AIの活躍
国立がん研究センターによると、大腸内視鏡検査の画像から、早期癌や癌の前段階にあるポリープを、AIによって発見することに成功したそうです。
25万枚の画像による学習の結果、AIは熟練医師なみの判断力を、持つ事になったと言います。
今後も多くの画像を学習させることで、病変部位の発見率を、さらに向上できるようになりますから、いずれは全ての判断を、AIがこなすようになるでしょう。
人間の医師が判定すると、人によって判断に差が出て来ます。
同じ日本に暮らしているのに、地域によって誤診率が高くなる所が、出て来るのです。
また、同じ地域でも、診てもらう病院が違っていれば、やはり違った結果になるかもしれません。
ところが、全ての病院で同じ精度のAIで診断すれば、地域的な差はなくなるということです。
記事に紹介されていたのは、大腸癌の話でしたが、これはあらゆる病気の診断で、言えることなのです。
また、特殊な病気や珍しい病気であれば、一般の医師では病気の存在すら、思いつかないことがあるでしょう。
しかし、AIであれば、そういった見逃しも防げます。
田舎での医師不足や病院不足も、AIを導入することで解消されて行くでしょう。
病気になっても病院がないというのは、田舎の欠点のように思われていました。
でも、AIで都会と同じ診断ができるとなれば、病院のことで田舎が都会に、引け目を感じることはなくなるでしょう。
田舎で暮らしたいと思う人が、ますます増えることと思います。
医療以外でも、これからAIは様々な分野で、大活躍するでしょう。
予知がむずかしいとされている、地震についても、AIに情報分析を任せれば、高い精度での地震予知が、可能になるかもしれません。
スポーツの微妙な判定においても、AIは導入するべきでしょう。
誤審がなくなり、誰もが納得の行く判定を出させれば、後味の悪さもなくすことができます。
天文の世界でも、AIであれば、あの細かい星々のわずかな変化も、きちんととらえることが、できると思います。
もう、すでにいろいろな分野で、AIは活躍していると思いますが、その能力はこれからも進化し続けて行くでしょう。
コロナウィルスに太刀打ちできない、現代の経済システムについても、AIにどうすればいいのか尋ねてみると、面白いことを教えてくれるかもしれません。
ただ、どうすればお金が回るかということを、目的にするのではなく、どうすれば全ての人が、健全に暮らせるのかということを、尋ねなくてはなりません。
私はお金がない世界が、一番だと考えていますが、それ以外の方法が見つかるとすれば、ぜひともAIに教えてもらいたいですね。
終わっていなかった南北戦争

先週発生した、トランプ支持者による、アメリカの議会議事堂への乱入事件を見ると、アメリカでは、まだ南北戦争が終わっていなかったんだなと、痛感させられました。
アメリカの南北戦争は、黒人奴隷を巡って、アメリカの北部と南部の州が戦ったものです。
とは言っても、元々は工業中心の北部と、農業中心の南部の、産業構造の違いによる対立が、根底にあり、黒人奴隷に問題は、そこに絡められたものでした。
南北戦争は北部が勝利を収め、それによってアメリカは一つにまとまりました。
黒人奴隷も解放されることになったのですが、相手への無理解や自己中心主義、黒人を見下す差別問題は、現在に至るまで残り続けています。
今回の乱入事件は、そういったものが、一気に噴き出したものでしょう。

火山が周期的に爆発するのと同じように、人々の心の中に蓄積していた歪んだ思いが、トランプ大統領をきっかけにして、再び爆発したのです。
彼らはトランプ信奉者を装っていますが、本音はトランプ信奉者などではありません。
彼らが信奉しているのは、自分だけです。
トランプ大統領は怒りを爆発させるための、きっかけに過ぎません。
別の言い方をすれば、トランプ大統領は、彼らに利用されたのだと思います。
宗教の原理主義テロリストが、神の名を使って人を殺すのと同じです。
彼らはトランプ大統領を利用して、自分に都合の悪い世の中を、ひっくり返そうとしたのです。
南北戦争のあと、アメリカは一つにまとまったように見えましたが、結局は形ばかりの統一で、心の中はバラバラだったということでしょう。
それは北部と南部が、バラバラのままということではありません。
北部の人たちの中にも、差別主義者や自己中心的な者は、少なくないでしょう。
元々北部の人全員が、黒人に対する人権を、真剣に考えていたはずがないのです。
もしそうであるならば、現在のアメリカの北部地域では、全ての黒人市民が貧困や差別による、苦しみから抜け出していたでしょう。
アメリカ全体で、人々の心がバラバラになっているのです。

