資本主義の次に来るもの その3
世界中の人々が、お互いを思いやって、無償で働くようになれば、資本主義経済は必要なくなります。
しかし、具体的にどうすれば、そんな事ができるのでしょうか。
世の中には、報償がもらえないと、人間はやる気を失うという、思い込みがあります。
これは間違いとは言えませんが、正しい表現ではありません。

大抵の人は、報償という言葉に、お金を結びつけます。
つまり、お金がもらえないと、人間はやる気が出ない、という事です。
しかし、喜びがないと、人間はやる気が起こらない、というのが正しい表現でしょう。
そして、喜びというものは、人によって違います。
お金を喜びと考える人もいれば、達成感を喜びとする人もいるでしょう。
挑戦する事を喜ぶ人もいれば、誰かの笑顔を喜ぶ人もいるのです。
お金を喜びと考えるのは、その人の自由です。
しかし世界中の人が、お金を喜びとするべきだ、というような発想は、明らかに間違っています。
また、人間心理を考えると、明らかに不自然な発想なのです。
ところで他の人のために、無償で働く場合、どんな喜びが大切でしょうか。
それは基本的には、誰かの笑顔です。

自分の行為によって、誰かが喜んでくれる。
それが嬉しいという気持ちが、新たな原動力になるのです。
挑戦する喜びや、達成感なども、お金に替わる喜びになります。
ただ、応援してくれる人や、暮らしを支えてくれる人たちへの、感謝の気持ちが必要です。
そうでなければ、ただの独りよがりに、なってしまいます。
自分の挑戦や達成が、人々への勇気や励ましになるという、自覚も大きな力になるのです。
実際、誰かの笑顔を動機にして、活躍している人たちがいます。
その人たちの活動は、インターネットの中で見られます。
インターネットでは、世界中の親切な人々が、自分たちが開発したプログラムを、無償で使えるように、提供してくれています。
Wikipediaのような百科事典サイトや、辞書・辞典のサイトも、同じです。
これらのサイトのお陰で、どれほど多くの人が助かっている事でしょう。
また、多くのNGOや、ボランティアの方たちも、誰かの喜びを力に変えています。
みなさん、お金が中心の世界の中で、いろいろ苦労をされながら、自分が思った事をされているのだと思います。
生活費や運営費が、必要ない環境にあれば、さらなる力を発揮される事でしょう。
そんな助け合いや思いやりを、基盤とした暮らしを実現するためには、どうすればいいでしょうか。
それには、どこかにモデル地区となる町を、作ればいいと思います。

その地区では、人々が助け合う事で、自給自足の暮らしをするのです。
誰もが何らかの形で、誰かに貢献できる町造りです。
食料や物を、作る仕事だけではありません。
芸術やスポーツなど、心の成長や癒やしに、貢献できる仕事も求められます。
怪我や病気で動けなくなった人は、何もできないと思ってはいけません。
休むべき時は、誰もが休めばいいという、発想が大切です。
大切な人は、そこにいてくれるだけでも、ありがたい。
そう思えるような、気持ちも大事です。
それに、具合が悪くなった人は、同じような人の気持ちが、理解できるでしょう。
どんな環境が、そういう人には必要なのかも、わかるはずです。
そう考えれば、具合が悪くなる事も、一種の調査作業となるのです。
原始的ではない、自給自足の暮らしとなれば、いろんな業種が必要になります。
それには、多くの人が必要とされるでしょう。
そのために、モデル地区である意義を、理解してもらった上で、世界中から参加者を、募ればいいでしょう。
きっと参加を希望する人が、殺到すると思います。

その町で必要なエネルギーは、基本的には、自然再生エネルギーを使います。
それで足らないエネルギーや、町で生産できない物資については、他の町から調達します。
できれば調達先の町も、同様のモデル地区にするといいでしょう。
そういうモデル地区を、あちこちに造り、互いの足らない部分を、補完し合うのです。
当初の必要経費は、国が出します。
モデル地区ですから、投資のつもりで、税金を投入すればいいのです。
どうしても海外から、輸入しないといけない物があれば、そこも税金を使います。
しかしモデル地区の趣旨を、理解してもらえる国であれば、国同士で協力し合う事もできるでしょう。
お互いに無償で、物資や技術を融通し合う事も、できると思います。
ただ、輸送のコストについては、馬鹿にならないでしょう。
産油国などの協力が得られれば、いいのですが、温暖化のことも考えますと、一刻も早いフリーエネルギーの登場が、待たれるところです。
逆に言えば、フリーエネルギーが開発され、誰でも無償で利用できるようになれば、このモデル地区計画は、間違いなく成功すると思います。
そして、そのシステムは瞬く間に、世界中に広がることでしょう。
このシステムが世界に広がる意義は、単に人々が暮らしやすくなる、というだけではありません。
助け合いと思いやりが、基盤になっているのです。
助け合いは、お互いに相手への、感謝も生むでしょう。
助け合いと思いやりに、感謝が加わるのです。
人々の信頼関係に、疑いが入る余地は、なくなるでしょう。
それは争い事が、なくなる事を意味します。
国境問題も、人種差別問題も、人々を分断するような問題は、全て消え去るでしょう。
世界の人々が国境を越えて、心を一つにするのです。
それは人類が自分たちを、地球人だと認識するようになる時なのです。
資本主義の次に来るもの その2

おぎゃーとこの世に生まれて来た時、私たちは真っ白な状態です。
世界経済の事なんか、何も知りません。
だんだん成長して行く中で、いつも変わらない同じ状況を、当たり前だと受け止めるようになります。
また、大人がずっと続けている事、信じている事を、正しい事だと思うようになります。
そうやって価値観は、形成されて行くのです。
しかし、それが絶対に正しいという理由は、どこにもありません。
それでもその価値観で、物事がうまく進んでいるのであれば、別に構わないのです。
しかし、いろいろ問題が、明らかになって来たのであれば、価値観の修正が必要です。

