人生は電動アシスト付自転車

電動アシスト付自転車は、自力でペダルを漕ぐと、電動モーターが動き出して、ペダルを漕ぐ力を軽減してくれます。
つまり電動モーターは、あくまでも補助であって、主力ではないのです。
ポイントは、まずは自分でペダルを踏むことです。
ペダルを踏まなければ、モーターが勝手に動いて、どこかへ運んでくれるわけではありません。
その代わり、その電動モーターの補助力は、かなりのものです。
普段体を鍛えていない人が見れば、これは大変だと思うような坂道でも、モーターが補助してくれるお陰で、すいすいと登って行けます。
普通の自転車であれば、こうは行きません。
すぐにへとへとになって、坂道を登ることを、諦めてしまうでしょう。
これは、人生とよく似ていると思います。

多くの人が、みんな同じ世界に住み、同じように生きていると、信じているでしょう。
それなのに、自分と他の人たちが違うのは何故だろうと、思うことがあるのではないでしょうか。
あの人ばかり上手く行って、自分はちっとも上手く行かない。
どうしてみんなは、そんなに平気な顔で生きているのだろう。
どうすれば、自分がやりたい事をやって、暮らして行けるのだろうか。
こんな風に考えてしまいますよね。
でも、そんな時、あなたの目には、みんなが同じ自転車に乗っているように、見えているのです。

自転車と言っても、いろんな種類があります。
競走用の自転車もあれば、買い物などに使う、いわゆるママチャリと呼ばれる自転車もあります。
電動アシスト付自転車は説明しましたが、ペダルを漕がなくてもいい、電動モーターだけで動く自転車もあるようです。
これではバイクと同じですよね。
そう言えば、50ccバイクを原動機付自転車と呼びますが、これも昔は、本当に原動機が付いた自転車だったのです。
ペダルを漕いでも進めますが、原動機の力だけで動くこともできるのです。
当然、漕がなくても進む方が楽ですから、そのうちペダルがいらなくなり、今のようなバイクの形になったのでしょう。

このように自転車と言っても、いろいろあるわけです。
人生を苦もなく進んでいるように見える人は、そうでない人とは、事情が違うのです。
たとえば、親の力を利用して生きている人。
こんな人たちは苦労知らずで、何でも欲しい物を、気ままに手に入れます。
苦労をしないから、他人を気遣うことが、あまり上手ではありません。
彼らの乗る自転車は、アシストではない電動自転車、あるいは原動機付自転車です。
楽に速く移動できる事だけが、自転車の喜びだと信じる傾向が、彼らにはあります。
しかし、親の力がなくなり、自転車のモーターが動かせなくなると、大変です。
自分でペダルを漕ぐことがなかったので、どうやって進めばいいのかもわかりません。
順調だったはずの人生は止まってしまい、途方に暮れるしかありません。

苦労を重ね、体を鍛えた人は、乗る自転車を選びません。
その時に手に入れた自転車を、自在に乗りこなします。
競争やスピードを楽しむこともありますが、ゆっくりと走って、景色を楽しむこともします。
それでも、思いがけない事故や災害、あるいは病気のために、自慢の自転車に乗れなくなるかも知れません。
周りを見ると、体も鍛えていないし、上等の自転車もないので、ヒィヒィ言いながら、普通の自転車を漕いでいる人が、大半のように見えます。
中には、疲れ切ってしまって、ペダルを漕ぐことを、やめてしまった人もいます。
しかしそんな中に、自分や他の普通の人たちと、見た目は何も変わらないのに、何だか上手く人生を、やり過ごしている人がいます。
そんな人が乗っている自転車こそが、電動アシスト付自転車なのです。

大抵の人は何かやりたい事があっても、でもお金がないからできないとか、そんな事できるわけないよね、なんて考えて、自分で自分にブレーキをかけています。
やってみないとわからない事を、失敗する事を恐れて、初めから結果がわかっているような顔で、自分を制御してしまうのです。
これでは人生を進んでいるようで、立ち止まっているのと同じです。
しかし、自分がやりたい事があれば、ためらいもせずに、そこへ飛び込んで行く人たちは、自分を制御する事はありません。
特に、何かに夢中になっている子供は、みんなそうですね。
上手く行かないようであれば、上手く行く道を探すだけです。
もしかしたら、だめかも知れないなんて、考えないのです。
他の人から見れば失敗のように思えても、その人たち自身は、失敗とは受け止めません。

