無償の愛2
愛とは、何なのでしょう。
相手をとことん好きになること?
相手を幸せにしてあげたいと思うこと?
ずっと、その人と一緒にいたいと思うこと?
これらの想いは、愛の本質ではありません。
愛を感じた結果です。
愛というのは、世界と自分が一つであると、認識・理解・実感することです。
言い換えると、自分と世界が、一つになっている状態ということです。
そして、そこには無上の喜びがあるのです。
何故なら、そこは自分にとって、本来の居場所であり、最も安らぐ所だからです。
人間も世界の一部ですから、誰かとの間に、とても安らぐ一体感を感じることができます。
誰かに愛を感じるというのは、その人との一体感を、感じているということなのです。
何を馬鹿なことを、と思われるかも知れません。
でも愛とは、そのような安らぎのある、一体感を言うのです。

人は自分自身の中に、嫌っている部分や、他人に知られたくない部分、あるいは許せない部分を、持っていることがあります。
自分を無能で役立たずだと思っていたり、誰にも愛されていないと感じていたり、生きている価値なんかない出来損ないだと、考えてしまうこともあるでしょう。
そんな自分を無条件に、まるまる全てを受け入れてくれて、大切な存在として抱きしめられるように、大きな安らぎに包みこまれたら、どう感じるでしょうか。
そして、自分もまた、自分を包みこんでくれている存在と、同じ存在なのだと知れば、どんな気持ちになるでしょうか。
それが愛という言葉で、表現しようとしているものなのです。

臨死体験や体外離脱体験をされた人の中には、このような経験をされている人がいます。
でも、そんな特別な体験をしなくても、大自然の中で、自然との一体感として、愛の本質を感じることもできます。
あるいは日常生活の中で、本当に仲間と言える人たちとの間に、一体感を味わっている時にも、愛の本質を感じていると言えます。
大切に飼っているペットや、大事に育てている植物との間にも、一体感を感じることもあると思います。
それもまた、愛の本質を感じているのです。
愛というのは、そういうものなのです。

男女の愛や家族愛、人類愛などと、見かけによって、異なる表現をするのは勝手ですが、本来の愛に区別はありません。
区別しているうちは、愛の本質が歪められて、理解されることになります。
愛とは、相手の全てを、無条件に受け入れるという事です。
それは理屈で行うことではありません。
相手と自分が同じ存在であると、感覚的に認識している結果のものです。
この認識なくして、形だけ相手を無条件に受け入れるのは、それは自ら相手の奴隷になるのと同じです。
それは愛とは呼べません。
そうする事で、自分は無償の愛に生きているのだと、思い込もうとしているだけです。

愛というのは、見かけの行動ではなく、相手との一体感なのです。
行動は、その結果として表れるものですから、行動だけ同じようにしたところで、意味がありません。
また、愛を感じているからと言って、必ずしもその相手と、一緒にいるとは限りません。
たとえば、心から愛していると言える、異性がいたとしても、その人と結婚するとは限らないのです。
結婚できなければだめだと、限定するのであれば、それは本当の愛とは言えません。
男女関係を持たないと、だめだと考えるのも同様です。
同性同士のカップルについては、いろいろ意見があるようですが、愛の本質を考えるなら、誰を好きになろうが、誰と一緒になろうが、そんな事はどうでもいい事なのです。
愛に条件はありません。
全ては人間社会が、愛を勝手に色分けしただけなのです。
無償の愛1
無償の愛。
この言葉から、どんな事をイメージしますか。
どんな見返りも求めない愛でしょうか。
それは、確かにそうなのだと思います。
無償の「償」という漢字には、むくいる、つぐなう、という意味があります。
つまり、無償というのは、むくいたり、つぐなったりという事が、ないという意味ですね。
辞典によると無償とは、報酬がない、あるいは、報酬を求めないこと、とあります。
ですから、見返りを求めない愛という説明は、間違ってはいないと思います。
でも、形のないものを、言葉で表現しようとすると、言葉にした瞬間に、そのものの本質が歪められてしまいます。
「言葉では言い表せない」という言い方で、表現しようとする事もありますからね。
では、無償の愛というものについて、考えてみましょう。
この言葉が、どのようなものを表そうとしているのかは、イメージできると思います。
でも、そのイメージは人によって異なるでしょう。
無償の愛というわけですから、これは愛の範疇にあるわけです。
という事は、愛が何かを理解していないと、無償の愛というものも、わかっているようで、よくわからないという事になります。

