親子関係 その1

親と子、そのつながりは、とても強いものです。
それ故、他人と同じような人間関係は、なかなか構築できません。
友だちのような親子と、言われる人たちもいます。
だけど親も子も、本当の友だちとは、少し違います。
お互いの接し方には、相手への甘えがあります。
他の人では、許されないような言動も、親子では許されてしまいます。
もし、全く甘えがなければ、親子とは言えないかも知れません。
血はつながっていたとしても、相手を親や子と思えなければ、少し寂しく思うのではないでしょうか。

甘える姿は、他人には見せないものです。
その姿を見せるのは、相手に心を許しているという事です。
それは、相手が無条件に、自分を受け入れてくれているという、安心感でもあります。
そのため、自分のわがままを、何でも聞いてもらえるように、誤解してしまうのです。
こういう甘えは、たいてい子供が親に見せる甘えです。
こんな親子は一見、仲が良くて愛情たっぷりの、親子に見えるかも知れません。
しかし、何でもしてもらうのが、いつまでも当たり前のままでは、親に対する感謝の気持ちが、育ちにくいとも考えられます。
下手をすれば、親を小間使い程度に、見下す場合もあると思います。

親の役目は、愛する子供が、一人の人間として、自立して生きて行けるように、導いてやる事だと、私は考えています。
完全に突き放して、知らんふりをするのはいけませんが、何でもかんでもしてやるのも、間違っていると思います。
どんなに仲が良くても、親を敬愛する気持ちを、持てるように教えないといけません。
また、子供は何でもできるはずだと、子供を信じて見守ってやるだけの、度量も親には求められます。
そうは言っても、子供のやる事に口を出してしまうのは、親の常だと思います。
このままだと、どうなるかが見えてしまうと、どうしても言いたくなるのです。
かく言う私も、よく口出しをして、反発をされました。
でも今は、たとえ痛い目に遭うのがわかっていても、痛みを経験する事で、子供は成長するのだと、自分に言い聞かせています。
命に関わる事などであれば、意見を述べざるを得ません。
しかし、死ぬわけでないのであれば、あえて黙っているという、選択をするようにしています。
きっと子供はだめになると、諦めの目で見るのではありません。
落ち込んだ後に、もっと強く賢くなって、立ち上がるだろうと、期待を込めて見守るのです。
全ては本人の責任ですから、自由にする事は認めてやります。
しかし、親への甘えは認めません。
自分がやるべき事をやるからこそ、本当の自由が手に入るのです。

それは、仕事のことだけではありません。
家事の手伝いも、そうです。
一方的に、してもらうばかりでは、自立の妨げになってしまいます。
子供は親に対する甘えを、なくす努力をしないといけません。
親は子供を自分の一部、あるいは所有物のように思わず、一人の人間、人格を持った存在だと、認めるべきです。
子供には子供の人生があるわけで、自分の希望や価値観を、押しつけてはいけません。
若い頃に自分ができなかった事を、子供にさせたいと思う親もいるでしょう。
子供にさせてみるのは、構わないと思います。
でも、自分がやりたかったのであれば、今からでも自分がやればいいのです。
自分はもう年だからとか、今更そんな事などと、言うのはよくないです。
自分で自分を制限しては、人生を捨てるのと同じです。
上手にできるかどうかではありません。
楽しめるかどうかなのです。
自分がやりたかったと思うのであれば、今からでも自分でやるべきです。
それを子供に、押しつけてはなりません。
他人同士であれば、見せられる気遣いを、親子の間でも示す事ができれば、いいと思います。
さらに、他人とは違う大切さを、再確認するのがいいでしょう。

