虹が教えてくれること その4
自分が体験しているのは、自分だけの世界だと言っても、どこかからミサイルが飛んで来たり、大災害に巻き込まれたら、どうするのか。
そんな声も聞こえて来そうです。
でも、そこで大事なのが、この世界をどう見るか、ということなのです。
この世界が全てであり、人間は死んだらおしまい、と考えていると、悪意のある誰かの行いや、予期しない自然災害は、とても脅威でしょう。

しかし、人間は何度も生まれ変わり、死ぬことがわかった上で、今の人生を経験しているのだと理解すれば、死を迎える場面にでくわしても、うろたえることはありません。
ただ、ここがむずかしいところで、死んだあとも意識は残り、次の世界へ移行するのだと、信じている人は、死を迎える時に、パニックになるかもしれません。
と言うのは、信じるということは、疑うということと、表裏一体だからです。
要するに、わからないという意味であり、信じるという言葉の裏には、不安が隠されているのです。
これに対して、知っているという人は、全く焦ることはありません。
知っているのですから、焦る理由がないのです。

どんなに書物を読んだり、誰かの話を聞いて、わかったつもりになっていても、自分が知っているのでなければ、どうしても不安が付きまといます。
じゃあ、どうすれば知ることができるのか、となりますよね。
私のお勧めは、ヘミシンクというものです。
左右の耳から、少しだけ波長の異なる音を聴かせることで、計画的に脳波を操作するのです。
これによって、簡単に深い瞑想状態になり、肉体と意識が別であるという体験ができるのです。
そんな体験ができれば、死んでおしまいではないと、信じるのではなく、知ることになるでしょう。
ヘミシンクはアメリカで開発された技術ですが、日本では坂本政道氏が、普及させています。
興味がある方は、調べてみて下さい。

ところで、類は友を呼ぶ、という諺がありますよね。
これは、気の合う者や似た者は、自然に寄り集まって仲間を作るもの、という意味です。
波長の合う者同士は、互いに引き寄せ合うってことですね。
これは単なる理屈ではなく、現実にそうなるのです。
ですから、諺として表現されているのですね。
これは人間同士の関係ですが、エネルギー的に考えますと、寄り集まる対象は、人間だけとは限らなくなります。
つまり、状況や環境、出来事なども、引き寄せられるということです。
マイナスのエネルギーに満ちている人には、マイナスの事が引き寄せられるのです。
これも諺にありますが、泣きっ面に蜂、と言いますよね。
どうして自分には、嫌なことばかり続くのだろうと、考える人もいるでしょう。
それは自分が嫌なことを、引き寄せているわけです。
自分のエネルギー状態を変えれば、引き寄せられるエネルギーパターンも変わります。
しかし、これが自分なんだと、自分の考え方や価値観を、頑として変えずにいると、いつまでも同じようなことが、続くのです。
考え方や価値観を変えることで、物事の受け止め方が変わります。
そうしたところで、自分自身が変わるわけではありません。
ある波長の自分から、違う波長の自分になるだけです。
価値観を変えるというのは、季節によって服を着替えるようなものです。

ミサイルや災害で命を落とすことが、生まれて来る前に、自分で決めていたのであれば、どんな価値観を持っていようと、そうなるでしょう。
そういう死に方をすることで、何かを得ようと計画するのかもしれませんし、自分の死をとおして、家族や世間の人に対して、何等かの影響を与えるつもりなのかもしれません。
それは他人からはわからないことですが、何か深い意味があるのだと思います。
理不尽な亡くなり方をされる人は、現実にいらっしゃいますが、恐らく、何か深い意図があるのでしょう。
でも、そんな亡くなり方を予定していないのであれば、基本的には、時が来れば違う形で、世を去ることになると思います。
いずれにしても、この世を離れる時は、必ず来るのです。
ですから、この人生で死ぬということよりも、この人生で何を学ぶのか、ということが重要なのです。
自ら命を絶たない限り、自分が予定している時が来るまで、この世を去ることはありません。
しかし、自ら命を絶つというのは、いわゆる自殺とは限りません。
そんな事をすれば死ぬとわかっているのに、それをしてしまう自殺行為と呼ばれることが、ありますよね。
それで命を落とすのも、自ら命を絶つのと同じです。
それは言い換えれば、心の声を少しも聞こうとしていない、ということです。

