憧れ
子供の頃に憧れたものって、ありませんか。
私はウルトラマンに憧れました。
私が子供の頃のウルトラマンは、初代のウルトラマンでした。
科学特捜隊のハヤタ隊員が、何やら握った手を空へ向けると、巨大な銀色の宇宙人に変身するんですね。
今でこそウルトラマンはシリーズになって、少しも珍しくありませんが、当時は人間が巨大ヒーローに変身するなど、誰も考えつかなかったことでした。
子供はみんな、ウルトラマンに夢中でしたし、私もそうでした。
変身するときのアイテムの代わりに、ボールペンでも万年筆でも、何でも少し長い物があると、それを掲げて、ウルトラマンに変身するのです。
もちろん、変身するのは心の中の話です。
近くに人がいようとお構いなしで、すっかり自分の世界に、入り込んでしまうのですね。
毎日飽きずに、ウルトラマンごっこをして遊びました。
ちなみに、変身する時に手に持つアイテムは、調べてみると、ベーターカプセルというらしいです。
子供の頃は知っていたかもしれませんが、全然覚えていませんでした。
さて、憧れの話に戻りますが、憧れというものは、子供だけでなく、大人でも持っています。
ただ、子供の頃と違って、大人の憧れとは、大概の場合が、胸の中でひっそり抱くばかりです。
子供にとっての憧れというのは、自分と一体になるべきものです。
ですから、憧れたものがなんであれ、その憧れになったつもりで、いろんなことを真似するのです。
ところが、大人が抱く憧れは、陰からじっと見守っているという、イメージが強いですね。
下手に触れない、近づかない。
それが憧れの条件のようです。
好きというのと、憧れているというのは、どうもニュアンスが違うようです。
たとえば、好きというのであれば、好きなアイドルのコンサートには、躊躇することなく行くでしょう。
でも、憧れの場合は、行こうかどうか散々迷い、意を決して行くと、胸がどきどきして、失神しそうになるのではないでしょうか。
それだけ憧れとは、強い想いなのだと思います。
ですから、もし本物のウルトラマンが目の前に現れたら、ウルトラマンに憧れている子供は、みんな興奮で固まってしまうでしょうね。
それは喜びの極致であり、もっと憧れに近づきたいと、思うようになるでしょう。
大人も同じことで、憧れている人を、身近に感じることができれば、ただ見守っているだけの状態から、自分も同じことをしてみようという、気持ちになれると思います。
では、憧れの人に近づけなかった人は、どうでしょうか。
やはり自分の気持ちに正直になって、行動を起こすのがいいでしょう。
じっと見守っているだけというのは、はっきり言って損ですね。
せっかく心が、こうすれば楽しいよと、察知しているのに、何もしないのは、もったいない話です。
スポーツ選手に憧れるのであれば、別に同じスポーツでなくても構いませんから、身近なスポーツを楽しんでみればいいでしょう。
歌手に憧れたのであれば、自分も歌を練習したり、パソコンを使って作曲をすることもできるでしょう。
何か楽器を自分の手で演奏できれば、気分はミュージシャンですね。
別にプロになって、お金を稼ぐ必要はありませんし、多くのファンを集めることも、いりません。
自分が楽しめれば、それでいいのです。
一緒に楽しんでくれる人が、身近にいてくれれば、何も言うことはないでしょう。
自分が何に惹かれているのかを、よくよく考えてみると、憧れの人がやっていることでは、ないのかもしれません。
もしかしたら、その人自身の人格や生き様に、憧れているということもあるわけです。
その場合、その人と同じことをしなくても、仕事や生活の様々な場面で、その人の生き方を見習った行動を、するようにすればいいのです。
どんなに誰かに憧れたところで、その人になれるはずがありません。
憧れるというのは、そういうことではなく、その人が示してくれている何かを、自分の人生にも取り込みたいという想いなのです。
だから、その人と同じように、できる必要はありません。
また、同じでないからこそいいのです。
自分は自分ということを、しっかり押さえながら、憧れの人が見せてくれる素敵なものを、自分の人生の一部にすればいいのですね。
子供のように、何もむずかしいことは考えず、心が惹かれるまま楽しく生きれば、これが本当の人生なのかと、感動することでしょう。
ありがとう