相手が亡くなった時に、初めて相手の大切さに気づくのは、愚かな事です。
生きている間に気づき、その想いを行動で示すべきなのです。
相手を大切に想っているのであれば、言われて動いたり、義務で動いたりするのではなく、自分の気持ちで動くでしょう。
自分が疲れていても、相手の体を気遣い、自分にできる事は何でもします。
そういう行動が示せる人たちは、家族の一員として、お互いに対等になります。
それでも親への敬愛や、子供への愛情は、なくなるものではありません。
そんな親子関係を、築くことができれば、とても幸せなことだと思います。
無添加住宅
今日、無添加住宅を売り物にしている、工務店さんからお話を聞くことができました。
無添加住宅って何?
そう思われた方は、多いと思います。
食品であれば、無添加と書かれると、防腐剤や着色料などの化学物質が、添加されていないのだと、わかります。
では、住宅の無添加とは何でしょうか。
それは全ての建材に、天然素材を使っているというものです。
一般的な家は、壁材は塩化ビニールの壁紙でできており、火事が起こると有毒ガスを発生しします。
火事で亡くなる方の大半は、焼け死ぬというより、この有毒ガスを吸って死ぬそうです。
また、この壁紙を貼り付ける接着剤は石油製品で、普通の状態で化学物質を、室内に放出しています。
最近の家は、機密性が高いため、室内に化学物質が、充満してしまいます。
それが原因で、シックハウス症候群という、体調不良になる方もいるのです。
実際、無添加住宅というのは、シックハウス症候群の方の悩みに、応えるために開発された住宅なのです。
無添加住宅では壁材として、昔から使われている漆喰を、採用しています。
漆喰の成分は石灰なので、火で熱しても燃えませんし、有毒ガスも発生しません。
それに壁紙を接着剤で、貼る必要がありませんから、シックハウス症候群を起こしません。
ドアや床などに使われる合板には、ベニヤ板を貼り合わせるため、多量の接着剤が使われています。
無添加住宅では、合板を使用しないので、ここでも化学物質の放出を防ぎます。
一般の家では、水こぼしなどの対策として、床板にはウレタンを、塗布されている事が多いそうです。
しかし、このウレタンも石油化学商品で、床暖房を入れたり、床の上にホットカーペットを敷いたりすると、化学物質が出て来ると言います。
無添加住宅ではウレタンは使用せず、代わりに米ぬかのような、天然素材のオイルを、使っているそうです。
これらは当然、化学物質を放出しません。
接着が必要な所には、米のりや、にかわを使います。
これらは食品から作られていますから、安全です。
防腐・防カビ対策には、人工の防腐剤や防カビ剤を使わず、柿渋を使います。
このように、徹底して化学物質を除いた家を、建てようと言うのが、無添加住宅の目的なのです。
健全な暮らしが欲しくて、食事に気をつけたり、自然に囲まれた所で暮らそうと、考えたりする人は、少なくないと思います。
それなのに、自分たちの拠点となる家が、化学物質で汚染されていたのでは、元も子もありません。
せっかくの苦労が台無しです。
今日はそんな大切な話を、聞かせてもらう事ができました。
しかし、自分の家を持てる人は、それほど多くはないでしょう。
特に若い人たちは、日々の暮らしに精一杯で、高額な家を購入するだけの余裕は、持てないのが現状だと思います。
ところがアパートなどの借家では、今のところ、無添加住宅は皆無のようです。
これでは、いくら無添加住宅の良さがわかったところで、どうしようもありません。
けれども、シックハウス症候群の人にとっては、命が懸かった問題なのです。
また塩化ビニールの壁紙や天井材を、漆喰に変えるだけで、火事による死者は、激減すると言います。
塩化ビニール材の使用禁止を、法律で禁止できればいいと思います。
でも、それよりもいいのは、住宅メーカーが自主的に、塩化ビニール材を使うのをやめることです。
住宅を提供する事は、家を購入する方に、最高の暮らしを提供する事だという、プロとしての誇りを、メーカーの方には持ってもらいたいと思います。
家が売れたら、その後、お客がどうなろうと、関係ないという姿勢は、許されません。
自分が購入した家の影響で、具合が悪くなったら、どうなのか。
これを基本にした建材選びを、して欲しいですね。
あなたは何がしたいのか
何がしたいかと聞かれて、すぐに答えられる人は、それほど多くはないかも知れません。
それは日々の暮らしに追われていて、何がしたいかを考える暇が、なかったからでしょう。
何かをしたいと考えたところで、どうせ叶わない夢だから。
そう考えて、やりたい事を諦めている人も、いると思います。
でも、改めて考えてみて下さい。
あなたは何がしたいですか?

大きな家に住み、高級車に乗ってみたいですか?
世界中を旅してみたい?
日本中の高級レストランを、食べ歩きたい?
若い人だったら、一日中ゲーム三昧でしょうか?
世界が驚くような、発見や発明がしたいと、思う人もいるでしょう。
株で大儲けしたい人も、いるでしょうね。
宇宙船に乗って、宇宙体験がしたいという人も、いると思います。
他にもいろいろあるでしょう。
挙げ始めたら、きりがありません。
では、次の質問です。
やりたい事があるのに、やらないのは何故ですか?

お金がないから?
資格がない?
もう若くないから?
どうせ無理に決まってるから?
でも、お金や資格や年齢に関係なく、好きな事をやっている人はいます。
その人たちは、特別なのでしょうか?
ある意味、特別と言えるかも知れませんね。
そういう人たちは、世間の人のような、決めつけた考え方を、持っていないからです。
自分がやりたい事があれば、まっしぐらにそちらへ進みます。
前に進めなくなれば、どうすれば進めるようになるかを考え、工夫をするだけです。
そのための努力は、惜しみませんし、他人の目も気にしません。
他の人は、そこまでしてやろうとは、思わないのでしょう。
上手く行かなかった時の事を考えれば、そんな勇気も湧いて来ないのだと思います。
でも、何か一つだけでも、他人の目も気にせずに、やってみたい事があれば、素敵な人生だと思いませんか?

