四国遍路2

四国遍路には、奥深さがあると思うのですが、ここ何年もの間、お遍路さんの姿が、ぐっと減ったように、私は感じていました。
去年の秋の、日本経済新聞の記事にありましたが、経済のバブル崩壊が、人々を巡礼から遠ざけたようです。
お遍路さんの数は、2000年頃がピークで、13万5000人ほどだったそうです。
しかし、その後どんどん減り続け、2018年度は5万5000人になったと言います。
お遍路さんが減ると、お遍路さんたちが利用していた旅館の、経営が維持できなくなります。
宿屋が潰れてしまうと、泊まる所がなくなりますから、ますますお遍路さんの数は減ってしまいます。
お遍路さん相手の商売ができなくなると、その地域で暮らす人が減ります。
そうなると、遍路道を整備してくれる人が、いなくなるのです。
これもまた、さらにお遍路さんを減らしてしまう、要因になるでしょう。
四国巡礼には、お遍路さんを無料でもてなす、お接待という四国独特の風習があります。
でも、お遍路さんが来なかったり、お遍路さんのお世話をする、地域の人がいなくなると、それもなくなって行くのでしょう。
遍路旅を文化としてとらえた時に、その文化が廃れて行くのを見るのは、四国を愛する者の立場からは、ちょっとつらいものがあるようです。
それでお遍路さんの数を増やそうと、期待をかけられたのが、外国からの訪日客です。
労働者の数を補うために、外国人労働者を呼ぶのと、同じ状況ですね。
2018年には、訪日客のお遍路さんが、初めて1000人を超えたそうです。
でも、日本人のお遍路さんの穴埋めをするには、全然足りていません。
それで、もっと外国人のお遍路さんを増やそうと、四国4県では、八十八ヶ所巡りを世界遺産に登録しようと、運動を始めています。
それでも、今回のコロナ騒ぎの影響で、外国からの観光客は入って来ないし、札所のお寺も感染防止という理由で、納経所を閉鎖しています。
つまり、お寺を参拝しても、御朱印がもらえないのです。
なかなか思惑通りに行かないようで、お気の毒に思うのですが、でも、考えてみると、何かがおかしいような気がします。

四国巡礼の遍路旅とは、基本的には宗教的なものです。
遍路旅には同行二人(どうぎょうににん)と言って、一人で回っていても、常に弘法大師がそばにいてくれるという、教えがあります。
これはまさに、宗教そのものです。
キリスト教で言えば、イエスさまがいつも一緒にいてくれますよ、と言っているのと同じです。
異教徒の人や無宗教の人には、同行二人なんて関係ないかも知れません。
でも、人生の問題を背負って遍路旅をする人には、その人なりの神聖さを、この旅に感じているはずです。
悩みや苦しみ、悲しみは、民族や宗教を超えたものです。
人間ならば、誰もが経験することです。
それを癒やしてくれるからこそ、大変な旅をするのでしょうし、他の人にも、遍路旅はいいものだと、伝えてくれるのだと思います。
この人たちにとって、四国巡礼が世界遺産になるかどうかなど、どうでもいいことでしょう。
あるいは、世界遺産登録によって、話のネタに回るだけの人が増えると、旅の雰囲気がぶち壊しにされるので、かえって迷惑に思うかも知れません。
確かに、お遍路さんを接待する人や、宿屋が消えて行くのは、大変だと思います。
でも、その人たちを維持するために、お遍路さんを増やそうと言うのでは、本末転倒のような気がします。
何故、お遍路さんが減ったのか。
それはひとえに、仏教への信仰心が減ったからでしょう。
つまり、今の世の中での、仏教の存在意義が薄れているということです。

私たちが観光で訪れる以外に、日常生活の中で、お寺や仏教に関わる時というのは、どんな時でしょうか。
それは恐らく、お葬式と法事の時ぐらいでしょう。
しかし、今はお葬式のやり方も様々で、お墓を持たない人も、増えていると聞きます。
お葬式の時に、亡くなった方へ戒名という、あの世で使う名前を、お坊さんにつけてもらいますよね。
その戒名にも値段があって、お金をたくさん出せば、立派な戒名がもらえるのです。
お金がないから、一番安いのでいいと言うと、最低ランクの戒名だと、亡くなった方が気の毒だから、もう少し上のランクの方がいいと、お坊さんに勧められるようです。
その人が生前、どれほど優しくて、他人思いのいい人だったとしても、貧乏人だったら、いい名前がもらえないのですね。
しかも、名前をもらう時には、本人は死んでいますから、これがあなたの戒名ですと言われたところで、わかるはずがありません。
そもそも戒名というものは、生きている間に、お寺のためにいろいろ尽くしてくれた人に対して、お寺から感謝の気持ちで、与えてもらうものなのです。
もちろん、本人はそれが自分の戒名だとわかります。
また、これはその人の行いに対して、与えるものですから、お金で買えるものではないのです。
それなのに、今はお寺の方からお金を要求し、貧乏人の戒名だと、故人があの世で恥ずかしい思いをするようなことを、吹聴するのです。
昔の人ならいざ知らず、今どきの人たちに、こんな話が通じるわけがありません。
そういうことをする時点で、信用度はなくなってしまいます。
お寺の方々には、失礼な言い方になってしまいますが、今のお寺は、人々に生きる道を示すのではなく、算盤勘定をすることが、目的になっているように見えます。
だからこそ、若い人を中心に宗教離れ、仏教離れが進んでいると、私は思うのです。
ただ、お寺側の思惑とは関係なく、遍路旅、特に歩き遍路をする方たちは、その旅を通して素晴らしいものを、得るのは事実だと思います。
恐らく、遍路旅で何かを得られた人は、遍路旅が人生と同じなのだと、気づくのでしょうね。
ある地域で生まれ育ち、外を知らない人は、その地域のよさを、理解しにくいものです。
たとえば、田舎から憧れの東京へ出て、都会で暮らすことで、生まれ故郷の田舎のよさが、わかったという話は、よくあります。
それと同じで、自分の人生にどっぷりつかっていると、その人生がどういうものなのかが、見えにくいでしょう。
遍路旅は旅を通して、自分の人生を客観的に、見つめさせてくれます。
自分に与えられた仕事をこなし、いろいろ考え、苦労をしながら歩み続ける人生。
そんな人生を、時折温泉につかりながら、反省したり感謝したりする。
そして、いろんな人や物事のつながりが、理解できたならば、それは遍路旅をしたのと、同じなのだと私は思うのです。