心の声に耳を傾けるというのは、生まれる前に予定していた、生き方をするということです。
それは予定どおりの生き方をするわけですから、この世を去るべき時が来るまで、死ぬことはありません。
つまり、自分は守られているのですから、余計な心配はせず、心の赴くままに生きればいいのです。
思いやりと感謝の気持ちを持ちながら、より深い知性を持つよう心掛けていれば、素晴らしい人生を送れると思います。
ただ、その人生を他人の目から見た場合、大変な人生に見えるかもしれません。
それでも、あなた自身は自分の人生に、十分満足することができるのです。
虹が教えてくれること その3
自分の波長を、自分で変えることができたなら、体験している世界の波長も変わります。
たとえば、一見つらそうな状況の中でも、楽しい世界を体験することができるのです。
しかし、つらい所にいて、楽しくなるというのは、簡単なことではないかもしれません。

慣れている人であれば、むずかしいことではないでしょうが、慣れていなければ、そんなの無理、となってしまうでしょう。
でも、無理だと決めつけると、結局、自分がつらい思いから、抜け出せなくなってしまいます。
決めつけないで、自分の波長を変える訓練を、やってみて欲しいと思います。
では、どうすれば波長を変えることができるのでしょうか。
具体的に言えば、感情をコントロールし、むっと来るところを、にこっとできるかということです。

何かにむっと来るのには、それなりの理由があります。
もちろん、それは相手が悪い、状況が悪い、という話になるでしょうが、そうではなく、どうして相手や状況を、悪いと考えてしまうのか、ということです。
相手の状況を理解したり、一見悪く見える状況も、よい状況を生み出すための前段階だと、受け止めることができれば、むっとすることはなくなります。
そのためには、人生や世界について、深く考える必要があります。
つまり、物事をこれまでよりも、高い視点から眺めるようにするということです。

高い視点に立つための踏み台が、深い知識と洞察力です。
表面的なことばかり見るのではなく、その裏に隠れている部分までも、見抜くようにすれば、腹が立ったり不安になるということも、少なくなって行くでしょう。
そのためには、他人への思いやりや、悪い面ばかりでなく、いい面を見つける習慣を、持つことが大切です。
そうやって、しっかりとした自分の基準を、持つことにができれば、世の中の動きに、振り回されることはありません。
他の人たちが、世界の状況に青ざめていても、あなたは平然としていられるのです。
虹が教えてくれること その2
世界の波長と自分の波長は同じです。
でも、ここで言う世界とは、一人一人が体験している世界のことです。
一見すると、誰もが同じ世界にいて、同じ経験をしているように思えます。
でも、私たちが体験できるのは、自分の体を通して得られる知覚情報と、それに応じた感情や価値観で構築された世界です。
隣にいる人が体験している世界と、あなたが体験している世界は、同じ世界のように見えますが、実際は違うのです。
あなたが赤いと思っている色を、隣の人が赤だと認識しているとは、限りません。
隣の人に幽霊が見えたとしても、あなたには見えないかもしれないのです。
それは、あなたと隣の人が体験している世界が、異なるからなのです。

隣の人と運動会で、二人三脚で走ったとしましょう。
みんなが見ている前で、あなたたちは派手に転び、観客たちは大笑いをします。
この時に、あなたは大恥をかいたと思って、怒りと悲しみを感じたとしましょう。
ところが、隣の人は転んでしまったことが面白くて、大笑いをしています。
同じ体験をしたはずなのに、受け止め方が異なるため、このような違いが起こるのです。
それは二人が体験している世界が、別々だということなのです。
物理的な現象は同じなのに、片方は怒りの世界を経験し、もう片方は喜びの世界を経験する。
その違いは、感情です。
つまり、感情の差が、二つの世界を大きく隔てていると、言えるのです。
と言うことは、何を感じたのか、どう感じたのかということが、体験している世界の波長を決めていると、言うことができるでしょう。