それはまさに、本気の自分です。
本音の自分です。
そこには本当の自分の姿があるのです。
今の自分は、本当の自分の姿でしょうか?
違うのだとすれば、どこに本当の姿があるのでしょう?
どこにもないのだとすると、一生本当の姿を隠したまま、過ごすという事です。
そんな人生は、その人にとって、どんな意味があるのでしょうか?
自分がつまらないと思う仕事を、死ぬまでさせられると、想像してみて下さい。
自分の人生って、何なんだと思うのではないでしょうか?
別に今の仕事をつまらないと、思っているわけではないと、言う人もいるでしょう。
でも、そこに本当の自分の姿がないのであれば、つまらないと思わないように、努めているだけかも知れません。
そんな事は思ってはいけないし、今の仕事の上を目指す事が、自分の目標だ。
そんな風に、無意識に自分に、言い聞かせているのではないでしょうか。
今の仕事が楽しくて仕事がない。
この仕事は天職だ。
そう思える人はいいのですが、そう思えない人は、考えてみて欲しいのです。
どんな事であれば、全てを忘れて没頭するだろうかと。
それを見つける事は、人生を豊かにする事に、つながります。
どんなに働いて、お金を稼ぎ、自分の地位を上げたとしても、そこに本当の自分の姿がなければ、その人生は豊かとは言えません。
さらに言えば、自分の本当の姿を出しながら、その事で家族や周囲の人たちが、喜んでくれたなら、最高の人生だと言えるでしょう。
でも、まずは、自分が何をやりたいか、なのです。
年齢もお金も資格も、関係ありません。
一度も考えた事がない方は、ぜひ考えてみて下さい。
自然栽培2

人は理由もなく、病気になったりはしません。
病気になるには、それなりの原因があります。
そして、毎日体に取り込む食べ物も、その原因になり得るのです。
これまで世の中の人々は、普段の生活の流れを、当然のものとして受け止めていました。
時間に追われながら、収入を増やすために、機械のように働き続ける毎日。
食事や健康に、時間やお金を費やす、余裕もありません。
途中で倒れる人がいても、全て他人事で、自分とは関係がないと、決め込んでいました。
ところが、自分が病になると、途端に慌てふためき、嘆き悲しむのです。
しかし、世間の人にとっては、やはり他人事です。
世の中は、何事もなかったかのように、それまでと同じ事を、繰り返し続けるのです。
ところが、コロナ騒ぎで、事態は一変しました。
当たり前と思っていた事が、当たり前ではなくなったのです。
人々は病気と生活の、二つの不安を抱えながら、これからの事を、考えるようになったはずです。
今までは、いろいろ考える暇もありませんでしたが、じっくり考える機会を得たのです。
高齢者が増え、介護や入院などの心配を、強いられる世の中です。
人々の健康維持への関心は、どんどん高まっています。
そんな時に、信じていた世の中のシステムが、稼働しなくなったのです。
みんな、新しい価値観を求めようとしています。
そこに自然栽培という考え方が、いいタイミングで姿を見せてくれたのです。
自然栽培という考え方自体は、数十年前からありました。
しかし、初めは細々と挑戦する人が、いたぐらいです。
全国に普及するほどでは、ありませんでした。
それでも自然栽培は、時間をかけて徐々に、広がりを見せて来ました。
そして、今では全国に普及し始めており、存在感を増しています。
全ては自然栽培に携わる方たちの、努力と忍耐の賜でしょう。

今では、自然栽培の野菜を使った、レストランも増えて来ています。
そこで自然栽培の、野菜の美味しさを知った人は、家でもその野菜を食べたいと、思うようになるでしょう。
美味しいだけでなく、健康にもいいというのが、大きな魅力です。
今回のコロナ騒ぎの結果、地方で暮らす事を選ぶ人が、増えていると聞きます。
中には、田舎で農業を始めたいという人も、いるようです。
農業を始めたいと考える人は、農業に生き甲斐を求めています。
それは、農業で金儲けをしようと言うのではなく、農業を神聖な仕事と見ているからです。
彼らが自然栽培の価値を知れば、自然栽培というものが、さらに広がりを見せるでしょう。
今は自然栽培の人気は、ゆるやかな上昇のようですが、ここ数年でぐんと人気度が、アップする事は間違いありません。
それは食の話にとどまらず、水や空気にも広がるでしょう。
生活環境全てが、その質を問われるようになり、自然と人間の関係についての、理解が深まって行くでしょう。
そして、人間も自然の一部だと気づいた時、自然な人間の姿というものが、追い求められる事になると思います。
自然栽培1

今、食の世界で大きなうねりが、起きつつあるようです。
それは自然栽培というものです。
最近は健康志向が進み、農薬や化学肥料、除草剤を、極力使わない米や野菜・果物が、好まれるようになっています。
スーパーなどへ行くと、低農薬だとか無農薬、有機農法、栽培期間中は農薬や化学肥料の使用なし、などと説明された品が、目に留まります。
そうは言っても、そういう作物は値段が割高になっており、まだまだ大半は農薬や化学肥料を、使用した作物です。
経済的に大変な人たちは、どうしても安い方の品に、手を伸ばしてしまうでしょう。
しかし、農薬などを使った作物と、そうでない作物の違いがわかれば、少し考えると思います。
野菜の苦みやえぐみ、あくの強さなどが、本来の野菜の味だから、仕方がないと思っている人が、多いかも知れません。
子供の野菜嫌いも、そういう味のまずさが、一番の理由だと思います。
でも、農薬などを使わない野菜であれば、野菜嫌いのはずの子供たちが、美味しいと言って食べるのです。

