前世と生まれ変わり3

前世の記憶を覚えている人は、滅多にいません。
ですから、前世なんてないと、考えたくなる人は多いでしょう。
でも、それは覚えていないというだけの話です。
前世がない証拠にはなりません。
前世があるというのは、生まれ変わりがあるということです。
また、前世で死んだのに、今世に生まれ変わったということは、今世で死んでも、来世に生まれ変わると言えるわけです。
死んでも新たに生まれ、また死んでも、また生まれる。
ずっとそういう事を、繰り返すのだとすれば、私たちの人生とは、何なのでしょう。
前世や来世を含めた、人生の全体像を描くのは、たやすいことではありません。
しかし、人生は一回こっきり、死んだら全部おしまいという考え方は、変更を迫られることになるでしょう。
ただし、今の時代に今の人格で生まれている人生は、やはり一回こっきりです。
似たような人生はあったとしても、今の人生に変わるものは、ないのです。
そういう意味で、いくら前世や来世があったとしても、今の人生を大切にすることが、重要なのは変わりません。

仏教の考え方に、カルマというものがあります。
良い行いをすると、いい運命に出会い、悪い行いをすると、悪い運命に出会う。
カルマとは、こんな感じで受け止められているようです。
たとえば、前世で人を殺したから、今世では殺される運命にあるとか、前世で人の手を切り落としたから、今世では手のない子供として、生まれて来ると、いうようなものです。
でも、こんな説明をもっともらしくされても、誰もそれを確かめた人はいないはずです。
こういうのは、悪いことを戒めるために、作られた説明であって、事実ではないと思います。

前世の研究では、生まれつき体に痣や奇形がある時に、それが前世での死に様と関係があると、示唆しています。
たとえば、銃で撃たれて死んだ人は、生まれ変わった体に、前世で受けた銃弾の傷跡と、そっくりの痣が見られることがあります。
刺し傷などでも、同じことが言えます。
手や足の奇形で、手足の指がなかったり、手や足が変形している場合、前世で同じ部位に、同様の損傷を受けていることがあります。
この人たちの痣や奇形は、前世で悪いことをした結果ではありません。
何も悪いことなどしていないのに、事件や事故に巻き込まれて、亡くなった人たちです。
これで言えることは、死に直面した時に受けた、強い印象が新しい体の形成に、影響を与えるということでしょう。
しかし、飛行機の墜落事故や、戦争での虐殺があった後に、似たような奇形や痣の子供たちが、大量に生まれたという事実はありません。
つまり、同じような死を迎えた人たちの、一部の人だけが、新しい体に前世の記憶が、影響しているということです。

ところで、死んだら、あの世へ行くのではなかったのかと、考える人もいると思います。
前世の研究では、殺された後に、しばらく幽霊のようにさまよった後、生まれ変わって来るケースがありました。
それとは別に、前世で死んで、今世に生まれて来るまでの間に、違う世界で過ごしていたという人もいます。
この世界があの世だとすれば、死んだ人は全員が、あの世へ行くわけではないのかも知れません。
この世界では欲しい物は、何でもすぐ現れるのですが、特に飲み食いをしなくても、平気だそうです。
この世よりも、ずっと暮らしやすそうな所のようですね。
それなのに、この人は生まれ変わりを促され、再びこの世に生まれて来たのです。
その話を受け入れるならば、やはり人がこの世に生まれて来るのには、何か深い理由がありそうです。
単に楽な暮らしを求めて生きることは、本来の人生の意義ではないと、いうことでしょう。
楽な暮らしを求めることが、人生の目的であるならば、この世よりも快適なあの世から、再びこの世へ戻って来る、理由がないからです。
わざわざ大変な世界へ、生まれて来る理由とは、何でしょう。
少なくとも、ただ生きるだけのために、生まれるわけではなさそうです。

