あの世との交信

亡くなった人と、気軽に連絡が取り合えたら、どうでしょうか。
世の中の人の意識に、革命が起こるのではないでしょうか。
二度と会えないと思うからこそ、死別の悲しみは、とても深いものになるのです。
しかし、死後も簡単に会話ができたなら、今のような悲しみは、なくなってしまうでしょう。
肉体を伴った再会ができないのは、それはそれで寂しいと思います。
だけど、会話ができるのであれば、外国へ移住したのと、大差はありません。
小説や映画も、悲しみをテーマにしたものは、作りにくくなりそうです。
殺人事件も減るかも知れません。
まず、口封じに殺すという事は、全く意味がありません。
あの世から、何もかも喋られてしまうでしょう。
自分の姿が見えないようにすれば、相手を殺しても、自分の事はわからない。
そう考える者が、いるかも知れません。
でも、それも無意味です。
肉体を離れた意識は、全てを確認できます。
犯人はあの世からの通報で、すぐに捕まるでしょう。
自分が死んだら、自分が殺した相手に、あの世でひどい目に遭わされる。
そう考えると、恐ろしくて殺人なんて、できなくなるでしょう。
でも、あの世の方が、この世よりも暮らしやすそうだと、自ら命を絶つ人が、増えるかも知れません。
宗教も必要とされなくなるでしょう。
指導者の話を聞かなくても、あの世の情報を、直接知る事ができるからです。
人々はこの世で生きる意味を、これまで以上に、考えるようになるでしょう。
しかし、死んでもあの世で生きられると考え、好い加減に暮らす人も、出て来るかも知れません。
とにかく、人々の暮らしや価値観が、一変するのは間違いありません。
でも、そんな事が可能なのでしょうか。

前頭葉・頭頂葉と、側頭葉の間にある実線部分が、シルビウス裂です。
1955年にアメリカの脳神経外科医、ペンフィールド博士が、脳に電気刺激を与える研究をしていた時の話です。
右脳のシルビウス裂という所に、電気刺激を与えると、被験者が体外離脱体験をしたと言うのです。
人の意識は、脳が創り出しているのではなく、脳と直結して、相互作用をしています。
意識自体は、物質の世界とは別の次元に、あると思われます。
別次元の意識を、この世界にある肉体に、結びつけるには、意識の焦点を、脳に合わせる必要があります。
これに関わっているのが、恐らくペンフィールド博士が刺激した、シルビウス裂の辺りにあるのでしょう。
そこの脳神経の活動が、意識を脳に結びつけるのだとすれば、その脳神経ネットワークを、電気回路的に再現する事で、亡くなった人の意識を、呼び込めるかも知れません。
そのような回路を組み込んだ、ロボットを作れば、亡くなった人が肉体の代わりに、それを利用して、この世界で活動ができるわけです。

死者との交信と言えば、青森県・恐山のイタコが有名ですね。
イタコが本当に、死者の言葉を伝えているのであれば、生者の意識と死者の意識が、結びついたという事です。
それはテレパシーと言っても、いいでしょう。
イタコではない普通の人が、そんな風に死者とやり取りが、できないものでしょうか。
実はできるのです。

アメリカのロバート A・モンロー氏によって、開発されたヘミシンクという技術があります。
左右の耳それぞれに、わずかに周波数が違う音を、聴かせます。
たとえば、左耳に105ヘルツ、右耳に100ヘルツという感じです。
左右から周波数がずれた音を聴かせると、その差の波長が脳の中に、脳波を作ると言います。
この場合であれば、105-100= 5ヘルツの脳波です。
この技術によって、様々な脳波を、脳の中に作ると、それに応じた意識の変容状態が、生じるようです。
つまり、死者と交流ができるような意識状態を、科学的に再現できるわけです。
もちろん、そこまでの意識の変容に至るまで、基礎的なトレーニングは必要なようです。
アメリカでは、このトレーニングをモンロー研究所で、受けることができます。
モンロー研究所は、モンロー氏が創った、ヘミシンクの研究所です。
でも、アメリカは遠いですよね。
実は、アメリカへ行かなくても、日本でもヘミシンク体験ができるのです。
モンロー研究所で経験を積まれた、坂本政道氏のアクアヴィジョン・アカデミーは、モンロー研究所公認の、ヘミシンク体験機関です。
私も以前からヘミシンクには興味があり、いつかは体験してみたいと思っていました。
しかし、メインの活動が関東なので、四国からではちょっと遠くて、行けませんでした。
でも、最近調べて見るとCDを使って、自宅でもできるようになっているみたいなので、近いうちに挑戦してみようかと考えています。
私の両親は既に亡くなっていますが、二人が向こうで元気にしている姿を、直接確かめられたら嬉しいですね。
ただ、ヘミシンク自体は、死者に会う事を、目的としているわけではありません。
異次元の存在や、異星人の心と、コミュニケーションを取る事もできます。
こう言うと、嘘っぽいとか、怪しいと思われる方も、いると思います。
しかし、そう思う前に、自分で確かめてみるといいでしょう。
このプラグラムの本来の目的は、意識というものが、通常考えられているようなものではなく、無限で不思議で素晴らしいものである事を、自ら体験して学ぶ事だと思います。
それによって、人生観や世界観が大きく変わるでしょう。
あの世の人と交流ができれば、意識革命が起こると述べました。
ヘミシンク体験は、まさにその意識革命を起こすものなのでしょう。
小惑星帯(アステロイドベルト)の謎

火星と木星の間には、無数の小惑星が集まっているエリアがあります。
これは、かつて存在した惑星が、何らかの原因で、粉々になった痕跡かと、考えられていました。
でも今は、巨大惑星木星の重力に、散らばる星屑が引っ張られ、一つにまとまる事ができなかった、という考えが主流のようです。
つまり、惑星が壊れたのではなく、惑星になりそこねたという事ですね。
しかし、疑問は残ります。