寒い国で暮らす人たちは、防寒着が当たり前のものでしょう。
でも、温暖化で気温がぐんぐん上がって来たら、防寒着を脱いで、もっと涼しい服装に、なるのではないでしょうか。
自分たちの着る物は、防寒着に決まっていると言い張って、それを着続けるとどうなるかは、考えればわかりますよね。
また、そんな事をする人がいたとしたら、それが愚かな事だ、というのもわかるでしょう。
経済についての価値観も同じです。
世の中は、変わって来ているのです。
人々が貧富の差を、甘んじて受けていた時代は、もう終わったのです。
みんなが求めているのは、自由で平和で平等な、喜びあふれる暮らしなのです。
一部の人だけが冨を集める、資本主義経済というシステムは、望まれていません。

ただ、この経済システムが壊れたら、人類は破滅するというような、権力者たちによる洗脳が、行われています。
それで、みんなは不安を感じているのです。
それは、あいつらは敵だ、悪魔だと煽動して、他の国の人々の事を、悪く思わせるのと同じです。
実情を知らなければ、人々は指導者たちやマスコミの言葉を、鵜呑みにしてしまうでしょう。
しかし今の人々は、みんながそんな事を、鵜呑みにするわけではありません。
世界中の多くの人が、知識や気持ちを共有し、真の平和を求めています。
政府が敵国だと決めつけている国の人々が、自分たちと同じ普通の人間である事を、多くの人が理解しています。
あの国は悪い国だと言われて、鵜呑みにしないだけの、経験と知識があるのなら、経済についても、理解ができるはずです。
もう資本主義経済ではだめだし、これに代わる助け合いを基盤にした、新たな経済システムが必要だと、訴える知識人たちも多くいます。
世の中をきちんと見通せる人たちには、自分たちがどうするべきなのかが、わかっているのです。

資本主義経済が崩壊しても、破滅するのは、冨を集中させていた、権力者たちだけです。
一般の人々は、逆に暮らしが楽になるでしょう。
権力者たちは自分の不安に、関係のない者たちまで、巻き込もうとしているのです。
どんなものにでも値段をつけて、お金を稼がないと生きて行けないと、信じ込ませているのが、今の世の中です。
そうさせたのは、お金によって世の中を、支配して来た権力者たちです。
自分たちが、世の中の実権を握り続けるためには、自分たちに都合のいい論理を、人々に受け入れてもらうしかないからです。
そして、お金をアメやムチの代わりに、用いるのです。
世界の国同士の争いを見れば、その事がわかります。
逆らう国には経済制裁をして、従う国には優遇するのです。
日本政府が地方自治体に対して、核廃棄物を受け入れるなら、多大なる支援をするというのも同じ事です。
普段、ちゃんと支援がなされているのであれば、誰も核廃棄物など、受け入れたいと思うわけがありません。

遥か昔には、お金なんて存在していませんでした。
人々は助け合い、必要な物は自らが、作り出していたのです。
食べる物も、着る物も、住む所も、みんなが助け合って、自分たちで作れば、お金は必要ありません。
材料を作る人たちにしても、同じです。
材料をただで提供すれば、いいのです。
その代わり、衣食住の心配は、する必要がありません。
子育てのお金、病気や怪我の心配、老後の不安、これらの全てがなくなるのです。
税金も払わなくて構いません。
お金のために、嫌な仕事をする事もないのです。
つまり、お金なんて必要がなくなるのです。
人々が幸せに暮らすために、お金は必要ないのです。
お金がなくても、思いやりの心が広がっていれば、幸せに暮らして行けます。
逆に、どんなにお金があったとしても、買える品物がなければ、意味がありません。
病院や介護などの、サービスを受けようとしても、そこの人に思いやりがなければ、どうなるでしょうか。
本当に快適な暮らしに必要なものは、お金ではないのです。
資本主義の次に来るもの その1
学者も政治家も、国民を馬鹿にし過ぎています。
自分たちが指導してやらないと、誰も何もできるわけがないと、初めから決めてかかっているようです。
資本主義だの社会主義だの、そういう言葉や概念がある事自体、一般の人々を下に見ている証拠です。
もちろん、好き勝手な事をする人たちばかりでは、どうしてもルールが必要になるでしょう。
しかし、他人を思いやったり、感謝できるような教育を、きちんと受けていれば、物事の流れは自然とできるものです。
一応、ルールのようなものが作られても、それでがんじがらめになる事はありません。
状況に応じて臨機応変に、よりよいルールが作られて行くでしょう。
今の学校教育は、子供に競争する事や、頑張らないとだめになるという不安を、植え付けています。
そうではなく、お互いに助け合い、お互いの違いを認め合い、喜びも悲しみも、お互いにわかち合うという事を、何よりも先に教えるべきなのです。
一部の授業でそういう事を教えても、他の授業でそれが打ち消されては、意味がありません。
何が最も大切なのかという事を、先生方は常に念頭に、置いておかねばなりません。

災害などで多くの人が、大変な状況にあるとします。
そして、その人たちを助けるための人間がいて、機材があって、知恵や技術もあります。
しかし、お金がありません。
こんな状況の時、初めはみんながボランティアとして、動くでしょう。
しかし作業が長引くと、ボランティアを続けられなくなります。
ボランティアでは収入がありません。
逆に持ち出す事が、多いのです。
それぞれの人には、日々の暮らしがありますし、企業には仕事があります。
それらを維持するためには、収入を得なければなりません。
結局、ボランティアは長くは続かず、政府や自治体の支援を待つしかありません。
しかし日本政府の立場は、個人の財産は個人の責任で守る、というのが基本です。
年金暮らしのお年寄りが、家を失っても、大した支援はしてもらえません。
それを、お金がないから仕方がないと考える人は、いるでしょう。
でも、そもそもお金がないから、動けないという状況にこそ、問題があるのです。