ありがとう。
私はこの言葉が大好きです。
日本人が当たり前に使う言葉ですから、この言葉に込められた気持ちが、言葉と一緒に伝わって来るのですね。
ありがとうは、漢字で書くと、「有難う」となります。
つまり、語源は「有り難き」にあるわけです。
時代劇などで、武士がかしこまって、「有り難き仕合わせ」と言う場面を、観たことがありませんか。
あの「有り難き」ですね。
「有り難き」は「有ることが難しい」という意味ですから、当たり前のことではない、ということになります。
つまり、相手がしてくれたことを、当たり前とは思っていませんよ、という意味が、「ありがとう」という感謝の言葉になったわけです。
最近、誰かに何かをしてもらっても、何の反応も見せない人が、多いように思います。
まさに、有り難きこととは感じていないのでしょうね。
やってもらって当然という気持ちなのでしょう。
これでは人間関係が悪くなりますし、自分自身がつまらない人生を送ることになると思います。
本当は大切な人なのに、その人が永遠にいてくれるなんて、勝手に信じていると、ある日突然、その人がいなくなる。
その時に初めて、その人の大切さを知るということは、ドラマでも現実でも見られることです。
でも、失って初めて知るなんて、馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。
初めから、有り難きことと思っていれば、お互いに一緒にいられる間に、楽しい思い出をたくさん作ることが、できるのです。
みなさんも「ありがとう」という言葉の意味を、今一度噛みしめてみて下さい。
当たり前に使っている言葉に、深い意味があったのだと知れば、同じ言葉を使う時に、人生の豊かさを感じることは、間違いありません。

ちなみに、英語では感謝を伝える時に、Thank you と言いますね。
この thank という言葉は、「思う」という think から来ているそうです。
つまり、Thank you というのは、「あなたを思っています」という意味になるわけです。
あなたがしてくれたこと、あなたの気持ちを、私は忘れませんよ、という意味なのですね。
これもまた、いい言葉じゃないですか。
thank you は日本語英語として定着し、日本人も軽い気持ちで、「サンキュー」と言いますよね。
その時に、「あなたのことを思ってるよ」という思いを込めて、「サンキュー」と言ってみて下さい。
その瞬間に、あなたと相手の方との周りには、とても温かいものが広がるでしょう。
卵の殻 その4
人類は一つということは、以前にも言われて来たことです。
でも、これは言葉や理屈でしか、理解されませんでした。
それでは本当の理解とは言えません。
本当の理解とは、感覚的なものでなければならないのです。
たとえば、本当に仲のよい家族や仲間たちの関係を、言葉や理屈だけで説明できるでしょうか。
血がつながっているからとか、同じ経験を積んでいるからとか、互いに優しいからとか、いくら言葉を並べてみたところで、本当の説明にはならないでしょう。
本当に仲がよい人たちは、心がつながっているのです。
一体感を感じているのです。
そこに権利、義務などの言葉は、必要ありません。

これも、言葉でこんな風に述べたところで、一体感というものを知らない人には、通じないでしょう。
つまり、理解してもらえないのです。
これと同じで、人類は一つだと言ったところで、一体感を知らない人には、理解ができません。
でも、何等かの形で一体感を経験できると、その一体感の範囲を広げることで、人類は一つなのだと、感覚的に理解できるようになります。
そして今、そのように感じる人たちが、急速に増えて来ているように思います。
もちろん、さっぱり感じられない人の方が、まだまだ多いとは思います。
それでも、人々の間に一体感の経験が、波紋のように広がっていますから、理解できる人はどんどん増えるでしょう。
これまでこの感覚は、一部の者だけが理解するだけで、理屈が中心の人類全体には、なかったものです。
人類の大半は見えない殻に、閉じ込められていたのです。
だからこそ、この感覚が全体に広がると、知性体としての人類は、殻を打ち破って大進化を起こすでしょう。

何を考えるにも、人類は一つという理解を、その根本に持つようになります。
また、人類が一つであるならば、全ての存在も一つという、理解に到達するでしょう。
本当の理解は感覚を伴うものですから、理屈だけの世界観から、感覚的な世界観を持つようになります。
それは人類の感覚が、現在の五感から、さらにグレードアップされるということです。
言葉で地球に優しい、環境に優しいと言うのではなく、自分は地球の一部であり、自然の一部なのだと、感じるようになるのです。
今、世の中は多くの大変な事が、次から次に起きています。
それは、人類の進化すべき方向が、明らかになって来ているので、逆の方向もまた、露わになって来たということなのです。
右があれば左があるのと同じです。
人類は今、大進化を始めようとしているのです。
そして、人類のエネルギーに新たなエネルギーを加えているのは、現在の人類よりも、はるかに進歩している知性でしょう。
それは異星人かもしれませんし、高次元世界の存在かもしれません。