現在の木星は、地球の300倍以上という、巨大な質量を持っています。
当然、木星の引力は、それぐらい大きいとわかります。
でも、太陽系の初期で、惑星が形成され始めた頃は、今ほど大きくはなかったはずです。
最初は宇宙に漂う、小さな岩石が集まって、原始惑星が生まれます。
その原始惑星がさらに集まって、今の地球型の岩石惑星が、生まれたと考えられています。
木星が今のように、巨大に成長して行く過程で、そちらに引っ張られた岩石があっても、不思議ではありません。
しかし、木星が今ほど巨大になるまでには、かなりの時間がかっているはずです。
その間に、この小惑星帯の軌道でも、地球のような惑星が、形成されなかったとは、言い切れないと思います。
そこにあった惑星が、何らかの理由で破壊され、粉々になった。
そして、その破片が現在の木星に引っ張られて、広範囲に広がったと考える方が、自然のような気がします。

ちなみに、日本でほうき星として知られる、彗星ですが、その形は小惑星と区別がつかないそうです。
彗星は太陽に近づいた時だけ、水蒸気やガスを噴出し、尾のように見えます。
ガスなどを噴出していない時には、小惑星にそっくりだと言います。
噴出するガスなどは、いずれ尽きる時が来ます。
その時は、彗星はただの小惑星になるようです。
また、小惑星と思われていたものが、突然ガスを噴出し、彗星と呼ばれるようになる事もあるそうです。
小惑星と彗星が同じ物だと考えると、その軌道が違うのは何故でしょうか。
小惑星は太陽の周りを、円を描いて回るのに、彗星は大きく軌道を外れて、楕円を描いています。
これも小惑星帯にあった惑星が、こなごなに粉砕された時の勢いで、一部の破片が遠くへ飛ばされ、彗星になったと考えると、説明がつきます。
今の天文学でも、太陽系の形成について、絶対的な事はわかっていません。
いろいろ言われているのは、全て仮説であり、一つの意見に過ぎないのです。

私としては、惑星に太陽系外から来た、大きな天体がぶつかって、それぞれが壊れて、小惑星帯になったという意見に、賛成したいですね。
ところで、元々小惑星帯にあった惑星を、マルデックと呼ぶ人たちがいます。
調べてみましたが、どこからその名前が来たのか、よくわかりません。
ただ、かつてその惑星には、高度な文明があったと言われています。
恐らく、その情報はチャネリングという、異星人あるいは別次元の知性体との、無意識を通じた、交信によるものと思われます。
私は異星人が存在していると考えていますし、地球にも既に訪れていると、理解しています。
また、チャネリングという交信も、有り得ると思います。
しかし、チャネリングと称しているものが、全て本当に異星人との交信なのかは、わかりません。
一部は思い込みであったり、注目を浴びるための嘘であるとも、考えられます。
チャネリングと言われた時に、それが本当の交信なのかどうかを、判断する術はありません。
その人物が信用できるかが、鍵になるでしょう。
それでも、その発言内容の信憑性を考えれば、誰が発言したのかは、大した問題ではないかも知れません。
もちろん信憑性を判断するのは、自分の知識や経験です。
たとえその話を信用したとしても、矛盾する事実が見つかった時には、すぐに考えを変えられる、柔軟な思考が必要です。
いずれにしても、マルデックの文明の話は、やはり本当の事かどうかは、わかりません。
とは言え、この太陽系に人類以外の、高度文明があったという話は、ロマンがありますよね。

チャネリングによれば、マルデックの文明は、惑星崩壊と共に滅亡しましたが、知性体の魂は火星や地球に、転生したと言うのです。
宇宙全体が、精神エネルギーでつながっているとすれば、星を超えての転生も、有り得ると思います。
本当にそうだとしたら、やはりロマンがありますよね。
それに火星にも、文明があったというわけですから、驚きです。
つまり太陽系には、マルデック、火星、地球と、三つも文明が生まれたわけです。
事実の確認はできませんが、それにしても興味深い話だと思います。
アメリカ大統領選挙

いよいよ今日は、アメリカ大統領選挙です。
日本時間では、夜に投票が開始されるそうです。
共和党のトランプ氏が再選するのか。
民主党のバイデン氏が新大統領に選ばれるのか。
世界の経済や、軍事の中心地と言える国の、大統領選挙ですから、世界中が注目している選挙です。
ただ、どちらが選ばれても、世界の混乱は収まらないでしょう。
下手をすれば、アメリカは国が真っ二つに分かれて、揉め続けるかも知れません。
今の世界に広がる大混乱の原因は、感謝と思いやりの欠如に起因しています。
トランプ氏が再選しようと、バイデン氏が勝とうと、これまでと同じような政策や、態度を見せるのであれば、混乱は収まらないでしょう。
国境を越えて、みんな地球人だという意識を持たないと、次々に起こる問題を、乗り越えるのは困難です。

そもそも UFO の存在を、アメリカ政府が正式に認めたというのに、世界中の人々は、どこに意識を向けているのでしょうか。
この重要な情報を、まるでなかったかのように振る舞う人たちを、私は理解ができません。
目の前に大きな変化が迫っているのに、足下しか見ていないなんて、どうかしていると思います。
恐らく、周りが騒がないから、何となく安心しているのかも知れません。
しかし、それは自分の頭で考えるという事を、放棄しているのと同じです。
それでも一部の人たちは、UFO の存在を真面目にとらえています。
その中には、私のようにUFO を好意的にとらえる人もいますが、侵略者だとみなして焦る人もいます。
その真偽はともかくとして、未知の知性体が、既に地球に到達しているのです。
それなのに人々の関心は、全然違う方向へ向いているようです。