たとえば、目の前を絶ち塞ぐ壁があったとします。
多くの人は、もう前には行けないのだと考えます。
でも、この人たちは、そうか、別の道を探れという事か、と受け止めるのです。
他の人たちにとっては、悪い状況に見えても、この人たちには、全てが道しるべに見えるのです。
すると、障害と呼べるものはなくなり、スイスイと進んで行けるのです。
不思議なことに、こんな感じで動いていると、思いがけない所から、いい情報が舞い込んで来たり、力を貸してくれる人が現れます。
なかなか信じられないかも知れませんが、本当にそうなんです。
まずは何があっても、悪く受け止めないようにして下さい。
悪く受け止めなければ、不安が消えます。
不安が消えれば、自分を制御することも、なくなります。
そうして自分がやりたい事に向かって、まっしぐらに進めば、どんどん楽しい方向へ、状況は変わって行くでしょう。
途中で大きな障害が起こったように見えた時は、自分の気持ちがぶれていないかを、見直しましょう。
もし、ぶれていないのであれば、それは新たなステージで、新たな楽しみが待っているという事です。
決して諦めず、人生のペダルを漕ぎ続けて下さい。
きっと、普通だった自転車が、電動アシスト付自転車に、変わっていることでしょう。

他力本願
辞書によると、他力本願とは、自分の力でなく他人の力によって、望みを叶えようとすることとあります。
しかし、この言葉は元は仏教用語で、他力とは他人の力ではなく、阿弥陀仏の慈悲の働きをいうのだそうです。
生きとし生けるものを、救わずにはおれないという、仏の強い願いの働きが、他力本願なのです。

一般的には、この言葉を宗教とは関係のない場面で、他力本願ではだめだぞ、というように使います。
でも、これは本来の意味をご存知の方からすると、正しい教えの真逆を、言っていることになるわけです。
ただ、言いたいことはわかりますよね。
自分で何の努力もせずに、他人の力や偶然を、当てにしていてはいけない、ということが言いたいわけです。
言葉の使い方はともかく、言わんとしていることは、間違いではありません。
何かを願うのであれば、自ら行動を起こすこと。
これが一番大切です。
この世界では、願いと行動は表裏一体です。
頭の中で願うばかりで、実際には何もしないのであれば、それは願っていないことと同じです。
願っているのであれば、行動を起こせというのも、本当はおかしなことで、願っていれば、それに応じた行動は、自然に起こるものなのです。

たとえば、お腹が空いて何かを食べたいと思えば、何か食べ物を探しますよね。
頭の中で、何か食べたいと考えながら、じっとしているなんて、怪我や病気で動けない人でなければ、有り得ないことです。
それと同じで、本当に願っているかどうかは、その人の行動を見ていれば、わかります。
国民、市民のみなさんのために頑張りますと、選挙のたびに叫んでいる議員の先生方が、当選後にどんな行動を見せるのかは、みなさんもよくご存知でしょう。
さて、他力本願に話を戻しますが、願という漢字が入っているので、これを一般的な個人の願いと、混同してしまうのです。
仏の願いと個人の願いは、全然異なります。
願っている内容の、次元が違いますね。
また、仏が願う方向は、必ずしも現世を生きる人には、受け入れらるとは限りません。
それは一人一人が、生きるということを、どのようにとらえているかで、異なって来るからです。
多くの人が生きて行くために、いろいろと頭を使います。
でも、どうして生きているのだろうか、生きるとはどういうことなのだろうか、ということには、全くと言っていいほど、頭を使いません。
このことに関しては、眠った状態と同じと言えます。

たとえば、夢の世界にいる時に、大抵の場合は、それが夢だと自覚していませんから、夢の世界の出来事についてだけ、思考を巡らせます。
何でこうなっているのか、なんて考えずに、ただ夢の中の流れに乗って、夢を体験しているだけです。
多くの夢には意味があるのですが、目が覚めても、その意味が理解できません。
ましてや夢の中にいる間は、そんなことがわかるはずもありません。
それと同じ状況が、この世界で生きている人たちに、言えるのです。
みんな、この世界の流れに流されているだけです。
この世界が何なのか、どうしてこんなことをしているのか、さっぱりわからないし、疑問にすら思わないのです。

この世界を外から眺めることができたなら、何とかみんなの目を覚まし、本当の理解ができるように、導いてあげたいと思うのではないでしょうか。
おそらくそれが、仏の視点であり、他力本願ということなのだと思います。
しかし、これを宗教的な考えだととらえてしまうと、自分は仏教徒ではないから、関係ないやと考えてしまうかも知れません。
でも、そうではなく、仏教では仏という言葉を用いているけれども、その言葉が示そうとしているものは、何だろうと考えて下さい。

仏は心の中にいると、言われています。
その仏という言葉を、自分なりの言葉に、変えてみるといいでしょう。
仏という言葉が、何を伝えようとしているのか。
宗教という枠を越えて、考えてみて下さい。
すると、他力本願という言葉が、仏教徒ではなくても、とても奥深いものだとわかると思います。
パラレルワールドの自分