いずれにしても、世界に存在している知性体は、人類だけではなく、もっともっと優れた知性体が存在しているのは、間違いないでしょう。
何故、そんな知性体が、人類の大進化に力を貸そうとするのでしょうか。
その答えは簡単です。
それは、彼らが全ては一つだと、理解しているからに、ほかなりません。
卵の殻 その3

人間は心の存在です。
人間の本質は意識であり、その実体は精神エネルギーなのです。
進化というと、どうしても姿形の変化を、思い浮かべるでしょう。
でも姿形とは、本質のエネルギーが、視覚的に表現されたものです。
それは本質のエネルギーの状態の、視覚的な結果と見ることができるでしょう。
本当の進化とは、本質のエネルギー状態の変化を言うのです。
エネルギー全体は変化を見せず、その中の状態だけが変化する場合、視覚的には小さな進化に見えるでしょう。
たとえば、動物や植物を掛け合わせることで、新しい種類を作りだすようなものです。
でも、どんなに新しい種類を作ったところで、犬は犬ですし、桜は桜なのです。
犬が猫になることはありませんし、桜がヒマワリになることもありません。

これに対して、あるエネルギーに別のエネルギーが混じることによって、エネルギー全体が変化する場合があります。
これは見た目にも大きな進化となるでしょう。
それまで存在しなかった、全く新しい生き物が登場することになるのです。
恐らく、地球上で見られる大進化は、このような仕組みで起こっているのだと思います。
さて、人間に目を向けてみますと、歴史は繰り返すと言われるように、これまで人類は同じようなことばかりを、繰り返して来ました。
殺人や戦争を批判しておきながら、自らが同じことをやってしまい、それを正当化することに躍起になっています。
それは世界の現状を見ても、明らかでしょう。
世の中を歴史と照らし合わせて見ている人は、どうせまた、同じようなことになり、真の平和など訪れるわけがないと、考えたくなります。
力で世界をまとめる、いや、話し合いで解決しよう、やっぱり力尽くでないとだめだ、だけど外交努力をやるべきだなどと、世の中はいつも堂々巡りです。
その根底にあるのは、自分と他の存在は、別々のものだという考え方です。
別の存在同士が、心を一つにすることなど、有り得ません。
ですから、そこには必ず法やルールがあり、契約や権利、義務、罰などの発想が生まれるのです。
誰かが上になって、他の者たちを指導、あるいは支配しない限り、世界がまとまるはずがないと、考えるわけです。
その考えが卵の殻となり、人々から本当の自由を、奪い取ってしまいます。
このような、自他を分離させる考えが変わらない以上、人類全体のエネルギーは何も変わらないまま、同じパターンを繰り返すフラクタル状態です。

しかし、無意識と呼ばれる心の領域の、ずっと奥深くから新たな理解が、もたらされつつあるようです。
それは、人類は一つの存在だということです。
卵の殻 その2

人間社会で誰も疑うことがなかった、常識や価値観は、目に見えない卵の殻なのです。
これらの固定的な考え方は、人間を一つの枠に閉じ込めてしまいます。
その枠の外のことを、考えることを許しませんし、枠にはまらない者を、社会に適合できない人間だとみなします。
それは、この枠を創った者たちにとって、不都合なことだからです。
多くの人々は、枠によって洗脳されています。
映画「マトリックス」に出て来た、架空の世界に生きる人々のようなものです。
安定した暮らしが、保証されていると信じ込まされ、支配者の望み通りに動く人間に、仕立て上げられているのです。
人々を支配するのに、宗教が利用されることがあります。
多くの人は、神の名の下に事件を起こす者たちを見て、洗脳されていると思うでしょう。
実は自分たちも、宗教とは別の信念に、洗脳されているのです。
でも、洗脳されている者は、そのことに気がつきません。
それでも中には、洗脳が効かない人たちがいて、卵の殻を打ち破ろうと藻掻きます。
だけど、この人たちも自分が卵の殻に閉じ込められいると、しっかり認識できているわけではありません。
とにかく、窮屈さから逃れようとして、藻掻くのです。

結局、藻掻くばかりで、殻を破ることができず、心身を病んだり、死んでしまったりする人がいます。
しかし、一方で偶然に殻を打ち破ることに成功し、清々しい新しい世界を、発見する人もいるのです。
そして、今や新しい世界を発見する人が、増えて来ています。
そういう人たちの存在は、見えなかった卵の殻が、他の人々にも見えるようにしてくれます。
自分が殻の中に閉じ込められているのだと、気がつくことさえできれば、その人は殻の外へ出ることを目指すでしょう。
未だに殻の中にいながらも、そこから出ようと四苦八苦している人が、大勢いるように感じます。

