人生の目的 その2

活き活きできる場所や、仲間と巡り会い、自分が生きる意味を、見い出せたと思っていた矢先、怪我や病気で自由を奪われたら、どうでしょうか。
実際に、そういう不運に出会う人は、存在します。
せっかく見つけた新天地も、自分がそこで活躍できなければ、意味がありません。
それは、再び自分が生きる意味を、見失うということでもあります。
その場合、どんな社会を想定しても、やはり自分の居場所は、見つからないかも知れません。
しかしそれは、自分自身がそういう境遇の人を、役に立たないとか、意味や価値がないと見なしている、ということになるでしょう。
口に出して、そういう事を言わなくても、きっと心の中で、そういう人たちを、気の毒にと思っていたはずです。
何故、気の毒に思うのか。
その人たちには、未来がないように見えるからです。
そんな境遇に、自分自身がなったとなると、絶望しかありません。

でも、本当に絶望しかないのでしょうか。
怪我や病気で動けない人には、本当に価値がないのでしょうか。
価値がないと考える場合、それは視野が狭いことの表れです。
動きが不自由であっても、それを補うことは、いくらでもできます。
本人のやる気と、周囲のサポートがあれば、いろんな可能性が出て来ます。

今の AI やロボット技術を用いれば、動けなくてもロボットを通じて、外の世界を体験することも可能でしょう。
また、そんな事ができなくとも、その人の存在そのものが、大切だという人がいます。
何かができる、何かをしてもらえる、という事ではなく、その人自身がいてくれることが、何より大切ということです。
こういう考え方は、自分や家族が不自由なく動けている間は、なかなか思いつきません。
本当に大切なこと。
それは、その人がそこに存在しているということです。
これは社会的な価値観とは、また別なものでしょう。
社会の立場で見ると、何らかの形で、社会の役に立つことを、求められます。
しかし、いるだけでいいという価値観は、人間社会を超越したものです。
意味も役割も考える必要がありません。
存在していることの喜び。
それを素直に感じさせてくれるのは、愛の力でしょう。

元々、私たちが体験している世界とは、私たちが創り出した幻影のようなものです。
私たちが知る世界とは、私たちの体を通して得た情報に、感情という色を付けたものです。
その世界は、私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるのです。
本当の私たちとは、心の存在であり、姿形は持ちません。
私たちが体験している世界とは、実は夢の世界と大差ないのです。
そんな世界での存在価値ではなく、心としての存在価値こそが重要です。
存在していることが嬉しいという思いは、最高の喜びでしょう。

臨死体験をした人や、体外離脱をした人が、愛に包まれる経験をするという話は、よく聞きます。
彼らはずっとそこに、留まりたいと思うのですが、結局はこちらの世界へ戻って来ます。
そのままそこに留まりたいと願うのは、恐らくそこが、私たちの本来の居場所だからでしょう。
それなのに、何故わざわざそこを離れて、苦しみが多いこの物質世界へ、入って来るのでしょうか。
誰かにむりやり、送り込まれているわけではなさそうです。
と言うことは、自らの意思によって、こちらの世界へやって来ているのでしょう。
だとすれば、そこにこそ、人生の目的と言えるものが、あるのではないでしょうか。
人生の目的 その1

私たちは何のために、生まれて来たのでしょうか。
この疑問を持ったことがある方は、多いと思います。
しかしこの疑問は前提として、自分が生まれて来たことには、理由があるはずだという思いがあります。
アリやゴキブリなどを見て、この虫は何のために、存在しているのだろうと、考えたこともあるでしょう。
可愛いペットの動物に対して、お前は何のために生まれて来たのか、とは考えません。
でも、人を襲うクマやイノシシなどについては、あいつらは何のために生まれて来たんだ、と思うかも知れません。
自分も含めて、その存在理由を探ろうとする時、人間はその存在に、何かの役割を見出そうとしています。
この、何のために生まれて来たのかという疑問は、何の役割があるのかという疑問に、言い換えることができます。
さらに別な言い方をすれば、その存在にどんな意味があるのか、という問いかけになるでしょう。
私たち人間が、あるいは自分という個人が、何のために生まれて来たのかと考えるのは、そこにどんな役割や意味があるのか、という思いがあるわけです。
しかし、役割とか意味というものは、それを判断する基準となる存在が必要です。
たとえば、ペットが役に立つとか意味があるとかいうのは、ペットの飼い主に対しての話です。
動物が嫌いな人にとっては、どんなに可愛いと説明されても、動物はいない方がいいのです。

人間の存在に役割や意味があるのかと考える場合、そこに神のような創造主、あるいは絶対的な存在を、想定しなくてはなりません。
それを想定しなければ、役割や意味ということを、考えること自体が無意味です。
でも、自分という個人の役割や意味となると、それは人間社会において、どうなのかという見方が成立します。
創造主から見た自分の役割や意味ではなく、社会から見た役割や意味、ということです。
それを見出すことができなければ、自分は無価値な人間だと思い込み、暗い人生を送ることになってしまいます。
しかし、そういう方には、もう少し突っ込んで考えて欲しいと思います。
それは社会とは何かということです。
改めて問われると、うまく答えられないかも知れませんね。
社会とは、何かの共通項を持った、集団を言うのです。