パラレルワールドが無数に存在し、それぞれに別の自分が、存在していると考えて下さい。
全部自分ですから、それぞれのパラレルワールドを離れた所で、一つにつながっています。
本来の自分とは、パラレルワールドの外にあり、それぞれの世界を体験するのは、本来の自分の分身です。
いずれの分身の価値も対等であり、本来の自分にとって、不要な経験はありません。
どんな経験であっても、そこには経験するだけの、価値があるわけです。
さて、ここで今の自分を、振り返ってみて下さい。
自分なんか、少しも大したことはない。
自分の経験なんて、全然価値があるとは思えない。
自分の人生なんて、つまらない。
そう思う人は、結構いるのではないでしょうか。
そう思ってしまう大きな理由は、人生は一回こっきりだと、信じていることです。
一回しかない人生なのに、自分には優れた能力がないし、環境的に恵まれていない。
それを挽回するだけの力もなければ、チャンスもない。
せいぜい他の似たような人たちと、同じ程度の暮らしを、維持できるように頑張るしかない。
きっと、こんな風に考えているのだと思います。
しかし、自分には無数の分身がいるのだとすれば、違う考え方ができるでしょう。

たとえば、自分の家は貧乏で、自分自身も収入に恵まれていないとします。
この場合、お金持ちの自分は、別の世界にいるのであり、自分の人生の目的は、お金持ちであることではない、と考えることができます。
お金持ちはいいように思えるかも知れませんが、お金持ちだからこそ、体験できないことや、見過ごしてしまうことがあるのです。
そういったことを経験するために、あえてお金に縁がない人生を、送っているのかも知れません。
あるいは、お金に困っている状態から、奇跡的に大金持ちになるという、そんな成功物語が待っていることも、考えられます。
一見すると、平凡な人生には、さほどの喜びがないように、思えるかも知れません。
しかし、平凡な人生にも、多くの喜びが隠されているのです。
また、平凡という言葉でひとくくりにしたくなる人生には、人の数だけドラマがあります。
一つ一つのドラマに、同じものはありません。
という事は、実は平凡な人生というものは、存在しないのですね。
平凡という言葉が示すのは、特別目立つことがない、という意味に過ぎません。
でも、人生を満喫するために、目立つ必要はないのです。

世の中には、いろんな人生があります。
どの人生にも意味があり、価値があります。
ただ人生を歩む者が、その意味や価値に、気がつくかどうかはわかりません。
もしそうだとしても、それはそれで、大元の自分には、意味があり価値があるのです。
大元の自分は、無数の分身の人生を、全て把握しています。
今の私たちとは、理解度の次元が違います。
私たちには、よくわからない事でも、そこに意味や価値を、大元の自分は見い出せるでしょう。
私たちは、大元の自分の分身として、自分が選んだ人生を、とことん探求して満喫すればいいのです。
自分では何も考えず、周囲の価値観に振り回されっ放しでは、せっかくの人生を味わえません。
それでも大元の自分は、何らかの意味を見出すのでしょうが、せっかくの人生です。
自分の好奇心に従って、自分ならではの人生の楽しみ方を、見つけましょう。

パラレルワールドに多くの分身がいたとしても、自分が選んだこの世界は、やはり一回こっきりです。
どんな形でこの世界を終えるにしても、決して無駄なことにはなりませんし、人生の価値は残ります。
そういう意味で、人生一回こっきりという事を、悲観的に見る必要はありません。
しかし、直接人生を体験している、自分が不安な状態でいるのは、好ましくないでしょう。
ですから、一回こっきりの人生を大切に、過ごすことが大切です。
そのためには、他人の価値観よりも、自分の価値観を大事にしましょう。
他人の目を気にするのではなく、自分の好奇心に従うのです。
他人が興味を示さなくても、自分が関心を持つのであれば、そこにとことん力を注ぎましょう。
その結果が、仕事やお金に結びつくかなんて、考えてはいけません。
そこに意識を向けてしまうと、好奇心が示す方向から、ずれてしまいます。
そういう事は、あとから勝手に、ついて来るものです。
自分がやりたい事をする。
自分が生きたいように暮らす。
ありたい自分の姿になる。
考えるのは、これだけです。
人生一回こっきりという事実を、ポジティブにとらえ、自分が選んだ今の人生を、大切に育てて下さい。

