存在する価値 その2

自分はもう、世の中から必要とされては、いないんじゃないか。
そう考える時は、世の中の状況、あるいは自分の周辺の雰囲気が、自分の期待と大きく違っているのだと思います。
別の言い方をすれば、世の中の流れから、自分一人が取り残されているような、気がするという事でしょう。
でもそれは、こういう見方をする事ができます。
自分の波長と、世の中の波長に、ずれが生じて来たという事なのです。
その波長のずれを感じ取り、不安になってしまうのでしょう。

しかし、それは自分が異常だと、いう意味ではありません。
自分だけが、取り残されたという事でもありません。
それまで周囲と同じ波長でいたのに、それがずれたのだとすれば、それは自分が、次のステージへ行く時期が来たという事なのです。
次のステージと言うと、ゲームのように聞こえますが、ゲームみたいなものだと、考えても構いません。
それぐらい軽く考えていて、いいものなのです。
それを深刻にとらえてしまうので、不安がどんどん膨らむのです。
そして自分でも、どうにもできなくなってしまうのです。
今まで続けていた仕事なのに、最近、何か違うと思うようになって来た。
何の気苦労もなしに来たけど、このままでいいのだろうかと、考えるようになった。
夫婦や友人、あるいは職場の人たちと、ずっと仲よくしていたつもりだった。
それなのに、この頃何か雰囲気が、おかしく感じるようになった。
自分の考え方や価値観に、修正すべき所があるのであれば、それを直すだけで、波長のずれはなくなるでしょう。
でも、そんな事をすれば、自分が自分でなくなってしまう、と思うならば、それは自分の波長に合う場所へ、移動しなさいというサインなのです。
ただ、それだけの事です。
それ以上、余計な事を考える必要はありません。

そこを離れたくても、結婚しているから動けない。
親の介護があるから、どうにもならない。
他へ行っても、生活できない。
いろいろ動けない理由は、あるかも知れません。
でも、それは全部、自分の思い込みです。
こうでなければならないという、束縛的な価値観です。
無理をして、波長が合わない所に、とどまり続けても、何の解決にもなりません。
いずれ病気になったり、大きな問題が起こって来ます。
誰かに傷つくような事を、言われたとします。
それにしたって、自分と相手の波長が、合わないのです。
無理に一緒にいたら、喧嘩になってしまいます。
喧嘩は嫌だからと、ぐっと我慢していても、いつかは爆発するでしょう。
この場合も、この人とは波長が合わないから、離れているのがいいな、というだけの事です。
波長が合わない事で、悩んだり傷ついたりする、必要はありません。
そこから離れればいいのです。
そこが職場であるならば、別の部署へ移してもらう事を、相談するのです。
それがだめなら、職場自体を変えるのがいいでしょう。
そもそも、人を傷つけるような人物を、放置している職場にも、問題があるのです。
新たな職場を見つけるのには、苦労をするかも知れません。
それでも、自分の波長に従って動いたならば、必ず新天地が開けます。
移動する事には、合わない波長から逃れるという、意味があるだけではありません。
自分に合った、自分が活き活きできる場を、見つけるという意味もあるのです。
そんなの無理だと思うのであれば、それも構いません。
それも一つの価値観ですし、誰がどの価値観を選ぶのかは、その人の自由です。
ただ、自分が辛い時には、価値観を変えてみるのが、一番の方法なのです。
その事は、自分が辛くなる前から、理解しておいてもらえたらと思います。
存在する価値 その1
自分なんかに価値はない。
そう思う人は、意外に多いのではないでしょうか。
今はそうは思っていないけど、かつて、そう考えた事がある。
そんな人も、結構いると思います。
これまで一度も、そんな風に考えたことが、ない人もいるでしょう。
しかし、思いもしなかった挫折感や、孤独感を味わうと、どうでしょうか。
自分には価値がないかも知れないと、考えるかも知れません。

もし今あなたが、自分には価値がないと感じていたならば、ちょっと考えてみて下さい。
その価値というものは、何を基準に決めているのかという事を。
価値を決める時には、必ず何らかの基準が、必要となります。
たとえば、一等地と呼ばれる、土地の値段が高いのは、その土地の需要度が高いからです。
しかし、その地域が一等地でなくなれば、同じ土地なのに、一気に価格が下がるでしょう。
つまり、土地の価値が下がったわけです。
この場合、価値の基準は、土地の需要度にあります。
でも、その場所で何かをしたい、その土地が欲しい、という人にとっては、その土地はとても価値があるわけです。
一等地を前提にした需要ではなく、個人的な需要が、この場合の価値の基準になるのです。

