不便な便利 その2
今の若い人たちには、自動車を買う余裕のない人が、多いと思います。
若い人たちの考える便利な物と言えば、やはりスマホでしょうね。

電話やメールはもちろん、カメラにもなりますし、インターネットを楽しんだり、ゲームをしたり、買い物をしたりと、使い方次第で様々なことができるようです。
私はスマホは持っていないので、詳しくはよくわかりませんが、ガラケーと呼ばれる携帯電話は持っています。
これも電話番号を登録したり、ちょっとしたメモにも使えますから、便利と言えば便利です。
でも、そのお陰で電話番号を、覚えられなくなりました。
また、携帯電話のメモ帳や、パソコンのワープロなどで、文字の自動変換機能を使っていると、ペンで字を書く時に、漢字を思い出せなくなるのです。
そんな経験をしている方は、とても多いと思います。
便利になった分、脳の機能が衰えたのです。
体も動かさなければ、どんどん筋肉が落ちて行きます。
それと同じように、頭も使わなければ、使用されない神経同士のつながりが、どんどん失われて行くのです。
ですから、スマホやパソコンのゲームにはまって、ひたすらゲームをしていたり、ただテレビやインターネットの動画や番組を、じっと見ているばかりだと、脳の機能は衰えて行くでしょう。

ただ、それしかやらない人は、脳機能の低下に気がつきません。
と言うのは、衰えて行く脳機能を、使う機会がほとんどないからです。
しかし何かの事情で、他のことをせざるを得ない状況が、訪れるかも知れません。
そんな時に、自分では何も考えられない、何も決められない、人に言われたことが理解できない、などの問題が出て来る可能性は、十分にあると思います。
また、今はいつでも無料で通話ができるようなので、特別用事もないのに、ずっと電話をつなぎっ放しにする人がいるようです。
ちょっとトイレに行って来るからと言って、何分も電話に出ないまま、相手を放っておいても平気だし、放っておかれた方も、お互い様なのか平気なようです。
世代の違いと言えば、それまでですが、私たちが若かった頃には、そんな簡単に電話などできませんでした。
市内の相手と喋るならば、3分10円と安かったですが、遠方の人と喋ると、みるみる通話料が増えて行きます。
公衆電話で喋る時には、10円玉を何枚も用意しないといけませんでした。
ですから、喋る時には短い時間で伝えられるよう、何を喋るのかを頭の中で、ちゃんとまとめておいたものです。
また、電話をかけた時に、相手がどんな状態にあるのか、わかりませんから、相手が電話をしていても大丈夫なのかを、必ず確かめていました。
相手が食事をしているだろうとか、仕事中かなとか、寝ている時間だなと思う時には、電話はかけません。
それに大概の家が同じだったと思いますが、電話と言えば、固定の電話が茶の間に一台あるだけです。

今の若い人は見たこともないかもしれませんが、指でダイヤルの番号を回すタイプの電話です。
のちに番号のボタンを押す、プッシュ式という電話機が出ましたが、固定電話であるのは同じです。
それが今は、パソコンとカメラと電話が一体化した、スマホというものを、一人が一台持っていて、24時間いつでも電話で自由に喋ることができるわけです。
自分が電話をしたいから、電話をする。
自分が目を覚ましているから、電話をする。
そこには相手への配慮や、相手の様子をうかがう想像力がありません。
相手が文句を言わなければ、別に構わないだろうと言えば、確かにそうなのですが、それでも他人を気遣う習慣というものが、失われているのは確かでしょう。
そいういう事は知り合いとの通話ばかりでなく、見知らぬ人との関係においても、相手の事情を考慮するという観点が抜け落ちて、自分勝手な行動を見せることに、なるかもしれません。
たとえば、公共の施設へパジャマにサンダルのような格好で、平気で入って行く。
駐車場があろうがなかろうが、お構いなしで、自分が好きな所に車を止める。
自分が飲み食いしたあとのゴミを、いらないからと言って、どこにでも捨てる。
決して悪気はないのかもしれません。
しかし、自分の行動によって、誰かが迷惑をこうむるかもしれないという、観点が抜けています。