四国遍路1

四国には、八十八ヶ所のお寺を巡る、四国遍路というものがあります。
これは弘法大師(空海)が修行のために、四国の地を回った足跡を、訪ねて回るものです。
順路は徳島県の1番札所霊山寺から始まり、高知県、愛媛県と回って、最後は香川県の88番札所大窪寺で終わります。
その行程は、約1,400kmに及ぶと言います。
その間、それぞれの寺は、均等に建てられているのではありません。
道中、いくつかの寺が近くにある所もあれば、寺がなくて、ずっと長い距離を移動するだけの所もあります。
道が平坦な所もありますが、険しい山道を通ることもあります。
今では、車やバスで移動する人も、多いようです。
そういう人には道の険しさは、あまり関係ないかも知れません。
でも、歩き遍路を行う人は、かなり体力と気力が必要でしょう。

私が松山で暮らすようになったのは、今から30年ほど前のことです。
その頃には、札所のお寺や、お寺へ向かう道には、お遍路さんの姿を、よく見かけました。
お遍路さんは白装束に身を包み、菅笠をかぶって、杖を持っておられます。
遠くからでも、すぐにお遍路さんだとわかりますので、見間違えることはありません。
そのお遍路さんの中には、外国の方の姿も、よく見かけたものです。
お遍路旅は異教徒の人でも、構わないそうなんですね。
一方、外国の人の方も、それぞれ自分の宗教を持っていると思うのですが、そんなことは気にしないで、仏教の遍路旅を楽しまれている様子でした。
宗教を気にしないで巡礼ができるのは、和やかでいいですね。
お寺を回る都度、御朱印をもらえるので、コレクション感覚で、お寺巡りをされる方も、いると思います。
しかし、人生に行き詰まったり、最愛の人を失ったり、いろいろ悩みや苦しみ、悲しみを抱えて旅をされる方も、少なくないようです。
長い距離を歩き続ける方は、途中で遍路旅に出たことを、後悔することもあるそうです。
それでも頑張って歩き続けていると、道中で地域の人々のお世話になったり、様々な人と出会ったりします。
それで感激し、人間であることの喜びを、感じたりするのです。
また、一人で歩いていると、世間の忙しさや価値観から解放されて、時間やお金に追われない、素の自分を見つけることも、できると言います。
そういう経験をしながら、一つ一つお寺を回り、全部回りきることで、大きな達成感が得られるのですね。
それは、その人にとって、とても大きな人生経験となり、その後の人生に対しても、大きな影響を与えることになるようです。

いろんな方への感謝

私のブログは、WordPressというプログラムを、利用して作っています。
WordPressは無料のプログラムですが、高性能です。
そこへさらに、世界中の人たちが WordPressのために、様々な機能のプログラムを作ってくれています。
それらのプログラムを併用することで、WordPressの性能は、ますます高められるのです。
何と言ってもただですし、とても便利だと、本でもネットでも紹介されていましたので、これでブログを始めることにしたのです。
それでも、こういう事に慣れている人が、使うのとは違います。
全くのど素人ですから、マニュアルに書かれていない問題が起きると、どうしていいのかわかりません。
そういう時には、ネットでいろいろ検索をして、何とか問題を解決するのですが、今回、またもや問題が起こって、四苦八苦していました。
ついこないだまで、特に何の問題もなく、だいぶブログ作りにも慣れて来たな、と思っていました。
そんな頃に、何だか文字の打ち込みが、うまく行かなくなり始めたのです。
キーボードで文章を入力しても、画面に文字が表示されるまで、時間がかかるのです。
おかしいなと思いながらも、ブログを書き続けていると、次第に表示されるまでの時間が長くなりました。
キーボードを押しても、画面の方は全くの無反応。
壊れたのかなと思って、もう一度キーボードで入力すると、少ししてから、やっと文字が表示されました。
と思ったら、同じ言葉が続けて表示されます。
初めに表示された文字は、最初に打ち込んだものだったようです。
あまりにも症状がひどくなって、ブログを書くのに、支障をきたすようになったので、インターネットで調べてみたのです。
すると、ブラウザのプログラムが、打ち込んだ言葉のスペルを、勝手にチェックしているかも知れないから、それを止めたら、症状が改善するとありました。
そうだったのかと、指示どおりにやってみました。
でも、何も改善されません。
弱りました。
デスクトップのコンピューターに続いて、こっちのコンピューターもいかれてしまったのかと、新しいコンピューターの費用が、頭をよぎりました。
その時に、ふと気づいたのです。
ブログの文字を打ち込む時には、文字の表示が遅いのです。
でも、Yahoo検索やワープロでの文字の打ち込みは、これまでどおりで、何も問題がありません。
キーボードで打った文字が、即座に画面に表示されます。
と言うことは、コンピューターの問題ではなく、WordPressかサーバーの問題に違いないと考え、再び検索しました。
すると、次に出て来た解決策は、WordPressのキャッシュ領域を、きれいにするというものでした。
これまで書いて来た、ブログの下書きなどのデータが、WordPressのキャッシュ領域に、一杯貯まってしまい、プログラムが動けなくなる、というのが原因だと言うのです。
ブラウザのプログラムのキャッシュが、取り込んだデータで一杯になってしまうと、インターネットの画面表示の速度が、遅くなることがあります。
それと同じ理屈です。
なるほどと思い、そのキャッシュ領域のデータを消してくれるプログラムを、新たに導入しました。
もちろん、このプログラムも無料です。
でも、初めて使うプログラムですから、よくわかりません。
ネットで紹介されている使い方を、いくつも参考にして、それから気合いを入れて、キャッシュ領域をきれいにしました。
すると、あら不思議。
以前のように何の問題もなく、すらすらと画面に文字が、表示されるようになりました。
急いで新しいパソコンを、買う必要がなくなり、万々歳です。
と言うことで、本日のこのブログを、無事に書くことができました。