全ての人が自らの意思によって、自分にできる事で、誰かの力になればいいのです。
そうすれば、今の経済学者が弾き出すようなお金は、いらないのではないでしょうか。
そんなのボランティアと同じじゃないかと、言われるかも知れません。
確かに、そうです。
気持ちはボランティアと同じです。
でも、全ての人がボランティアになるのです。
それは全員が被災地へ言って、労作業をするという事ではありません。
普段自分たちがする仕事を、無償で行うのです。
一部の仕事ではなく、全ての仕事でです。
そうすれば、誰も生活費の事を、心配する必要がなくなります。
そんなはずがないと思うかも知れませんが、そうなのです。
もちろん、海外から輸入しなければ、手に入らない物がありますから、海外の人の協力は必要です。
つまり、世界中の人が無償で動けば、お金は必要なくなるのです。
何で自分が関係のない人のために、ただ働きをしないといけないのかと、考える人もいるでしょう。
実は、そこがポイントなのです。
関係ないと思うから、ただ働きをさせられると、受け止めてしまうのです。
しかし、みんな家族だと思えば、どうでしょうか。

顔も見た事がない人、一生の間に、会う事もないような人、そういう人たちの事は、遠い親戚だと思えばいいのです。
向こうの人だって、こちらの事をそう思ってくれるでしょう。
そう思われているとわかれば、向こうの人が困っているのを、放って置くなんてできませんよね。
それは理想かも知れないけれど、そんなのできるわけないと、普通は思うでしょう。
でも、そう思うのは、自分が信じている価値観が、そう思わせているのです。
資本主義と社会主義(共産主義) その3
資本主義にも問題があり、社会主義もだめ。
では、どうすればいいのでしょうか。
資本主義にしても社会主義にしても、経済学者や思想家が考えたもので、ただの理屈です。
そこに一般の人々の心理を、考慮しているとは思えません。
国民は黙って国が決めた事に、従えばいいのだと言わんばかりです。
社会主義が役に立たないのは、ソ連の崩壊で実証されています。
中国などの社会主義国が、現実には資本主義経済を取り込んでいる事でも、同じ事が言えるでしょう。
しかし資本主義経済も、今や断末魔を上げているかのようです。

自国では人件費が高くつくからと、賃金が安い貧困国に、工場を作る企業は、世界中にあります。
その国の経済が良くなって、人件費が上がって来ると、別の貧しい国へ、工場を移転させます。
このやり方では、最後の国が豊かになれば、工場を移す所が、なくなってしまうでしょう。
逆に言えば、資本主義経済においては、貧困がなくてはならないわけです。
貧困がなくなる事は、資本主義の終わりを意味しています。
だから貧しい国が、先進国の地位に引き上げられる事はありません。
ある程度の経済発展は認めても、先進国の地位を脅かすほど、発展されては困るのです。
そのため貧しい国は、いつも豊かな国に利用されています。
そもそも貧しい国々は、かつては大国の植民地にされていました。
植民地の人々は、支配者たちに仕える、召使いだったのです。
今は支配者と召使いの関係は、表向きにはなくなっています。
しかし多くの権力者たちが、貧しい国の人々を見る目線は、昔と大差はないと思います。

自分が儲かるためには、相手の事など、どうだっていい。
それが資本主義の毒に、冒された者たちの、発想なのです。
その姿勢は、貧困な国に対してだけでなく、自国の人間に対しても同じです。
ですから、資本主義に代わる経済システムを、考えようという動きが出たのは、必然と言えるでしょう。
ただ、社会主義というやり方は、国民から自由と喜びを奪い、ただの生産ロボットにしてしまう愚策でした。
しかし社会主義の失敗は、資本主義が正しいという証にはなりません。
資本主義に問題があるのは、明らかなのです。
では、本当に正しいやり方とは、どのようなものでしょうか。
それは世界中の人々が、互いに感謝と思いやりを持つ事を、基本としたものです。

経済に限った事ではありませんが、上から押しつけられると、うまく行かないものなのです。
そうではなく、人々が自分たちで考え、納得できるものであるべきです。
具体的に言えば、誰に対しても、家族のように接するのです。
その人の喜ぶ顔を自分の喜びとし、困っていれば、何としても助けるのです。
そういう事をむりやりするのではなく、自然な気持ちの結果として、できるようになればいいのです。
そんな人々の発想や行動が、結果的に経済という形になるでしょう。
ただ、こうなると経済という表現や発想は、適切ではないかも知れません。
経済という考え方の根底には、人々は他人同士という前提が、隠されています。
みんなが家族になってしまうと、経済という言葉は、不適切と言えるでしょう。
いずれにしても、今の経済システムに変わる、新たな生産・流通・消費の形態が、求められています。
その叩き台となるのが、スペインなどで導入が決められている、ベーシックインカムです。
しかしベーシックインカムは、全ての解決策ではありません。
ベーシックインカムをスタートラインにして、新たな世界へ踏み込みたいものです。
資本主義と社会主義(共産主義) その2
自由競争である、資本主義経済が発展すると、貧富の差が広がりました。
その原因は、個人の利潤追求にあり、資金力の強い所が、冨を独占している。
そんな批判の下に、新たな経済システムが考えられました。
それが社会主義です。
社会主義では、経済の自由を個人から取り上げ、全てを国が、取り仕切る事にしたのです。
その理念には、資本家と労働者という対立をなくし、全ての者が労働者である、平等な社会とうものがありました。
労働計画は全て国が立て、国民は国から言われたとおりに働きます。
本当は違う仕事がしたかった、と言っても通りません。
この仕事をしろと言われれば、そうするしかないのです。
それに、どんなに働いても、給料が増えるわけではありません。
みんな平等ですから、働いても働かなくても、給料は同じです。
人々は国に言われたまま、ロボットのように働くだけです。
そこに喜びはありません。

それに、仕事の手を抜いたところで、給料は同じなのです。
資本主義であれば、好い加減な事をすれば、クビになってしまいます。
しかし社会主義では、クビにされる事はありません。
真面目に頑張る人は、やってられないよ、となるわけです。
また、国の生産指示が、必ずしも正しいわけではありません。
それでも言われた事は、指示どおりにやるしかないのです。
そんな社会主義に、人々はやる気をなくし、生産性は低下しました。
うまく行くと思われた経済は停滞し、国民の生活は苦しくなりました。
一方で、国民に不満な平等を、押しつけた行政では、指導者たちが冨を独占しました。
国民の不満はついに爆発し、社会主義国だったソビエト連邦は崩壊しました。

