夢の解釈 その4

夢で見た事が、本当に起これば、それは正夢だったという事になります。
でも、実際にそれが起こるまでは、それが正夢だったのかどうかは、わかりません。
たとえば、宝くじを買って、一億円が当たる夢を見たとします。
それで、急いで宝くじを買いに行っても、当たるとは限りません。
夢を見ている時には、それが正夢だとはわかりませんし、目覚めた後でも、わかりません。
正夢かどうかは結果論であって、あとになってみないと、わからないのです。
ただ、正夢と思われるような出来事が、実際にあるから、正夢という言葉が、生まれたのだと思います。
それを偶然という言葉で、片づける事は簡単です。
でも、偶然だという証拠は、どこにもありません。
偶然という言葉は、説明するのが困難な時に、都合良く用いられる言葉です。
そもそも偶然というものが、本当にあると言えるのかと、いう事でもあります。

物理学者は、宇宙の全てを説明できる、法則を見つけようとしています。
数学者も、宇宙の全てを表現できる、数式を求めているでしょう。
それは、そういうものがあると、信じているからです。
そのような法則、数式があるのだとすれば、偶然というものは、存在しない事になります。
そして恐らく、それは正しいのだと、私は思います。
偶然がないのであれば、夢に見た事が、現実に起こる現象を、どうやって説明できるでしょうか。
私たちの通常の意識では、未来を見透す事はできません。
一瞬の後の事も、察知できないのです。
しかし、無意識の領域においては、未来の出来事を、知る事ができるのでしょう。
その情報が夢として、表現されたものが、正夢なのです。
では、どうして無意識は未来の事が、わかるのでしょうか。
私たちは、一瞬一瞬の事しか、認知できません。
でも、無意識は一瞬一瞬の全てを、全体的に認知できるのでしょう。

私たちの意識は、表面的な意識、潜在意識、無意識という風に、分類されます。
これらの意識は、常に重なって存在しています。
表面的な意識は、一つの肉体に焦点を合わせた意識です。
肉体が眠ってしまうと、この意識も休止状態になります。
覚醒時は表面的な意識の活動で、潜在意識や無意識の活動は、分かりにくくなっています。
昼間に太陽が出ていると、月や星が見えにくくなるのと同じです。
太陽が沈むと、それまで見えなかった星々や月が、夜空に光輝き始めます。
意識についても同じで、表面的な意識が活動を止めると、潜在意識や無意識が、その人の意識の中心を占めるようになります。
つまり、私たちは眠る間に、意識を失っているのではなく、別の意識に変容していると言えるでしょう。
表面的な意識が、一瞬一瞬に焦点を合わせる意識であるのに対し、無意識は全ての瞬間を、把握できる意識なのかも知れません。
人の意識が睡眠中に、無意識として活動しているのだとすれば、私たちは睡眠中には、何でも知っているわけです。
ただ、目が覚めると、元の一瞬しかわからない意識が、意識の中心となります。
この意識は、無意識の情報を、そのままでは理解できませんから、何もわからない状態です。

自分が進む道の先に、恐ろしい獣が待っていたとしましょう。
通常の意識は何も知らずに、そのまま突き進みます。
でも、無意識の自分は、その先が危険である事を、知っています。
それを忘れては大変なので、夢を通じて、何とか無意識の情報を、表面的な意識に残そうとするのです。
つまり、正夢や予知夢というものは、重要と思われる未来の情報を、無意識から表面的な意識に、伝えようとするものなのだと思います。
他の夢同様、正夢を見ていたとしても、目が覚めた時に、覚えていない事もあるでしょう。
でも、危険が迫っている時に、何だか気分が落ち着かないとか、不安な気持ちになるという事が、あるかも知れません。
嫌な予感とか、虫の知らせとかいうものは、こういう事ではないかと思うのです。
夢は覚えていないけれど、無意識で察知した事が、何となく伝わっているという事でしょう。
未来を察知する夢で、似たようなものに、霊夢と呼ばれるものがあります。
辞書によると、神仏のお告げがある不思議な夢と、説明されています。
夢の中に、仙人のような人が現れて、身の危険を知らせるというものです。

これも自分の無意識が創った、イメージの可能性はあります。
でも、他の誰かの意識から伝わった、テレパシーが映像化されたものかも知れません。
夢の中で、忠告してくれた人物が、既に亡くなっている親戚だった、という話もあります。
それは亡くなっても、意識が残っているという意味です。
また、亡くなった人とも交流ができる、という事でもあります。
悪夢にしても、正夢や霊夢にしても、そこから意識の構造や、世界の本当の姿というものを、イメージする事ができます。
それは、とても意義のある事では、ないでしょうか。
幽霊や UFO の話と同じですが、不思議な話だというだけで終わるのは、とてももったい事です。
どうして、こうなるのだろうと考える事で、世界の姿が見えて来ます。
そこでの自分の立ち位置も、わかって来ます。
それは世界について、間違った考え方を、訂正する力になるでしょう。
自分がどのように生きるのか、という事を考え直す、きっかけにもなります。
いい夢でも悪い夢でも、夢について深く考えてみませんか。
夢の解釈 その3

潜在意識には、日頃の悩みや、過去の辛い記憶などが、渦を巻いていると、イメージして下さい。
一方で、問題に対して、どのように対処するかを伝える、無意識からのメッセージも、潜在意識へ降りて来ています。
このように潜在意識は、表面的な意識と無意識との間の、架け橋になっているのです。
普段から表面的な意識と、無意識とのやり取りが、スムーズに行われているのならば、何も問題はありません。
悩みや辛い事があっても、無意識に従って対応しますから、潜在意識の領域には、もやもやしたものが残りません。
しかし、目の前の世界に、意識を集中していると、無意識からのメッセージを、無視する形になってしまいます。
その結果、悩みや辛い事は解決されないまま、その思いだけが潜在意識の中に、漂い続けるのです。