コロナ騒ぎで仕事を失ったり、活躍の場がなくなった人たちが、自分にはもう価値がないのではないかと、考えているようです。
公の場所で活躍できるからこそ、自分に価値がある。
お金を稼げるからこそ、自分に価値がある。
そう考えてしまうと、それができなくなった時に、自分には価値がないと思います。
また、こういう価値観に従えば、コロナ騒ぎがなかったとしても、病気や怪我で仕事ができなくなれば、やはり自分に価値がないと考えます。
世の中には、お金を稼げない人や、人々の注目を浴びる事がない人が、たくさんいます。
そういう人たちが、世の中の人間の、大半を占めているのでは、ないでしょうか。
もし、そういう人たちに、自分には価値がないのだと訴えられたら、何と答えるでしょうか。
ほんとですね、あなたには価値がないですね、と答えますか。
そうではないですよね。
その人に、どんな価値があるのかを、懸命に見つけて、教えてあげようとするでしょう。
それなのに、自分の心が同じ訴えをした時には、そんなことないよとは、言いませんよね。
でも、同じ事なのです。
そんな事ないよ、あなたには十分価値があるんだよ、と自信を失くした自分を、励ませばいいのです。
他の人にしてあげるように、どれほど自分に価値があるのか、自分に寄り添う気持ちで、考えてみましょう。
そうすれば、それまでの自分が気がつかなかった、本当の自分の価値というものが、見えて来るはずです。
それは、活動を再開できるようになってからも、自分にとっての宝物になるでしょう。
宇宙の果て その2
前回の記事で、ワープでもしなければ、宇宙の果ては確かめようがないと、書きました。
その時に使った図が、下の図です。

この図は、地球からGN-z11を眺めた様子です。
しかし、同じことがGN-z11からも、言えるわけです。
地球からGN-z11が見えたのですから、GN-z11でも地球が属する、銀河系の光が見えたはずです。
つまり、GN-z11からは、誕生直後の銀河系が見えたのです。
しかし、GN-z11でその光を確認できた今、銀河系本体は、もっと先へ移動しています。
その位置は、GN-z11から 320億光年離れています。
ですから、今の銀河系をGN-z11から、確かめることはできません。
その様子を描いたのが、下の図です。
GN-z11と銀河系(地球)の立場を、入れ替えました。
ここでは地球ではなく、銀河系という言葉を使っています。
その理由は、地球は自らは光っていないし、確認するには小さ過ぎるからです。

GN-z11から見える銀河系の姿は、130億年前のものかも知れません。
この図で見ると、現在の銀河系の位置は、赤い直線と黄色い円の交点です。
青い円が宇宙の端ですから、宇宙の果てはすぐ近くという事になります。
グラフの小さな目盛りが、20億光年ですから、宇宙の果てまで、せいぜい100億光年ですね。
ところで、この図で見ると、現在の地球の位置は、宇宙の中心から、およそ 350億光年ほど離れた所にあるようです。
この位置からでは、GN-z11の放つ光を、どんなに過去にさかのぼっても、見ることはできません。
しかし、現実には確認されているのです。
これは、どういう事なのでしょうか。
そもそも初めの図では、地球の位置は宇宙の中心から、160億光年ほどの位置にありました。
でも、二つ目の図では、中心から350億光年ほどの所にあります。
これは大きな矛盾です。
これは宇宙空間が、光速を遥かに超えた速さで広がったという、ややこしい設定があるからではないかと思います。
つまり、ビッグバンによって宇宙が生じたという、前提自体が間違っているのではないか、という事です。
私は天文学者でも数学者でもありませんから、難しい計算や理屈はわかりません。
しかし、宇宙の創成について、ビッグバン以外の発想が必要ではないか、と思うのです。
ビッグバンという発想が生まれた理由として、宇宙の星々が互いに離れて行くように見えるという、観察結果があります。
互いに離れて行くということは、時間を逆に動かすと、全ては一点に凝縮されるだろうというのが、ビッグバン理論の始まりです。
宇宙はどんどん膨張した後、いつかは膨張をやめて収縮し始め、かなり縮んだ所で、再び膨張するという事を、延々と繰り返すという考え方もあります。
しかし、全体を風船のように見るのではなく、宇宙の様々な所で、宇宙を構成する物質エネルギーが、火山の噴火のように、噴き出していると見ることも、できると思います。

実際、現在観察されている宇宙は、銀河集団が集まった超銀河団が、全体で網目のような構造、もしくは泡が集まったような構造を、形成しているそうです。
つまり、宇宙に存在する星々は、均一に散らばっているのではないのです。
超銀河団は、いくつもある泡の縁を形成するように、泡の周辺部に長細い形で、集まっています。
一方で、泡の中の部分には、光を発する天体が、ほとんどありません。
しかし、何故こういう構造になっているのかは、まだ結論が出ていないようです。
宇宙には質量を持ちながら、物質としての形を持たない、ダークマターというものが、満ちていると言われています。
この宇宙の泡構造の泡の中は、このダークマターが噴き出しているのではないかと、私は考えています。
それぞれの噴出口から、噴き出したダークマターは、他の噴出口から出たダークマターと、ぶつかり合います。
ぶつかり合ったダークマターは、新しい星を創るエネルギーと、なるのでしょう。
それで、泡の縁に銀河が集まっているのだと思います。
また、あちこちで噴き出されたダークマターが、その領域を広げて行くと、その周辺にある銀河は、互いに離れる方向に動きます。
すぐ近くにある銀河同士は、引力で引き寄せ合うでしょうが、離れた所にある銀河と銀河は、互いに遠ざかるように動くでしょう。
あちこちでダークマターが、噴き出していると考えれば、ビッグバン理論のように、宇宙の始まりを規定する必要がありません。
始まりがなければ、終わりもないわけで、宇宙の果てを考える必要もないのです。
では、果てがなければ、この宇宙は無限なのでしょうか。