私は、食べ比べて知りました。
同じはずの野菜が、農薬や化学肥料などを使っていないと、苦みやえぐみが感じられないのです。
農薬を使った野菜では、、明らかに薬臭いものもありました。
これでは子供が、野菜を嫌いになるのは、当たり前だと思いました。
健康にいいかどうかとは別に、自然に近い物の方が、味はいいのです。
それに薬臭い野菜は、食べ続けると病気になるだろうと、感じました。
ところで、自然栽培というものは、農薬や化学肥料を使用しないのは、もちろんの事、有機肥料も使いません。
元々その土地にある、本来の力を分けてもらって、作物を作るという理念です。
そうは言っても、初めからそこに植わっていない、作物の種や苗を植えても、簡単には育ちません。
そこに根付いて、上手く育つようになるには、それなりの工夫や努力、忍耐力が必要です。
そして、それができるのは、自然と共に暮らす事に、実感と喜びを持てる人だけなのです。
つまり、自然栽培の作物は、単に人工的な化学物質が含まれていない、というだけではないのです。
太陽と大地の恵みをもらって、作物本来の美味しさを、引き出せる事に加え、生産者の方々の想いが、エネルギーとして込められているのです。

今のところは、有機農法の作物ですら、まだ主流と言えない状況ではあります。
でも、有機農法のさらに上を行く、自然栽培の意味と価値を知る人が増えれば、店頭でも自然栽培の商品が、当たり前のように並ぶ事になると思います。
問題は、自然栽培を行う農家の数が、まだまだ少ない事と、商品の値段が割高という事でしょう。
しかし、自然栽培を全国に広げようと、活躍している人たちがいます。
その結果、若い世代を中心に、自然栽培を取り入れる農家が、徐々に増えて来ているようです。
値段についても、自然栽培の商品が、多量に安定的に供給されるようになれば、今より下がるとは思います。
ただ、それでも作物を作る手間を考えますと、現在流通している安い野菜などほど、安くなるかどうかはわかりません。
しかし、その価値を考えると、高く見える値段が、決して高くないと考える人が、増えて来ると思います。
要は、限られたお金を、どこに使うかという事なのです。
健康志向が高まれば、それまでジュースやお菓子に使っていたお金を、自然栽培の商品に回すでしょう。
そうなれば結果的に、出費は増えないわけです。
その理屈がわかれば、余計な物を買うのをやめて、自然栽培の作物を買う人が、増えると思います。
水素エネルギーの現状
水素自動車は、まだまだ普及しているとは言えません。
それでも、日本が力を入れている、水素エネルギーです。
どうなっているのかと調べてみると、2020年10月現在で、水素ステーションの数が、全国135ヶ所とありました。
そのほとんどが、東京、名古屋、大阪、福岡の四大都市に集中していました。
地方都市に、水素ステーションが普及するのは、まだまだ先のようです。
高速道路には水素ステーションは、設置されていないようなので、現時点で水素自動車は、遠出には向いていない状況です。
一方、電気自動車の充電スタンドは、全国に1万8千ヶ所設置されているようです。
水素ステーションとは、桁が違いますね。
私が暮らす愛媛でも、水素ステーションは見かけませんが、充電スタンドは所々で目にします。
充電スタンドは、高速道路にも設置されていて、急速充電をすると、30~60分で80%の充電ができると言います。
ちょっと買い物や食事をしている間に、充電ができるという事ですね。
現時点では電気自動車の方が、利用しやすさで軍配が上がるでしょう。
しかし、充電するための電気を、火力発電所で作っていたのでは、クリーンは見せかけになってしまいます。
それは水素についても同じです。
水素を作るための、水の電気分解に必要な電気は、クリーンエネルギーで作らなければなりません。
そうでなければ、水素を進める意味がありません。
四国の徳島県には、ガソリンスタンドのような水素ステーションはありませんが、トレーラーを改造した、移動式水素ステーションがあります。
ここでは太陽光発電による電気で、水素を作っています。
一日辺り、車五台分の水素を、製造できるそうです。
まだ水素自動車の数が少ないでしょうから、これでやって行けるのでしょう。
でも、多くの車が訪れるようになると、一日五台だけというわけには、行かないでしょうね。
そうなると過疎地などを利用した、太陽光発電や風力発電などによる水素製造所が、どんどん作られるようになると思います。
水素ステーションは今年度中に、160ヶ所ほどを設置する予定だそうです。
また2025年には320ヶ所、2030年には900ヶ所に増設するそうです。
それでも充電スタンドには及びませんから、水素自動車は都会を中心に広がり、地方は電気自動車の方が、普及して行くでしょう。
いずれにしても、これから 5~10年の間に、見かける自動車の様子が、今とは全然違うものになっているのは、間違いないと思います。
男性エネルギーと女性エネルギー 2