無償の愛という言葉があるという事は、有償の愛というものがあるわけです。
そして、無償の愛が特別なものであるならば、通常の愛は全て、有償の愛という事なのですね。
自分はこんなに愛しているのに、あの人は全然気づいてくれない。
あれもこれもしてあげているのに、あの人は何もしてくれない。
これだけしてあげたのに、恩を仇で返すなんて最低。
こんな風に考えてしまうのは、よくある事です。
これらは全て、見返りを求めているので、有償の愛ということになります。
でも大抵の場合、本人はそうは思っていません。
「あなたを愛しているの。有償だけど」
「誰より君を愛しているんだ。有償だけどね」
こんな風に愛を語る人はいないでしょう。
これではちっともロマンチックではありません。
本当は有償の愛であっても、表向きには無償の愛を装うものです。
「君さえいれば、僕は何もいらないよ」
「あなたを心の底から愛しているわ」
こんな言葉を口にしながら、数年後には別れているかも知れません。

人は愛に憧れます。
でも、本当の愛がどんなものかを、理解できていないと、憧れはいつまで経っても、憧れのままです。
そして、ほとんどの人が愛について、よく理解していないと言えると思います。
何故なら、愛というものを、有償・無償の区別をしているからです。
ここに水があります。
無色の純水です。
多くの人が水を求めて、それぞれの器を差し出します。
どの容器もいろんな色がついていて、注がれた水が無色には見えません。
でも、それぞれの人は、自分の器の水の色こそが、本当の水の色なのだと信じています。

そんな人たちが、ある瞬間にだけ、手についた水滴を、目にすることがあります。
その水滴は、無色に見えるのです。
水滴を見た人たちは驚き、口を揃えて言います。
無色の水というものが、この世にはあるのだと。
水がどんなものかを、知っている人が聞けば、とても滑稽なことでしょう。
でも、色のついた容器の水しか、見ることができないのであれば、それは仕方がないことなのです。
愛についても、これと同じことが言えます。
本来、愛には無償も有償もありません。
有償の愛というものは、愛を様々な色に歪めて、受け止めているのです。
私たちが、無償の愛という言葉を用いるのは、愛の本質を垣間見た時でしょう。
でも本当の愛に、無償という言葉は必要ないのです。
ところで、水は無色と述べましたが、海のように大量の水がある場合、水は無色ではなく、いわゆる水色になります。
とても淡い色なので、わずかな量の水では、その色を肉眼で見分けることは、むずかしいのです。

同じように、無償の愛と私たちが受け止めるものは、本来の愛の一面に過ぎません。
つまり、私たちが本当の愛だと考えているものは、愛の本質とは言えないのです。
私たちはどうしても、自分たちの生活の基準に合わせて、物事を判断しようとします。
そのため、物事の本質がわかりにくいのです。
愛の本質とは、私たちが通常理解しているものよりも、もっと大きく深いものです。
浮気の理由

付き合っている相手がいるのに、他の人とも付き合う。
結婚しているのに、別の相手と関係を持つ。
芸能界では時折、こんな話題が登場します。
でも、身近なところでも、似たような噂を、耳にすることがあるのではないでしょうか。
浮気について考える時、一つ押さえておかないと、いけない事があります。
それは、浮気はいけないという概念や約束事は、人間が作ったものだという事です。
人間を自然の生き物、あるいは動物の一種と見た時、その行動に対して、人間が作ったルールは、適用できません。
つまり、浮気という行動を、倫理的な話で説明したり、制限したりはできないという事です。

浮気を繰り返す人に、その理由を尋ねても、本人も上手く説明が、できないかも知れません。
そもそも大して好きでもない相手と、付き合ったり結婚したのであれば、気持ちが他の方へ向いてしまうのは、当然でしょう。
こういう人は、誰かと関係を持つという事を、とても軽くとらえているのだと思います。
相手の事を、思いやれない生き方は、動物的と言えるでしょう。
好きで一緒になったはずの相手がいるのに、浮気をしてしまう人。
こういう人は、浮気相手をその場限りの、遊び相手ぐらいに思っているのでしょう。
浮気を責められると、本当に大切にしているのは、今の相手一人だけだと、答えるに違いありません。
それでも、今の世の中のルールでは、浮気をすると、本当に大切にしている人を、傷つけてしまうわけです。
それを知らないわけが、ありませんから、本当に大切にしているという言葉は、当てにならないでしょう。
ただ、好きな人と一緒にいるのに、他の人の方を向いてしまうのは、やはり何か理由があるはずです。
それは好きな相手への不満、あるいは後ろめたさかも知れません。

好きで一緒になったはずなのに、相手が自分を理解してくれない。
相手の期待に応えられず、一緒にいる事に疲れている。
相手に構って欲しいのに、思ったようには構ってもらえない。
こんな事が続いていると、欲求不満になって、誰かに甘えたくなるのかも知れませんね。
だからって、浮気をするなんて許せないと、考える人は多いと思います。
でも、これは心の変化の話であり、道徳の問題ではないのです。
浮気を責められると、一時は反省して、もう浮気はしないと約束するでしょう。
しかし、浮気の原因がそのままであれば、再び浮気をする可能性は、高いと思います。
他に何かストレス解消の、機会があるならば、浮気はしないかも知れません。
でも、そんな機会がない人は、浮気を繰り返すか、離婚を切り出すか、あるいは心の病気になってしまうかの、いずれかでしょう。

