幸せですか その2
本当に幸せな人は、自分に与えられた人生を満喫しています。
と言っても、大金持ちで何でも望んだことができる、という意味ではありません。
いくらお金がたくさんあっても、不幸せな人はたくさんいます。
幸せであることに、お金は関係ありません。
お金がなくても幸せな人もいますし、大金持ちで幸せな人もいます。
お金がなくて幸せな人は、貧乏なのではなく、お金を必要としていないのです。
大金持ちで幸せな人は、お金の本当の使い方を知っています。
幸せな人は、自分というものをよく知っていて、自分が自分であるためには、どうすればいいのかを理解しています。
また、自分一人で生きているとは、思っていません。
たとえ一人で活動していたとしても、その背後で多くの人が、助けてくれていることを、知っています。
自分に価値があるかどうかなんて、考えもしません。
考えるのは、何をして楽しもうか、ということだけです。
誰かの基準で生きたりしません。
自分がどう生きるかは、自分で決めます。
周りに流されることなく、自分がありたいような生き方を選びます。
望まないことや、嫌な場所に縛られることなく、自由に生きています。
幸せになることを、先延ばしにしません。
常に、今この瞬間を幸せであろうとします。
他人を羨んだり、他人の目を気にしたり、他人をけなしたりしません。
他人のことなど気にせずに、自分が自分であることに集中します。
世の中で、これが幸せだと言われるようなことになど、まるで関心を持ちません。
そんな人こそが、本当の幸せの中にいるのです。
幸せですか その1
人は幸せを望み、求めます。
あなた今、幸せですか。
幸せですと、即答できる人は、どのくらいいるのでしょうか。
まあまあ幸せとか、そこそこ幸せという人は、それなりにいるでしょう。
でも裏を返せば、本当には幸せではありませんと、述べているわけです。
何故でしょうか。
それは幸せを求める前に、まず生きなければならないからです。
生きるためにお金を稼がなくてはなりません。
お金を稼ぐために、勉強をしなければなりません。
幸せを手に入れるのは、その先です。
でも、がんばって勉強をして、お金を稼いでも、安心できるまでには、まだまだ足らないと、とにかく働くことに多くのことを費やしてしまいます。
そうやっているうちに年老いてしまったり、大きな病気や怪我になったりで、結局は幸せに手が届かずじまいになる、という人は少なくないでしょう。
また、やっと手に入れたと思っていたはずの幸せが、思いがけず奪われてしまって、絶望してしまう人もいるでしょう。
それほどまでに、みんなが思い描く幸せとは、手に入りにくいし、手に入れても、いつ逃げるかわかりません。
それが人生なんだと、悟ったようなあきらめを、感じてしまうかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか。
もしかしたら、みんなが追いかけている幸せとは、絵に描いた餅のようなものであって、本当の幸せではないのかもしれません。
本物でなければ、いくら追い求めたところで、手に入れることはできません。
手に入れたつもりでも、本当の喜びを得ることはできません。
では、本当の幸せとは、どのようなものでしょうか。
それは、実際に幸せな暮らしをしている人を、よく観察すればわかります。
類は友を呼ぶ その1
類は友を呼ぶとは、似たような者たちが、お互いに引き寄せ合うようにして、集まるということです。
周囲の人々を眺めると、確かにそんな傾向があるように思えます。
子供のうちは、みんなと仲よくとか、みんな友だちなんて、親や先生に言われるでしょう。
でも、実際はそうはなりません。
どうしても、気が合う者同士が集まってしまいますし、気が合わない者に対して、攻撃的になったり、無視したりすることもあるでしょう。
特に、不満をたくさん抱えている人たちは、他の者たちに対して、腹を立てることが多いでしょうし、そういう人たちを、鬱憤を晴らすのに利用するかもしれません。
楽しくしている人たちは、その楽しさを邪魔されない限り、他の人を攻撃することはないと思います。
いらいらしている人たちは、お互いに対してもいらいらし合って、いさかいを起こすこともあります。
こういう場合の、類は友を呼ぶというのは、あんまり好ましいとは言えませんね。
いずれにしても、類は友を呼ぶというのは、似たような波長の人たちが、集まるということです。