世界の波長と自分の波長が同じだと言うのは、こういうことなのです。
あなたが怒りを感じていると、世界は怒りに満ちたものになります。
あなたが喜びを感じていると、世界は喜びに満ちたものになります。
世界の波長と自分の波長が同じだと言っても、それは未来永劫変わることのない、固定的なものではありません。
喜怒哀楽というように、人間の感情はころころと変わります。
それに応じて、世界もころころと変わるのです。
ところで、あなたが世の中に対して、常に受け身で、世間の目を気にしたり、世の中の流れに乗ることばかり考えているとします。
この場合、あなたと世界の波長を決める主導権は、あなた自身にはありません。
あなたは自分の波長の決定を、他の人たちに委ねているのです。
世の中で楽しいことがあれば、あなたも楽しい気分になります。
嫌なことがあれば、嫌な気持ちになります。
世の中がずっと楽しければいいのですが、ずっと不安に満ちたままだと、あなたもずっと不安を抱えたままになります。
主導権は自分にありませんから、自分ではその不安を、どうすることもできません。
でも、自分の波長を決める権利を、自分自身が持つと、不安を消すことができます。
他の人が不安におびえていても、あなただけは、のんびり構えていることができるのです。
お金があるかないかは、関係ありません。
お金を持っていても、不安な人は不安なのです。
虹が教えてくれること その1

七色のアーチを作る虹。
きれいですよね。
あの七色の光が、どのように作られているのか、ご存知のことと思います。
空気中にある無数の水滴が、プリズムの役目を果たして、光を七色に分散させているのですね。
ですから、雨上がりの空や、庭に水を撒いた時などに、見ることができます。
通常の光を見た時には、光は白っぽく見えます。
そこに七つの色が、隠されているとは思えません。
ところが、波長ごとに分散されると、虹が出現するのです。
面白いのは、光が七色に分散されるだけではありません。
七色の光が一つに重なることが、できるということです。
これは光の特徴で、同じ所にスポットライトを、いくつも当てたところで、そこで光が盛り上がることはありません。
光は無限に重なることが、できるのです。

光を空間の一部だととらえると、光は空間そのものの振動だと、見ることができます。
振動の違いは、波長あるいは周波数という形で、表現されます。
光が空間の一点を振動させている時、そこには七色の光の振動が、重なっているわけです。
つまり、波長の異なる七色の光の振動が、同じ一点に重なって、存在しているということです。
ところで、私たちがいるこの世界を見てみますと、しっかりとした形や、触感があります。
私たちはそれを物体と呼び、物体を構成しているものを、物質と呼んでいます。
私たちの体も、その物質でできています。
そして、この物質と光が別物であると、私たちは感覚的に理解しています。
物質は手で触れたり、つかんだりできますが、光はそれができません。
ですから、両者は別のもののように受け止めているのです。
しかし、物質は素粒子という、形のないエネルギーで構成されています。
しっかりとした形があるように感じるのは、素粒子が構成している原子の表面が、電気的にマイナスになっているからです。

原子と原子が、ある程度以上近づこうとするのを、互いのマイナスが反発し合って、防いでいるのです。
手で何かに触れる時、手の表面の原子のマイナスと、物体の表面の原子のマイナスが、反発し合って、それ以上は近づけない状態にあるわけです。
もしこの電気的な力がなければ、あなたの手は幽霊の手のように、すっと物体の中を抜けてしまい、その物体を持つことも、触れることもできないでしょう。
そうなれば私たちの世界は、つかみどころのない、幻のようになってしまいます。
と言いますか、本当は幻のようなものを、実感があるように構成しているだけなのですね。
実際は私たちの世界そのものも、光と同じエネルギーであり、空間の振動によって、表現されたものなのです。
それは、世界の一部である、私たち自身についても言えることです。
私たちも、光と同じエネルギーであり、かっこいい表現をすれば、私たちは光の化身なのです。
虹が教えてくれているように、空間を振動させる光の中には、異なる波長の光が混在しています。
また、私たちの世界も、空間を振動させるエネルギーにより、表現されたものです。
そして、私たちの世界を構成している空間には、別の振動エネルギーが混在しているかもしれないのです。
いや、混在していると考える方が、自然でしょう。
虹のように、様々な波長の世界が、同じ空間に重なって混在しているのです。