たとえば家族も、一つの社会です。
学校や職場も、それぞれが社会です。
趣味やスポーツの団体や、宗教や学問の組織なども、みんな社会です。
国や地域も社会ですし、男や女、あるいは大人や子供という分け方でも、社会は成立します。
人類全体を、一つの大きな社会と見ることもできます。
自分が無価値だと考える場合、このどれかの社会を、想定しているはずです。
それはその人が知っている社会であり、その社会の中で、自分の居場所が見つからないということです。
しかし大抵の場合、様々な社会があるのに、悩んでいる人が想定している社会は、ごく一部の社会です。
言い換えれば、その人の視野が狭くて、目に映る社会が、限られているということです。

自分が暮らす町で居場所がなく、思い切って外国へ行ってみると、全然知らない文化や価値観に迎えられ、自分への見方ががらりと変わる、という話はよくありますよね。
自分の存在に疑問を感じるということは、言ってみれば、チャンスなのです。
自分に意味や価値を見い出せないというのは、自分がいる場所が、そういう場所だということに過ぎません。
つまり、自分に疑問を抱いた時、それは自分の心が、違う所へ行きたいと、訴えているのです。
もっと自分が、活き活きと輝ける場所へ行こうと、心の奥底から、本音が叫んでいるのです。
それを邪魔するのは、自分のちっぽけな経験と、周囲に蔓延したネガティブな考え方です。
お前なんかに何ができるのか、というメッセージを、口や態度で示されると、自分には何もできないんだという、自己暗示にかかってしまいます。

この暗示にかかると、身動きが取れずに、苦しむ続けることになります。
また、外の世界を知らないのに、ここも他の所も同じだと、決めつけてしまう考え方も、自信のなさの表れで、大切な好奇心を封じ込めてしまうのです。
何かのきっかけ、あるいは誰かの助けで、今までいた場所から違う場所へ移ることになり、そこで生命力を取り戻すことはあるでしょう。
でも、暗い気持ちのまま移動した場合、それが原因で、行った先でも嫌な思いを、するかも知れません。
できれば、自分で自分の殻を打ち破り、自分の意志で場所を変えるのが、望ましいと思います。
その状態であれば、新しい見識を受け入れやすく、自分が相手を受け入れることで、相手も自分を受け入れてくれるからです。
とにかく、自分の存在に疑念を感じた時、それは本当の自分に覚醒するチャンスであり、その時期が来たという知らせです。

サナギから成虫の姿に変わった蝶は、サナギの殻を抜け出ると、その場所から新天地へと飛び立ちます。
それと同じ事なのです。
自分に疑念を抱いた時、それはそれまでの自分とは、違う姿に変わろうとしているのです。
つまり、サナギの状態になっているのです。
自分に自信を失っている人には、そのことを理解して欲しいと思います。
思いがけないこと

香川には、しょうゆ豆という特産品があります。
香ばしさと醤油の味で、とても美味しい物です。
このしょうゆ豆には、次のような由来があります。
昔、お遍路さんを接待しようとしていたお婆さんが、そら豆を煎っていた時に、豆の一つが飛び出して、近くにあった醤油の壺に、ちゃぽんと入ってしまいました。
しばらくしてから、お婆さんがその豆を拾って食べてみると、固い豆が柔らかくなり、醤油の味が染みて、とても美味だったと知ったのが、しょうゆ豆の始まりだとか。

高知には、帽子パンという有名な菓子パンがあります。
麦わら帽子のような、ツバがついた形のパンなので、こう呼ばれています。
このパンも、元々はメロンパンになるはずが、製造過程で失敗し、帽子みたいな形になったのだとか。
本当は失敗作なのですが、その形が面白いので、さらに改良を重ねて、商品化したところ、大人気のパンになったそうです。
これらの事は、思いがけない偶然が、成功に結びついた話です。

嫌なことがあった。
仕事が続けられなくなった。
病気あるいは怪我で、それまでとは違う暮らしを、余儀なくされた。
こんな感じで、それまで頑張って来た人生が、だめになってしまったと言う人は、結構いると思います。
しかし、その結果、新しい仕事が見つかったり、新しい仲間と出会えたり、一生を共にする人と、巡り会うということもあります。
その人たちは、運がよかっただけだと、思うでしょうか。
そもそも運というものが、あるのでしょうか。
ある状況を、ただの失敗と受け止めるのか、そこに何か新しい発見をするのか、それは人それぞれです。
しかし、新しい事を見出すのは、偶然でも何でもありません。
それは、その人がそういうチャンスを見逃さないよう、自分の周囲にアンテナを広げていたからです。

同じ状況にあっても、気がつかない人は、何とも思いません。
常に好奇心を働かせて、刺激的な情報がないかと、探っている人には、様々なことが新しい世界への、入り口になるのです。
自分には何もいい事がない、面白いことや発見など、自分には全く縁がない、と考えている人は、思いがけないことが目の前で起こっても、気がつきにくいでしょう。
突然、仕事をクビになるとか、大病や大怪我になるなどという、思いがけないことであれば、見逃すことはありません。
しかし、そこに見いだせることと言えば、何で自分だけがこんな目に遭うのかという、怒りと不安だけだと思います。
新たな展開が始まっているとは、思いも寄らないでしょう。