UFO の動きでもわかるように、この知性体の知識と技術は、地球人のそれを遥かに上回っています。
とても戦って勝てる相手ではありません。
しかし、向こうから攻撃して来る様子は、ないようです。
と言う事は、地球人類との友好を結ぶ日を、待ち望んでいると考えて、いいのではないでしょうか。
そうであれば、それは彼らの知識や技術が、近い将来、人類にもたらされるという事です。
それは、単なる科学革命ではありません。
人々の神や世界への認識が大きく変わる、空前の意識革命となるでしょう。
人類というものが、大進化を遂げる瞬間が、近づいて来ているのです。
これは、すごい事だと思いませんか。
他の時代に生まれていれば、大進化の瞬間には立ち会えません。
今を生きる私たちは、その二度とない瞬間を、目の当たりにする事ができるのです。
経済問題や差別問題など、人類が心を一つにすれば、簡単に乗り越えられるものばかりです。
そんな事で、いつまでも揉め続けているのは、とても歯痒い事です。
これらの問題が、いつまで経っても解決しないのは、みんなの心がバラバラだからなのです。
どうしてバラバラになるのかと言うと、元々みんな一つだったという事を、忘れているからです。

全ての人間の体は、地球から生まれています。
全員が地球の子供なのです。
地球も太陽も、宇宙から生まれています。
だから、私たちは全員が、宇宙の子供でもあるのです。
みんな同じ存在なのに、何をいがみ合っているのでしょうか。
私たちより遥かに高度な存在から見れば、全く愚かで馬鹿げた行為を、人類は繰り返してばかりいると思うでしょう。
今、世界中がアメリカ大統領選挙に、注目しています。
どちらが選ばれるかによって、それなりの影響の波が、世界中に広がるでしょう。
しかし、どんな波が来ようとも、大進化を迎える人類の一員として、胸を張れるような生き方を、貫こうではありませんか。
何がよくて何がいけないのか、一人の人間として判断すれば、自ずと答はわかります。
煽動や策略に巻き込まれる事なく、自分の世界を保つようにしていれば、そこには必ず喜びが見つかるでしょう。
夢が伝えてくれたこと
先日変わった夢を見ました。
私は乗り物に乗っています。
小さな列車のようで、向かい合った一人掛けのシートに、座っていました。
私は進行方向に、背を向ける形で座り、前のシートには男性が座っています。
後ろには、背中合わせのシートがあり、そこにも背が高い人が座っていました。

前に座っていた人物は、現実には見た事がない人でした。
でも夢の中では、知り合いだったようです。
私は何だかうとうととなって、背もたれに体を預けました。
しかし、背もたれが低いので、私の頭の位置が、後ろにいる人物の、肩の横になりました。
後ろの人物の顔を、のぞこうとしたみたいな格好です。
すると、その人物もうとうとしていたのか、私と同じような格好になりました。
それでお互いの顔が見えたのですが、その人物は若い男性で、私の知っている人のようでした。
その時、私の前に座っていた男性が、彼のことを、ほら、あいつだぞ、と教えてくれました。
それで私は、やっぱり彼は自分の知っている人物だと、わかったのです。
三十年前、私の家にアメリカの高校生が、ホームステイに来た事があります。
ユダヤ系の男の子で、名前をジャスティンと言います。
夢の中の私は、自分の後ろにいた人物を、このジャスティンだと理解したようでした。
でも、彼の顔は私が知っているジャスティンではなく、アメリカの子役俳優だった、マコーレー・カルキンの顔でした。
映画「ホーム・アローン」で一躍有名になった、あのマコーレー・カルキンです。
その顔は少し眠そうで寂しげでした。
彼は私だとわかると、笑顔で話しかけて来ました。
でも、日本語が上手ではないので、限られた言葉での、ぎこちない話し方です。
それでも彼は懸命に、自分の夢を私に語ってくれました。
それは、どうやって人々に喜びを与え、幸せになってもらうかという、彼の計画でした。
しかし、私には何故か、彼の未来の姿がわかっていました。
彼はエイリアンになってしまうのです。

彼は将来、エイリアンになって、人類を滅ぼそうとするのです。
それなのに、目の前の彼は、自分がエイリアンになるなんて知りません。
どうすれば人類のためになれるかと、懸命に語るのです。
ただ、世間が彼を快く受け入れていない事は、その表情から理解ができました。
彼は自分の苦難に立ち向かいながら、何とか人々に自分を受け入れてもらい、みんなの役に立とうとしていたのです。
私は切なくなりながら、彼の話を聞いていました。
そして、彼の夢が叶って、将来エイリアンにならずに済むように願いながら、彼の話にうなずいていました。
どうして彼を、うちにホームステイした、ジャスティンだと思ったのでしょうか。
その理由は、ジャスティンという名前です。
英語にはジャスティスという言葉があります。
正義という意味です。
ジャスティンという名前の語源は、ジャスティスだそうです。
日本語で言えば、まっすぐな男の子、正しい男の子という意味になるようです。
つまり、この青年は真面目で真っ正直な人物だったと、いうことなのです。
どうして、マコーレー・カルキンだったのか。
それは本物のマコーレー・カルキンが、気の毒な家庭環境にあったという、事実が関係しているのでしょう。
天才子役として、もてはやされた彼は、家庭の問題が原因で、映画界を去りました。
才能があったのに、環境がだめにしてしまったのです。
こんな夢でした。
私はこの夢で、世間から極悪人だとか、テロリストだとか呼ばれる人たちも、初めからそうだったのではないのだと、改めて理解しました。
赤ん坊の時から、誰かを傷つけようと考える者はいません。
みんな喜びを求めて生きているだけですし、周りの人たちと、楽しく過ごしたいと願っているはずです。