この世界が平面だと信じられていた頃、海をどんどん進んで行くと、出発点に戻って来るとは、誰も考えていませんでした。
それと同じように、宇宙の果てを目指して、どんどん進んで行くと、その先に地球が待っているのかも知れません。
私たちは宇宙を、三次元空間ととらえています。
しかし、実際の宇宙の構造が、別の形態であったなら、そういう事も有り得るでしょう。
また、パワレルワールドとして、別次元の宇宙がいくつもあると考えれば、この宇宙は有限と言えます。
それでも、次々に湧き出るダークマターが、創り出す世界に制限はありません。
そういう意味では、この宇宙は無限の姿を秘めていると、言えるでしょう。

ところで、人が見る夢にも、空間があります。
もし、空間の果てを目指して、どんどん移動したとしても、果てなど見つからないでしょう。
それは夢が、その人の心を表現したものだからです。
心が果てを規定しない限り、どこまで行っても、果ては見つかりません。
それは夢でなく、目覚めている時の、イメージでも言える事です。
果てを想定しない限り、イメージの世界に果てはありません。
つまり、心の中に広がる世界は、無限なのです。

また、少し話がそれますが、心霊写真などで、オーブと呼ばれる、小さな光点が写っている事がありますね。
あの小さな光点の一つが、一つの意識だとすると、あの光点の中には、無限の世界が広がっているという事になります。
話を戻しますと、この世界の実体は、宇宙という大きな意識が見ている、夢なのかも知れません。
私たちは宇宙の夢の一つを、のぞいているのでしょう。
そして、オーブが一つの意識であるように、宇宙も実は、一つの点のような存在だと考えることもできます。
きっと私たちが知る世界は、一点がビッグバンを起こして、できたのではないと思います。
一つの意識の点の中に、すでに広がっている、宇宙の心の世界に違いありません。
宇宙の果て その1

宇宙は138億年前に、ビッグバンによって生まれたと、考えられています。
最近の計算では、宇宙の年齢はもう少し若く、114億年という話もあるようですが、ここでは138億年としておきます。
実際に宇宙が、一点から爆発的に拡大してできたのか、あるいは膨張と収縮を繰り返しているのかは、わかりません。
宇宙の起源の話はさておき、宇宙の果ては、どうなっているのでしょうか。
138億年前に宇宙が誕生した時の光が、到達できる距離は、文字通り、138億光年です。
一方、138億年の間にも、宇宙は拡大し続けています。
その結果、宇宙誕生から138億年が経った今現在、宇宙の端は中心から464億光年の所にあるそうです。
光や時空間が、均一に広がる事を前提にしますと、その関係は下の図のようなものです。

赤い円は、宇宙誕生の光が届く距離。
ビッグバンが起こった瞬間は、星は存在しません。
形を持たない高エネルギーが広がり、その途中で元素が作られ、星々が生まれたとされています。
星という形を持つと、光と同じような速度では、移動できません。
初めは全てが一緒に広がったとしても、形を持つようになったエネルギーの速度は、やがて落ちて行きます。
光から取り残される格好になりますから、全ての星は宇宙の中心から広がった、半径 138億光年の球体の中に、収まっているはずです。
しかし、宇宙空間は138億年の間も広がり続け、半径 464億光年の球体になっているのです。
単純に考えれば、上の図の赤い円と青い円の間には、星もなければ光もない、ただの暗黒の空間が、広がっているだけになります。
ところで、おおぐま座(北斗七星)の方向にある、GN-z11という銀河は、地球からの距離が約320億光年だそうです。
これでは半径 138億光年の球体の中に、収まりません。
地球かGN-z11のどちらかが、球体の外に出てしまいます。
でも、そこには星も光もないはずなのです。
これは矛盾しますね。
と言うことは、広がる時空間に乗って、星も光も本来の速度以上の、すさまじい速度で移動しているのでしょう。
138億年前に、宇宙の中心から発せられた光は、広がる時空間に乗って、実際には 464億光年先に到達していると、考えられます。
そうすると単純計算では、光の速度は本来の 3.5倍ほどになっているようです。
しかし、拡張する同じ空間にいる者から見れば、光の速度は通常どおりなのでしょう。
何故なら、その人たちも同じ速度で、移動しているからです。
実際、人類の観測で、通常の3.5倍の速度の光を、見つけたという報告はありません。
話をGN-z11に戻しますが、地球で観測したこの銀河の光は、134億年前のものだそうです。
つまり、この星は宇宙誕生の 4億年後には、存在していたということです。
先の図で見ますと、その時のGN-z11の位置は、宇宙の中心のすぐ近くにあったことになります。
それが現在は、地球もGN-z11も互いに離れてしまい、今の実際の距離は、約320億光年と言われています。
ちなみに、太陽系が属している銀河系には、HE 1523-0901という、推定年齢 132億年の星があります。
その位置は、てんびん座の方向に 7500光年離れた所で、地球から比較的近い所と言えます。
この星の存在を考えると、銀河系の年齢も同じぐらいと、見ることができるでしょう。
つまり、宇宙誕生から 6億年後には、銀河系の卵が生まれていたということです。
この事からGN-z11も銀河系も、ほぼ同じ頃に誕生したと考えられます。

地球とGN-z11が宇宙の中心から、同速度で真逆に移動したら、両者は水色の円周上で向かい合う。
GN-z11の移動方向や移動速度が別の場合、現在GN-z11は黄色の円周上にある。
宇宙誕生後、互いに真逆の方向に、同速度で移動したとすれば、地球とGN-z11はどちらも、上の図の水色の円周上にあるはずです。
この円の直径は 320億光年なので、お互いに中心を挟んで、向かい合った位置にあります。
しかし、GN-z11が地球と同じ速度で移動しなかったり、別の方向へ移動したとすると、どうなるでしょうか。
それが黄色の円です。
黄色の円は、現在の地球の位置を中心にした、半径320億光年の円です。
現在のGN-z11は、この黄色の円周上のどこかにあるはずです。
ただし、宇宙の端である青い線を、超えていない所です。