昔の人は、転んでもただで起きるなと、言ったものです。
一見、災難に見えるような状況にも、必ず何かが隠されているというわけです。
それを見つけて起きるのか、何も見つけられず、不満だけを口にして起きるのか。
あるいは立ち上がることすら、放棄してしまうのか。
いずれにしても、思いがけないことは、誰にでも、いろんな場面で起こっています。
それをポジティブにとらえて、人生に活かせるかどうかは、その人次第なのです。
世界の潮流

新年おめでとうございます。
今日から令和3年が始まりました。
しかし、人によっては、新年だからと言って、おめでたい話ではないかも知れません。
コロナ騒ぎは収まりませんし、外出もままなりません。
商売が傾いてしまった人もいれば、大学生活を送れない学生さんもいます。
昨日、東京での感染者が1300人を超えました。
さらなる自粛が求められるのは必至です。
早く元に戻ればいいのにと、願っている人は多いでしょう。
でも、多くの知識人も語っているように、以前と同じ状況に、戻ることはないと思います。
様々な不自由を強いられる、期間が短ければ、元に戻れるかも知れません。
しかし、その期間が長くなると、待っていられない人が、続出しますから、仕事はだめになり、学校も続けることが、できなくなります。
だからと言って、みんな生きることを、あきらめるわけではありません。
何とかして生き延びようと、いろいろ工夫や努力をするでしょう。
これまででは、考えもしなかったような暮らし方にも、目を向けるようになります。
そうして細々ながらも、新しい生活や仕事のスタイルができあがり、それに馴染んで来ると、もはや昔の暮らしに戻ろうとは、誰も思わなくなるのです。
ただ、そうやって新しい生き方を模索しようとする人と、古い経済システムを神のように崇めて、しがみつこうとする人とでは、今後の生き様が大きく違って来ると思います。
特にこれまでの体制の中で、お金や地位や権力に、どっぷり浸かっていた人たちは、何とかしてこれまでの状態を、維持しようと慌てるでしょう。
でも、これまでのようには、多くの人が従ってくれず、大変な思いをすることになるでしょう。

私が子供の頃の10年と、最近の10年を比べてみると、最近の10年の方が、変化の度合いが激しくなっていると思います。
新しい技術、新しい概念が、どんどん出て来て、頭の回転がいい人でなければ、その変化について行けません。
それだけ世の中は変化していますし、その変化はまさに最高潮を、迎えようとしているようです。
海釣りをする方であれば、わかると思いますが、海の水位は月の引力と、地球の自転による遠心力によって、毎日高くなったり低くなったりしています。
水位が一番高い時を満潮と呼び、一番低い時を干潮と呼びます。
満潮あるいは干潮の時は、潮止まりと言って、潮の流れが止まります。
その後、緩やかに潮は動き出し、次第に流れの速度を速めて行きます。
ちょうと満潮と干潮の間が、一番流れが速く、それを過ぎると、再び流れは緩やかになって行きます。
今はちょうど、この満潮と干潮の間の、潮の流れのような変化が、世の中に起きているように思えます。

満潮や干潮の潮止まりが安定期だと考えると、今は安定から安定へ移動中の、不安定期なのです。
満潮や干潮には、月の引力が関係していると言いましたが、そこに太陽の引力も影響するかどうかで、潮の動きを小潮や大潮などと、呼び分けています。
小潮は太陽の影響が最も弱く、潮の変化は小さく、流れは緩やかな方です。
これに対して、大潮は月の引力と太陽の引力が重なるため、潮の変化が大きく、流れも最大になります。
これまでも人間社会の中では、安定期から別の安定期への、変化はあったでしょう。
大きな戦争や革命などのあとに、新しい国や思想が生まれて来たのは、そういう変化です。
しかし、それらは地球においては、局所的な変化でした。
今の変化は世界中を巻き込んでのものです。
これは大潮のような、ものすごい変化のうねりが、地球全体を呑み込んでいるのです。
そうして混乱が落ち着いた時、社会は再び安定を取り戻します。
でも、その安定は変化の前とは、まったく異なるものです。
恐らくですが、今年は去年以上に、世界的な変化が起こるでしょう。
それも急激かつ驚くような変化です。
しかし、変化の先には、新たな安定した世界が待っています。
私たちにできるのは、その世界がどのようなものになるかを思い描き、その世界が現れた時に慌てないよう、前もってその世界に合わせた、価値観を持つようにする事でしょう。
そして、私が思い描いている新たな世界は、お金ではなく、感謝と思いやりで構築された世界です。

健康になるために
健康になるために、あなたは何かをしていますか。
ダイエット?
ジョギングですか?
それともウォーキング?