誰かと惹かれ合ったり、浮気を繰り返したりするのは、その人の中にある、性エネルギーが関連しています。
好き合っている相手は、互いの性エネルギーが相手を引き寄せ、一つになるよう働きかけます。
それは二人の間に、安定と喜びをもたらしてくれます。
浮気をする場合は、性エネルギーの欲求、すなわち誰かと一つになって、心の安定と喜びを得たいという想いが、現状では叶わないという事なのでしょう。
いいとか悪いの問題ではなく、浮気とは、あふれ出そうな性エネルギーを、何とか処理したいという動きなのです。
一方で、性エネルギーは、創造エネルギーでもあります。
男女が交わり、子供が産まれるのも、性エネルギーが創造エネルギーだからです。

性エネルギーも創造エネルギーも、どちらも同じエネルギーです。
性エネルギーと呼ぶか、創造エネルギーと呼ぶかは、エネルギーをどういう視点で、見るかによります。
夢中になって何かを創っている時、人は気持ちが安定しています。
他の余計な事は考えません。
つまり、創造エネルギーを使う事で、気持ちが安定します。
そこには、喜びもあります。
これは同じエネルギーを、性エネルギーとして見た時と、同じ性質です。
同じエネルギーですから、当たり前ですね。
性エネルギーを持て余して、浮気をしてしまう人は、言い換えれば、日常の暮らしの中で、創造的な事をしていないと、いう事だと思います。
趣味でも仕事でも、自分が夢中になってやれる事があれば、性エネルギーを創造エネルギーとして使います。
そうしているうちは、浮気をしたいとは思わなくなるでしょう。
つまり、浮気の問題というものは、実は生き甲斐の問題でもあるのです。

でも、好きな事ばかりしながら、浮気癖が治らないという人も、いそうな感じですね。
そういう人は、自分の好きな事にだけ熱心で、それ以外の事には、無頓着なのかも知れません。
あるいは数多くの相手と、関係を持つことが好きなことだと、いうことも考えられます。
また、先に述べましたように、好きな事をしていない時の、居場所がないとか、自分が好きな事について、理解を得られないなどの、ストレスがあるという、可能性もあるでしょう。
いずれにしても、相手を大切に想う気持ちが、持てないのであれば、恋愛であれ友情であれ、その関係が壊れるのは必然です。
それは浮気をする方だけでなく、浮気をされる方にも言えることです。
別な見方をするならば、相手を大切に思えない人は、今の人生の目的に、よい人間関係を築くという事が、据えられていないのかも知れません。
そうであるならば、どうにも仕方がありません。
自分にできること

今、自分がやっている事とは、何でしょうか。
仕事?
趣味?
義務?
仕事は大抵が、生活のためですよね。
お金の世界ですから、お金を稼がないと、暮らして行けません。
自分の好きな事を、仕事にしている人もいるでしょう。
でも、ほとんどの人は、好きでしているのではなく、お金を得るためにしているのだと思います。
趣味は自分が好きなことです。
日常で嫌なことがあっても、趣味に没頭することで、嫌なことを忘れられます。
できれば、他の全ての事から解放されて、趣味だけに集中していたいと、誰もが思うでしょう。
それでも、やらないといけない事があると、そういうわけにもいきません。
仕事もそうですし、子育てや親の介護など、他に誰かがしてくれるわけでない事柄から、逃れる事はできません。
たまに逃れようとする人がいますが、それは当然事件へと発展し、結局はその人は、全てを失う事になります。

中には、やる事がないと言う方も、いるかも知れません。
仕事を失い、次の仕事が見つからない。
趣味というものなどない。
あるいは、以前は趣味があったけど、今はそんな余裕がない。
天涯孤独の独り身で、何かをしてやる相手も、特にいない。
する事が見つからず、一日ぼんやり過ごしてしまうのは、退屈でしょう。
それに、不安もあるでしょうから、やるせない気持ちになると思います。
さて、ここで質問です。
自分の前で、突然倒れた人が、いたとします。
あなたなら、どうしますか。

急いで駆け寄り、声をかけたり、息をしているかを、確かめるでしょうか。
携帯電話でも持っているなら、救急車を呼びますか。
あるいは周囲の人に声をかけて、助けを求めるでしょうか。
それとも、見なかった事にして、その場を立ち去ってしまうでしょうか。
その場を立ち去ったなら、その人は人助けを、自分の仕事・趣味・義務の、どれでもないと判断したのでしょう。
普段どおりの基準に、従ったのですね。
一方、駆け寄った人にしても、人助けを自分の仕事・趣味・義務とは考えません。
そんな事を考える暇など、ありませんからね。
では何故、駆け寄ったのでしょう。
何が行動の、原動力になったのでしょうか。
それは、その人が自分の無意識に、従ったからです。
言い換えれば、人に手を差し伸べるのは、人としての本音の行動なのです。