感謝すべきは、インターネットでいろんなことを、親切に教えて下さる方々ですね。
お金も取らずに、本当に奇特な方ばかりです。
ブログを書いていると、それを自分一人で、作っている気持ちになりがちです。
でも、プログラムを提供してくれる方、その使い方を細かく説明してくれる方、また自分が困った時の解決方法を、親身になって教えてくれる方たちが、いらっしゃいます。
そんな方たちが、いてくれたからこそ、ブログができるのだと、いう気持ちになりました。
それに、インターネット回線を提供してくれる企業や、ブログのためのサーバーを用意してくれる企業、パソコンを作ってくれる企業や、それを売ってくれる企業、いろんな企業があるからこそ、世の中にブログを発信することができるのです。
これまた改めて、ありがたいことだと思いました。
そう考えると、電力会社もそうですし、パソコンなどの部品を、作ってくれる企業も同じです。
そこで働く人々の生活環境を、提供してくれている方たちもそうです。
みんなに活躍の場を与えてくれている、この地球もそうなんですね。
みんなの力があったから、私はブログを発信することができるのです。
本当に感謝したいと思います。
自分が何をするにしても、そこにはいろんなつながりが、あるんですね。
もちろん、自分の行為が、誰かに影響を与えているなんて、一人一人の方たちが、考えているわけではありません。
それでも、影響しているのです。
その人が気づいていなくても、その人の存在は思いがけない所で、誰かの役に立っているんですね。
自分みたいなちっぽけな人間に、何ができるんだと思っていても、それでもちゃんと、その人から発せられた力は、どこかで必ず、誰かに影響を与えているんです。
それは、かく言う私にも、当てはまることです。
誰も読んでくれないかも知れないブログです。
それでもずっと書き続けていると、きっと誰かの目に留まり、その人の役に立つのではないか、と考えています。
その方と直接お目にかかることは、ないかも知れません。
それでも、顔も知らないその人が、笑顔を取り戻したり、好奇心に目を輝かしてもらえれば、これ以上の喜びはありません。
そんな誰かの様子を、思い浮かべながら、これからもブログを続けて行きたい、と思います。

異星人の介入2

宇宙を研究している人であれば、人類以外の異星人の存在を、認めているでしょう。
SF映画で出て来るような、宇宙船をワープさせるような技術も、いつかは現実に可能となるだろうと、信じているはずです。
想像力のある人であれば、異星人が遺伝子操作で、人間を創ったという考えを、否定したりはしないでしょう。
人間が、今よりさらに科学を発達させ、他の星へ旅することが、できたとしましょう。
そして、まだ支配者がいない惑星で、地球とは別の生き物を見つけたとします。
そこで研究者たちは、生き物の遺伝子を調べるでしょう。
その研究者たちの中に、遊び心で地球の生き物に似た生き物を、創ってみようと思う者がいても、不思議ではありません。
犬のような従順なペットを好む者が、異星の生き物をペットにしたいと、考えるかも知れないのです。
そんな研究者がこっそりと、おとなしくて人に従順な性格になるよう、生き物の遺伝子を操作する可能性は、大いにあると思います。

今でも生を冒涜するような、非倫理的な遺伝子操作は、世界的に禁じられています。
それでも名声欲しさと、抑えられない好奇心に従って、やってはいけない実験を、やってしまう研究者が、現実にいるのです。
支配者もいなければ、従うべき法もない惑星で、動物実験をしたところで、研究者が何の罪悪感を抱くでしょう。
ですから、地球を訪れた異星人が、類人猿に遺伝子操作を施して、人類を創ったとしても、荒唐無稽な話とは、言えないのです。
私は異星人が存在していると、考えています。
世界中で目撃される本物のUFOは、異星人の乗り物に違いありません。
彼らが人類を創った存在なのかは、わかりません。
しかし、人類がどのような経緯で誕生したのかは、知っているのではないかと思います。
だからこそ、彼らは人類に、大いなる関心を抱いているのです。
地球人よりも圧倒的な、科学力を持っているのに、彼らはその力で、地球を支配しようとはしません。
それは、人類がどのような成長をするのかを、観察しているからに違いありません。
観察するだけなのかと、思う人もいるでしょう。
きっと異星人たちは、人類が成長して、彼らと対等に話ができるようになるのを、待っているのだと思います。
あなたが動物に遺伝子操作を加え、その動物が知恵を持つようになって、いろんなことを理解できるようになったら、どう思いますか。
あなたはその動物に、何を期待するでしょうか。
自分と対等に会話ができるようになったら、どれだけ楽しくて素敵だろうと思いませんか。
自分の話が理解できるようになれば、もっともっといろんなことを、教えてあげようと思うのではないでしょうか。
そして、いずれは自分の相棒として、共に過ごしたいと考えるのではありませんか。
きっと異星人たちは、そんな思いで人間を、眺めているのだと思います。
それなのに仲間同士でいがみ合い、殺し合い、自分だけがいい思いをしようと、考える者たちが、地上を支配しているのです。
あなたが異星人であったなら、今の地球人を見て、どんな気持ちになるでしょうか。