ただ、私たちが認識できるのは、この世界の波長だけです。
他の波長の世界を、直接には知覚することはできません。
いわゆるパラレルワールドや、あの世などの世界は、どこか遠くにあるのではなく、私たちの世界と、隣り合わせに存在しているのです。
私たちが、この世界に存在しているのは、私たちの波長が、この世界の波長と同じだからです。
私たちと世界を分離することはできません。
私たちは世界の一部なのです。
ですから、世界の波長と私たちの波長は、同じなのです。
自分一人が、世界と異なる波長を持つことは、できないのです。
刑務所の話 その2
日本の刑務所でも、高齢化した受刑者たちが、出所したあとも、わざと軽犯罪を犯して、刑務所へ戻って来るようです。
テレビで見せられた刑務所の様子は、刑務所と言うより、老人ホームのような感じでした。
食事は用意してもらえるし、病気になっても無料で診てもらえます。
中には、透析まで受けている受刑者がいました。
出所しても独りぼっちだけど、刑務所にいると、お友だちが一杯いるという受刑者もいるのです。
もちろん、お友だちというのは、刑務官ではなく、似たような高齢の受刑者たちのことです。
刑務官も困惑の様子で、こういう人たちを扱う所は、本当はここではないと思うのだけれどと言うのですが、どうしようもありません。
凶悪な犯罪を犯す者も、刑務所での暮らしが忘れられずに、罪を繰り返す者も、どちらも根っこは同じだと思います。
つまり、社会の中では居場所がない、幸せを感じられない、疎外感がある、などの状況が犯罪を生むということです。
本当に犯罪を減らしたいのであれば、何故犯罪が起こったのかを、徹底的に調べることが重要です。
恐らく、調査はされているのだと思いますが、その結果が、犯罪防止に活かされていないのが、現状でしょう。
その理由は、議員の方たちが、こういうことを真剣に考えていないからだと思います。
真剣に考えているのであれば、もっと多額の税金を投入し、現場に多くの有能な人材を、投入しているはずです。
使える税金は限られているから、限られた中でするしかないと、議員の方たちは考えるのかもしれません。
でも、これは病気にどう対処するのか、という事と同じです。
本当に具合が悪くなってから、病院で治療を受けるよりも、悪くならないよう、予防に力を入れる方が、お金はかかりません。
本人も病院の人たちも、その方が楽です。
犯罪を防ぐことにお金を使うことは、起こった犯罪に絡んだ、様々な費用を捻出するよりも、遥かに安上がりでしょう。
それにお金のことよりも、被害者であれ加害者であれ、不幸な人間を生まずに済むのです。
何でも個人の責任にする人は、基本的に人間が好きではないのでしょうね。
人間が好きなのであれば、個人の責任だと言いながらでも、困っている人を見ると、助けようとするものです。
国のことを、本当によくしたいと思うのであれば、議員の方たちには、すぐにでも動いてもらいたいものです。
お金をかけるだけでなく、現場に関わっているような人たちに、集まってもらって、いろいろ意見を募るのもいいと思います。
会社などでもそうですが、現場の声を聞かずに、上から指示を出して、とにかくこれに従えというのは、状況改善にはつながりません。
また私たち自身も、何でも国任せにするのではなく、困っている人には手を差し伸べるだけの、優しさと心の余裕を持ちたいものです。
刑務所の話 その1
世界一受刑者に優しいと言われる、ノルウェーのハルデン刑務所を取り上げた、番組を見ました。
刑務所には格子がなく、受刑者は全く普通の暮らしを、刑務所内で過ごすことができます。
建物の内装も立派です。
受刑者の部屋は個室で、テレビもDVDもあります。
小さなスーパーもあって、受刑者はそこで買い物をし、自分たちが食べる物を、自分で調理して食べるのです。
当然、殺人犯のような重大な事件を、起こした者もいます。
でも、お互いに相手が起こした事件など、全然気にしない様子で、みんな和気あいあいとしていました。
気の合う者同士で、ゲームをしたり、歌を歌ったり、ラジオ局までが入って来て、彼らの声を国民に届けています。
毎週末、刑務所を訪れた家族と、自分たちだけで過ごすことができる建物もあり、生まれたばかりの子供を、受刑者が腕に抱くこともできるのです。
日本人で言えば、遠方に単身赴任している夫と、週末に会う家族のようですね。
そこには監視がまったくないので、悪巧みをしたり、薬物を持ち込むことも可能ですが、基本的に受刑者たちは、信頼されている形です。
こうした人間的な扱われ方は、実情を知らずに入所した受刑者を、戸惑わせるようです。
普通は、刑務所とは罰を受ける所であり、嫌な場所だと思われているからです。
また、実情を知っている者の中には、この刑務所に入ることを、警察と交渉した者もいます。
麻薬の密売をしていた受刑者は、この刑務所で勉強をし、資格や技術を手に入れて、外に出ることを目指していました。
彼が言うには、何もないまま外へ出ると、きっと同じことをしてしまうが、もうそんなのは御免だから、ここで勉強をするのだそうです。
ごくわずかながら、所内で自殺をしたり、脱走をする者もいるようですが、ほとんどの受刑者は、この刑務所を好意的にとらえています。
そして、この刑務所を出所した者たちの再犯率は、かなり低いと言われています。
ただ問題は、これだけの刑務所を造るのに、多額の費用がかかることと、受刑者全員に快適な暮らしを提供することに、国民全員が納得しているわけでは、ないということでしょう。
それでも、そうせざるを得ない事情が、ノルウェーにはあるのです。
と言うのは、ノルウェーには死刑も終身刑もありません。
どんなに重大な事件を起こしても、いつかは必ず、受刑者は社会に出て来るのです。
と言うことは、再犯率をいかに下げるかという事が、一番の問題になります。
そのため、感情は脇に置いて、様々な取り組みを試行錯誤する、必要があるのです。
犯罪に巻き込まれた側からすれば、受刑者が罰を受けずに、快適な暮らしをしていることに、違和感を覚えることでしょう。
下手をすれば、被害者よりもいい暮らしを、させてもらっているかもしれないのです。
それに国が犯罪者を罰しないのであれば、自ら手を下して、犯罪者を罰してやると考える人が、現れるかもしれません。
再犯率が低いことは、大いなる魅力ではありますが、被害者の個人レベルでは、再犯率などどうでもいい事でしょう。
要は、犯罪というものを、個人レベルで見るのか、社会レベルで見るのか、という事です。
社会レベルでの視点を優先するのであれば、国や自治体は被害者のフォローを、責任持ってしなければなりません。
ただ、この問題が教えてくれているのは、刑務所の話だけではないのです。
人間的な扱いをされることで、再犯率が減るということは、受刑者たちは犯罪を犯す前は、人間的に扱われていなかったと、見ることができるでしょう。
彼らが初めから人間的に扱われていたならば、彼らが犯罪を犯すこともなかったということです。
お互いの思いやり