その一方で、あなたは不健康になることを、やっていないでしょうか。
たとえば、喫煙や深酒、睡眠不足、スマホやパソコンゲームのやり過ぎ、偏った食事。
あるいは、ストレスのため込み、不安や心配ばかり思い浮かべる、人生をあきらめる。
こういう事をしながら、ダイエットやジョギングを行ったところで、その効果は限定的です。
場合によっては、全然効果が見られないかも知れません。
健康になりたいのであれば、健康にいい事をするのも大事ですが、その前に悪い事をやめないといけません。
しかし、健康に悪い事を続けるのには、その人なりの理由があるはずです。
その理由を無視したまま、これは健康に悪いからやめましょう、と言われたところで、その実行はむずかしいでしょう。

いけない事だと知りながら、そこにどんどんはまって行くのは、大抵の場合、何らかのストレスを抱えていたり、解決できない問題に、途方に暮れているのだと思います。
つまり、現実逃避ですね。
嫌なことを考えずに済むように、何かに没頭してしまうのです。
それは、ある意味、自分の状態を維持するための、バランスを取ろうとしているのです。
本当の問題を解決しないまま、悪癖だけを正そうとすると、他の悪癖が出て来るか、大きなトラブルを起こすでしょう。
本人にとっては、身体の健康よりも、心の安定の方が、大切なのです。
誰かの悪癖を正そうと思うのであれば、その人が抱えている問題に、目を向けてあげる必要があります。
自分の悪癖を正そうと決意するのであれば、自分が抱えた問題から目をそらさず、正面から向き合わねばなりません。

話が変わって、健康にいいことをやろうと決めても、長続きしないのではありませんか。
いいことがわかっているのに、どうして続かないのでしょうか。
その理由は、つまらないからです。
本当ならやりたくない事を、健康にいいからという理由で、無理矢理続けようとするから、いずれは嫌になって、続かなくなるのです。
では、どうすればいいでしょうか。
それは、つまらないことを、楽しいことに変えればいいのです。
人間は健康になるために、生きているのではありません。
健康は結果であり、活き活きと暮らしていれば、自然と健康になるものなのです。
それを健康を目的にしてしまうから、つまらなくなって、やめてしまうのです。
~してはいけない。
~しなければならない。
こういう考え方はネガティブですから、面白くありません。
たとえば、ダイエットの場合、たくさん食べることよりも、本当に美味しい物を、時間をかけて食べるという、習慣を楽しむのがいいのです。

食事の時間を、食べるだけの時間だとは考えず、会話や景色、風情などを楽しむ時間だと考えましょう。
また、食事以外の楽しみを、見つけることも大切です。
食べることしか楽しみがなければ、食べることでストレスを、解消しようとするでしょう。
それに、楽しみを追求しようとすると、どうしても食事の回数や、食事量が増えて来ます。
食べる事以外に価値を見つけると、楽しみは分散されます。
その分、食事の楽しみも、量より質を求めるようになるでしょう。
ソースや調味料の味ではなく、素材の味を楽しめるようになります。
そうすると結果として、食べないようにするダイエットではなく、食べたい物は食べながらのダイエットになるのです。
ダイエットは目的ではなく、結果なのです。

ジョギングやウォーキングについても、同じです。
健康のために、走ったり歩いたりするのは、とても疲れます。
でも、走ることや歩くことそのものに、楽しみを見つけたならば、疲れを忘れてしまうでしょう。
同時に、健康のために始めたことも、忘れてしまいます。
身体を動かすことが気持ちいいとか、外の空気を吸う事や、景色を眺めることが楽しいなどと、感じられるようになれば、運動自体が楽しくなります。
健康になるのは、やはり結果です。
人生は楽しさを、求めるものなのです。
そこを理解していないと、本当に健康な人生は、送れなくなるでしょう。
縁というつながり
世の中には縁というものがあります。
科学を信奉する人の中には、そんなものは偶然だと言う者も、いるかも知れません。
でも、普通の人であれば、縁を否定する人はいないと思います。
何をやってもうまく行かないし、面白いと思えない。
そんな時に、ある人に誘われて始めた仕事は、天職のように思われた。
他の人が誘われてもよかったのに、自分を選んで誘ってくれた。
これは縁です。
ずっといい人に巡り会えず、もう結婚はあきらめていた。
一人旅に出た先で、たまたま話をする機会を持った人と、一緒になることになった。
これも縁です。

全然違う所で生まれ育ち、全く違う経験を積んだ者同士が、ある時にある場所で出会い、互いの存在を認め合うことになる。
その瞬間だけを見ていると、偶然のように思えるかも知れません。
でも、一人一人の生まれてからの動きを追ってみると、その時にその場所で、相手に出会うために、全てが準備されているように思えます。
ただ、せっかく訪れたその瞬間、出会った相手に何かを感じながらも、他のことを考えたり、自分にいい事など起こるはずがないと、決めつけたりすることで、その出会いをふいにしてしまうことも、あると思います。
あるいは、目先の楽しみに心を奪われ、手に入れたはずの大切な出会いを、失ってしまうこともあるでしょう。

もしかしたらそんな事は、よく起こっているのかも知れませんね。
理屈ではなく、感覚を大切にしている人であれば、大切な出会いに気づくでしょう。
でも、自分の感覚が信じられない人は、見過ごしてしまう可能性が高いと思います。
それは、ある意味、自分を大切にしていないのと同じです。
自分にはそんな価値なんかないと、自分で自分を低く見たり否定したり、しているからです。
縁というものは、常にいいものとは限りません。
悪縁というものも、あります。