異星人たちが直接人類の前に、姿を見せて交流を始めることを、私はとても期待しています。
もしそうなれば、それはこれまでの歴史上の、どんな出来事よりも、すごいことです。
その瞬間に立ち会えたなら、どんなに素晴らしいことでしょうか。
しかし、そうなるためには世界が、愛で満たされなければなりません。
お互いに思いやり、感謝ができるようにならないと、異星人は姿を見せてくれないでしょう。
自分たちが、偶然生まれたのではなく、宇宙に満ちた生命エネルギーの中で、生まれるべくして生まれたのだと、理解することは大切です。
その理解は、人間以外の生き物や、自然と呼ばれる地球環境に対しても、思いやりと感謝の気持ちへとつながります。
当然、人間同士の思いやりと感謝を、強めることにもなります。
専門家と呼ばれる人たちや、権力や地位を持っている人たちが、人生とはこんなものだと、決めつけたような価値観に、振り回されないで欲しいと思います。
自分で感じ、自分で考え、自分で判断して下さい。
本当に大切なことは、細かい知識ではありません。
全ては自分自身の中に、含まれています。
自分というものを、深く考えて下さい。
そうすれば、私が伝えたいことが、わかると思います。
そして、自分について深く考えることこそが、人間が人間である所以なのです。

異星人の介入1

現在の人間は、遺伝子を操作して、自然には存在していなかった、動物や植物を作り出すことができます。
特定の遺伝子を欠損させたり、組み込んだりして作った生き物から、病気などの研究をしています。
また、遺伝子を組み替えて、病気に強い作物や、収穫量が多い作物などを、作ることもしています。
猫の受精卵にクラゲの遺伝子を導入することで、体が光る猫を作ったことも、話題にありました。
普通、生き物は体を構成するための遺伝子を、1セット持っています。
そこへ別の生き物の遺伝子を組み込むと、二つの生き物が混ざったようになります。
そういう状態を、ギリシア神話の怪物キマイラにちなんで、キメラと言います。
怪物キマイラは頭がライオン、胴がヤギ、そして尻尾がヘビになっています。
日本の妖怪のヌエと言うのも、似たような姿ですね。
ヌエは、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という姿です。
まだ、ここまでの生き物は、造られていないようですが、キメラ生物に関心を持っている研究者は、少なくないでしょう。

世界中にある神話に出て来る神とは、みんな人間と似たような姿で、描かれています。
旧約聖書の創世記に出て来る神は、人間を我々の姿に似せて作ろうと、述べています。
聖書や神話が事実を記述したものだと、断定することはできません。
しかし、全てがでっち上げだと、決めつけることもできないでしょう。
その真偽は、確かめることができません。
でも、大昔の人々の体験が、口伝てで伝えられた後、文字によって記録された、と考えることはできるでしょう。
もし、そうであるなら、その神の正体は、異星人だったのではないかと、思えるのです。
神話などで伝えられる神々は、笑いもすれば怒りもします。
何かを巡って争ったり、命を落としたりもします。
人間の女性を拐かし、孕ませたりもします。
これって、ほんとに神さまなの?
神話を読みながら、私はそう疑問を感じていました。
確かに、当時の人間よりも、優れた能力や知恵を、持っていたようですから、人々から神として、あがめられはしたでしょう。
でも、とても世界を創った神、というイメージではありません。
キリスト教の神は唯一神で、神は一人だけのはずです。
それなのに聖書によれば、神が人間を創る時、神は人間を我々の姿に似せようと、言ったのです。
我々というのは複数形です。
つまり、神は一人ではなかったわけです。
この記述からイメージできるのは、手術室や研究室のような所で、実験動物を取り囲んだ、研究者たちの姿です。
その研究者たちとは、異星人の科学者たちなのだと、私は受け止めています。

聖書がでたらめだと言う人から見れば、そもそも作り話を、異星人の証とすることが、間違っていると思うでしょう。
それは確かに、そのとおりです。
でも、でたらめでなかったとすれば、やはり神と呼ばれていた者たちは、異星人であった可能性はあると思います。
それに聖書や神話を別にしても、異星人が類人猿に、遺伝子操作を施して、人類を創った可能性は、否定できないでしょう。
異星人には、それだけの知識と技術があるはずだと、私は考えています。
すると今度は、異星人なんているわけがないし、いたとしても地球へ来るのは、科学的に不可能だ、と言う人がいるかも知れません。
でも、そういう方は、科学がどんなものかを、理解しているとは言えません。
本物の科学者であれば、宇宙の全てを、知り尽くしたようなことは、冗談でも口にしないでしょう。
彼らは、人類が知り得た宇宙の謎は、ほんの一欠片に過ぎないことを、知っています。
また、だからこそ好奇心がかきたてられ、新たな発見へ向かって、闘志を燃やすのです。
生物の進化2

人間は自分を認識しています。
チンパンジーやゴリラなどの類人猿も、自分について考えることが、あるかも知れません。
しかし、人間ほど自分について、いろいろ考えたりはしないでしょう。
自然界で生きるためには、食べ物を見つけることと、身を守ること、交尾相手を見つけることが、何より重要です。
自分について考える、暇はありません。
では、落ち着いた状況にいる時だったら、自分について考えるでしょうか。
恐らく、遊ぶことはするでしょう。
でも、自分とは何ぞやと、首をかしげることはしないと思います。
人間と類人猿は、体の構造が似ています。
また遺伝子情報でも、人間と類人猿は似ていることが、確かめられています。
そのため、人間の祖先は類人猿だったと、考えられています。
しかし、似ていると言っても、人間と類人猿は見た目が全然違います。
見間違えることは、100%ありません。