それは悪夢となって、存在をアピールしたり、日常生活の中で、突然の不安やパニックとなって、暴走を始めたりします。
自動車を運転している時に、いきなり横から、ハンドルを操作されるようなものです。
また、無意識から送られたメッセージも、行き場を失って、潜在意識の中を漂い続けます。
本当の自分の気持ち、自分の在り方というものは、無意識から伝わって来ているものです。
それを無視している人は、日常の暮らしの中で、自分にかなりの負担を、強いていると思われます。
無意識からのメッセージも、自分の存在をアピールしようとします。
その結果、それが夢に現れたり、心や体の不調を感じるようになるのです。

潜在意識に溜まった思いは、夢となって現れます。
ですから、必ずしも全ての夢が、無意識からのメッセージであるとは、限りません。
その日に経験した楽しい事や、悲しい事などの気持ちが、余韻として潜在意識に残っていて、それが夢の形を取る事も、考えられます。
この場合、どうしてそんな夢を見たのか、自分でも想像がつくと思います。
特にメッセージ性もなく、特別不安になるわけでなければ、それでおしまいです。
潜在意識に漂うネガティブな思いが、夢となって表れる時は、不安で一杯になるでしょう。
でも、それに絡んだ無意識からのメッセージも、夢に込められるかも知れません。
しかし、あまりにも強烈な、ネガティブな思いであれば、不安や恐怖のイメージばかりが、強調されてしまいます。
そのせいで、無意識からのメッセージにまで、思いが至らない事も考えられます。
この場合、同じような嫌な夢を、何度も繰り返し見るでしょう。
そんな時は、とにかく気持ちを落ち着かせて、冷静になる事です。

無意識は問題と同時に、答えも認識します。
つまり、問題がある以上、答は必ずあるのです。
無意識からのメッセージが、伝わっていなくても、自分でそれを読み解けばいいのです。
悪夢の原因と思われる、ネガティブな思いを認識しているのなら、その理由を探ります。
自分の中のネガティブな思いを、認識できていなければ、それは潜在意識の中に隠れています。
そんな人は、これまでの人生を振り返りましょう。
まずは隠れたネガティブな思いを、見つけなければなりません。
自分が辛かった経験や、嫌な思い出がなかったか、過去を探って行くのです。
その時の辛い気持ちが、解決されていないまま、心の奥底に押し込められているはずです。
そのネガティブな思いを見つけたら、表に解放してあげるのです。

本当は辛いのに、笑っている事ってありますよね。
他人を責めながら、本音ではそんな自分自身を、責めている事もあると思います。
他人にひどい事をするのは、愛情を求めているだけかも知れません。
みんなにちやほやされても、孤独を感じる事だってあるのです。
このように、表面的な行動と心の内面の間に、ギャップが存在する事があります。
でも、そのギャップに気づいていない人も、案外少なくないのかも知れません。
笑っていても、心の底から楽しいわけでなければ、その理由を探りましょう。
自分は幸せだ、人生は素晴らしい、と言い切れる人は、問題ありません。
言い切れない人は、その理由が何なのかを、確かめるのです。
悪夢から受け取るイメージは、怖い、逃げたい、不安だ、もうだめだ、などという、ネガティブなものばかりです。
そこには、じゃあ、どうしようか、というプラス思考が、含まれていないように見えます。
でも、そうではありません。

悪夢はあなたに、問いかけているのです。
どうするの?
どうすればいいと思う?
そこで、どうしよう、どうしたらいいかな、と考えられるようになれば、しめたものです。
自分は本当は、どうしたいのだろう。
自分の本当の気持ちは、どんなものなのだろう。
それを探り始めると、無意識からのメッセージを、受けやすくなります。
無意識はどうするべきなのかを、ちゃんとあなたに教えてくれます。
あなたがネガティブな思いを抱く時、それは今の状況が嫌だという、心の反応なのです。
通常は、その状況を変えようという、動きにつながって行くのです。
それが上手く行かないのは、邪魔しているものがあるからです。
その犯人は、世間の歪んだ価値観です。
この歪んだ価値観が、あなたに気づかれないようにしながら、あなたをがんじがらめにしているのです。
本当の問題と解決は、ここにあるのです。
歪んだ価値観に縛られているうちは、逆らう事ができません。
あなたは嫌な状況から、逃れる事ができず、苦しみ続けます。
しかし、無意識からのメッセージを受け取ると、あなたはとてもパワフルになれます。
そして、自分を苦しめていたのが、歪んだ価値観である事に気づきます。
価値観というものは、黒幕のように隠れている時にだけ、その力を発揮できます。
しかし、価値観なのだと知れてしまうと、たちどころに効力を、失ってしまいます。
無意識からのメッセージを受け止めて、歪んだ価値観の存在に気がつけば、あなたは自由になれるのです。

自分の本当の思いに、気づくことができた人は、他人の気持ちも、理解しやすくなります。
その人の表面的な行動の裏に、どんな思いが潜んでいるのか、その人が本当は、何を望んでいるのかが、見えて来るのです。
そして、その人が自分の思いに、素直になれない理由もわかります。
それもやはり、世間にはびこる価値観なのです。
多くの人が、世間にはびこる歪んだ価値観のせいで、自信を失い、心を傷つけています。
そんな価値観にだまされないで、真っ直ぐ自分の気持ちに、従いなさいと、夢は伝えてくれているのです。
たとえ、見た目は恐ろしい、悪夢であったとしても、夢はあなたの味方なのです。
夢の解釈 その2