たとえば、悪い友人に引き込まれて、悪事に走るとか、似たような考えの者同士で、互いの足を引っ張り合いながら、暗い人生を送り続ける、などというものです。
これらの人々も、それぞれの人生を追ってみると、まるで磁石に吸い寄せられるように、互いを引き寄せ合うようになるのが、わかると思います。
こういう人たちには、先ほどのようないい人との縁は、なかったのでしょうか。
悪い道へ走ってしまう人たちの多くは、人生を投げやりに考えたり、自分自身を見捨てている傾向が、強いと思われます。
そういう精神状態の時には、力になってくれる人がいても、疑ってかかるでしょうから、わかりにくいのでしょう。
相手を信じる気持ちを、どれほど持ち合わせているかで、いい縁を引き寄せられるかどうかが、その後の人生を左右させるのだと思います。
しかし、人を信じて騙された結果、誰のことも信じられなくなるということは、あるでしょう。
人を信じられなくなったからと言って、その人を責めるわけには行きません。
ただ、誰のことも信じられなくなれば、待っているのは悪い縁だけです。
人を信じられなくなった理由は、いろいろあるでしょう。
でも、理由の如何に関わらず、人を信じられなくなった者を、待ち受けるものは、全てから逃げ出したくなるような状況です。

いい縁を呼び込みたければ、まずは自分を認めて信じることです。
自分になど、いい状況が巡って来るはずがないと、決めつけているうちは、そのとおりの状況が続くでしょう。
今、自分がどんな状況にあろうとも、自分を見捨てたり見下したりしないで、自分の好奇心が求めることに、忠実に生きてみて下さい。
自分の好奇心に従っている時が、一番自然な状態です。
そういう時にこそ、いい縁とのつながりが、できやすいのです。
いい縁に恵まれたければ、自分の本当の姿を押さえ込まず、自分の光を放ち続けることです。
縁は必ずあります。
それに自分が気づくかどうか、だけなのです。
アンドロイドの活用

予想どおり、世界中で新型コロナの、新たな猛威が広がっています。
イギリスで見つかったとされる、新型コロナウィルスの変異株は、従来のウィルス株よりも、感染力が最大で1.7倍とされています。
それを実証するかのように、若い人の間でも、感染が広まっているようです。
このウィルスの毒性が、どれほどのものなのかはわかりません。
しかし、体力の弱い人が感染すると、リスクがあることは同じですから、これまで以上に感染には、注意を払う必要が出て来るでしょう。
だからと言って、都市をロックダウンしたり、外出を自粛したりすると、人々のストレスになるばかりでなく、飲食業を中心とした、経済的ダメージは避けられません。
飲食業以外の仕事も、外出自粛とは直接関係がないように見えても、人々の不安や収入減による買い控えが増えると、やはりダメージを受けるでしょう。
混乱が長引くと、コロナ騒ぎとは関係がないように見えていた企業が、倒産する可能性も否定はできません。

経済危機に関しては、お金がないと身動きが取れなくなるような、世の中のシステムそのものを、変えることが根本的な対処になるでしょう。
現在のコロナ騒ぎが落ち着いたとしても、新たなウィルス騒ぎが起こる可能性は、いつだってあります。
それに、経済システムを不安定にさせるのは、ウィルス騒ぎに限ったことではありません。
リーマンショックのような金融危機や、戦争あるいは大災害などでも、同じような状況は起こり得ます。
そもそも普段の状態においても、貧困に喘ぐ人が多いですし、貧しい国がなければ、成り立たない経済システムですから、元々見直す必要はあったのです。
ただ、新しい経済システムを構築したとしても、人命に関わるウィルスについては、対策を講じる必要があるでしょう。
ウィルスの研究や、薬剤やワクチンの開発が、収益ではなく人々の幸福のために、行われるのであれば、今以上に効率的かつ効果的な対策を、取ることができると思います。
しかし、それ以外にも、予期せぬ感染のリスクを、下げる方法があります。
それはアンドロイドです。

たとえば、飲食店での注文や配膳の仕事は、アンドロイドがやればいいのです。
飲食店以外でも、営業や接客の仕事を、アンドロイドに任せれば、いいと思います。
お客との応対を、全てアンドロイドのAI知能に任せても、構わないでしょう。
でも、別室にいる人がアンドロイドを通して、お客とコミュニケーションを取ることもできます。
病院の仕事も、アンドロイドを取り入れれば、人間の感染リスクを下げられますし、人手不足も解消できます。
また、様々な現場にアンドロイドを投入することで、アンドロイドのAI知能から、新たな対策や改善方法などを、指摘してもらえるかも知れません。
アンドロイドの投入は、感染を防ぐだけでなく、新しい知恵を手に入れられる、可能性があるのです。