今の世の中は、コロナウィルスによる騒動のせいで、人々が本性をむき出しにしています。
本性を隠していれば、表面的な融和や妥協を、行うことができたでしょう。
しかし、これだけ本性を露わにしていると、見せかけの妥協もできません。
とことんぶつかり、争うしかできないと思います。
20日のバイデン次期大統領の就任式までに、全米およびワシントンで、武装デモが計画されているという情報を、FBI がつかんでいるそうです。
何が引き金になって、アメリカ市民同士の殺し合いが、起こるかわかりません。
これはまさに、南北戦争の再燃でしょう。
このまま争いが続けば、どうなるのかと、誰もが心配になるでしょう。
しかし、これからの未来を背負って行くのは、若い世代です。
彼らの多くは無益な争いを、一歩離れた所から、客観的に眺めることができると思います。
どちらか一方に、肩入れしていたとしても、若いうちは頭が柔軟ですから、他人の意見を聞いたり、自分で調べたりすることで、考え方を変えることができます。
古い考え方に、凝り固まっている者たちには、むずかしいかもしれませんが、若い人たちであれば、理解ができるでしょう。
本当に大切なものは、何なのか。
人を傷つけてまで、自分の意見を押し通すことが、そんなに大切なのか。
世界中に対して向けられた、この問いに、若い世代であれば、答えられるに違いありません。

執着する理由 その3
それがどんな理由であれ、何かに執着し過ぎると、それは人生を前進することの、妨げになります。
ある行為に執着していると、他のことができなくなってしまいます。
ある考え方に執着していると、他の考えを受け入れられなくなります。
何かの物に執着していると、そこから離れられなくなります。
こういった執着の裏には、不安が隠されています。
その不安を解決せずに、何かへの執着だけを続けていると、人生を前に進むことができません。
前に進んでいるつもりでも、実は立ち止まっているのです。

好奇心に従った執着であれば、人生を前進することはできます。
しかし、感謝と思いやりの気持ちがなければ、やはりトラブルを引き起こしてしまいます。
たとえば、核爆弾などの大量殺戮兵器の開発に、関わっている科学者たち。
彼らの研究に対する、好奇心は旺盛でしょうが、自分たちが大量殺人に加担しているという、意識はないでしょう。
これは歪んだ好奇心であり、世界を大きな危険に、引きずり込んでいます。
彼らの好奇心が歪む原因として、金銭欲や名誉欲があります。
つまり、彼らが本当に執着しているのは、研究ではなく、お金や名誉だということです。
研究は目的ではなく、お金や名誉を手に入れるための、手段に過ぎないのです。
自分の欲望さえ満たせればいいというのは、人間としては非常に未熟な存在であり、その知性はとても低いと言えるでしょう。

女性に対する好奇心が抑えられず、女性に襲いかかって暴行を加えたり、騙して玩具にするような男がいます。
彼らの好奇心も、歪みに歪んでいます。
異性に対する興味や好奇心は、誰にだってあるでしょう。
しかし、それは相手を支配したり、利用しようというものではありません。
自分とは異なる存在への、純粋な興味であり、相手といい関係を作りたいという、欲求につながるものです。
性犯罪者の女性に対する好奇心というのは、自信のなさや無力感、そんな自分に対する怒りやいら立ちが、自分よりも弱いであろう女性を、ターゲットにしたものです。
獣が獲物を狙うのと同じですね。
それは、本来の好奇心ではありません。
これを単純に、女性への好奇心と解釈するのは、間違いです。
彼らの本当の問題を解決しない限り、同じことを繰り返すでしょう。
宗教の原理主義を掲げる者たちも、他の宗教や価値観を否定することに、執着しています。
彼らの心の根底には、社会不安や怒り、悲しみがあります。
自分たちの存在を、ないがしろにされていると感じていて、その反発心が彼らを突き動かしています。
彼らの行動は、自分たちの存在をアピールするものであり、自分たちの考えが正しいということを、証明するためのものです。
彼らの考えが歪んでいることや、彼らが執着しているものが、間違っていることは、誰にでもわかると思います。
しかし、日常の暮らしの中で、彼らと同じようなことをしている者が、いるのではないでしょうか。

頭の固い上司や、独りよがりの偏屈者。
古い考えの親や親戚、あるいは地域に古くから暮らす者たち。
自分の考えや価値観を他人に押しつけ、異なる意見は受け付けようとしない人は、案外たくさんいるものです。
何でも人のせいにして、自分は間違っていないと信じる人たちも、同じです。
彼らの世界観は固まっていて、それを変えることができません。
こういう価値観も、やはり原理主義と呼べるでしょう。

それぞれの考えを持つに至る人生経験は、人それぞれです。
どんな価値観を持とうとも、それはその人の自由です。
しかし、それが苦しみを生むのであれば、見直してみたらいいと思います。
また、人間として成長したいという気持ちがあるのなら、まずは感謝と思いやりの気持ちを持ちましょう。
そして、意見の異なる人のことも受け入れて、多様性のある社会を意識しましょう。
そうすれば、自分自身の居場所もできます。
本当の好奇心に従って、喜びを見つけることもできるでしょう。
もし、何かに執着している自分に気がついたなら、その背景に問題が隠されていないか、自分で確かめるようにして下さい。
執着する理由 その2
何かに執着するのに、それまでの人生経験が、大きく影響していることは、あると思います。
たとえば、家が貧しくて、生きて行くのが大変だったという、経験をしていれば、お金や物を必要以上に、手に入れたくなるでしょう。
まともな食事をして来なかった人は、美味しい食べ物に、こだわるかもしれません。
家族に恵まれず、つらい幼少期を送った人は、結婚して持つ家庭に、理想の家族像を当てはめようと、したくなると思います。
ただ、理想の家族を求めていたはずが、嫌いだったはずの親に似た人を、自分の相手に選ぶこともあるようです。
それは、異性とはそういうものだと、子供の頃に、心にすり込まれたからかもしれません。
あるいは、幼い頃にはうまく行かなかった、両親との関係を、似たような人との関係で、取り繕うとしている、可能性もあると思います。
とにかく、何かへ執着するのには、その人の経験が関係していることが、多いと思います。