自分がどういう人たちと付き合っているのかを見れば、自分がどんな波長を持っているのかが、よくわかります。
あるいは、どんな人たちに憧れるのか、ということでも、自分の波長がわかります。
しかし、自分が求めるものが変わって来ると、当然波長も変わります。
その結果、それまで馴染んでいたはずの人たちに、違和感を覚えるようになります。
そこに、いいも悪いもありません。
波長が変われば、新たな波長で気が合う人を探すだけです。
それは自分にとって、居心地のいいことですから、自然な行動です。
そんな感じで、新たな仲間の下へ集まるわけですが、これも類は友を呼ぶですね。
でも、気が合う人が近くにいなければ、そこへ行くことができません。
本当はそんな人が近くにいても、気がつかなければ、やはり顔を合わせることができません。
それは相手の人にとっても、残念なことでしょう。
という事は、自分はこんな人間なんだと、誰からもわかるようにすることが、大切だということなのです。
類は友を呼ぶ その2
類は友を呼ぶのように、自分の周りにも、気が合う者が集まってくればいいのに、と多くの人が思うのではないでしょうか。
でも、実際には誰も来てくれず、気が合わない人たちと、無理して付き合っているか、あるいはずっと一人のまま、という場合が大半ではないかと思います。
では、どうすれば気が合う人たちと、出逢えることができるのでしょうか。
それは、自分が何に興味を持ち、どんな人間であるのかを、隠さないでさらけ出すことです。
また、本当に興味を持つことに、夢中になることです。
中途半端に興味を持っていたのでは、自分の魅力になりません。
本当にこれが好きなんだという姿が、他の人を感心させ、似たような人を引き寄せるのです。
だから、心を許せる仲間が欲しいと思うなら、何かに懸命に打ち込むことです。
でも、無理に打ち込んだのでは、疲れるばかりで、魅力にはなりません。
本当に好きなことに、打ち込むのでなければだめです。
つまり、本当の自分であること、本当の自分らしさを出すこと、本当の自分の望みを追求すること、それが大切なのです。
そんな人の姿は、興味の分野が違う者から見ても、とても魅力的に見えるものです。
興味の対象だけでなく、物事に取り組む姿勢も、類は友を呼ぶことにつながるのですね。
要するに、自分の好きなことに打ち込んで、楽しい人生を送る人ほど、本当に心を許せる人が、集まって来るということです。
作業か創造か その2
単純な作業なのに、それをどうすれば創造的なものにできるのか。
それは自分に対するプライドです。
雑なことはしないという誇りです。
職人になったつもりで、一つ一つをきちんと仕上げることを、心がけるのです。
また、そうすることで喜んでくれる人が、必ずいるということを、理解しなくてはいけません。
それは自分を雇っている経営者ではありません。
顔を見ることがない、お客です。
自分がお客の立場になった時、自分が購入した品物や、利用するサービスが気に入れば、嬉しくなるでしょう。
でも、それらの品やサービズを、誰が手がけてくれたなんて、思いをはせることはありません。
考えたところで、それが誰かなんて、わからないものです。
それでも、その人は喜んでくれるわけですし、いつかはそれを創ってくれた人が、いるのだと理解する時が来るでしょう。
そんなお客を思い浮かべて、一つ一つの仕事をこなすように心がければ、仕事がつまらないなんて思うことはありません。
つまらないと思うのは、その仕事の価値がわかっていないということですから。
また、誰かのことを思って仕事をするのは、思いやりです。
思いやりの気持ちがあれば、新しい商品やサービスの開発にもつながります。
押しつけではなく、相手の目線に立った、本当にいいものを創ることができるのです。
日常の暮らしの中で、やらなければならないことは、たくさんあります。
それらを、ただ機械のようにやっていると、面倒臭くなってしまいます。
でも、自分が生きていることへの、感謝の気持ちがあれば、そうではなくなります。
生きていることに感謝をし、自分が生きるための力になってくれる人への、感謝の気持ちがあれば、面倒臭いなんて思いません。
生きていることが有り難いのであれば、食事ができるのも有り難いですし、買い物ができることも有り難く思うでしょう。