男性エネルギーと女性エネルギーは、表裏一体です。
であるならば、そのバランスを考えないといけません。
自分は男性でもなければ、女性でもない、中性だと言う人は、あまりいないと思います。
体の構造は別にして、ほとんどの人が、自分を男性か女性のどちらかに、考えているでしょう。
それは、その人の中で性エネルギーが、男性か女性のどちらかに、偏っているという事です。
これではエネルギー的に、バランスが取れているとは言えません。
しかし、現にそうなっているわけですから、どこかでバランスを取っているはずです。

個人の中でのエネルギーの偏りは、全体の中でバランスを取っているはずです。
たとえば、私は男性です。
と言う事は、私とバランスが取れる、女性エネルギーを持った人物が、どこかに必要だという事です。
そうでなければ、エネルギー全体の中で、バランスが取れません。
また、私とその人物は、エネルギー的につながりが、なければなりません。
もしかしたら、私とバランスを取れる人物は、一人ではなく、二人かも知れません。
あるいは、こう考える事もできます。
元々は、男性エネルギーと女性エネルギーが、均等にありました。
それがシャッフルされた後に、いくつかに分けられたのです。
いくつかというのは、10 かも知れませんし、100 かも知れません。
あるいは、1,000 でもいいでしょう。
とにかく、そうやって分けられたうちの一人が、私という存在なのです。
全部で 1,000 に、分けられていたとしましょう。
すると、残りの 999 の私の兄弟姉妹が、どこかに存在しているわけです。
こことは別の、並行宇宙かも知れません。
この世界の過去や、未来にいるかも知れません。
もしかしたら、現代のどこかかも知れません。
案外、すぐそばにいる可能性も、あるでしょう。
それらの全ての兄弟姉妹は、無意識を通じて、一つにつながっています。

私がこの世界を離れる時は、無意識にある本来の自分に戻ります。
その状態の私は、全ての兄弟姉妹の体験を、自分の体験として、受け止める事ができるでしょう。
その時、本来の自分は、様々な性の経験を持っていると、知る事になります。
そして、どの経験にも意味があり、重要だと理解するのです。
私たちは、今の自分の状況しかわかりません。
ですから、自分の性や、自分が置かれた状況に、不満を感じたり、思い悩む事もあるでしょう。
でも、全ての体験は同等であり、とても価値があるものです。
不満に思ったり、悩んだりするのは、その価値が理解できていないのです。
その理由は、世間にはびこる、無知から来る価値観です。
いわゆる世間の常識という考え方が、本当の理解の邪魔をしているのです。
常識に囚われずに、深く考えれば、必ずそこに意味を、見い出せるでしょう。
どうか苦しんだりせずに、自分の人生の意味を、探求して欲しいと思います。

ところで、どうして自分は、今の自分なのだろうと考える事が、あるのではないでしょうか。
私たちは、本来の自分の分身です。
本来の自分が持つ、性エネルギーがシャッフルされて、分かれたのが私たちです。
その分け方に、何らかの意図があるにしても、ないにしても、今の私たちの状態は、分けられた結果なのです。
どうして自分が、この自分なのかと考えても、仕方がありません。
この自分が、自分なのです。
他の状態の自分は、今の自分とは別の自分です。
言える事は、今の自分は本来の自分の、一つの分身だという事です。
そして、今の自分の経験は、本来の自分にとって、必要かつ重要な経験なのです。
しかし、自分の人生の何が、どのように必要とされているのかは、わかりにくいと思います。
一人一人違う存在ですから、個人的に学ぶ事も、違うはずです。
ただ、誰にも共通して言えるのは、多様性の価値を受け入れる事が重要、という事ではないでしょうか。
それは他人に対してもそうですし、自分自身に対しても、そうです。
一人一人が違うという事を、素直に受け入れる事が、大切だと思います。
一人一人の存在価値を認める事。
見た目や考え方が違っても、みんな同じなんだと理解する事。
多様性は不協和音ではなく、ハーモニーを創り出すという事。
こういう事の学びが、必要とされていると、一般的には言えるでしょう。
この世界は、男性的なエネルギーと、女性的なエネルギーで構成されています。
それは世界の多様性を生み、無限の可能性を表現しています。
無限の多様性があり、それら全部がハーモニーを奏でるのです。
想像しただけで、胸の中が一杯になりませんか。

人間に男がいて、女がいて、LGBTがいる。
それは、素晴らしい事なのです。
その事を理解するために、今のあなたの性があるのです。
男性エネルギーと女性エネルギー 1

世の中には、男性がいて女性がいます。
動物の世界でも、雄と雌がいます。
しかし、これらは体の構造上の事です。
人間の場合、肉体的な性と心の性が、不一致の方がいます。
それは人間だけの話かと思いきや、動物の世界でもあるようです。
私が見たのは、雄同士でカップルになった、ペンギンです。
互いに雄なので、卵を産む事ができません。
しかし、自分の子供が欲しいのでしょう。
他のカップルの間に、生まれた卵を盗むのです。
そして、その盗んだ卵を、自分たちの子供として、育てるのです。
それは、雄と雌のカップルがする事と、全く同じでした。
また、魚の中には、雄が雌になったり、雌が雄になったりと、同じ個体が性を変化させるものもいます。
カタツムリやミミズ、アメフラシなどの動物は、雌雄同体と言って、一つの個体の中に、雄の生殖器と雌の生殖器の、両方を持っています。
生き物を、雄か雌かで区別していては、どう判断すればいいのか、わからなくなってしまうでしょう。

