繰り返される悲劇2

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。
そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。
この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。
しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。
また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。
それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。
そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。
しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。
黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。
仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。
こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。
多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。
それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。
黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。
その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。
それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。
でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。
色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。
この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。
そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。
しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。
教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。
ここで言う教養とは、学歴のことではありません。
社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。
本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。
肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。
そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。
景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。
いわゆる八つ当たりであり、いじめです。
それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。
人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。
その知性を活用できなければ、動物と同じです。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。
一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。
後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。
そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。
そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。
しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。
どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。
考えれば、わかることだと思います。
何故、同じような事件が繰り返されるのか。
それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。
そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。
病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。
自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。
それが知性を働かせるということです。
そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。
繰り返される悲劇1

またもやアメリカで、警察が黒人男性に発砲する事件が起きました。
場所はアメリカ中西部ウィスコンシン州です。
撃たれた男性は、二人の女性の口論を、止めようとしていたそうです。
この二人は、男性の身内だという話もあります。
誰が通報したのかわかりませんが、駆けつけた警察官に、無抵抗の状態の男性は、背後から撃たれました。
その様子を撮影した動画が投稿され、大きな騒ぎになっています。
私もその動画を見ました。
映像では、二人の白人警察官が、銃を構えていました。
しかし、黒人男性はそれを無視するように、乗用車の中へ体を入れようとしました。
乗り込もうとしたのか、何かを取り出そうとしたのか、そこは不明です。
撮影した人の話では、この男性は女性を家に入れた後、自分も続いて家に入ったと言います。
その後、撮影した人が再び外を見ると、この男性が警察官たちと、問答していたそうです。
目を離していた間に、何があったのかは、撮影した人には、わからないとのことです。
何があったのかは、警察でも発表していません。
二人の白人警察官は、黒人男性に銃を向け、威嚇をしていました。
男性は素手で、武器は持っていません。
男性は警察官を無視するように、背中を向けると、歩き出します。
警察官たちは、銃を向けるほど男性のことを、危険視していたのなら、この時点で取り押さえれば、よかったのです。
相手は無防備で、背中を向けているのです。
警察官との距離は、ほとんどありません。
飛びかかろうと思えば、いつでも飛びかかれる距離です。
それなのに警察官たちは、男性が車まで移動するのを、そのままにしていました。
そして男性が車の扉を開けて、中へ体を入れたところで、後ろからシャツをつかみ、そのまま発砲したのです。
撃たれた弾は七発か八発で、全弾命中しました。
気の毒な男性は、命は取り留めたものの、下半身麻痺になる可能性が、高いようです。
ネット記事のコメント欄には、どうして警察に逆らったのかとか、警察官も命懸けだから、発砲は仕方がない、というものが目立ちました。
警察官が七発も八発も撃つのは、やり過ぎとしながらも、発砲した警察官を、擁護する雰囲気があるのが、気になりました。
確かに、銃社会であるアメリカでは、日本と違って、警察官はすぐに発砲します。
だから、事情はどうあれ、警察官に逆らってはいけないというのが、アメリカを知る人たちからの、忠告のようです。
それは、警察官の制止を無視した、黒人男性の方にも非がある、という見方でもあります。
それはある意味、間違いではありません。
しかし、警察官の偏見に嫌気が差していると、制止を無視することも、あると思います。
普段、差別や偏見の脅威にさらされていない人が、今の自分の立場から、黒人男性の行動を非難することは、できないでしょう。
警察官が意味もなく、銃を構えるはずがないと、記事にコメントしている人もいました。
でも実際は、必要もないのに銃を構える場合も、アメリカではあるのではないでしょうか。
特に相手が黒人だった場合、そういう事は、大いに有り得ることだと思います。
映像にはありませんから、警察官たちが男性に銃を向ける前に、何があったのかはわかりません。
でも、仮に男性が警察官たちを、挑発するようなことがあったとしても、この発砲は許されるものではないでしょう。
何故なら、男性は無防備な上に、警察官たちに背を向けているのです。
男性を危険人物だと、判断したのであれば、発砲せずに、後ろから取り押さえることは、できたはずです。
相手は一人、警察官は二人です。
警察官ですから、逮捕術も学んでいるはずです。
それなのに捕まえようとしないで、男性が車に入ろうとするまで、放置していたのです。
その様子に、私はとても違和感を覚えました。
まるで発砲する機会を、待っていたかのようです。

アメリカでは、市民も銃を持つことができます。
ですから警察官たちは、相手が銃を隠し持っていると、常に疑って行動するのです。
相手が銃を、取り出そうとしたと思えば、警察官は相手を、撃っても構わないのです。
結果的に、取り出そうとしたのが、身分証明書だったとしても、警察官は身の危険を感じたと言えば、それが言い訳にできるのです。
つまり、身の危険を感じたとさえ言えれば、警察官は公然と殺人を行うことが、できるわけです。
もちろん、まともな警察官が、そんな事をするはずがありません。
しかし、偏見と憎しみを持っている警察官であれば、有り得ることです。
事実、それらしい事件が、たまにテレビなどで紹介されています。
今回の事件も、それと同じではないかと、私は考えています。
捕まえようと思えば、いつでも捕まえられるのに、そうしないで、男性を車の所まで行かせたのは、どう見ても不自然です。
捕まえたかったが、捕まえられなかったと言うのなら、あまりにも無能な警察官だと、言わざるを得ません。
男性が車の所へ行くまで、放置していたのに、車に体を入れた時点で、背後からいきなり撃つのは、計画的であったように見えます。
男性を撃ち殺すための、口実作りのために、あえて男性を、取り押さえなかったのでしょう。
男性が車の中に、体を入れたことを、武器を持ち出そうとしたと言えば、正当な発砲になると考えたに、違いありません。
殺す気でなければ、二人してあそこまで銃弾を、撃ち込む必要はないでしょう。
目撃者の話では、発砲する直前に、警察官は男性に、ナイフを放せと叫んだそうです。
しかし実際は、ナイフも拳銃も発見されていません。
つまり、ナイフを放せと叫ぶことによって、発砲が正当な理由であることを、周囲にアピールしたと考えられます。
しかも、車の後部座席には、男性の子供たちが、乗っていたと言います。
目の前で父親が、惨殺されそうになったのです。
子供たちは、どれだけおびえたことでしょう。
警察官のくせに、そんな子供たちの気持ちや安全を、考慮しないなんて考えられません。
きっと黒人の子供など、どうでもいいという思いが、あったのでしょう。