前世と生まれ変わり2
前回ご紹介しました、イアン・スティーブンソン教授と、サトワント・パスリチャ助教授が研究された、前世記憶の話を、いくつかご紹介したいと思います。
1956年にインドのデリーに生まれた、ゴーパール・グプタ(男児)の話です。
ゴーパールの両親は、ほとんど教育を受けていない、中流の下の階層の人間でした。
ゴーパールが2歳を過ぎて、言葉を話すようになった頃、父親がゴーパールに、来客が使ったコップを片づけるよう、命じました。
するとゴーパールは「そんな物は持たない。ぼくはシャルマだ」と答えて、みんなを驚かせました。
シャルマとは、インドのカースト制で最高位にある、バラモンに属している人たちでした。
バラモンは自分より下層の物が、触った食器類には、手を触れないのが普通なのです。
ゴーパールは、マトゥラーという街で暮らしていたと言うのですが、この街はデリーから南へ、160kmほどの所にある街でした。
ゴーパールはその街で、薬会社を経営し、召使いを何人も雇った、大邸宅に暮らしていたそうです。
そこでは妻と二人の弟と一緒に、暮らしていたそうですが、その弟の一人と口論になり、撃たれたと言うのです。
父親は初め、本気にしていませんでしたが、ゴーパールが話したとおりの殺人事件が、マトゥラーであったことを、耳にします。
父親がマトゥラーを訪ねてみると、果たしてゴーパールが語った薬会社が見つかりました。
そして、1948年にその会社の経営者の一人が、兄のシャクティパル・シャルマを射殺した事件があったことを、確かめたのです。
ゴーパールの話を聞いたシャルマ家の人々は、ゴーパールと合って話をします。
ゴーパールは身内でなければ知らないような、家族関係や撃たれるに至った経緯などを、シャルマ家の人たちに話しました。
それで、シャルマ家の人々も、ゴーパールがシャクティパルの生まれ変わりだと、確信したそうです。
1958年にイングランド最北部の、ノーサンバーランド州に生まれた、一卵性双生児のポロック姉妹の話です。
二人の名前は、ジリアンとジェニファーです。
ジリアンとジェニファーは、2歳から4歳までの間に、ジョアンナとジャクリーンと言う、二人の姉についての、発言をすることがありました。
実は、ジョアンナとジャクリーンの二人は、1957年に発狂した女の車に、ひき殺されたのです。
当時、ジョアンナは11歳、ジャクリーンは 6歳でした。
二人が死んだ後、両親は大きなショックを受けました。
しかし、父親のポロック氏は、死んだ二人の娘が、双子として生まれて来るはずだと、固く信じていたと言います。
そして、ポロック氏の言葉どおり、妻のフローレンスは双子を身籠もり、ジリアンとジェニファーが生まれたのです。
ジャクリーンには生前、体に二つの傷がありました。
その傷と大きさも部位も一致する母斑が、妹のジェニファーの体にあったのです。
母斑が遺伝子によるものであるならば、一卵性双生児であるジリアンにも、同じ母斑があるはずです。
しかし母斑があるのは、ジェニファーだけでした。
しかも、その母斑は死んだジャクリーンの傷を、彷彿とさせるものでした。
また、死んだ時にジョアンナは、字を習っていたので、鉛筆を使うことができました。
一方、ジャクリーンはまだ、鉛筆を持たせてもらっていませんでした。
ジリアンとジェニファーが字を習い始めると、ジリアンは鉛筆を難なく、持つことができました。
しかし、ジェニファーは手で握りしめるだけでした。
1976年にフィンランドのヘルシンキに生まれた、サムエル・ヘランデル(男児)の話です。
1歳半の時、サムエルは自分の名前を聞かれて、ペルティと答えました。
お前はサムエルだと言われても、自分はペルティだと言い張っていたと言います。
サムエルの母、マリヤにはペルティという弟がいました。
ペルティは1957年にヘルシンキで生まれ、1975年に18歳の若さで、亡くなりました。
死因は糖尿病でした。
ペルティは重症の糖尿病になり、昏睡状態に陥って死んだのでした。
マリヤがサムエルを身籠もった時、マリヤは子供の中絶を考えていたそうです。
妊娠は10週目でした。
その時に、マリヤはペルティの夢を見ました。
ペルティは夢の中で、子供はそのままにしておいてと、マリヤに頼んだそうです。
結局、マリヤはサムエルを産むことになったのですが、そのサムエルが自分はペルティだと、言い張ったのです。
ペルティと親しかった人たちや、ペルティがよく知っていた物を、前にした時に、サムエルは前世の記憶らしき話を、したと言います。
また、ペルティの写真を見つけると、これはぼくだと言っていたそうです。
ペルティは、自分が死んだ時のことを覚えていて、葬儀の様子を説明しました。
そして、自分の墓の前に来ると、これはぼくの墓だと言ったそうです。
1969年にインドのウッタル・プラデーシュ州に生まれた、マンジュ・シャルマ(女児)の話です。
マンジュの家は、マトゥラー地区のパサウリ村にありました。
しかし、マンジュは2歳の頃に、自分はチャウムハ村の者だと言い出したのです。
チャウムハ村の父親と名前を挙げたマンジュは、父親がパン屋をしていたと話しました。
そして、自分が死んだ日のことも、説明したと言います。
マンジュの話によれば、マンジュは井戸の水を汲もうとして、井戸に落ちて死んだそうです。
しかし、両親はマンジュの話を聞き流し、まともに取り合おうとしませんでした。
ある日、チャウムハ村の男性が、パサウリ村を訪れます。
マンジュはこの男性をつかまえると、自分の叔父さんだと言いました。
しかし、男性はマンジュのことが、わかりません。
マンジュは男性に、チャウムハ村にいる父親の名前を告げ、井戸に落ちた話もしました。
驚いた男性は村へ戻ると、マンジュが話した家族を訪ね、マンジュのことを伝えました。
話を聞いた家族は、パサウリ村にマンジュを訪ねます。
家族と対面したマンジュは涙を流し、家族もまた涙を流します。
そして、家族はマンジュにいくつかの質問をし、マンジュが井戸に落ちて死んだ娘、クリシュナに間違いないと確信しました。
クリシュナが亡くなったのは1965年で、当時9歳でした。
それからマンジュは、双方の家を行き来するようになりました。
最後は、少し特殊な例です。
通常、前世を語るのは、2歳から4歳の子供です。
しかし、今回の話に出て来るのは、32歳の女性です。
また大抵の場合、前世の人格が生きていたのは、3、4年以内のことですが、この例に出て来る前世の人格は、150年近く前のものです。
そして、この話の前世の人格が現れる前に、現世の人格はいったんトランス状態に陥ります。
つまり、催眠術にでもかかったような、ぼーっとした状態になるのですね。
前世の人格が今世の人格を、完全に支配してしまうことは、稀だそうですが、この話ではそういう状態になるようです。
これらの点を考えると、この話を生まれ変わりと、とらえていいのか、わかりません。
しかし、過去に生きた人物の人格が、現れているという点で、それを前世と考えてもいいかも知れない、ということでしょう。
この話の一番の特徴は、今世の人格が知らない言葉を、前世の人格が語ったということです。
インドのマハーラーシュトラ州に暮らす、ウッタラ・フッダルという女性の話です。
ウッタラは32歳になってから、シャラーダと名乗るベンガル民族の、既婚女性の人格を出すようになりました。
シャラーダはベンガル語でしか、会話をしません。
しかし、ウッタラも家族も、ベンガル語を知らないのです。
調査のためには、ベンガル語の通訳者を呼ばなければ、なりませんでした。
シャラーダの話では、彼女の夫はアーユルヴェーダ医で、村から村を渡り歩いていたと言います。
シャラーダが暮らしていたのは、現在はバングラデシュ領になっている、旧・東ベンガル地方だそうです。
妊娠7ヶ月の時、シャラーダは花を摘んでいる時に、ヘビに咬まれて気を失ったと言いました。
恐らくその時に亡くなったのでしょうが、本人には自分が死んだという、自覚がありません。
シャラーダは夫を探し歩いているうちに、ここ(ウッタラの村)まで来たと言いました。
シャラーダが語ったのは、19世紀初頭のベンガルの農村の話でした。
シャラーダは、当時にはなかった扇風機や電気のスイッチなどは、全く知らない様子でした。
また、シャラーダのベンガル語には、英単語が一つも混じっていなかったと言います。
現代ベンガル語には、英語由来の言葉が、2割ほど含まれているそうですので、シャラーダが語ったベンガル語は、古い言語だと言えます。
調査の結果、シャラーダが語った家族の、家系図が見つかり、シャラーダの話の信憑性は高まりました。
いかがでしょうか。
前世というものが、あなたの思考の中で、確固たる地位を得たでしょうか。
これまで真面目に考えたことがなかったなら、これを機会に考えてみて欲しいと思います。
そして人生について、その意味を探ってみて下さい。
前世と生まれ変わり
前世や生まれ変わりという話は、日本人には馴染みがあるものです。
小説や映画の題材にも、よく使われています。
ところが、前世や生まれ変わりについて、真剣に考えたり議論したりということは、滅多にありません。
幽霊の話がタブー視されるのと同じで、こういう話も真剣になることが、敬遠される風潮です。
小説や映画ではロマンを感じて憧れるのに、本当にそういうものがあるのかという話になると、日本人は一気に腰が引けてしまうようです。
人生観を考えると、このテーマは非常に重要です。
家でもどこでも、とことん議論するべきだと、私は思います。
それなのに、日本では滅多に話題に取り上げられません。
テレビで取り上げることがあっても、幽霊や UFOと同じで、バラエティ番組で茶飲み話の話題にされるだけです。
ところがアメリカには、このテーマに大真面目に取り組んだ、大学の先生がいたのです。
それは、アメリカのヴァージニア大学精神科の、主任教授を務めていた、イアン・スティーヴンソン博士です。
スティーヴンソン博士は2007年に、89歳で亡くなられましたが、生前は生まれ変わりについて、研究をされていました。
前世の記憶を持つ者がいるという情報をつかむと、博士は世界中どこにでも飛んで行き、その人物の調査をしました。
そして、その人物の記憶が正しいか、前世で暮らしていたという土地を探し、そこに住む人たちに話を聞いて、話の真偽を確かめたのです。
前世を覚えているのは、大抵が子供です。
子供たちが「前世」のことをしゃべり出すのは、2歳から5歳頃までと言います。
その後、8歳までには、しゃべるのをやめるようです。
博士の下に情報が届いた時には、子供が前世の記憶を語ってから、何年か経っていることもあるので、子供が記憶を失う前に、大急ぎで調査をする必要があったようです。
その研究結果は、日本でも『前世を記憶する子供たち』という本で、発表されています。