人は愛に生きる存在です。
つまり、人としての本音とは、愛なのです。
思わず手を差し伸べる行為とは、愛に従った行為です。
そういう行動に出る人は、自分の本音に素直なわけです。
しかし、日常生活の中で、いつでも本音に従えるとは、限りません。
駆け寄った人が、如何なる場面でも、本音に素直かどうかは、わかりません。
また、立ち去った人が、別の場面で、本音に従うことも有り得ます。
いずれにしても、人としての本音で生きる方が、魅力的だと思いませんか。
誰かのために、手を差し延べる。
それはいつだって、自分にできることでしょう。
それは他人から見ても、気持ちがいいですし、本人としても、気持ちのいいことだと思います。

今の世の中は、損得勘定や自分勝手な考え方で、生きる人が多いように思います。
でも、そんな人たちの中にも、人としての本音は、存在しています。
その本音に従えないのは、世間にはびこる価値観が、邪魔をしているからです。
しかし、愛で行動する人の姿を見ると、本音の部分が強く刺激を受けます。
その結果、自分も本音に従った生き方を、しようと思う人が出て来るでしょう。
一人にできることは、限られています。
一人の力では、大きなことはできないかも知れません。
それでも、自分にできることは、あるのです。
ささやかな事であっても、自分にできることであるのなら、素直に行動するのがいいと思います。
とにかく、自分が爽やかな気分になれます。
仕事や義務でやっていたはずのことも、愛の気持ちから、行うようになるでしょう。
自分がそうする事で、他の人も刺激され、周囲にいる人たちの多くが、同じように愛を示すようになると思います。
特に今は世界中が、様々な困難に打ちひしがれ、愛に飢えた状態です。
これまでだと、広がりにくかった愛の行為が、今は伝播しやすい状況なのです。
誰もが大変な時代ではありますが、こんな時だからこそ、ささやかな愛の行為が、大きな力を発揮するのです。
そして少しずつですが、小さいけれど素敵な環境が、社会のあちこちに作られて行き、やがては社会全体が、愛に満ちたものになると思います。

遺伝子組み換え食品

遺伝子組み換え食品という言葉を、知らない人はいないと思います。
スーパーの納豆や豆腐などを見ると、原材料の大豆の所に「遺伝子組み換えでない」と表示されています。
これは表示義務はなく、任意表示となっているそうです。
それをあえて表示するというのは、その方が商品価値が高くなると、判断しての事なのでしょう。
それはつまり、遺伝子組み換え大豆が、警戒されているという、証拠だと言えます。
日本で販売されている、遺伝子組み換え食品とは、大豆・ジャガイモ・菜種・トウモロコシ・綿・てんさい(砂糖大根)・アルファルファ・パパイヤだそうです。
何故、遺伝子組み換えという作業を、これらの食品に対して、行うのかというと、世界に向けて大量生産するためらしいです。
そのため、遺伝子組み換えによって、作物が得る性質は、除草剤に強い、ウィルスに強い、害虫に強いというものです。
除草剤に強いというのは、除草剤を分解する細菌の遺伝子を、植物の細胞に組み込むからです。
除草剤で作物が枯れないので、栽培者は安心して、大量の除草剤を撒く事ができます。

しかし、これは除草剤が作物に、吸収されないという事ではありません。
吸収されても、その作物は枯れないという事なのです。
ですから、作物内には分解されていない除草剤も、残されているでしょう。
また、除草剤を分解したとしても、その結果、生じた化学物質が、人間に害がないという証拠はありません。
その作物は平気でも、人間には問題が起きるかも知れないのです。
これらの物質というのは、一時的に微量摂取しても、目立った問題は、起きないだろうとは思います。
しかし、日常的に摂取した時に、蓄積された影響が、どのような結果を生むかは、誰も確かめていないのでは、ないでしょうか。
もし何らかの症状が出たとしても、企業も政府も、この作物が関連したという、明らかな証拠がないと言って、訴えを突っぱねるに、違いありません。
表向きには、遺伝子組み換え技術は、食糧危機に備えたもの、という事になっています。
でも、実際にはアメリカ企業が、世界の食糧事情を牛耳って、利益を独占しようとしているのではないかと思えます。
アメリカの現状を考えると、本当に世界の人々の食料を心配して、技術を開発したとは思えません。
つまり、不審かつ恐ろしく思えるのは、遺伝子組み換え技術ではなく、その後ろにある、企業の思惑なのです。