性があるのは、植物でも同じです。
私たちが、よく見かける花の多くは、雄しべと雌しべがあります。
その雄しべの花粉が、雌しべに付着する事で、受粉して種や実をつけるのです。
一つの花の中に、雄しべと雌しべの両方がある花は、両性花と表現します。
雄しべしかない花と、雌しべしかない花に、分かれている場合、単性花と言います。
マツやイチョウの花は、単性花です。
マツは一つの木に、雄花と雌花の両方が咲きます。
イチョウは木によって、雄花しか咲かない木、雌花しか咲かない木があります。
自然界における性の表現は、様々です。
どれがよくて、どれが悪いという事はありません。
自然界における性を考えると、LGBTと呼ばれる人々の存在は、少しも不自然ではないように思えます。

LGBTの人々を変わり者として見る事は、いかに自分が自然を知らないかという事を、アピールしているのと同じです。
自分は男性だと認識している人の中にも、女性的な要素は存在します。
自分を女性だと認識している人も、同様です。
どの女性の中にも、男性的要素は存在するのです。
私はこれを男性エネルギー、女性エネルギーという見方をします。
人間をエネルギー体と考えれば、男性や女性という要素は、そのエネルギーの質だと説明ができます。
見た目の体の構造は、性エネルギーの一つの表現ではあります。
しかし、その人のエネルギー全体の質を、体の構造が代表しているとは、限らないのです。
男性エネルギーと女性エネルギーは、表裏一体のエネルギーです。
本来は同じエネルギーが、互いに違う方を、向いているだけなのです。
両者は常に対等であり、互いにバランスを取っています。
ですから、どちらが優れているという事は、言えません。
一般的な男性エネルギーの印象は、運動、力強さ、外へ向いた好奇心、でしょう。
一般的な女性エネルギーの印象は、安定、優しさ、内へ向いた好奇心、だと思います。
これは物理学で言われる、運動エネルギーと質量エネルギーに似ています。

質量を持つ事は、存在としての安定であり、内向きの力が働いています。
その内向きの力が、他の存在を引き寄せて、さらに大きな質量を生み出そうとします。
それが重力です。
相手を引き寄せようとする力は、内面的には優しさとして、映るでしょう。
安定を求めて、内向きに働く質量エネルギーは、まさに女性的です。
一方で、光などの質量を持たないエネルギーは、純粋な運動エネルギーです。
何かにぶつかって吸収されるまで、空間を飛び続けます。
安定の事など微塵も考えず、好奇心の導くままに、外へ向かって飛び続けるわけですね。
障害物があっても、避けたりしないで、ぶつかって行く力強さは、男性的と言えるでしょう。
つまり、この宇宙を構成しているエネルギーは、元々が男性的な一面と、女性的な一面があるという事なのです。
それはミクロの世界でも、マクロの世界でも、それなりの形で表現されます。
その表現の仕方にはいろいろあり、それが様々な形の、性表現となっているのでしょう。
人間社会でも自然の中でも、いろんな性の姿があります。
それは当たり前の事であり、どの姿も対等なのです。

どんな結果になろうとも

アメリカ大統領選挙は、まだ結論が出ないようです。
アメリカばかりでなく、日本でもトランプ氏が勝つのか、バイデン氏が勝つのかと、人々が大きな関心を寄せています。
その多くの人が、どちらが大統領になれば、日本に有利なのかとか、世界がどうなるのかと、そんな視点で見ているようです。
しかし、本当に大切な事は、誰が大統領になるかという事ではありません。
一人一人が自分の暮らしや世界について、どのように考えるかという事です。
日本に関して言えば、どちらが大統領になるかで、右往左往する事がおかしいのです。
残念ながら、今の日本という国は、アメリカに忠実な犬を演じる事で、世界情勢を生き抜こうと、決め込んでいるように見えます。
でも本音は、違うところにあるはずです。
本当は、他国の情勢に、左右されないのがいいのです。
経済的に逼迫する事があったとしても、一つの国として毅然とした態度を示し、世界を引っ張って行くような国で、ありたいはずです。
今の時代は、一人一人が自分の本音と向き合い、自分に正直に生きることを、求められています。
同様に、一つ一つの国も、自分たちの本音を確かめ、本音に正直に生きる事が、求められるでしょう。
人が本音で生きられなければ、病気になってしまうように、国も本音を表現できなければ、病んだ国になるでしょう。
ただし、その本音の中に、自分の国さえよければいいとか、敵とみなした国の滅亡を望むなどという、低俗で愚かなものがあったら大変です。
世界は争いだらけになり、最悪は第三次世界大戦へと、進む事になるかも知れません。
しかし、国の意識というものは、国民の全体意識でもあるわけです。
思考を放棄し、指導者のいいなりになっていれば、愚かな指導者が戦争を指示した時に、それに従わなければなりません。
何がよくて何が悪いのか、自分たちで考えて行動を取るならば、愚かな指導者のいいなりに、ならずに済むでしょう。
また、本当の指導者と呼べる人を、選ぶ事もできるのです。