今の地球が見ているGN-z11は、緑の円との交点にあった時のもの。
現在のGN-z11は、黄色の円との交点にある。
上の図の緑の円は、現在の地球から、134億光年の距離を示しています。
GN-z11は宇宙の中心を離れて、過去にこの緑の円と接したはずです。
その時の光が現在の地球に、134億年前の光として、届いたのです。
宇宙の中心から、緑の円に接する直線が、GN-z11の軌跡を示しています。
中心からの円の接線は、二つ描けますので、直線は2本あります。
宇宙には前後左右がありませんから、どちらを選んでも構いません。
実際には、緑色の円は球体であり、2本の赤い直線は、緑の球体に接する円錐の一部です。
平面図に投影しているので、円錐が2本の線となって、描かれているだけです。
そして、GN-z11はこの赤い直線(本当は赤い円錐)の上を、移動するのです。
緑の円に接した時の光が、地球に届くまでの間も、GN-z11はさらに移動します。
そして今現在は、地球との距離が 320億光年ですから、赤の直線と黄色の円の交点に、GN-z11はあるというわけです。
この図からわかるのは、GN-z11が宇宙の中心から、緑の円に到達するまで、138 - 134= 4 で、4億年かかっていること。
そして、緑の円から黄色の円まで移動するのに、134億年かかっていることです。
その距離は、中心から緑の円までの距離の、3倍近くです。
しかし、その距離を移動するのに要した時間は、134億 ÷ 4 = 約34億倍です。
それは空間の広がる速度が、それだけ落ちたということですね。
逆に考えると、ビッグバン直後は、まさにすさまじい速度での、広がりだったと言えます。
それはさておき、こうして見ると、かなり宇宙の果てに近い所に、GN-z11はあるようです。
しかし、現在のGN-z11が発している光は、しばらくの間、地球には届きません。
何故なら、宇宙が誕生してから、138億年しか経っていないからです。
そのため、138億光年を超える距離にある所の光は、まだ旅の途中で、地球には到達していません。
今の地球の科学では、138億光年の距離を超えた所の事は、確かめようがありません。
ですから、実際に 中心から464億光年離れた所に、宇宙の果てがあるのかは、ワープでもできない限り、直接確かめることは、できないようです。

記録的ヒットのアニメ映画
「鬼滅の刃」というアニメ映画が、空前のヒットだと、NHK ニュースが取り上げていました。
元は少年ジャンプという、週刊漫画雑誌に連載されていた、漫画作品だそうです。
アニメ化されてテレビでも放映していたようです。
今回映画館で上映されたのは、テレビ版の続編だと言います。
私はこの作品を知らないので、何故、これほどの人気が出たのかと、興味が湧きました。
ニュースによると、映画を鑑賞した人たちは、家族愛がよかったとか、敵の鬼も元は人間で、切なさを感じさせられたなどと、語っていました。
また、いろんなキャラクターが登場して、観る人によって、それぞれご贔屓のキャラクターがあるようでした。
そこで、この作品の大まかな話の流れを調べると、時代背景は大正時代で、人を喰らう鬼たちと戦う人たちを、描いた作品でした。
ざっとしか内容を知りませんから、物語そのものについては、私は何も語れません。
それは作品を読んだり、観たりした人でないと、語れるものではありませんから。
私が知りたかったのは、人々がこの作品の、どんな部分に感動したのかという事です。
主人公は、鬼に家族を惨殺され、一人生き残った妹も、鬼に変化させられました。
家族の仇討ちと、妹を人間に戻すため、主人公は鬼と戦う決意をします。
そこには家族のため、妹のために、必死な主人公の姿があります。
ある人が語っていましたが、戦いを主体とした漫画の主人公は、大概がマイペースなタイプだそうです。
しかし、この主人公はとても優しくて、相手が鬼であっても、思いやる心を持っているのだそうです。
また、鬼と戦う人々にも、一人一人の事情や人生があり、悪である鬼でさえ、人間として生きていた頃の、思い出を持っているのです。
単に正義が悪をやっつけるという、勧善懲悪のストーリーではありません。
悪と思える者でさえ、哀れみを感じさせる存在のようです。
そして、敵も味方も、男も女も、次々に死んで行きます。
死というものは、できれば避けたい事です。
漫画やアニメとは言え、自分が好きなキャラクターには、死んで欲しくはないものです。
それをあえて、死なせてしまう事で、嫌でも読者や観客は、死と対峙させれられます。
そして、死と向き合う事で、生きるという事が、強く浮かび上がります。
人は誰でも、いつか死を迎えます。
しかし、死を自分とは関係のないものと考えて、何となく生きているのではないでしょうか。
そんな中、「鬼滅の刃」で生きるという事を、考えさせられた人が、たくさんいたと思います。
これまで、真剣に向き合って来なかった生。
それをどのように生きるのか、という事を、この物語のキャラクターたちは、様々な手本となって、示してくれているのでしょう。
鬼たちでさえ、一つの手本です。
愛を抱いて生きるのか、愛を捨てて生きるのか。
しかし、愛を捨てたはずの者たちにも、実は愛を求める想いがあった。
世の中には、白けている人や、諦めている人、投げやりになっている人、自暴自棄になっている人がいます。
そんな人たちも、自分の本当の気持ちを、突きつけられたと、感じたのではないでしょうか。
本来ならば、男の子に人気が出るジャンルだったようです。
それなのに、女の子にも人気が出て、子供だけでなく、大人までもが夢中になったと言います。
コロナ騒ぎの影響で、敬遠されていた映画館なのに、これほど多くの人が訪れ、何度も繰り返して観ているのです。
この映画には、何か特別なものがあると感じるのは、私だけではないでしょう。
もちろん「鬼滅の刃」が大ヒットしたのは、この作品が奥が深く、質が高いからだとは思います。
でも、ヒットの理由は、それだけではありません。
ヒットした一番の理由は、その作品が描いて訴えていた事が、今の世の中の人たちが、まさに求めていた事だからです。
どんなにいいもの、どんなに優れたものを提供しても、相手がそれを求めていなければ、大ヒットには至りません。
みんな、何かを追い求めていたけれど、それが何であるのか、自分たちでも、よくわかっていなかったのでは、ないでしょうか。
そこに「鬼滅の刃」を示されて、そうだ、これだ、これを探し求めていたんだ、という感じになったのだと思います。
この作品は、これからの生き方を示す、標識や案内板になってくれたに違いありません。
自分が何を求めていたのかを、理解した人たちは、きっと暮らしの中に、それを取り込もうとするでしょう。
躊躇している人も、自分の生き方を見つけた人が、周囲に増えてくれば、新しい生き方に飛び込む勇気が、湧いて来るはずです。
この作品の人気が広がった事は、決して偶然ではないと思います。
「鬼滅の刃」の爆発的な人気は、この世界がこれから、どの方向へ向かうのかを、示してくれています。
そして、それはとても期待のできる、強く優しく思いやりのある、世界に違いありません。
イラッとする時