私たちは子供の頃、大人の言葉を聞いて、言語を修得します。
しかし、言語を習得する前から、自分の気持ちや思いというものは、あるわけです。
まだ、言葉が上手く話せない幼子は、あーとか、うーとか言いながら、表情や体の動きなどで、自分の気持ちを伝えようとします。
この時の、まだ言語に変換されていない、思いというものが、夢の正体なのです。
私たちは言語的な思考に、重点を置くあまり、そこの部分に自分の意思があると、思い込んでいます。
そこは意識全体で言えば、表面的な部分です。
しかし、自分の思い、自分の気持ちというものは、そこにはありません。
自分の思いがあるのは、もっと深い部分にある、言語を用いる前の状態の意識です。
いわゆる潜在意識と呼ばれる部分ですね。
まだ、言語的思考の形を、取っていない部分です。
ここには、様々な思いや考えが、集まっています。
自分の本音や、隠していた感情などが、入り交じっているのです
そういうものが夢の中で、一つの世界という形を取って、現れるのです。
自分の中に溜め込んだものを、自分で体験して、理解するというわけです。
覚醒している時に、頭の中の事を整理すると、どうしても言語的、論理的に整理しようとしてしまいます。
しかし、感情や思いというものは、言葉では表現しきれません。

たとえば、英語で Love という言葉があります。
日本語を当てはめると、愛という言葉になるようですが、言葉のニュアンスは微妙に違うような気がします。
ただ、Love という言葉で表現しようとするものが、心の中にあるわけです。
それは、人類共通のものでしょう。
しかし、それを言葉で表現しようとしても、その思い全てを表現はできません。
言葉にした瞬間、嘘になってしまうと、思うのではないでしょうか。
その言葉による限界が、Love と愛との間の、微妙なニュアンスの違いを、生んでいるように思えます。

夢は、言葉になる前の思いを、言語ではなく、感覚的・感情的に伝えようとしています。
それは言語で伝えるよりも、直接的な伝達に近いと言えるでしょう。
この直接的な伝達とは、何かと思われるでしょう。
それは、何も介さず、思いを直接伝える事です。
いわゆるテレパシーの事です
Love や愛の元であるものを、直接体験するのも同じです。
私たちは無意識の部分で、そういう直接的な経験をしています。
しかし、それを表面的な意識が理解するには、言語的思考に変換される必要があります。
夢とは、その過程の作業なのです。
つまり、非言語的な思念を、言語的思考に変換する作業です。
非言語的思念を扱う無意識の中では、問題を認識すると同時に、その答えも認識しています。
次の式を見て下さい。
2+3=5
左が問題で、右が答です。
両者は=で結ばれており、同じ意味である事を示しています。
これと同じで、無意識は問題を認識すると同時に、その答えも認識するのです。
一方、言語的思考は、言い換えれば、時間的思考と言う事ができます。
つまり、ああだからこうだという風に、物事を順序立てて考えるのです。
問題を見て、答えが出るまでには、時間がかかります。
場合によっては、答えを出せないかも知れません。

非言語的思念を一点の光だとすると、言語的思考とは、プリズムで各波長ごとに、分離された光のようなものです。
潜在意識にあるのも、非言語的思念です。
通常の意識を通して持ち込まれたものと、無意識から降りて来たものが、混在している状態です。
潜在意識の非言語的思念を、通常の意識に理解させるためには、白い光が七色の光に分けられるように、その内容を分離させる必要があります。
分離させるというのは、物事や状況を順に並べるということと、具体的な映像や言語などに、情報を変換するということです。
この時に、通常意識が理解できるように、通常意識の記憶にある要素を、利用するのです。
それでも夢を理解する習慣が、通常意識になければ、通常意識が夢の意味を理解するのは、むずかしいようです。
夢の解釈 その1

夢とは何でしょう。
科学の世界でも、夢が何であるのかは、明確にされていません。
眠りにはレム睡眠と、ノンレム睡眠があります。
ノンレム睡眠は、意識が深く眠っている状態で、レム睡眠は、意識が覚醒に近い状態です。
夢はレム睡眠に見られると、以前は言われていました。
でも今は、ノンレム睡眠でも見られる事が、確かめられています。
レム睡眠の夢は、覚えている事が多いけれど、ノンレム睡眠の夢は、覚えていない事が多い。
それが両者の違いだそうです。
ところで、生まれつき目が見えない方の夢は、映像がなく、音や体感だけの夢だそうです。
一方、あとから目が見えなくなった方の場合は、映像の夢を見る事があると言います。
耳が聞こえない方の場合、やはり音がない、映像だけの夢だそうです。
実際の音の代わりに、漫画で出て来る、ゴーンなどの音を表す文字が、見えるという人がいるそうです。
でも全ての人が、そうなのかはわかりません。

これらの事を考えると、夢に出て来る映像や声などは、自分が体験した記憶情報の中から、選び出されたものと、言えるかも知れません。
体験した事のない感覚情報は、夢には現れないという事です。
では、そういった情報で構成された夢には、何か意味があるのでしょうか。
夢の解釈には、いろいろあります。
科学的理解としては、日常生活における出来事や情報について、整理するために夢を見ていると、されているようです。
そうは言っても、絶対にそうだという事ではありません。
先に述べたように、夢の正体は謎なのです。
夢占いでは、夢に出て来た物を、何かのシンボルだと考えます。
たとえば、馬は人を乗せて走るので、運命や生命力を意味すると言います。
また、犬は親しい動物ですから、家族や友人を意味するそうです。
葬式や火事など、縁起が悪い夢を、いわゆる悪夢と呼びます。
しかし、同じ夢を逆夢と称して、よい事が起こる印と、受け止める事もあるようです。
死ぬ夢も、一見悪い夢のように思えます。
でも、生まれ変わりや人生の再出発と、考える事もできるのです。

