自分の中の自分 その1

バルーンアートって、ありますよね。
細長い風船を膨らませ、一部をキュッキュッとひねることで、一本だった風船をいくつかのソーセージみたいに、区切って行くのです。
いろんな大きさの区切り部分を作り、それをねじ曲げたり、合わせたりして、全体で犬や花や剣など、様々な形にします。
あんなことをすれば、きっと割れてしまうと怖くなるので、私はバルーンアートが苦手です。
でも、ソーセージみたいな所を、さらにひねって、もっと小さくしても、案外割れないもののようで、バルーンアートを作る人が、風船を割るところを、見た事はありません。
とは言っても、自分がやるのは、やっぱり怖い気がします。
別に割れたところで、怪我をするわけでは、ないのですけどね。

ところで、あの長い一本の風船が、一つの意識であると考えてみて下さい。
そして、意識である長い風船の端っこの方を、摘まんでひねってみるのです。
完全にひねるのではなく、そっとゆっくりひねりながら、その時の長い風船の意識を、思い浮かべて下さい。
一つであるはずの意識が、二つに分離しようとしているのです。
それが、どんな状態であるのか、風船の意識に、自分の意識を置き換えてみて下さい。
でも、自分の意識が分離すると言われても、想像ができないかもしれませんね。
では、心の中に、ある人物をイメージして下さい。
実際にいる人物ではなく、自分のオリジナルのキャラクターです。
映画やドラマに登場する主人公や、脇役のようなものを、思い浮かべればいいのです。
勇者のような英雄でもいいですし、悪役でも構いません。
頭がいい学者タイプや、自分に自信が持てない臆病者、疑い深いくせに寂しがり屋。
何でもいいですから、オリジナルのキャラクターを思い浮かべて下さい。
そのキャラクターは、あなたがイメージしているのですから、あなたの一部です。

あなたがキャラクターを、思い浮かべている状態が、風船の意識をひねって、小さな部分を区切ろうと、しているところなのです。
自分の中に、特定のキャラクターを創り出すことが、意識を分離させるということなのです。
でも、単にキャラクターをイメージしている間は、完全に意識が分離したわけではありません。
風船を区切るためのひねりは、中途半端な状態です。
まだ、完全には区切られていません。
頭の中で、キャラクターが活動するのを想像している間は、キャラクターと同時に、想像している自分を自覚しています。
キャラクターがどんな状況で、どんな風に考え、どう感じるのかを、あなたは体験できますが、元の自分の意識も、同時に認識されています。
この時、キャラクターの行動は、自分が想像したとおりに、変化させることができます。
それは、あなたの想いがキャラクターに、反映されるということです。
ここで、あなたがキャラクターに意識を集中して、他のことを何も考えず、キャラクターになりきったとしましょう。
キャラクターになりきっていますから、キャラクターを自分が創り出したという、認識はありません。
いわば、妄想の世界に入り込むか、夢の世界に入っているようなものです。
この状態の時、元の自分は意識されていません。
これが風船の端を、完全にひねって区切った状態です。
でも、どんなにしっかり区切ったところで、その部分が全体の一部であることには、違いがありません。
ひねった所を元に戻せば、区切られた部分は、自分が全体の一部であることを、思い出します。
夢から目が覚めて、今のは夢だったのか、と気づくのと同じです。
キャラクターになりきった妄想の白昼夢から、はっと我に返るのも、同じ状況です。
白昼夢よりも夢の方が、馴染みがあるでしょうから、ここからは夢で話を続けます。