イラッとする時って、ありますよね。
静かにしていたいのに、すぐ近くで馬鹿騒ぎをされる。
人がしゃべっている最中に、平気でスマホをいじられる。
自分は客だからと、客にぞんざいな態度を取られた。
車の窓から煙草を、ポイ捨てするのを目撃した。
いろんな場面で、イラッとさせられてしまう事が、あると思います。
大抵の場合が、無神経で自分勝手な人と、接触した時でしょう。
こんなことでイラついても、嫌な気分になるだけだと思える人は、次のように考えます。
こいつは、こういうやつなんだ。
相手にするだけ、馬鹿らしい。
広い心で見るようにすれば、どうって事ない。
しかし、いつでも広い心でいられるわけでは、ありません。
体調が悪いとか、落ち込む事や悩み事があるとか、寝不足や空腹など、普段と違う状態の時だってあります。
そんな時は、やっぱりイラッと来ますし、そのイラつきの強さは、いつも以上です。
場合によっては、この一瞬のイラつきが、暴力事件や殺人事件を、引き起こしたりもします。

また、特に理由のないイラつきもあります。
別に誰が何をしたというわけでもないのに、何となくイライラしてしまうのです。
イライラする原因の一つに、体調不良が挙げられます。
先に述べましたように、空腹や睡眠不足でも、イライラしがちになります。
カルシウム不足も、イライラの原因の一つに、取り上げられています。
また、その時に直接何かがあったわけでなくても、それまでの嫌な事や悩み事が、ずっと尾を引いているとも、考えられます。
とにかく、イライラする時は、本来の自分では、いられなくなっているのです。
それは言い換えれば、自分の心が本来の波長と、ずれているという事なのです。
イライラさせた相手に、怒ってみたところで、ずれてしまった波長が戻らない限り、イライラは治りません。
怒りたくもなかったのに、怒ってしまったという事が、余計に普段とは違う波長へ、導いてしまいます。
その腹立たしさは、しばらくの間続くでしょう。
体調が悪くてイライラするのであれば、まずは体調を整えることが、先決です。
体調が悪いわけではないけれど、イライラしてしまう場合、本来の自分の波長に戻す、工夫が必要です。
そういう時には、自分が夢中になれる事に、没頭するのが一番です。
でも、イライラしていると、好きな事でさえ、やる気を失ってしまうかも知れません。
そんな時は、近くに山や海など、自然があれば、そこで気持ちをリセットすればいいでしょう。
人間は自然の一部ですから、自然に身を委ねる事で、全てをリセットできるのです。

近くに自然がない場合は、どうしましょうか。
そういう時は、静かな部屋に一人で座り、本来の自分に戻ると、自分に対して宣言するのです。
それから一度深呼吸をした後、吐く息と一緒に、体の力を抜きます。
あとはしばらくの間、静かにして、ぼんやりと自分の呼吸に、意識を集中させるのです。
そして、自分はこんな事をするために、生まれて来たわけではないのだと、落ち着いて考えます。
気分が少し落ち着いて来たら、自分をイライラさせた、全てのものについて、許してあげると決めましょう。
頭の中で、考えるだけでも構いません。
でも、口に出して「よし、許してやるよ」と言えば、もっとすっきりするでしょう。
鏡があれば、鏡の中の自分に向かって、にっこり笑いかけるのも、かなり効果的です。
ここまで来れば、自分が好きな事に没頭する、準備完了です。
何かに夢中になり出すと、他の事など、どうでもいいように思えるでしょう。
許してやるよと決めたことすら、どうでもよくなるはずです。