当たり前のこと
日本に暮らすナイジェリアの男性が、拾った財布を交番に届けて、財布が無事に持ち主に戻ったという話が、ニュースの記事に出ていました。
どうしてそんな事が、ニュースの記事になったのでしょうか。
それは、彼がナイジェリアの人間だからです。
でも、ナイジェリアの人が、財布を拾って届け出たことが、日本で話題になったのではありません。
彼の行いが母国のナイジェリアに伝わり、大統領から感謝の言葉が、彼に贈られる事態になったからです。
このナイジェリアの男性は、イケンナ・ウェケさん(38)です。
イケンナさんが育った家庭はとても貧しく、12才の時に、イケンナさんは父親を失くしたそうです。
亡くなったお父さんは、とても誠実な人柄で、「朝、家を出るときに持っていなかったものは、持ち帰らないこと」と、イケンナさんたち子供に、厳しく教えたそうです。
他人をねたまず、自分の置かれた状況に満足することも、イケンナさんは父から学んだと言います。
イケンナさんは、ゴミ拾いなどをして貯めたお金で、高校に進学したものの、大学のお金までは工面できませんでした。
それでも、教員や地元の新聞社のスタッフとして働きながら、将来は大学の教師になるという夢を、持ち続けていたそうです。
そして2013年。
留学生増加のため、日本の文部科学省が実施した、奨学金に申し込んで合格し、イケンナさんは筑波大学へ入ることができました。
今は博士課程まで進み、母国の北東部で襲撃事件を繰り返す、イスラム過激派ボコ・ハラムを研究しています。
どうすればテロを根絶できるのか、その方策を探っているのです。
そんな中、今年の六月に、バスターミナルの近くで拾ったのが、数枚の一万円札とクレジットカードなどが、入った財布でした。
それを警察に届けると、拾ったお金の一割を、もらう権利があると説明されたそうですが、イケンナさんはそれを断ったと言います。
しばらくしてから警察から、落とし主に財布が戻ったという、連絡が入りました。
落とし主からも電話があり、感謝を告げられたそうです。
この出来事をイケンナさんは、フェイスブックに載せました。
と言うのも、その頃、26人のナイジェリア人が、他国でネット詐欺などの容疑で逮捕され、ナイジェリアのイメージが、とても悪くなっていたからです。
それで、イケンナさんはフェイスブックで、全てのナイジェリア人が、悪い人間なのではないと、訴えたのです。
すると、その話が母国に広がり、ナイジェリア大使館から感謝の書簡が、イケンナさんに届けられました。
さらにナイジェリア大統領が、イケンナさんを誇りに思う声明を、発表したのです。
イケンナさんは栄誉なことと受け止めながらも、困惑しました。
自分は財布を拾っただけで、特別なことはしていないのに、こんなに有名になってしまうのは、おかしいと思ったのです。
そこでイケンナさんは、母国の社会を変えたいと考えました。
イケンナさんは財団を立ち上げ、正直であること、清廉であることを、母国の人たちに教えることに決めたのです。
そういった事が母国でも、当たり前になるようにしたかったのです。
そのために日本が子供たちに教えていることや、自分自身が日本で経験したことを、財団で伝えたいと、イケンナさんは考えました。
その話を聞いた財布の落とし主も、イケンナさんの財団への、協力を申し出てくれたそうです。
私はイケンナさんの望みは、きっと叶うものと思います。
きっとナイジェリアも、今よりずっといい国になるでしょう。
でも一方で、私は日本での当たり前を、改めて考えさせられました。
私たちが当たり前と考えていることは、世界全体から見た場合には、当たり前ではないという事です。
それこそ当たり前の話ですし、そんな事は以前から、何度も言われていました。
それでも大統領が声明を出すのは、余程のことでしょう。
でも、日本でも当たり前のことが、当たり前でなくなりつつあるように、感じることがしばしばあります。
イケンナさんの話は、そういった事を改めて考えさせてくれる、いい機会になりました。
イケンナさんに感謝をしつつ、イケンナさんに恥じないような、日本であり続けて欲しいと思います。
人類の進化2
コンピューターのOSが、大きくバージョンアップされた時、それまでのアプリケーションプログラムが、そのままで使えるのかどうかを、確かめなければなりません。
使えなければ、アプリケーションプログラムもバージョンアップさせて、新しいOSに対応できるようにする必要があります。
そうでなければ、初めから新しいOSに対応している、新たなアプリケーションプログラムを、購入するでしょう。
ただ、OSプログラムやアプリケーションプログラムが、バージョンアップすることで、パソコン本体の性能までも、さらにいいものを要求することは、よくあることです。
古いパソコンを使っていると、新しいOSプログラムを導入できない場合があります。
何とか導入できても、新しいプログラムの機能を、全開で使えないかも知れません。
せっかくアプリケーションプログラムを、バージョンアップさせても、これまでより動きが悪くなる可能性もあります。
そうなったら、もはやコンピューター本体を、買い換えねばなりません。
それと同じように、人類の意識が大きく進化を始める時、その変化にまったくついて行けずに、この世を去る人はいるでしょう。

自分の価値観が、新しい世界では通用しないのであれば、価値観を変えない限り、新しい世界で生きて行くことはできません。
それでも、自分はこの価値観がいいんだと言う場合、新たな世界とは別の世界を、探す必要が出て来るでしょう。
一方で、価値観とすれば新しい世界は、まさに自分に打ってつけという人でも、自分の体が衰えていて、新しい世界を堪能できないかも知れません。
そういう人は、いったん世界を離れて、新たな体を手に入れ、元気100倍の状態で、世界を楽しもうと考えると思います。