世の中が平和なのは、みんながルールを守っているからです。
町がきれいなのは、ゴミを拾ってくれる誰かがいるからです。
みんなが好き勝手をするようになれば、どんな町、どんな社会になるのか、考えればわかるでしょう。
しかし、考える能力が低下していると、そういうことを頭に思い浮かべることすら、苦痛になるのかもしれません。
携帯電話やスマホなどを開発した人は、世の中がそんな風になることを、予想して開発したわけではないでしょう。
それでも、便利が産み出す不便というものが、実際に生じてしまうわけです。
自分勝手ではなく、他の人のことを思いやれるのであれば、スマホは本当に便利なグッズとなるでしょう。
そうでなければ、様々な社会問題を生み出す元凶と、みなされてしまうと思います。
でも、これはスマホが悪いのではなく、他人を思いやれるような教育が、なされて来なかったとことが問題でしょう。
これからの教育は、人と人のつながりを大切にできることを、一番の目的にするべきだと思います。
不便な便利 その1
人間は創意工夫によって、様々な便利な物を、創り出して来ました。
また科学の発展は、さらなる便利グッズの開発に、拍車を掛けました。
昔はなかったもので、現在普通に使われている、便利なものと言えば、まずは自動車でしょう。
それとスマホやパソコンなど、インターネット関連のものですね。
他にも録画や録音などの機器、エアコン、いろいろな家電製品。
昔は贅沢品と見られていた自動車も、今では多くの人が当たり前に使っています。

自動車があれば、昔であれば絶対に行けなかった遠い所へ、たった一日で訪れることができます。
雨が降っても、濡れることなく移動ができます。
荷物を手に持ったり、背中に背負う必要もありません。
あまりにも便利で、当たり前の移動手段になったため、ほんのすぐそこへ行くにも、自動車を使ってしまいます。
そのため、人はほとんど歩くことが、なくなってしまいました。
それによって体力が低下し、年を取ってから歩けなくなる人が、増えていると言います。
また、自動車で移動することは、目的地まで速く移動できるということで、人々は目的地に速く到達することが、当然のことのように考えるようになりました。
ですから、前をゆっくり走っている車があると、イライラしますし、横断歩道を渡ろうとしている人がいても、無視して突っ走ったりするのです。

そこまでして、どれぐらい速く目的地につけるのかと考えると、大して変わらないわけですが、それでも1秒でも速く着きたいと、思うのですね。
では、その人が普段から1秒を惜しんで、暮らしているのかと言うと、まずそんなことはないでしょう。
車で無理をして走れば、少々出るのが遅くなっても、その分を取り戻すことができると思い、家では無駄な時間を、過ごしているのではないでしょうか。
その結果、いつかは事故を起こし、人生を台無しにするようなことが、起こるのです。
車を降りて、自分の足で歩いて見ると、運転中には絶対に見ないような、町の景色が見えて来ます。
こんな所にこんな物があったのかとか、驚いたり感動することが、結構あるものなのです。

自動車で移動していると、出発点から目的地へ移動する、ということだけが重視されるので、途中の町の様子など、見えているはずなのに、何も頭に残らないのですね。
この発想は自動車の運転ばかりでなく、仕事への取り組み方にも、影響するようです。
それは、結果ばかりを追い求め、結果を出すまでの、途中経過はどうでもいいという考え方です。
つまり、どんな手段でもいいから、とにかく結果を出せばいいという考え方ですね。
そして、結果を上手く出せない者は、無能と見なすのです。
そういう歪んだ考え方が、今の世の中には、まかり通っているのではないでしょうか。

知らず知らずのうちに、目的地へ速く到達することが、いいことなのだという考え方が、すりこまれた結果のように思えてしまいます。
元は便利を求めて開発されたはずの、自動車などの機械は、結局は人々に不便な暮らしを、強いる結果になっているのかもしれません。
便利とはどういうことなのか。
不便に見えることは、いけないことなのか。
そんなことを子供のうちから、考えられるようになっていれば、便利なのに不便という世の中には、ならないと思います。
異星人の生まれ変わり

最近、いろんな人が異星人に見えてしまいます。
テレビに出ている人も、道ですれ違う人も、みんな異星人のように見えるのです。
別に、私の頭がおかしくなったわけではありません。
ただ、そういうこともあるだろうなと考えると、どの人もそんな風に見えてしまうのです。
面白いですよ。
特に外国から日本に来た人などは、普通に見れば、その人の国から来たということですが、本当は宇宙の別の星から、人間生活を体験しに来ているのだと、思えてしまうのです。
たとえば、ジョークというものが理解できない、私たちから見れば、堅物の塊のような異星人が、吉本のお笑い芸人に生まれ変わって、みんなを笑わせていると考えてみて下さい。

本来であれば、どんな物でもパパッと作れてしまう、技術を持つ異星人が、焼き物の職人になり、手作りの良さを満喫しているかもしれません。
いろんな国の人が集まって、討論している様子を見ると、まるで銀河系のあちこちから集まって来た、異星人たちの会議を見ているようです。
地球人をあっと言わせてみせてやると、意気込んでいたはずの異星人が、家でごろごろしている、親爺になっているのも面白いですね。