この世界には、いろんな波長の人々が、入り交じって暮らしています。
ですから、どうしても波長が合わなくて、イラッとさせられる事があるのです。
これは仕方がない事ですから、そうならないようなテクニックを、自分が覚えるしかありません。
特に低レベルの事で、誰かと争ったりする時には、自分の波長を、相手にぴったり合わせている事になります。
これでは、争いに勝っても負けても、嫌な気分が続くだけです。
しかし、元々の自分の波長が低ければ、似たような波長の人に、引き寄せられてしまいます。
そうならないようにするには、普段から自分の波長を高めて、物事を一段高い所から、眺められるように、しておくといいでしょう。
明らかに波長が違ってくれば、波長が合わない人が集まっている所には、自然と近づかなくなります。
当然、イラッとさせられる機会も、減って来ます。
波長が高まると、相手に対して寛容な気持ちを、持ちやすくなります。
子供に何かを教える時とか、理解力の乏しい相手に対しても、イライラする事が減って来ます。
車の運転中に、前をゆっくり走る車がいても、腹が立たなくなります。
つまり、イライラする原因の一つに、自分の波長の低さもあるわけですね。
波長が高まって来ると、同じように波長が高い人と、接する機会が増えて来ます。
そうなると相手から。さらに波長を高めてもらえます。
他でイラッとする事があっても、すぐに元の波長へ、引き上げてもらえるでしょう。

イライラしなくて済むようにするための、ポイントは次の3点です。
自分の体調を整えておく事。
本来の自分でいられるように心掛ける事。
本来の自分の波長を高める事。
イラッとする事が多い方は、ぜひ試してみて下さい。
取り残された感じ その3

好きなこと、興味を持ってるものはあるけれど、自分なんかには無理だと思う人。
そんな人も、多いでしょう。
でも、それはもったいない話です。
やりたい事があれば、人に迷惑をかけない限り、遠慮することなく、やればいいのです。
それを仕事にしようと、考える必要はありません。
と言うか、そんな事は、考えない方がいいでしょう。
まずは、自分がやりたい事に、夢中になるのが最初です。
他の人に見てもらいたければ、そうすればいいのです。
それが仕事になるかどうかは、あくまでも結果です。
そういう成り行きであれば、仕事にすればいいのです。
仕事にすることを目的にしてしまうと、方向がずれてしまいます。
やりたい事へ回すパワーが、分散してしまいます。
そうなると、結局何をしようと思っていたのか、わからなくなってしまうでしょう。

周囲の人や世間に、どんな目で見られるかが、気になりますか。
でも、それではうまく行きません。
何かに本気で取り組む人は、世間がどう評価するか、うまく行かなかったらどうするのか、というようなことは考えません。
そんな事に意識を向けるのは、それだけ集中力が、足らないという事です。
何かに夢中になっている人の、頭の中にあるのは、どうすればやりたい事が、実現できるのかという事だけです。
それが自分らしく生きるという事であり、それが活き活きできる理由なのです。
この歳で今更と思うのは、間違いです。
活き活きする事に、年齢制限はありません。
世の中には、定年を迎えてから、新たな事に挑戦する人が、いくらでもいます。
そういう人たちは、見かけは歳を取っていても、心の中は少年少女です。
収入が少ない、資格を持っていない、もう若くない。
そんなのは、活き活き生きるのに、関係のない事です。
大切なのは、自分が何に興味を持っているのか、という事だけです。

自分が好きなことをするのは、誰かと競争をするためではありません。
自分が楽しむためにするのです。
また、同じ興味を持つ人たちと、共同で大きなことをするのは、楽しいことです。
競争ではなく、協力です。
ゲームとして、競争を楽しむこともあると思います。
しかし、競争に夢中になるあまり、本来の目的を忘れてしまうのであれば、競争なんてしない方がいいでしょう。

自分だけが取り残されたように、あなたが感じているならば、それは人生を変えるチャンスです。
あなたの心が、本当の自分でありたいと、訴えているわけですから。
人に注目されたいとか、収入を増やしたいとか、何かの賞を受賞したいとか、そんなことを考えてはだめです。
そういう事は、結果としてついて来るものであって、目的ではないはずです。
目的とは、自分が本当にやりたいことです。
それを夢中になってやるのです。
それをしている間は、他のことを全部忘れてしまうような、そんな何かを見つけるのです。
お金がないとか、場所がないとかは、理由になりません。
本当にやりたいものがあれば、絶対に工夫をしてやるはずです。
あるいは、必ず訪れるチャンスのための、準備をするでしょう。
できない理由を並べているうちは、全然パワーが足りません。
それでは、できるはずのことも、できなくなってしまいます。
自分の心を束縛している、様々な理由や価値観を、一つ一つ取り除きましょう。
そして好奇心を、自由に羽ばたかせるのです。
気がつけば、もう取り残されているなんていう、不安は消えているでしょう。
そして、あなたの周りには、同じ想いを持った人たちが、集まっていると思います。

取り残された感じ その2
人は自分の状況しか、わかりません。
不安になると、他の人はうまく行っていて、自分だけがそうではないと思います。
しかし、実際は他の人たちも、同じように感じているものです。