それなのに、ある人たちは、極悪人やテロリストの道を、歩む事になるのです。
でも、それは決して本意ではありません。
彼らが本当に願っていた事は、違う所にあったのだと思います。
ひどい事をした人を、責めるのは簡単です。
でも、その人たちの本当の気持ちや、その人たちがひどい事をするようになった経緯を、知る事は大切だと思います。
何故ならば、その人たちをむりやりに、怪物に仕立て上げたのは、私たち自身かも知れないからです。
風刺とは何か
イスラム教の預言者、ムハンマドの風刺画に反発したテロが、フランスで続発しています。
どのような理由であれ、テロは許されません。
しかし、わざわざムスリムの人たちを刺激して、テロを起こさせるのはどうかと思います。
根底にはムスリムの人たちに対する、多くのフランス人の蔑視があるのでしょう。
ただ、東北が津波に襲われた時に、福島の原発を巡って描かれた、奇形の力士の風刺画から考えると、ムスリムの人たちだけに限った、蔑視ではないように思います。
恐らく、フランス以外の文化に対する、反発心があるのでしょう。
そうでなければ、何でもかんでも風刺したりは、しないはずです。
ムハンマドの風刺画を、生徒たちに見せて殺された、中学校教師の葬儀で、マクロン大統領は表現の自由を強調し、風刺をやめないと公言しました。
これに対して、イスラム諸国は猛反発をし、フランス製品ボイコットの呼びかけています。
するとマクロン大統領は、ボイコットを無価値で容認しがたいと、批判したと言います。
自分たちには、相手を馬鹿にする権利があるのに、相手には、反発する権利を認めないという姿勢は、説得力を感じません。
フランス以外の多くの人が、テロリストの行いを糾弾しつつも、フランスの態度には、眉をひそめているのではないでしょうか。
フランスでは表現の自由ということが、重視されています。
しかし、自由には責任がつくものです。
自由に行った結果は、全て自身にふりかかるのです。
どんなに文句を言ったところで、どうにもなりません。
表現の自由というのであれば、怒りや憎しみの表現として、相手の命を奪うという行為も、正当化されてしまいます。
さすがに、それはいけないだろうと、そこにルールを設けるのであれば、自らもそのルールに従わなければなりません。
フランスの人たちは、自分の家族や友人など、大切な人が冒涜されても、表現の自由だと言って、相手を許すのでしょうか。
自分たちは、相手が信じているものを、風刺しているのであって、信じている個人を、冒涜しているわけではない。
風刺画を擁護する人たちは、そう言い分けするかも知れません。
しかし、心から信じているものが、否定されたり馬鹿にされると、その人たちの心は、大きく傷つきます。
それは自分が否定されたり、馬鹿にされる以上に、深く傷つくものなのです。
相手が信じているものが、間違っていると考え、それを正したいと思うのであれば、冒涜してはいけません。
何を信じようと、本人の勝手です。
そこを変えさせたいと思うのなら、相手の思想を受け入れながら、本当の思いについて、時間をかけて、深く話し合わねばなりません。
しかし、それでも相手が信じ続けるというのであれば、それは尊重されるべきなのです。
何故ならば、自分自身が信じているものが、絶対に正しいと言い切ることは、誰にもできないからです。
自分が自身の信念を持つのであれば、相手にも相手なりの信念を、持つ自由を認めねばなりません。
直接体に危害を加えないという点で、風刺と暴力は違うと、風刺画擁護派は考えるのかも知れません。
しかし、時に言葉の暴力は、肉体への暴力以上に、相手に深いダメージを与えるものです。
ましてや、風刺画にして世間に広めるなど、言語道断でしょう。
そんな事は、どこの国でも常識だと思うのですが、フランスではそうではないようです。
表現の自由を教える授業で、宗教を侮辱する風刺画を、生徒に見せる行為は「正当化される」と答えたフランス人は、78%に上ったと言います。
では、同じ表現の自由を教える授業で、生徒の家族や生徒自身を、侮辱する風刺画を見せれば、どうでしょうか。
それにも、8割近くのフランスの人々は、賛同すると言うのでしょうか。
今、世界は大きく変化しようとしています。
求められているのは、感謝と思いやりの心です。
世界中で猛威を奮っている新型コロナウィルスは、その事を私たちに告げています。
それなのに、どうしてこの時期に、このような風刺をしようとするのでしょうか。
大人は子供たちに、何を教えようとしているのでしょうか。
本来風刺は、権力者に対する非力な抵抗です。
直接争うとひどい目に遭うので、陰で言葉や絵を用いて、相手を馬鹿にするものです。
権力者から虐げられている者が、ささやかな抵抗手段として使うのが、風刺なのです。
何も虐げられていない者が、権力者でもない者に対して、心を踏みにじるような態度を見せれば、トラブルになるのは当たり前です。
それどころか、政府に守られた権力者が、力の弱い人たちを、堂々と馬鹿にしているのです。
風刺の定義から言えば、彼らは風刺をする立場にないはずです。
それでも政府や国民のお墨付きがあるから、胸を張って風刺を続けるのでしょう。
しかし、風刺された者たちの、みんながみんな、泣き寝入りをする者ばかりではないのです。
今のフランスの風刺画擁護の姿勢は、裏に何か深いコンプレックスが、潜んでいるように思えます。
攻撃的な人というものは、不安だから相手を攻撃しようとするのです。
そうする事で、自分の方が立場が上だと、アピールするのです。
豊かな心を持ち、今の人生に十分満足している人は、誰かを否定したり攻撃したりはしません。
そんな事をする暇があれば、自分がやりたい事に、全ての情熱を注ぐはずです。
風刺を専門にしている出版社は、風刺を仕事にしています。
仕事ですから、毎日、誰かを風刺しなければなりません。
彼らの風刺は、権力に対する抵抗ではなく、商売です。
あるいは、自分たちの存在の誇示でしょう。
インターネットで誰かをボコボコにして、正義感ぶっている人がいますよね。
それと同じ理屈だと思います。
彼らは常に、自分の正義を振りかざすための、生け贄を探しているのです。
フランスの人々は、自分たちがテロと、戦っているつもりなのかも知れません。
しかし、自分たちの行いが、テロリストを生み出していることに、気づくべきです。
テロリストが生まれるのは、宗教が原因ではありません。
宗教は一つのきっかけに過ぎません。
神の名を使えば、自分の行為を正当化しやすいので、利用しているだけです。
しかし、テロリストが全員、神を利用するわけではありません。
彼らがテロを起こす理由は、もっと日常的な所にあるのです。
普段の生活の不満や不安、将来への失望などが、彼らの原動力なのです。
それなのに、彼らの神経を逆なでするような事を、社会全体で意図的にするわけです。
テロが発生するのは、当たり前でしょう。
ただ、これは日本でも言える事です。
日本人は風刺画こそしませんし、多くの人はそういう事を嫌います。
しかし、貧しい国の人たちを、労働力として日本へ連れて来て、まともな賃金を払わなかったり、使い捨ての労働者のように扱う事は、少なくないようです。
こういう事を続けていると、同じ人間として扱ってもらっていないという、不満が蓄積して行き、ある日突然、その不満が爆発する事があるのです。
外国人労働者を受け入れておいて、経費がないなどと言い訳をする、業者がいます。
しかし、支払う経費がないのであれば、廃業するべきでしょう。
外国人労働者は、奴隷ではありません。
みんな同じ人間なのです。
自分がされたら嫌な事を、相手が誰であれ、やってはいけません。
また、お金儲けのために、誰かを利用するという発想は、捨てるべきです。
遠い国から、助けに来てくれる人たちです。
彼らへの感謝と思いやりの気持ちを、忘れてはならないのです。
コロナ後への期待
7月22日に Go To キャンペーンが始まってから、どこの地域もコロナ感染者数は、第2波と呼べるピークを迎えました。
ただ、そのピークの高さは地域によって異なります。
それはキャンペーンによって、どれだけ多くの人が移動したかを、反映しているようです。
幸い愛媛県では、第2波のピークは高くありませんでしたし、すぐに落ち着きました。
他の県でも、愛媛県と同じような所は多いようですが、後になってから、再び感染者数が増えて来ている県もあります。
愛媛県と同じ経過を、日本全体が迎えているわけではありません。