子供がしゃべる前世の話は、前世で死んだ時の様子や、そこにいた人や周囲の様子、死んでから生まれ変わるまでの間のこと、などです。
ぼんやり覚えている子供もいれば、多くのことをはっきりと、覚えている子供もいるそうです。
その中には、現世の暮らしに馴染めず、前世の家族の所へ帰りたいと、訴える子供もいるようです。
現世の家族がその子供の話を聞いて、前世の家族に会いに行ったという話もあります。
子供は前世の家族や家のことを覚えていて、そこの家族も、その子が死んだ者の生まれ変わりであると、認めたと言うのです。

前世の記憶を持つ子供の大多数は、事故死や殺人などで、突然命を失ったケースが多いようです。
そういう子供は、特定の乗り物や武器などに、恐怖感を表すそうです。
また、前世で死ぬことになった大きな傷が、生まれ変わった体では、大きな痣や欠損になっているということも、少なくないようです。
さらには、前世で暮らしていた国の言葉を、喋るというケースも、例は少ないですが、あるのだそうです。
それについては、サトワント・パスリチャ氏の『生まれ変わりの研究』に紹介されています。

サトワント・パスリチャ氏は、インド国立精神衛生神経科学研究所の助教授です。
スティーヴンソン博士の調査研究に参加し、その後、独自の研究を続けた方です。
二人の調査は、公正で誠意のある研究であり、二人の意見には高い信頼性があります。
その二人が控えめな表現で、前世や生まれ変わりの存在を、示唆しているのです。
それを信じられないというだけの理由で、否定することは、自らの知性を放棄するのと同じでしょう。
どちらの本も、研究発表としての本ですから、読み慣れない人には、少しむずかしく見えるかも知れません。
それでも読んでみると、二人とも可能な限り客観的な立場に立ち、集めたデータを冷静に分析しているのが、わかります。
この方たちは好い加減な研究者ではなく、真面目で独自性があり、人一倍の勇気を持った科学者です。
生まれ変わりの話には、日本人のケースもありました。
前世の記憶を持つ子供の話は、東南アジアや西アジア、西アフリカに多いようです。
これは前世や生まれ変わりを、信じる文化が関係しているかも知れません。
そういう地域では、子供が変わったことを言い出した時、もしかしたら誰かの生まれ変わりかも知れないと、考える人が多いと思われます。
そう考えなければ、単に子供が面白いことを言ってるよと、笑って済ませてしまうはずです。
また、これらの地域はヨーロッパやアメリカに比べ、子供の死亡率の高さや、治安や衛生面の悪さなどで、突然死を迎えることになる者が、多いのかも知れません。

小さな子供がわけのわからないことを、喋るということは、よくあることです。
しかし、それが前世の話かも知れないという発想は、日本人にはありません。
子供が舌足らずの言葉で、何か言い出した時に、笑うことなく、真面目に話に耳を傾けたら、面白いと思います。
案外生まれ変わりを、示唆するような話が、結構出て来るかも知れません。
もし前世を喋る子供が現れて、その言葉が正しいと証明されたなら、人々が驚かされるのは、間違いないでしょう。
そういう例が一つだけだと、不思議なこともあるもんだね、で終わってしまうかも知れません。
しかし、同じような話がいくつも出て来れば、これはただ事ではないぞと、考える人が出て来るでしょう。
数十例も、前世を記憶する子供の話があれば、間違いなく前世はあると、ほとんどの人が考えるようになると思います。
こういうことは、学者の専門と決めつける必要はありません。
自分の身近に、幼い子供がいる人は、その子供の話を、よく聞いてあげるようにしていれば、すごい話を聞くことになるかも知れません。

奇妙な夢

今朝、奇妙な夢を見ました。
登場人物は、みんな知らない人たちばかりです。
自分がいる場所も、見たことがない所でした。
私自身も、現在の私ではありませんでした。
現在の私と共通しているのは、自分が男であるという事だけです。
夢の中で認識している自分は、現在の自分とは、全く別人のようでした。
しかも、自分がいるその場所が、過去の世界だと認識しているのです。
夢の中の自分が、現在と理解しているのが、どんな所なのかまではわかりません。
それでも夢の中の私は、意図的に過去の世界へ、タイムスリップしていたようでした。
こんな感じで、今の自分とは、全く別の人格、別の記憶を持った人物である夢を、何度か見た事があります。