性に執着する場合、男あるいは女としての自信を、失っているのかもしれません。
男か女かということを考える時、その一番の根拠となるのは、それぞれの体の特性です。
ですから、自分は男なんだ、あるいは、女なんだと主張したくなる時、それが性の強調と結びつきやすいのだと思います。
本当は男か女かというのは、心の問題であって、体の問題ではないのですが、世間一般には心よりも体の方が、重視されがちです。
そのため、自分の性を強調しようとすると、どうしても体の性で表現してしまうのです。
また、誰かと一体感を感じていたいという想いの裏に、理由のない孤独感が潜んでいる可能性もあります。
性に夢中になることで、孤独を埋めようとしているのかもしれません。
相手から別れを切り出されると、パニックになってしまうのは、一人ではいられないという、顕著な不安の表れです。

もし、子供の頃の経験だけでは、自分の執着心を説明できない場合、いわゆる前世に、その原因があることも考えられます。
催眠療法と言って、催眠術によって、抱えている悩みや体の症状の、原因を探るというものがあります。
具体的に言うと、悩みを持っている人に催眠術をかけて、悩みや症状の原因となる出来事を、思い出してもらうのです。
幼少期の出来事に原因があれば、催眠術をかけられた人は、ずっと忘れていたはずの、昔のことを思い出すことができます。
不思議なことに、原因となる出来事を、思い出すことができれば、その人の悩みや症状は解消されるのです。
この催眠療法で過去に戻る時、意図せず、前世の記憶が蘇ることがあります。
問題の原因と思われる出来事が起きた、過去まで戻るようにと、暗示をかけると、被験者の心は子供の頃に戻ります。
しかし、今世を越えて前世にまで戻ることが、まれにあるのです。
この場合、前世で受けた苦痛が、そのまま今世に持ち越され、それが本人の身体症状や不安などの、原因になっているということです。

たとえば、高い所から落ちて死んだ人は、その時の恐怖が心の奥にしみついていて、高所恐怖症になるのですね。
もし、前世で貧しくて餓死するようなことがあったなら、今世でお金や物、食べ物などに執着するかもしれなません。
ただ、そんな事を具体的に思い出さなくても、自分の執着心の原因が、前世にあるのだなと、自分で考えることで、執着心を手放しやすくなると、私は考えています。
つまり、この執着心は前世のものであって、今世の自分が持つ必要はないのだと、納得すればいいのです。
実際に前世で悲惨なことが、あったかどうかを確かめなくても、執着心を手放す理由を、自分で作ることができれば、問題は解決すると思います。
それと、もう一つ大切なことは、人生というものを、もっと高い所から、広い視野で眺めるようにすることです。

森の中にいると、迷ってしまって、自分の進むべき道が、わからなくなることがあります。
しかし、上空から森を眺めることができれば、自分が進むべき方向を確かめられますし、森そのものが、どういうものなのかを理解しやすくなります。
人生は一回こっきりだと思い込んでいると、人生を高い所から眺めることはできません。
世界や自分の存在というものについて、真剣に思考を巡らせるならば、人生を客観的に見つめることができるようになるでしょう。
そうなれば、執着心に振り回されることも、なくなると思います。
執着する理由 その1
あなたには執着しているものがありますか。
それは何でしょうか。
お金ですか。
それとも、何か珍しいコレクションでしょうか。
食べ物や、性に執着する人もいますよね。
地位や名誉に執着することもあるでしょう。
他にも、注目を浴びることや、誰にも負けないこと、というのもあります。
誰かからの贈り物であったり、家族の遺品などに、執着することもありますね。
誰かへの復讐に、執着することも、有り得るでしょう。
世の中には、全てのことに無頓着で、何に対しても執着しない人もいますが、その一方で、いろんなことに執着している人が、結構いるようです。
人生いろいろですから、執着することが、悪いとは言いません。

謎を解明することに執着する人は、すごい研究者になるかも知れませんし、事件を解決する名刑事になるかも知れないのです。
好きな物を集めるのも、誰にも迷惑をかけないのであれば、全く構わないと思います。
ただ、楽しむためだけとは言えないような、執着は要注意です。
何故なら、その執着の裏には、大きな精神的問題が、隠れているかもしれないからです。
たとえば、お金に執着する人。
金、金、金と、お金のことばかり気にしたり、蓄えは十分あるのに、もっともっとと、お金を稼ぐことに、夢中になる人がいますよね。
お金がないと心配という人は、将来に対する不安を、抱えているわけです。