世の中には、本当に活き活きとした人がいます。
そういう人を、世間の代表のように見てしまうと、世間はみんな、活き活きしているように思えます。
そして、自分だけが身動きが取れないと、悩んでしまうのです。
でも、本当に活き活きしている人は、世間の代表ではありません。
彼らは自分の気持ちに、素直に従って生きているだけなのです。
活き活きしている人は、俗に言う勝ち組という所には、所属していません。
彼らの概念には、勝ち組負け組というものが、ないからです。

いわゆる勝ち組の中を、突っ走っているように見える人がいます。
でも、本人が自分を勝ち組だと、思っているとは限りません。
自分は勝ち組だと思っていると、その人は決して、活き活きした状態にはなれません。
勝ち組である以上、負け組になるわけには行きません。
しかし油断をすると、いつ負け組に転落するかも知れないのです。
調子がいいように見せてはいても、心の中には、常に不安がつきまといます。
こんな人は、やりたい事をしているとは言えません。
意識を集中しているのは、負け組に転落しないということだけです。
心から望んでいることを、楽しんでいるわけではありません。
ですから、活き活きとはならないのです。

自分は取り残されていると、あなたは感じているかも知れません。
でも、それは誤解をしているのです。
あなたが感じている不安は、実は、本来の自分が出せていないという、不満の表れなのです。
そこに世間は関係ありません。
あなたの胸の奥には、あなたの本当の想いが、封印されています。
その想いが、外へ出られないことを、あなたに訴えているのです。
それは、今のあなたが、本来の自分でないと言う、警告とも言えるでしょう。
本来の自分でいられないと、幸せを感じられません。
病気になって、命を落とす可能性もあります。
このままではいけないと、あなたの心が叫んでいるのです。

そうは言っても、本来の自分が、どんなものかは、なかなかわかりづらいものです。
もちろん、立派な仕事に就くとか、キャリアを積むという事ではありません。
本来の自分とは、自分の自然な姿という事です。
取り残されているという思いとは、活き活きしている人への、漠然とした憧れなのです。
裏返せば、自分は無理だという、絶望感が潜んでいるわけです。
でも、無理だと決めつけてはいけません。
活き活きしている人を、見習えば良いのです。
活き活きしている人たちは、自分が何をやりたいのかを、知っています。
それを知らなければ、どうしていいか、わかりません。
自分がやりたい事が、わからなければ、いろいろ体験してみましょう。
気になることがあれば、すぐに調べる習慣をつけるのです。
子供の頃に興味があった事に、再び目を向けて見るのも、一つの方法でしょう。
知らない所へ行ってみるのも、いいですね。
普段は通らない道を、歩いてみるのも面白いです。
どんな物も、誰かが作ったのです。
その技術や、作った人の想いを、受け止めましょう。
そんな事を感じながら、自分の興味が反応するものを、探すのです。
ちょっとでも、ピピッと来るものがあれば、そこを追求して行けばいいでしょう。

取り残された感じ その1
世間から自分だけが、取り残されているように、感じたことはありませんか。
みんなはどんどん先へ進んでいるのに、自分だけが前に進めていないような、そんな気分になったことは、ありませんか。

学校の授業が理解できないのに、先生はどんどん先へ進んでしまう。
クラスメイトたちは黙って、鉛筆を持った手を動かしている。
理解できていないのは、自分だけのようだ。
他の子たちと違って、自分は頭が悪いんだ。
みんなは受験もうまく行くだろう。
でも、自分はどこにも行けないかも知れない。
こんな事を考えた方は、いませんか。
同じようなことは、何かの理由で、学校に行けなくなった人にも、言えると思います。
特に学校へ行っていない人は、自分がいる空間自体が、みんなとは違います。
そのことは余計に、自分はみんなと違うという、不安な気持ちにさせるでしょう。

結婚して家庭に入り、専業主婦になった人。
親の介護のために、仕事を辞めて家にいる人。
こういう人たちも、取り残された気持ちに、なりやすいと思います。
世の中はどんどん動いて、他の人はいろんな知識やスキルを、身に着けている。
それなのに、自分は何もできていないと、焦るかも知れません。
仕事を辞めないで続けていれば、今頃はどうなっていただろうか。
同僚たちは、今頃出世しているだろうか。
そんな事をつい考えてしまうと、ちょっぴり悲しくなるかも知れません。
だけど、もう一度働いてみようかと考えても、もう昔のようには若くない。
仕事を離れている間に、どんどん新しいことが、入って来ているはずだ。
恐らく自分は、それについて行けないだろう。
年齢もそれなりだし、若い者と競争して、勝ち残る自信なんかない。
だからと言って、このままだと自分が、どんどん朽ちて行くようで、せつなくなる。
そんな風に考えてしまう人も、いるのではないでしょうか。

仕事一筋で頑張って来た。
それなりにスキルもついたし、収入もまずまずだ。
でも、そのために犠牲にして来たことがある。
周囲を見ると、自分の知り合いはみんな、結婚して家庭を持っている。
独身なのは、自分だけだ。
このまま歳を取っても、自分は独りぼっち。
暖かい家庭がうらやましい。
婚活でもしてみようか。
でも、求められるのは若い人ばかり。
この歳では、無理かも知れない。