夢には、いろいろな解釈の仕方があるようです。
でも、夢を見た本人が、解釈の仕方がわからなければ、夢に意味があったとしても、無意味と同じになってしまいます。
それに、夢で見た事が現実になるという、正夢というものがあります。
自分が死ぬ夢が、正夢だったらどうしようと、不安に思う人だっているはずです。
本当はいい意味かも知れないのに、悪く受け止めてしまうと、夢を見せる方も、困惑しそうですね。
そもそも夢に意味なんかないと、考える人もいるでしょう。
でも、それは違うと私は思います。
夢は実に不思議なものです。
私の経験で言えば、何か問題を抱えている時、それについての解決法を、夢は教えてくれるのです。

日常の意識では、何か問題が起こった時には、自分は間違っていないと、考えがちです。
自分の理屈、自分の考えを基準にして、どう考えたって相手が悪いと、結論を出すのです。
それで気持ちがすっきりすれば、それでいいのですが、実際はもやもやが残るものです。
でも、自分は間違っていない。
相手が悪いのだから、相手がつらい思いをしたって、それは仕方がない。
そんな風に、自分を納得させて寝ても、夢は違う答を、示してくれるのです。
朝起きた時の夢を、覚えている事が多いと思いますが、実際には一晩の間に、何度も夢を見ているようです。
深い示唆を示す夢の場合、夜中に何度も目が覚めて、その都度、違う夢を見るのです。
一見、それぞれの夢は、バラバラで関係のないように見えます。
でも、その夢が伝えようとしている事を理解すれば、それらの夢には、つながりがあるとわかります。
物語のように、起承転結があるのです。

初めの夢は、自分の悩みや問題を、示しています。
ああ、あんな事があったから、こんな夢を見たんだな、という感じです。
でも、次の夢は別の角度から、その問題を眺めるような内容でした。
登場人物や舞台などは、初めの夢とは、全然別です。
しかし、夢の内容を考えると、そういう夢なのです。
その次の夢は、本当にその結論でいいのかと、問いかけるような夢です。
自分にとって、本当に大切なのは、自分が正しいという事なのかと、問われるのですね。
直接聞くのでは、ありません。
そのように自問させられるような、内容なのです。
最後に見る夢では、自分の心の奥底にある、本当に大切な想いが、引き出されるのです。
それは相手に対する、思いやりの気持ちです。
実は、自分が正しいかどうかなど、どうでもいい事なのです。
そんな事はわかっていたのです。
しかし意地になって、相手を責める事や、自分の立場を守る事に、意識の焦点を合わせていたわけです。
でもそれは、自分の本音ではありませんから、どこかもやもやした気持ちになっていたのですね。
そんな事を、目覚めている時に、誰かに指摘されたなら、きっと反発していたでしょう。
しかし夢によって、自分の本音を突きつけられると、逆らう事ができません。
私は自分がどうすべきなのかを、夢に教えられました。
夢とは、そのようなものなのです。
何故、今ここにいるのか

これは、どの時代の人にも、言える疑問だと思います。
何故、自分は今、ここにいるのか。
どうして、他の時代ではないのか。
どうして、他の家、他の国に生まれなかったのか。
たまたま、そうなったと考える事もできます。
でも、そこに何か必然的な理由が、存在するに違いないと、受け止める事もできます。
どう考えようと、本人の自由です。
しかし、どう考えるかによって、その後の人生の送り方が、左右されるでしょう。

水が入ったコップを、ひっくり返すと、水がこぼれますよね。
コップの水がこぼれるのは、重力があるからです。
コップから外に出た水の分子は、重力に引かれるまま、移動して行きます。
どこまで移動するのか。
それは、その分子が最も安定した位置に、行けるまでです。
一つの水の分子が、ある場所へ移動するのを、偶然と見る事は自由です。
しかし真実は、その分子に働く重力と、周囲の分子との関わりにおいて、必然的に決まった場所へ、移動しているのです。
わずかでも別の要素が、そこに加わるならば、水の分子は違う場所へ、移動するでしょう。
でも、そうでない限りは、水の分子の移動する先は、決まっていると言えるのです。
それは、それぞれの水の分子についても、言える事です。
と言う事は、その時の全体的な、水の流れ方も、決まったとおりのものだと、言えるのです。

人をエネルギー体と考えると、周囲のエネルギーとの関係で、どこに引き寄せられるのか、どこと反発するのかが、決まっていると考えられます。
つまり、この世界に産まれて来る時に、その人のエネルギー状態によって、最も適切な時と場所が、決定するという事です。
エネルギー状態という表現は、外から眺めた、客観的な表現です。
これを主観的表現に変換してみましょう。
ある人物が、この世界に産まれて来るのは、その時にその人物が、何を考え、何を望み、どんな人生を送ろうとしているのかで、決まるのである。
こんな感じでしょうか。
これは、人間の心が不滅で、生まれる前、また死んだ後にも、心が存続するという事が、前提です。
心を精神エネルギーと考えれば、エネルギー不滅の法則に従って、ずっと存続しているという理屈です。
人の心は、状態が変化する事はあっても、消滅する事はないのです。