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。
そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。
この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。
しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。
また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。
それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。
そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。
しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。
黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。
仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。
こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。
多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。
それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。
黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。
その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。
それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。
でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。
色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。
この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。
そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。
しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。
教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。
ここで言う教養とは、学歴のことではありません。
社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。
本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。
肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。
そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。
景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。
いわゆる八つ当たりであり、いじめです。
それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。
人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。
その知性を活用できなければ、動物と同じです。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。
一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。
後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。
そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。
そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。
しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。
どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。
考えれば、わかることだと思います。
何故、同じような事件が繰り返されるのか。
それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。
そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。
病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。
自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。
それが知性を働かせるということです。
そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。
どうすれば幸せに その2

たくさんの人に注目してもらいたい。
こんな風に思う人は、少なくないでしょう。
それは悪いことではありません。
でも、そこに夢中になってしまうと、いつの間にか、注目してもらうことが、目的になってしまいます。
そうなると、本当に自分がやりたい事が、わからなくなるかも知れません。
人に迷惑をかけるような映像や、危険を顧みないような映像を、ネットに投稿する人。
こういう人たちは、いかにも注目を集めることだけが、目的のようですね。
そういう事をしないと、誰も振り向いてくれないと、感じているのでしょう。
こういう人たちは、普段自分たちの居場所が、ないのだと思います。
この人たちに欠けているのは、自信です。
それと、その自信を裏づけてくれる、人々とのつながりです。
人は、目立つ必要はありません。
目立ってしまう人は、結果的に目立つだけです。
目立つか目立たないかで、その人の存在価値に、差が出るわけではないのです。

自分に自信がない人は、周囲から認められていないと、感じてしまうものです。
周囲の人たちが、悪意を持った人ばかりなら、その場から離れるのが、得策でしょう。
でも、そうでないのなら、知らず知らずのうちに、自分で壁を造っているのかも知れません。
顔を合わせた人には、必ず挨拶をしましょう。
些細なことにも喜びを見つけ、ちょっとした事にでも、感謝できるように心掛けましょう。
興味がないと思うような事でも、初めから拒んだりしてはだめです。
相手を思いやる気持ちで、話を聞くようにします。
何か共感できるところがあれば、遠慮なく共感の意思を示すのです。
そうしていれば、人々は自然に認めてくれるようになります。
これまで以上に、会話がはずむようになり、気がつけば、そこに自分の居場所が、できているでしょう。

結婚に幸せを求める人は、多いでしょうね。
でも、結婚に何を期待しているかは、人によって様々です。
夫あるいは妻に愛され、子供たちに囲まれる。
それが幸せというイメージを、持っていたのに、いざ結婚してみると、全然違う。
互いに口から出る言葉は、愚痴ばかり。
子供たちはやかましいし、手間ばかりかかってしまう。
自分がやりたいことなんか、全然できずにストレスだらけ。
そんな風に感じる人が、少なくないような気がします。
だけど、望んでいたものを、手に入れたはずなのに、何か変ですね。
結婚なんて初めてだから、こんなものとは思いもしなかった。
そんな言い分が、聞こえて来そうです。
だけど、それは覚悟が、足らなかったのではないかと、私は思います。

どんなに好きになった人であっても、生まれ育ちが違う他人です。
その人の全てを、知っているはずがありません。
ずっと一緒に暮らす事で、相手の知らない部分を、知るようになるのは、当然でしょう。
相手の家族や知人の関係で、思いがけない状況になる事も、想定しないといけません。
それを想定外だと考えるのは、結婚を軽く見ていたとしか思えません。
相手に何かを期待して、期待どおりに行かなければ、落胆する事になるでしょう。
でも、相手は他人ですから、期待どおりに行かないのは、当たり前なのです。

一人で暮らしていても、別に何の不自由もないし、何の不満もない。
日々の暮らしに必要な作業を、少しも面倒だとは思わない。
そんな人が、誰かと結婚したいと思う理由は、次のようなものでしょう。
その人が好きだから。
その人と、ずっと一緒にいたいから。
その人のために、何かをしてあげたいから。
相手に対する期待はありません。
だから、何かをしてもらうと感謝します。
感激します。
何かをしてもらうのが、当たり前という発想はないのです。
こんな気持ちで結婚できた人は、幸せだと思います。
相手に何かを求める結婚では、幸せをつかむことはできません。
相手からいろいろ期待されて、それに合わさなければならないと、考えてみて下さい。
本来の自分とは別の自分を、ずっと装い続けなければならないのです。
どんなに頑張っても、期待に添えない事もあるでしょう。
それは仕方がない事です。
それなのに、期待外れだったと文句を言われたり、落胆されたら、どんな気持ちになりますか。

相手に期待するというのは、そういう事なのです。
そうは言っても、ちょっとした事を頼んだり、頼まれたりという事はあるでしょう。
あるいは、相手が何かで困っていて、誰かの手助けが、必要な場合もあります。
そんな時に、喜んで動いてあげられたら、とても喜ばれます。
自分が逆の立場であれば、感謝感謝です。
また自分とは異なる、相手の価値観を、何だよそれ、とは言わないで、いつも好奇心を持って、受け入れるようにするといいでしょう。
自分の価値観も保ちつつ、相手の価値観も受け入れるという、心の広さが大切なのです。
互いに相手を尊重し、思いやりと感謝の気持ちを忘れない事。
それが幸せな結婚の条件です。
そのためには、相手に負担をかけないような、人間としての自立が必要です。

幸せを見つけるというのは、生きる喜びを見出すという事なのです。
お金があっても、友だちがいても、それだけでは幸せには、結びつきません。
注目を浴びても、本当に認められているのでなければ、幸せは訪れません。
つまり、本当の心のつながりが、得られなければ、幸せを感じられないのです。
結婚の場合、常に相手がそばにいるわけです。
互いの心のつながりが、感じられなければ、一緒にいる事が、苦痛になるでしょう。
結婚に限った事ではありませんが、相手を大切に思えなければ、そこに幸せはありません。
相手を思いやるためには、自立した人間である事が必要です。
何にしても、普段から気持ちにゆとりを持ち、小さな事に喜びを見つけ、他人の幸せを喜べるようになる。
それができるようであれば、あなたは幸せなのです。
どうすれば幸せに その1

