失っていないと気づこう
大切な人との別れは、とてもつらいものです。
その悲しみがずっと尾を引いて、その後の暮らしに、暗い影を落とし続けるかもしれません。
だけど、そこまで悲しみが続く背景には、人生は一回こっきりで、死んだら全ては失われる、という考えがあるのだと思います。
二度と逢えない状況は同じでも、相手が遠い外国で無事に暮らしているとすれば、どうでしょうか。
あるいは、これから出て来るでしょうが、月や火星へ移住して、二度と地球には戻らないという状況では、どう感じるでしょうか。
もう生きて顔を合わすことはない、と考えると悲しいし寂しいですが、それでも相手がまだ存在し続けていると思っていると、まだ気持ちが救われるところがあるでしょう。
遠く離れていても、スマホなどで連絡を取り合えたなら、さらに悲しさや寂しさは紛れることと思います。
人の本質は心にあります。
肉体的には死を迎えても、心が存在し続けるのであれば、それはその人が消滅したことにはなりません。
こちらから見聞きできない所に、今も存在しているのだとすると、それは宇宙旅行へ出かけたのと、同じ意味合いになります。
逢えないのは悲しいけれど、でもその人が存在しているのがわかれば、ほっとした気持ちにはなれるでしょう。
今は技術的にはむずかしいですが、将来的には亡くなった方とも、スマホなんかで連絡が取れるかもしれません。
そう考えれば、大切な人を失ったとしても、いつまでも暗い顔でいることは、なくなると思います。
いつか自分も向こうへ行くわけですから、その時に、その後の人生の話を、向こうで待っている人に、教えてあげることができるのです。
どうせ教えるのであれば、つらい話ではなく、楽しい話の方がいいですよね。
自分が話を聞かされる立場で考えれば、わかると思います。
大切な人を失って落ち込むのは、当たり前のことです。
でも、相手のことを本当に大事に思うのならば、その後の人生を有意義に過ごすのが、一番でしょう。
失ってから気づくな
本当に大切なものは、失って初めて気づく、ということがありますよね。
突然、失った家族や恋人、仲間たち。
でも、そんな日が来るなんて、夢にも思わずに過ごしている人が大半です。
ですから、普段は大切であるはずの人たちを、ついないがしろにしてしまうことがあると思います。
ちょっとしたことで喧嘩になっても、自分は悪くないと言い張って、相手を思いやる気持ちなんかありません。
だけど、そのあとで相手が突然の死を迎えたならば、自分がどうでもいいことで、揉めていたことに気がつくでしょう。
相手が死ぬとわかっていれば、絶対に揉めることはなかったはずです。
また、相手が死ぬなんて思っていないために、いつも甘えたり無理なことを言ったりしてばかり、ということもあると思います。
自分がしていることが、相手に負担をかけているなんて、露ほども思いません。
でも、その相手が死を迎えることになると、自分が求めてばかりで、相手に何もしてあげていなかったことに、気づかされるのです。
気づいた時には、時すでに遅しです。
どんなに泣こうが喚こうが、どうすることもできません。
そんなことは、昔からドラマや映画、小説などに、うんざりするほど出て来ます。
また現実の話としても、自分の身の回りに、そんな話があるのを、見聞きしたことがあるはずです。
それなのに、自分はそんな場面には縁がないと信じているのか、全くの他人事として受け止めてしまうのです。
その結果、大切な人を失い、後悔することになるのです。
人は必ず死にますから、大切な人といずれは別れることになるのは、どうしようもありません。
問題はそこではなく、そうなるのがわかっているはずなのに、一緒にいられる時間は限られているのに、その間に相手を思いやることを、して来なかったという愚かさを悔やむのです。
相手が死を迎える際に、後悔の涙を流すのなら、初めから相手を大切にするべきでしょう。
どれだけ大切にしても、やはり別れはつらく悲しいものです。
それでも、こんなことができたね、あれは楽しかったよね、と言える想い出があることは、互いにとって何よりの幸せなのです。
本当に大切なもの、大切な人や大切な想い出は、失う前から、それが大切であることを、よく心に刻んでおいた方がいいでしょう。
戦争と平和 その3
自分と相手を同じ存在だと理解できれば、争いごとは起こりません。
相手の喜びは自分の喜び、相手の苦しみは自分の苦しみと受け止めれば、相手が困っているのを、放っておくことはできません。