女性だった事もあります。
夢の中の私は、酒場で男性と一緒に、お酒を飲んでいました。
この時は、目覚めてからしばらくの間、とても戸惑いました。
今の私の中には、自分を女性だと信じる要素は、これっぽっちもありません。
男性を求める気持ちも、全くありません。
ですから、どうしてそんな夢を見たのか、理解ができずに困惑するばかりでした。
また、夢の内容は忘れてしまいましたが、目が覚めた時に、しばらくの間、自分がどこにいるのかが、わからなくなった事もあります。
寝ていたのは、いつもの寝室で、目を開けると、いつもの部屋の様子が、見えていました。
でも、その時は自分が全然知らない所へ、運ばれて来たように思っていました。
目覚めているのに、頭の中は、まだ夢の世界にいたのです。

夢は無意識の非言語的思念を、通常の意識が理解できる、言語的思考への変換だと、私は理解しています。
私たちは睡眠中、通常の意識を眠りにつかせて、無意識の状態となって、精神活動を続けていると考えられます。
その無意識だけになっている時に、私たちは何を考え、何を体験しているのでしょうか。
単に覚醒時の経験を、整理しているだけとは思えません。
もしかしたら、他の精神エネルギーと、交流しているのかも知れません。
あるいは、今の現実世界とは別の世界にも、つながりを持っているという、可能性もあるでしょう。
現実とは全く関係のない、別の世界のような夢があります。
そんな夢は、自分の勝手な妄想ではなく、本当にある別の世界の体験を、再体験しているのかも知れません。
それはパラレルワールドなのか、この世界の過去や未来なのか、あるいは、その両方なのか。
とにかく、私という存在の分身が、あちこちの世界に、いるかも知れないのです。
ひょっとしたら、この現実世界の今、同じ時空間の中に、自分の分身が別人格となって、暮らしている可能性もあるのです。
案外すぐ近くに、自分の分身がいるかも知れません。
嫌なやつと思っている、まさにその相手が、自分の分身という事も、有り得ると思います。
戦い合ったり、殺し合ったりしている相手の中に、自分の分身がいるかも知れないのです。

考えてみれば、全ては同じ所から、生まれたのだと言えます。
私たちはみんな、ある意味、地球の分身です。
全然違う存在と思っているものも、元をずっとたどって行けば、遠い分身と言えるでしょう。
つまり、自分以外の存在を、痛めつけたり苦しめたりする行為は、自分を傷つけているのと、同じという事になるわけです。
今日見たような不思議な夢は、そういう事を伝えようと、していたのかも知れません。
偶然というもの

数学は宇宙の性質を表現する、一つの手段だと私は理解しています。
人間がどのような数式を導けるかは、どれだけ宇宙を理解しているかによるでしょう。
そうは言っても、人間の頭脳だけで、宇宙の全てを理解することは無理です。
しかし、今のスーパーコンピューターよりも、遥かに優れた性能のコンピューターが作られたら、今の人間には不可能な数式を、導き出してくれるかも知れません。
人間も宇宙の一部です。
宇宙の全てを、数式で表すことができるのであれば、人間の行動ですら、数式で表現できるはずです。
そんなの無理でしょと、思われるかも知れません。
人間は自由気ままに、活動しているように見えるからです。
でも、人間の気まぐれな意思決定は、変数という形で表せばいいのです。
変数というのは、y=2x というような式で使われる、xやyのことです。
xには、どんな数字が来るか、わかりません。
数字が確定されていないので、代わりにxという文字を、使っています。
つまり、xというのは、選択の可能性を表しているのです。
一方、y というのは、xによって決まる結果です。
xの所に、具体的な数字を入れると、自動的にyが決まるのです。
たとえば、y=2x のxの所に、1という数字を入れると、yは2と1を掛け合わせた、2になるわけです。
xを-1 にすると、yは-2 になりますよね。
xを 0 にすると、yも 0 です。
こんな風に、xに何を選ぶかによって、yという結果は変わって来ます。
つまり、yというのは、結果の可能性と言えます。
y=2x をグラフにすると、次のようになります。

横軸の数字が x に入る数字で、縦軸の数字が y に入る数字です。
先ほどの例のように、x 軸の数字を 1 に決めると、x 軸の 1 の所から、真っ直ぐ上に延ばした線と、y=2x の緑色の線が、交わります。
その交点から横に真っ直ぐ線を延ばすと、その線が y 軸と交わります。
そこの y 軸の目盛りは、2ですね。
x に 1 を選んだ結果として、y は 2 になったのです。
同様に、x に-1 を選ぶと、結果の y は-2 になります。
x が 0 であれば、y も 0 となるわけです。
この式ですが、見ようによっては、こう見ることもできます。
いい事をすれば、その2倍いいことが返って来る。
何もしなければ何も起こらない。
悪いことをすれば、その2倍悪いことが返って来る。
どんな行動を選択するかが x で、その結果が y として表現できるのです。
もっとも人生は、こんなに単純なものではありません。
数式で表すとすれば、もっと複雑な式になるでしょう。
それでも、人間の行動を数式で表現することは、不可能ではないのです。
恐らく、将来はコンピューターを使って、その人の性格や行動、その人が送るであろう人生を、数式で表現できるようになると思います。
ただし、本人の意思とは別の変数も、考慮しないといけないでしょう。
たとえば、家族や周囲の人々との関係や、突発的に起きる事件や災害、あるいは特別な人との出会いなどです。

結果である y の意味を、物質的豊かさとするか、精神的豊かさとするかは自由です。
y の意味を定義することによって、それを表現する数式も、異なるものとなるでしょう。
いわゆる運命のように、こうなる事に決まっていると、考える必要はありません。
自分の意思を表す変数がなければ、運命と呼ばれるような、比較的固定的な結果が、出されるでしょう。
しかし、意思が変数として組み込まれますから、結果は固定的ではありません。
全ては自分が選択したとおりの、結果になります。
いいとか悪いの問題ではありません。
結果は、全ての変数によって決められます。