ウィルスや害虫に強いというのも、本来、その作物には存在しない物質を、遺伝子操作によって、むりやり作らせているのです。
それらの物質が、長期的に見て、人間にどう影響があるのかは、わかりません。
それに作物自体の、本来の健康状態を、損ねているのではないかとも思います。
実際、アメリカでの研究で、収穫量を増やすための、遺伝子組み換え技術なのに、結果的には、遺伝子組み換えをしない作物と比べると、収穫量が減っているという、報告があるのです。
これについて、除草剤などに対する強さは得たものの、作物本来の生命力が、落ちてしまったのではないかと、考える意見がありました。
日本などで昔から行われて来た、品種改良のための交配は、自然な形で行われていました。
ですから、不自然な形に改良されてしまったものは、育つ事はできません。
無事に次の世代へと、命をつなぐことができたものだけが、新しい品種として、残って行くのです。
それに対して、遺伝子組み換え技術は、あまりにも強引かつ傲慢な感じがします。
自然と二人三脚で行う開発ではなく、自然をねじ伏せようとしているかのようです。
その目的も、いいものを作るというよりは、お金儲けのように思えます。
何故なら、遺伝子組み換えの作物は、除草剤とセットで販売されるからです。

作物は大地から、養分を吸い上げています。
作物も大地も、エネルギーの集まりだと考えると、作物が大地から受け取るエネルギーは、養分だけではないように思えます。
気のような、目に見えないエネルギーも、吸収しているのではないでしょうか。
そうであれば、このエネルギーは、大気や太陽の光からも、受け取っていると考えられます。
私たちは作物を食する事で、いわゆる栄養素だけでなく、地球や太陽からのエネルギーをも、受け取っているのかも知れません。
むりやり遺伝子を変えられた作物が、かえって収穫量が落ちたのだとすれば、恐らく不自然で不健全な状態にあるのでしょう。
それは大地や大気、光からのエネルギーを、うまく吸収できないという事を、示しているのかも知れません。
証拠はありませんから、決めつける事はできません。
しかし、否定する事もできないでしょう。
そこに除草剤などの化学物質の問題も、かぶさって来るのです。
遺伝子組み換え作物は、少なくとも私には、いいイメージはありません。
あの世と幽霊 その2

自分の思いが、自分の状態を決めるのは、幽霊に限った事ではありません。
生きている私たちにも、言える事なのです。
でも、生きている間は、思い悩みや決めつけた考え方を、変えるチャンスがあります。
誰かとの出会いや、何かの出来事が、思い直すきっかけを与えてくれるのです。
しかし、肉体を離れて、心だけの存在になると、普通の人には認知されません。
たまに気配を感じたり、姿を見る人が、現れるかも知れませんが、大抵の場合、怖がって逃げてしまいます。
死者を諭して、未練を解消してくれるような人は、いないと言えるでしょう。

地面を転がるビー玉が、いつか動きを止めるのは、地面との間に起こる、摩擦力のためです。
摩擦がない真空の中を、飛び続けるビー玉は、何かにぶつかるか、大きな引力に引っ張られるかしなければ、永遠に同じ速度で飛び続けます。
精神エネルギーの状態も、そこに新たな刺激が加わらない限り、ずっと同じ状態を維持すると思われます。
すなわち、怒りや悲しみ、恨みや後悔などの、強い念だけを抱いて死ぬと、死者の心は、その感情の渦の状態のまま、身動きが取れなくなるのでしょう。
生きていれば、何かの刺激が加わって、エネルギーの状態を変える事ができるのです。
しかし、この世とあの世の狭間にいては、何の刺激も加わりません。
死を迎えようとしている人の枕元に、既に亡くなった家族や知人が、訪れるという話を、聞く事があります。
彼らはその人が肉体を離れるまで、その人のそばに付き添い、その時が来れば、あの世への案内人になってくれるのでしょう。
実はこういう存在が、幽霊になってしまった者にも、声をかけているのではないかと思われます。
しかし、強い悲しみなどの念に囚われていると、それらの存在の声が、聞こえないのかも知れません。

生きている人間で言えば、部屋の中で、自分だけの世界に、引き籠もっているのと同じです。
ただ、永遠に引き籠もっているわけでは、なさそうです。
何故なら、鎧武者の幽霊の話はあっても、縄文時代や弥生時代に生きた人の幽霊話は、聞かないからです。
時間はかかるかも知れません。
でも、本人の中のわずかな心の変化が、いずれは全体の感情の渦を、引き止める力になるのだと思います。
あるいは、感情の渦の力が弱まる事で、あの世から迎えに来ている人の、声が聞こえるようになるとも考えられます。
ただ、いずれにしても、強いネガティブな想いを抱いたまま、この世を去るという事は、お勧めできません。
どんなに嫌な事があったにしても、避けた方がいいと思います。