そして今、人類の意識はまさに大進化を、始めているように思えます。
大進化の結果、人類の意識がどのようになるのかは、目の前で起きていることを、よく観察すればわかるでしょう。
大進化に不要な価値観は、消えて行くのみです。
残された価値観、あるいは新たに産み出された価値観が、これからの人類のあるべ姿を、象徴しているのです。
今、世の中では何が、求められているのでしょうか。
人々が本当に望んでいるのは、どんな暮らしなのでしょうか。
そこに人類大進化の方向が、見えると思います。
その中で、あなたは何を望むでしょうか。
何を望もうと、いいとか悪いとか言う話ではありません。
ただ、人類の意識が大きく変わろうとしている事に、心が惹かれるのかどうかと、いうだけの事です。

他の人の価値を、自分の価値と同等に見られる人は、きっと世の中の変化を、望ましいものとして受け入れることでしょう。
でも、他の人よりも自分の価値が高い、あるいは高くあることを望む人には、現在進行中で起きている変化は、耐えがたいものだと思います。
できれば、今からでも他の人々と、共に暮らすことに喜びを覚えられるよう、いろんな人の境遇に、思いを馳せるようにしてみたらいいと思います。
そして、他の人にはない自分の力を、少しでもその人たちのために、使ってみるといいでしょう。
その時に、自分がどんな感覚を得るのか。
そこがポイントです。
誰かの喜び、誰かの笑顔が、自らの喜びだと感じられたなら、きっとこのまま新しい世界でも、活躍することができると思います。
人類の進化1

私たちが見たり聞いたり触れたりして、体験している世界は、一人一人違います。
同じ世界を体験しているつもりではありますが、誰かが体験している世界は、その人だけのものなのです。
その人が目を閉じれば、その人の世界だけが見えなくなりますし、その人が耳をふさげば、その人の世界だけが聞こえなくなります。
その人がこの世を去れば、その人の世界は終わりになります。
他の人は世界を体験し続けていても、その人の世界は、そこで中断となるのです。
これはまさに、コンピューターやスマホの中のゲームと同じです。
全員が同じ世界に存在しているのだと、錯覚を起こしているのです。

ところで、コンピューターでは様々なプログラムが、動くための基盤となる特別なプログラムが、予め用意されています。
OSと呼ばれるものですね。
たとえば、wiondowsとか、macというプログラムがそうです。
これらのOSプログラムは、他のプログラムの基盤となっています。
ですから、OSプログラムがなければ、どんなアプリケーションのプログラムも動けません。
これらのOSプログラムがバージョンアップされると、それまで動いていたアプリケーションプログラムが、動かなくなることがあるのです。
つまり、新しくなった基盤が、古いままのアプリケーションプログラムには、合わなかくなるということです。

ここで話を戻しますが、私たち一人一人が、自分の世界を体験できるのは、その世界の構成に関与している、人類の集団意識があるからです。
言い換えれば、人類の集団意識が、人間としての世界を構築するための、情報を集める基礎プログラムを、提供しているわけです。
コンピューターのOSと同じですね。
一人一人の意識は、その基礎プログラムを利用して、自分の肉体を構成し、そこから世界の情報を集めて、自分だけの世界を創るのです。
私たちは五感を通して、集めた情報を元に、物理的な世界を体験し、そこに感覚や感情を付加して、自分なりの意味づけをした世界を、創り上げます。
その意味づけに基づいて、自分がどのような行動を選択するかが、決まって来ます。
その行動によって、新たな情報が加わり、そこに新たな感覚や感情も、付け加えられます。
その結果、私たちは自分の世界に対する、意味づけを強化したり、思い直したりするのです。

世界にはいろんな価値観があり、人の数だけ違った世界観があります。
その結果、天使のような行いをする人もいれば、悪魔のような人もいます。
それは人類の集団意識が、まだ洗練されていない、混沌とした状態にあるからです。
しかし、人類の意識が成長し、進化するのが自然であるならば、いずれこの混沌とした状態には終止符が打たれ、人類の意識は次なる形態を取ろうと、動き出すでしょう。
それはコンピューターのOSプログラムが、大きくバージョンアップされるのと同じです。

あるいは、昆虫が幼虫からサナギを経て、成虫へと変態するようなものでしょう。
サナギの中は、どろどろとした混沌状態に見えますが、やがて成虫の体を構築すべく、それまでとは違った、新たな形態が創られて行くのです。
そうなると、不要になった部分は、細胞が死滅して消えて行きます。
コンピューターのアプリケーションプログラムも、新しいバージョンのOSに、対応できるものは残れますが、対応できないものは消えて行くことになります。
同じように、人類の集団意識が進化を始めると、それに適応できる個人意識のエネルギーは、残ることができるでしょうが、適応できなければ、自分の世界を存続させることが、できなくなるでしょう。
その人の精神エネルギーが、消滅するわけではありません。
ただ、この世界を体験し続けることが、できなくなるということです。
昆虫の変態
昆虫は不思議な生き物です。
多くの昆虫は、その成長過程によって、姿が変わって行きます。
中でも、幼虫からサナギを経て、成虫になるものは、幼虫と成虫とで、全く別の生き物のように、見えてしまいます。