マネーゲームを楽しんでいるつもりの人でも、お金がない生活を、楽しめる自信がなければ、結局は不安が根底にあると思います。
ゲームがうまく行っているうちは楽しめますが、うまく行かなくなると、途端に顔から血の気が引くでしょう。
毎日株価を気にしていると、他のことに気が向かなくなってしまいます。
もしも株が大暴落したり、世界規模で大恐慌が起こったりすれば、絶望するかもしれません。
お金持ちであろうと、貧乏人であろうと、お金に執着してばかりだと、せっかく人間に生まれて来ているのに、人間としての喜びに気づかないまま、人生を終えることになるでしょう。

それは、あまりにももったいない話ですし、株価の大暴落どころではない、大損失です。
身の回りに、いろんな物を揃えたがる人も、やはり気持ちの底に、不安が潜んでいます。
物を揃えることで、自分を安心させようとしているのです。
こういう人も、物を購入できなくなったり、災害などで全てを失うと、どうしていいのかわからなくなるでしょう。
必要な物以外は、得ようとしないし、何かを失っても、また手に入れればいいや、と思える人は、常に身軽です。
何かが起こっても、次のステップへ進むことができます。
しかし、不安を隠すために物を集めていた人は、不安がむき出しになってしまい、パニックに陥ってしまいます。

生きるということに、真剣に向き合い、人生の喜びを知る人は、目の前に出された状況を、素直に受け入れて、それを乗り越えて行きます。
乗り越えるしかないから、乗り越えるわけですが、それでも乗り越えることを決めていますから、どうしようという不安はありません。
これからどうなるのだろう、と考えることはあると思います。
それにしても、結局は乗り越えて行くしかないと、理解していますから、必要以上に悩んだりはしないでしょう。
お金や物に困って執着している人の場合、なかなか思い通りに行かなくて、いろいろ悩んだ末に、人生の意味を理解するように、なるかもしれません。
しかし、お金や物に恵まれて、一見素晴らしい人生を、送っているように見える人は、実は自分が不安を抱えているとは、気がつきにくいのです。
そこに気がつかなければ、人生の本当の意味は理解できません。
健康の意味を知らないで、本当は体がガタガタになっているのに、好き勝手に暮らして、体をいたわろうとしない人に、似ていますよね。
人生の意味がわからず、本当はとても不安なのに、流されるままに生きて、自分の本音の声に耳を貸そうとしない。
それは、やはりもったいない事だと、私は思います。
恐れ

恐れには、いろいろあります。
その中でも、最も大きな恐れは、死に対する恐れでしょう。
死と言うと、普通は肉体の死のことですが、肉体的には生きていても、社会的に死んだ状態というのも、肉体の死と同じぐらい、恐れの対象になっています。
他の病気や怪我に対する恐れ、生活や経済に対する恐れ、自然災害や天変地異に対する恐れ、試験や就職に対する恐れ、見知らぬものや見慣れない行為への恐れ、闇に対する恐れ、孤独になる恐れなど、様々な恐れがあります。
しかし、多くの恐れの根底には、先に述べた肉体的死、あるいは社会的死が隠れています。
つまり、私たちが何かを恐れる場合、その先にある、死を連想しているのです。

逆に考えると、死に対する恐れを克服できれば、あらゆる恐れを克服できるということです。
実際、死を免れることが保証されているならば、どんな事でも耐えられるでしょう。
死ぬことを思えば、これぐらいどうってことない。
死ぬ気になれば、何でもできる。
別に死ぬわけじゃないから、構わないよ。
こんな言葉を、耳にしたことはありますよね。
これらの言葉は、「死」を判断基準にしているのです。
そして、これらの言葉の裏にあるのは、死ぬのであれば絶対に嫌だ、という意味です。
それほど、死は恐れられ、忌み嫌われているのです。
しかし、死が何であるのか、どういう意味があるのかを、知っている人は、ほとんどいないと言えるでしょう。
わからないなりに死についてイメージするのは、自分が消滅することだと思います。
あるいは、消滅はしないまでも、永遠に幽霊になってさまようか、わけのわからない恐ろしい物が潜む世界へ、無防備のまま放り込まれると、考えるのかも知れません。
宗教を通して、天国や地獄のイメージを吹き込まれていると、自分が死後に、どちらへ送られるのかと、恐れおののく日々を送ることになります。
社会的な死の場合、世の中のどこにも、自分の居場所がない、全くの孤独状態でしょう。
それは、生きながら幽霊になったようなものです。
そこには生きている喜びなど、ないように思えます。

ところで、臨死体験や体外離脱体験をした方で、死後も意識が消えることなく、自分が存在し続けると理解する人は、宗教の違いに関係なく、死を恐れなくなります。
そのことで、生きる意味を考えるようになると、それまでとは生き方が、がらりと変わります。
死を恐れない。
それは、生の意味を知ることでも、あるのです。
それは肉体的な死だけでなく、社会的死についても言えるでしょう。
死を恐れないという人に、死は存在していません。
他の人から死と見えることも、その人にとっては、死ではないのです。
死を恐れる人は、自分の人生を振り返ってみて下さい。
楽しく過ごしていた人、暗い気持ちでいた人、様々でしょうが、自分の人生について、深く考えたことがあるのか、思い返してみて下さい。
もし考えたことがないのであれば、そんな事はむずかしいなどと言わないで、じっくり考えてみて欲しいと思います。
考えたことがあるけれど、まだ答えが出せていないという人も、同じです。
考えるのを途中でやめてしまうのは、考えていないのと同じ意味になります。
何故、死を恐れるのでしょうか。
それは、生の意味を理解せず、ただ流されて生きているからです。