最近、自ら命を絶ってしまう人が、増えています。
一見、楽しく過ごしているように見える人が、ある日、突然、亡くなってしまう事もあります。
みんな、本当の心の内は、なかなか人に喋りません。
ですから、心の中の感情の渦を、違う状態に変化させられず、ただ増幅させてしまうのでしょう。
自分でも、どうにもできなくなるほど、感情の渦が大きくなると、その人は突発的に思いがけない行動を、取ってしまいます。
自分の中に、ネガティブな感情の渦がある人は、その渦が大きくなる前に、幽霊が示している事を、理解しておくべきでしょう。
自殺をする人は、この世の全てが嫌になり、そこから解放されたくて、命を絶つのだと思います。
それでも結局は、自分が消滅する事はないのです。
つらい思いは、そのまま残り、そこから抜け出す事は、かえって容易ではなくなるでしょう。
ただ、残された人々の悲しみを、知る事ができたならば、それが死者の心を正気に戻し、幽霊になる事を、防げるかも知れません。

自ら命を絶った人の多くは、恐らく自分の取った行動を、大いに悔やんで、残された人たちに詫びるのだと思います。
そして、案内人に従って、次のステップのために、あの世へと移行すると思われます。
ただ、一部の人たちは残念ながら、幽霊になってしまうのでしょう。
それは、本当に気の毒な事です。
でも、必ず助けは来てくれます。
それに、家族や友人たちの祈りは、精神エネルギーの波として、きっと幽霊になった者の、心に届くでしょう。
それは感情の渦を抑える力となり、あの世への移行を、早める事ができるに違いありません。
あの世と幽霊 その1

日本では、死んだ者の魂は、あの世へ行くと、伝えられて来ました。
ほとんどの人が子供の頃に、そんな話を聞かされたのではないでしょうか。
でも、子供はあの世と言われても、よくわかりません。
喋っている大人だって、何も知らないまま話すのですから、仕方がありません。
ただ、大人も子供も、この世は自分たちが生きている世界で、あの世は死んだ者がいる世界だと、受け止めています。
宗教的な話はともかく、人の心を精神エネルギーととらえたならば、そのエネルギーが消滅する事はありません。
エネルギーは変化をする事はあっても、消え去る事はないのです。

生きているというのは、心と肉体が結びついている状態を言います。
死ぬというのは、この結びつきがなくなる事です。
肉体の方だけ見ていると、心が消滅したように思えます。
しかし、肉体から解放された心は、それまでとは別の状態で、存在しています。
つまり、この世とあの世という考え方は、間違いではないと言えます。
科学がこれほど発達した現在でも、世界の本当の姿は、理解できていません。
遥か昔の人たちが、世界がこの世だけではないと考えただけでも、すごい事だと思います。

ところで、肉体とのつながりを失った心は、その後、どこへ行くのでしょうか。
昔風の言い方で、あの世と呼ばれる領域へ、移るのだとすると、幽霊という存在は、どう説明できるのでしょう。
死んだ者がみんな、あの世へ行くのだとすると、幽霊の存在は、その説明とは矛盾する事になります。
それについて、幽霊が存在するのは、この世に未練があるからだと、説明されています。
つまり、未練なく亡くなった人は、すんなりとあの世へ移行し、未練を持った人は、この世に留まって、幽霊になるというわけです。
この場合の幽霊は、はっきり姿を現す者だけではなく、音や気配だけの者も含みます。
確かに、幽霊の話がある所には、悲惨な事件や事故が、付きもののように見えます。
思いがけない死や、恨みや悲しみを抱いた死は、死者が幽霊になる要因かも知れません。

ただし、例外もあります。
死の研究で世界的に有名な、故キューブラー・ロス博士は、その著書の中で、幽霊との遭遇について語っています。
それは日中、ロス博士が仕事をしていた時の事です。
廊下を歩いていたロス博士の前に、一人の女性が現れます。
その女性はロス博士の患者で、その時には既に亡くなっていました。
この女性はロス博士に、お世話になったお礼が言いたくて、現れたと告げました。
彼女の見た目は、生きている人間と全く変わりません。
ロス博士は、女性が自分の妄想ではない証拠を、示して欲しいと頼みました。
女性はそれを承諾し、ロス博士が持っていた書物に、ロス博士のペンで、サインをすると、すっと消えてしまいました。
女性がいなくなった後も、ロス博士の書物には、女性のサインが残されていました。

この女性の幽霊は、ロス博士にお礼を言うために、現れました。
悲惨な事件や事故の、被害者ではありません。
ただ、何としてもロス博士に、感謝を述べたいという、一念があっただけです。
この一念も、一種の未練と考える事はできます。
ただし、この未練は、実際にロス博士に会って、お礼を述べる事で、果たせる未練です。
ロス博士に感謝をした事で、未練がなくなった女性は、あの世へ移行ができたのでしょう。
一方で、果たしたくても果たせない、未練を持った幽霊は、その未練に引っ張られ、この世を去る事が、できずにいるのかも知れません。
自分の思いが、自分の状態を決める。
それが幽霊から知る事のできる、真実ではないでしょうか。
子育ては種まき