誰かに声をかけてもらえるのも有り難いし、ただ歩いているだけでも有り難いのです。
感謝の対象が人間だけでなく、他の生き物や自然に対しても、できるようになれば、もっともっと嬉しい気持ちになって、何をしても有り難く思うでしょう。
感謝する時は、嬉しい気持ちになっています。
何にでも感謝できれば、いつでも嬉しい気持ちでいられるのです。
そうすれば、日々の暮らしの活動も、それができることが嬉しくなります。
面倒臭いなんて思いません。
また、嬉しい気持ちでいる時は、創造力を発揮しやすくなります。
ちょっとした工夫をすることで、部屋の雰囲気が変わったり、作業の効率がよくなったりすると、これがまた嬉しくなるんですね。
そして、一つ一つのことが、全て自分が創造しているのだと、気がつくのです。
つまり、自分の人生は自分が築いているのだと、知るようになるのです。
何も考えずに、ただ同じことを繰り返していたのでは、こんな風にはなりません。
その中に自分なりの喜びを見つける。
それが創造というものであり、人生を豊かにしてくれるものなのです。
作業か創造か その1
あなたが今していることは、楽しいですか。
楽しくはないけれど、仕事だからやっている。
毎日やらなければならないことだから、楽しくてしているわけではない。
こんな感じで、日々を暮らしている人は少なくありません。
自分が好きでやっていることや、何かの発見があるようなことならば、とても楽しいでしょう。
時間が経つのも忘れて、夢中になると思います。
両者の違いは、すぐにわかると思いますが、好きでしているのか、そうでないのか、という点です。
毎日を楽しく過ごしたければ、好きなことばかりをしていればいいのです。
嫌だと思うなら、しなければいいんですね。
でも、そうなるとどうなるか。
仕事を辞めたら、収入がなくなって生活ができなくなる。
買い物も食事の用意も後片付けも、全部面倒くさいからやらないとなれば、生きてはいけませんね。
好きでやっているわけじゃないけど、やらなければ暮らしていけないから、やるしかない。
結果として、楽しくない日ばかりになるのは仕方がない。
だけど、ちょっと待って下さい。
今の仕事が本当に嫌ならば、自分が気に入る仕事を探すべきでしょう。
そのために何かが必要であるならば、それを用意すればいいのです。
自分にはこんな仕事しかできないと、初めからあきらめていたのでは、お話になりません。
自分を低く見ないで、自分が本当にやりたいことに向かって、一歩でも進んだ方がいいと思います。
そこまで仕事が嫌じゃないけれど、それでも楽しいわけではない。
こんな人は、仕事に対する見方を変えてみるといいでしょう。
好きでないのなら、好きになれるようにすればいいんです。
そもそも、どうして仕事が楽しくないのか。
それは仕事をただの作業と見ているからです。
そうではなく、これは創造なんだと思って下さい。
昨日も今日も同じに見えるかもしれません。
でも、決して同じことなんかないのです。
一つ一つが全て違います。
人間もそうですし、やっていることや出来事も、みんなそうです。
同じものなど、一つもありません。
病院を受診する患者が一人一人違うように、買い物に来る客が一人一人違うように、一見同じことを繰り返しているように見える仕事も、一つ一つは違うのです。
その一つ一つを自分なりに丁寧に仕上げるようにすると、仕事はとてもやりがいがあって、楽しいものとなるはずです。
そうすれば、毎日が楽しくなるでしょう。
少ない友だち その3
人間は自分が好きなようにしたいものです。
でも、他の人と一緒にいると、その人に合わせようとすることがあるでしょう。
それは相手を思いやってのことなのですが、それが続くと、しんどくなってしまいます。
ましてや、気遣うべき相手がたくさんいると、とても自分を楽しむどころではなくなります。
友だちの数が多いと思う人はいるでしょうが、本当にたくさんの友だちがいて、それぞれの相手をしなくてはならなくなると、これは大変なことだと思います。
初めは憧れて入ったはずのグループで、いつもみんなに合わせて動いたり、その中のリーダーらしき人の意見に、合わせなければならない、という苦悩を経験する人は少なくないでしょう。
こんなはずではと思っても、後の祭りです。
グループから抜けたいと思っても、それを言うのが怖くて言い出せません。
こんなことなら、友だちなんかいない方がいいと思うでしょう。