ましてや、相手を踏み台にして、自分ばかりがいい想いをしようとは、考えもしないでしょう。
この相手の範囲を、個人から集団へ広げて行ければ、社会全体が思いやりで満ちあふれたものになります。
それが国境を越えて、他の国の人たちにも広がれば、もはや人間は自分を小さな地域に限定した存在とは見なさずに、胸を張って自分は地球人だと言うようになるでしょう。
それを邪魔するのは、自分はこの地域、あるいはこの国の支配者だと、自認している者たちです。
どうして支配者になりたいのか。
その根底には、大きな不安があります。
自分が抱えている不安を払拭するためには、自身が支配者になって、物事を自分の思ったように、動かすしかないと信じているからです。
また、多くの人が自分の現状や将来に対して、不安を抱いています。
そのため、少しでも自分たちを有利に導いてくれそうな指導者を、指示しようとします。
それは、その指導者でなければ、自分たちが置かれた状況を、変えることはできないと、信じているからです。
国民の不安が、不安を抱えた指導者を後押しする形になり、それで国はおかしなことになって行きます。
不安を抱える人は、他人を思いやる余裕などありません。
不安が大きく募ると、他人から何かを奪い取ってでも、自分の暮らしを守ろうとします。
世界に本当の平和を導き、人類を一つにするためには、これらの人々の不安を払拭する必要があります。
そして、人間として生まれた本当の喜びを、知ってもらうことです。
そうすれば人々の不安は解消され、おかしな考えを持つ者が、指導者の立場に立つことはありません。
また、これまでの争いの歴史に終止符を打ち、世の中から争いごとをなくすのに、これ以外の方法はありません。
どんなにお金をばらまいて、物質的に人々を裕福にしたとしても、それがいつまで維持できるのかという不安が付きまといます。
もしかしたら、他の所から来た者が、自分たちの暮らしを台無しにするのではないかと、疑ってしまうのです。
しかし、自分が人間であり、本来の人間がどのようなものであるのかを知ったなら、不安は解消されて、相手に疑いの目を向けることは、しなくなります。
自分もみんなも、同じ兄弟なのだと理解できる教育と実践こそが、戦争をなくし、本当の平和をもたらしてくれます。
そのためには、一人一人が上から言われたことを鵜呑みにせず、何でも自分で真剣に考えて、自分の心の声に従わなければなりません。
多くの宗教で神の存在が叫ばれますが、本当の神とは、心の中にこそいるのです。
言い換えれば、あなたも他の人も、あるいは他の存在全てが、神の分身なのです。
戦争と平和 その2
人は死んでも、再び生まれ変わり、新たな人生を迎えます。
この考え方を世界中の人が受け入れたなら、争いごとをなくすための、大きな力となるでしょう。
自分は間違っていない。
悪いのは相手の方だ。
そんな風に決めつけて、喧嘩や戦争は始まります。
しかし今の自分が、前世の自分が責め立てていた相手の側だとすれば、どうでしょうか。
かつて、自分が痛めつけていた相手が、今の自分だとすればどうでしょう。
あるいは、今の自分が死んだあと、今度は今の自分が争っていた相手側に、生まれ変わるとすればどうでしょうか。
自分はいつでも、自分がいる側の立場で、ものを考えます。
そちらの側に有利になるようにという基準で、何でも考えますから、相手の側のことなど考えません。
その結果、相手が苦しむことがあっても、そんなの仕方がないじゃないか、と切り捨ててしまうでしょう。
でも、その切り捨てる相手に、前世や来世の自分がいたとしたら、どうでしょうか。
あるいは、自分の大切な家族や友人が、同じように相手の側に生まれ変わるかもしれません。
そういう人たちがいるのを知りながら、相手の人たちを痛めつけたり、苦しめたりができるのでしょうか。
前世や来世を受け入れていなくても、同じようなことを、今のロシアとウクライナの争いは、教えてくれています。
戦争が始まるまでは、ロシアとウクライナは親戚同士のような関係で、夫婦の片方がロシアで、もう片方がウクライナという人たちは、少なくありません。
国境を越えた親戚や友人を持つ人も数多く、どうしてそんな国同士が争うことになったのかと、疑問を持つ人が多いでしょう。
自分はロシア側、自分はウクライナ側と、きれいに分かれて、相手を攻撃したならば、必ず相手側にいる、自分と親しい人たちを、傷つけることになってしまいます。
それを本意ではないけれど、上から命令されたからと実行するのは、自分の思考を捨てたのと同じことです。