子供を育てた経験がある方、あるいは現在子育て中の方は、わかると思います。
親というものは、人として大切な事を、我が子に伝えたいと考えるものです。
子供も小さいうちは、親の話を素直に聞いてくれるかも知れません。
でも思春期に入ると、親の話など聞こうとしなくなります。
どうしても楽しい事や興味を覚えた事に、気持ちが向いてしまうからです。
それに、思春期だと自分は一人前だと、考えるようになります。
いちいち小言を言われるのは、嫌なのです。
口では、わかったと言いながら、子供は注意された事を、繰り返します。
それで何度も注意されると、今度は開き直ったように、逆切れします。

子供が何でも、親の言う事に従うと、自我が育っていないのではないかと、心配になります。
でも、ちっとも言う事を聞かない子供も、心配になるものです。
おやっと思うような事をする子供が、よその子供であれば、あえて何も言わない事が、多いと思います。
しかし、その子供が我が子であったなら、きびしく咎めるのではないでしょうか。
それは周囲への迷惑や、子供の将来を考えての事です。
中には、子供が他人に迷惑をかけても、平気な親もいます。
子供の行動を見守ると言うより、子育てを放棄しているような親も、時々見かけます。
そういう親や子供を目にすると、自分の子供だけは、ちゃんとしつけようと、普通の親は考えると思います。
ところが、それで子供にうっとおしがられたり、無視されたりする事も多いでしょう。
好い加減な親を、うらやましがられたりすると、親として情けないやら悲しいやらです。
思わず子供と口論になったり、喧嘩をしたりすれば、子育てが嫌になってしまいます。

でも、自分を振り返ってみると、どうでしょうか。
若かった頃には、自分も親の言う事を、素直に聞いていなかった方が、多いのではないでしょうか。
子供なんて、こんなものだと思う事ができれば、少しは気が休まるでしょう。
それでも、どうしても親ですから、子供の事は期待もしますし、心配もします。
その事自体は、親ですから仕方がないと思います。
しかし、その気持ちを子供には、あまり見せない方が、いいのかも知れません。
期待も心配も、子供にとっては、余計なお世話でしょう。
子供の方から何か相談があれば、話を聞いてやればいいと思います。
でも、何も言われなければ、親の方からは何も言わずに、見守っていた方がいいでしょう。
子供は痛い目に遭って、育つものだと受け止めて、あれこれ注意したい気持ちを、ぐっと呑み込むのです。
また、いつか立派になった子供の姿を、見てみたいと思うでしょう。
でも、そこもこだわるのは、やめましょう。
親が生きている間に、子供が立派になるとは限りません。
親が死んだ後からでも、とにかく子供が本当の一人前になったなら、それでよしとするのが、いいと思います。

親が子供に対してできるのは、子供が一人前の人間になるための、知恵の種まきだけです。
まいた種がいつ発芽して、大きく育って、花や実をつけるのか、それはわかりません。
同じ兄弟姉妹でも、一人一人が違う人間です。
同じように種をまいても、種の育ち方が違うのです。
それに、まいた種自体が、実は不良品だったという事も、有り得ます。
自分では最高だと思っていた種が、時代の流れに合わないものに、なる事もあるのです。
いずれにしても、いい質の種とタイミングがあれば、きっと花は咲くでしょう。
運がよければ、その花を見せてもらえるかも知れません。
でも死ぬまでに、花を見られない可能性もあります。
それでも大切なのは、子供が花を咲かせる事です。
それを親が確かめる事が、大切なのではありません。
花が見られなくても、がっかりする必要はないのです。
親は自分がまいた種が、いつか必ず、きれいな花を咲かせると信じて、子供を見守るだけでいいのです。
そもそも自分自身の花が、どうなったのかも、定かではないでしょう。
私たちにも親が、種をまいてくれたはずです。
その種は今の時代に、合わないものかも知れません。
でも、その種をまいてくれた親の気持ちは、理解ができると思います。
親がまいた種が、花を咲かせる事がなかったとしても、問題はありません。
自分を想ってくれた親の気持ちは、私たちの心の中に、きれいな花を咲かせているでしょう。

自分の人生 他人の人生2

楽しい自分にしても、つらい自分にしても、今自覚している自分というものは、お面のようなものです。
今から自分は違う自分になる、と言うのは、今日から違うお面をかぶると、宣言する事です。
お面の下は同じです。
そこに本当の自分がいます。
かぶっているお面が、気に入らなくなったなら、新しいお面に変えるだけです。
本当の自分は、何も変わりません。