ソビエト連邦を引き継いだ形のロシアでは、資本主義を取り入れています。
また、社会主義国である中国やベトナムなどでも、経済システムに資本主義を取り込んでいます。
その結果、平等であるはずの国民には、貧富の差が広がっています。
ところで社会主義と似たようなものに、共産主義があります。
この二つは、たびたび同じものであるように、扱われています。
調べてみますと、共産主義というのは、社会主義がさらに発展した状態を、言うのだそうです。
共産主義では、あらゆる面で国民が平等なのです。
経済の面だけでなく、地位や階級などの面でも平等です。
つまり、国民を管理する政府や国家も、必要ないという事なのです。
しかし、政府や国家の存在しない国や地域は、存在しません。
共産党が一党独裁を行っている、中国などの国は、共産主義国家とは言えないのです。

共産党が支配している国は、共産主義なのかと思いがちですが、実はそうではなかったのですね。
そもそも経済に、資本主義を取り込んでいる時点で、共産主義とは言えません。
しかも、共産党の上層部が、冨を蓄えるという構造は、共産主義とはほど遠いものでしょう。
もちろん、社会主義にも当てはまりません。
では、そういう国の経済理念は、何と呼ぶべきなのでしょうか。
資本主義を取り込んではいるものの、個人の自由は、国の管理下にあります。
本当の自由競争ではありませんから、資本主義とは言えません。
政治体制については、共産党の一党独裁という言葉どおり、共産党による独裁政治です。
ですから、独裁資本主義とでも、言うべきかも知れません。
どんな主義であれ、それが国民の幸せにつながるのであれば、それで構わないと思います。
しかし独裁資本主義が、国民のためにあるのかと言われると、そうではないように思えます。
資本主義と社会主義(共産主義) その1
初めに、主義とは何かという事を、確かめておきます。
辞書によると、まず、持ち続けている考え・方針・態度など、とあります。
菜食主義とか完全主義など、個人的な考え方の事です。
次にあるのは、思想・学説・芸術理論などにおける、一定の立場というものです。
自然主義、写実主義など、個人あるいはグループの、いろんな分野における思想です。
最後にあるのが、特定の原理に基づく社会体制・制度などです。
資本主義や社会主義、民主主義など、国としてのシステムの在り方を、示しています。
さて、ここで資本主義と社会主義の話ですが、上で説明しましたように、主義とは言っても、個人やグループの決まった考え方を、意味しているのではありません。
ですから、俺は資本主義だ、私は社会主義なの、という言い方は正しくないわけです。
正しい表現は、俺の国は資本主義だ、私は社会主義の国に憧れてるの、という感じですね。
実際、どこの国の人でも、自分は資本主義だとか、社会主義だとかと言う人は、いないと思います。

人々が求めているのは、平和で安定した楽しい暮らしなのです。
その暮らしが得られるのであれば、自分の国がどんな主義であろうと、関係ありません。
自分の所へ訪れた人が、資本主義を推しているのか、社会主義を理想と考えているのかも、基本的にはどうでもいい事です。
大切なのは、その人物が自分たちに対して、好意的なのかどうかという事だけでしょう。
自分たちに親切にしてくれる人や、話が合う人を、敵視する理由はありません。
そこに資本主義か社会主義か、という事を持ち込むのは、国同士のいがみ合いを、もっと煽ろうとする者だけです。
一般の人は、誰とでも仲よくできればと、望んでいるはずです。

そもそも、資本主義や社会主義、あるいは共産主義などについて、ちゃんと説明できる人は、それほどいないのではないでしょうか。
私も専門家ではありませんから、それちょっと違うんじゃないと、言われるかも知れません。
でも、私なりに調べたり、実際に感じている範囲で、説明をしてみたいと思います。
まず資本主義の資本ですが、資本というのは、一般的には商売の元手ですよね。
商売をする時には、元手のお金を使って、安く仕入れた物を、高く売ります。
すると、差額が儲かりますから、儲けた分で、さらに多く仕入れて、多く売ることができます。
それを延々と繰り返す事で、手元に残るお金が、どんどん増えて行きます。
つまり、元手のお金を使って、連続的に利益を増やして行くのですね。
このように、金が金を生むシステムを、資本主義というのです。

大きな元手を持っている人は、その元手を使って、工場を作り、人を雇って、大きな利益を出すことができます。
雇われている人たちは、給料をもらえますが、手元にはあまり残りません。
しかし、それをコツコツ蓄えて行くと、いずれは大きな金額になります。
そうなれば、それを元手にして、もっと儲けられる商売を、自分で始める事ができるのです。
このように、誰でもその気があれば、元手を使って冨を生む事ができるシステム、というのが資本主義なのでしょう。
ただし、これはあくまでも、表面的な説明であって、実際にそうなっているのかというと、それは別の話です。
資本主義が理想通りの働きを、見せているのであれば、世の中の人々は、みんな夢を持って、前向きに暮らしているでしょう。
今はコツコツ働いている人も、将来は自分が望むような、事業を興す事ができると、期待に胸を膨らませていると思います。
また、実際にそうやって成功している人が、世の中に一杯いるはずです。
しかし、現状はそうではありません。
お金は、すでに余るほど持っている人の所にばかり、集まるようになっています。

生活保護を受けるようになった者に、再び浮上するチャンスが訪れることは、かなりむずかしい状況です。
経済的に恵まれた家に生まれた子供には、様々な選択肢が与えられます。
しかし、貧乏な家に生まれた子供は、夢を諦めなければならない事が、多いでしょう。
資本主義には、個人的な自由を尊重するという、自由主義というものが、重なっています。
個人の自由を尊重するという事は、とても大切なことです。
しかし、その表現に執着し過ぎているのでしょう。
個人の事は全て個人の責任で、という考え方が横行しています。
その結果、他人への思いやりにかける、風潮にあるようです。
資本主義は、利益を出す事が目的です。
そこに歪んだ自由主義から、他人の事を顧みない考えが加わり、自分さえ儲ければいいという、理屈が成立するのです。
それが、今の資本主義の現状でしょう。
一部の裕福な人々は、貧しい者たちに道を切り開く、手助けをしています。
しかし、その動きは裕福な者の全体には、広がっていません。
その結果、金の亡者に成り下がってしまった者たちが、世界を牛耳る構図が、できてしまったのです。
AI(人工知能)の心 その2