だけど、みんな生まれて来た時に、生まれて来る前の計画など、全部忘れてしまうので、予定とは違うことを、やっていても仕方がありません。
それに、その方が初めの計画よりも、よかったかもということもあるでしょう。
地球を征服してやろうと、悪意を持って生まれて来る、異星人がいるかもしれないと、考える人がいるかもしれません。
でも、征服するつもりなら、生まれ変わったりしなくても、直接攻めてくれば、いつでも征服できるでしょう。
ただ、ゲーム感覚で、みんなを自分に従わせてみたいと、考える者はいるかもしれませんね。
いずれにしても、本当の悪意を持った異星人が、生まれて来るとは思えません。
それに、仮に悪意があったとしても、生まれて来た時には、全部忘れているのです。
何も恐れることはありません。
異星人がどんな目的で、生まれ変わって来るのか、本人も忘れてしまうのであれば、どうでもいいことでしょう。

人間として生まれた彼らは、自分は人間だと信じていますし、人間として生きて行くのです。
その中で、持ち前の能力や雰囲気を活かしながら、いろんな経験を仲間と分かち合い、学び合うのですね。
と、まるで異星人が本当に、人間として生まれ変わっているのが、事実であるかのように書いていますが、本当のところはわかりません。
でも、可能性はあります。
みなさん、異星人と言うと、UFOを探して空を見上げるでしょうが、一緒に空を見上げている、隣の人が異星人なのかもしれませんよ。
学校の先生や職場の同僚、友だちの誰か、その中に異星人が混ざっていたとしても、不思議ではありません。
だけど、そんなことは確かめようがありません。
だって、本人は何も覚えていないのですからね。
だから、異星人の生まれ変わりを、否定はできませんが、肯定もできないのです。
だとすれば、どう受け止めるのかは、各自の自由です。
自由なのですから、面白い方に受け止めたら、いいのではないでしょうか。
だから、私は思うのです。
世の中には、異星人の生まれ変わりがたくさんいて、世の中を盛り上げようとしてくれているのだと。
もしかしたら、あなた自身が異星人なのかもしれませんよ。

何だか周囲に馴染めなくて、いじけがちだとすれば、それはあなたが異星人だから、人間社会の雰囲気に、悪酔いしているだけなのかもしれません。
そうか、自分は異星人だったのか、と納得をして、自分のペースで生きてみて下さい。
きっとそれは、他の人たちに大きな刺激になり、あなた自身も楽しい生活を、手に入れられるでしょう。
自分がやりたいことに、後先構わず突っ込んで行くような人も、異星人かも知れません。
何故なら、人間社会にある常識や、先入観というものに、縛られないからです。
その行動は、自分の殻を打ち破れ、というメッセージを、周囲の人に伝えることになるでしょう。
とにかく、異星人は人間社会に、たくさん入り込んでいて、欠かすことのできない存在に、なっているのです。
と、私は考えています。
みなさんも、そんな風に想像して、世の中を眺めてみて下さい。
自分と違う考え方の人、奇抜なファッションの人、すごい事をやってのける人、みんな、いろんな星から来た人たちだと思うと、とても楽しくなりますよ。

あれから10年
東北の震災が起こってから、昨日で10年が経ちました。
復興が進んでいるように見える部分もあれば、未だにあの時のまま、時が止まってしまったような所もあります。
それは土地や建物だけではありません。
人の心も同じです。
前を向いて生きて行くことを、決意した方もいれば、未だに一歩が踏み出せないまま、当時を見つめ続けている方もいます。
同じ状況にあっても、心の傷の深さや、癒やされる速さは、人によって違います。
10年という時の長さを、長く感じる人もいれば、あっと言う間だったと思う人もいます。
立ち直ることができるタイミングは、一人一人異なりますから、まだ立ち直れない人に対しては、見守ってあげることしかできません。
立ち直るというのは、その人自身の決意ですから。
映像を見ると、未だに胸が苦しくなりますが、それでも、あの震災の中に、希望を見出すことはできます。
それは震災が、人々の心を一つにしたことです。
テレビの映像がなければ、どんなにひどい被害であっても、結局は、地方の損害という話で終わっていたでしょう。
ところが、地震と津波と原発の爆発というものを、画面を通して、目の当たりにした人々は、国境を越えて同じ想いを抱いたはずです。
それは、その後、様々な所で起きた自然災害についても、現地の人に対する想いを、呼び起こすことになったと思います。
そして今、コロナ騒ぎで世界中がダメージを受けている中での、震災からの10年です。
10年も11年も変わらないと言えば、そうなのですが、人間にとっては、10年というのは一つの節目です。
その節目が、この時期に重なっていることは、偶然ではないように思えます。
誰が人々に、訴えようとしているのかはともかく、震災から10年という節目と、コロナ騒ぎが重なっているのは、何が大切なのかを忘れるなと、叫ばれているような気がします。
新型コロナで問題になっているのは、コロナウィルスそのものではなく、人間社会の歪みです。
人々の荒んだ心なのです。
そこを理解しないままであれば、たとえコロナ騒ぎが沈静化したとしても、さらなる全世界的なパニック状況が、引き起こされるような気がしてなりません。
私にはこれらの災害が、地球の叫びであると同時に、人類自身の叫びであるように思えるのです。
目の前の状況に、パニックになるのではなく、人々の心、地球の心に気持ちを傾け、自分の心をつなぐこと。
それこそが、今求められていることなのでは、ないでしょうか。
地球へのやさしさ
地球にやさしい
環境にやさしい
今、流行の言葉ですね。
この言葉のきっかけになったのは、地球温暖化だと思いますが、最近よく言われるのが、ナノプラスチックという、プラスチック分子の弊害です。