幸せになりたい。
そう思わない人は、いないでしょう。
でも、それは裏を返せば、今の自分は幸せではないと、宣言しているようなものです。
では、どうすれば幸せになれるのでしょうか。
お金があれば、幸せになれるのでしょうか。
友だちの数が多ければ、いいのでしょうか。
世間から注目されるのが、幸せなのでしょうか。
結婚して家庭を築くことが、幸せにつながるのでしょうか。

お金で何でも手に入ると、思いたくなるような世の中です。
また、お金がないと何も手に入らないと、思えてしまう世の中でもあります。
でも、お金で買えないものあるのです。
命は買えませんし、能力も買えません。
愛情だって買えません。
お金がないと、何も手に入らない、というのも誤解です。
昔の人は、必要な物は何でも、自分たちで作っていました。

生活道具も作っていましたし、味噌や醤油も作っていました。
着物は自分で縫っていましたし、家だって、村の人々みんなで建てていました。
確かに、今はお金の流通を基本とした、社会になっています。
お金を使わないと、手に入らない物もあるでしょう。
でも、自分の手で作れる物も、いくらでもあると思います。
また実際に、自分で工夫して作った物を、生活に利用する人もいるのです。
お金があれば、幸せになれると考える人。
それはお金が万能だと、信じている人でしょう。
お金があることは、決して悪いことではありません。
しかし、お金は何かを手に入れるための、一つの手段に過ぎません。
他の手段もありますし、お金では得られない物もあるのです。
幸せを求める人は、お金を必要以上に、重視しない方がいいと思います。
お金にばかり目を向けていると、目の前に幸せがあっても、気がつかないことがあります。
自分が本当に求めているものは、何なのか。
それを、自分に問いかけてみるといいでしょう。
必ずそこに、幸せが待っています。

友だちの数が多ければ、幸せだと考える人もいるでしょう。
それは友だちを、自分が困った時に支えになってくれる人と、定義づけているのかも知れません。
でも、本当に支えになってくれる友だちというものは、それほど多いとは私は思いません。
それに自分の人生を、自分の足で歩んでいる人は、困った時にも自分の力で、何とかしようと考えるものです。
そんな時に、友だちが手を差し伸べてくれることは、あるでしょう。
でも、自分の人生を自分で歩んでいる人は、初めから友だちを、当てにすることはないのです。
つまり、友だちの数が多くないと、不安に感じてしまう人は、自分の人生を自分の足で、歩けていないということです。
それは泳ぎ方を知らない人が、プールや海に行き、自分が溺れた時に助けてくれる人が、周りにどれだけいるかを、確かめているようなものです。
泳ぎ方を覚えてしまえばいいのですが、なかなか覚えようとしない人は、いるようです。
泳いで溺れることを心配するよりも、泳がなくても周りにたくさん人がいる方が、安心だと思うのでしょうね。
でも、水の中に入るのであれば、泳ぎは必要不可欠なものです。
じっとしていても、喜びは現れてはくれません。

友だちの数を気にしてしまう人は、自分が自分の人生を、歩んでいないということを、まず認識して下さい。
認識したら、今度は怖がらずに、自分の思ったとおりの道を、一歩ずつ歩み始めて下さい。
失敗を恐れる必要はありません。
失敗は成功への道しるべです。
他人の目も気にすることはありません。
その人の人生ではなく、自分の人生を歩むのですから。
大変な事や面倒な事も、必ずあります。
責任ということを、考えねばならないこともあります。
でも、それらと引き換えに、自由を手に入れることができるのです。
どんなに大変であっても、自分がそれで構わないと、決めれば問題ありません。
あとは、自分が好きなようにできる、喜びがあなたのものになるのです。
パソコンの故障

長らく使っていました、デスクトップのパソコンが、そろそろ寿命を迎えそうな様子です。
この何年か立ち上がりに、随分時間がかかるように、なっていました。
それでも、待っていれば起動するので、気にせずに使っていたのです。
しかし、時々プラグラムが途中で止まったかのように、動作が遅くなることが、よくありました。
Windowsや ウィルス対策ソフトが、CPUやメモリーを占領するために、他のプログラムの動きが、悪くなっているのだろうかとも、考えました。
タスクマネージャーで調べてみると、CPUも特に活発に動いている様子もないし、メモリーも余裕がありました。
それでも、ハードディスクが作動しているランプが、ずっと点灯しっ放しなので、どうしたことなのかと、ずっと不思議に思っていました。
でも、その理由が今回の不具合で、ようやく理解できました。
パソコンを立ち上げた時に、パソコンが起動すると、普段はパソコンメーカーのロゴマークが、モニター画面に出て来ます。
でも、今回はロゴマークが表れず、タイプライターで打ち出したような、意味不明のアルファベットや、数字を並べた文のようなものが、ずらずらっと出て来て、動かなくなったのです。
意味がわからないので、このブログを書くのに使っている、ノートパソコンを使い、インターネットで状況を調べてみました。
すると、Windowsを立ち上げるための、Biosというものを、初期化する必要があるとのこと。
しかも、それでも上手く行かない場合は、パソコンの機械が Windowsプログラムが入っている、ハードディスクにアクセス出来ていないと、いうことらしいのです。
つまり、もう機械がだめだってことですね。
それで、書かれてある指示に従って、恐る恐る Biosを初期化してみると、今度はロゴマークが出て来ました。
それで、ほっとしていたのですが、立ち上がったはずのデスクトップ画面にある、たくさんのアイコンが真っ白のままです。
しばらく待ってみたのですが、変化がないので、再起動。
今度はアイコンも元通りになったので、やれやれでした。
しかし、何をするにしても反応がとても鈍く、これはやはり、ハードディスクとのやり取りが、順調に行っていないのだと判断しました。
古い保証書を探し出して調べてみると、このパソコンを購入したのは、平成23年6月でした。
まるまる9年が過ぎて、10年目に入ったところだったのです。
そもそも、このパソコンは Windows7でして、去年の暮れにマイクロソフトのサポートが、終了した代物です。
インターネットに接続するのをやめて、ワープロ専用機として使っていたのですけど、やっぱり無理だったようです。
今はノートパソコンがあるので、特に困るわけではないのですが、このノートパソコンも、いつ壊れるかわかりません。
それに画面が小さいのは、若くない私には、ちょっと見づらくもあるのです。
ですから、いずれまたデスクトップのパソコンを、購入しようと思うのですが、資金がないので、それはもうしばらく、先のことになりそうです。
まあ、それはいいとして、このデスクトップパソコンの中には、家族の写真やら、自分で作った文書や、いろいろ集めた資料が、たくさん詰め込まれているのです。
パソコンが完全に、おシャカになってしまう前に、それらのデータを、外付けハードディスクへ、移しておかねばなりません。
それで昨日から、かかりきりでやっているのですが、動作が非常に遅いので、本来なら1、2分でできてしまうことでも、数十分かかってしまうのです。
大変だから、寝ている間に、勝手にやっといてもらおうと思ったのですが、今朝起きて見ると、動きが止まっていて、画面にメッセージが出ています。
「このフォルダーはほかの人と共有されています」
「このフォルダーを移動すると共有は解除されます」
それで、このまま続行するのか、キャンセルするのかと、こちらに尋ねているわけです。
データの移動作業は、ほとんどできていません。
がっくりしながら、続行ボタンをポチッと押しました。
そう言えば、昨日の作業をしている時も、同じことを求められたなと反省です。