自分の意志で人生を生きている人は、死を恐れないと思います。
別に臨死体験や、体外離脱体験をしていなくても、初めから生きるということに、真剣に取り組んでいれば、死を恐れないでしょう。
その人たちにとって大切なのは、死ぬかどうかよりも、自分の生き様なのです。
いきなり、その人たちと同じようになれと言われても、無理でしょう。
それでも、周りに流されるのを止め、人生の主導権を自分で握れば、その人たちの生き方が、理解できるようになると思います。
人生の舵取りを、自分自身の手で行い、自分が思った方へ向かうのです。
途中で難関に遭遇した時は、どうすればその難関を越えられるのかに、頭を悩ませるのは構いません。
でも、難関を越えられなかったらどうしようとか、越えられないかもしれないというような、無駄な不安に力を注ぐのは、やめましょう。
難関を越えるのには、いろんな工夫が必要になりますが、ただ待つということが必要な場合もあります。
思ったような展開にならないと、不安になってしまいがちです。
でも、物事にはタイミングというものがあるのです。
そのタイミングを待つということは、工夫することと同じくらい大切なのです。
それは、船長が潮の流れを読みながら、船を進めるのと同じです。

恐れてタイミングを間違えると、船が転覆することもあるでしょう。
恐れに舵取りを、任せてはいけません。
とにかく恐れないことが大切です。
恐れではなく、自分の判断・決意・責任において、自分の船を操るのです。
荒波に呑み込まれても、自分の手で舵を動かしているうちは、船は転覆しません。
転覆しない以上、あなたの航海は続きます。
行く手を決めるのは、あなたの好奇心です。
何があろうと、そちらへ向かうことが人生であり、それが喜びなのです。
重なる世界
私たちが経験している世界は、パソコンのモニターの中にある世界のように、自分だけの世界です。
一人一人が同じ規格のパソコンと、同じプログラムを利用して、同じ世界を体験するのと、似ています。
ただ、同じ世界を体験してはいるのだけれど、正確に言えば、自分が体験しているのは、自分の心に映し出された、自分だけの世界なのです。
他の人の心にも、同じような世界が映っているだろうと、推測はできますが、確かめることはできません。
パソコンのモニターと同じように、自分には見えていないものが、他の人には見えているかも知れませんし、その逆も有り得ます。

またインターネットでは、その人がどんな情報を好むのかを察知して、そのような情報を自動的に集める、プログラムもあります。
インターネットの画面を見ていると、脇の方に小さな広告の画面が出ていますが、それが自分が最近検索したものに、関連したものである事って、ありますよね。
そんな感じで、自分が望む望まないに関係なく、プログラムの方で、勝手に情報を集めるのです。
これと同じことが、私たちの人生でも起こっているとすれば、どうでしょうか。
みんな同じ世界にいて、同じような暮らしをしていると思っているのに、自分にばかり嫌なことが起こってしまうと、思えるようなことはありませんか。
あるいは、何かに興味を持って調べていると、それまでは気がつかなかったような情報が、次々に勝手に目につくようになる。
こんな経験があるのではないでしょうか。
このように私たちの人生においても、自分が意識を向けたものが、自動的に集められるようになっているのです。

自分はそんなもの、好んでいないと言う人はいるでしょう。
でも、こんなのは嫌だ嫌だと考えるのは、そこへ意識を向けているのと同じなのです。
嫌なことから逃げようとすればするほど、もっと嫌なことが起こるというのは、そういう事なのです。
嫌なことから逃げるのではなく、自分が本当に興味を持つことに、意識を振り向けると、自然に嫌なことは起こらなくなります。
代わりに、興味を持ったことに関する情報が、集まって来るようになるでしょう。
自分は不幸だ、自分はお金には縁がない、自分は何をやってもうまく行かない。
こんな風に考え続けていると、ずっとその状況が続きます。
そして、それは自分の想いに、自信をつけることになり、やっぱり思ったとおり、自分は不幸な人間なんだと、ますます強く思い込むことになるのです。