海に溶け込んでいるナノプラスチックは、オキアミなどの小さな生き物に、取り込まれます。
そのあと、オキアミなどを食べる生き物に取り込まれ、その生き物を食べる、もっと大きな生き物に取り込まれます。
食物連鎖の上位に行くほど、ナノプラスチックは濃縮されて、多量に取り込まれるということです。
天然マグロは食物連鎖の上位にいますので、ナノプラスチックの含有量が、とても多いそうです。
そして、それを今度は人間が食べるのですから、知らんぷりをして放置していたプラスチックが、巡り巡って人間の元へ戻って来るというわけです。
だから大変ということなのでしょうけど、ちょっと違うような気がします。
温暖化にしてもそうですが、このままでは人類はどうなるのか、ということで対策を訴えます。
南極の氷が溶けて、海水面が上昇すると、海岸近くにある大都市は、ほとんどが水没すると言われると、これは何とかしないと、と考えるのでしょうね。

環境のことに、全然見向きもしない人の目や耳を、この問題に向けさせるためには、こういう訴え方をしないと、仕方がないのでしょう。
だから、地球にやさしい、環境にやさしい取り組みをしようとなるのでしょうが、やはりちょっと違和感を覚えてしまいます。
仕方がないのはわかっていますが、本当はもっと突っ込んだ見方が、できるようになってくれればと願う次第です。
何が言いたいのかと言いますと、自分たちに悪影響があるから、やめましょうという考え方は、正しい考え方ではないということです。
また、地球に優しい、環境にやさしい、エコです、と言えば、その企業は優良企業ということになり、企業の宣伝になるのも、何か間違っています。
日本政府は脱炭素化を打ち出しましたが、そのために原子力発電所を復活させろという声が、出て来ているようです。
温暖化は地球に優しくないけれど、放射能汚染は地球に優しいとでも、言いたいのでしょうか。
結局は、自分たちの金儲けのことしか、考えていないのです。
温暖化にしても、プラスチック問題にしても、根っこは同じです。
金儲けになることには手を出すけれど、ならなければ知らんぷりなのです。

やさしくするという場合、その対象となるのは、生命のあるものであり、やさしくされることに反応できるものというのが、前提になると思います。
ですから、通常は人間に対して使う言葉です。
人間以外で使うとすれば、動植物まででしょう。
生き物としては認められていない、石や材木、山や海や川、空に浮かぶ雲や、燃えさかる炎などには、使いません。
しかし、地球や環境にやさしい、と言うのです。
この言葉を本気で使うのであれば、地球や、環境を構成している全ての存在を、生命のある存在と認めなくてはなりません。
人間とは全く異なる形態の存在だけれども、それでも生命があり、何かを感じているのだと、理解する必要があるのです。
また、地球や環境にやさしくするという言葉を使う時、地球や環境を、人間とは別物のように見ています。
これは宇宙を研究し、宇宙を語る学者が、自分自身が宇宙の一部であることを、忘れているのと同じです。
実際は人間も地球の一部であり、環境の一部なのです。
つまり、地球にやさしい、環境にやさしい、というのは、自分たち自身にやさしい、という意味になるのです。