大統領に就任したトランプ氏には、既存の理屈は通用しませんでした。
そのため、トランプ氏は様々なやり方、考え方を壊して来ました。
それによって、多くの批判が集まりましたが、トランプ大統領以前の国の在り方が、正しかったという事ではありません。
正しかったとすれば、トランプ大統領以前のアメリカは、平和な楽園だったはずです。
現実には貧困や差別、暴力や略奪などの問題が、はびこっていました。
トランプ氏の行動は、何かと波紋を呼びますが、彼が悪で、それまでが正義だったという事ではないのです。
本当の意味での正義など、存在していなかったと言えるでしょう。
バイデン氏が勝利して、以前のアメリカに戻そうとしたならば、それは必ず失敗するでしょう。
昔のアメリカに戻る事は、問題の解決にならないからです。
トランプ氏は、その突拍子もない言動で、様々な問題を人々に投げかけました。
本当にこれでいいのかと、強引に考えさせたのです。
それによって、それまでは黙っていた人でも、自分の考えを述べるようになったと思います。
傲慢で自分勝手で、何でも損得で考えるトランプ氏は、まさに資本主義の権化です。
体裁を考えて、きれい事を並べていた政治家とは、全然違います。
つまり、体裁やきれい事をなくした、資本主義の本当の姿を、見せてくれたわけです。
そうやって、本当にこれでいいのかと、問題を世界中の人々に、突きつけたのです。
アメリカの下僕になるのが嫌な国は、国の威厳を保つために、どうするべきかを考えたでしょう。
それは日本も同様で、口には出さなくても、将来的にアメリカに振り回されないような、国造りを考えていると思います。
また、損得だけで動くような国はだめだと、多くの人が考えたのではないでしょうか。
多くの日本国民は、日本国憲法の改正よりも、今何をすべきなのか、これからの日本はどうあるべきかを、考え始めるでしょう。
アメリカ大統領選挙に話を戻しますと、アメリカ国民もこれまで以上に、自分たちがどうあるべきなのかを、真剣に考えるよう迫られています。
そして、それこそがトランプ大統領の功績だと、私は思うのです。
今はバイデン氏の有利が、伝えられています。
それでも、トランプ氏が奇跡の逆転劇を、見せる可能性は残されています。
いずれにせよ、どうしてアメリカ国民の半分が、トランプ氏を推すのかという事を、トランプ氏を拒む人たちは、深く考える必要があるでしょう。
自分たちだけが正しいという考えは、大抵の場合、間違っています。

相手の立場を理解し、その言い分を全て聞いた上で、さらにいい方法を、ともに考えて行かなければなりません。
相手を否定してしまえば、それ以上の進歩は望めません。
一時的に自分たちが勝ったように見えたとしても、問題は炭火のようにくすぶり続けます。
そして、ある時に思いがけない大火となって、噴き出すでしょう。
資本主義経済は、何年も前から、その限界を露呈し始めていました。
この時期のトランプ氏の登場は、決して偶然ではありません。
そこに加えて、世界的な新型コロナ騒ぎです。
世界中の人々が、物理的・経済的・思想的に打ちのめされました。
これまでのやり方、考え方では、どうにもならないと、悟らざるを得なかったでしょう。
今は人類が思考や価値観を、変革する時期なのです。
これからどうなるのか、誰にもわかりません。
しかし少なくとも、これまでと同じ社会ではだめだというのが、多くの知識人たちの、共通した見解です。
とにかく大切な事は、どんな状況に置かれたとしても、一人一人が自分の生き方を貫く事だと思います。
多くの人が、争いを好むのであれば、世の中はぐちゃぐちゃになるでしょう。
しかし、どんなに気の荒い人であっても、争いだらけの世の中を、求めているわけがありません。
どんな人であっても、楽しく穏やかに暮らせる事を、望んでいるはずです。
そのためには、感謝と思いやりの気持ちが、欠かせません。
人々が感謝と思いやりに満ちていれば、争いなど起こりません。
国や地域の代表者も、自然とそういう人が選ばれるようになるでしょう。
誰が指導者になるかで、がらりと変わる世の中ではいけません。
世の中を動かすのは政治家ではなく、私たち一人一人の、市民であるべきなのです。
健康の意味
健康とは何でしょうか。
WHO憲章では、次のように定義されています。
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること。
この定義に基づけば、世界は不健康な人が、あふれていると言えますね。
肉体的に満たされているというのは、病気知らず怪我知らずの、体力に満ちた肉体を、持つという事でしょうか。