話を戻しますと、どの時代にしても、人はそれぞれ、その時の状態によって、適切な時と場所として、その時代や環境を選んで、生まれて来るのだと言えるでしょう。
人が何かを学ぶために、生まれて来るのだとすれば、それぞれの時と場所が、その学びにとって最適なのだと思います。
そこで、あなたに問います。
あなたは、何故今、ここに生まれて来たのでしょうか。
親が勝手に、産んだんだと言うのは、正しくありません。
その親や、その家の環境を、選んで産まれて来たのは、あなた自身の選択なのです。
考えてみて下さい。
考えても、損をする事はありません。
面白い事ですし、必ずあなたの人生に、深みが出ます。
これからの人生が、あなたの考え一つで、変わって来ますから、慎重に考えて下さい。
自分には価値がないと、考えないで下さい。
それは、自分の価値を知らないだけなのです。
何故、今なのか。
その答を求めるには、今がどういう時代なのかを、探る必要があります。
浅く探るのか、深く探るのかで、あなたの判断は、全然違うものになるでしょう。
でも、結果を恐れず、とにかく考えてみて下さい。

何故、この家に生まれたのか。
何故、この地域、この国に生まれたのか。
何故、ここで暮らしているのか。
何故、ここで働いているのか。
考えて下さい。
自分が惹かれる場所、避けたい場所、いろいろあるでしょう。
惹かれるにしても、避けたいにしても、それぞれ理由があるはずです。
その理由を探って下さい。
それは、あなた自身の性格や性質を、見つける作業でもあるのです。
普段、口にしている自分の性格が、本当は真逆であるかも知れません。
たとえば、人間嫌いだと自負していたはずが、実は人との交流に、飢えているという事があります。
頑張るなんて、面倒くさいし、かっこ悪いと思っていた。
それなのに、あるものに対しては、結構こだわりを持って、作業をしてしまうという事もあります。
人生の目的が、学びと喜びにあると考え、自分が最大限に輝く事と、今の時代や場所が、どう関係あるのかを、探って下さい。
退屈やつらさとは、反対方向に喜びがあるという、道しるべです。
嬉しさや楽しさは、その方向に喜びがあるという、道しるべです。
その道しるべに従って進んで行くと、自分がどうして、この時代、この場所を選んだのかが、見えて来ると思います。
また、自分がこの時代、この場所を選んだという事は、この時代、この場所が、あなたを選んだとも言えるのです。
つまり、あなたが今ここにいる以上、あなたはこの時代、この場所に、必要とされているわけです。
あなたを否定する価値観があるとすれば、その価値観を打ち砕く事が、あなたに求められているのかも知れません。
また、あなた自身、それを目的にしているとも、考えられます。
もちろん、目的が一つだけとは限りません。
もっと他にも、たくさんあるかも知れないのです。
目的を果たして行く事は、苦難の道かも知れません。
それでも、その道は必ず、あなたを深い喜びへ、導いてくれるでしょう。
どう受け止めるか 2

自分に憎んでいる相手が、いるとしましょう。
どうしても、その相手の事を許せないとします。
でも、相手に対する見方は、必ず変わります。
時間がかかるかも知れませんが、いつかは相手を許せる時が来るのです。
誰かを憎み続けるのは、疲れます。
それに、憎んでいる間は、楽しみを放棄しているわけで、損な事です。
しかし、憎い気持ちを無理に消す事は、むずかしいでしょう。
そういう時は、憎い気持ちは無理に抑えず、脇に置いておきましょう。
そして、他の事に意識を向けるのです。
なかなか向かないかも知れませんが、とにかく他の方を見続けるのです。
そのうち、憎しみの気持ちは、少しずつ鎮まって来ます。
そうなると、少し物事を冷静に考える事が、できるようになります。
冷静になれば、楽しい事に目を向けやすくなって来ます。
楽しい事を続けられるようになれば、憎しみはますます薄れて来ます。
そのうち憎んでいた相手の事など、どうでもよくなってしまいます。
憎んでいる状態と、楽しんでいる状態を、比較する事ができるようになるからです。
心は安定を求めます。
何かを楽しんでいる時は、心が安定していて楽なのです。
怒ったり悲しんだりしている時は、心が不安定な状態ですから、疲れるのです。
本音では、そんな状態を続けたくはないでしょう。
楽しみを取るか、怒りを取るか。
その選択によって、憎んでいた相手への、見方が変わります。
相手の事など、どうでもよくなって、楽しさを選ぶ事もあるでしょう。
逆に、楽しさを選ぶ事によって、相手の事を、どうでもいいと思うようにもなるのです。

ひどい相手への憎しみを忘れるなんて、したくないと言うのであれば、それは自由です。
でも、それは憎しみを忘れる事が、人間として許せない事だという、思い込みでしょう。
どこにも、そんなルールはありません。
そんな風に考えてしまうのは、人生は一回こっきりで、死んだら全てがおしまいだという、発想があるのだと思います。
でも、死んでも全てが、おしまいになるわけでないと、知ったらどうでしょうか。
幽霊や前世の記憶などの事実は、人が生前や死後にも、存在し続けている事を示しています。
生前や死後の世界が、どのようなものなのかは述べません。
しかし、人の存在が一つの人生に、限定されているわけではないと、言う事はできると思います。
人は死んでおしまい、というわけではありません。
ですから、この世に生まれ出るという事には、何らかの意味があるのに、違いありません。
知性体である人間が、知性を発達させる事は、人として自然な成長です。
だとすれば、人生における嫌な事も、何か意味があるのではないでしょうか。
その意味を知るには、出来事を表面的に見るのではなく、いろんな角度で見る必要があります。
今の角度で見ると、ただ憎しみが湧くだけの出来事でも、別の角度から見れば、相手への理解が生まれるかも知れません。
それは元の角度における、憎しみという見解を、否定するものではありません。
自分の立ち位置が違うから、眺める出来事が、異なったように見えるだけです。
いろんな角度から見た情報は、総合的な理解をもたらすでしょう。
それは単なる憎しみとはなりません。
相手を憎らしく思う気持ちは持ちながら、出来事そのものを、違う思いで受け止めるようになるのです。
物事に対する立ち位置を変える事で、受け止め方が変わるのです。
それは人としての成長です。
しかし、立ち位置を変えられるようになる前に、運悪く世を去る人もいます。
そんな方たちは、この世を離れてから、自分の人生を振り返り、何て無駄な時間を、過ごしてしまったのかと、後悔するかも知れません。