思いやりのある人と出会うと、心が和みますよね。
また、誰かを思いやる時、とても優しい気持ちになっています。
優しい気持ちの自分って、すごくいいと思いませんか。
このように、誰かから親切にされた時、された方だけでなく、した方も気持ちがいいのです。
ところが、誰かを思いやったつもりが、予想外の嫌な態度を見せられることがあります。
そんな時には、とても悲しい気持ちになり、もう二度と誰かに親切なんか、するものかと思うかもしれません。
あるいは逆に、気持ちが尖っている時には、普段ならばどうでもいいような、ちょっとしたことでも、気に障ることがあります。
相手が親切な気持ちでしてくれたことでも、余計なお世話だと受け止めてしまいます。
どちらも誰にでも起こり得ることですが、いずれも残念なことですよね。

たとえば、混んでるバスや電車で、座っていた若い人が、途中から乗車して来た、年配の人に席を譲ろうとすることがあります。
普段から、ゆずり慣れている人はともかく、そうでない人が、知らない人に声をかけて、席を譲るというのは、相当勇気のいることです。
それを、迷いに迷った挙げ句、譲ってあげようと立ち上がったのに、他の乗客たちの見ている前で、年寄り扱いするなと怒られたら、どんな気持ちになるでしょうか。
恐らく、その人はお年寄りを見ても、再び席を譲ろうとはしないでしょう。
あるいは、怒られなかったにしても、結構です、大丈夫です、と断られても、大恥をかいたような気になるものです。
こんな場合には、自分はまだ年寄りではないと思ったとしても、にっこり笑って、ありがとうとお礼を述べ、座らせてもらった方がいいと思います。
できれば、一言二言、席を譲ってくれた人と、ちょっとした会話でもできれば、最高です。
もし、座れない事情があるのなら、相手の気持ちへの感謝を示してから、そのことを説明し、やはり一言二言、会話をかわすというのが、いいでしょう。
そういうのが、お互いを思いやるということなのです。
悪気はなかったにしても、誰かの好意に対して、嫌な態度を見せてしまったならば、次からはそうならないよう、気をつけましょう。