今の状況を見ると、そういうことを深く考えていない人が、いかに多くいるのかということがわかります。
でも、親しい人に武器を向けるのは嫌だと、拒む人もいます。
この争いでは、人々の本当の想いが、試されていると言えるでしょう。
また、ロシアとウクライナ以外の国の人々も、どうしてこの争いが起こってしまったのか、その本当の原因を探らなければなりません。
そうでなければ、いつ争いが自国へ広がるかもしれませんし、新たな争いが勃発するかもしれないからです。
この争いは決して他人事ではありません。
全人類が、自分たちは地球人なのだという意識を、持てるかどうかが試されているのです。
戦争と平和 その1
ロシアとウクライナの争いが続いています。
どちらが戦いを仕掛けたかに関係なく、戦場では多くの兵士や市民が、命を失っています。
互いに相手への憎しみを募らせ、自国の裏切り者に対しても、容赦しない怒りを向けます。
住む場所や家族、友人を失った人々の悲しみは、新たな怒りや憎しみへと変わり、今日も新たに命が奪われるのです。
人間の歴史を見ると、争いの連続です。
大きなものは戦争と呼ばれ、小さなものは喧嘩と呼ばれます。
でも、争いの大きさには関係なく、その本質は同じです。
相手を思いやることなく、自分の言い分ばかりを、押し通そうとしています。
争いは、どちらかが手を出すことで始まりますが、本当の争いはそれ以前から始まっています。
手を出した方は、貯まっていたものが、一気に噴き出したに過ぎません。
手を出しさえしなければ、争いは起こらないでしょうが、それは表面的な争いです。
心の中では、いつもどろどろしたものが渦巻いていて、いつかは必ず何かの形で噴出します。
見た目は何でもないように見えていた火山が、ある日大爆発するのと同じことです。
あるいは、地中の中で徐々に貯まった地殻のプレートの力が、ある日大地震や大津波を起こすのと同じなのです。
手を出した方が悪者扱いされますが、どうして手を出すに至ったのかという点を、よく確かめなければ、本当の問題解決にはなりません。
一度は収まったと思われた争いごとが、思いも寄らない所で、再燃するからです。
それは歴史を見れば明らかです。
みんな自分のことばかりを考えて、他の人が苦しんでいても、見て見ぬふりをしたりします。
自分たちの平和な暮らしのために、誰かが苦しむ必要があるのなら、それを当然のこととして受け止めて、その誰かを生かさず殺さずという感じで、とことん利用しようとします。
世界は平和だと、一部の町の光景を見せることで、本当はそうではないものから、人々の目を遠ざけようとします。
そんな見せかけの平和の中で、助けを得られず苦しむ者たちの中から、こんな理不尽なことはがまんできないと、怒りを爆発させる者が現れます。
その結果、新たな争いが勃発し、多くの人が絶望へと追いやられるのです。
結局は、何度争いを繰り返しても、人間はそこから何も学べていないということなのです。
幸せですか その7
自分という存在を考える時、自分ではない存在を無視することはできません。
自分ではない存在があるからこそ、自分という存在を認識することができるのです。
人は自分と他のものを、ただ区別するばかりで、その関係性に目を向けることは、ほとんどありません。
考えるのは自分のことばかりで、同じ人間同士であっても、他のものに思いを馳せることなど、滅多にないのです。
ましてや人間以外の存在など、それを利用する時以外は、全くと言っていいほど、眼中にありません。
しかし、人間は自分一人で生きているわけではありません。
親がなければ産まれてませんし、先祖がいなければ、今の自分は存在していません。
また、自分以外の多くの人の力があるから、その中で暮らしているのです。
人間社会の中で、他の人とのつながりを断って、孤立している人は、幸せを感じることができません。
一人でいても、他の人とのつながりを、感じられる人は、幸せを感じられます。
でも、本当に孤独な人が感じるのは、寂しさばかりです。
そんな人が、他の人とのつながりを取り戻せたなら、そこにとても深い幸せを感じるでしょう。
それは自分と他の人たちとのつながりを、実感できるからです。
そういう意味では、孤立はしていないけれど、他の人とのつながりを実感していない人は、一見幸せそうに見えたとしても、本当には幸せではありません。
人間は、自分と自然を切り離して考えがちですが、人間も自然の一部です。