でも、そのグループにいる人たちは、本当の友だちではないのです。
友だちもいいのですが、まずは、自分が自分でいることです。
自分が好きなように行動し、望んだように暮らせることが基本です。
これができなければ、今付き合っている人は、本当の友だちとは言えません。
自分が自由にしていたい、ということは、相手だって、それを望むわけです。
それがわかっている人は、さりげない気遣いを見せてくれます。
いて欲しい時にいてくれますが、一人にしておいて欲しい時には、邪魔をしません。
一人で行動したからと言って、怒ったりはしませんから、友人関係が壊れることはありません。
でも、そんな友人ができるためには、自分自身も同じような考え方を、持っていないといけません。
自由を愛し、相手を気遣える。
そんな人にだけ、同じような友人ができるのです。
少ない友だち その2
友だちが欲しいけれど、本当に自分には、友だちと呼べる人がいないと思うなら、その理由を考えてみるといいでしょう。
もし部屋に籠もったきり、誰にも会わなければ、友だちなんかできません。
人と出会う機会があって初めて、誰かと友人関係を築けるのです。
外へ出ても、他の人との間に壁を作ってしまうと、やはり友だちはできません。
外に出ていても、部屋に籠もっているのと、同じだからです。
とにかく、人との交流を拒んでいたのでは、向こうから友だちがやって来ることはありません。
人との交流に引け目を感じる場合、そこには必ず理由があります。
その理由を自分で見つけ、その理由を大切にするべきか、乗り越えるべきなのかを、自分で決める必要があります。
話が合わない人たちの中に、無理やり入り込んで、友だちになろうとしても、それは無理です。
自分と波長が合わない人たちとは、本当の友だちになることはできません。
それを無理に合わせようとすると、具合が悪くなってしまいます。
この場合、自分の波長を維持するというのは、守るべき大切な理由です。
こんな人は、自分の波長に合う仲間を探せばいいのです。
そうすれば、無理をすることがありませんから、交流を恐れる必要もなくなります。
何でもかんでも、みんなに合わせることはないのです。
本当に混じりたい人たちがいるのに、自分に自信がないから、そこへ入って行く勇気がない。
この場合は、ぜひ乗り越えてもらいたいですね。
本当に自信がある人なんて、そういるものではありません。
平気な顔をしている人でも、自信なんかないのです。
それを、自分ばかりが何もできない魅力のない人間だと、勝手に思い込むところに問題があります。
自分に自信がない理由を挙げろと言われると、いくつでも並べることはできるでしょう。
でも、そんなのは他の人だってできることです。
つまり、同じなのですね。
それで、自信がないはずの他の人が、平気な顔で集まっているならば、自分だって同じように、平気な顔をしてそこへ入っても、何も問題は起きません。
もしもそこで嫌な想いをすることがあるならば、その集団は自分とは波長が合わない人たちだった、というだけのことです。
それ以上の意味はありません。
波長が合わなければ、波長が合う人たちの所へ、行けばいいのです。
とにかく、誰にも遠慮することなく、自分の好きなように生きればいいのです。
それが基本です。
そうして、自分とはこんな人間なんだと、みんなに示していると、その波長に引き寄せられて、同じ波長を持つ人たちと出会うのです。
そうすれば、本当の友だちができるのですね。
じっとしていても、どうにもなりません。
自分が自分らしく活動する。
そうすれば、友人は自然にできることでしょう。
少ない友だち その1
友だちっていいですよね。
でも、大人になってからも続いている、心の通った友人関係というのは、それほど多くはないと思います。
一口に友だちと言っても、いろいろです。
ちょっと顔と名前を知っているだけのこともあれば、何でも相談し合える大親友もいます。
大概は、その両者の間に入るような人たちで、そこそこ親しい人もいれば、結構親しい人もいます。
若い人で友だちの数を競う人がいるようですが、そんな人は少しでも知り合えば、全部友だちとして勘定するのでしょうね。
そんな人を見て、自分はそれほど友だちと言える人がいないと、自信をなくす人もいるかもしれません。
同じ教室や、同じ職場で、ある人の周りには多くの人が集まるのに、自分の周りには誰も集まって来ないので、寂しく思う人もいるでしょう。