お店などで、自分は客だということで、傲慢な態度を見せる人がいます。
一方で、せっかく来てくれたお客に、無愛想で不親切な応対をする店もあります。
こういう場面にでくわすと、とても残念ですし、悲しい気持ちになります。
みんな人間に生まれて来たのに、人間としての喜びを、自ら放棄しているようなものです。
お互いを思いやり、感謝し合う世の中であれば、世の中を騒がすような事件などが、ニュースで伝えられることはなくなるでしょう。
こういう世の中にするためには、子供の頃からの教育が大切です。
無理やり知識を詰め込む教育ではなく、人間としての基盤を築くような教育こそが、必要なのだと思います。
また、その教育は学校任せにするのではなく、家庭や地域でも、しっかりと子供に教えないといけません。
いずれは社会の中心を担う子供たちが、思いやりと感謝の心を、当たり前のこととして抱くことができれば、世の中は間違いなく、いい方向へ変わるでしょう。

物事の意味

今日の愛媛は、ずっと雨です。
昨夜から降り続けていますが、久しぶりの雨です。
雨の日と晴れの日では、どちらがいいかと問われると、やはり晴れの日がいいと思います。
最近では大雨が続くと、川が氾濫して、地域に甚大な被害を及ぼすことが、少なくありません。
でも、雨が降らなければ水不足になってしまいます。
かつて松山はひどい渇水になって、ダムの底が露出するほど、水不足になったことがありました。
二、三年前に愛媛国体が行われた時も、いつもは水がたくさんある、今治の玉川ダムの湖が、渇水によって、やはり底が露出するほどになりました。
このダムでは、ボート競技が行われる予定だったのですが、一時は競技の開催も危ぶまれました。
でも、この時は開催直前に台風が来てくれて、雨を降らせてくれたので、何とか競技を行うことができました。
雨万歳です。

雨は、空中の水蒸気が凝縮して、空から落ちて来る現象です。
そこに、いいも悪いもありません。
しとしと降ろうが、土砂降りになろうが、雨はただの雨に過ぎません。
その雨を迷惑に思うのか、ありがたく思うのかは、こちらの勝手な都合です。
同じ事が、雨以外のものにも言えます。
病気や怪我で、つらい思いをする人がいます。
時には、それが元で亡くなる場合もあります。
そういう面だけを見ると、病気や怪我はよくないものだと、なるでしょう。
実際、病気も怪我も、人々から好まれていません。
ところが、病気や怪我をすることで、それまでの生き方を見直して、豊かな人生を手に入れた人もいるのです。
そういう方たちは、病気のお陰で、怪我のお陰で、と言います。
この方たちに取っては、病気も怪我も悪者ではないのです。
病気にしても怪我にしても、そこから何をくみ取るか、そこにどんな意味を見出せるかで、その人の敵にも味方にもなるわけです。
でも、敵になるか味方になるかを、病気や怪我が決めているわけではありません。
決めるのは、やはりこちらなのです。

何かを悪いものと見なし、嫌な気分になるのも、一つの道です。
何かから思っても見なかった、いい一面を発見して、得した気分になるのも、一つの道です。
どちらの道を進むのか、その選択権は私たちにあります。
どうして、自分には嫌なことばかりが、起こるのだろうと悩む人もいるでしょう。
でも、それは言い換えれば、自分が物事の嫌な面ばかりを、選び続けているということです。
誰かに呪われているとか、自分は不幸の星の下に産まれたのだという考え方をするのは、やはり自分で選択した思考です。
誰かが無理やり、こう考えろと、考えさせているわけではありません。
思いがけない変化や、期待外れの出来事などに、落胆しない人はいないでしょう。
でも、そこに新たな道を見つけられた人は、うなだれていた頭を持ち上げて、前進できるようになります。
物事をどう受け止めるのか、そこにどんな意味を見出すのか。
どの道を進むのかを決めるのは、いつだってあなた自身なのです。
愛とは