東京や大阪などの大都市と、その周辺地域でも、第2波のピークは過ぎたようです。
しかし、感染者数は地方のようには下がりきらず、高止まりのまま推移しています。
それでも、諸外国の状況と比べると、国全体がパニックに陥るような数ではありません。
また、感染者数は多くても、重傷者数や死亡者数の割合は、減少傾向にあります。
これは多くの国民が、互いに感染しない、させないという配慮を、しているからだと思います。
コロナ騒ぎが始まった頃は、状況が全くわからず、不安ばかりが先行していました。
しかし、実態がわかって来た今、無闇に恐れる必要がないという印象を、みんなが持ち始めているような気がします。
それでも、日本人は警戒を怠りません。
国が警戒を緩める姿勢をみせても、それぞれが気をつけ続けているようです。
それだけでなく、お洒落なマスクを作ったり、家庭で子供たちと過ごす時間を楽しんだり、新しい仕事の在り方や、地方での暮らしを選択したりと、人々の価値観が大きく変化して来たと思います。
映画「鬼滅の刃」の大ヒットは、海外が驚くほどの興行成績で、コロナなどどこ吹く風といった感じです。
多くの人たち、特に若い人たちが、コロナへの不安ではなく、映画を通じて家族愛や勇気に、意識を向けるようになった事は、注目に値する事だと思います。
不安は、さらなる不安を呼び込みます。
不安から喜びに目を移す事で、希望への道が開けるのです。
もちろん、油断をしてはいけません。
でも、きっと日本は、このままの雰囲気で、進んで行くでしょう。

コロナに苦しむ諸外国の様子は、ニュースでも報道され、コロナがいかに恐ろしい病気であるか、訴え続けています。
しかし、日本にいると、まるで別世界の話を、聞かされているように思えます。
それにニュースでは、コロナの恐ろしさが強調されていますが、本当の問題は、コロナ以外にあるように見えます。
以前からある問題が、露呈してしまったため、それをコロナのせいだと、言い逃れをしているようです。
もちろん、それは日本でも言えることです。
何でもかんでも、コロナのせいにしていては、いい世の中にはなりません。
コロナで発覚した問題は、本当の原因がどこにあるのかを、見極めないといけません。
コロナに感染しても、重症化する人は限定的と言えるでしょう。
感染しても回復する人が大半です。
しかし体力のない人や、持病がある人などが罹患すると、悪い結果になる事があります。

若い人でも、不摂生や過ぎたダイエットをしていたり、大きなストレスを抱えていたりすると、免疫力が落ちてしまいます。
そんな人がコロナに感染すると、やはり重症化する可能性はあると言えます。
でも、健全な体を持つ人は、それほどコロナを恐れる必要はないでしょう。
ただ、知らない間に感染したウィルスを、体の弱った人に移すかも知れないという、配慮は必要です。
つまり、健全な体と他者を思いやる心があれば、コロナをそれほど恐れる事はないのです。
経済を回す事は、社会を維持するためには、大切な事でしょう。
しかし、お金を動かす事だけを重視して、人々への思いやりを忘れた政策は、知恵に欠けていると言えます。
日本の被害が、この程度で済んでいるのは、政策のお陰ではなく、国民性の賜だと思います。
逆に言えば、どんなに素晴らしい政策を打ち出しても、国民同士が思いやりの気持ちを持てなければ、悪い結果に結びつくでしょう。
また、お金のない事が問題になるわけですから、国も国民も、お金ありきの発想を捨てて、新たな道を切り開くべきだと思います。
ボランティアの概念を超えた、助け合いを基本にした社会を、築くことができれば、コロナなどは恐れるに足らずです。
そして、真面目で思いやりのある日本人が、本気で考えれば、それは可能だと私は信じています。