人間や動物は、子供と大人の形態が似ています。
子供は時間をかけて、ゆっくりと大人に姿を変えて行きます。
ですから、そういう形での成長であれば、不思議に思いません。
しかし、幼虫と成虫とで、全く異なる姿をしている昆虫は、不思議以外の何物でもありません。
いったい、どんな風にして、姿を変えるのだろう?
サナギの中は、どうなっているのかしら?
そんな風に考えたことが、あるのではないでしょうか。

実はサナギの中は、初めのうちは、ドロドロに溶けたように、見えるそうです。
その中には、不要になった部分の細胞が、自ら崩壊したものと、新たな形態を作るための細胞が、増殖したものが交じっているのですが、見た目には区別がつきません。
やがて不要な細胞は消滅し、成虫の形が構築され、時期が来ると、サナギの皮を破って、成虫が出て来るのです。
まったく生命の不思議を、感じさせられる昆虫の変態ですが、人間も母親のお腹の中にいる時に、似たような経過を経て、成長しています。
人間の受精卵は成長する過程で、魚のような姿になったり、爬虫類のような姿になったりしながら、最終的に人間の姿になります。
この過程において、鰓のようなものや、しっぽが作られるのですが、それは人間には不要なものですから、やがて退縮して行きます。
ただ、全体がどろどろに溶けて、全部が別のものに、置き換えられるわけではありません。
やはり昆虫の変態は、人間の成長の仕方とは、次元が違うようです。

ところで、今の人間社会を見ていますと、昆虫の変態を彷彿させられます。
これまでは災害にしても、不景気にしても、戦争にしても、部分的な変化はあるものの、地球全体に及ぶような、大きな変化はありませんでした。
どんな状況にあっても、お金を基本とした経済観念は、維持されていました。
資本主義だとか共産主義だとか言っても、お金がなければ、何もできない構造は、共通していました。
しかし、資本主義に行き詰まりが、見られるようになって来たところに、世界的なコロナ騒ぎです。
そこに地球温暖化に起因したと思われる、様々な災害が毎年のように、世界中を襲います。
もはや、これまでのようなお金を中心とした、社会は成り立たない状況が、これでもか、これでもかと言わんばかりに、積み上げられているようです。
昆虫の変態に当てはめて考えると、幼虫が脱皮を繰り返しながら、大きく成長して行く様は、肥大化する経済社会のようです。

幼虫は大きく育つために、とにかく食べます。
貪欲に食べ続けることが仕事のようです。
経済社会も利益を追求し、どんな事をしてでも、お金を稼ごうとします。
その結果、権力者や大企業が、市民を犠牲にしてでも、自分たちの利益を、求めようとして来ました。
しかし、それが経済社会の成長を、後押しする以上は、誰にも止めることができませんでした。
ところが、ある所で昆虫の幼虫が、成長することをやめるのと同じく、経済社会も成長を止める時期があるのでしょう。
そして、それがまさに今なのだと、私は感じています。

幼虫が成長をやめるのは、新たな形態に姿を変えるためです。
それと同じように、人間社会も経済社会から、新たな形態の社会へと、変化しようとしているのだと、私は思うのです。
そのために、これまでは当たり前だった事が、当たり前ではなくなりますし、成立していた商売が、成立しなくなるでしょう。
でも、それは新たな形が、生まれるためです。
これからは古い形態に、こだわり続けるのではなく、新たな形態の仕事や暮らし方が、求められるのです。
初めのうちはその動きも、緩慢に見えるかも知れません。
しかし、やがて勢いのある流れになり、その流れに乗ろうとする、人々の動きによって、流れの勢いは、ますます強くなるでしょう。
恐らく、ここ数年のうちに、これまでの経済社会に代わる、新たな社会の形の礎が、姿を見せることになると思います。
その基本となるものは、お金ではなく、感謝と思いやりという、本当の人間らしさでしょう。
今の暮らしに、不安を抱く人は多いと思います。
でも、その中に感謝や思いやりと、出会う機会があるのでは、ないでしょうか。
そして、感謝と思いやり以外に、今の世界が置かれた状況を、乗り越えることはできないのです。
今の人類は、産みの苦しみの中にいます。
それは希望と喜びを、産み出すためのものです。
感謝や思いやりと出会ったら、その時の想いを大切にして下さい。
そして、その想いを基礎にした、暮らしを追い求めて下さい。
そうすれば、新たな社会が早く産み出され、産みの苦しみも、軽減されるはずです。
どうか、芋虫の経済社会から、蝶のように美しい社会に変わることを、思い浮かべ続けて欲しいと思います。