今もこのブログを書きながら、横で時々、この続行ボタンを押しています。
何だか動きがおかしくなって来たなと、感じ始めた時に、必要な作業を済ませておくこと。
自分が体調を崩した時の対処と、同じことでした。
ところで、データを移される外付けハードディスクの、ピコピコ点灯するランプを見ていて、ふと思いました。
この機械の中に、記録されている磁気のデータは、それだけを見ると、0か1なのだなと。

一つ一つの情報は、0か1のどちらかだけです。
このデータが物を言えたとすると、「ぼくは 0だぞ」「あたしは 1よ」ということしか、言えないでしょう。
それ以外のことは、何もわからないのです。
それなのに、「0のぼく」と、「1のあたし」がたくさん並ぶことで、様々なデータやプログラムが、作られるのです。
しかし、そのデータやプログラムも、自分たちがモニター画面に出て来る、文字や映像、スピーカーの音などを、作っているとは、露ほども知らないのです。
面白いですよね。
モニターで動き回っているキャラクターや、映像などは、自分たちがプログラムとデータの合作だなんて、これっぽっちも考えないでしょう。
ましてや、0と1が並んだだけだなんて、理解の範囲を超えているでしょう。
これと同じことが、私たちにも言えるのですね。
私たちの体も、様々な臓器や筋肉や骨が、皮膚にくるまれているのですが、誰もそんなことを考えながら、生きてはいません。
その臓器なども、小さな細胞でできていて、これらの細胞が、私たちが起きていようと寝ていようと、活動を続けてくれるので、私たちは生きていけるのです。
でも、細胞のことなど、臓器以上に思い浮かべることなど、ありません。
その細胞も、目に見えないほど小さな、原子や分子の集まりです。
そして、原子や分子は、さらに小さな素粒子の集まりなのです。

今の科学では素粒子よりも、小さなエネルギー単位は、設定されていません。
その素粒子になると、私たちが当たり前に考えている、形というものがないのです。
形というものは、電磁的な力によって、構成されています。
電磁的な力で、原子が引き合ったり、反発し合ったりして、物の形や境界が、形成されるのです。
でも、電磁的な力を働かせる元である、素粒子には形がありません。
つまり形というものは、本質を言えば見せかけであって、本当に存在しているのは、素粒子が集まった、エネルギー体ということなのです。
一種の幽霊みたいなものでしょうか。
幽霊との違いは、幽霊の体を構成する力が、私たちの体を構成する電磁力とは、別の力だということです。
あなたの体も、あなたの周囲に存在している物も、全てがまやかしで、本当はみんな、ただのエネルギー体だと考えると、不思議な気持ちになりませんか。
それは私たちの心にも言えると、私は思うのです。

私たちの心は、知性、感情、感覚、記憶によって、構成されています。
あるいは、そういうもので構成された人格が、いくつも集まってできているとも、考えられます。
普段は全てが、一つになっていますから、特に分けて考えることもないでしょう。
でも、たとえば重なっている人格が、分離したような感じになると、精神的な疾患と診断されます。
知性、感情、感覚、記憶、これらの要素が、どれだけ深く、その人物の構成に関わっているかによって、その人の個性や性格といったものが、独自のものになるのでしょう。
あなたが別の人の記憶を、自らの中に取り込んだとしましょう。
すると、あなたは今の自分という、認識を維持しながら、他人の経験を自分の経験として、受け止めることになるのです。
あなたがコンピューターのような知性に、アクセスできたならば、いわゆる数学的天才になります。
人生がつまらないと思っていた人が、何かをきっかけにして、豊かな人生を送るようになったとします。
きっと、その人は感情の要素が、とても豊かになっているはずです。
あなたがコウモリやイルカのように、超音波を聞き取れるようになったり、渡り鳥のように地球の磁気を、感じられるようになったら、どんな感じになるでしょうか。
人の想いを、直接感じられるようになったなら、世界はどんな風になると思いますか。
いろいろ考えると、面白いですね。

知性、感情、感覚、記憶。
こういったものも、恐らくは素粒子のような、小さなエネルギー単位が、集まってできているのです。
一方で、私たちの一人一人の意識が、素粒子のように、もっと大きな何かを、構成している可能性があります。
一番身近な構成物は、集団の意識というものです。
家族、民族、宗教、国、性、年代、いろんな要素が、集団を作るきっかけになります。
誰か一人が孤立する時、目には見えませんが、集団の意識と、そこに入り込めない一つの意識という、エネルギー体の対峙があるのでしょう。
人々が対立し合う時、あるいは、それぞれが自分のことばかり考えている時、そこにあるエネルギー体はバラバラで、一つにまとまることはありません。
一つ一つのエネルギー体は小さいですから、大したことはできません。
しかし、協力し合ったり、互いを思いやったりするようになると、バラバラだったエネルギー体が、一つに集まって大きな集合意識を、形成することになります。
大きなエネルギー体は、パワーがありますから、何をするにも、小さなエネルギーより有利です。
この場合、一人一人は自分で考えて行動している、という自覚を持っています。
しかし、集合意識の立場で考えると、一人一人は自分の分身です。
全員が一つの目的を持って、動いているという認識を、集合意識は持つでしょう。
この集合意識が国や民族、宗教などを超えて、地球全体に広がる、全人類の集合意識となったと考えてみて下さい。
全員が全人類の集合意識の、分身なのです。
そこに敵は、一人も存在しません。