繰り返しますが、物事をどのように受け止めるかは、自由なのです。
その代わり、その受け止め方によって、人生の質が決まります。
豊かな人生を送るためには、多くの英知を手にする必要があります。
今の自分がつまらない。
人生なんて、ちっとも面白くない。
そう感じてしまうなら、人生とは何なのかと、深く考えてみて下さい。
そうすれば、少しずつ人生は、それまでとは違ったものに、変わって行くと思います。
どう受け止めるか 1

世の中には、楽しい事も嫌な事もあります。
それは、私たちの世界観に、大きく関与します。
楽しい事ばかりだと、世界はとても楽しい所だと、思うでしょう。
でも、自分が楽しんでいる陰で、誰かが泣いているかも知れません。
嫌な事ばかりでは、世界はとても嫌な所だと、感じるに違いありません。
でも、悩む自分の後ろで、誰かが懸命に、支えてくれているかも知れないのです。
世界を楽しい所と考えるか、嫌な所だと受け止めるのか。
それは自分の意識の焦点を、どの部分に当てるかで、変わって来ます。
ある部分にだけ、焦点を当てるのか。
もっと広い範囲に、目を向けるのか。
自分に直接関係する所だけを、考慮するのか。
自分とは無縁に見える人たちの事も、考えるのか。
将来を、限定的に思うのか。
いろんな可能性が、秘められていると受け止めるのか。
何をどのように見て、どういう風に考えるのかで、世界は全く違ったように見えます。

本来、物事に意味はありません。
いいも悪いもなく、中立です。
世界はニュートラルの状態であり、それをどのような立場で、どんな意味づけをするのかは、人によって様々です。
そのため、同じ状況にあっても、落ち込む人もいれば、笑う人もいるのです。
どちらが正しいという事ではありません。
それは、その人の受け止め方によるだけで、どう受け止めるかは、本人の自由です。
ただ、本人の自由という言葉の裏には、英知の度合い次第という、意味が隠されています。
要するに、物事を深く考える人と、軽く見る人とでは、同じ状況にあっても、判断が異なって来るという事です。
物事を広い視野でとらえ、深い洞察力を持つことは、人間としての成長を意味しています。
何故なら、人間は知性を発達させる存在だからです。
だから子供は、どんな事に対しても、何で何でと知りたがるのです。
好奇心は新たな発見につながり、新しい知識や情報、感情や感覚は、その人の世界観を、大きく広げてくれます。
それは人間の自然な姿であり、人としての成長過程なのです。
ただ、人によって成長過程はまちまちです。
同じ地域、あるいは同じ年齢であっても、一人一人成長速度や、成長度合いが異なります。
それは自然な事であり、成長速度が遅くても、いずれはちゃんと成長するわけです。
深い洞察力に基づいた英知を、他の人へ伝える事ができたなら、その人の成長を大きく促す事になるでしょう。
しかし、英知を受け取るためには、それなりの準備が必要です。
まだ準備が整っていない人は、英知を示しても、理解する事ができません。
それは、その人の成長度合いが、まだそれぐらいだという事なのです。
どんなに急かしたところで、どうにもなりません。
物事には順序があるのです。

理解ができない相手に対しては、腹を立てがちになりますが、腹を立ててもどうにもなりません。
今、理解ができなくても、その時が来れば、必ず理解できるのです。
成長する植物が、いつかは花を咲かせるのと同じです。
それまでは待つしかありません。
待てないとすると、それは自分自身の中に、道理への無理解と、自分は優れているという傲慢さが、潜んでいるという事です。
相手を見下す気持ちが出て来るうちは、自分自身が英知を手に入れたとは、言えません。
本当の英知を持っている人は、どんな人も中身は自分と同じだと、理解しているからです。
昨日の自分 今日の私 その3
昨日の自分と、今日の自分が別だとすれば、どれが本物の自分でしょうか。
昨日と今日だけでなく、瞬間瞬間で違う自分がいるのであれば、自分というものが、無限に存在する事になります。
これでは、そもそも自分とは何なのか、という話になってしまいます。

でも、ご安心下さい。
今から説明しましょう。
昨日と今日で異なる自分、あるいは、瞬間瞬間で違う自分というものは、一般的にみなさんが自分だと、認識している自分です。
しかし、その自分というのは、この世界に属した体に基づいて、この世界バージョンに構成された、自分なのです。
本来の自分というものは、この世界の外にあるのです。
この世界はパソコンの中にある、バーチャル世界のようなものだと、考えて下さい。