人間とチンパンジーでは、遺伝子情報の違いが、わずか1%だけという話があります。
しかし、これにはカラクリがあるそうです。
人間とチンパンジーの遺伝子を並べて比べると、一ヶ所だけ違うという場合と、大きな塊で違う場合があるそうです。
また、同じ内容であっても、その遺伝子情報の場所が、全然違う所にある場合もあります。
他にも、文字列の順序が逆である場合とか、同じ遺伝子情報の塊が、片方では一つしかないのに、もう片方では二つ繰り返されている場合などが、あると言います。
このような場合、遺伝子情報の違いの数を、どのように数えればいいのか、わからなくなります。
そこで研究者たちは、この部分をざっくりと切り捨てて、数えられる部分だけを比べたのだそうです。
その結果、人間とチンパンジーの遺伝子の違いは、わずか1%だけという結論になったわけですね。
研究者たちが、切り捨ててしまった遺伝子情報は、人間の場合25%、チンパンジーの場合18%もあるそうです。
実際はそれぐらい、両者の遺伝子には差があるのです。
また、たった一ヶ所の遺伝子の違いで、全然違う見た目になったり、多くの遺伝子が違っていても、見た目が似ていることがあります。
つまり、遺伝子の違いの比率だけでは、本質的な違いを、説明することはできないのです。
いずれにしても、人間とチンパンジーなどの類人猿が、似ているのは間違いないにしても、両者の間には、大きな隔たりがあるわけです。

人間は自分以外のものだけでなく、自分自身をも思考の対象とします。
また、遠い過去や未来に思いを馳せたり、宇宙の果てや死後の世界のことなどにも、興味を向けます。
その好奇心は多くの学問を生み出し、発展した科学によって、人間は他の星の探査までもできるようになりました。
こんなことができる生物は、地球上では人間だけです。
要するに、人間と類人猿とでは、明らかに生命エネルギーが異なるわけです。
進化論的に言えば、類人猿が進化して、人類が誕生したと見るのでしょう。
でも実際は、類人猿が人間になったのではありません。
人間を形成する生命エネルギーが、類人猿の形質を利用して、自らを物質世界に具現化させたのだと、私は考えています。
そのためには、類人猿の生命エネルギーと、人間の生命エネルギーが、リンクする必要があります。
恐らく、ある条件を満たした類人猿だけが、人間の生命エネルギーと、リンクできたのでしょう。
リンクできなかった類人猿は、未だにずっと類人猿のままです。
では、人間の生命エネルギーとリンクする条件とは、どのようなものだったのでしょうか。
それは道具を作ったり、火を利用したり、仲間の死を悲しんだり、といったものかも知れません。
そういう経験を、深く積み上げることで、人間の生命エネルギーに近づいて、やがてはリンクをしたということは、考えられるでしょう。
でも、別の可能性もあります。
それは、異星人による遺伝子操作です。
生物の進化

単細胞生物に続いて、多細胞生物が出現したことは、進化の過程において、大きな謎とされて来ました。
多細胞生物とは、動物や植物、魚や昆虫など、いわゆる生き物のことです。
どの生き物も、一つの細胞が分裂して増殖してできた、数え切れないほどの細胞の集合体です。
単細胞生物も分裂して増殖しますが、一つ一つの細胞は自由に動き回ります。
単細胞生物はどんなに数が増えても、集まって全体で何かをすることは、基本的にありません。
一方、多細胞生物の場合、それぞれの細胞たちは、全体で一つの個体を形成します。
人間で言えば、一人の体を作っているわけです。
体を作っている細胞には、様々な種類があります。
脳神経細胞、筋肉細胞、血液細胞、粘膜細胞、皮膚細胞、骨細胞など、それぞれの役割を果たすために、独自の形態や機能を備えています。
神経細胞と血液細胞、あるいは粘膜細胞など、どれも似ても似つかぬ姿をしています。
とても同じ細胞が、分裂してできたとは思えないほどです。
しかし、これらの細胞は共通の目的を持って、それぞれの役割を果たしているのです。
その共通の目的というのは、個体を形成するということです。
もちろん一つ一つの細胞が、自分たちがどんな個体を形成しているのかなんて、理解しているわけではないと思います。
それぞれの細胞は、ただ自分の特性に応じた、活動をしているだけなのでしょう。
それでもその活動によって、個体は形成され、安定的に維持されているのです。
個体と細胞たちの関係は、人間で言えば、社会と個人の関係みたいなものです。
ほとんどの人は、普段社会というものを考えないまま、自分の仕事をこなしています。
それでも人々の営みが、社会を築き上げているわけです。

単細胞生物と多細胞生物の違いは、個体を形成するかどうかです。
しかし、それは見た目の話です。
生命エネルギー的に考えるならば、両者の違いは、仲間の細胞たちが持つ、社会性の違いと言えると思います。
人間で言えば、個人個人が食べ物を求めて、さまよい歩いているのが、単細胞生物の生き方です。
それに対して、それぞれが役割を決めて協力し合い、手に入れた食料を、平等に分配する社会を作るのが、多細胞生物の生き方と言えます。
そういう点で、多細胞生物の細胞たちは、人間よりもずっと進んだ社会を、築いているようです。
では、単細胞生物の生物エネルギーをエネルギーDとして、多細胞生物の生物エネルギーを、エネルギーEとしましょう。
エネルギーDは単細胞生物の心だとします。
この場合、一つ一つの細胞には個性がありません。
それはエネルギーDが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んで、まさぐっているような感じです。
一つ一つの指先には、それぞれの感覚があるわけですが、統率しているのはエネルギーDなのです。
多細胞生物の場合、細胞は種類によって個性があります。
でも細胞は細胞なので、これもエネルギーEが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んでいる状態です。
多細胞生物の細胞に個性はありますが、自分という認識はありません。
ですから、全ての細胞はエネルギーEによって統率されています。
それで、個体という細胞の集合体を、形成することができるのです。
個体を形成できるということは、エネルギーEにはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。
エネルギーDが物質世界を把握できるのは、細胞周辺のごく限られた範囲です。
世界にとって、一つの細胞は一つの点に過ぎません。
ですから、エネルギーDは物質世界を、多くの点によって認識していると言えます。
それに対して、個体を形成して活動するエネルギーEは、点ではなく、もっと大きな空間として、物質世界を認識できます。
エネルギーDではわからない、別の世界を認識できるわけです。
その事から言えるのは、エネルギーEはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。
しかしエネルギーEが、物質世界を体験するためには、エネルギーDとリンクして、細胞という形態を、利用させてもらう必要があります。
つまり、エネルギーDとリンクしないといけないわけです。