インターネットには、いろんなサイトがありますよね。
楽しいサイトから、よくわからないサイト、近づかない方がよさそうなサイトなど、いろいろです。
どのサイトに興味を覚えるかは、その人の価値観によります。
インターネットでは、自分が関心を持った情報に、関連するサイトへ導こうとする、広告が勝手に出て来ます。
それと同じように、人生においても、自分の考え方に応じた人たちが、自動的に導かれて、集まるようになっています。
一人ではできないことが、集団ではできるので、集まった者たちで、楽しいイベントを開くことがあります。
でも、悪い企みを計画することもあります。
それは集まった者たちの、価値観によるのです。
一人一人の世界を、パソコンのモニターをのぞくように、確かめることができたとすると、恐らく、みんな同じ世界にいるとは、思えないでしょう。
集団を作る人たちの中では、共通の世界が創られています。
でも、異なる集団同士では、全然世界が違うのです。
物理的にいる場所が、遠く離れていたとしても、同じ思考を持つ者同士は、似たような世界を構成します。
元は同じ世界の情報から、同じ人間の体を通して、世界を創っているのに、出来上がった世界は人それぞれで、他の人たちと極端に違う世界も、珍しくないのです。
それでも私たちは、考え方や価値観が異なる人たちの姿を、見ることができますし、望めば接触することもできます。
だから、そういう人たちと自分が、同じ世界に存在していると、考えてしまいます。
でも、実際は関心のない人に、接触することはありません。
道ですれ違うことがあっても、それだけの話です。

あなたの世界に、あなたに関係のない人は、存在していないのです。
このように、同じはずである世界の中には、実際には人の数だけ創造された、無数の世界があるのです。
似たような世界は、そこに大きなグループを作ります。
異なるグループは、異なる世界に生きています。
つまり、私たちが現実と呼ぶ世界には、様々な世界が重なり合って、存在していると言えるのです。
自分が体験している世界を、堪能している人もいれば、うんざりしている人もいるでしょう。
でも、みんなそれが唯一の世界であって、何も変わらないと信じているから、現在体験している世界は、そのまま続きます。
もし、自分の考え方や価値観を変えられたなら、途端に自分が所属する世界は、変わります。
同じような風景が見えるので、何も変わっていないように、見えるかも知れません。
でも、それはそれぞれの世界が、重なり合っているから、そのように感じるだけなのです。
実際は、考え方を変えた人は、前とは異なる世界にいます。
自分が嫌な世界にいると信じている人は、嫌なことにばかり目を向けるのをやめて、楽しいことに集中しましょう。

嫌なことが起きたとしても、笑い飛ばすようにして下さい。
そうすれば、もう元の世界に戻ることはありません。
喜びを求め続ければ、その求めに応じて、新たな喜びが訪れることになるでしょう。
正義のつもり
昨日は東京のコロナ感染者数が、1600人近くになり、過去最多を更新しました。
外国でもコロナの勢いは衰えず、世界中でコロナワクチンへの期待が、集まっています。
日本でも来月下旬に、ワクチンの接種を開始する予定ですが、テレビのワイドショーなどでは、相変わらず国民の不安を、かき立てるようなことばかり言っていました。
ワクチンが効くのか効かないのか。
効かなかったら、どうなるのか。
そんなことは、やってみないと、わかるはずもありません。
いくら専門家に尋ねても、専門家だって知らないのです。
聞かれたら何か答えないといけませんから、専門家の人たちは自分の考えを述べますが、そこには期待も含まれるし、最悪の可能性も考慮されます。
当然、意見は割れますが、それがまた不安の元になるわけです。
番組の司会者は、一体何を求めているのでしょうか。
誰かが100%の安全を保証してくれるのを、期待しているのでしょうか。
しかし、未来は常に不確定です。
全てにおいて、100%など有り得ません。
それに、どれほど安全や安心を示しても、疑う気持ちがあるうちは、何を言われても、信じる気持ちにはなれないでしょう。
結局、待たなければわからないのですから、黙って待っていればいいのです。
待っている間は、自分がやるべき事や、やりたい事を、淡々とこなしていたらいいでしょう。
何か問題が起こるようであれば、感情的になるのではなく、やはり淡々と対処するしかありません。
国がどんな政策を取ったとか、誰が何を言ったとか、そんなことで右往左往しては、いけないのです。
テレビの報道番組は、国民に真実を伝える役目を、果たしているつもりです。
それは正義の行いだと、考えているのでしょう。
しかし、その基盤には視聴率競争というものがあります。
国民に希望を与えるより、不安に落とす方が、インパクトが強くて、視聴率アップにつながるという、浅はかな考えが潜んでいると思います。
ただ、現場で動いている人たちの意識に、そういう考えがあるとは限りません。
みんな、指示されたとおりに動き、それが正義につながっていると、信じているのかも知れません。
それでも、結局やっていることは、騒がなくていいことを騒ぎ立て、視聴者の不安を煽っているだけです。
コロナウィルスは、単なるウィルスに過ぎません。
ワクチンがなくても、いずれは必ず、その影を潜めます。
ワクチンさえあれば、元の世界が戻って来るような、期待を持つ人がいます。
それは言い換えれば、ワクチンさえあれば、昔のような好き勝手を、やっても構わないという意味になります。
でも、本当の問題は、他人の事を顧みずに、自分さえよければそれでいいという、エゴイズムの世の中ではないでしょうか。
逆に言えば、それさえ正すことができたなら、コロナウィルスでここまで騒ぐ必要は、ないのだと思います。
ヨーロッパではロックダウンが行われ、指示に従わない者には、罰則が与えられます。
それでも、自由を奪われることに反発し、集会やパーティーを開いて、警察と揉める人が、後を絶ちません。
もし、一人一人が他人への配慮をしながら、自らの行動を管理できたなら、政府が法律で強制的に、人々を押さえ込む必要はありません。
ヨーロッパのような、強制力がある政策を、日本が取らないのは、過去の戦争の反省があるのだとは思いますが、他人を気遣える国民性に、期待をしているからだと思います。
ただ、その期待が甘えになっているようなので、国民からの信頼が得られないのでしょう。
とにかく、今の状況には、一人一人が自分の意志で、対処して行くしかありません。
それでも、一人ができることは限られますし、生活に困窮する人も出て来ます。
そんな時は、近くの人との協力が、大きな力となるでしょう。
今求められているのは、誰かに指示されたり、煽られたりして動くことではなく、自分で冷静に考えて行動するという事です。
行動の原動力にするべきなのは、恐怖や不安や焦りではなく、感謝と思いやりと好奇心です。
今こそ、みんなが力を合わせて助け合い、お金がなければ生きていけない世の中を、お金がなくても生きて行ける世の中に、変える時でしょう。
そして、人生というものを、見直すべき時でもあります。
すなわち、楽に生きる、面白く生きるということではなく、喜びのある生き方を求めるということです。
表面的に楽しい人生ではなく、深みのある生を感じられる人生を送る。
そんな時期が、訪れたのだと思います。
妖精は存在するのか
妖精と言うと、どんなものをイメージしますか。
ピーターパンに出て来る、ティンカー・ベルでしょうか。