年老いて体力が落ちると、もう健康の範疇からは、外れてしまいますね。
子供や若い人でも、運動不足であったり、偏食で骨が弱かったりすると、やはり健康とは言えません。
スマホやパソコンのし過ぎで、目が悪くなったり、猫背になるのもだめですね。
もう、これだけで多くの人が、不健康ということになるでしょう。
さらに精神的あるいは社会的な要素を、考慮するとどうでしょうか。

今は学校でも職場でも、精神的に追い詰められている人は、少なくありません。
見た目は明るく元気だった人が、ある日突然、自ら命を絶ってしまう事も、よくあります。
災害やコロナ騒ぎなどで、仕事を失ってしまう人も、社会的に活躍できません。
何とか頑張って仕事をしている人も、社会的に満たされているのかと言うと、そんな事はありません。
世の中の大半の人が、収入が少なくて、四苦八苦しています。
ニュースなどで、一世帯の平均年収という表現をしますが、あれは数字のごまかしです。
極端に収入の多い人が、ほんの少しいるだけで、全体の平均収入値は、ぐんと上昇します。
普通の人たちの実際の収入は、平均年収よりも、遥かに少ないでしょう。
こう見ると、健康と言える人は、ほとんどいません。
WHOの定義を満たせる人物というのは、社会的に地位が高く、肉体を鍛え続けられるだけの、時間とお金があり、自分の状況にとても満足できる人でしょう。
WHOの定義が間違っているのか、世の中の仕組みが間違っているのか。
いずれにしても、世の中の人の大半は、不健康という事です。

人類全体を一つの存在として見ると、その構成要素である大半の人が、不健康なのですから、人類は不健康だと言う事ができるでしょう。
私が健康を定義するなら、次のようにします。
本来の力や可能性を、邪魔される事なく自然に発揮し、成長できる状態。
ちょっと抽象的な言い方になりますが、人の場合、人間らしく成長できる事が、人としての健康でしょう。
では、人間らしくとは何なのか。
それは人間を、どのような存在と、とらえるのかという話です。
私は、人間は愛と好奇心に満ちた知性体と、理解しています。
愛の欠如、押さえ込まれた好奇心、思考の放棄、これらは全て、人として不健康な状態です。
逆に言えば、これら三つの要素を、満たしているならば、その人は健康です。
見た目に、体が衰えていようとも、人として健康です。
社会的・経済的に、苦境にあるように見えても、その人は健康です。

人の本質は心です。
体ではありません。
心が苦しんでいる状態にあると、体は連動して調子が狂い、病気になります。
心が健全な状態にあれば、体は本来の調子を取り戻し、元気になります。
それでも人は、いつかはこの世を去る時が来ます。
それに合わせて、体の力が衰えるのは、病気ではありません。
自然な変化を、不健康と見るのは、間違いです。
仕事が上手く行かない、お金がない。
そんな状況において、人は不安になります。
不安になるという事は、将来の自分に、自信がないという事です。
それは言い換えれば、愛と好奇心と思考が、停止しているのです。
自分に自信がないのは、自分を信用していないわけです。
自分に対する愛に、欠けています。
また、落ち込む自分にばかり、目を向けているのは、周囲への愛に欠けています。
好奇心は困った時にこそ、その力を発揮します。
しかし、自信のなさが、好奇心の足を引っ張ってしまいます。
自分を信頼していれば、困った時には、こうなるでしょう。
うーん、困った、どうしよう。
そうだ、こうしてみよう!
これをやるのも、結構面白そうだぞ。

好奇心が動き出すと、それに連動して、思考が動き始めます。
どうせやるなら、楽しい方がいいな。
他の人も笑顔になると、やりがいがあるね。
こんな事、誰もやってないけど、だから面白そうだ。
考えているうちに、心がわくわくして来て、すぐにでも動き出したくなるでしょう。
不安なんて、どこへ行ったのかわかりません。
こんな人は、人として、最高に健康な状態にあると言えます。
そんな事言ったって、結局、だめだったら、どうすんだよ。
そんな風に、文句を言う人もいるでしょう。
だめだったら、別の道を探るだけです。
わくわくしている人に、行き止まりの道はありません。
だめだったらと考えるのは、自信がなくて、自分の将来を諦めている人だけです。
諦めるのは勝手です。
それは構わないのですが、自分の人生をこうだと決めつけて、面白くないままでいるのは、もったいないと思います。

じっとしていても楽しくないのであれば、動くしかありません。
どうせ動かないといけないのであれば、楽しく動けばいいのです。
他人の目なんか、気にする必要はありません。
とにかく、ひたすら楽しさを、追求すればいいのです。
だめかも知れないなんて、考えてはいけません。
心の赴くまま進んでいれば、必ず力を貸してくれる人が、現れます。
本当に懸命に打ち込んでいる人は、他の人の心を、惹きつけるものです。
それに、実際に行動を取ることで、離れた所にいる人にも、自分の存在を知らせることができます。
近くに支援してくれる人がいなくても、離れた所にいる人が、手を差し伸べてくれるでしょう。
多くの人が、愛と好奇心と知性を、発揮している世の中を、想像してみて下さい。
それは幸せの世界と、表現できると思いませんか。
そんな世界を構築できる時、人類は健康だと言えるのです。