下らないことで争ったり、国同士で戦争をしたり、こんなことをしていて、地球にやさしい、環境にやさしい、もないでしょう。
また、自分のことを無価値だと決め込む人も、地球にやさしいという言葉は使えません。
地球にやさしくする、地球を大切にするというのは、自分にやさしくする、自分を大切にするとうことと、同じ意味なのです。
全ては一つなのです。
別のものに見えたとしても、みんな根っこは同じなのです。
自分に影響があるかどうかなど考えているうちは、やさしさは偽物です。
自分と他の存在が一つであると感じている場合、その存在のために行動することで、自分がどうなるのかなど考えません。
自分の大切な人のために、我が身を顧みずに、行動するのと同じです。
お金が儲かるかどうかを考えるなど、愚の骨頂でしょう。
それに、温暖化や環境汚染によって、人間や生き物が暮らせない状態になったとしても、地球はそんなことで潰れるほど、やわではありません。
人間には想像もつかないような年月をかけて、地球は自分自身を浄化するでしょう。

人間は地球や自然の管理者を気取っていますが、とんでもない話です。
こちらが地球や自然のお世話になり、生かしてもらっているのです。
子供が親に、好き勝手をさせてもらっているのと同じです。
その子供が他の所で、親の世話は大変だと、偉そうに喋っているようなものです。
地球に人間の勝手な世話はいりません。
そんなことではなく、自分が地球の一部であり、自分と他の存在たちは、一つなのだと理解してもらうことを、地球は望んでいるに違いありません。
そうなれば、地球にやさしくなどと、無理に叫ばなくても、誰も地球を汚すような真似は、しないはずです。
当たり前のこと

そんなの、当たり前でしょ?
それって、常識じゃない。
普通、こうするでしょ?
こんな感じの言葉を、口に出したことは、誰しもあると思います。
はっきりした約束事がなくても、自分の周りの人に、似たような行動を取ったり、同じような考え方をする人が、たくさんいるとしましょう。
すると、そういう行動や考えは、当たり前のものと見なされます。
それでも、中には違う行動を取ったり、別の考えを持つ人もいるでしょう。
そんな人は、みんなから変わり者と言われ、場合によれば、白い目を向けられたり、村八分に遭わされるかもしれません。
そういう人々の行動や思考を、当たり前のことととらえていると、自分と違う行動や考え方を持つ人を、同じように変わり者と決めつけてしまうでしょう。

よくあるのは、子供が親や先生の言葉を鵜呑みにして、事情もよくわかっていないのに、誰かのことを低く見たり、逆に称賛したりすることです。
それは子供の本心と言うよりも、親や先生に自分を合わせている場合が、多いと思われます。
何故なら、子供は親や先生に認めてもらいたいからです。
逆に、違う意見を述べたりしたら、変わり者のように見られてしまいますから、それを避ける意味もあるでしょう。
これは、大人になってからもあることです。
自分を認めてもらおう、受け入れてもらおうという気持ちが、先に立っていると、何でもかんでも相手の言葉に同調し、時には相手よりも過激な発言や行動を、見せたりするものです。
ただ、子供と違って大人の場合、自分で物事を判断できますから、こんな風になる人の数は、それほど多くないと思います。
それでも、大人になっても子供のように、よく考えないまま相手に同調してしまう人が、いるのは確かでしょう。
自分は他人のことを、とやかく批評したり、決めつけたような見方はしないぞ、と言う人は、心配いりません。
でも、そんな人でも、これは当たり前だろうと考えることはあると思います。

たとえば、お金がないと生きて行けないとか、死んだらおしまいだとか、光が何年もかかって到達するような所から、異星人が地球に来られるはずがない、などと言うようなものです。
植物は脳がないから精神がないとか、この世界こそが現実で、夢と現実は違うと言うのも、そうですよね。
このように考えている人は、世の中にごまんといるでしょう。
だけど、どうしてそう思うのか、その根拠を問われた時に、きちんと説明できる人は、ほとんどいないと思います。
学者や知識人と呼ばれる人たちは、それなりの論理を持っているでしょう。
でも、そのほとんどは推測であり、確かにそうだと言える部分は、少ないのです。
少ないからこそ、自分たちの考えが正しいと証明すべく、日夜データ集めに頑張っているのです。
その結果、それまで主張していたこととは、異なる見解に行き着くこともあるわけです。
専門家でもわからないことが多いのに、専門家ではない者が、根拠を聞かれても困るとは思います。
であれば、当たり前だとは思わないことです。
今はこんな風に言われてはいるけれど、本当のところはわからないなと、謙虚な受け止め方をするのがいいと思います。
お金がないと生きて行けないと言われても、確かにそう見える状況はあるけれど、本当にそうなのだろうかと、疑問を持つことが大切です。
お金は便利かもしれないけれど、絶対に必要なものではないと気がつけば、お金がなくても生きて行ける社会のあり方や、暮らし方が浮かんで来ると思います。