言い換えれば、お面というものは、自分が体験したいと思うものの、象徴です。
悲しみを体験したければ、悲しい顔のお面です。
喜びを体験したければ、笑顔のお面です。
とにかく、騙されたと思って、お面を変えてみて下さい。
今日から、違う自分になると、宣言するだけなのです。
お面を変えたら、そのお面に合うものしか、受け付けてはいけません。
そうしていれば、自然に状況も、そのようになって行きます。
笑顔のお面をかぶっていれば、楽しいことしか見えなくなります。
悲しいことに出会っても、そこに希望や夢が見えるのです。
その先にあるのは、喜びと笑顔です。
さあ、試してみて下さい。
話は変わりますが、若い頃に自分ができなかった事を、自分の子供に託そうとする人がいます。
子供が素直に受け止めて、それを楽しんでくれるのならいいでしょう。
でも、子供に反発される事も、あると思います。
子供が従ったとしても、本当は違う事がしたかったと、後から恨み節を、聞かされるかも知れません。
いずれにしても、子供には子供の人生があるのです。
無理にさせるのは、よくありません。

自分の人生が、他人が操作されているとしたら、どう思われますか。
恐らく、好ましいとは思わないでしょう。
つまり、自分も誰かの人生を、操作するような事を、してはいけないのです。
もちろん、本当の操作などできません。
操作できたように見えたなら、それは相手を苦しめているのです。
自分が何かしたいのであれば、自分でやるべきです。
年齢なんか関係ありません。
今、それをやりたいかどうかです。
誰かにさせたり、してもらっても、意味がありません。
人生は、自分が楽しむためにあるのです。
つらい事があっても、それは喜びを知るためのものです。
以前に大変だったから、今も大変だ、という事はないでしょう。
他人の人生が気になる人は、自分に自信がなく、自分の人生を諦めているのだと思います。
でも、諦めるなんてもったいないですよ。
いつかは、この世を去る日が訪れます。
その時まで目一杯、人生を楽しむと決めましょう。
人生とは、自分だけのものです。
せっかく生きているのですから、楽しみましょう。

自分の人生 他人の人生1

人生とは何でしょう。
人生とは、その人そのものです。
その人の思考や行動、その人がいる環境、それに対するその人の感覚や感情、それらの記憶と将来への不安や希望。
それらの全てが、人生なのです。
我が道を行くとばかりの、人生もあるでしょう。
世間に流されているような、生き方もあるでしょう。
我が道を行くのは、自分でその道を選んでいると、誰にもわかりやすいですね。
でも、世間に流されているというのも、流されるという道を、選んでいるわけです。
どちらにしても、全ては自分で選んでいる事なのです。

自分は無力で、他人に逆らえない。
だから、本当はこんな生き方は嫌だけど、そうせざるを得ないんだ、と言う方もいると思います。
しかし、自分は無力だと決めつけているのは、やはり本人なのです。
他人の言動に従わない方法は、いくつもあります。
その全てを試みないまま、相手に従うというのは、無力な自分を演じる事を、本人が選択しているわけです。
言う事を聞かなければ、お前を殺すぞと、言われたとしましょう。
殺されるのは嫌だと思う人は、相手に従うでしょう。
それは、従うことを選択したのです。
でも、死んでも従うものかと思う人は、別の選択をします。
殺されるかも知れませんが、相手には従いません。
今のは、極端な話です。
でも、どんな状況にあっても、自分の人生を決めるのは、自分自身なのです。
他の誰にも、その主導権はありません。
どんなに相手が脅して来ても、本人が嫌だと言えば、それまでです。
他人はその人を、思い通りにする事はできません。

自分の人生は、つらくて嫌だと思うでしょうか。
もしそう思うのなら、そんな人生はやめて、もっと楽しい人生を送るよう、自分で決めればいいのです。
足を引っ張るとしたら、根拠のない価値観でしょう。
自分なんかが、そんな事できるわけがないとか、楽しい人生を送れる人は、恵まれた人だというものです。
その価値観を、後生大切に、抱き続けるのは自由です。
でも、それで本当に生きるのが嫌になるのなら、さっさとその価値観を捨てればいいのです。
簡単な話です。
死んで、新たな人間に生まれ変わりたいと、思うでしょうか。
ならば、朝、目が覚めた時に、自分は別の人間になったと、思えばいいのです。

古い価値観は一切捨てて、これからは新しい価値観で、生きると決めるのです。
嘘だと思うかも知れませんが、本当に簡単な事です。
自分は悲しみの役を、演じていた役者だと思って下さい。
もうその役は十分演じたから、今度は別の役に変更すると、決めればいいのです。
人間、そんな簡単に変われないと、思うかも知れませんね。
でも、そもそもの問題は、今の自分というものが、生まれもってのものだという、間違った信念がある事です。
本当の自分というのは、生まれて来る前の自分です。
今の自分ではありません。
今、自分だと信じているものは、産まれてからこれまでの間に、世の中からすり込まれた、いろんな価値観の塊なのです。
本当の自分は、その価値観を全部、取り除いた所にあるのです。