夢から目覚めた後、夢の中の自分が、どうだったのかという記憶は残っています。
夢の中で感じた、感情も残ります。
つまり、覚醒後の意識でありながら、夢の中の人格も、そのまま保ち続けることができるのです。
この時、夢を思い出して、夢の中の人格を再現しても、そこには同時に、目覚めている自分の意識も存在しています。
両者の区別は、はっきりしたものではなく、その境界は曖昧です。
しかし、どこに意識の主体があるのかは、明らかです。
夢の中では、自分だと認識していたはずの人格も、目覚めてからは、元の意識の一部であることが、理解されます。
さて、次は少し条件を変えて、考えてみたいと思います。
核兵器禁止条約
核兵器禁止条約が発効されました。
50カ国と地域が批准した条約ですが、米露などの核保有国や、日本など核の傘下にある国は拒否しています。
世界で唯一の戦争被爆国である日本には、この条約に加わって欲しかったと、多くの日本国民が考えていることでしょう。
核が戦争の抑止力になっているという論理がありますが、その論理を認めた人であっても、核兵器がない方がいいと、思っているに違いありません。
結局、核兵器というものは、誰もが知っているとおり、究極の大量破壊兵器です。
いかに効率よく大量の人々の命を奪うのか、という観点で造られた兵器なのです。
人の命は尊いものだと、本気で考える人であるならば、核兵器どころか、あらゆる武器の廃絶を願うはずです。
人を殺してはいけないと、教えられた子供であれば、いろいろ理屈をつけて核兵器を持ち続けることに、大きな疑問を抱くでしょう。
核兵器に限らず、相手を殺す武器を持つということは、相手を信用していないということです。
世の中に、信じられる人しか存在しなければ、人を殺す道具など、持つ必要はありません。
と言うことは、互いを信頼し合うことができたなら、核兵器などいらないということです。
核兵器以外の武器も、いらなくなるのです。
そして、そういう道を歩むのだと、大国あるいは大国に従う国を除いた、多くの国々が、核兵器禁止条約を通して宣言したのです。
この条約に法的な拘束力があるのか、ということは問題になりません。
ほとんどの国が非力かもしれません。
しかし、大半の国が賛同したということに、意味があるのです。
表現が悪いかも知れませんが、マフィアやヤクザの抗争に、我慢ができなくなった一般の人々が、ノーを突きつけたというような格好でしょうか。
条約に加わっていようがいまいが、問われているのは人間性であり、その国の国民性です。
核兵器廃絶の動きを、平気で無視するような国があれば、世界中の多くの人々の心は、その国から離れてしまうことでしょう。
これまで非力で貧しい国に対して、大国はお金で文句を、言わせないようにして来ました。
それは札束で相手の頬を、叩くのと同じです。
文句を言いたくても、お金が必要な国は、文句が言えません。
それをいい事に、これまで大国は好き放題をして来たのです。
しかし、ついに世界中が大国に対して、注文をつけるようになったのです。
これまでも、クラスター爆弾や化学兵器などの禁止条約も、非力な国々の力で成立して来ました。
もちろん大国は加わりませんが、そういった武器は使われなくなっています。
それは、非力であろうとも、多くの国々の声は、無視できないということなのです。
どの国も、平和と平等を求めています。
もし、力のある国が、どこか一つでも、貧しい国々のために立ち上がったならば、その国は世界中から称賛されるでしょう。
力があるのに、いつまでも立ち上がらない国は、世界中から軽蔑されます。
軽蔑は屈辱でしょうから、そういう国も渋々ながら、重い腰を上げることになるでしょう。
でも、どうせ腰を上げるのならば、一番先に自ら立ち上がる方が、かっこいいに決まっています。
その一番の役柄を、日本がするべきだと、私は強く思いますし、また願っています。
いつまでもアメリカの顔色を窺うのではなく、アメリカをも動かすほどの、リーダーシップを持つ国であって欲しいです。
また、そうなれるだけの資質が、日本にはあると思います。
政治家たちの中にも、有能な人はいるでしょう。
でも、一部の有力者の顔色を窺い、力を発揮できていないような気がします。
今の日本とアメリカの関係と、全く同じですね。
政治の世界が、世代交代を果たせたならば、コロナ騒ぎも落ち着くでしょうし、核兵器廃絶や本当の平和への先導役を、日本が果たせると思います。
混乱の意味
物事が思い通りに進んでいるうちは、心は安定しています。
刺激的なことがなくても、特に生活を脅かすようなものがなければ、心はそれなりに安定しています。
ところが、病気や怪我、事件や事故、あるいは今のような、社会全体の問題が起こると、それまでとは同じ状態を、維持できなくなると思って、混乱に陥ってしまいます。
何かの問題が起きても、個人個人の状況や状態が異なりますから、ある人は混乱していても、別の人は全く平気、ということもあるでしょう。
しかし、混乱の規模が大きくなると、そんな人たちをも巻き込むことになります。

混乱すると、人はパニック状態になります。
思考や行動を制御できず、何をどうすればいいのかが、わかりません。
何もできず動けなくなる人もいれば、思いがけない行動に出る人もいます。
それは生物として生き残ろうとする、本能的な側面が強いのですが、他の人とのつながりを考慮するという、人間的な側面も関わって来ます。
つまり、混乱の最中にどのような行動を取るかは、本能的な側面と人間的な側面が、どれほど強いかということで、決まると言えるでしょう。
普段は理性によって、精神状態をコントロールし、本来の自分とは別の自分を、装うことができます。
しかし混乱していると、理性が麻痺して、精神状態のコントロールができません。
その時の精神状態が、そのまま表に現れるのです。

貧富の差に関係なく、自分のことしか考えられない人と、他人への配慮ができる人では、取る行動が全く別のものになるでしょう。
身の回りのことが自分でできる人と、そうでない人の態度にも、大きな差が出るに違いありません。
臆病な人と、臆病でない人も、その違いは一目瞭然です。
普段の心の中には、本音以外に、いろんな要素が混じり合っています。
場合によっては、自分でもどれが本音なのかが、わからなくなるほどです。
それは、いろんな大きさの砂や石が、混ざり合っているような状態です。
ぱっと見た目には、砂が多いのか石が多いのか、よくわかりません。

混乱というのは、この砂や石の集まり全体を、大きな力で揺さぶるのと、同じです。
揺さぶられると、それまでまんべんなく混ざっていたものが、それぞれの大きさや重さによって、層をなしながら分離して行きます。
粉のような砂粒から、砂利のような石まで、きれいに分かれて行きます。
表面を見ただけでは、よくわからなかった、砂や石の構成割合が、分離することで一目瞭然になります。
そんな感じで、本音がよくわからない心の中も、混乱に陥ることで、どれが本音なのかが、露わになるのです。
これは個人的な混乱でも、社会的な混乱でも、同じことです。
混乱は自分でもわからなかった本音を、わかるように浮き彫りにしてくれます。
本音がわかれば、あとはそれに従うだけですが、本音の内容によっては、争いが起こるかもしれません。
争いを避けるためには、本音が違う者同士が、お互いの本音を尊重し合うか、別々に離れて暮らすかの、どちらかでしょう。
つまり、多様性を受け入れるか、受け入れないかの違いです。
そこは人間が優れた知性を、備えているかどうかが、試されるところでしょう。
いずれにしても、混乱とは本音を導き出す、一つのきっかけであり手段でもあります。