地球が生まれる前は、人間は存在していませんでした。
地球の歴史の中で、他の存在たちと同じように、人間も生まれて来たのです。
いわば、地球は人間の母であり、他の存在たちは全て、人間の兄弟姉妹なのです。
人間同士のつながりを実感できた時に、深い幸せを感じることができるように、これらの兄弟姉妹や、母なる地球とのつながりを実感できれば、それはそれは深い幸せとなるでしょう。
地球や自然が大好きになり、自分がここに生まれて来たことに、深い感謝の念を抱くのです。
そうなれば、今の世の中で、人々に強いられている幸せが、どれほど薄っぺらで無意味であるかが、理解できると思います。
本当の幸せを知った人々が創る社会とは、まさに地上の楽園となるでしょう。
幸せですか その6
一緒になれた好きな人と、その後も別れることなく、幸せな日々を過ごせたら、それは素敵なことでしょう。
また、多くの人がそれを望んでいるはずですが、実際は喜びは初めのうちだけで、次第に喜びは日常の忙しさの中に、埋没して行きます。
そして、人生とはそんなものだと受け止めて、形ばかりの夫婦やカップルでいることに安心しようとするか、相手と一緒にいる自分の役割を、義務的に果たそうとするようになります。
そこには満足も喜びもありません。
ただ、惰性で一緒にいるだけです。
人によっては、とても苦痛に感じてしまい、浮気に走ったり事件を起こしたりすることもあります。
どうしてそうなるのかと言うと、好きな人と一緒にいられることが、どれだけ幸せなのかを、理解できていないからです。
本当にその人が好きならば、その人に対して、何も求めないでしょう。
ただ、そばにいられるだけで幸せなのです。
何も求めていないからこそ、何かをしてもらえたら、それはもうとんでもない喜びです。
二人で一緒に何かができたなら、それは最高の極みです。
好きな人には、何でもしてあげたいと思うでしょう。
でも、相手は自分とは違うのですから、好みも考え方も、基本的には違っていて当たり前と、理解しておかなければなりません。
そうでなければ、好意でしていることが、ただの親切の押し売りになるからです。
よかれと思ってしたことで、相手が嫌な顔を見せたなら、相当がっかりすることでしょう。
場合によっては、何でわかってくれないのかと、好きであるはずの相手に、怒りや憎しみを向けることになりかねません。
相手が嫌な気持ちを押し殺し、嬉しいふりをし続けたならば、その人は遅かれ早かれ病気になるでしょう。
もしかしたら、それが原因で死んでしまうかもしれません。
本当に相手が好きであるのなら、相手の全てを受け入れて、相手を自由にさせてあげるべきなのです。
その人が、その人自身でいられるように、その人の本当の光を放っていられるように、見守ったり手助けしたりするのです。
自然の野鳥を、ただ眺めて嬉しくなるのと同じです。
こちらがすることが気に入れば、それを喜んで受け止めるでしょうし、気に入らなければ、見向いてくれません。
こちらとすれば、どうすれば喜んでくれるのかと、それを探るだけのことです。
でも基本的には、野鳥と直接やりとりをしなくても、ただ野鳥が近くに寄ってくれるだけで、嬉しいでしょう。
好きな人と一緒にいられる喜びも、それと同じです。
相手に何かを求めたり、こちらの考えを押しつけたりしなければ、争いは起こりません。
前世で愛する人を突然失う経験をしたと考えてみて下さい。
その愛する人と今世で再び巡り会い、再び一緒になることができたとすれば、その人と一緒にいられるというだけで、幸せを感じられるのではないでしょうか。
幸せですか その5
好きな人と付き合えたり、一緒になれたら嬉しいですよね。
でも、せっかく好きな人と、とても近い関係になっても、些細なことで喧嘩をしたり、別れてしまうこともあります。
人間として何かを学ぶため、誰かと一緒になり、学びを終えたから、その人から離れる、ということはあると思います。
ですから、せっかく一緒になれた人と、別れることになったとしても、それを悪く受け止める必要はないのです。
本当に相手といい関係を築けていたならば、たとえ別れることになったとしても、二人の間の親しさが失われることはありません。
お互いを認め合っているからこそ、離れて暮らすということもあるのです。
しかし多くの場合、相手と諍いを起こしてしまい、その時の嫌な感情を引きずったまま別れると思います。
嫌な感情を持つということは、相手と一緒にいたことや、相手と別れたことに対して、否定的な気持ちがあるということです。