単細胞生物の中には、分裂して増殖しても、仲間と接触したまま、塊を作るものがいます。
これは群体と呼ばれています。
恐らく、この群体という状態が、エネルギーDとエネルギーEを、つないだのでしょう。
エネルギーEとリンクした群体は、次第に単なる細胞の集合体ではなく、細胞によって役割を持つようになります。
そして、シンプルな形態の多細胞生物が誕生すると、そこから様々な形態の多細胞生物が、爆発的に現れたのだと考えられます。
初めは小さな生き物だったのが、次第に大きなものが現れるようになります。
そして海、陸、空と、あらゆる所を活動の場とした、数多くの生き物が、登場するようになるのです。

進化論を語る人の中に、生存に有利なものだけが生き残ると、言う人がいますが、あれは間違いです。
有利か不利かではなく、存在が可能なものは、ありとあらゆる姿で現れるのです。
それだけ生命エネルギーが、物質世界で姿を持とうとする力は、旺盛なわけです。
この世界に出て来るチャンスは、ただの一点も見逃さない勢いです。
環境が変わったために、死滅する生き物もいます。
でも、それは他の生き物よりも、生存が不利だったのではなく、環境の変化に適応できなかっただけのことです。
有利不利の問題ではありません。
話を戻し、様々な形態を持つようになった多細胞生物ですが、そのほとんどが、自分という概念はないと思われます。
そんなことはない、ペットの犬や猫は、自分というものがわかっていると、反論される方もいるでしょう。
でも、それは人間の影響で、そうなっているだけでしょう。
自然界の動物たちは、自分という概念は持っていないと、私は思います。

お腹が空いたとか、水が欲しいとか、熱くてたまらないとか、体がかゆいとか、そういう感覚は、動物にもあるでしょう。
餌や縄張り、あるいは交尾相手を巡って、他の仲間たちと激しく争う動物もいます。
これはオレ様のものだという、感覚があるのでしょうね。
でも、それと自分という概念とは、別なのです。
自分という概念は、観察対象として、自分自身をとらえた時に、生まれるものです。
自分の体は目で見えますし、触れることもできます。
ですから、体は観察対象になります。
しかし、その体に動きを指示している、自分の心を見ることはできません。
もちろん、触れることもできません。
自然の動物は生きることが、最大の目的と言えるでしょうから、意識の目は常に、外界へ向けられていると思います。
気持ちがいいとか、怖いとか、感覚や感情を感じながらも、それを感じている、心そのものの存在には、気づいていないでしょう。
ところが、人間は自分自身についても、自分とは何だろうと考えます。
これが自分を認識する、ということです。
そして、自分という概念を持っている、ということなのです。
生命の起源3

宇宙は生命エネルギーに満ちていると、私は考えています。
また、その生命エネルギーは一様ではなく、様々な状態のものが重なり合い、混じり合っているのだと思います。
地球にも、いろいろな状態の、生命エネルギーがあると思われます。
でも、この生命エネルギーは肉眼で見たり、手で触れたりはできません。
その代わり、生命エネルギーは物質エネルギーに働きかけて、私たちが知覚できるような、姿形を形成するのです。
ただ、全ての生命エネルギーが、この物質世界に、直接働きかけるわけではないと思います。
物質エネルギーに直接作用できるのは、とてもシンプルな生命エネルギーでしょう。
今の物理学が追求、あるいは解明している宇宙の法則は、このシンプルな生命エネルギーの働きかけを、説明したものなのだと、私は考えています。
さて、私は生命エネルギーを、精神エネルギーという見方でも、とらえています。
宇宙に様々な、生命エネルギーが満ちているというのは、様々な状態の心が、宇宙にはあるということです。
その中でも最もシンプルな心、つまり宇宙の最もシンプルな生命エネルギーの、心としての側面とは、どのようなものでしょうか。
私はこの心が、「存在する」という一点にのみ、集中した状態にあると考えています。
この心には、人間の心のような、思考や感情、感覚はありません。
物質エネルギーを通して、具体的な形態を持つということにのみ、執着しています。
とは言っても、自分という認識はありません。
存在への執着はあっても、存在している自分、という認識はないのです。
この生命エネルギーが、物質エネルギーに働きかけることにより、具体的な存在を、生み出すことができます。
その根本的なものは、恐らく素粒子だと思います。
しかし、素粒子だけでは不安定です。
その不安定な素粒子同士が、反応し合う中で、原子という、安定な形態が生まれます。
これは偶然にできたのではなく、できるべくしてできたと考えられます。