自分の味方は自分 その2

やってはいけない事をした。
誰かを深く傷つけてしまった。
本当の自分を見せられず、みんなを偽り続けて来た。
こんな人は、自分を人間として最低だと、考えるかも知れません。
でも、それは間違いです。
自分がよくない事をしたのであれば、その事は反省が必要でしょう。
傷つけた人がいるのなら、その人の気持ちを、思いやる必要があります。
しかし、自分を責めてはいけません。
反省する事と、自分を責める事とは別物です。
とてもひどい事をしたのであれば、深い反省は必要です。
しかし、自分を責めて追い詰めるのは、間違いです。

たとえ世界中の人が責めたとしても、自分だけは、自分の味方でいるのです。
家族や友人に責められても、自分を見捨ててはいけません。
つらいかも知れませんが、それでも自分という存在を、嫌ってはいけません。
みんながどんなに怒っても、自分だけは味方だよと、自分自身に伝えて下さい。
これからどうすればいいのかを、一緒に考えようと、自分を励ましましょう。
つらい事があっても、自分だけはいつも一緒だからと、話しかけるのです。
自分で自分に話しかけるなんて、奇妙に思えるでしょう。
知らない人が見たら、頭がおかしくなったと、思われるかも知れません。
でも、私たちの中には、いくつもの人格が共存していると、考えて下さい。
子供の頃のままの自分もいれば、仕事一筋の自分もいます。
男性的な自分もいれば、女性的な自分もいます。
人に冷たい自分もいれば、人に優しい自分もいるのです。
自分を励まし、自分を力づける自分とは、たくさんある人格の中の、高度な意識を持った自分なのです。

自分を励まそうとする事で、数ある人格の中に埋もれている、高度な意識の自分が呼び出されます。
この高度な意識の自分というのは、無意識の自分、つまり本当の自分に近い存在だと、考えて下さい。
いけない事をして責められる自分は、何が本当に大切なのかを、理解できていない自分です。
過ちを犯した自分は、本来の自分とは、かけ離れた姿をしているかも知れません。
それでも自分は自分です。
見捨てるわけには、いきません。
ただ、落ち込んでいる自分に、全てを任せていたのでは、状況はどんどん悪くなるばかりです。
ですから、ここはコーチである、高度な意識の自分の出番なのです。
選手交代ではありません。
意識の主役は、落ち込んでいる自分です。
高度な意識の自分の役割は、そばに寄り添うコーチです。
落ち込む自分に考えさせ、行動を起こさせる事で、何が大切であるかを、理解させるのです。
落ち込む自分が、大切な事を理解できるようになれば、その意識は高度な意識と、融合できます。
そうやって、より多くの意識が成長し、高度な意識と融合すれば、自分という意識の中を、常に高度な意識が、占めるようになります。
これは一人の人間として、大きく成長するという事です。

高度な自分を呼び出すのは、最悪の状況でなくても可能です。
何かで迷った時に、本当に大切な事は何かな、と自分に問いかければいいのです。
それだけで、高度な自分は登場します。
悩んでいる方の自分は、自分の問いに対して、大切なものはこれだと、回答します。
高度な意識の自分は、本当にそれが大切なのかと、繰り返し尋ねます。
あるいは、自分の選んだ答で、何が失われるのかを、確かめさせます。
そのうえで改めて、それが大切なのかと問いかけます。
悩んでいる自分は、初めは頭の中で、理屈で考えます。
でも次第に、感覚的に理解しようとするようになります。
損得で考えるのではなく、自分の選択で、傷つく人がいるかどうかを考慮します。
その結果、初めの選択を、取り止めるかも知れません。
あるいは、それでも選択せざるを得ないと、結論づける事もあるでしょう。
そんな時でも、できる限り、人を傷つけないような方法を、考えるはずです。
また、そこまでして選択する事の、重みを理解すると思います。

誰の中にも、高度な意識の自分は存在します。
それは、その人が高貴な存在である証なのです。
どんなに苦境に陥っていても、どんなに最低に見える状況にあっても、その人の価値がなくなる事はありません。
その人は高貴な自分に、気づいていなかっただけなのです。
悩んでいなくても構いません。
自分に問いかけてみて下さい。
一番大切な事は、何なのかと。
あなたは何と答えるでしょうか。
その答が、あなたの生き様を示します。
そう考えると、あなたは思わず問い直すでしょう。
本当にそれでいいのかと。
何事もないうちから、こう問いかけていれば、あなたはいつでも幸せを、感じる事ができると思います。
自分の味方は自分 その1

あなたは自分の事が、好きですか。
好きだと言える人は、幸せです。
好きだと言えない人は、不幸せを感じていると思います。
失敗ばかり繰り返す自分を、責める人。
絶対にやってはいけない事を、やってしまった人。
取り返しのつかない事をして、誰かを深く傷つけてしまった人。
何の取り柄もなくて、つまらない人間だと思っている人。
何でも人に合わせてしまい、本音を出せない人。
幸せじゃないくせに、幸せであるふりをしている人。
思い当たる方はいるでしょうか。
思い当たった方は、自分の事を、どう思われるのでしょうか。
自分を嫌いとは言わなくても、自分に自信がないと言う人は、いると思います。
言葉の違いはありますが、どちらも自分を否定している点では、同じです。