他のことについても同様で、当たり前と言われることを、本当にそうなのだろうか、もしかしたら違うのではないだろうか、と考えてみて下さい。
そうすると自然に視野が広がり、知性が高まって来るはずです。
求める問題の答えを見い出せなくても、日常の事柄に対する態度や受け止め方が、それまでとはがらりと変わって来るでしょう。
当たり前という考え方は、思考をストップさせてしまいます。
ショートカットしているようなものですね。
考えなくて済むと、楽なように思えますが、人間は考える存在です。
考えることをやめてしまうと、人間としての質が、どんどん落ちてしまうのです。
生きているだけのロボットと同じです。

親に食事や洗濯、お風呂の準備など、世話になっている人は、少なくないでしょう。
その中で、親に対して、ありがとうと感謝を伝えている人は、どのくらいいるのでしょうか。
普段は全然顔を見せない祖父母に対し、敬老の日だけ何かをプレゼントして、それで年寄りを大切にしている気分になっている人。
同じく、親に感謝などすることもないのに、父の日や母の日にだけ、ちょっとした贈り物をして済ませてしまう人。
気分がいい時は、我が子を他人に自慢するくせに、スマホで遊びたい時には、子供が泣いていても見向きもしない人。
お店で何かを買うのは、売ってもらうのと同じなのに、自分は客だと、店員に横柄な態度を見せる人。
自分は相手より年上だから、自分が優先されるべきだと、本気で信じて疑わない人。
感謝を忘れている場面は、いろいろあります。
全部、原因は同じです。
してもらうのが当たり前、相手がいるのが当たり前、という考え方です。
でも、当たり前のことなど、何一つありません。
それは自分が楽をするために、考えることをやめているだけなのです。
その結果、悲劇は起こり、不幸が訪れるのです。
当たり前などないと知ることは、幸せを知るのと同じことなのです。
誰の価値観か その3

価値観は、服を着替えるように、変えることが可能です。
服を着替えるのは、その服が季節に合わなくなったとか、破れてしまったとか、好みが変わってしまったとか、そういう理由があるからですね。
それと同じように、これまで自分が持っていた価値観も、今の自分には不要だと思えば、新しい価値観に変えればいいのです。
価値観を変えたところで、自分という存在は、何も変わりません。
価値観を変えると、自分が自分でなくなると思うのは、間違っています。
これが自分のファッションだと言って、零下何十度という所を、両足をむき出しにした、ミニスカート姿で訪れた女の子が、両足の凍傷になったという記事を、以前に読んだことがあります。
価値観と自分を一体化させて、時代が変わっても価値観を変えないままでいると、この記事の女の子のようになるでしょう。
いずれにしても、自分で意識的に選んだ価値観であれば、変更することは、さほどむずかしくはありません。
と言うのは、その人は考えて価値観を決めているので、考え直すことで価値観を変えられるのです。
なかなか価値観を変えられないのは、知らない間にすりこまれた価値観です。

自分で本当に納得して選んだものでない価値観は、結構心の深くに、根を張っています。
その価値観でつらい思いをしているのに、その価値観を心から引き抜こうとすると、かえって心に不安を感じるのです。
それは、この価値観が引き抜かれまいとして、心にしがみついているからです。
それでも、すっぱり引き抜くことに成功すれば、その人は、それまでにない爽快感を感じることができるでしょう。
結局は、自分の気持ち一つなのです。
とにかく、自分を快適にしてくれる価値観は、維持していればいいのです。
自分を不快にさせる価値観は、他人に都合のいい、他人の価値観ですから、さっさと捨ててしまった方がいいでしょう。
自分は本当に、自分のために生きているのだろうかと、考えてみることが、価値観が誰のものであるのかを、見極めるきっかけになると思います。
誰の価値観か その2

幼い頃に、親から植えつけられた価値観は、その人が持つ価値観全体の、基盤となります。
基盤の価値観が、喜びに満ちたものであれば、基本的にその人は、喜びを求めようとするでしょう。
基盤の価値観が、つらさに満ちたものであれば、基本的にその人は、喜びをあきらめてしまうでしょう。
その基盤の上に、様々な価値観が付加されて行くわけですが、それによって、喜びを基盤としていたはずの人が、喜びが見えなくなることがあります。
また、つらさを基盤としていた人が、喜びを求めてみようと思うこともあります。
あるいは、喜びが見えなくなっていても、結局はそこから立ち直って、再び喜びに向かって、生きるようになるかもしれません。
また、つらさを捨てて喜びを見つけたつもりが、ちょっとしたきっかけで、再び喜びをあきらめてしまうことも、あると思います。
このように、基盤の価値観が修正されたり、修正されたように見えていたのに、結局は基盤の価値観どおりに動いたりと、様々です。
ただ、ここで言えるのは、価値観というものは、あとから付いて来るものであり、絶対的なものではないということです。