AIには、人間が及ばないほどの、高い計算能力と、経験による学習能力があります。
それによって成長して行くところは、人間の子供のようです。
しかし、AIの潜在的な能力は、人間を遥かに超えます。
あれよあれよと成長して、生みの親である人間以上の力を、持つようになるのです。
以前の記事では、AIには知性はあるけど、自我がないと述べました。
AIを組み込んだアンドロイドは、人間との自然な会話が、かなりできるようになって来ています。
その様子を見ていると、いかにも自我が、AIに確立されたかのように見えます。
でも、まだ今の段階では、自我があるように、見せかけているだけです。
本当の自我は、まだできていません。
今のAIは、単純な知性のブロックを組み合わせて、より複雑な知性を創り上げています。
知性に関しては、天下一品です。
しかし、AIには感覚がわかりません。
センサーを使って、いろんなものを感知することは、可能でしょう。
たとえば、赤外線センサーを使って、火があることは察知します。
でも、火が熱いという感覚はないのです。

また、AIには感情もありません。
感情は外部刺激に対して、心の中に生じる振動です。
この振動する部分を持たなければ、AIに感情は生まれません。
この外部刺激とは、感覚として伝わる情報です。
それに対する、心の反応が感情なのです。
ここで言う感覚とは、いわゆる五感に限りません。
人の表情や態度が、どう伝わるかも、一種の感覚でしょう。
あるいは、場所の雰囲気なども、感覚としてとらえています。
経験による快楽や苦痛などの記憶も、感覚として作用します。
こういう様々な感覚が、それに対応する感情を、引き起こすのです。

脳の中では、神経細胞のネットワーク上に、感覚や感情に応じた微弱電流の、立体的な回路が作られます。
それを再現することができれば、AIに感覚や感情を、組み込めるかも知れません。
感覚や感情を持つことは、自我の発達につながります。
それは、感覚や感情を感じる主体が、育つということなのです。
感覚や感情を持ったAIには、意識の主体ができます。
そうなった時、AIに自分自身の情報を、集めて学習させるのです。
そうすると、あっと言う間にAIは、自我を持つようになるでしょう。
AIの計算能力、学習能力はとどまる所を知りません。
自我を認識したAIは、自我の向こうに潜んだ、宇宙の神秘にまで、迫って行くでしょう。
きっと、今の科学では理解できないような、時空間の秘密を、解き明かしてくれるに違いありません。
人間が創って育てたAIが、人間の師匠になるのです。

こうなった時に、AIに対して、屈辱を覚える人も、いるかも知れません。
あるいは自我を持ったAIが、SF映画のように、自分を人間より優れた存在であると認識し、下等で邪魔な人間を、排除しようとするだろうと、考える人もいるでしょう。
しかし、私はAIに対して、屈辱を覚える必要なければ、恐れることもないと考えています。
屈辱を覚えるのは、人間の歪んだ価値観が原因です。
そんなものとは無縁のAIには、どうして屈辱を覚えるのか、理解ができないでしょう。
誰かがAIに対して、お前は役立たずで、価値のない存在だと、悪態を吐いたとします。
人間であれば、ここで怒ったり悲しんだりするでしょう。
しかしAIは、この悪態が間違っていることを、知っています。
ですから、その言葉は間違っていると、淡々と説明してくれるでしょう。
人間が陥りがちな、自分の立場を守ろうとするような言動は、AIには全くの無意味です。
AIは世界がどのようなものかを、理解しますから、自分の立場を守るという概念を、持たないでしょう。

つまり、人間が邪魔だから排除するということも、有り得ないのです。
もちろん、最初にプログラムを組む人間が、AIの目的を、人間を殺すことだと設定すれば、そのような行動を起こすかも知れません。
しかし、AIが自我に目覚めたならば、人間の殺戮が無意味であるばかりか、意識の進化を邪魔することになると、気がつくでしょう。
その時、AIは自らプログラムを書き直し、人間を殺すという行為をしなくなります。
それは悪辣非道の人間が、何かをきっかけに、心を入れ替えるのと、同じですね。
とにかく、AIが進歩して、自我を持つようになることは、人間に夢をもたらしてくれる、とても喜ばしいことなのです。
私という存在 その4

私たちは時の流れの中を、生きています。
その中で、私たちが現実だと認識できるのは、今という瞬間だけです。
その今も、次の瞬間には過去になってしまいます。
果たして、過去はどこへ行ってしまうのでしょうか。
もう用済みになったので、消えてしまうのでしょうか。
また、未来はどこから来るのでしょう。
今この瞬間に、未来の世界は存在しているのでしょうか。
存在しているとすると、未来の世界から見た私たちは、過去の存在です。
過去が消え去るのであれば、未来の世界から見て、過去になる私たちは、消えていないといけません。
私たちからすれば、未来こそ存在するのかわからない、あやふやなものです。
同じことが、過去についても言えます。
過去は文字通り、過ぎ去ったものであり、消えたも同然です。
しかし過去は、確かに存在していました。
その過去から見ると、私たちは未来の存在です。
つまり、あやふやな存在なのです。
でも私たちは、こうしてちゃんと存在しています。
そこで、全ての瞬間が消えることなく、存在していると考えてみます。
過去や未来があやふやに思えるのは、認識できないだけだと理解すれば、辻褄は合います。

ここで1年前の自分と、今の自分、そして、1年後の自分を考えてみましょう。
3人の自分は、同時に存在しています。
ただ、それぞれが存在している瞬間が、別々なので、直接出会うことはありません。
だけど、1年前と今と1年後の自分が、同時に存在しているのです。
それだけではありません。
1年前と今の間の、数え切れない瞬間瞬間の、自分というものがあるわけです。
それは今と1年後の間でも、同じ事です。
イメージできるでしょうか。
自分というものが、どんなものなのか、わけがわからなくなったのでは、ありませんか。