たとえば、他の変数の結果、あなたが大きな災害に遭う可能性が、高くなっているとしましょう。
あとは、あなたの変数次第です。
あなたが変数に、どんな数字、すなわち行動を選ぶかで、結果は全然違うものになるのです。
たとえ災害を避けられないとしても、怪我一つしない場合もあれば、命の危険に及ぶこともあります。
全ては自分が選んだ変数によって、決まるのです。

こう考えますと、世の中に偶然というものが、存在しないことがわかるでしょう。
人が偶然という言葉を使う時、それはどうしてそうなったのかが、わからないという意味なのです。
でも、自分がわからないというだけであって、本当はそうなるべくして、そうなったのです。
また他人の行動が、自分の人生の変数となるわけですから、自分の行動も、他人の人生の変数となります。
つまり、お互いの人生に影響を、及ぼし合うということですね。

人はどんな状況からでも、様々なことを学べます。
楽しいことからも学べますし、悲しいことからも学べます。
人は悲しいことを嫌いますが、悲しむからこそ、学べることもあるのです。
ですから、悲しみを覚悟で、自分の変数を決める人もいるでしょう。
でも、そうでない人がほとんどだと思います。
覚悟していない悲しみに、突如襲われた時、立ち直れなくなるほど、大きなショックを受けるかも知れません。
そんな時には、偶然など存在しないのだと、理解して下さい。
それは起こるべくして、起こったのだと受け止めるのです。
では、何故それが起こったのか。
偶然でないのなら、理由があるはずだと考えるでしょう。
表面的な理由を探すと、誰かのせいにしたくなると思います。
しかし、もっと深い部分での理由を探ると、違う意味を見つけるでしょう。
どんな意味を見つけられるのか。
それが悲しみの後の、その人の変数を決めることになるのです。
そして、その変数がどうなるかで、その人が送る人生も、決まって来るのです。

擬態
擬態とは、他の物に自分の姿を似せることです。
擬態で有名なのは、昆虫でしょう。

上の写真は、蛾の一種です。
木の切れ端にそっくりですね。
ぱっと見ると、大きな木の上に、切った太い枝を、載せているみたいです。

これは尺取り虫です。
すっかり木の枝になったつもりのようですね。
見かけが木の枝に似ているだけでなく、明らかに尺取り虫自身が、枝に化けることを、意識しているようです。

これは有名なコノハムシです。
本当に葉っぱそっくりですね。

魚にも見事な擬態のものがいますよね。
これは砂に隠れたイシガレイです。
パッと見ただけでは、どこにいるのかわかりにくいですね。

こちらは、ゴールデン・ピグミーシーホースです。
ちっちゃなタツノオトシゴの仲間です。
つかまっているのは、ヤギというサンゴのような生き物です。
ヤギのイボイボと、同じようなイボが、ピグミーシーホースにもありますね。

これは白黒の海シダに擬態した、ゼブラシュリンプです。
シマウマのようなエビってことですね。

こちらは、アマガエルです。
これも擬態の一種なのでしょう。
草むらにいるバッタなんかも、緑色のものが多いですが、どれも擬態でしょう。
色だけが周囲に似ている、生き物も多いですが、形までもが周囲にそっくりな生き物も、いろいろいるんですね。
だけど、全然周囲のことなど、お構いなしという姿の生き物もいます。
どんな姿で生きるのかは、全くの自由なのでしょう。
また、周囲に身を隠すのも、色だけ似せる者もいれば、形まで似せる者がいて、どの形が一番ということではないようです。
色が緑というだけならば、他の植物の葉っぱの所でも、じっとしていれば目立ちません。
ある葉っぱに完全に似ている場合、違う葉っぱの所へ行くと、逆に目立ってしまいます。
と言うことは、広範囲に動く者は、色だけを周囲に似せるけれど、狭い範囲にしかいない者は、形まで似て来るのかも知れませんね。
いずれにしても、全然違う場所に置かれては、せっかくの擬態が、かえって足を引っ張ることになってしまいます。
葉っぱそっくりのコノハムシも、机の上に置かれると、すぐに見つかってしまいます。

それにしても、周囲に自分を似せるというのは、いったいどうやるのでしょうか。
形や色が決まっている生き物は、ある場所では見つかりにくいですが、別の場所では目立ちます。
ところが、カメレオンは周囲の場所によって、体の色を変えることができるのです。

カメレオンは左右の目が、別々に動いて、周囲をよく観察しています。
もしかしたら視覚的な刺激が、皮膚の色素調節と、連動しているのかも知れません。

タコも忍者と呼ばれるほど、周囲に化けるのが上手です。
色ばかりか、表面が岩の形状そっくりになったりします。
また、体全体の形を変えて、他の生き物に化けることもあります。
つまり、自分の意志で思ったとおりに、変化しているわけですね。
この場合、視覚的な情報で自動的に変化しているのとは、ちょっと違うようです。
こういう生き物たちの形態や能力を、生き残るための戦略だと考える、研究者もいます。
でも、彼らが人間のような頭や、知性を持っているとは、認めていません。
それなのに、戦略という言葉を使うのは、矛盾しているように思います。
私の考えでは、こういう生き物たちには、今の人間にはわからない、空間認識の力があるのです。
生き物の個体が持つ形態や能力は、その個体が自分で身に着けたものでは、ありません。
それは遺伝子情報によって、決められたものです。
ですから、もし昆虫や魚たちが喋ることができても、どうして自分たちが、そうなっているのかを、答えることはできないでしょう。
答えるとすれば、生まれた時から、こうなっている、というぐらいだと思います。
では、その遺伝子情報は、どこから来たのでしょうか。
これも一部の学者が言うような、突然変異だとか、偶然の変化のようなことでは、ありません。