個性は維持されています。
しかし、個性を理由にした対立や、イジメなどは起こりません。
個性は可能性として喜ばれ、多様な個性によるハーモニーが、美しく感動的な振動を、全ての人の心に広げることでしょう。
一人の悩みは、全員の悩みです。
一人の喜びは、全員の喜びです。
どんなに遠方に離れていても、人々の心は、一つにつながっているのです。
そのつながり、そのハーモニーは、肉体を持っていようと、肉体から離れていようと、関係がありません。
心のつながりが、感じられるようになったなら、今の世界でいう生死の問題は、単なる変化として、とらえられるようになるでしょう。
そして、全人類の集合意識が地球を越えて、他の星の集合意識と交流し、やがて一つになって行くとすれば、こんなに楽しく素晴らしいことは、ないのではないでしょうか。

つい、ブログを書くのに、夢中になってしまいました。
デスクトップのパソコンのモニターが、続行するかどうかと尋ねています。
幽霊を科学する2

幽霊になるのが、無念の死を迎えた人だけであれば、幽霊はその人自身ではない、という考え方もあります。
死んだ人の心と言うより、その人が抱いていた強い思いが、念として残っていると、理解するのです。
要するに、死んだ人の心は消え去るけれど、その人の恨みや悲しみなどの、強いマイナスの思念の渦だけが、しばらくは幽霊という形で、残り続けるというわけです。
しかし、強い思念というものも、物質エネルギーではありません。
強い思念が残るというのであれば、結局は物質エネルギーとは別のエネルギーを、想定する必要が出て来ます。
精神が属するエネルギーを想定するのであれば、人の心が肉体の死後に、残っていても問題はありません。
それでも、肉体は死後に崩壊するから、心も死後に崩壊するだろうと、考えたくなるかも知れません。
確かに、それも一つの考え方だと思います。
しかし、それは推論に過ぎませんし、死後も心が、どこかに存在しているという、可能性を否定できるものではありません。
そのどこかを、昔の人はあの世という言葉で、表現していたのでしょう。
あの世があるのであれば、世界を考える時に、この世とあの世の両方を考慮する、必要が出て来ます。
また、あの世があるとなれば、当然、この世とあの世の間で、連絡を取り合う方法が、あるのではないかと考える人が、出て来るでしょう。

「おじいちゃん、そっちの世界では、何をして暮らしているの?」
「生きていた頃と、同じだよ。違うのは、誰かに会いたいって思ったら、その相手が目の前にいるってことかな」
こんな風に亡くなった家族と、いつでも気軽に会話ができれば、素敵だと思いませんか。
テレビ電話のように、モニター画面があれば、遠方で離れて暮らしているのと、何の変わりもないですよね。
未解決の殺人事件も、死んだ本人から話が聞ければ、解決できるかも知れません。
誰かを殺した人は、自分が死んであの世へ行くことを、とても恐れるでしょう。
死後の世界にいる人から、あの世の様子や、この世に生まれて来ることの意味などを、教えてもらえたら、どうでしょうか。
きっと人々の価値観に、革命が起こるに違いありません。
どうせ死んだらおしまいだから、生きている間にいい思いをしよう、という考えは、成り立たなくなってしまいます。

今の世の中は、科学技術ばかりが大きくなり、人としての心が未成熟な、いびつな社会です。
しかし、あの世の発見により、科学も社会も新たなステージを、迎えることになるでしょう。
新たな時代を迎えた社会は、これまでと違って、精神と科学のバランスが取れた、素晴らしい世の中になるに違いありません。
でも、そのためには幽霊の存在を認め、幽霊について研究しなければなりません。
ただ、幽霊とは、元々生きた人間だったのです。
穏やかな死を迎えた人が、研究に協力するということで、あの世から幽霊となって、現れてくれるのであれば、問題はありません。
しかし、無念の死を迎えて、幽霊になった人たちは、死んだ後も苦しみ続けていると、考えられます。
そういう方たちを研究対象にする場合、その苦しみや無念な思いに対する、配慮が必要なことは、言うまでもありません。
肉体があろうがなかろうが、みんな私たちと同じ人間なのです。
そうは言っても、実際に幽霊を研究しようという、学者はほとんどいないでしょう。
科学的な結論を待っていては、人々が抱えている悩みや、社会の問題を解決することができません。
科学的に研究すれば、必ず素晴らしい成果に、結びつくと思います。
でも一般の人々は、研究を学者任せにしないで、幽霊の存在が意味するところを、自分たちで考えるべきだと思います。
科学的な立証がなくても、自分が納得できれば、人生を生きて行くための指標を、持つことができます。
それは豊かで深みのある人生を、約束してくれるものなのです。

幽霊を科学する1
猛暑はまだ続いていますが、セミの鳴き声には変化がありました。
朝のうちにシャワシャワと合唱していた、クマゼミの鳴き声が聞こえなくなり、代わりにツクツクボウシが鳴いていました。
暑いとは言いながら、秋の気配が近づいて来ているのでしょうね。