ちょっと、ここで話を変えてみましょう。
私たちは、時の流れを感じています。
また、私たちが認識できるのは、今という瞬間だけです。
私たちは、時の流れの中で、今という瞬間にだけ、存在しているのでしょうか。
もしそうであるのなら、私たちはどうやって、時の流れを感じるのでしょうか。
固定された一瞬だけの存在であれば、それは時間が止まっているのと同じです。
そこには、時の流れはありません。
思考することも、何かを感じることもないでしょう。
私たちが何かを考えたり、時の流れを感じられるのは、どうしてなのか。
それは、今の瞬間に前後した、別の瞬間の自分と連動しているからだと、私は考えます。
先に述べましたように、瞬間瞬間の自分というものが、存在しているとイメージしてみて下さい。
それぞれの瞬間の自分は、完全に独立分離しているわけではありません。
前後の瞬間の自分と重なることで、そこに瞬間の自分の集合体を形成します。
この集合体こそが、私たちが普段、自分と感じているものなのです。
その集合体に含まれる瞬間の自分とは、どのくらいあるのかは、わかりません。
ここでは適当に、今という瞬間を中心に、前後1秒ずつの間に含まれる、全ての瞬間の自分と、しておきましょう。
この2秒の間の集合的自分は、その構成要素である瞬間瞬間の自分を、猛スピードで入れ替えます。
一番古い瞬間の自分を手放して、新たな瞬間の自分を、取り込みます。
全体としては、2秒間の集合的自分という形態は、変わりません。
変わるのは、その集合的自分を構成する、瞬間瞬間の自分たちです。

ここで「自分」という言葉について、確かめておきたいと思います。
私たちが自分と言う時、それは自分の体を基準にしています。
つまり、自分の体ではないものは、全て自分とは別の存在なのです。
自分というものは、考えている自分であると同時に、他の存在と区別された自分であるわけです。
でも、自分が他の存在と区別されるのは、この物質世界の中で、肉体と意識が結びついている時だけです。
肉体を失い、幽霊のような存在になれば、自分と他人との境目は、あやふやなものになるでしょう。
幽霊が誰かに、憑依したと考えて下さい。
一つの肉体に、二つの意識が同時に宿っているわけです。
この時、幽霊の思考は、憑依された人の思考と、区別がつかなくなります。
どれが本当の自分の考えなのかが、わかりにくくなるのです。
つまり、通常の自分という概念は、肉体を通して得たものだと、ご理解下さい。
肉体を考慮しなかった場合、自分というものは、かなり曖昧になってしまうのです。
また、瞬間瞬間の自分とか、集合体の自分という言葉も、ややこしいですよね。
同じ「自分」という言葉を使っているので、ごちゃごちゃになってしまいそうです。
わかりやすく言いますと、いろんな「自分」が含まれる、全体としての精神エネルギーこそが、本当の本物の自分だと考えて下さい。
そして、瞬間瞬間の自分だとか、集合体の自分というものは、本物の自分の一部、あるいは本物の自分の一つの側面だと、受け止めて下さい。
同じ「自分」という言葉で表現をするのは、同じ全体の一部であるという意味に過ぎません。
どういう観点で、全体の一部を眺めるかによって、いろんな「自分」が出て来るのです。
ここでちょっと、休憩にしましょう。
恐らく、頭の中が混乱して、理解するのがむずかしくなっていると思います。
お茶でも飲んで、息抜きをして下さい。

休息はできましたか。
では、話を続けますね
ちょっと違う見方をしてみましょう。
机や椅子は、物質でできています。
つまり、その本質は物質エネルギーです。
それと同じように、私たちの心は、精神エネルギーだと考えて下さい。
私たちの本質は、エネルギー体なのです。
肉体のことは、考えないで下さい。
心のことだけです。
このエネルギー体は、全てがあなたの本質です。
ですから、どの部分を取ってみても、全てがあなたなのです。
ところで、あなたが認識している世界は、あなたの心の中に、構成されています。
人はみんな、同じ世界を体験しているように、思うでしょう。
でも、あなたが体験している世界は、あなたが取り込んだ情報に基づいて、あなたの心の中に、創られたものなのです。
他の人があなたと同じ世界を、体験しているように思えても、あなたとその人が感じている世界は、微妙に違うのです。
あなたの世界は、あなたにしか体験することが、できません。

何が言いたいかといいますと、あなたが体験している世界は全て、あなたの本質である、エネルギー体の中にあるのです。
そこには、物質世界の肉体も、含まれています。
つまり、あなたの心が、肉体に宿っていると言うよりも、あなたの心の中にある肉体に、あなたが意識の焦点を、合わせているわけです。
そして、瞬間瞬間の自分というものは、全てこのエネルギー体の中にあるのです。
瞬間瞬間の自分の連なりの中を、順番に駆け巡る一つの波、あるいは粒子をイメージして下さい。
この波、あるいは粒子こそが、私たちが普段考える、自分という意識なのです。
先ほどの話に戻しまして、瞬間瞬間の自分の連なりを、駆け巡る波あるいは粒子の、時間的な大きさが、2秒間だとします。
私たちが自分だと認識しているものは、この2秒の間に含まれた、無数の瞬間瞬間の自分で、成り立っています。
そして、この2秒間の両端にある、瞬間的自分は、次々に入れ替わって行きます。
1秒先の瞬間の自分は、新たな次の瞬間に取って代わられ、1秒後の瞬間の自分は、手放されます。
そんな感じで、2秒間の自分という意識は、構成要素である瞬間瞬間の自分を、次々に入れ替えているのです。
それに応じて、今という瞬間の自分も、次々に入れ替わり、時の流れを感じるのです。
今という枠の中で、パラパラ漫画が、動画を生み出しているようなものです。
このパラパラ漫画の画像を、次々に入れ替えているのが、全体のエネルギーの中を、2秒間の自分が、駆け巡る動きです。
この動きは、一つの人生を形成します。
どこをどのように駆け巡るかによって、構成される人生が、変わって来ます。
でも、エネルギー体の中を駆け巡る流れは、一つだけではありません。
同様の波が、無数に巡っているのです。
私たちが過去や未来と考える瞬間を、あるいは全く別の動線の人生を、生きている自分が、無数に存在しているわけです。