自己満足

一生懸命何かを創ったのに、そんなのただの自己満足じゃないか、と冷たく言われたことは、ありませんか。
それで、自己満足というものを、悪く見るようになった人は、いませんか。
自分が満足するのではなく、他の人を満足させないといけないんだと、考えてしまうと、何をしても面白味を、感じられなくなってしまいます。
誰かを喜んでもらうのは、大切なことです。
しかし、そのために自分の喜びを、犠牲にするのは間違いです。
そんなのはただの自己満足だ、という言葉の後ろには、続く言葉があるのです。
それだけでは、他の人には喜んでもらえないぞ、という言葉です。
つまり、自己満足は悪くないのです。
ただ、それだけでは他人を喜ばせるには、足らないものがあるという意味なんですね。

自分が喜びを感じられなければ、他人を喜ばせることはできません。
楽しみを知らない人は、他の人を楽しませることは、できないのです。
だから、自己満足というのは、とても大切なことなんです。
自分はこれでいいと思うのに、これの良さがわからないなんて、と思うかも知れません。
そういう時は、そのままにしておけばいいのです。
もしかしたら、あとになって、みんなの評価が変わる可能性もあるでしょう。
あるいは、あとで自分で、さらなるこだわりを、追求したくなる事もあると思います。

作品というものは、その人の気持ちの表れです。
誰かを喜ばせようという、気持ちがあるのなら、当然、それが作品にも表現されるでしょう。
表現しきれていないとなれば、何とかうまく表現するよう、工夫すると思います。
自己満足だと言われて、へこむようでは、作品への想いが少ないと言えます。
他の人にどう思われようと、関係ない。
これが、今の自分の気持ちなんだ。
そう考えて作るものは、ただの自己満足で十分でしょう。
他人がとやかく言うものではありません。
先に述べたように、評価は変わるものですから、それまで待っていればいいのです。
とにかく、何をするにしても、自己満足が基本です。

いわゆる創作活動でなく、日常の仕事や作業でも、同じことが言えます。
自分が満足することが基本です。
こだわりと言い換えても、いいですね。
そうでなければ続きません。
仕事や作業の質も、落ちるでしょう。
また、無理に続けようとすると、苦痛に感じてしまいます。
ただ、どんな所に満足するかという点は、意固地にならないで、楽しさを広げる意味でも、柔軟に考えるといいと思います。
無償の愛4
日常的な思考を止め、心の中に溜め込んだものを、洗い流せたならば、あなたは自分が元いた所との、つながりに気づくでしょう。
私たちは世界から、分離されているわけではありません。
しかし、あたかも分離されているかのような、日常の暮らしや価値観が、世界とのつながりをわからなくさせているのです。
ですから瞑想をしたり、大自然に触れたり、お風呂でぼんやりする事で、頭の中をリセットすれば、あなたの意識は世界とのつながりを、認識できるようになります。

本来のあなたという存在は、あなたが思っているよりも、遥かに大きな存在です。
今の自分というものは、その大きな存在の端っこの部分に、意識の焦点を合わせているだけなのです。
そして、普段の私たちは、その端っこの部分だけが、自分という存在なのだと、思い込んでいるわけです。
しかし、世界とのつながりを感じるようになると、意識の焦点が端っこから、もっと奥の方へと移動します。
ずっと奥の方へ、焦点を移動させる事ができたなら、体外離脱体験や夢の世界のような、特別な経験ができます。
でも、そこまでしなくても、端っこから少し奥へ、焦点を移動させただけで、あなたの意識は大きく変化します。
愛を感じる力が強くなり、いろんな物事を、受け入れられるようになります。
嫌いな人や、嫌なことが好きになるというのではなく、そういう人や物事を、受け入れられるようになるのです。
本当に全てが一つだと理解できたなら、敵対するものなど、存在しないという事が、わかるでしょう。
みんな元は同じなのですから、異質に見えても、本当の敵ではないのです。

それでも現実世界では、敵に見えるものがいます。
普通はその相手を、敵としか見ないでしょう。
しかし、愛の意識で相手を眺めると、どうして相手がそのように振る舞うのかが、見えて来るのです。
たとえ極悪人に見えようと、独裁者に見えようと、利己主義の塊に見えようと、その人の心が苦しんでいることが、理解できます。
だからと言って、現実世界で彼らに、好きなようにさせればいい、と言うのではありません。
自分を表現できる世界を守るために、必要な行動を取ることは、当然のことです。
そうして自分の世界を守りながら、相手のことは憎まず、早く苦しみから解放されるようにと、願ってあげるのです。
相手を憎んだり、相手と同じような事をすると、せっかく感じられるようになった愛が、わからなくなってしまいます。
愛を感じられるようになったなら、その感覚を維持できるようにするのが、いいでしょう。