スポーツで食べて行こうと、必死に練習をして、頑張って来た。
だけど、上には上がいて、どんなにあがいた所で、自分に勝ち目はない。
でも、自分にはこれしかない。
他のことなんか、何もして来なかった。
だから、これで行くしかない。
もっと頑張るしかないけど、自分が選ばれることはない。
ここで認められなければ、どうしようもない。
そうなれば、世の中に自分の居場所なんて、見つからないだろう。

他にも自分が世間から、取り残されたと感じる人は、いると思います。
自分の力ではどうしようもなくて、自分の無力さを、情けなく思うばかりに、なってしまうかも知れません。
でも、はっきり申し上げましょう。
誰一人として、取り残されたりしていません。
自分でそう感じているだけで、実際には、そんなことはないのです。
地球にいる知性体
地球に存在する知性体と言われると、間違いなく人間を思い浮かべるでしょうね。
しかし、人間以外に知性体がいたとしたら、どうでしょうか。
異星人がすでに地球に来ていて、人間の中に紛れ込んでいる?
それもあるかも知れません。
でも、私が言う知性体は、昔から地球に存在するものが対象です。

そう言われると、今度はチンパンジーやゴリラなどの類人猿や、イルカやクジラなんかが、頭に浮かぶでしょうか。
他にも、人に身近な犬や猫なんかも、知性があるように見えます。
オウムやカラスなども、かなり賢く見えますよね。
知性が感じられる生き物は、人間には友だちのように思えます。
人によっては、その生き物を家族のように見るでしょう。

私は全てのものは、精神エネルギーなのだと考えています。
私たちが物質と呼んでいる、レベルのものについてもそうです。
精神と物質は分けられがちですが、その本質においては、どちらも同じエネルギーだと、私は思います。
違うのは、エネルギーとしての質でしょう。
よく言われるのは、振動数が違うという表現です。
振動数と言われても、ぴんと来ないかも知れませんね。
でも、電磁波の波長や振動数の違いと、同じだと考えれば、イメージできるでしょうか。
そして、精神エネルギーの基本は、知性なのだと私は理解しています。
精神エネルギーが意識を作るのですから、その基本は知性でなければ、理屈が合いません。
全ての存在が、精神エネルギーで作られている。
それは人間やそれ以外の生物だけでなく、水にも空気にも土にも、それなりの知性があるということです。
もちろん、普通に人間が考える知性というものと比べると、そんなの全然知性じゃないと、思われるでしょう。
しかし、それは物質の知性を、人間がイメージできないだけのことです。

ここで、初めの話に戻りますが、地球上の知性体と言うと、地球に存在するもの、全てだということになります。
ただ、私はここで知性体の定義を、もう少し狭めたいと思います。
それは自分を認識できる存在です。
人間以外に、自分を認識できる生き物は、地球上にどれだけいるでしょうか。
ここで言う自分とは、自分の体のことではなく、自分の心のことです。

生物は自らの体をセンサーとして、周囲の情報を感知します。
センサー機能は、センサーである体自体も、調査の対象になっています。
ですから、空腹や痛みなどを、情報としてとらえて、意識へ伝えるのです。
そのセンサーを、自らの意識に向けられる生き物が、人間以外に存在するのかというのが、私の問いです。
だけど、この問いに答えられる人はいないでしょう。
何故なら、その生き物のセンサーが、自分の意識に向けられているかを、確かめる術がないからです。

ミラーテスト(鏡像自己認知テスト)というものがあります。
まず、テスト対象となる動物に、麻酔をかけて眠らせます。
その間に、その動物が自分では見られない、体の部分に色を塗ったり、ステッカーを貼っておきます。
その後、意識が戻った動物に鏡を見せて、その反応を見るというテストです。

多くの動物は、鏡に映っているのが、自分だとは気がつきません。
それでも、いくつかの種類の動物は、それが自分だと理解して、知らない間につけられた、色屋ステッカーを、取ろうとするそうです。
これは、動物が自分を認識できるかどうかという実験です。
多くのサルたち、アシカ、パンダ、イヌ、オウム、カラス、タコは、このテストに失敗したと言います。
合格した動物は、イルカとシャチ、ボノボとチンパンジーとオランウータン、ゾウ、カササギ、そして魚のホンソメワケベラだそうです。

しかし、このテストで動物が認識しているのは、自分の体であって、心ではありません。
鏡の中の自分の姿を、自分だと認識できる動物と、認識できない動物がいることは、わかります。
しかし、認識できた動物が、自我というものまで認識しているかは、わからないのです。
人間ですら、鏡を見て、髪の乱れを直したり、にこっと笑ったりする事はあっても、自分って何なんだろうと、考える人は多くないでしょう。
ただし、考えてみろと言われたら、考えることができます。
それは人間であれば、誰でもできるのです。

果たして、自分という存在に、目を向けられる動物は、いるのでしょうか。
もし、そんな知性のある動物が、人間以外にいたとすれば、人間はその動物に対して、特別な親しみと敬意を抱くでしょう。
姿こそ人間とは全然違ったとしても、自分たちと同じ存在であると、強く認識できるに違いありません。
先に述べたように、それを直接確かめる術はありませんが、あなたはどう思いますか。
そんな生き物など、いるわけがないと思いますか。
それとも、あの動物だったらと、思い当たる動物がいますか。
いずれにしても、知性があるのは人間だけでは、ないのだと知ることは重要です。
そして、時には人間のように見える、生き物がいるとすれば、その生き物は人間とは全く違った道を歩むと決めた、素晴らしい知性体なのかも知れません。