もし、同じような砂粒しかないものを、大きく揺さぶると、どうなるでしょうか。
砂粒しかなければ、どんなに揺さぶられようと、その中身は変わりません。
それと同じように、自分というものがしっかりしている人は、どんなに混乱している状況に追いやられても、他の人のように混乱することがありません。
揺さぶられはしても、心の中は常に一定の状態が、保たれているからです。
と言うことは、普段から自分の本音と向き合い、本音を大切にして、余計なものは捨て去るようにしていれば、世の中で何が起ころうとも、混乱しないと言えるでしょう。
このような人は経済社会を超えた、もっと大きな視点に立っています。
その視点に基づいた本音ですから、経済社会が揺らいでも、この人の本音が揺らぐことはありません。
では、経済社会を超えた視点に立つには、どうすればいいのでしょうか。
そのためには、生きるということ、自分という存在、宇宙や世界などについて、深く考える習慣を持つことが、大切だと思います。
童心に返ろう

そんな子供じみた事をして。
いつまで経っても、子供なんだから。
あなた、年はいくつなの?
これらは童心を否定する言葉です。
童心を否定することで、自分は立派な大人であると、示しているのです。
だけど、童心というものは、失われることはありません。
童心を隠さない人たちを、批判している人たちの中にも、童心はあるのです。
童心と呼ばれるものは、別の言い方をすれば、純粋な好奇心です。
喜びや楽しさを求める、原動力なのです。
それに対して、大人と規定される概念は、次のようなものでしょう。
言われたことを、責任を持って、きちんとこなす。
仕事と遊びの区別をつける。
世の中のルールや常識を理解して、社会の和を乱さない。
この三つ目の中には、恥ずかしいことはしない、という事も含まれています。
国や地域によって、そこの線引きは異なるでしょうが、恥の文化の日本では、なかなか恥ずかしいことは、やりにくいですね。

興味を持ったことに、まっしぐらとなる子供は、そこがどんな場所なのかとか、他人に迷惑がかかるか、などということは、基本的にはお構いなしです。
他人の目を気にしませんから、恥ずかしいかどうかも、笑われるまではわかりません。
しかし、他の人のことを考慮するように教えられると、そこは子供も工夫します。
そうしながらも、子供はやはり、自分の興味を満たそうとします。
ところが大人になると、ルールに従うばかりで、自分の興味は抑え込んでしまう傾向が強くなります。
それは何故でしょうか。
その理由の一つは、大人になると、基本的にどこかの企業に就職し、そこのルールに従って、言われたことだけを、こなすようになるからです。
言われていないことをするのは、マイナスとされます。
いい評価をもらうためには、自分を殺さなければなりません。
みんながそんな風にしているので、それが普通で当たり前だと、誰もが思うようになるのです。
もう一つの理由は、平凡と呼ばれる暮らしを続けることで、自分が何かをやったところで、大したことはできないと考えるからです。
楽しむことが大切なのに、注目されるような結果を出すことが、重要だと考えるようになっているのです。
こんな考え方は、とても日本的だと思います。
しかし、童心というものは、注目されることを目的にしていません。
楽しむということが、目的なのです。
大人になってからも、童心を持ち続ける人は、いろいろです。

社交性を持たないまま、ひたすら自分の世界にこもる人。
社交性がなければ、トラブルを起こすことがあるかもしれません。
でも、好きな世界にこもれることは、本人にとっては幸せなことでしょう。
社交性に富んで、ユーモアたっぷりな人。
自分が関わる仕事に、興味さえ持てれば、独自の工夫を凝らしながら、くじけることなく、目標に向かって行く、パワーを発揮できます。
でも、仕事に関心が向かなければ、長続きせずに、すぐに辞めてしまうでしょう。
科学の世界の最先端で活躍する人たちも、童心を抑制せずに、好奇心の赴くままに、突き進んでいるのだと思います。
大きな会社を動かしている人も、好奇心が人一倍旺盛だと思います。
逆に言えば、そういう人でなければ、そんな仕事は務まらないでしょう。
童心に返ると言うと、子供の頃のように遊ぶイメージがありますが、このように大人の姿を維持したまま、童心に返っている人もいるのです。
そういう人は、見た目は普通の大人です。
でも、夢を語らせると、目を輝かせて楽しそうに喋り続けます。
喋り出したら、止まらないといった感じです。

私がタイトルにつけた、童心に返ろう、という呼びかけは、子供の頃に持っていた、好奇心を蘇らせ、自分の夢を追いかけよう、という意味なのです。
人間を子供と大人に、明確に分けてはいけません。
両者には境界線などないのです。
成長するということは、意識の上に、いろんな知識や経験を積み重ねて行くということです。
子供の頃に持っていた心は、いつだって意識の中心にあるのです。
表面から見えにくくなっているだけで、誰の心の中にも、子供の時の心はあります。
子供の頃の心は、いつも楽しさを追い求めようと、うずうずしているのです。
童心を抑えるのではなく、子供の頃には持っていなかった、知識や経験、それにお金を活用し、自分が楽しめることを追求して下さい。
夢を実現させようとする人の姿は、他の人の心を熱くさせます。
関係ない人までをも、引っ張り込む力があります。
落ち込むことが多い世の中ですが、だからこそ、童心に返ることが大切なのです。
何故ならば、みんなが落ち込む世の中になってしまったのは、多くの人が童心を見失っているからなのです。
楽しむことよりも、お金を蓄えることにばかり、熱心にさせられています。
お金がなければ何もできないと、信じ込まされています。
でも、子供はお金がなければ、ないなりに楽しみを見つけます。
童心に返れば、そんな喜びを見つけることが、できるでしょう。
何かに追い詰められたとき