愛とは何でしょう。
愛と言えば、まず頭に浮かぶのは、男女の愛でしょう。
それから親の愛、子供の愛、兄弟姉妹の愛、などの家族愛でしょうか。
友情や助け合いなどは、愛という言葉を使いませんから、愛とは少し違うように思うかもしれません。
でも、これらも一つの愛の形であり、愛の表現だと言えるでしょう。
もっと大きな視野で見ると、人間愛というのもありますね。
自然や動物、植物を愛するということもあります。
そして、恐らくは神さまの愛というものが、何等かの神を信仰する人たちにとっては、最高の愛でしょう。
しかしこれは、愛にはどのような種類があるかを、説明しているだけで、愛とは何かという質問の、答えにはなっていません。
愛にいろいろ種類があるのは、わかりましたが、結局、愛とは何なのでしょう。

体の全ての細胞は、たった一つの受精卵が、分裂をすることで作られます。
それと同じように、世界中のすべての存在は、たった一つの存在の分身であると考えることができます。
そして、愛というものは、自分が元の一つの存在の分身であると、感覚的に理解する、あるいは理解させられることだと、言えるでしょう。
自分がどのような存在であるかなど、何も気にする必要はありません。
自分という存在は、無条件に受け入れられ、他の存在たちと全くの同価値であると、理解できるのです。
自分なんかに、どんな価値があるのだろうと、自信が持てない人は多いでしょう。
その存在価値を無条件に認められ、全く純粋に受け入れてもらえたならば、どれだけ嬉しく幸せなことでしょう。
それが愛というものです。
愛は、自分と相手が一つであることを、思い出させてくれます。
だからこそ、惹かれるのです。

私たちが暮らす物質世界は、自分と他のものを区別し、分ける世界です。
それは他のものとのつながりを、感じさせなくするのです。
一見、自由に見えるこの世界ですが、結果として孤独に陥りやすいのです。
そんな中で、本当はつながっているんだよと、教えてくれているのが、家族愛などの、身近な人たちとの間に感じる愛情です。
成長して来ると、生物としての人間の本能が、種族維持のために活動を始めます。
それが異性を求める行動につながりますが、そこにも相手を大切にする気持ちが表現されると、男女の愛というものを、感じるようになります。
同性愛者同士の愛も、これと同じです。
体が男か女かは、実は重要ではありません。
相手を大切に想う気持ちにこそ、真実の愛が隠れているのです。
ところが、本能に従った、異性間の体の結びつきを、愛だと勘違いする人がいます。
相手を愛するというのは、性的に相手の体を、心地よくさせることだと考えるのです。
場合によっては、相手が拒んでいるのに、自分の性欲を愛情だと決めつけて、無理やり相手の体を求める者もいます。
しかし、こんなのは愛でも何でもありません。
愛だと言うのであれば、歪みに歪んだ低質の愛です。
相手を本当に愛しているのなら、絶対に相手を傷つけるようなことは、しないでしょう。

全ての存在が、元の一つの存在の分身であれば、全ての存在は家族です。
全ての存在は同価値であり、その本質においてつながりがあります。
そのつながりを感じられた時、私たちは自然の存在に対して、愛情を抱くのです。
その時は、必ず向こうもこちらの愛を感じていますし、こちらへ愛を送っています。
そうでなければ、心がつながっているとは言えません。
誰かに対して、愛情を抱いても、相手の人が気づいてくれないことはあるでしょう。
しかし、愛を感じるのは、表面的な意識ではありません。
もっと心の奥の方で感じるのです。
表面的に相手が気づいてくれていなくても、気にする必要はありません。
また、愛というものを、男女愛などという枠にはめて、理解してはいけません。
枠にはめてしまうと、型どおりの関係を求めるようになり、そうならなければ、相手を裏切り者のように感じるでしょう。
愛は性別を超えたものです。
個人的に独占できるものではありませんし、いかなる条件も不要です。
自分が多くの愛をもらっているのに、気がつかない場合もあります。
でも、生きる喜びを感じていたならば、それは周りの愛を受け取っている証拠です。
愛をくれるのは、人間であるとは限りません。
自分の周囲に存在する全てのものに、感謝の気持ちを持ちましょう。