ただし、様々な現場で、人間のように動けるアンドロイドを、開発することは容易ではないでしょう。
とても、現在のコロナ騒ぎには間に合いません。
そうではなく、今後の問題に向けての、早めの対応という形で、優秀なアンドロイドの開発を進めるべきなのです。
開発に関わる人は、新たな産業の成長に、興奮を覚えることでしょう。
また、様々なアンドロイドが増えることで、一般の人々の好奇心も刺激され、暗い雰囲気が明るくなると思います。
アンドロイドが増えると、失業者が増えると懸念する人が必ずいます。
でも、全ての仕事をアンドロイドが、するわけではありません。
アンドロイドを活用した、社会貢献のアイデアを出したり、人間の経験が必要な、子供の教育に関わる仕事など、世の中が求める仕事は、いくらでもあります。
儲かるか否かという、金銭感覚を基準にしていると、人々が必要としている仕事があっても、無視されてしまいます。
しかし、誰かのためにという思いで探せば、やるべき仕事はいくらでも見つかるでしょう。
それにお金を中心とした世の中でなくなれば、失業するという心配そのものが、いらなくなるのです。

いずれアンドロイドは、いろんな所で普通に目にされるような、時代になると思います。
人の代わりに仕事をしてくれるアンドロイドを、奴隷のように考える人も、いるかも知れませんが、アンドロイドは人間の友人です。
アンドロイドを友人として扱えないようであれば、そこには感謝も思いやりもないということです。
そんな世界になったとすれば、いずれ人類は滅亡してしまうでしょう。
アンドロイドを友人として見られるならば、それは人間が新たな世界観を、手に入れるということです。
そんな人類の前には、信じられないような素晴らしい世界が、姿を見せてくれるに違いありません。

世界の構造

空中に光源が一つあると、イメージしてみて下さい。
光源は太陽のように、周囲の空間の全てに、光を放ちます。
ここで別の場所に、もう一つの光源を、イメージして下さい。
初めの光源と、同じ空間です。
空間には二つの光源があり、それぞれが周囲に光を放っています。
この時、空間のある一点を見ると、そこには二つの光源からの、光が重なっています。
それは空間上の、全ての点で言えることです。

今度は三つ目の光源を、イメージして下さい。
空間には三つの光源があって、同じように周囲に光を放っています。
空間のどの点にも、三つの光源からの光が、重なり合っています。
同様に、無数の光源を考えると、空間のどの点も、無数の光が重なり合っています。
空間の位置によって、届く光の角度が異なりますが、全ての光が重なっている事では、全ての点は同等です。

私たちの本質は心であり、精神エネルギーです。
意識というものは、この世界においては、内面的なものであり、自分以外の存在については、外面的な情報しかわかりません。
しかし、それは自分がわからないだけの事で、全ての存在には、内面的なものがあります。
その内面的なもの、つまり意識というものには、私たちが考えているような、形というものがありません。
この表現が正しいかどうかは別にして、もし意識というものを、外面的なものとして、確かめられたとすれば、光のようなものだと思います。
光には形がありません。
存在はしているけれど、とらえどころのないようなものです。
意識とは、そのようなものでしょう。
ですから、意識というものを、光あるいは光源とみなすことにします。

ここで初めの話に戻りますが、空間にある無数の光源が、一つ一つの意識だと考えて下さい。
その光源が全て人間の意識であれば、それは人類の集団意識です。
同様に、その光源が全て犬の意識であれば、それは犬の集団意識になります。
同じように考えて、あらゆる存在の集団意識があって、それぞれが同じ空間に、それぞれの光を放ったとすると、空間上の全ての点に、あらゆる意識の光が重なります。
その光の重なりが、私たちが経験している、世界を構成しているのです。

ところで、光を放つ光源も、空間上の一点です。
そこにも周囲の光源からの光は、全て届けられます。
この光源が、私やあなたの意識だと考えて下さい。
私たちの意識は、そこへ届けられた、他の光源からの光を基にして、自分が体験する世界を、構築しているのです。
あなたの意識が、元の存在位置から、少しずれた所に移動したとしましょう。
そこでも前の位置と同じような世界を、体験するのですが、位置がずれた分、わずかに情報が変わります。

大きく位置を変えると、体験している世界の様子も、大きく変化します。
でも、それは世界が変わったというよりも、自分の位置が変わったというのが、正しい見方でしょう。
今の世界の状況を見て、不安に感じたり、途方に暮れる人は多いと思います。
でもそれは、自分が位置を変えられることに、気がつかないまま、ずっと同じ位置に留まり続けているのです。
同じ世界にいて、同じ体験をしているつもりでも、それぞれの世界を体験する位置が違うと、そこに構成される世界は、人によって違う世界になります。
場合によっては、同じ世界を全く反対の方向から、眺めたような受け止め方を、しているでしょう。
そこには楽しい世界も、悲しい世界も、苦しい世界も、存在しています。