人生には、追い詰められたように感じるときが、あるものです。
突然の解雇。
明日から、どうやって暮らせばいいのか。
親の期待がかかった受験。
でも、とても志望校には受かりそうにない。
一人前の仕事が求められている。
だけど、自分にはこれ以上、頑張れない。
妻として、母として、嫁として、ずっと頑張って来た。
だけど、自分の人生って、これで終わりなの?
借金取りがやって来る。
一生逃げ回るのは、もう嫌だ。
他にもいろいろ、あるとは思います。
他人から見れば、それほど深刻に見えなくても、本人にすれば、もうだめだと思ってしまうような状況は、少なくないでしょう。
何とか無事に、切り抜けられればいいのですが、本当にどうしようもなくなると、突然爆発したように、何かの事件を起こすかも知れません。
あるいは、逃げ場を求めて、自ら命を絶つこともあるでしょう。
でも、それはどちらも得策とは言えません。
せっかく生まれて来た人生が、台無しになってしまいます。

本当にどうしようもなくなった時、爆発したり自殺したりする前に、とにかくその場から離れましょう。
追い詰められた状態では、物事を冷静に考えることができません。
まずは、気持ちを落ち着けるために、場所を移動して、気分を変えるのです。
それから、何故そうなったのかを、分析しましょう。
何事にも原因と結果があります。
自分が嫌な状況に追い込まれたのであれば、必ずそうなる理由があるはずです。
ただ、ここで気をつけないといけないのは、自分は何も悪くないのに、こうなってしまったと考えることです。
人は自分を悪いと思いたくありません。
だから、何かが起こった場合、どうしても誰かのせいにしたくなるのです。
でも、そんな事をしても意味がありません。
自分に嫌なものを引き寄せる所があるのなら、そこを改めない限り、嫌なものから逃げることはできません。
逃げたつもりでも、そこで同じようなことが、再び起こります。
自分が悪かったと認めることは、とても勇気がいることです。
場合によれば、とてもつらい事になるかもしれません。
でも、自分に正す所があるのであれば、正さざるを得ないのです。
ここで、自分の悪いところを素直に認める、いい方法をお伝えしたいと思います。

私たちの本質は心にあります。
人間の体を持ち、人間社会の中で暮らしていますから、私たちは自分を人間だと受け止め、人間としての価値観で暮らします。
この価値観は、自らの考えで持つようになるものもありますが、幼い頃から知らないうちに、すりこまれたものもあるのです。
たとえば、男らしく女らしく、日本人らしく、子供らしく大人らしく、年長者らしく。
他にもありますよね。
周りを見ると、みんながそうしているからという理由で、そんなものだと思い込んでしまう価値観は、結構あるものです。
そんな価値観が、物事の良し悪しを決める基準に、なっていることは多いのです。
たとえば、結婚して家庭を持たないと、一人前とは言えない。
こんな考えは、一昔のものではありますが、今でも結構残っていると思います。
いい学校を出なければ、就職先が見つからず、苦労することになる。
これは未だに根強い考え方でしょう。
本当は全員が大学へ進学する必要はないのです。
いい夫や、いい妻でなければならない。
そんな強迫観念的な考えの夫婦生活は、いつか破綻をするでしょう。
こんな歪んだ価値観は、いくらでも人間社会にあります。
正しいかどうかは別にして、これらの価値観は全て、人間が勝手に作ったものです。
人間でない存在からすれば、別にどうってことのないものばかりでしょう。

アリの整列の仕方や、進む方向の決め方など、アリなりの価値観に基づいたものかもしれません。
でも、そんなのは人間にとっては、どうでもいい事ですよね。
それと同じように、自分は今は人間を体験しているけれど、本当の自分は人間ではない、エネルギー的存在だと、考えるのです。
今は人間としての体験をするために、ここにいるだけだと思えば、世の中に蔓延している常識や価値観を、客観的に見ることができるでしょう。
そこで今回人間を体験している、自分の言動や、集めた価値観の、どこがまずかったのかということを、冷静に見極めるのです。
人間でない自分でいれば、人間の価値観に影響されることはありません。
自分のここがまずかったとなっても、それを恥と思ったり、それで傷ついたりはしないでしょう。
体の具合が悪ければ、悪い所がどこなのかを調べ、見つかれば、それに対処をしますよね。
それと同じで、自分の人間としての言動の、どこが問題であったのかを、ただ調べて改善するだけの話なのです。

追い詰められていると感じる場合、自分の価値観が足かせとなっています。
どうしようもない、身動きがとれない、息が詰まる、と考えるのは、そう考えたくなるような価値観を、すり込まれているからなのです。
学校へ行かないといけない、という考えが、絶対に正しいと信じていると、学校へ行けなくなった時に、もうだめだと思うのです。
学校は行かなくてもいいんだよと、誰かに教えてもらうと、追い詰められた感じは、あっと言う間になくなるでしょう。
せっかく見つけた仕事を、辞めるわけにいかないから、上司からひどい扱いをされても、耐えるしかない。
これは自信のなさや、不安による束縛です。
自分にはもっと他の道が、用意されているとわかれば、悩んだりせずに、さっさと転職するでしょう。
とにかく、自分を追い詰めているのは、目に見えている誰かではなく、自分自身の中に巣くっている、歪んだ価値観なのです。
その価値観を見つけて、心の中から摘まみ出すことが、追い詰められたときの対処方です。
人間を体験するのであれば、人間としての醍醐味が何であるのかを、理解しておくと、持つべき価値観を、どのように選別するかに役に立ちます。
人間の醍醐味というのは、限りない好奇心と、自分以外の存在に向ける優しさです。
それによって、深い知性へと導かれ、全ての存在とのつながりが、理解できるようになります。
その理解は、感謝と思いやりという形で表現され、人間体験としては最高の体験ができるでしょう。