自分を否定する理由など、本当はどこにもありません。
それでも否定したくなるのには、理由があるはずです。
それは、他の人と自分を比べて、優劣を考えてしまうからでしょう。
赤ちゃんの頃には、自分と他人の違いなど、気にしていなかったと思います。
でも、大きくなるにつれて、自分と他の人との違いが、わかるようになり、そこに優劣という価値観をすりこまれるのです。
たとえば、あなたは生まれつき体が不自由だとします。
当然、他の子供と同じようには、動けません。
その事で誰かから馬鹿にされたり、差別されたりすると、あなたは心が深く傷ついて、自分はみんなより劣っているのだと、考えるようになります。
あなたを慰めようとして、同情を寄せる人もいるでしょう。
しかし、同情というものは、高い位置にいる者が、低い位置に見せるものです。
表面的には同情する人は、あなたの味方になっているように、見えるかも知れません。
でも、あなたは同情される事で、自分のポジションが、人より低いのだと、再確認するのです。
実際は、体にハンディを背負っていても、すごい事をやってのける人は、いくらでもいます。
それにハンディを背負っていると言っても、本人にすれば、それが普通なのです。
ハンディでも何でもありません。

空を飛ぶ鳥から見れば、人間は全員が、翼がないハンディ持ちです。
でも、誰もそんな風には、考えませんよね。
翼がないのが、人間にとっては普通だからです。
人間にとって、一番大切な事は、感謝と思いやりの気持ちを、持つ事です。
それが持てない人は、人間としては未成熟です。
他の人と比べて、外見が違うかどうかは、全くポイントではありません。
見た目の違いを馬鹿にする人も、何もわかってもいないのに、同情心を寄せる人も、中身は同じです。
そうする事で自分のポジションを、相対的に高く見せようとしているのです。
つまり、誰かを自分の引き立て役に、利用しようとしているだけなのです。
物事がわかっていて、自分に自信を持つ人は、見た目の違いを馬鹿にしないし、同情もしません。
体が不自由に見えたとしても、その人の才能が、どこにあるかを、瞬時で見抜く事でしょう。

誰かに自分の容姿の事で、心を傷つけられるというのは、無知な人の価値観で、自分自身を見てしまうという事です。
そんなのは馬鹿馬鹿しいですし、時間の無駄です。
嘆いている暇があるのなら、自分がやりたい事を、思う存分楽しんだ方がいいでしょう。
学校の勉強が苦手であったり、スポーツが苦手であったり、何をやっても不器用だ、という場合にも、同じ事が言えます。
苦手と思うのは、それに対して、好奇心を持てないというだけの事です。
好奇心があれば、上手にできなくても、上手になろうとするでしょう。
まだ、上手になれていない状態を、苦手だとは表現しません。
本当にやりたければ、人の何倍も練習をする事になっても、苦にはなりません。
やりたい事ができれば、それでいいのです。
できるまでに、どれだけ時間がかかったのかなんて、少しも問題ありません。
逆に、時間をかけさえすれば、何だってできるんだと、強い自信を持つようになるだけです。
でも、気をつけないと行けないのは、自分を馬鹿にした連中を、見返してやるんだ、という気持ちでやる事です。
それは楽しむという目的から、はずれています。
それでは練習が嫌になりますし、やろうとしている事の、本当の楽しさがわかりません。
誰が何を言おうと、そんな事は気にしないで、自分が楽しむ事に没頭する。
これが大事なのです。
自分で自分を、低く見るべきではありません。
自分は常に、自分の味方でいないといけないのです。
がんばれ 勝手につくば大使!
茨城県つくば市の市議会選挙で、とても個性的な方が当選しました。
モヒカン頭がトレードマークの、勝手につくば大使さんです。
得票数は 2,401票で、当選者 28 人中、19番目の得票でした。
元々は北海道の方で、子供の頃は何度も転校をしていたため、落ち着ける所がなかったそうです。
詳しくは、勝手につくば大使さんのホームページを、お読み下さい。
ここではポイントだけを、抜粋してお伝えします。
彼は筑波大学三年生の時、将来何をしようかと思案していたと言います。
その時に、大学の先輩から提案されたのが、勝手につくば大使なのだそうです。
その先輩という方が、どこまで真面目に話をされたのかは、定かでありません。
でも、この話に彼は食いついたのです。
つくばで暮らすようになった彼は、ようやく自分の居場所を見つけたと、実感したそうです。
その大好きなつくばのいい所を、内外に向けて発信する事は、彼にとって、とても魅力的に思えたようです。
勝手につくば大使になった彼は、地元にある見所の場所や、お勧めの店、イベントなどを、ブログやフリーペーパーで紹介しています。
そこでは単なる面白さだけでなく、つくばの人々の活き活きした様子や、魅力についても、しっかりと伝え続けています。
その活動は5年にも及び、今や地元の人たちにとって、勝手につくば大使さんは、とても信頼のおける好人物と、見られているのだと思います。
理屈ばかり述べる人よりも、普段から人々のために、わかる形で動き回っている人物の方が、好感度が高いのは当然でしょう。
今回の市議選の当選は、当たり前と言えば、当たり前の事だと言えます。
勝手につくば大使さんは、トレードマークのモヒカンの頭のまま、立候補しました。
お金もないので、バイトで稼いだお金を、選挙費用に使い、選挙カーもない状態で、地域を回ったと言います。
普段から地道に活動している方は、選挙にお金をかけなくても、当選できるという、いい見本だと思います。
選挙にはお金がかかると、まことしやかに語る人たちは、普段何をされているのかと、考えさせられますね。
勝手につくば大使さんは、まだ若干26才です。
普通だと当選なんて、考えられないような年齢です。
しかし、普段の人柄が認められた上での、若さは何よりも強い武器でしょう。
新しい発想や行動力が、人々の期待を集めているのだと思います。
面白いのは、彼のヘアスタイルです。
モヒカン頭は日本では、あまり馴染みがある、ヘアスタイルではありません。
それについて、勝手につくば大使さんは、ご自分でも見た目は悪いと、認めていらっしゃいます。
でも、見た目が悪くても、中身はとても素敵な人で、信頼できる人物となると、いい意味で人々の目を惹きます。
勝手につくば大使さんが、モヒカン頭のままで市議になった事で、彼の存在は日本中に知られる事になりました。
その結果、人を外見だけで判断する事が、これからの日本では、少なくなるのではないかと思うのです。
また、勝手につくば大使さんのように、枠に囚われない形で、自分の思ったように行動し、みんなに喜んでもらおうと考える、若い人たちが増えて来るように思います。
日常の暮らしの中でも、そんな人が、どんどん現れて来ることでしょう。
政治の世界にも、期待できる若い人が、増えて行くと思われます。
選挙の時だけ、お金をばらまき、選挙カーで騒ぎ回る人ではなく、普段の活動を通じて、広く顔を知ってもらう人が、選ばれるようになるでしょう。
それは芸能人ではなく、日常の中で、みんなのために動き回っている人たちです。
今後の日本中の議員の中に、真剣に市民のことを考えられる、若い人がどんどん参入する事を、勝手につくば大使さんは教えてくれているような気がします。
四国から遠く離れた茨城県のことですが、とても嬉しく、また頼もしく感じました。
今後の勝手につくば大使さんの活動を、応援したいと思います。
これからの日本が、どうなるのか。
勝手につくば大使さんを見ていると、わくわくした気持ちにさせられます。
存在する価値 その3