どういうことか説明しましょう。
素粒子を形成したのが、最もシンプルな生命エネルギーだとします。
この生命エネルギーを、エネルギーAとしましょう。
生命エネルギーの中には、複雑性において、エネルギーAより少し上位の、エネルギーBがあります。
このエネルギーBは安定した存在を、意識しています。
そのためエネルギーBは、素粒子に働きかけて、原子という安定した形態を作ります。
エネルギーBは、直接物質エネルギーに働きかけて、原子を作るのではありません。
原子の材料となる、素粒子が形成されてから、その素粒子に作用して、原子を作るのです。
つまり、エネルギーBはエネルギーAに働きかけて、間接的に物質エネルギーに作用し、原子を形成するのです。
集まった素粒子が、勝手気ままに反応しあう中で、原子核と同じものを、形成する瞬間があります。
すると、その一瞬だけエネルギーAの状態は、エネルギーBに限りなく近づきます。
そして、AとBのエネルギーはリンクするのです。
素粒子が反応し合って、新たな素粒子が生まれても、それは不安定なまま、すぐに別の形態に変わります。
しかし、原子核の形ができた瞬間だけ、エネルギーBの力が作用して、近くにあった電子が引き寄せられ、原子が完成するのです。
同様に、エネルギーCは原子同士が作用し合って、分子を形成するように、働きかけます。
そして、有機物質が集まって、細胞の乗り物を形成すると、エネルギーDが働きかけることができるようになり、細胞の乗り物は、本物の細胞へと変わって行くのです。
エネルギーDはエネルギーCに働きかけ、エネルギーCはエネルギーBに働きかけ、エネルギーBはエネルギーAに働きかけます。
そして、エネルギーAは物質エネルギーに働きかけます。
こう考えると、物質エネルギーもある種の生命エネルギーだと、解釈した方がわかりやすいですね。
私はエネルギーAを、最もシンプルな生命エネルギーとしましたが、実は物質エネルギーこそが、最もシンプルな生命エネルギーなのでしょう。
人は物質と心を分けて考えますが、物質もまた、一種の精神エネルギーであり、宇宙の心の一部なのです。
宇宙に存在しているのは、精神エネルギーのみであり、宇宙とは一つの大きな心なのです。
そして、宇宙の心の一部である私たちは、宇宙の心をいろいろな角度から、探査していると言えるでしょう。
つまり、生命の起源を考えるならば、それは宇宙が生まれた時とするのが、わかりやすいかも知れません。
しかし、宇宙の誕生という時点が、あったとするならば、生命とは無から突然生じた、ということになってしまいます。
無というのは、何も存在しないことを言います。
何も存在しない所から、何かが生まれることは有り得ません。
それは無という言葉の、定義に反します。

ビッグバンがあったと仮定する学者も、宇宙が本当の意味での、無から生まれたとは、考えていません。
無に見えるような真空状態があって、そこから宇宙が誕生したと、考えているのです。
宇宙に誕生があったとすれば、宇宙を誕生させるように、働きかける何かがあったはずです。
それも生命エネルギーでしょうから、そう考えると、生命には始まりも終わりもなく、あるのは変化だけ、と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、私たちが進化と呼んでいるものは、宇宙に満ちた生命エネルギーの、絡み合いによって生じるものです。
単細胞生物が生まれたのも、そのような生命エネルギーの、絡み合いによるものでしょう。
次回はタイトルを変更して、多細胞生物の話をしようと思います。
生命の起源2

生命の起源と言う時に、イメージされるのは、生物の起源でしょう。
それはすなわち、単細胞生物がどのように発生したのか、ということです。
厳密に言えば、生命と生物は別の意味になります。
生命とは、生物に内在する要素で、生物の活動を支配しているものです。
細胞を例に挙げると、物質的な細胞という構造は、細胞生命の受け皿になるわけです。
人間で言うと、体と心のような関係でしょうか。
しかし科学の世界では、心の類いは物質エネルギーではないので、興味の対象になりません。
生命もしかりです。
そのため、生命とは何ぞやという問いに、科学は答えることができないのです。
代わりに、生物とは何ぞやという形で、生命とは何ぞやという問いに、答えようとします。
生物とは何かという定義には、次の三つの条件が作られています。
① 遺伝子情報に基づいて、子孫を残す(自己複製)
② 養分を取り込んで活動する(代謝)
③ 膜によって、外界から自己を隔離する(細胞膜)
これは要するに、細胞がどのようなものかを、説明しているわけです。
この定義によれば、独立して増殖できないウィルスは、生物の範疇には入りません。
ウィルスを生物だと先に決めていれば、生物の条件は、違うものになっていたでしょう。
ウィルスは生物なのか、生物ではないのか。
それは、生命とは何なのかという問いに、真剣に向き合わなければ、答えられません。
活動する細胞が、最小単位の生物であるというのは、結果ありきの考えです。

こんな考えで、生命あるいは生物を定義する以上、ウィルスのような問題が出ることは、避けられません。
また生命というものを、見た目だけで定義することも、問題です。
それでは本当の生命の起源や、生命の進化といったものについて、正しい理解が妨げられてしまうでしょう。
私は心と生命を、同じものととらえています。
心という言葉を使うのか、生命という言葉を用いるのかは、どういう視点で述べるかによって、使い分けています。
心と言えば、そこに意思の存在を、示唆しています。
生命と言う場合は、活動するエネルギー体という感じです。
でも、両者は同じものです。
人間に心があるように、他の生物も心があるように見えます。
それは顕微鏡で見られる、微生物の動きについても、言えることです。
微生物の動きを、単なる化学反応に基づいた動きであると、受け止める研究者もいます。
しかし、それはその研究者の推論であって、事実ではありません。
人間にだけ心があると考えるのは、とても偏った考え方です。
また、脳がなければ、心などあるわけがないと考えるのも、思い込みに過ぎません。
いずれも、人間を基準にした考え方であって、科学に必要な客観性に、欠けていると言えます。
人間に心がある以上、他の生き物にも、それなりの心があると考えるのは、自然なことでしょう。
昔の人は、そのように理解していたでしょう。
現代でも、ペットを飼ったり、植物を育てたりしている人は、ペットや植物に心があることを、理解していると思います。
宇宙に物質エネルギーが満ちているように、精神エネルギーも満ちていると考えるなら、全ての存在に、精神エネルギーの側面が、あると言えるのです。
つまり、ウィルスにも心があり、生きているわけです。
また、土にも水にも空気にも、それぞれ心があって、生きていると考えるなら、生命の起源という言葉は、地球の発生という意味に、なるでしょう。
あるいは銀河系の誕生が、私たちにとっての、生命の起源になるのでしょうか。
それともビッグバンと呼ばれる、宇宙の誕生が生命の起源と、考えることもできるでしょう。