結婚から学ぶこと

世の中には、いろんな形の夫婦がいます。
何をするにも、二人一緒の夫婦もいれば、結婚当初から、ほとんど別居という夫婦もいます。
夫が働いて妻が家事という夫婦もいれば、夫婦共稼ぎという場合もありますし、夫の方が主夫だという家もあります。
趣味が共通の夫婦、全然好みが違う夫婦、元々は好みが違っていたのに、いつの間にか同じことをするようになる夫婦。
見た目は仲睦まじいのに、本当は心が離れている夫婦。
やたら喧嘩ばかりしているくせに、相手から離れられない夫婦。
本当に夫婦は、いろいろです。

一般的には、役所に婚姻届を出した二人を、夫婦と考えますが、内縁の夫や妻というのもあります。
また、同性同士のカップルというのもあり、地域によって夫婦と認めてもらえる所と、認めてもらえない所があります。
とにかく、いろんな夫婦がありますが、普通に考えれば、どんな形の夫婦であれ、幸せを求めて一緒になるのだと思います。
でも、人生が経験や学びの場であると見た場合、必ずしも結婚生活が、一般的に信じられているような、幸せを目的としたものでは、ないかもしれません。

私たちは、いいことであれ、悪いことであれ、様々な人間関係を通して学びます。
夫婦というのも、一つの人間関係です。
その関係の中で、互いが相手に何を求めているのか、何を期待しているのかが、明らかになって行きます。
そして、その内容に応じた結果が、必ず用意されています。
それがどんな結果であれ、それはその人の言動や、価値観に応じたものですから、そう言った結果を突きつけられることで、人は自分自身を省みるのです。
経済的に豊かな暮らしをして、好きなことに夢中になり、多くの人に愛される、というのが、一般的な幸せのイメージでしょう。
それはあくまでも、お金が物事の基準になっている、今の人間社会が創り出した、幸せのイメージです。
そのイメージは、嫌なことや醜いこと、面倒なことなどを、全く無視した安直なものです。
深みというものが、ありません。
本当に大切なことや、自分が本当は何を求めているのか、ということは、表面的な楽しさだけを追っていたのでは、見えないことが多いのです。
本当の幸せに気がつくためには、嫌な想いが必要なこともあります。
そのために、結婚生活に失敗して、いろんな苦労をするという人も、少なくないと思います。

結婚に失敗した場合、大抵は大きなショックを受けるでしょう。
でも、その失敗によって、大きな学びを得ることができたなら、それは本当の幸せへの、近道だと言えます。
結婚がうまく行かなかったことを、悪く考えるかどうかは、その人の勝手です。
その人自身が、その価値観で生きて行くだけの話であり、自分がその人の考え方に、合わせる必要はありません。
つまり、家族や親戚、あるいは世間がどう思おうと、どうでもいい事なのだと理解するのです。

夫婦のあり方についても、同じことが言えます。
夫婦でバラバラな暮らしをしている場合、お宅は大丈夫なのかと、心配してくれる親切な人が、いるかもしれません。
でも、お互いに価値観を認め合い、尊重し合えているのであれば、それはそれでいいのです。
他人がとやかく言うことではありません。
それで二人が楽しく暮らせるのであれば、全然構わないのです。
もし、これでは二人で暮らす意味がないねと、お互いに思うのであれば、その時は仲よく別れて、お互いの道を進めばいいでしょう。
進む道は違っても、互いを大切に想う気持ちは、そのままなのですから、何も問題はありません。
よくないのは、相手を悪く思い、いがみ続け、別れた後も、嫌な気持ちが、ずっと尾を引く状態です。
それでは、新たな人生を歩み始めたつもりでも、実際は少しも前進できていません。
後ろを振り返りながら、ずっと立ち止まったままです。
嫌な体験であったとしても、それを次の人生に、どう活かすかということを、考えるべきなのです。
そうでなければ、わざわざ嫌な体験をしても、何も得るところがありません。
嫌な事から何かを学び、それを活かせたとすれば、嫌な経験をしない時と比べると、遥かに味わいのある、素敵な人生を送れます。
結婚や夫婦という言葉や形に、世間と同じように、特別な意味合いを持たせるから、それに失敗してしまったと思って、深く傷ついてしまうのです。
本当の目的は、そこではありません。
本当の目的は、体験からの学びです。
それを学ぶことができたなら、次にまた結婚をしようと、独身のままでいようと、自分なりに価値が感じられる、深みのある人生を送れるでしょう。

昔の人の気概
松山から今治へ向かう海沿いの道は、今治街道と呼ばれています。
海の景色が素晴らしく、多くの車が行き交っていますが、昔もこの道は、たくさんの人が利用していました。
その途中に、粟井坂(あわいざか)という所があります。