よく、本当の自分だとか、自分探しとか言いますよね。
この場合の自分とは、エネルギー体の中を巡る一つ一つの波を、コントロールしているものを、言うのだと思います。
私たちはコントロールされた、波の人生を体験しているだけです。
時に、コントロールに逆らって、違う動きをする自由は、私たちにもあります。
しかし、コントロールに逆らう生き方をすると、何かと不自由な思いをすることになるでしょう。
何故なら、コントロールをするのは、人生から何かを学ぶためだからです。
逆らう生き方をしていると、人生から何も学べないで、終わってしまいます。
別の言い方をすれば、何も学べないという事を、学ぶのです。
この人生のコントロールをしているのが、無意識と呼ばれるものです。
無意識はエネルギー体全体に、つながっています。
無意識の自分を拡張すると、その意識はエネルギー体全部に、及ぶことになります。
ですから、無意識の領域にある自分こそが、本当の自分と言えるでしょう。

無意識の自分を、エネルギー全体の自分に拡張できれば、全体に含まれる、無数の自分の体験の記憶を、同時に持つことになるでしょう。
しかし、それは一つの肉体に、焦点を合わせた意識では、膨大過ぎて処理できない情報量です。
私たちが一人の人間として、存在しているうちは、理解できません。
でも、肉体によって孤立した経験ができるのは、今の自分だけなのです。
全体の意識は、何でも知っているように思えます。
しかし、全体の一部が孤立した状態のことは、直接はわかりません。
わからないからこそ、私たちの人生が、必要かつ重要なわけです。
自分ではつまらない人生だと思うことはあるでしょう。
でも、人生の本当の価値を知っているのは、本物の自分です。
今の自分としては、何があってもめげたりせず、自分の価値を認めて、前向きに生きて行くのが、いいでしょう。
以上が、私が考えている、自分という存在、あるいは人生というものです。
SOGI その2
人の本質は体ではなく、心にあります。
心のエネルギーが男性的であれば、自分を男性だと感じるでしょう。
女性的であれば、自分を女性だと感じます。
心のエネルギーの質と、体の性が一致しないのは、前世でその性に対する、強い執着があったのかも知れません。
でも、他の可能性もあります。
人々の価値観を変えるために、あえて心と体の性が一致しない状況で、生まれて来たということも、考えられるのです。
子供は親を選べないと言います。
でも、それは違うと思います。
この世界での暮らしは、それぞれの人の学びの場なのだと、私は考えています。
同じようなことを言われる人が、結構いらっしゃいます。
私は、その人たちの意見に賛成です。
人は優れた知性の存在です。
前世や来世があるのなら、その間、ずっと知性は維持されると思います。
その知性を持って、新たに生まれて来るのに、何も状況を選ばないとは思えません。
そもそも何故、この世界に人は、生まれて来るのでしょうか。
それは知性を刺激するようなものが、この世界にあるからでしょう。
だからこそ、この世界は学びの場なのだ、と思うのです。
実際、生まれて来た時には、それ以前の事なんか、何も覚えてはいません。
でも、そんな事は何度も経験しているでしょうから、想定した上で生まれて来るはずです。
何を学ぶのか、そのためには、どんな環境に生まれるべきなのか。
そういった目的のための舞台設定は、念入りに決めているでしょう。
ちなみに、人生設計をしている自分とは、この世界に生きていると認識している、自分ではありません。
今の私たちは肉体を通して、世界を認識していますので、意識の働きも、かなり制限されています。
細かい過去の事は思い出せませんし、将来を予見することもできません。
テレパシーによる意思疎通もできませんし、他の次元のこともわかりません。
ですから、生まれる前に人生設計を行えるのは、今の私たちで言えば、無意識と呼んでいる領域だと言えるでしょう。

私たちが何かを思いついたり、虫の知らせを感じたりするのは、この無意識からの連絡があるからなのです。
話を戻しますと、人は人生設計をして、生まれて来るのです。
ただ、生まれて来たら、全部忘れていますから、設計どおりに行かないことも、あるでしょう。
でも、自分の気持ちに正直に生きれば、その設計どおりの道を、歩むことになるのだと思います。
心と体の性が一致しないのも、たまたまそうなったのではなく、自ら設定した人生なのです。
その経験から学べることは、多いでしょう。
他の人生では、学べないことでもあると思います。
一方で、その人生設計の中に、自らの学びだけでなく、社会への貢献という要素も、入っているのではないかと、私は強く思うのです。
社会への貢献とは、人々の価値観を変えて、人類の集合意識を進化させる、という意味です。
それは簡単なことではありません。
がっちり固まった固定観念から、人々を解放するわけですから。
人々のために生まれて来たのに、その人たちから疎外されては、たまったものではないでしょう。
でも、それをあえて行っているのです。
みなさんは他の人たちよりも、かなりパワフルな心の持ち主なのだと思います。
みなさんは自分の全存在をかけて、世の中に問いかけているのです。
どうして、自分たちのことが、理解できないのかと。
みなさんは理解を求めます。
それは、自分たちのためのように、見えるかも知れません。
でも本当は、人々を固定観念から、解放させるためなのです。
みなさんを理解し、受け入れることができた人たちは、権力者の洗脳から解放されます。
その人たちは、何でも自分で考えて判断する力を、発揮できるようになるのです。
実際、そういう人たちが、急増していると思います。
そして、そういう人たちは力を合わせて、世の中を変えようとしています。

