
いや、怪談というものが、奥が深いものなのでしょうね。
全盲のマジシャン

新潟総合テレビの記事で紹介されていた話です。
タイトルにある全盲のマジシャン は、長岡市に暮らす藤田芳雄さん(72歳)です。
藤田さんは30歳を過ぎた頃から、網膜の病気になって、徐々に視力を失ったと言います。
今では明るささえわからない、全盲です。
人生を悲観し、一時は死ぬことまで考えた、と言う藤田さんですが、三年ほど前に出会いがありました。
三条市を中心に活躍する、マジシャンのバーディ山井さんです。
山井さんと知り合った藤田さんは、月に数回、山井さんからマジシャンを、教わるようになりました。
そして、二年前から舞台で、技を披露するようになりました。
目が全く見えないのに、何故マジックを始めようと、思ったのでしょうか。
その問いに、藤田さんはこう答えています。
「マジックは見えないと面白くないと思うかも知れないが、マジックをやることは見えなくても楽しめる。“人が喜ぶという事を楽しむ”という事かな」
とは言っても、目が見えても修得するのに大変なマジックを、目が見えない状態でやるのです。
大変でないわけがありません。
人の何倍も練習をした、と言う藤田さんですが、教える山井さんも素晴らしい。
教えるにあたって、最初はやはり戸惑いがあったと言いますが、藤田さんの熱意に負けたそうです。
山井さんは目が見えないからと言って、教えるのに手を抜きません。
一方の、藤田さんも障害があるから、これぐらいしかできないと思われるのが嫌で、頑張ったそうです。
藤田さんは言います。
「今までで一番嬉しかったのは、できないと思っていた事が、一つ一つできるようになった事」
本当に素敵な人ですね。
この言葉を口にできる人が、世の中にどれほどいるでしょうか。
また、藤田さんは演技中に、時には失敗もあると言います。
でも、失敗を恐れる様子はありません。
失敗しても、初めからやり直して、今度は成功させます。
そして、藤田さんの演技を見た児童は、失敗してもやり直して、成功するまで挑戦したいと述べたそうです。
失敗を恐れず、失敗しても諦めないで、繰り返し頑張って、最後には成功させる。
これは子供たちにとって、とても大切なメッセージです。
失敗とは、やってみて上手く行かなかった、ということです。
本来、そこにいいとか悪いという、意味はありません。
しかし今の社会では、成功がいいもので、失敗は悪いものという、レッテルを貼る傾向が強いと思います。
成功は、失敗の積み重ねの上にあるもので、失敗なくして成功は有り得ません。
また、失敗を繰り返しながら、成功へ至るまでの道のりこそが、本当に楽しいのです。
成功した後で話に出るのは、必ず様々な失敗談です。
あの時は大変だった、あれはさすがにこたえたよ、などと当時を振り返りながら、感慨に耽ったり、失敗した時の慌てた様子が、笑い話になったりします。
失敗を恐れず、楽しみながら頑張り続ければ、最後には必ず喜びが待っています。
そのことを身を持って、子供たちに教える藤井さんには、これからも素敵なマジックを、続けていただきたいと思います。
パラレルワールド2
私たちがいるこの世界を、一つのパソコンの中にある、バーチャル世界だとしましょう。
私たち一人一人は、バーチャル世界の中の、キャラクターです。
周囲に存在しているものは、全てバーチャル世界で、構成されたものです。
私たちの世界は、一つのパソコンの中に、存在しています。
そのパソコンの周囲に、同じようなパソコンが、無数にあると考えて下さい。
その一つ一つには、それぞれのバーチャル世界があります。
パラレルワールドとは、このようなイメージなのです。

その中には、似たような世界もあるでしょうが、全然違う世界もあります。
恐竜の世界もあるでしょうし、微生物ぐらいしかいない世界もあるでしょう。
人類とは別の知性体になった、地球人もいるかも知れません。
あるいは地球では知性体は生まれず、別の星に知性体がいるという事も、あると思います。
人間とは全く違う姿の、生き物の世界や、妖精たちがいるような、ファンタジーの世界もあるに違いありません。
そんな世界をのぞく事ができたなら、どんなに面白いでしょう。

私たちが他の世界を知るには、どうすればいいでしょうか。
パソコンの中にある、バーチャル世界のキャラクターが、勝手に自分の世界を飛び出して、他のパソコンのバーチャル世界に、参入する事はできません。
そのキャラクターが知り得るのは、自分が属している世界の事だけです。
本来、他の世界の存在すら、気がつきません。
それに、気がついたとしても、どうしようもないでしょう。
でも、他のパソコンとケーブルで繋がっていて、互いの世界がリンクしているのであれば、互いに行き来する事は、可能かも知れません。
研究者たちは、そのようなリンクが、どこかにないかと、必死に探し続ける事でしょう。
それでも、それは簡単な事ではありません。
そもそも、バーチャル世界のキャラクターが、自分たちを動かし、世界を創り出している、プログラムを解明する事自体、不可能なのです。
もし、解明できるとすれば、世界の創造者、すなわち、バーチャル世界のプログラマーの意識と、キャラクターの意識が一つになる必要があります。
そんな事はできるのでしょうか。
それが実は、できるのです。
バーチャル世界のキャラクターが、その世界を創った、プログラマーであればいいのです。
それと同じように、実は私たちも、世界がどのようになっているのかを、知っているのかもしれません。
ただ、この世界のキャラクターとして、世界を楽しんでいる間は、自分が誰であったのかを、忘れています。
それを思い出せるのは、この世界を離れた時だけなのです。
つまり、眠っている間か、死という形で、この世界を去った時です。

バーチャル世界のプログラマーは、一つの世界だけでなく、多くの世界を楽しむ事ができます。
キャラクターの一つになっている間は、自分がプログラマーである事を忘れています。
でも、バーチャル世界を離れて、プログラマーに戻れば、パラレルワールドの体験を、全部思い出せるのです。
私たちが見る夢で、全然知らない世界の自分を、体験する事があります。
それは、このプログラマーとしての自分の、記憶の一つを持ち帰ったものと、考えられます。
また、自分が実はプログラマーなのだと悟ったまま、目を覚ました者は、世界の秘密を知る事になるでしょう。
そうなれば、今の世界から他の世界へと、移動する事も可能となるかもしれません。

私たちはパラレルワールドが、存在する可能性を、知ったばかりです。
まだ、それらの世界を行き来する、技術はありません。
ところが、パラレルワールドの住人の中には、物質世界を離れた時の記憶を、保持している者もいるに違いありません。
何故なら、パラレルワールドの数は、無限と思われるほど、たくさんあるからです。
世界の秘密を知り得た者は、きっとパラレルワールドを、行き来する能力を、手に入れていると思います。
そして、様々なパラレルワールドを探索し、別の世界の自分や、他の知性体との接触を、試みることでしょう。
全くの妄想のように、聞こえるとは思います。
しかし、実際に地球には、多数の UFO が訪れているのです。
その中のいずれかは、遠い星からではなく、パラレルワールドから、訪れている可能性があります。
パラレルワールドを、移行できる技術を持つ者は、時空間を自在に操れるでしょう。
だからこそ、UFO は変幻自在の動きを見せて、私たちを驚かす事が、できるのだと思います。
しかし、彼らにできて、私たち人類にできないわけがありません。
いつの日か人類も、時空間を自由に行き来できるように、なるでしょう。