もし、生きる喜びを感じられない時があったなら、それは周りが愛をくれていないからではありません。
あなた自身が自分の殻に閉じこもり、愛とのつながりを断っているのです。
何か嫌なことがあった場合、それを誰かのせい、何かのせいにしたくなる時は、特にそうです。
言い換えれば、愛とは生命エネルギーそのものであり、精神エネルギーでもあるのです。
私たちは、愛と呼ばれる生命エネルギー、あるいは精神エネルギーの海の中に、その一部として存在しているのです。
海の中で、水の状態でいると、どこに境目があるのかわかりません。
全ては一つにつながっています
ところが、一部が冷えて氷になったとします。
すると、そこだけが全体から孤立した状態になります。
孤独を感じている時というのは、そんな状態だと言えるでしょう。
どうすれば、孤独ではなくなるのか。
それは氷から、水に戻ればいいのです。
つまり、あなた自身が、愛というエネルギーに戻ればいいのです。

本当の自分

自分探しという言葉が、流行していますが、求める自分が見つかる人は、それほど多くないと思います。
と言うのは、みんなが探し求めているのが、具体的な自分の姿だからです。
しかし、本来の自分には、姿というものはありません。
本当の自分というものは、姿ではなく、心の状態を言うのです。
天職という言葉がありますから、自分にぴったりの仕事は何だろう、と考える人は少なくないでしょう。
それは憧れでもあり、天職に巡り会うことが、人生の成功であるように、感じてしまいます。
そうなると、自分探しというものが、天職探しになるのですね。
ところが、天職と言えるようなものには、なかなか巡り会えません。
これこそ天職だと思ったとしても、病気や事故、災害などにより、その仕事を続けられなくなることもあります。
天職が不可能となれば、人生には絶望しか残されません。
何のために生きているのかが、わからなくなってしまいます。
天職に巡り会えて、素敵な人生を送っている人を横目で見ながら、自分はもうおしまいだと嘆くわけです。
しかし、これは誤解であり、間違った自分探しです。
その理由は、自分というものを、心としての存在ではなく、肉体としての存在として、イメージしているからです。

繰り返しますが、心に姿はありません。
本来の自分に、具体的な姿形はないのです。
それでは、姿形ではない、本来の自分を確かめるには、どうすればいいのでしょうか。
それは、自分が居心地がいいと感じる、心の状態を見極めればいいのです。
穏やかなのがいいのか、刺激があるのがいいのか。
一人がいいのか、大勢でわいわいしているのがいいのか。
自然の中にいるのがいいのか、都会の建物に囲まれているのがいいのか。
体を動かしているのがいいのか、観察しているのがいいのか。
具体的にどんな仕事をするのか、どんな活動をするのか、というのは、今述べたような心の状態を、物質世界で表現する手段として、何が適切かということです。
大切なのは、表現の元である心の状態なのであって、表現方法自体は重要ではありません。
一つの方法が使えなくなったなら、別の方法で表現すればいいだけなのです。
自分が何をしたらいいのか、わからないという人は多いと思います。
それは具体的に何をすればいいのかが、わからないということです。
でも、そんなものはわからないのが当たり前です。
やってみないと、それが自分を表現するのに適切かどうかが、わからないのですから。

重要なのは、自分がどんな心の状態で、ありたいのかということです。
先に述べた様々な状態は、画一的ではありませんし、固定的でもありません。
人の心は安定と刺激の両方を求めるものですし、一人でいることを好みながらも、仲間を求めたりもします。
いろんな要素が混じり合って、一つの心の状態ができていますし、その状態も、状況に応じて変化して行きます。
ずっと安定を求めていたのに、いざ安定が手に入ると、今度は刺激を求めるという感じです。
冒険を求めながら、家が恋しくなるのと同じです。
ですから、心の状態にしても、画一的かつ固定的な状態を思い描いて、それが本当の自分だと考えてしまうと、またおかしなことになってしまいます。
ポイントは、今、自分は何を求めているのか、ということです。
それが昨日と全然違っていても、構いません。
今こそが大切なのです。
思い立ったが吉日という諺があるように、今どうしたいか、どうありたいか、ということに目を向け、それがわかれば、今すぐにそのように動くことです。
どこかを探しても、本当の自分は見つかりません。
お金があるのかどうか、注目を浴びるかどうか、社会的に重要な仕事かどうか。
そんなことは全て、物質世界の中に、人間が勝手に作り上げた価値観に過ぎません。
そういうものを超えた所にある、自分の心の状態こそが、本当の自分なのです。