上の写真は、粟井坂を上空から見たものです。
写真中央は、海際まで続いた、海抜50メートルほどの丘陵地です。
今は写真のように、奥の方が開発されて、団地になっています。
この丘陵地の北側が風早郡(かざはやぐん)、南側が和気郡(わけぐん)と呼ばれていて、ちょうどこの丘陵地が郡境になっていました。
写真の左下に「大谷口バス停」とありますが、昔の道はこの辺りから丘陵地を登り、峠を越えた後、写真左上の「粟井坂大師堂」の辺りへ出たそうです。
この丘陵地越えの坂道が、粟井坂と呼ばれているのです。
当時は丘陵地の端は崖になっていて、道はありませんでした。
丘陵地の反対側へ行くには、どうしても丘陵地を越えて行くしかなかったのです。
そのため、この峠には関所もあったようです。
ところが、この粟井坂を抜けるのは、人間にとっても、荷物を運ぶ牛馬にとっても、大変なことでした。
それで、粟井坂の北側、風早郡小川村の里正(りせい)であり、かつ風早郡副長を務めた大森盛寿(おおもり もりかず)氏は、迂回路を造ることを思い立ちます。
ちなみに里正というのは、庄屋のような役割で、里正という呼び名を使ったのか、庄屋という言い方をしたのかは、地方によって様々だそうです。
結局、迂回路の案は上司が受け入れてくれなかったため(恐らく費用の問題だったのでしょう)、大森盛寿氏は建設資金を蓄えることを決めます。
数年後、資金を用意できた大森盛寿氏は、あらためて新道建設を申請します。
すると今度は、新道建設の承認がもらえました。
しかも、県から補助金を出してもらえることになりました。
こうして明治13年4月、ついに新道工事は着工となり、同年7月に道路は完成しました。
それが今も利用されている、海沿いの道なのです。
この時の工事に携わった者は、延べ人数で 5,079名です。
すごい人数ですが、それだけ大変な工事だったと言えるでしょう。
この新道によって、多くの人々が助かりました。
その恩恵は、現在の私たちにまで、続いています。
まさに感謝と尊敬の念しかありません。
それにしても、当時の心ある人たちの気概というものは、凄まじいという言葉が、ぴったりではないでしょうか。
自分の信念を貫き通すという、強い想いを抱き続けるということは、並大抵のことではできません。
現代社会においては、大きな壁にぶち当たれば、すぐに諦めてしまうのではないでしょうか。
また、この大森盛寿氏が自分のためではなく、人々のために動いたというところが、素晴らしいと思います。
彼のその想いがあったからこそ、県も動いたし、人々も動いたのでしょう。
新型コロナ騒ぎで、国民・市民が思ったように動いてくれないと、嘆く政治家は多いでしょう。
でも嘆く前に、自分たちがどれほど、国民・市民の心を動かすような、言動を示せたのかを振り返ってみるべきでしょう。
自分の利益のためでなく、本気で動いている人を目にすれば、誰でも力になろうと思うものです。
政治家に限ったことではありませんが、昔の人の気概というものが、もっと注目されてもいいのではないでしょうか。
また、自分が何かを本気でやっていると言いながら、壁に突き当たって諦めそうになった時、大森盛寿氏のことを考えてみたらいいでしょう。
そうすれば、自分が本当に本気だったのかどうかが、わかると思います。
物質世界の魅力
あの世のことは、死んでみないとわからないと言われますが、ヘミシンクという技術を使えば、死ななくてもあの世の様子が、うかがえるようです。
ヘミシンクというのは、アメリカの故ロバート・モンロー氏が、開発した技術です。
左右の耳にそれぞれ、わずかに波長の違った音を、同時に聴かせることで、脳内に左右の音の差になる、波長の振動が広がるというものです。
これによって脳の状態を、体外離脱ができる波長に調整すると、体外離脱体験ができるようになるのです。
そうやって肉体を離れた人たちの報告によれば、死後まもない人たちは、自分の思念が創った世界に存在しているようです。
楽しい所もあれば、寂しい所や居心地の悪そうな所もあるようで、そこがどんな世界であるかは、その人たち次第だそうです。
自分が死んだことを自覚している人には、生きていた頃を懐かしんで、好きな家や風景を、思念によって創り出すことを、楽しむ人がいるようです。
死んだことを自覚していない人たちは、死ぬ時に抱え込んでいた想いが、自動的に世界を創り出し、そこに留まっているみたいです。
寂しい気持ちであれば、寂しい世界に、怒りを持ち続けていれば、争いの世界に、という感じで、地獄のように思える世界もあるようですが、全てはその人たちが、自分で創り出しているということです。
いずれにしても、この世を離れて、意識だけの状態になっていると、想いがすぐに具現化して、何でも望んだとおりになってしまいます。
たとえば、パンが食べたいと思えば、目の前にパンが現れますし、そのパンはちゃんと食べることができるのです。
死んだ後は、この世で生きていた名残で、しばらくはそんな状態でいるようです。
しかし、やがてはそういう事はしなくなり、自分がどこの誰だったかということも、どうでもいい感じになるそうです。