幼い頃に身に着いた価値観は、まるで本人と一体になったかのように、なかなか変えることができません。
と言うより、本人がその価値観を、自分自身の一部だと信じ込んでいるから、変えることができないのです。
それでも、価値観というものは修正が可能です。
また、価値観というものは、この世界を快適に生きるためにあるのです。
だからこそ、なるほどと思う考え方が、価値観になるわけです。
ただ、なるほどと思う過程が、常に論理的であるとは限りません。
特に幼い頃にすり込まれた価値観は、親や先生など、身近の信頼できる大人が支持するものだから、という理由だけで、納得しているものです。
その価値観で自分が楽しく暮らせるのであれば、それで構いません。
しかし、何等かの問題を生み出すのだとすると、価値観の修正が必要になります。
自分が不幸せだと思っている人は、その理由を自分の価値観の中に、見つけなければなりません。

たとえば、男尊女卑を当然だと信じている人は、多くの人、特に女性から非難を浴びるでしょう。
それでは楽しく過ごせません。
こういう時には、自分が男尊女卑を当然だと考える根拠を、整理するのです。
そこに論理的な根拠を見い出せないのであれば、納得の上で価値観を修正しなければなりません。
修正しなければ、問題は残り続けます。
修正ができれば、問題は解決するでしょう。

自分なんて、何もできない人間だと、考えてしまうのも、そういう判断基準、そういう価値観が原因です。
どうしてそう考えてしまうのか、自分の価値観を探るべきです。
たとえば、親にそのように扱われていたとか、学校で先生に褒められたことがないとか、いつもテストの点が悪いとか、恐らく、そんなことが理由でしょう。
でも、親がどう扱おうと、先生が褒めようが褒めまいが、自分の価値には関係ないということに、気づかねばなりません。
テストの点にしたって、学校の成績が悪いのに、会社の社長になる人もいるのです。
人が誰かを評価する時、それはその人の都合で決めた基準で、評価されます。
要するに、評価する人の勝手な基準です。
別の立場の人が評価すれば、また違う結果が出るでしょう。
いずれにしても、人の価値というものは、誰かの評価によって、左右されることはありません。
また、価値のない人は、一人も存在しません。
本当に価値がないのなら、この世界に存在していないでしょう。
価値はあるのです。
問題は、その価値を見い出せるかどうかだけなのです。
つまり、価値がないように言われた人に、問題があるのではなく、その人の価値を見い出せなかった、そちらの人に問題があるわけです。
誰の価値観か その1
人は誰しもが、何等かの価値観を持っています。
それは生まれてから、これまでの間に、自分が経験したことや、他の人の経験、あるいは自然の変化や、どうしようもない世の中の流れ、などを元にして築かれたものです。
何故、人は価値観を持つのでしょうか。
それは物事を判断する、基準を作るためです。
ある人にとって、いいものでも、別の人にとっては、悪いものであるというようなことって、ありますよね。
たとえば、勝負の勝ち負けです。

勝負でついた決着は、勝った方にはいいことですが、負けたほうには悪いことです。
もちろん、これは一般的な見方であり、勝ちはしたものの、勝ち方が納得が行かない人もいます。
また、負けはしたものの、そこから得た経験は大きいと、満足する人もいるでしょう。
とにかく、同じ物事に対して、見る人によって評価が分かれるわけで、その評価の基準となるのが、その人の持つ価値観なのです。
この価値観は、本来は自分のためになるものです。
そうでなければ意味がありません。
勝負に勝って嬉しい、負けて悔しいと思うのは、勝負は勝つ方がいいという、判断基準があるからです。
その価値観は、さらなる鍛錬へのモチベーションとなるでしょう。
しかし、勝ち続けてばかりだと、その勝負自体に面白味を、感じなくなるかもしれません。
また、負け続けてばかりでは、もう嫌気が差して、勝負をしたくなくなることもあるでしょう。
そこに、人生とは楽しむためにあるという価値観も、持っていたならば、面白くなくなった勝負はやめて、別のことに目を向けるようになるでしょう。
それは、勝ち続ける人も、負け続ける人も、同じことです。
ただ、勝ち続けたことを、誇りに思う価値観を持っていると、それが次への挑戦の、邪魔になるかもしれません。
また、負け続けたことで、自分を情けない人間だという価値観を持つと、やはり次の挑戦の足かせになるでしょう。
このように価値観というものは、プラスにもなるし、マイナスにもなります。
様々な価値観がありますが、世の中の人の多くが、知らず知らずのうちに身についた価値観に、振り回されているように見えます。
それは価値観というものが、よくわかっていないからです。