妖精という表現は西洋的なので、西洋のファンタジーに出て来る、小人のような存在が思い浮かぶと思います。
日本では、座敷わらしなんかが、妖精の仲間のように見えますが、日本的な表現をすれば、妖精ではなく、妖怪あるいは精霊と言うのでしょう。
妖怪と精霊では、がらりとイメージが違うようですが、本質的には同じようなものと、考えられます。
要するに、普段は物質世界とは、異なる次元に存在していて、姿形があるのかないのか、はっきりしないけれど、時折人々の前に、何らかの存在感を示すものです。
妖怪は人に悪さをするけれど、精霊はいいことをしてくれる、というような感じがするかも知れませんね。
でも、天狗や河童や鬼などは、人に害をなすこともあれば、力になってくれることもあります。
彼らは妖怪とも言えるし、精霊とも言えるのです。

そもそも、妖精や妖怪、あるいは精霊などが、実在するのでしょうか。
証拠を示すことはできませんが、答えはイエスだと思います。
何故ならば、幽霊を含め、私たち自身の本質が、姿形を持たない意識体、すなわち精神エネルギーだからです。
物質世界の肉体と、つながりを持っているか、いないかの違いでしょう。
物質世界に体を伴って暮らす生き物は、人間だけではありません。
いろんな動物や植物、あるいは微生物のようなものまでいます。
それと同じように、肉体を持たない精神エネルギーとしての生命体にも、様々なものがいると考えられます。
その中には、動物よりも知性の低いものもいれば、人間よりはるかに知性の高いものもいるでしょう。
また、エネルギーとしての時空間を、操る能力があれば、人間から見て摩訶不思議なことを、行うことができるでしょう。
恐らく、物質世界とは少し波長が違う次元に、存在しているのでしょうから、私たちからは見ることも触れることもできません。
しかし、私たち自身の波長が、彼らの波長に近づいたり、どこかの土地の波長が、彼らのいる世界の波長に近ければ、時として彼らと、接触することがあると思われます。
案外、彼らの方からは、いつでも私たちのことを、観察ができるのかも知れません。
ただ、私たちが彼らに気がつかないだけ、ということも有り得ます。

私たち一人一人が体験している世界は、自分の肉体を通して得た情報で、構成されています。
みんな同じ世界にいるような気になりますが、実際は一人一人が、違う世界にいるのです。
そのため、人によっては他の人には見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえることは、あるのです。
肉体が存在している物質世界には、様々な情報があります。
私たちは、その情報の中から、ある情報だけを選んで、それを世界構築の材料にしているのです。
昔の人は妖精が見えたり、精霊と話ができたりしたと、聞くことがありますが、今では、そんなことは迷信扱いです。
実際、妖精が見えるとか、精霊が話ができるなどという人は、ほとんどいないでしょう。
もし、いたとしたら、恐らく病院へ連れて行かれてしまいます。
現代社会は科学を信奉しており、科学で説明できないことは、非科学的だという言葉で、片づけられます。
科学に抗う者は、頭がおかしいと思われるのが、おちなのです。
しかし、自分の世界は、自分で選んだ情報で創られているわけですから、妖精なんか信じないと決めてしまうと、妖精に関する情報は、目の前にあっても、シャットアウトされてしまいます。
よほど向こうから、強く存在をアピールしてくれない限り、こちらからは彼らの情報を、拾い上げることはありません。