その後は、肉体的な活動ではなく、意識としての活動が中心になるようです。
複数の意識が集まって、一つの世界を創るとしても、そこに集まっているのは、似たような波長の意識ばかりなので、異なる波長の意識とは、交わることがありません。
自分の意識が変わり、それに伴って波長が変化したら、新たな波長の世界へ、パッと移動するのだそうです。
しかし、自分が変わらない限り、ずっと同じ世界にいるわけで、居心地はよさそうですが、刺激には欠けるような気がします。
また、他を知らなければ、自分たちの状態がどんなものなのかを、客観的に確かめることもできません。
それに、似たような者が集まり、テレパシーで意思疎通をしていると、どれが自分でどれが自分でないかの、線引きが曖昧になるようにも思えます。
誰かと会話をしているのか、心の中で独り言を喋っているのかの、区別がつかなくなるような気がします。
逆に言えば、向こうの世界では、区別することに、意味を見出していないのかもしれません。
そんな風に、向こうの世界をイメージした上で、私たちが暮らす、この物質世界を振り返ってみて下さい。
この世界が何とも刺激的で、面白い所なのだということが、わかって来ると思います。
まず、自分という概念です。
先に述べましたように、自他の区別を重視していない存在にとって、自分と自分でないものが、ここまではっきりと分かれているというのは、驚きであり、新鮮なものに映るでしょう。
それは不安を引き寄せるかも知れませんが、それ以上に好奇心を沸き立たせるに、違いありません。
私たちが、当たり前に感じている、自分という存在、自分という概念が、実は何よりすごい体験なのです。
また、思ったことが、すぐに現実にならないという、もどかしさ。
向こうの世界と比べると、不自由きわまりありません。
それにテレパシーであれば、瞬時にすべてが伝えられたり、理解したりできるのに、この世界では、誰かに何かを伝えるのも大変です。
頭の中で、物事を整理して考えるというのも、時間がかかります。
場合によっては、理解すべき答えが、見つからないことだってあるわけです。
この時間という感覚と、それに伴う様々な不自由さ。
この、どうにももどかしい感じが、何とも言えない味を出しているのだと、この世界を体験した、向こうの世界の存在は、きっとうなずき合っていることでしょう。
それと、これはかなり重要なことですが、向こうの世界では、自分が変化しない限り、波長の違う世界を、体験することがありません。
つまり、波長の違う存在とは、出会うことがないのです。
しかし、この世界は違います。
自分と波長の違う人々が、うじゃうじゃいます。
波長の合う人を見つけることの方が、むずかしいです。
嫌でも違う波長に、合わせざるを得なかったり、見たくもないものを見せられたり、聞きたくもないことを聞かされたりするわけです。
それによって、自分の本来の波長が崩され、どんどん違う波長に変えられてしまうこともあるでしょう。
一方で、自分の波長というものを、改めて知ることになり、自分を大切にしようと思ったりするのです。
また、人間以外の生き物や存在とも、触れ合ったり、心を通わせ合ったりできるのも、この世界の素晴らしいところでしょう。
本来であれば出会えないような、存在たちと出会えるのが、この世界なのです。
私たちは、自分が一人でいることを、不安になったり心配したりします。
物事が思ったように行かないことに溜息をつき、魔法に対して憧れを抱きます。
自然を当たり前のことと思い、人間を特別な存在だと思い込んでいます。
でも、それらは全て、この世界に対する誤解でしょう。
自分が一人でいることも、魔法が使えず、何かと不便な思いをすることも、いろんな生き物や存在が、一緒にいることも、全部特別なことであって、それこそ有り難いことなのです。
そう、ありがたいことなのです。
全ては経験であり、学びです。
この世界を体験した者だけが、得られる経験であり、学びなのです。
いろいろ不自由な想いをされる人は、いると思います。
それでも、そもそもこの世界は、そういう所であり、それがわかった上で、産まれて来たのだと受け止めて下さい。
不自由ながらも、望みは叶うのです。
時間というものによって、望みと結果が、引き離されているだけなのです。
結果が出るまでの、時間というものを、どうやって楽しむかということに、意識を向ければいいと思います。
思いがけない事が起こって、驚かされたり感動させられたり、ということも、待たされる時間があってこそなのです。
私たちは不自由を楽しみ、波長の違う存在を知るために、ここにいます。
不自由がいけないものだというのは、この世界で作られた考え方であって、正しい考えではありません。
不自由は挑戦という好奇心を生み、新たな可能性を実現することに、つながるのです。
自分は、不自由さを楽しむために、この世界へ来たのだと、自分に語りかけてみて下さい。
きっと、新しいエネルギーが気合いとなって、湧き上がって来ることと思います。
奇跡のリンゴ