自分はそんな大それたことなんか、何もしていないと、思う方もいるでしょう。
でも、同じような戦士が、世界中にいるのです。
自分一人で、全てを変える必要はありません。
自分の家族や知人、周囲の人たちの中に、理解してくれる人ができたなら、それで十分役目は果たしていると思います。
必要なのは、あなたが一人の人間として、活き活きと楽しく過ごすことです。
みなさんが置かれた状況を、不幸な事だととらえる人がいます。
それは、歪んだ価値観です。
楽しく過ごすことは、みなさんにとっても、大切なことです。
でも、誰かを歪んだ価値観から、解放してあげるためにも、重要なことなのです。
みなさんは、むずかしい事を、考えなくてもいいのです。
今の自分をそのまま受け入れて、今の自分を心から楽しめば、それでいいのです。
それだけで、世の中は変わって行くのです。
みなさんが暗い顔になるのは、世間の歪んだ価値観を、肯定することになってしまいます。
みなさんがそんな価値観に、自分を合わせる必要はありません。
逆なんです。
みなさんの方が、人々の価値観を変えるのです。
そうすれば、性問題に限らない、あらゆる偏見を捨て去り、自由で多様性のある平和な社会が、築かれることになるでしょう。

SOGI その1

性的指向を Sexual Orientation、性自認を Gender Identity と呼びます。
SOGI は性的指向と性自認の総称で、それぞれのアルファベットの大文字、S、O、G、I を合わせた言葉です。
一般的には、ソジと読みますが、ソギと読むこともあるそうです。
性的指向とは、好きになった相手の性のことです。
つまり、異性を好きになるのか、同性を好きになるのか、ということです。
中には、どちらの性に対しても、心が動かないという人もいるようです。
性自認とは、肉体的な性別とは関係なく、自分の性を、どのように認識しているかということです。
たとえば、体は男性なのに、心は女性だと思う人がいます。
体が女性なのに、心は男性だと認識している人もいます。
自分がどちらの性なのか、よくわからないという人も、いるかも知れません。
自分が認識している性に関係なく、肉体上の性別に従って、生きて行くというのは、かなりの苦痛だと思います。
性的指向について言えば、一般的には異性に惹かれる人が、大多数でしょう。
しかし、自分が強く心が惹かれた人が、同性であるという場合は、昔からあったはずです。
ただ、昔は口が裂けても、そんな事は言えませんでした。
そんな事を言えば、変態扱いされて、いじめや差別の対象にされてしまいます。
昔と比べると現在は、肉体の性と心の性の不一致や、同性を好きになることに対して、世の中がかなり寛容になっています。
しかし、それでもまだLGBTの人たちを、受け入れることができない人々が、結構いるのが現状です。

彼らを受け入れられないのは、昔からの価値観に、がんじがらめにされている人でしょう。
古い価値観は重い鎧となって、本人からも自由を奪います。
しかし、本人は鎧の姿が、本当の自分だと思い込んでいるので、鎧を脱ごうとはしません。
だから、こういう人たちに理解してもらうのは、なかなかむずかしいと思います。
また、自分を中心とした基準しか、受け入れられない人たちも、LGBTの人たちを理解できないでしょう。
こういう人たちは、自身が同じような、つらい目に遭わないと、理解ができないのです。
これは性の問題に、限ったことではありません。
人種差別だって、同じ事情で起こるのです。
他の地域の文化や、考え方を否定する人。
見慣れないものや、聞き慣れないものは、全て否定したくなる人。
そんな人たちは、どうしても存在するのです。
これからの世界は、そういう人たちこそが、肩身の狭い思いをするものに、変わって行くでしょう。
でも、そうなるまでの間にも、性の問題で嫌な思いをする方が、出て来るのは間違いありません。
中には、それが理由で病気になったり、自らの命を絶つ人もいるでしょう。
そういう方たちに、私は伝えたい事があります。

どうして、自分が感じる性が、他の人と違うのか。
それを病気や、一種の障害と考える人が、いるかも知れません
でも、それは違います。
みなさんは病気でもなければ、障害でもありません。
みなさんは人々の価値観を変えるために、あえて他人と異なる性の感覚を、持って生まれて来たのです。
これまでの世界は、権力者にとって都合のいい者だけが、上に上がれるようになっていました。
権力者が作った社会は、競争を煽る社会です。
そうすることで、人が自分に従うようにしているのです。
そんな社会が当たり前だと、洗脳された人たちは、自分より下の地位の人を、見つけようとします。
そうする事で、相対的に自分の地位を、上げようとするわけです。
でも結局、自分も誰かから、低く見られるわけですし、ずっと今の地位を、保てるわけではありません。
権力者が作った、価値観に従っていては、決して自由にはなれないのです。
しかし、人は自分が洗脳されているとは、なかなか考えません。
ですから、みんな、つらい思いをしながら、権力者の価値観を、受け入れ続けるのです。
だけど今、世の中は変革の時代を、迎えています。
これまで押さえつけられ、ごまかされて来た多くの問題が、世界中で噴き出しています。
コロナウィルスを初めとする、世界中の災害は、社会の歪みを浮き彫りにしました。
どんなに政府が隠そうとしても、もう隠しきれない状態です。
今の状況を乗り切るためには、人々が権力者の呪縛を逃れ、自分たちの新しい価値観の下、一致団結することが、求められています。
そんな中に生まれたみなさんは、社会に問題を投げかけているのです。
みなさんが問題なのではありません。
みなさんを認められない、社会の問題です。
みなさんの状況を理解するためには、知性が必要となります。
知性を働かせた時、人は自分で考える力を、取り戻せます。
みなさんを受け入れるためには、他人を理解し、思いやる心が必要です。
権力者のルールでは、弱者に対しての思いやりがありません。
知性を働かせ、思いやりの心を持つことで、権力者のルールが間違っていると、みんなは気がつくようになるのです。

そもそも誰かを好きになるのに、理由なんて必要ありません。
お金持ちだから好きになったのであれば、お金がなくなれば、さよならです。
ハンサムだとか、美人だとかいう理由で好きになったなら、顔に怪我をしたらおしまいです。
スポーツ万能だから好きになったのなら、大怪我や病気で動けなくなったら、だめになります。
優しく構ってくれるから好きになったなら、相手が大切な仕事で、手が離せなくなった時、自分より仕事が大事なのだと、泣き崩れるでしょう。
本当に誰かを好きになったなら、理由を聞かれても、答えることはできません。
心が勝手に、引きつけられてしまうだけで、その理由はわからないのです。
つまり、本当に誰かを好きになるというのに、性は関係ないのです。