子供には幽霊や精霊が見えるという話は、よく聞きますよね。
子供は科学信奉者ではありませんから、自分の感覚に素直です。
何も否定しませんから、目の前に差し出された情報を、疑うことなく受け止めるのです。
しかし、成長するにつれて、そういう話をしてはいけないのだと、考えるようになると、次第に妖精たちの情報を、取り込まなくなるのです。
つまり、妖精たちの存在がわからないのは、私たちが現実と考える物質世界に、どっぷり浸かっているからなのです。
霊能者と呼ばれる方たちは、子供の頃から感覚が鋭敏で、なおかつ大人になっても、その感覚を大切にして来られたのだと思います。
ちなみに、私は霊能者ではありませんが、誰もいないはずの隣に、人の気配を感じたり、寝ている時に、ネコのようなものに、乗って来られた経験はあります。
ですから、肉体を持たない存在は、身近にもいるのだと思っています。
妖精や精霊にも、いつかは会ってみたいものですが、そのためには自然や他の生き物たちに、優しい気持ちを持たないと、いけないような気がします。
よく、地球に優しい環境だとか、エコという言葉を聞きますが、あれは全て人間に利点があることが、前提になっています。
人間中心の発想であって、本当に地球に心を寄せているとは言えません。
エコではなく、エゴですね。
そうではなく、自分は地球の一部であり、自然は自分の兄弟なんだ、という理解と感覚で、優しい気持ちを持つということです。
自分がいい思いをしたいとか、つらい思いをするのは嫌だから、という考えの下では、本当の地球への優しさは、持てないでしょう。
そして、そんな心持ちでは、妖精や精霊にも、会えないかも知れません。
人生の目的 その3
私たちは心の存在で、本来は姿形を持ちません。
姿形があるこの世界は、仮の居場所であり、本当の居場所は別の所にあります。
そこからこの世界へ、出たり入ったりするので、前世や来世という発想が生まれるのです。
では何のために、この世界への出入りを、繰り返すのでしょうか。
それもむりやりではなく、自ら行っているようなのです。
そこには何か目的があるとしか思えません。
そして、それこそが一人一人の、人生の目的だと言えるでしょう。

人はそれぞれ事情が違いますから、同じ世界の同じ環境に生まれたとしても、抱えた目的は様々だと思います。
だからこそ、同じように育てたはずの兄弟姉妹なのに、一人一人が全然違う性格や好みを持っていて、生き方や育ち方が異なって来るのでしょう。
しかし、自分が目的を持って生まれて来たことなど、誰も覚えてはいません。
そのため、自分が置かれた環境に不満を持ち、親に対して、産んでくれと頼んだ覚えはない、などという言葉を、口にするようになるのです。
私たちは今の人生で、何らかの形で成功したいと望みます。
お金をたくさん稼いで、好きなことを一杯やりたい。
素敵な人と一緒になって、楽しい結婚生活を送りたい。
有名になって、みんなから注目されたい。
他にもいろいろ望みはあるでしょう。
でもその望みが、人生の本当の目的であることは、少ないかも知れません。
私たちが普段の意識で、考える人生の目的と、産まれて来る前に、決めていた人生の目的は、別なのです。
どちらが重要なのかは、決まっています。
それは産まれて来る前に、決めた目的の方です。
その重要な目的を果たすためには、恐らく最適な環境を、選んで産まれるでしょう。
つまり、私たちが産まれた家や地域の環境は、自分の目的に応じたものなのです。

人によっては、自分が置かれた環境が、恵まれていないように、思えるかも知れません。
しかし、そこには何か理由があるのです。
ただ、つらい、苦しい、悲しい、しんどい、などと不満を述べるだけでなく、その嫌な環境に、どんな意味があるのかを、探ってみるといいと思います。
それは、その環境から飛び出すための、原動力になるのかも知れません。
嫌な経験を積むことで、他の人の苦しみを、理解できるようになるためとも、考えられます。
あるいは、つらさを知ることで、より深く喜びを感じられるようになる、ということもあるでしょう。
自分の人生にとって、重要な人との出会いが、その苦しい環境の中に、組み込まれていることも有り得ます。
もしかしたら、誰かを支えるために、つらい立場を買って出た可能性もあります。
この場合、その人は相当強い覚悟と精神力を、持ち合わせているのだと思います。

いずれにしても、そこにどんな計画が隠されているのかは、人によって違うでしょうし、本人でなければ、知りようがありません。
その本人も、つらい環境の下で、ネガティブな思いばかりを募らせていたのでは、そこに隠された秘密に、気がつかないかも知れません。
でも、どんな環境や境遇にも、必ず理由があるでしょうから、それを探ってみると、人生の受け止め方が、違ったものになると思います。
ちなみに、前世で悪いことをしたから、今世でひどい目に遭わされているのだ、というような考え方は正しくありません。
自分の人生は、自分で選んでいるのです。
人生に組み込まれているのは、罰ではなく学びです。
どんなことが学べるかは、その人次第です。
とにかく、人生には目的はあると、考えて下さい。
そして、その目的は他の誰かのためではなく、自分自身のために、自分で決めたものだと理解して下さい。
本当にそうなのかと、疑いたくなるとは思います。
でも自分の人生は、自分で選んだのだと考えると、気持ちが楽になるのは、間違いありません。
真偽を確かめるのは、あとにして、自分は自分の意志で、産まれて来たのだと思うようにしてみて下さい。
そうすれば、きっと新たな人生が経験できると思います。