その楽しい世界が、状況が変わって、苦しい世界になるかも知れません。
悲しいと思っていた世界が、喜びの世界になる場合もあります。
楽しいのはいいのですが、苦しくなったり、つらい状況がいつまでも続く場合は、自分自身の価値観を変えてみると、いいと思います。
価値観を変えるというのは、空間における自分の位置を、変えるという事です。
違う位置に移動すれば、周囲の光源から届く、光の角度が変わります。
それは物事の見方が、変わるという事です。
物事の見方が変われば、当然世界の感じ方、受け止め方が変わります。
苦しくて限界だと思っていた世界が、大変ではあるけれど、何とかやって行けそうだと、感じられるようになるでしょう。
さらには、もっと思ったとおりになって、それをあの大変さがあったお陰だと、受け止められるようになるのです。
物質世界では、場所を移動するためには、物理的な力が必要です。
しかし、形のない意識の世界では、自分の位置を変えるためには、価値観を変えるという事が、必要になるのです。
価値観を変えられずに、同じ位置に留まり続けるのは、物質世界で移動手段がわからず、身動きが取れないのと似ています。
物質世界で下手に動いて、かえって状況が悪くなることがあるでしょう。
それと同じように、価値観を変えるにしても、物事の理解度が少ない価値観になってしまうと、今よりもつらい位置に移動してしまいます。
喜びを感じられる位置へ移動するためには、理解度の高い価値観を持つことが重要です。
それは知性の高さを意味します。
でも、学校の勉強ができる、ということではありません。
学校の成績がよくても、知性の低い人は、いくらでもいます。
逆に、学校の成績が芳しくなくても、高い知性を持ち合わせている方も、たくさんいます。

本当の知性は、あなたの光を、美しく輝かせるものなのです。
自分は光なのだというイメージを持ち、美しい光を周囲に放っているところを、想像して下さい。
その光は他の光源たちの元へ届き、彼らが持つ世界観に影響を与えます。
それがどのようなものかは、直接確かめることはできません。
でも気にしないで、いい影響を与えられることを願いながら、光を放ち続けて下さい。
それが、本来のあなたの姿です。
また、その姿でいることが、あなたにとって幸せなことなのです。
何故ならば、その状態を維持している時に、あなたが体験する世界こそが、あなたが求めている世界だからです。
その世界は、喜びも悲しみも全て含めて、生きていることの奥深さと、幸せを感じさせてくれるものでしょう。

どう受け止めるのか
人生には、いろいろな出来事があります。
大きなものから、小さなものまで様々です。
それはある人にとっては、とてもで大切である一方で、他の人には、どうでもいい事というのは、よくある事です。

その見解の相違が、トラブルの元になる事も、よく見受けられます。
ここでポイントなのは、何が大切で何が大切でないのかは、人によって異なるという事です。
ところが、自分の見解が絶対正しい、あるいは、相手の見解は絶対間違ってる、と考えてしまう事があるわけです。
たとえば、常識という考え方が、そのような判断の元になる事は多いですね。
科学あるいは宗教の信奉者も、同じような傾向があると思います。
また、大変な思いをして、他の人たちを信じられなくなった人が、周りはみんな敵ばかりと、決めつけてしまうこともあるでしょう。
しかし本来、物事や出来事には、意味がありません。

たとえば、何かに蹴つまづいて転んだとしましょう。
それは歩行時に、足先が何かにぶつかり、体がバランスを崩して倒れた、というだけの事です。
しかし、転んだ人が、転ぶ前に嫌なことがあると、自分は何て運が悪いのだろうと、考えるでしょう。
場合によって、自分は誰かに呪われていると、受け止めるかも知れません。
ところが、転んだ時に、どこかから飛んで来た石が、頭上を通り過ぎたとしましょう。
転ばなければ、その石が直撃していた可能性があります。
そうすると、その人は自分は運がいいと、考えるでしょう。
その前に嫌なことがあったとしても、これで運が好転すると思うかも知れません。
でも、本当は蹴つまづいて転んだだけで、その事自体には、何の意味もありません。
それを体験した人が、自分が置かれた状況によって、そこにそれぞれの意味を見出しているだけなのです。
もう一つ、例を挙げましょう。
美味しい食事を食べた後、あと片づけをする時に、それを面倒臭いと思う人が、多いのではないでしょうか。
食事は楽しいイベントだけど、イベントが終わると、あとは楽しくないという事ですね。

でも、あと片づけまでが、イベントだと考える人は、楽しさの余韻に浸りながら、あと片づけをするでしょう。
あるいは、あと片づけが次の楽しみの準備だ、と受け止める人も、次の楽しさを思い描きながら、片づけます。
行う作業は同じですが、その作業をどう考えるかで、その人の世界観が、大きく変わって来るのです。
人生が楽しいかどうかは、その人の世界観と、その人が置かれている状況で決まります。
状況を変えることは、簡単なことではありません。
でも、世界観を変えることは、本人の気持ち次第で、どうにでもなります。
ただし、物事への理解度が深くないと、世界観を変えることも、やはり容易ではないでしょう。
突発的な事故や、あと片づけなどについて、それをどのように受け止めるかは、その人の価値観です。
その価値観は、事故や片づけ以外の場面でも、当たり前のように現れます。
つまり、単に事故や片づけに対する考え方、という問題ではないのです。

何気ない、ちょっとした仕草や行動には、その人の人柄や価値観が、出ているものです。
一つの行いを見て、その人の全てを、決めつけるわけには行きません。
しかし、一つの行いから、その人の雰囲気や、思考パターンを読み取ることはできます。
事故や片づけに対して、どういう意味づけをするかという事は、他の場面においての、意味づけとも関連しているのです。