また、意識の焦点を、端っこから奥へ移動させると、端っこにあった自分の意識を、客観的かつ愛をもって、眺めることができます。
自分に自信がなくて、自分を低く見ていたり、嫌な経験から立ち直れなままでいる自分。
そんな日常の自分を、高い視点に導くことができるのです。
人が悩む時は、問題を見ている視点が低いのです。
それは言い換えれば、固定観念や根拠のない価値観などが、問題解決の邪魔をしているという事です。
しかし、物事を高い視点から眺められるようになれば、問題を解決するには、どうすればいいのかが見えて来るのです。
仕事が順調で、自信満々の自分を、眺めることもあるでしょう。
そして、順調だと思っていた事に、何の価値もなく、本当に価値がある事を、何一つできていないと、気づくかも知れません。

愛に近づくと、本当の知性も高まります。
それは全ての存在に、近くなるからです。
そして、どんな悩みや問題を抱えている自分を、受け入れることができるようになります。
愛を感じる対象には、自分自身も入ります。
嫌な自分を許し、受け入れ、愛せるようになるのです。
それは他の人たちを許し、受け入れ、愛するのと同じことです。
逆に言えば、自分を許せない人は、他人を許せません。
自分を愛せない人は、他人を愛することができないのです。
でも、それは日常にいる、全体の端っこにある意識だけで、考えていることです。
本当の自分というものは、愛の世界に存在します。
心の奥に押し込めた愛の中を、探って下さい。
必ず、本当の自分に出会えるでしょう。

無償の愛3
愛とは、世界あるいは他の存在との、喜びや安らぎのある一体感です。
でも、どうしてそんな一体感を、感じるのでしょうか。
つまり、どうして愛は、存在しているのかという事です。
その答は、人間を含めた世界の全てが、元は一つだからです。
人の体は、無数の細胞で構成されています。
でも、元は受精卵という、たった一つの細胞でした。
受精卵が何度も何度も分裂を繰り返し、増えた細胞が様々な形に姿を変えて、そうしてできたのが、私たちの体なのです。

受精卵が二つに分裂すると、そこに二つの細胞の意識が生まれます。
しかし、受精卵全体の意識も残ります。
さらに分裂を繰り返しても、同じです。
全体の意識は維持されながら、その中に無数の細胞の意識が、生まれるのです。

細胞の意識は、全体の意識の一部分であり、別個のものではありません。
各細胞同士は、別個の存在のように見えますが、どちらも全体の一部です。
どんなに違う姿や、異なる役割を担っていても、元は同じなのです。
それと同じように、人間も元をたどれば、みんな同じ所に行き着くでしょう。
また人間だけでなく、地球上の全ての存在が、地球の成分で構成されています。
つまり、地球上の全ての存在は、地球の分身であり、兄弟姉妹なのです。
地球はと言うと、太陽系が生まれた時に、他の惑星たちと一緒にできたのですから、太陽系の星は、みんな兄弟姉妹です。
同じように考えると、太陽系と他の恒星や惑星は、銀河系の分身であり、兄弟姉妹です。
また銀河系も宇宙の分身で、他の星雲とは兄弟姉妹です。
この事から言えるのは、世界全体が私たちの兄弟姉妹であり、私たちは一人も漏れることなく、世界の一部なのです。
それは物質的な意味だけでなく、精神エネルギーとしても言えることです。
宇宙全体を精神エネルギーだと見た時、私たちの心は、やはり宇宙の一部なんですね。
自分が世界とつながっていると、感じることができれば、この上ない安心感を得られます。
この安心感は、この世界を生きて行く上で、大きな支えになってくれます。
だからこそ、人は他の人や生き物たちとの、つながりを感じたり、求めたりするのです。
そして、そのつながりを、愛という言葉で表現しているのです。

※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。
恋は愛への憧れです。
自分と一つだと感じられる相手を、求めているのです。
出会った瞬間に、自分と相手が一つの存在なのだと、気づく場合もあるでしょう。
でも、多くの場合は、この人が本当の自分の相手なのかと、おっかなびっくり確かめるのだと思います。
その結果、やっぱりこの人だと確信することもあれば、どうも違うみたいだと別れることもあるのです。
もし別れることになったとしても、相手のことを思いやり、その生き方を尊重して、相手の幸せを願うのであれば、それは愛ですね。
自分と相手は一つではないと、頭では考えながらも、実は二人が元は一つなのだと、意識の高い部分で気づいているのです。
こんな感じで、愛と呼べる想いは、意識の高いところから来ます。
通常の意識や感覚では、それを愛だとは、理解できないかも知れません。
私たちが普段理解している愛は、男女間や家族間など、人間関係というフィルターによって、歪めた形の愛です。
しかし、本当の愛というものは、そのようなフィルターを通さない、純粋なものです。
そんな愛を垣間見た時に、人はそれを無償の愛と呼ぶのです。