パソコンのバーチャル世界の中に、あなたのキャラクターが存在します。
でも、本当のあなたは、パソコンの外でモニターを見ながら、自分のキャラクターを操作しています。
この世界で自分だと認識しているのは、バーチャル世界のキャラクターを、自分だと認識するのと、同じなのです。
パソコンのキャラクターは、アニメーションとして動きます。
つまり、一コマ一コマのキャラクター画像を、高速で置き換える事によって、実際に動いているかのように、見せているのです。
そこには無数のキャラクターである、自分が存在しています。
あなたは自分のキャラクターを、操作できます。
でもキャラクターは、バーチャル世界の中のルールに、従うように設定されています。
そのためキャラクターは、必ずしもあなたの指示に、従うわけではありません。
あなたの声が届きやすいのは、キャラクターの心が萎えている時です。
それでも、心が萎え過ぎると、かえって声が届きにくくなってしまいます。
キャラクターの思考や行動は、全て自動的に行われます。
これは自我と呼ばれるものです。
この自我を、私たちは自分だと認識しているのです。

自我は、自分と自分ではないものを、区別する能力です。
そのため、どうしても体を基本にして、自分という認識が生まれるのです。
しかし、自我が存在できるのは、無意識があるからです。
いわば、自我は無意識の先端が、この世界に合わせて、変化したものなのです。
この世界バージョンに変化したため、無意識とは違う形を持った自我意識は、それだけで独立した意識存在となっています。
それでも無意識とのつながりが、なくなったわけではありません。
自我意識の中心にあるのは、やはり無意識なのです。
言い換えれば、自我意識は無意識に着せられた、衣装のようなものです。
その衣装は、この世界で生きて行くために、必要なものです。
その衣装によって、その人の性格、つまりキャラクターが作られます。
しかし衣装には、無意識に似合ったものと、そうでないものがあるのです。
あなたはキャラクターを操作しますが、それは直接的な操作ではありません。
キャラクターの自我が納得する形にしなければ、あなたの指示はうまく伝わりません。
バーチャル世界で設定されたルールや、経験を通して、キャラクターが独自に作ったルールが、あなたの指示の邪魔をする事があるのです。
それでも、あなたが根気強く指示を出し続けると、いずれはあなたの指示が、最も影響力を持つようになります。
あなたが指示を伝える事に成功すると、キャラクターはその指示に基づいた、思考や行動を自動で行うようになるのです。
この世界に存在する私たちは、この自動的・反射的に行動するキャラクターと同じです。
通常の自我意識は、この世界にはびこる常識や、自信のなさ、不安などに、縛られています。
本来の自分である、無意識からの指示を、受け取る余裕がありません。
目先の出来事や、経済的な状況に、右往左往させられるのです。

しかし、とことん落ち込み、自分を嘆きながら、自分自身に目を向けるようになると、そこに無意識の存在を、見つける事があります。
自分は本当は何がしたかったのか。
本当の自分の姿は、どんな風なのか。
今からでも遅くない、本当の自分になろう。
そんな開き直りにも似た思いが、湧いて来るかも知れません。
それは、無意識からのメッセージを、受け取れたという事です。
無意識の自分は、この世界の外にあります。
その思考は一瞬の中に、全てが織り込まれています。
この世界の思考のように、時の流れに合わせて、順序よく並べて行くような、思考ではありません。
無意識の自分は、昨日も今日も同じです。
時の流れを超越しているのです。
無意識の声に耳を傾けないと、世の中の流れに翻弄されます。
それは帆や羅針盤のない船で、嵐の海を当てもなく、流されるようなものです。
無意識の声は、あなたにどちらへ進むのかを、教えてくれます。
進むための力も、与えてくれます。
その方向にあるのは、喜びです。

人生とは喜びです。
喜びがなければ、人生が無意味になってしまいます。
それでも、無意味になるという、意味があるとは言えますが、できればそうではない意味を、持たせたいものです。
どれほど長く生きたか、どれだけお金を稼げたか、どんなに人気者になれたのか。
そんな事は、喜びとは関係ありません。
本当の自分は、人生の中に意味を見つけ、それを喜びに変えます。
本当の自分の指示に、耳を傾けましょう。
見かけの自分ではなく、この世界の外にいる、本当の自分に意識を合わせるのです。
どんなにつらい状況の中でも、あなたが喜びを見つけられるよう、本当の自分は教えてくれます。
あなたが小さな事に喜びを見つけた時、あなたの意識は本当の自分と、ぴったり重なっているのです。
昨日の自分 今日の私 その2

レゴというブロックの、オモチャをご存知でしょうか。
上の写真のように、ブロックの上に丸い突起が付いていて、ブロックの下にその突起物がはまる、穴があるのです。
ブロックには、いろんな大きさや色の物があり、それらを組み合わせる事で、様々な物を作る事ができます。
難点はちょっと値段が高い事です。
大きな物を作ろうと思うと、かなり出費してしまいます。
下の写真は、レゴブロックで作ったアヒルです。

これと全く同じ物を、作ったとしましょう。
そして、元のアヒルと入れ替えるのです。
きっと誰も気づきませんね。
このアヒルのくちばしの先には、一部黒い所がありますね。
この黒いブロックを、茶色に変えたアヒルなら、どうでしょうか。
それなら気がつきますか?
中には気がつく人が、いるかも知れません。
でも、恐らく大半の人は、気がつかないでしょう。
その部分に、特別注視していなければ、明らかに違っている事でも、案外見落としてしまうものだからです。
では、アヒルの顔の緑色の部分のブロックを、少しずつ青色のブロックに、変えて行きましょう。
薄い緑色の所を薄い青色に、濃い緑色の所を濃い青色に、毎日少しずつ色を変えた、アヒルに交換するのです。
それでも多分、その変化に気づく人は、少ないでしょう。
しばらくしたら、気づくかも知れません。
でも、あまり気に留めたりは、しないと思います。
アヒルの頭が完全に青になると、アヒルの色が変化したと、気づく人がいるでしょう。
でも、色が変わったと思うだけで、アヒル自体が別のアヒルだとは、考えないに違いありません。