ところで、最近は少し減ったような気がしますが、夏になるとバラエティ番組で、心霊写真や怖い話の体験談などの、特集がよく組まれますよね。
でも、テレビの司会者やコメンテーターも、ただ怖いだの恐ろしいだのと、言うばかりです。
たいてい専門家の先生や霊能力者が、心霊話や心霊写真の説明をし、みんなそれで納得しておしまいというのが、いつものパターンです。
テレビを見ている視聴者の方も、その姿勢は同じで、ああ怖かったというだけの話です。
でも、私はいつも思うのです。
ちょっと待ってくれないかと。
霊能力者が出て来て、これは霊ですと言えば、そうなのだと思い、学者が出て来て、これは明らかに思い違いですねと言うと、なるほどそうかと、うなずく。
どっちの言い分を信じるのかと問われても、大半の人は、わからないと言うのでしょう。
いずれにしても、番組が終わってしまえば、心霊の話もそれでおしまい。
日常生活には、何の影響も及ぼしません。
次の日には、全然違う話題に、夢中になっているでしょう。
でも、考えて下さい。
幽霊が存在するならば、それは大変なことなんです。
肉体が死んだ後も、その人の精神が、残っているという事なのですから。

一般的には、人間は死んだらおしまい、とされています。
心や意識の本質が、何なのかという事については、うやむやにされたまま、死んでしまえば存在が、全て消え去ると、考えられているのです。
でも日本人の場合、あの世とか、ご先祖さまという考え方を、持ってる方が多いでしょう。
よくはわからないけど、あの世はあるのではないだろうかと、考える人も少なくないと思います。
そういう方は、幽霊の存在を、信じているかも知れません。
でも、幽霊なんて気のせいだし、あの世なんてあるわけがないと、科学知識を振り回す人から責められると、反論ができません。
結局、多くの人が幽霊について、バラエティ番組で楽しむものであって、日常の暮らしの中で、真剣に考える対象ではないと、考えるようになるのです。
幽霊の話なんかを、真面目にする人は、頭がおかしい変わり者だと、思われてしまうに違いないと、受け止めるからです。
この雰囲気作りに、テレビ局は大いに加担しています。
テレビ局は幽霊を紹介する一方で、幽霊を否定するような見解を中心に、番組を作ります。
その結果、テレビを見ている人は、何だ、結局、幽霊なんていないんじゃないかと、思うようになるのです。
幽霊は私たちの死後について、考える機会とヒントを、与えてくれています。
それなのに、幽霊を真面目に考えようとしないのは、いずれは必ず訪れる死について、目をつぶってしまうのと同じです。
そして、いざ死を迎える時になると、自分はどうなってしまうのかと、恐怖と不安に襲われるのです。

私たちが本当は、どのような存在であるのかを、幽霊は教えてくれています。
また、世界が本当はどうなっているのかを、幽霊は示唆してくれているのです。
心が物質エネルギーではないことを、科学者たちは認めています。
しかし、心が何であるのかを、説明はできません。
物質エネルギーでないのであれば、違う種類のエネルギーの存在を、認めるべきなのです。
そのエネルギーは世界の構築に、大いに関わっているでしょう。
それを解明することは、世界を解明することに、つながるはずです。
生きている人間と比べると、偏りがあるようには思えますが、幽霊にも幽霊なりの意識があるでしょう。
それは恐らく人間の心と、同じ種類のエネルギーだと思います。
心の正体を解き明かすためにも、幽霊の研究は必要です。
死んだ人全てが、幽霊になるわけではありません。
幽霊の多くは、無念の死を迎えているように思えます。
そのために未練や恨み、怒りや悲しみなどの感情を、持ち合わせている事が多いのでしょう。

動き出したUFO認知

先日、NHKのコズミックフロント☆NEXT「U.F.O.の真実」の、再放送を見ました。
元の放送があったのは、今年の 5月25日で、アメリカがUFOの存在を認めたと、NHKニュースでも取り上げた、すぐ後のことです。
この頃、イギリスも独自の UFO調査の結果を、公表しています。
イギリスの調査は、2009年までで終了しています。
でも、その結果は UFOを否定するものではなく、逆にその存在を認めるものでした。
ただ、国にとって脅威的なものではない、との判断によって、調査は中止となったそうです。
これに先立ち、フランスの国立宇宙研究センターは、2007年に UFO情報を公開しています。
しかしこの時点では、UFO情報というだけで、その信憑性については、一般的には評価されていなかったようです。
それに対して、アメリカとイギリスの政府が、 UFOを認めたというのは、UFOに関心がなかった人から見ても、とてもインパクトの強い情報でしょう。

アメリカはUFOを、異星人の乗り物だと、公式に認めたわけではありません。
しかし、科学の常識を、越えたものであることは、認めているわけです。
それは暗に異星人の存在を、示唆しているのです。
アメリカのUFO映像の公開に合わせて、日本の河野防衛大臣は、自衛隊の航空機などが、UFOに遭遇した際の手順を、定める考えを示しています。
河野大臣自身は、UFOの存在を、信じていないと述べています。
それでも、このような発言をしたというのは、河野大臣の素直さはもちろんですが、アメリカが UFOの存在を、認めたという事実が、大きいという事です。
にわかには信じられないけど、アメリカが認めたから、本当なのか?
そんな感じなのでしょうね。
NHKがニュースに取り上げ、コズミックフロント☆NEXTで特集を組んだのも、アメリカが認めたという事実が、大きく影響していると思います。
コズミックフロント☆NEXTは、宇宙の神秘を紹介して来た、真面目な科学番組です。
その中で、地球外生命体や異星人の可能性について、これまでにも語られることはありました。
でも、それらはロマンを、追い求めるような内容であり、いるかも知れない、いたらすごいですね、という感じのものでした。
それに対して、今回の「U.F.O.の真実」は、がらりと様子が変わっています。
UFOは確実に、存在しているという前提で、番組が作られているのです。
UFO が人間が造った物でないのであれば、異星人が造ったと、考えるしかありません。
番組は、異星人がすでに、地球に来ている可能性を、真剣な雰囲気で伝えていました。