話を戻して、生命の起源ではなく、単細胞生物の起源と言うのであれば、それはそれで興味深い話です。
これは、生命の進化の話でもあるわけです。
自然発生した細胞の乗り物に、どのようにして核や、その他の細胞小器官が生まれ、細胞になったのか。
私の考えでは、地球を満たしている精神エネルギー、ここでは生命エネルギーと言った方が、いいかも知れませんね。
地球を満たしている生命エネルギーは、一様ではなく、いくつかの層に、なっているのではないかと、私は考えています。
白い光は、七色の可視光線が、混じり合って一つに重なったものです。
ぱっと見た目には、七つの色が潜んでいるとは、わかりません。
プリズムで分離して、初めて七色がわかるのです。
それと同じように、生命エネルギーも、一つに重なって存在しているのだと、考えられます。
でも実際は、いくつもの波長のエネルギー帯があって、それぞれの波長によって、形成される心が、異なるのではないかと思うのです。

有機物質が集まってできた、細胞の乗り物。
これは細胞に似ていても、有機物質の集まりに過ぎません。
そこにある生命エネルギーは、有機物質としてのエネルギーだけです。
細胞としての生命エネルギーは、有機物質のエネルギーよりも、一つ上の層にあると考えて下さい。
細胞の生命エネルギーは、物質世界に具現化するきっかけ、つまり細胞が誕生する条件が整うのを、待っています。
細胞の乗り物ができると、細胞の生命エネルギーは、そこに接触を試みて、状態を確かめます。
まだまだ未完成であれば、それ以上の働きかけはしません。
しかし、ある程度完成に近づいて来ると、細胞の生命エネルギーが、細胞の乗り物に干渉を始めます。
それは細胞の乗り物を構成している、有機物質の生命エネルギーへの、働きかけです。
そうすることで、細胞の乗り物は積極的に、必要な成分を取り込んだり、化学反応を起こして作ったりするようになります。
そうして、やがてごく原始的な微生物が、誕生するのです。
そこには、細胞の心が宿っています。
これが私が考える、単細胞生物の起源です。
現在行われている実験では、細胞の乗り物はとてもシンプルです。
でも、もっと実験が進んで、もう少し複雑な乗り物が、作られるようになれば、きっと単細胞生物が、発生することと思います。
生命の起源1
生命とは、どのように発生したのだろうと、考えたことがある方は、多いと思います。
それについて研究者たちの間でも、多くの議論があるようですが、未だに結論は出ていません。

一般的には原始地球に、アミノ酸などの有機物質が蓄積され、やがてこれらが集まって、原始的な細胞が、生まれたと考えられています。
この有機物質が地球で作られたのか、隕石によって、宇宙から運ばれて来たのかは、意見がわかれるところです。
いずれにしても、原始地球に似せた環境下に、有機物質を集めて置いても、新たな生命は生み出されないようです。
ただ、面白い話が二つあります。
一つは、タンパク質などの有機物質が集まった、小さな粒子の話です。
水中にあるこの粒子は、太陽光などのエネルギーを与えられると、周辺にある有機物質を取り込んで、成長すると言います。
その大きさは、直径数十~数百ミクロン程度で、止まるそうです。
この粒子は、大きさは安定しているものの、形は完全な丸ではなく、少しゆがみがあるそうです。
成長したこの粒子に、さらにタンパク質分子が過剰に入り込むと、粒子のゆがみが強くなって、その一部が瘤のように膨らみ、ついには二つに分裂すると言います。
これは細胞ではありませんが、自然の力で小さな粒子が、分裂して増えて行くことができる、ということを証明したものです。
さて、もう一つは、アメーバのように動き回る、油滴の話です。
マイクロメートルサイズの油滴は、表面(水との境界面)上に起こる、部分的な張力の差によって、張力の弱い部分の成分が、張力の強い部分へ引っ張られます。
それによって油滴は、水中をアメーバのように変形しながら、移動するそうです。
そういう油滴が実験によって、作成されているのです。
また、動きながら分裂する油滴も、これまでに作られているそうです。
この油滴は化学物質を取り込んで、内部で化学反応を起こし、新たな化合物を作ることも、できると言います。
また、先に紹介したタンパク質の粒子ですが、その表面に脂質を集めるので、細胞膜のような脂質の膜を、形成するようになるかも、知れないそうです。

脂質の膜とは、油の膜ということです。
油膜で包まれた空間は、周辺の空間とは、隔離された状態になります。
その内部環境は、油膜がない時と比べると、極めて安定だと言えます。
また、油膜で包まれていれば、油滴と同じ運動をするようになります。
自然にできる表面の張力差によって、動いている場合、いわゆる意思は、そこにありません。
どの方向へ動くかは、行き当たりばったりになるでしょう。
しかし、意図的に表面の張力差を生み出せたなら、思った方向へ移動することが、できるでしょう。
それは細胞が発生するための、乗り物が提供されたようなものです。
研究者の人たちの努力には、本当に脱帽です。
ここまで生命の秘密が、解明されたことは、本当に素晴らしいと思います。
ただ、この細胞の乗り物が、どうやって細胞になったのか、という点については、まだわかっていません。
この細胞の乗り物の中に、どんどんいろんな物質が取り込まれ、中で化学反応を起こして、新たな物質も作られて、そうするうちに遺伝子も作られて、細胞ができた。
そんな考え方もあるようですが、それでは細胞が、プラモデルのように聞こえます。
人間で言えば、フランケンシュタインの怪物のように、いろんな臓器や身体を寄せ集めれば、一人の人間として活動するのか、ということです。
映画の中では、人造人間は生きて活動します。
しかし、現実には有り得ないことです。
つまり、人は単なるパーツの組み合わせでは、ないということです。

それと同じで、細胞もバーツの寄せ集めではありません。
では、何が足りないのでしょうか。
それは恐らく、細胞の意識です。
人にとっての、心と同じです。
今の科学では、細胞に心があるとは、考えていません。
また、無機質には命がないとされています。
その無機質から有機物質が作られ、その有機物質が集まってできるのが、細胞です。
ですから、細胞が何らかの活動をしても、それは単なる反応的な動きであって、心があるとは考えられていないのです。
しかし、その考えが前提である限り、細胞の乗り物と、細胞との間を埋めることは、できないでしょう。