学ぶということは、否定的な見解を、肯定的な見解に置き換えるということです。
たとえば、嫌なことがあって、居場所を変えて、そこで新しい友だちができたとします。
それを嫌なことがあったから、お陰さまで新しい友だちが、見つかったと受け止めるわけです。
嫌なことがなくても、新しい友だちを作ったり、新しい体験をすることは可能です。
実際にそうしている人は、いくらでもいます。
でも、多くの人は嫌なことがなければ、動こうとしません。
そうすればいいのはわかってるんだけどと言いながら、それまでと同じことを繰り返します。
そんな人を動かせるのは、嫌なことだけなのです。
それがわかれば、嫌なことがあっても、それが尾を引くことはありません。
好きだった人と別れることになったとしても、お互いにそれを悪いこととは捉えずに、相手に感謝とエールを送りながら、それぞれの新しい道を進むのです。
もちろん、それはそれぞれの幸せに向かう道です。
幸せですか その4
本当の幸せを突きつめて行くと、ただいるだけで幸せだと、理解し感じるようになるでしょう。
自分が存在していることに不思議を感じ、そのことが嬉しくて、ただ感謝の気持ちで一杯になります。
自分がどこに、どのような姿で生まれたのかは、関係ありません。
性別も、裕福さも関係ありません。
しかし、それが理解できるようになるためには、安らぎが必要です。
安らぎのない環境に留まっていたのでは、自分の存在に喜びを感じることができません。
逆に、どうして自分はこうなのか、どうして自分は苦しまなければならないのかと、自分の存在に疑問を抱いてしまいます。
人生は学びです。
一つの視点から眺めていたのでは、全体の姿はわかりません。
自分が置かれている状況が、本当に自分にとってよくないものなのかは、視点を変えて見ればわかります。
視点を変えることで、あれ? と思えたならば、そこは思ったような悪い環境ではなかったと、言うことです。
視点を変えても、やっぱりここはよくないな、と思ったなら、思い切ってそこを離れてみるのです。
ただ闇雲に移動しただけでは、移った先で、また嫌な想いをするかもしれません。
自分が何を求めているのか、どんな自分でありたいのか、自分の心をよく確かめて、それに見合った所を目指すのです。
そうやって、自分が居心地がいい所を見つけることができたなら、自分が自分でいることが、嬉しくなって来るでしょう。
そうなった時に初めて、ただいるだけで幸せに思えるようになるのです。
幸せですか その3
みんなが同じように追い求めるものは、決して本当の幸せではありません。
何故なら、何を幸せと捉えるかは、人によって異なるからです。
それが個性ですし、それがその人が存在する理由です。
自分が自分であることこそが、幸せなのです。
しかし、世の中は多くの人に、一律に同じことを求めようとします。
特に日本ではそうです。
みんなが同じ科目でいい点を採らなければなりません。
みんなが同じように働き、同じような成果を出すことが求められます。
みんなが大学へ進学することが、当たり前のように思われ、みんながどこかの会社で、雇ってもらうことが幸せへの第一歩だと、信じ込まされています。
でも、一人一人は違うのです。
体格も違えば、好みや考え方も違います。
それを一律に扱おうとすることが、おかしいのです。
しかし、それをおかしいとは思わされず、当たり前だと信じ込まされているので、何が本当の幸せなのかが、わからなくなってしまうのです。
それで、他の人と同じようなことをするのが幸せだとか、お金があるのが幸せだと、思わされてしまうのです。
それについて、疑う気持ちを持つ者は、ほとんどいません。
それでうまく行かなければ、世の中がおかしいとは思わずに、自分がおかしいと考えてしまいます。
そのために、心や体を病んでしまう人が、どれほどいることでしょうか。
一人一人が違うという事実を受け入れ、本来の自分の生き方を取り戻すことができれば、心や体を病んだ人も、元気を取り戻すことができます。
どうして、みんなを一律に扱おうとするのか、その理由を考えてみて下さい。
そこには必ず誰かを利する理由があるはずです。
その誰かというのは、決して庶民ではありません。
何事にもルールは必要かもしれませんが、もっと人々の個性や自由を尊重した、社会であるべきでしょう。
そのためにも、一人一人が自分の生き方というものを、真剣に考えなければいけません。
本当の幸せを手に入れるには、そうすることが必要なのです。