かつて UFOや異星人の話は、幽霊や心霊現象、魔術や呪い、ネッシーやツチノコなどの未確認生物の話なんかと、同レベルに扱われていました。
民放テレビ局のバラエティ番組の、題材として扱われるだけで、真剣に議論されることはありませんでした。
出演者の中で、UFOを実際に目撃したと、証言する人がいても、まともに話を聞く者はいませんでした。
その人は、みんなから馬鹿にされるだけで、終わります。
そんな扱いを受けている UFOを、通常であれば、天下の NHKが、真剣に取り上げるはずがありません。
しかし、今回はその NHKが動いたのです。
これは日本人にとって、アメリカ政府が UFOを認めた以上に、強いインパクトがあったと思います。
アメリカ国防総省は今月14日に、UFO調査の特別チームを、海軍の主導で立ち上げる声明を、発表したと言います。
米国の安全保障に、脅威を及ぼす可能性がある、未確認の空中現象を、探知・分析・分類することが、任務だそうです。
脅威がないと判断し、調査を中止したイギリスとは、対照的な反応ですね。
アメリカでは、 UFOによって核ミサイルが、作動できなくなるという事例が、報告されているようです。
この報告を事実ととらえたならば、アメリカは核ミサイルによって、他国より優位に立つことが、できなくなるわけです。
これはアメリカとしては、放っておくわけにはいかないでしょう。
力こそ正義の国ですから、自分たちの軍事力を無能にする UFOは、間違いなく脅威です。
一方で、アメリカのように軍事力をちらつかせながら、世界を牛耳ろうとしないイギリスは、UFOを脅威とみなす必要がありません。
そこの違いが、両者の対応の違いとなったのではないかと、私は考えています。
しかし、異星人が地球のどこかの国に、肩入れをするとは思えません。
もし、ロシアや中国、あるいは北朝鮮など、アメリカ以外の国が、核ミサイルを発射しようとしたとすれば、恐らくそのミサイルも、作動不能にされてしまうでしょう。

異星人が求めているのは、平和なのです。
核ミサイルなどという、愚かな物を使うんじゃないと、メッセージを発しているのでしょう。
それに、自分たちの存在を見せつけることで、地球人同士で争っている場合ではないと、私たち人類に考えさせるのも、目的だったのかも知れません。
いずれにしても、面白い展開になりました。
UFO が実在するかどうかの段階が終わり、UFO とは何なのか、という段階に入ったのです。
これからは、民放テレビ局で UFOを取り上げるにしても、これまでのようなふざけた雰囲気は、なくなるでしょう。
しばらくは、これまでどおり UFOを茶化そうとする人も、出演するでしょう。
でも、今後はそう言う人たちが、次第に居づらくなるに違いありません。
その結果、一般の人々も UFOを身近なものとして、とらえるようになるでしょう。
日常の中で、UFOについて考えたり、話し合ったりすることも、自然なものになると思います。
UFOの存在を認めることは、宗教にも大きな影響を与えるでしょう。
原理主義に固まる人たちは、自分たちの考えが、誤っているという事実を、突きつけられることになります。
また、科学の分野でも、現在の科学レベルを、超えようと意気込む、研究者たちであふれるに違いありません。
政治家たちも、自分たちがいかにちっぽけであるかを、見せつけられるでしょう。
下らない思想や、偏った価値観には、誰もついて行かなくなります。
人々は自ら一つになろうと動き出し、リーダーとなる者は、その動きを効率化させようと考える者が、選ばれるでしょう。
こうして人々が、異星人を受け入れる雰囲気が、出来上がった頃に、異星人が直接姿を見せるのです。
その頃には、人間社会も今よりずっと、開放的で多様性に満ちた、平和なものになっていると思います。
アメリカ国家安全保障局が公開した、1968年の論文には、異星人が乗った UFOに遭遇した時の、対処法が書かれてあったそうです。
それは、友好的で異文化の全てを学ぼうとする熱意を持ち、国全体が連携するという、日本のやり方に学ぶべきだ、というものです。
この論文を、直接確かめたわけではありません。
でも、本当にそう書かれていたのだとしたら、日本人としては嬉しいですし、とても光栄に思いますよね。
また、この論文には、著者が意図していないメッセージが、隠されているようにも思います。
それは、日本人には地球を平和へ導き、異星人とのコンタクトを成功させる、素質があるということです。
鍵と言っても、いいかも知れません。
でも、今の政府に、その素質があるとは思えません。
また、今の日本人全てに、その素質があるとも言いません。
それでも日本人の本質が、どのようなものかは、誰もが見て感じることが、できると思います。
偏った価値観に振り回されるのではなく、私たち日本人の中に流れる、本質をどんどん出して広げるようにすれば、きっと世界は平和になるでしょう。
そして、そうすることは日本人の義務であり、使命でもあるのだと、私は思うのです。

求められる対策とは2

困った人を助けたい。
その気持ちがあれば、そこに新たな仕事、新たな産業が生まれます。
これまでは、誰かの笑顔を見たいと言うより、お金をたくさん稼ぎたい、という考えの上に立った仕事が、多かったのではないかと思います。
その結果が、今の状況につながっているのだと、私は考えています。
世の中が大変な今こそ、社会はお金を稼ぐことに、主眼を置くのではなく、人々に喜びを与えることにこそ、着目しないといけません。
喜びは、世の中から求められています。
誰かを喜ばせたい、という思いで始めた仕事は、必ず成功へつながると思います。

初めは、赤ん坊が産声をあげたような、小さく弱々しいものかも知れません。
しかし利用者から、多くの感謝の声が出て来ると、事業は拡大を迫られるようになります。
大きくするつもりがなくても、そうなるよう求められるのです。
また、これまでなかったような楽しい遊びや、ゲームなど、人々の心を楽しませ、和ませるようなものも、いいと思います。
人を傷つけたり、自分だけがいい思いをする、という趣旨のものではなく、参加して幸せな気持ちになれるような、人と人をつなげるようなものが、求められるでしょう。
地球温暖化への対策も、考えねばなりませんが、それに関する研究や仕事も、もっと増えて行くでしょう。
自然環境への取り込みを、人々に広げて行く、仕事も大切です。
元々ロボット好きな、国民性の日本ですから、ロボット関係の仕事も、大いに期待されていると思います。
地方の過疎地の活性化と、食料自給率を上げることを、共に考えるのもいいですね。
もっと都会の人が、農業へ参入できるよう、具体的かつ強力に、働きかけて行くべきでしょう。
今の状況下でも、必要な仕事は、たくさんあります。
優秀な人材も、たくさんいると思います。
両者のマッチングを上手くすれば、社会は活気づくでしょう。
また、以前よりもいい社会になると思います。