でも、本当のところは、どうでしょうか。
友だちのように見える人たちの、どれだけの人が本当の友だちと呼べるのかは、本人でなければわかりません。
見た目の数は、全く当てにならないものです。
友だちという言葉の定義を、どのように決めるのかで、友だちの数は変わります。
本当の親友だけを友だちとするならば、ほとんどゼロの人が、たくさんいるのではないでしょうか。
親友とまでは言わないけれど、結構親しくしているという人を、友だちとして数えても、それでも友だちがたくさんいるという人は、それほどいないと思います。
逆に、普段は付き合う人がほとんどいなくても、本当に心のつながった人がいて、年に一度ぐらいは連絡を取り合っている、というのであれば、その人は友だちだと思います。
友だちというのは、数の問題ではありませんし、顔を合わせる回数の問題でもありません。
心がつながっていて、本当に必要な時に手を差し伸べてくれたり、誰も言わないような意見を述べてくれたり、喜びや悲しみを分かち合ってくれる人こそが、本当の友だちです。
たった一人でもそんな人がいるならば、自分は友だちがいないと嘆く必要はありません。
どんなにたくさんの友人に囲まれているようでも、本当の友だちは一人もいない、という人はいるでしょう。
他の人と自分を見比べて、どうこういう話ではないのです。
レッテルを貼るな その6
人は死ぬとどうなるのでしょうか。
無になってしまって、その存在は消え失せてしまう。
これはレッテルです。
死んだら魂になって、あの世へ行く。
これもレッテルです。
実際、どうなのかを自分で確かめていない限り、こうだと決めつけるのは、全てがレッテルを貼ることです。
死んだら無に帰するのか。
魂になってあの世へ行くのか。
あるいは、他の状態があるのか。
これらは全て推測であり、絶対にこうだと言えることではありません。
人間の思考が進み、今以上に世界を知る方法が発達したならば、これらのことが推測ではなく、事実だと理解できるようになるでしょう。
でも今の段階では、どれも推測の域を出ていません。
とは言っても、個人的に臨死体験や体外離脱体験などをして、死んでも終わりではない、心は脳を離れて存在する、と認めたならば、それはその人にとっては真実です。
しかしながら、同じ経験をしたことがない人にとっては、真実ではなく推測になります。
死んだら、その先はどうなるのだろう。
本気でこう考えたなら、決して死に対してレッテルを貼りません。
レッテルを貼ってしまうと、それが結論となって、先へは進めないからです。
人はいつか死にます。
人に限らず、生き物と呼ばれる存在は、いつかかならず死を迎えます。
この地球がなくなってしまえば、そこで暮らすものは、全てがその物質的存在を失ってしまうのです。
何者も死から逃れることはできません。
その死がどのようなものなのか。
人は日常の暮らしに埋没することで、この重要な出来事から目を背けてしまいがちです。
でも、その時はひたひたと近づいて来て、いつか目の前に現れるのです。
その時になって慌てたところで、どうにもなりません。
死が何なのかを理解することもできないまま、死に呑み込まれるのです。
死は普段から考えることではない、というのも、死に対するレッテルです。
死は重要なものではない、というレッテルです。
そのレッテルを貼ることで、死についての思考は停止し、自分が死に直面するまで、死を思い浮かべることがありません。
しかし、死を理解しようとする人は、いかなるレッテルも貼らず、いろいろ調べ、自分で考え、自分なりの答えを求めようとします。
その先には必ずや、他の人とは異なる世界が開けることでしょう。
先が見えない険しい山道を、懸命に登っている時に、突然目の前に明るく広い場所が、現れるようなものです。
そうして、自分が登って来た道は、この場所へ誘うものだったのだと知るのです。
つまり、自分がこれまで生きて来た道の意味が、理解できるということです。
死にレッテルを貼ることは、生にレッテル貼ることにもなります。
人生なんてこんなものさ、というレッテルです。
知らず知らずにそんなレッテル貼ってしまうことで、多くの人が自分の可能性を、封印しています。
誰かがレッテルを貼ったとしても、真似をすることなく、常に探究心を持ち続けて下さい。
それは人生の喜びへと、あなたを導いてくれるでしょう。