生き物たちにも集合意識があります。
個体は集合意識の、触手の一つのようなものです。
本体は集合意識であり、遺伝子情報は集合意識の状態によって、決まるのでしょう。
個体レベルでは、物質的な体がありますが、集合意識はエネルギー体です。
周囲との境界は、物質世界のようには、はっきりしていません。
一方、生き物にとっての環境である、植物や鉱物にも集合意識があります。
こちらもエネルギー体であって、昆虫や魚たちの集合意識と、交わることができるのだと思います。
その時に、その環境のエネルギーパターンを、自らの中に取り込むと、それが遺伝子情報に反映されて、環境に似た色や形の個体が、生まれるのでしょう。
カメレオンやタコのように、その場に応じて、体を変化させられる生き物は、どうでしょうか。
恐らく、個体レベルで周囲のエネルギーを、感知しているのではないかと思います。
そして、自らのエネルギーを、そのエネルギーに似せることで、体が自動的に周囲にそっくりな状態に、なるのではないでしょうか。
全ては精神エネルギーであり、エネルギー同士の関わり具合によって、様々な生き物が、その姿を形作っているというのが、擬態についての私の考えです。
認められたい気持ち その2

手を見て下さい。
手には5本の指があります。
私たちは人類という、大きな意識の一部です。
人類の意識が、この手だとすれば、私たち個人個人の意識は、一本一本の指先です。
何かを手で探った時、手は全ての指の感覚を、総合的に感じ取り、触れている物が、何かを確かめます。
一つの指先の感覚に集中していると、他の指の感覚はわかりません。
当然、全体的な感覚もわかりません。
これが今の私たちの状態です。
他の指と離れて孤立していると、感じているのです。
しかし、孤立はしていません。
そんな事は不可能です。
今の私たちは一つ一つの指先ですが、それは手の一部です。
どの指も、手を介してつながっています。
本来の存在としては、私たちは手なのです。
今は自分に割り当てられた、指先の人生を確かめているのです。
だから、どの人の人生も重要ですし、価値があるのです。
自分では、全然面白くない人生のように、感じるかも知れません。
でも、判断は手の意識で行うのです。
そして、手にとって無駄な指は、一本もないのです。
指の爪近くの関節から、指の先端までを、私たちが自分だと認識している、意識だとします。
その関節から次の関節までの間は、潜在意識です。
まだ、言語にならない想いの塊が、ある部分です。
そして、さらに上が無意識です。
無意識は手を介して、他の指の無意識とつながっています。
全ての無意識が、一つになっている手全体は、人類意識です。
潜在意識には、思考が言語の形になる前の、想いの塊があります。
パンで言えば、まだ形ができていない、焼く前の生地の状態です。

価値観や思い込み、信念などは、この領域にあります。
自分は独りぼっちだという概念も、ここにあるのです。
理屈を処理しているのは、指先の部分の意識です。
理屈では、自分は独りぼっちでないと、わかっている。
でも、やっぱり孤独で、寂しく感じてしまう。
そういう時は、指先の意識と、その上の潜在意識で、対立が起きているのです。
無意識からは、あなたは一人じゃないよという、感覚的な情報が送られます。
でも、潜在意識にある、独りぼっちなんだという想いが邪魔をして、指先の意識にまで伝わらないのです。
では、どうすればいいのかと言いますと、やはり、まずは理屈で、潜在意識の歪んだ想いを、なだめながら説得することです。
歪んだ想いを否定したのでは、解決になりません。
否定すればするだけ、歪んだ想いは、かたくなな態度を、見せるようになります。
否定するのではなく、子供に言い聞かせるようにして、理屈をわからせるのです。
私は独りぼっちだと、潜在意識が訴えます。
それに対して、ほら、違うでしょ、独りぼっちじゃないでしょ、と状況を説明しながら、根気よく語りかけるのです。
そうしていると、潜在意識にある想いの力が、弱まります。
すると、無意識と気持ちが、つながりやすくなります。
無意識から伝わってくるものは、理屈ではありません。
感覚的な理解です。
それがうまく伝われば、潜在意識の歪んだ想いも、完全に納得してくれるでしょう。

でも、無意識に気持ちをつなげるには、どうすればいいのでしょう。
瞑想がいいと思います。
何も考えず、ただ心の奥底から伝わるものを、感じるようにするのです。
そんなの無駄だよ、馬鹿みたい、なんて考えると、無意識の想いは伝わりません。
静かに抵抗することなく、何でも受け入れる気持ちで、ただ感じていればいいのです。
初めのうちは、潜在意識にある想いが抵抗して、嫌な気持ちや考えが、雑念として浮かんで来るかも知れません。
でも、それは否定することなく、ただ受け流しておけばいいのです。
同調して感情的になると、失敗です。
テレビでもぼんやり眺めているように、何が見えても、何が聞こえても、他人事のように受け流すのです。
すると、やがて心は静かで穏やかに、なって行きます。
今まで悩んでいたことが、どうでもいいような気分になるでしょう。
この時、あなたの心は無意識と、つながることができているのです。

何かを言語的、論理的に考えるのは、通常の意識の仕事です。
無意識の思考は、抽象的、感覚的です。
通常の意識の思考は、一本の線のようです。
内容を一つ一つ順番に、並べて構成されています。
無意識の思考は、点です。
全てが一点に凝縮されています。
ひどい空腹に襲われている時、目の前に大好物を置かれたと、想定して下さい。
お腹が空いた。
何かが食べないと、死んでしまう。
あ、これは私の大好物だ。
早く食べたい。
でも、お金がない。
だけど、食べたい。
食べてもいいでしょ?
ああ、食べたい。
もう、殺されてもいいから、絶対に食べてやる。
ねえ、ちょうだい、お願いだから。
くれないなら、あんたを殺してやる。
こんな感じの気持ちが、言葉にならないまま、頭の中で一塊になっているでしょ?
この言語という形になる前の想いが、無意識における思考なのです。
ですから瞑想の時には、言語になる前の想いに、注目して下さい。
ふっと、ある考えが浮かぶような感じです。
その考えを言語に変換しないまま、理解して下さい。
その考えには、時には感覚や感情が、伴います。
それもまた、言語ではない、無意識における思考です。
思考と言うより、思念と言った方が、適切かも知れません。
無意識が、あなたは独りぼっちではないと伝える時、目に見えない何かと、しっかり結びついている感覚や喜びが、理解とともに、あなたの心の中に、流れ込んで来るでしょう。
そこまで感じられなくても、安心感が出ていれば大丈夫です。
それは無意識を通して、自分が他の人たちと、つながっていることを、感じている証拠です。
この世界で、孤独に見えるのは当たり前で、別に嘆くことではないのだと、自然な気持ちで、考えられるようになるでしょう。
また、全ての人とつながっていると、感じられたなら、直接顔を合わせる人々が、それまでとは別人のように、思えるようになるのです。