みなさんは、奇跡のリンゴの話を、聞かれたことがあるでしょうか。
奇跡のリンゴは、青森に暮らす木村秋則さんが、育てたリンゴです。
かつて、農薬なしには、リンゴは収穫できないというのが、リンゴ農家の常識でした。
しかし、木村さんは奥さまが、ひどい農薬アレルギーだったため、奥さまのためにリンゴの無農薬栽培に、挑戦したのです。
初めはみんなから馬鹿にされ、みんなが言うとおり、農薬を使わないリンゴは、害虫の標的にされて、ぼろぼろになったそうです。
木村さんは毎日毎日、虫を捕まえたそうですが、どんなに取っても切りがありません。
リンゴが収穫できないので、家族をまともに養うこともできず、ついにはリンゴの木が全滅しそうになりました。
とうとう心が折れた木村さんは、ある夏の満月の夜、自らの命を絶とうと思い、岩木山へ登ったそうです。

首をくくるロープを、木の枝に引っかけようとして投げた時、狙いがそれてロープは、斜面の下へ落ちました。
その時、そのロープが落ちた所で、木村さんが見つけたものは、きれいな葉っぱをつけたリンゴの木でした。
それは、よく見るとリンゴの木ではなく、ドングリの木だったそうですが、その木が病気もなく、元気に育っている姿を見て、木村さんは何故だろうと考えたと言います。
そして気がついたのは、畑とは土が違うということでした。
人間は、きれいで美味しいリンゴを、むりやり作ろうとして、人工的な肥料を与え、養分を横取りされないように草を抜き、病気になったり害虫がついたりしないように、農薬を使います。
とても過保護な状態のリンゴは、自らを守る力がありません。
しかし、山の中で自然に育つ植物は、それ自身が健全であり、病気に打ち勝つ力を持っています。
その力を生み出しているのは、ふかふかした山の土だったのです。

草は土の中に根を伸ばして、土を柔らかくしてくれます。
枯れた後は、自然の養分になります。
畑の土は、下へ掘って行くと、どんどん冷たくなり、また固くなっているそうです。
それに対して、山の土は柔らかく、下へ掘って行っても、温度が変わらないのだそうです。
また、土の中には多くのバクテリアが暮らしていて、植物が育つ助けになってくれているのです。
自然はそれだけで、うまく行くようにできているのです。
それを人間が台無しにしているのだと、木村さんは気づき、リンゴ畑の土を山の土のように改良したそうです。
その結果、農薬も肥料も除草剤も使わない、自然農法によるリンゴ作りに成功し、みんなを驚かせたのです。
木村さんが命を懸けてまで、無農薬にこだわり続けたのは、奥さまの健康を気遣ったからです。
そんな木村さんだから、不思議な力が働いて、求める答えへと導いてもらえたのでしょう。
木村さんは死のうとしていた瞬間まで、無農薬リンゴを作りたいという気持ちを、持っていました。
そうでなければ、木の枝に掛け損じたロープを、拾いに行った時に、ロープが示してくれた元気な木に、気がつかなかったと思います。
そんな木村さんが、著書の中や講演で、不思議な体験の話をされています。
それは止まった時間の中で、巨大な白い龍を見た話であったり、幽霊に出会った話、あるいは死にかけて体外離脱体験をした話や、宇宙人にUFOに乗せられた話など、いろいろです。

木村さんの人柄から言えば、木村さんが体験した不思議なことは、全て真実なのだと私は思います。
そこから考えられるのは、木村さん自身が自覚をしていなくても、木村さんは目的を持って、この世界に生まれ出たのだということです。
また、木村さんがその目的を果たすために、陰で見えない存在たちが、木村さんを支えていたのだということです。
木村さんは無農薬リンゴを作ることを、目的にしていました。
その結果、木村さんは現在の人間の暮らし方に、問題があると気がついて、それを正すように、人々に伝え続けています。
木村さんが無農薬リンゴを、育てることに成功したという事実は、木村さんが語ることに、大いなる信憑性を、与えてくれています。
全然有名でない、その辺の人が、木村さんと同じことを口にしたところで、誰も耳を貸そうとしないでしょう。
木村さんが命懸けで無農薬リンゴを、世に出せたという事実が、みんなに聞く耳を持たせているのです。
こう考えると、木村さんが子供の頃から経験して来た、すべてのことは、彼が素朴で親しみのあるメッセンジャーになるために、周到に準備された人生設計だったようにも思えます。
彼の優しく強い気持ちを、引き出すためには、彼の奥さんや家族の存在は欠かせません。
あるいは、彼を馬鹿にした人たちでさえ、この状況を作るための協力者であったでしょう。
彼が苦労せずに無農薬リンゴを作ったとしたら、やはり人々は、彼の不思議な体験話を、真剣には受け止めないかもしれないからです。
木村さんからは、多くのことが学べると思います。
しかし、木村さん自身は、自分が特別な人間だとは考えていません。
そうではなく、みんなも自分と同じなんだ、ということを伝えようとしているのです。
木村さんは、自分のリンゴが「奇跡のリンゴ」と呼ばれているうちは、まだまだだと言います。
こういうリンゴが普通に食べられることを、木村さんは願っているのです。
それはリンゴのことだけでなく、全てのことにおいて、人が自然を大切に考えて、暮らせるようになるという意味なのです。

隠されていた情報

去年の12月、 UFO に関して、アメリカ情報機関が把握している内容を、180日以内に議会に提出するよう、トランプ大統領が求めたと、アメリカCNNの記事にありました。
国家情報長官と国防長官は、これについての報告書を、連邦議会の情報軍事委員会に、提出する必要があるそうです。
ここには海軍や FBI、CIAなどが集めた極秘情報が、含まれているそうで、これまで公表されたものと比べて、はるかに重要な情報があると思われます。
これはバイデン氏が大統領になってからも、作業は継続されるものだそうなので、間違いなく情報は公表されるようです。
アメリカ政府は、すでに UFO の存在は認めています。
次に必要な情報は、UFO を動かしている者についてでしょう。
UFO が異星人の乗り物であるならば、彼らがどういう目的で、地球を訪れているのかが、明らかにされる可能性があると思います。
もし、人類が異星人の遺伝子操作により、創られたというような情報が出て来たとしたら、世界中の宗教にとっては、大問題となるでしょう。
いったいどんな情報が、明らかにされるのか。
とても楽しみですね。
ただ、気になるのは、情報が開示される時に、アメリカや世界がどのような状況に、陥っているかということです。
せっかくの情報も、人々が混乱に陥っていれば、聞く耳を持たないかもしれません。
それまでに、いろんな騒ぎが落ち着いて、大切な情報を冷静に、受け止められるようになっていられることを、期待しています。