自分の価値で悩む時、全体的に共通して言える事は、こうでなければならない、こうに決まっているという、決めつけた思い込みです。
何かをする以上、トップを目指さなければならない。
男である以上、弱音を吐いてはいけない。
女である以上、家庭を守るのが当たり前である。
一つでも汚点がついた者は、人間として失格だ。
学歴がない自分の人生が、花開く事はない。
ちやほやされても、本当の自分は無能だ。
他にもいろいろあるでしょう。
いずれにしても、根拠のない価値観で、自分を縛りつけて、心を窒息状態にしているのです。
心が辛うじて息ができているうちは、不安を感じているだけです。
しかし窒息状態になると、心はパニックになって、発作的に人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするのです。
でも、いきなり窒息状態になるのではありません。
そうなる前に、自分を苦しめている価値観が、偽りの価値観である事を、見極めるのです。
そういった価値観というのは、誰かが誰かを支配するために、作られたものなのです。
相手から自由を奪い、不安を起こさせる事で、自分を有利にしようと考えた者が、作ったものなのです。

裏切られた、見捨てられた、無視された、恥をかかされた。
いろんな事で、深く心が傷つく事はあるでしょう。
それが何年経っても、心の奥底に棘のように、突き刺さったままのように、感じるかも知れません。
だけど、これにしたって、やはり支配者による価値観で、束縛されているのです。
そうでなければ、苦しむ事などありません。
誰かと上手く行かないのは、先に述べましたように、波長が合わない。
それだけの事です。
たとえ、それが家族であっても、親友であっても、先生であっても、関係ありません。
みんな一人の人間であり、それぞれの波長を持っているのです。
波長が合わなくなったのなら、離れるだけの事です。
相手がその事を、どう思うのかは関係ありません。
自分がどう受け止めるのかと、いう事だけです。

人間関係で上手く行かない経験があった時、その事で自信を失うのは、小学校の体育で、跳び箱が跳べなかった事を、大人になっても悔やみ続けているようなものです。
だから、何?
それが、どうしたの?
これで、いいのです。
大した問題ではありません。
その事であなたに同情する人は、同情する事で、無意識かも知れませんが、自分の立場を有利にしようとしているのです。
同情という言葉は、聞こえはいいのですが、相手を低く見る行為です。
それはつまり、自分の相対的な地位を、高める行為なのです。
共感はいいと思います。
でも、同情はするべきではありませんし、されるべきでもありません。
同情されると、自分の位置は低いものだと、無意識に受け止めるようになってしまいます。
その思いは心の奥にとどまり続け、どんなに状況がよくなっても、お前になんか価値はないんだぞと、囁き続けるのです。
同情されていなくても、世間一般のそういう考え方を、何の疑いもなく受け入れてしまうと、やはり同じ事になってしまいます。
世間が同情するような、境遇に陥ったとしても、自分を哀れんではいけません。
自分を哀れむ事は、自分は価値がないと、自分に呪いをかけているのと同じです。
哀れまないで、ただそこから立ち上がる事だけ、考えましょう。
そして、同じ境遇の人たちに、共感してあげて下さい。
ある価値観に縛られて、苦しんでいる時は、自分はハメられていると、受け止めましょう。
そして、その価値観に従う事が、どれだけ愚かで、馬鹿馬鹿しい事なのかを知るのです。
大切な事は、自然な人間の姿を考え、本来の自分がどういうものなのかを、理解する事です。
自然に咲く花たちは、自分がこうあるべきだなんて、考えていないと思いますよ。

世の中に存在するものに、無駄なものは一つもありません。
人間も宇宙の一部です。
どんな人間にも、存在するだけで価値があるのです。
本当に存在価値がないのであれば、初めから存在していません。
自分が存在しているという事は、それだけで不思議な事ですし、素晴らしい事なのです。
考えるのであれば、存在価値ではなく、存在する意味を考えるべきです。
わからなければ、追求すればいいのです。
自分が今、この時代に、今の家族に、この状況にあるというのは、必ず意味があるのです。
そして、その意味がわかるのは、自分だけなのです。
他の人にはわかりません。
わからない連中が何を言った所で、それこそ意味がありません。
わかっていない者たちの価値観など、放って置けばいいのです。
自分がどうして、この時代、この世界に生きる事を選んだのか。
それを探って欲しいと思います。