子供たちにも、受験勉強ばかりさせてはいけません。
どうすれば、人を喜ばせることができるのか、アイデアを出して実践する、という経験を、学校でさせてみるといいでしょう。
子供は大人よりも考え方が、新鮮で柔軟です。
大人が考えつかないようなことを、さらりと思いつきます。
それに、人を喜ばせるということを学べば、いじめ問題もなくなるでしょう。
そういう子供たちが成長して、社会に出るようになると、社会におけるいじめも、なくなると思います。
目の前に、何か問題が起こった時、目先だけの対処をしてはだめです。
その陰に隠れた、問題の本質を探らねばなりません。
そのためには、一つの問題を通して、社会全体に目を向けるのです。
どんな問題も、その本質は社会にあります。
本質を見極めたなら、社会の全体的な対策というものを、取らなければなりません。
その中には、子供の教育も含まれます。
教育は、あらゆる問題の、根本的な解決方法です。
そのことを、政府も私たちも、理解して置く必要があるのです。
求められる対策とは1

コロナ騒ぎの影響で、2020年4~6月期のGDP (国民総生産) が、戦後最大の落ち込みになりました。
GDP (国民総生産) とは、一定期間内に国内で生産された物や、サービスの付加価値のこととされています。
つまり、生産物やサービスで、どれだけ儲けたかということです。
それは国民が消費した金額と、国内企業が投資したお金、それと政府が使ったお金と、貿易の輸出額から、輸入額を差し引いた金額を、合わせたものだそうです。
GDPが落ち込むというのは、主に国民がお金を使わない、企業が投資しない、ということを意味しているのでしょう。
要するに、景気が悪いということです。
コロナ問題は日本だけでなく、世界規模のことです。
日本だけが頑張ったところで、外国企業との取引が、元通りになるのは、むずかしいと思われます。
外国と取引がある企業は、経営が困難になる所が増えるでしょう。
そうなると倒産するか、倒産を免れるために、人員を削減したり、投資を控えたりします。
クビにならずに済んだ人も、給料が減ったり、ボーナスが出なくなったりするかも知れません。
直接外国との取引がない所が、安心というわけではありません。
自分の取引先が、外国と提携していた場合、そこが潰れるという事は、有り得るのです。
そうなると、外国とは関係ない自分の所が、連鎖倒産する可能性があるのです。
ご存知のように観光業や飲食業も、コロナ対策での外出自粛、あるいは外国人観光客の激減で、大打撃を受けています。
スポーツ観戦やコンサートは、観客数に制限がかけられていて、未だに客席を満席にするわけにはいきません。
将来的な不安から、個人も企業も、お金を手元に、残して置こうとします。
それが消費を抑え込み、さらなる景気悪化へと、進んで行きます。
急ぎの物や必需品でなければ、購入は後回しにされてしまいます。
物作りを生業にしている人たちは、廃業の危機にあると言えます。

この状況を打破するためには、コロナへの不安が、払拭される必要があるでしょう。
人が安心して、自由に行き来できるようになるまでは、社会の活気は、取り戻せないと思います。
それは日本だけでなく、世界中の国で言えることなのです。
しかし、コロナが解決したとしても、新たに他の感染症が、広まる可能性はあります。
そうなると、また元の制限された暮らしを、余儀なくされることになるでしょう。
その不安は、コロナ騒ぎが落ち着いても、ずっと残り続けます。
ところで、コロナ騒ぎの前の状況が、本当によかったのかと問われると、そうとも言えないと思います。
コロナ騒ぎの前は、誰もが安定に幸せな暮らしを、送れていたでしょうか。
一度貧困に陥った人は、そこから脱却するのは、容易なことではありませんでした。
元々家が貧困であれば、そこの子供は何かを学ぶにしても、遊ぶにしても、他の家庭に比べて、大きく制限されていたはずです。
それでも受験戦争は、子供たち全員を、巻き込んでしまいます。
塾に通うことの善し悪しは別にして、経済的に余裕がなければ、塾に子供を通わせることはできません。
子供の将来のために、スポーツや音楽、あるいは英語や、コンピュータープログラムなどを、学ばせたいと親は思うでしょう。
でも、やはりお金がなければ、そんなことも不可能です。
それでもがんばって勉強して、奨学金をもらったり、アルバイトをしてお金を貯めたりして、目指す学校へ行く子もいると思います。
しかし、学校を卒業して就職となると、何十もの企業の面接を受けても、内定をもらえないかも知れません。
何とか仕事が決まっても、自分に合わない仕事だったり、大学の勉強とは全然無関係だったり、あるは明らかなブラック企業だったりと、困難にぶつかることも多いでしょう。
貧困のために、学校へ行けなかったり、就職先で上手く行かなかったりして、自信を喪失する子も、少なくないと聞きます。
これからの社会を、担って行く若い人たちが、そのような状況にあった社会が、いいと言えるのでしょうか。

若い人たちの話だけではありません。
長年頑張っていた方の仕事や職場が、コロナ騒ぎを含めた災害によって、だめになったことも少なくないでしょう。
特に、ここ何年もの間、日本は多くの災害で、様々なものを失って来ました。
それでも、期待したような支援は、受けられません。
基本的に、全て個人の責任で、という事になっているからです。
都会にばかり人が集中し、過疎地では集落が、消えて行く所もあります。
しかし、何でもあるはずの都会でも、急病の時の病院のたらい回しや、子供を預ける保育所不足、お年寄りの介護施設不足など、問題は山積みです。
親の介護ができる者がおらず、今の仕事を辞めて、親元で暮らす人もいます。
でも、親の介護をしながらできる仕事は、なかなか見つかりません。
やっと見つけた仕事も、相当無理をしなければ、続けることができません。
その結果、体を壊すと、親の介護どころか、自分の事もできなくなってしまいます。
これまでの社会は、多くの人がとりあえず、何とか生きて来たというだけです。
それほどよかったと、言うわけではありません。
実際は、何とか生きる事ができない人も、たくさんいるのです。
その事実は、社会から見て見ぬふりをされていた、というのが本当でしょう。
そういう事が見えないようにしながら、何とか暮らして行ける社会のように、見せかけていただけなのです。
それでも、無事に生きて来た人にとっては、コロナ騒ぎで仕事を失いそうな今よりも、過去の世界の方が、いいように見えるでしょう。
でも本当は、過去にすがるのではなく、もっといい未来を創る方向へ、舵を切った方がいいのです。