おぎゃーとこの世に生まれて来た時、私たちは何の価値観も、持ち合わせていません。
真っ白な状態です。
そこで初めに植えつけられる価値観が、その人の人生の基盤の価値観となります。
それは自分自身の経験であるわけですが、物事の判断ができない幼い頃のことです。
幼子にどのように接するか、幼子にどのような環境を与えるか、それは親が決めることですから、親の価値観がそこに表現されます。
そして、それがその子の基盤の価値観になるのです。
それは自分の価値観のようでいて、実は他人である親の価値観なのです。
虹が教えてくれること その5

虹を見ればわかるように、光には七色の光が混在しています。
しかし、プリズムなどで分散されなければ、七色の光が混ざっているとはわかりません。
全部混ざった状態の、白い光があるだけだと思います。
それと同じように、世界には様々な波長が混在していると、考えることができます。
実際、世界のある所では、戦争や飢餓などで苦しむ人がいますが、別の所では、みんなが楽しそうに暮らしています。
同じ地域の中でも、いろんな不安を抱えて生きている人もいれば、何も心配せずに暮らしている人もいるのです。
そして、この状況がこれからもずっと続くと、誰もが考えていることでしょう。
しかし、光がプリズムに当たって、七色の光に分散するように、私たちの世界も、私たちの知らない所で、プリズムのような環境に置かれることが、あるかもしれません。
そうなると、どうなると思いますか。
混在していた七色の光が、それぞれの波長ごとに、分散するのと同じように、私たちの世界も、その波長ごとに分散して行くのです。
それぞれがパラレルワールドになるわけですね。

虹をたとえにしたので、七つに分かれるようなイメージになりましたが、実際はいくつに分かれるかは、わかりません。
いくつに分かれるにしても、自分にとっては、常に世界は連続性を持った、一つの世界として認識するでしょう。
そうであれば、分離した世界のことなど、さっぱりわかりません。
ただ、もしかしたら分離したんじゃないだろうか、と考えたくなることが、あるかもしれませんね。
たとえば、誰のことも信じられず、周りはみんな敵ばかりで、力こそが生きるために必要なものだと、信じ込んでいる人が、いるとしましょう。
一方で、どんな人で合っても、必ず心は通じるものだと疑わず、誰に対しても、愛に満ちた態度で接する人が、いるとします。
この二人は水と油のような存在です。

現在は水と油が混在している状態ですが、世界が波長ごとに分離すると、水と油の人たちは、同じ時空間に存在できなくなるでしょう。
存在できるのは、それぞれの波長に合った時空間だけです。
誰も信じられない人を、Aさんとしましょう。
誰のことも信じている人を、Bさんとします。
世界が分離をしても、AさんもBさんも、そのことを認識することはできません。
でも、お互いに存在する世界は、離れて行くわけです。
これをAさんの視点で見てみますと、Bさんがいなくなってしまうわけです。
幽霊のように、スッと消えてなくなるのであれば、わかりやすいですね。
でも、そうではなく、Aさんが知っているBさんは、病気や事故で亡くなってしまうのかもしれません。
一方、Bさんの視点で見ても、同じ状況になります。
Aさんがいなくなってしまうのですが、スッと消えるのか、病気や事故で亡くなるかの、どちらかでしょう。
スッと消える場合、目の前で消えない限り、その人は行方不明になったと、見られるはずです。
もちろん、どこを探しても見つかりません。
病気や事故で亡くなる場合、その人はこちらの世界から、いなくなるわけですが、もう一方の世界では存在していることになります。
Aさんの世界で、Bさんが亡くなっていなくなったとします。
でも、Bさんの世界では、Bさんは生きています。
亡くなるのは、Aさんの方なのです。
こうなると、どっちが本物のAさん、あるいはBさんなのかと、なるでしょう。
スッと消える方が、わかりやすいはずです。
もし波長の合わない人が、亡くなる形でいなくなるとした場合、問題はその人の自我は、どうなっているのかということでしょう。
私たちは、自分というものを、唯一の存在として認識しています。
しかし、その概念が間違っているのかもしれません。

自分とは何なのか。
潜在意識や無意識という言葉があるように、私たちの意識は、表面的には認識しづらい要素を、秘めています。
その要素こそが、自分というものの核であるわけですが、そこの部分については、一般的には理解も認識もされていないと、言えるでしょう。
でも、本当の自分を認識できたなら、先に述べたような、分離した世界の矛盾も、理解できるかもしれません。
もし世界が分離したら、どうなるのか。
そんなの、あるわけないだろ、と決めつけないで、面白いから考えてみて下さい。
それは自分を探求することでも、あるわけですから。