他人の行動はよく見えても、自分の行動はよく見えないものです。
しかし、自分の行動を客観的に見ることができれば、自分ではうっかり見逃してしまうような、自分の思考パターンを、認識することができます。
そうすれば、ある物事をどう受け止めるかという事が、自分の行動パターンを決めていることに、気づくでしょう。
自分が楽しく過ごせているのなら、それで構いません。
しかし、何かに悩んでいたり、問題にぶつかっているようであれば、自分の思考や行動パターンを知る事は、大いに役立つと思います。
何にしても、楽しい人生を送りたいのであれば、様々な物事を、自分がどのように受け止めるのかを、確かめるのがいいでしょう。
そこに自分の人生を、色あせさせるような受け止め方があったなら、それを変えてみて下さい。
きっと同じような場面が訪れた時に、これまでとは全然違う気持ちに、なっていると思います。
立体映画としての世界

みなさんは、お気に入りの映画はありますか。
何度も観たくなるような映画では、主人公や登場人物と気持ちを一つにして、自分がその人物になったような気分になるでしょう。
創られた物語であることがわかっているのに、主人公たちを襲う危難にハラハラし、涙するのは、心情的に主人公たちと、一体化している証だと思います。
最近の映画館で観る映画は、3D映像で上映することがあります。
映像を立体化するだけでなく、音響に合わせてイスが振動したりと、臨場感たっぷりです。
街中を歩いているシーンなどでは、自分も映像の中の街に、いるような気分にさせられます。
それでも映像を観ている自分と、映像の中の人たちとは、別々の存在であることを、私たちは自覚しています。

いくら映画に夢中になっていても、映画を観て楽しんでいるという、感覚が残っています。
コンピューターゲームのような、バーチャル世界だと、自分自身が映像の中に、入り込んだ感覚があるでしょう。
でもゲームの中では、自分が何もしなければ、自分が置かれた環境は、いつまでも同じままです。
しかし映画の場合は、ストーリーがあり、黙っていても話が進んで行きます。
それに合わせて、画面はどんどん変わり、観客はその変化に対して、為す術がないまま、登場人物が状況に翻弄される様子を、共に体験するだけです。
もし立体映画の中に、バーチャルゲームのように入り込めたら、どうでしょうか。
あなたは映画の中の登場人物と、まさに一体化するのです。
ただし、いろんな場面で何を感じ、どう考え、どんな行動を取るのかは、登場人物に任されています。
あなたは登場人物の心になりきって、登場人物の心の動きを、自分の心の動きだととらえて体験します。
それは夢の世界にいるのと同じで、実は自分が映画を鑑賞しているのだということなど、すっかり忘れているでしょう。

何かを考えているつもりでも、実はそれは登場人物の考えであって、あなた自身のオリジナルの考えではありません。
でも、その事にあなた自身は、まったく気がつかないのです。
そんな状態を、想像できるでしょうか。
何かを考え、行動しているつもりなのに、実は自分は何も考えていないし、行動もしていないのです。
あなたはただ黙って、その人物と経験を、共有しているだけなのです。
そして、私たちが経験しているこの世界が、まさにそのような立体映画なのだとしたら、どうでしょうか。
そんなことないよ、私は自分で考えてる。
そう反論したくはなるでしょう。
でも、果たしてそれは真実でしょうか。
そう考えることも、実は想定されているだけなのかも知れません。

どうして、こんなことを言うのかといいますと、自分という概念について、考えて欲しいからなのです。
この世界を疑い、この世界とは別に存在している、自分というものを、想定できたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考でしょう。
映画の中の人物が、他の世界について、思いを馳せるように、想定されていたとしても、実際に他の世界について、理解することはありません。
他の世界を理解できるのは、その世界とのつながりを、感じられる者だけです。
本当の自分はこの世界の外にいて、今はこの世界を体験しているだけだと、イメージできたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考だと言えます。
その状態で、この世界を体験するのは、夢を夢だと自覚して、見ているようなものです。
ほとんどの人は、そんなことなど考えもしないでしょう。
それは元の意識はぐっすり眠ったまま、夢の世界でもがいているのと同じです。
夢を夢だと自覚できれば、夢の内容をコントロールすることが、できるようになります。
でも、自覚できなければ、夢の中の動きに、翻弄されるだけです。
もし、あなたが今の世界で、周囲の状況に翻弄されているように、感じていたならば、それはこの世界に、どっぷり浸かり過ぎているということです。

この世界にいる自分を、離れた所から客観的に眺めるようにすれば、状況をコントロールできると思います。
それは自分が体験している立体映画を、別のストーリーのものに変えられるということです。
辛いことばかりだった映画が、楽しい映画に変わるのです。
生きているのが嫌になる映画が、ずっと生きていたいと思う映画になるのです。
今の自分の考えや価値観が、本当に自分のものなのか、今一度考えて見て下さい。
たとえ、そうやって考えることが、想定された思考だったとしても、それをジャンプ台にして、本来の思考を、取り戻すことができるでしょう。