ある日突然、アヒルがイソシギになっていれば、誰かが置き換えたと思うでしょう。
しかし、同じ形のアヒルが、少しずつ色を変えた場合は、アヒルが置き換えられたとは、考えないと思います。
それは、時間とともに変化している、この世界でも言える事です。
世の中は、全てが一瞬一瞬、変化しています。
私たちの思考や感情も、そうです。
もし一つも変化がなければ、写真のように、永遠に時が止まったままに、なってしまうでしょう。
思考も停止状態です。
しかし、日々の変化を認めても、私たちは世界や自分自身が、瞬間瞬間に置き換えられているとは、考えません。
ちょっと話がそれますが、時の流れというものは、世界が変化する様を、意味しているのかも知れません。
この世界に暮らす私たちは、言語を用います。
文章を書くにも、言葉として喋るにも、順を追っての行動です。
それは時間と共に変化する、この世界の流れに沿ったものです。
頭の中で、ああだ、こうだと考えるのは、言語的思考です。
やはり時間の流れに沿って、思考が動いているのです。
さて、一瞬一瞬の変化に、話を戻しましょう。
世界は常に、一瞬一瞬変化しています。
と言う事は、一瞬前の世界と今の世界は、別ものだと考える事ができるわけです。
見た目はほとんど同じですが、わずかでも変化があるわけですから、別のものなのです。

机の上に置いたカップは、じっと眺めていても、何も変わりません。
でも、カップを構成している原子の中では、電子はひっきりなしに状態を変えています。
原子核を構成している素粒子も、じっとしているわけではありません。
つまり、見た目は何も変わらないカップですが、原子レベルで考えると、常に変化しているのです。
ですから、一瞬前と今とでは、同じカップではないのです。
私たちの体も、言語的思考を司る、表面的な意識も、一瞬前と今とでは異なると、考えられます。
これを単なる連続的な動きだと、とらえるのが普通でしょう。
でも、無限にある一瞬一瞬の世界を、パラパラ漫画のように取り込む事で、連続した世界を感じ取っているとも、考えられます。
要は変化というものを、どのようにとらえるかの問題です。

私たちが認識できるのは、今という、この一瞬だけです。
過去や未来を、同時に観測しているのでは、ありません。
それは、高速に置き換えられる、画面を眺めているのと、同じ事です。
あらゆる動き、あらゆる変化は、高速に置き換えられた、瞬間の世界によって、創り出されているのです。
一瞬一瞬の世界が別物だとすれば、昨日と今日では、世界も自分も、全く別ものだと言えます。
ましてや、一年前と今とでは、全てが全然違うわけです。
それなのに、世界は変わっていないと、人は考えます。
一年前に心が傷ついた人が、未だにその傷を抱き続けている事は、少なくないでしょう。
でも、本当は一年前とは、全く違う自分なのです。
全然違う自分になっても、何も問題はないのです。
それは昨日と今日の自分でも同じです。

昨日、嫌な事があったからと言って、今日も嫌な気分でいる必要はありません。
連続して同じ自分だと思うから、同じ気分でいないといけないと、感じてしまうのです。
でも、昨日と今日は違う自分だと考えれば、昨日とは違った気分を、誰にも遠慮する事なく、味わう事ができます。
今日は明るい自分で行こうと、自分で決めればいいのです。
昨日の自分と今日の私は、別人なのですから。
昨日の自分 今日の私 その1

私たちは昨日と今日の自分が、同じ自分だと認識しています。
そんなの当たり前じゃないかと、誰もが思うでしょう。
それはそうなのですが、どうしてそう思うのかを、検討してみたいと思います。
まずは、記憶の保持ですね。
昨日までの記憶が、今日になっても、そのまま残っている事がポイントです。
それによって、昨日の世界と今日の世界が、連続していると認識されるのです。
もし朝目覚めた時に、昨日までとは違う記憶を、持っていたらどうなるでしょう。
恐らく、まだ夢を見ていると考えるか、違う世界に迷い込んだと、受け止めるのではないでしょうか。
この場合、自分は何も変わっていないと、いう事が前提になっています。

夢の世界は、現実世界とは違います。
迷い込んだ世界は、慣れ親しんだ現実世界とは、別の世界です。
つまり、自分は何も変わっていなくて、世界の方が変わったという認識です。
自分の記憶が変わったとは、普通は思わないでしょう。
記憶とは変化しないものと、理解しているからです。
記憶とは別に、昨日と今日の自分が、同じだと考える理由は、自分の性格です。
性格とは、その人の思考パターンと、言い換える事ができます。
ある出来事や状況に遭遇したり、何かの対象物などを目にした時に、どのような反応を示すかは、その人の思考パターンによって違って来ます。

クモを見たら跳び上がるほど、クモ嫌いな人が、何の前触れもなく、ある日突然、クモ好きになる事はありません。
自動車に全く興味がなかった人が、何のきっかけもなく、急に自動車マニアになる事もないでしょう。
一般的に性格は、自分自身を表しているものと、考えられていると思います。
だから、昨日も今日も同じ性格である事は、昨日と今日の自分が同じだと、判断する大きな理由になります。
特別な何かが起こらない限り、昨日楽天的だった人は、今日も楽天的でしょう。
同じように、昨日悲観的だった人は、今日も悲観的です。
その程度に差はあるかも知れません。
でも、根本的な部分は、昨日も今日も同じです。
変わらない記憶と、変わらない性格。
この二つが、昨日も今日も、同じ自分が同じ世界にいると、判断する根拠になっていると言えるでしょう。