あなたは孤独ではありません。
孤独だと思い込んでいるだけです。
孤独な人は一人もいません。
みんな、つながっているからです。
あなたは既に、認められた存在です。
改めて、この世界で誰かに認めてもらおうと、考える必要はありません。
あなたは自由です。
自分の思ったとおりに、生きて構わないのです。
道端に咲いている、小さな花に目を向けて下さい。
人に気づいてもらえなくても、懸命に花を咲かせています。
花を咲かせることができたなら、黙っていても、ミツバチや蝶々が来てくれます。
あなたの花を喜んでくれるのです。
それと同じです。

あなたは誰かに気づいてもらおうと、足掻く必要はありません。
素の自分を出して、そのまま自分の進みたい道を、思う存分歩めばいいのです。
そこには必ず、あなたを理解し、喜んでくれる人が待っています。
あなたの道を、進んで下さい。
そして、あなたの命の花を、咲かせて下さい。
認められたい気持ち その1
人はみんな、誰かに認めて欲しいという気持ちを、持っていると思います。
人間社会では人に認められることが、一人の人間としての存在価値のように、考えられているようです。
確かに、誰かに認められ、褒めてもらえたら、それは嬉しい気持ちになります。
特に子供は親に認めてもらおうと、自分の意に反することでも、やろうとします。
認めてもらうための行為は、学校や友だち関係の中でも行われ、社会に出て働くようになっても、続きます。
本当はこうしたくないんだけど、認めてもらうためには仕方がない。
みんなは自分のことを、いい人だと思ってくれているから、今更本当の気持ちは言えない。
どうやったって認めてもらえないんだから、自分なんかには価値がないんだ。
こんな風に考えてしまうことって、誰しもあるのではないでしょうか。

たとえば、一人でいるのが、好きな人がいるとしましょう。
この人は一人が気楽なので、いつも一人でいることが多いとします。
しかし、賑やかなのが好きな人たちからすれば、孤独な変わり者に見えるでしょう。
あるいは、本当はみんなと一緒にいたいのに、それができない可哀想な人と、受け止めるかも知れません。
孤独が好きなこの人は、馬鹿にされたり、同情されたりすると、みんなと一緒にいないと、いけないのかなと考えます。
そして、グループの中に入りますが、やはり居心地が悪くて、仕方がありません。
でも、グループを抜けたいと言うと、何を言われるかわかりません。
仕方なく我慢して、グループに属しているうちに、この人は心身共に、具合が悪くなってしまいました。
こんな事って、あるのではないでしょうか。
認めてもらいたいがために、他人の価値観や生き方に、むりやり自分を合わせてしまうのです。
よほど心の強い人でなければ、なかなか多くの人の価値観に、逆らうようなことはできないと思います。

自分が具合が悪くなるほど、嫌なことに自分を合わせる理由は、認められたいからという、気持ちがあるからでしょう。
馬鹿にされたくないとか、陰口を叩かれたくないと思うのも、そういう人間ではないのだと、認めて欲しいと考えるからです。
では、どうして人は、誰かに認めてもらいたいと、思うのでしょうか。
それは、人が集団で生きているからです。
人は社会を形成して暮らします。
家族や学校も、小さな社会と言えるでしょう。
大抵の場合、人は何らかのグループに、所属しているものです。
それが一般的なので、そうでない者たちを、異端視する傾向があるのです。

自分たちと違う価値観を持つ者を、人はなかなか、受け入れようとしません。
何故ならば、その人を認めることが、自分の生き方を否定するように、思えてしまうからです。
自分は間違っていない、自分は正しいんだ。
そう思いたいから、自分と違う考えを持っている人がいると、否定したくなるのです。
でも、誰かを認めることで、自分の価値が揺らぐのは、おかしな話です。
結局、この人もまた、自分を認めてもらいたいわけですね。
自分に自信がないのです。
新たな価値観を、持っている人が認められたら、自分が認められなくなると、恐れているのです。
こういった直接の人間関係において、誰かに認めてもらいたいと考えるのは、自分が誰ともつながっていないという、不安があるからです。
一人が好きだと言う人も、みんなから疎外されることを、望んでいるわけではありません。
一人でいることが好きなのだと、周囲の人にわかって欲しいし、そういう自分を受け入れてもらいたいはずです。
でも、そんな努力をしなくても、本当はみんなとつながっていたとしたら、どれだけ気持ちが楽でしょうか。

小さな子供は、親がどこかで見守ってくれていると、どんどん遠くへ行ったり、興味がある物に近づこうとします。
でも、親がどこにもいないと思うと、夢中になっていたことを放り出し、泣きながら親を探します。
それと同じことで、見守ってもらえていないと考えるから、自分を見てくれる人を、探したくなるのです。
いつも自分は、見守ってもらっていると、わかっていれば安心です。
他の人の目など気にしないで、自由に生きることができるのです。
世界と集合意識 その2
夢や想像の世界で、いろんな人物をイメージするとしましょう。
私たちは、それぞれの人物の性格を、一人一人把握することができます。
同時に全体の人間関係や、それぞれの動き、生活環境などを、想定することもできますよね。
あなたが設定した舞台の中で、いろんなキャラクターたちが、動き出します。
あなたは、その様子をじっと眺めています。

今のあなたが、集合意識だと思って下さい。
キャラクターたちは、私たち一人一人の人間です。
わかりますか?
集合意識は、私たちに共通の舞台を設定し、その中での様々な物語、つまり人生を、私たちを通して体験するのです。
何のために?
人類の集合意識は、知性体です。
私たち一人一人は、集合意識の触手のようなものです。
そもそも集合意識という言葉が、私たちを中心にしたものです。
でも、集合意識の立場で見れば、私たちの意識は、末端意識と表現されるべきなのでしょう。
集合意識という表現をとると、それがどんな意識なのか、イメージがしにくいと思います。
私が集合意識という言葉を使っても、それは一つの知性体だと考えて下さい。
私たちより、遥かに多くのことを知り、理解できる、優れた知性体です。
数え切れないコンピューターを接続した、スーパーコンピューターのようなものです。
接続された一つ一つのコンピューターが、私たちです。
知性体である集合意識は、知性体として成長しようとします。
私たちがいろいろ体験するのは、全て集合意識が知性体として、進化して行くためのものなのです。
すなわち、私たちの人生とは、高い知性を得ることを、目的としているのです。
そのため、集合意識は無意識を通して、私たちの意識に、高い知性を得るように働きかけます。
ただ、意識は自由に思考し、何をどうするのかを、決定することができます。
どうしてこの世界に生まれて来たのか、知りませんから、環境に流されてしまいがちです。
無意識が懸命に指示を与えても、意識の方は目の前の出来事に、夢中です。
無意識の指示など、なかなか気がつきません。

それでも無意識は、ずっと指示を与え続けます。
そうしているうちに、無意識の言葉に、気がつく意識が現れます。
その意識は高い知性を、持つようになります。
高い知性とは、私たち人類が同じ一つの存在なのだと、気づく力のことです。
高い知性は差別をしません。
自分さえよければいいという、発想はありません。
お互いを理解し合い、助け合おうとします。
物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさを求めます。
下心なしに、困っている人に、手を差し伸べます。
人間以外の生き物たちにも、慈悲の心を向けます。
高い知性を持つ人物が、存在感を増した時、集合意識では知性体としての成長が始まります。
それは植物の種が、発芽するようなものです。

植物は種の間は、何の変化もありません。
同じ姿で、じっとしています。
しかし、土に埋められ、水や光が与えられたら、ちゃんと芽を出し、育って行きます。
植物の種は、発芽のタイミングを待っているのです。
そして、発芽した後も、植物は自分が育つ方向がわかります。
それと同じように、人類の集合意識も、知性体として成長します。
どのタイミングで発芽するのか、発芽した後、どの方向へ進化するのか、そういう事もわかっているのです。

今、無意識の指示を、きちんと受け止めている人が、増えているように思います。
それは高い知性の人が、増えて来ているということです。
また、それは集合意識の知性が、上がって来ているという意味でもあります。
集合意識の知性が上がると、集合意識が設定している世界の様子も、変わって来ます。
すなわち、世界の雰囲気に、知性が感じられるようになるのです。
一度発芽して、成長を始めた植物が、元の種に戻ることはありません。
それと同じで、一度成長を始めた集合意識は、せっかく手に入れた知性を、手放すことはありません。
逆に、さらに高度な知性を求めて、ぐんぐん成長して行くのです。
知性の低い者たちは、これまでどおりの世界を、保とうとするでしょう。
しかし世界そのものが、変わろうとしているのです。
全ては無駄な足掻きとなるでしょう。
そして、世界は間違いなく、愛と喜びに満ちたものに変わるでしょう。

世界と集合意識 その1

夢の世界は、全く個人的な世界です。
夢に出て来る人物や動物、怪物たちは、全て夢を見ている人の中にある、キャラクターです。
背景の景色や、舞台となる時代など、全部夢を見ている人が、自分で創っているのです。
現実世界のように、とてもリアルな夢もあります。
でも、大抵の夢はぼんやりした印象で、見たのか見ていないのか、はっきりしない時もあります。
覚えている夢でも、ストーリーは滅茶苦茶のように見えます。
子供の頃の友だちと、職場の知人が、何故か知り合いで、談笑したりしています。
学校が舞台かと思えば、次の瞬間には、夜の酒場にいたりします。
空を飛べることもありますし、海に深く潜っても、息が苦しくなったりしません。
現実世界と比べると、夢はハチャメチャで訳がわからない、世界のように見えてしまいます。

一方、私たちが存在している現実世界は、夢のようにあやふやではありません。
仕事の商談相手が、突然小学校の時の、担任の先生に変身したりはしません。
映画や小説の中に出て来る怪物が、実際に目の前に現れることも、ありません。
高い所から飛び降りると、必ず落ちてしまいます。
海に潜ると、息が苦しくなってしまいます。
眠った後、目が覚めると、そこには眠る前と同じ世界が、存在しています。
この融通が利かないほど、しっかりした存在感が、この世界を現実だと、認識したくなる所以でしょう。
では、どうしてこの世界は、そこまでしっかりしているのでしょうか。

個人が見る夢は、その人一人で創った世界です。
ですから、その人の気持ちが変われば、舞台や状況が変化します。
しかし、現実世界の方は、私たちの気分が変わったからと言って、突然違う世界に変わったりはしません。
だから、夢と現実は違うんだと、考える人もいるのです。
ところで、私は個人個人が見ている世界は、一人一人違うのだと考えています。
その証拠に、目が見えない人の世界は、真っ暗でしょう。
耳が聞こえない人の世界には、音がないと思います。
同じ世界にいながら、体験している世界は、一人一人違うのです。
私たちが体験している世界は、体を通して得られた情報で、心の中に創られているのです。
ですから、私が死んでこの世を去れば、私個人の世界はおしまいになります。
しかし、私が死んだ後でも、他の人は生き続けているでしょうし、この世界はこのまま残っているでしょう。
それは人々に、体験すべき世界の情報を、安定的に提供している、システムがあるということです。

私たちの体は、その情報を受信する受信機です。
人間の体は、共通の遺伝子情報に基づいて、形成されています。
つまり、みんな同じ受信機を、携えているということです。
もし違う受信機を使っている者があれば、その人は他の人とは、全く違う世界を体験するでしょう。
他の人の存在は、認識するでしょうが、私たちが見ているのとは、全然違う姿に、見えるかも知れません。
互いに意思の疎通を図るのも、困難でしょう。
人間は共通の世界を体験できるように、共通の受信機である体を持っているのです。
私たちの体は、同じ情報源から情報を受信して、それぞれの世界を構築しています。
その情報源を提供しているのは、恐らく人類の集合意識なのだと、私は考えます。
この集合意識というのは、私たちの意識で言えば、無意識の領域になるでしょう。
私たちは一人一人が、ばらばらのように見えます。
でも、無意識の部分では、他の人たちとつながっている、ということなのです。