魚の卵から、幼魚が孵化する場面を、テレビなどで観たことがありませんか。
初めは数匹が、ちょろちょろと孵化し始めるのですが、やがて全体が次から次へと、一斉に孵化を始めるのです。
人間も今、そんな状況にあるように思います。
自分が何をすればいいのかわからない、自分が社会の何の役に立つのかわからない。
そんな風に思う人は、少なくないでしょう。
でも、何も特別に考える必要はありません。
自分が好きなように、自分が思ったとおりに、生きればいいのです。

誰かのためにと思わなくても、見てくれている人は、必ずいます。
そして、自由に生きる生き方が、そういう人たちに刺激を与え、その人たちが卵の殻を破るための、大きな力となるのです。
具体的に何をするのかが、重要なのではありません。
自由に生きるということこそが、重要なのです。
卵の殻の外の世界が、どんな世界なのかは、もう想像がついたと思います。
そう、それは自由で多様性に満ちた、喜びの世界なのです。

卵の殻 その1

卵と言えば、大体想像するのは、ニワトリの卵でしょうね。
でも、ニワトリ以外にも、卵から孵って生まれる生き物は、たくさんいます。
鳥類、爬虫類、両生類、魚類。
みんな卵から産まれますよね。
卵から産まれる時、卵の中で成長した子供は、卵の殻を破って、外へ出て来ます。

もし卵の殻が破れなければ、どうなるでしょうか。
誰でもわかると思いますが、子供は卵の中で死んでしまいます。
死ぬまでの間も、窮屈な卵の中で、苦しい思いをするでしょう。
何故、卵の話をするかと言いますと、卵の中にいて、外に出られない子供の様子が、今の人間の状態に似ているからです。
卵の中で育つ子供は、初めのうちは窮屈な思いもせず、何の苦労もすることなく、ぬくぬくと生きています。
しかし、成長するにつれて、次第に窮屈になって来るし、さらに成長するためには、養分が足らなくなります。
生きるためには、殻を破って外に出て、今度は自分で餌を見つけて、口からその餌を食べなくてはなりません。
卵の中の生き方とは、全然違う生き方が、必要となるのです。

人間はこれまで経済中心の暮らしをして来ました。
誰もそのことを疑問に思わず、その暮らしを当然のものと受け止めていました。
中には、暮らして行けなくなる人もいますが、大方の人々は、それなりに生きて来たわけです。
しかし、近年になると、経済中心の暮らしにほころびが見え始め、今はそれが様々な問題や事件の、共通した原因であることが、浮き彫りにされています。
それによって、これまでの暮らし方、今までのような生き方でいいのかと、疑問を持つ人が増えて来ています。
これまでも、そういう人たちはいましたが、大多数の人たちが経済中心的な考え方をしているので、自分の方がおかしいのだろうかと、悩んでいたでしょう。
今でも、何だか世の中の雰囲気に、自分は合わないと悩みながらも、世の中が正しくて、自分の方が変なのだと、理解してしまう人もいると思います。
でも、そうではなく、今の雰囲気に違和感を覚える人や、もっと違う生き方を求める人たちは、卵の殻を破って、新たな世界へ生まれ出る時期が、来ているのです。
そして、それは人類の進化の前兆でもあるのです。
結婚とは その2
人生において、結婚は重視される傾向にあります。
確かに、結婚によって人生が豊かになることや、多くを学べることはあります。
しかし、必ずしもそうではありません。
結婚は人生の終着駅だとか、結婚は地獄だとか、半分冗談半分本気で言う人もいます。
結婚が自分がイメージしたものとは違うとか、結婚によって自由がなくなったなどと、考える人にとっては、結婚なんてするんじゃなかった、ということになるでしょう。

では、何故結婚したのでしょうか。
それは、結婚とはいいものだという話を、耳にしたからかもしれません。
大抵の場合、結婚はいいよと聞かされると、結婚相手が自分に尽くしてくれると、受け止めてしまうのでしょう。
あるいは、結婚をしていないと、社会的に一人前には見なされないと、考えている場合もあると思います。
この場合は、したくてした結婚というより、仕方なく受け入れた結婚、という感じでしょう。
また、結婚するつもりはなかったけれど、相手との間に子供ができてしまったから、というのも少なくないように思えます。
こういう結婚からも、何かを学び取ることはできますから、これが無駄なことだと思う必要はありません。
しかし、こういう形の結婚で学ぶことを、すでに理解している人は、似たような結婚をしなくてもいいのです。
もっと言えば、一生独身のままでも構わないのです。

多くの人が、人生は一回こっきりだ信じているでしょう。
その考えがあるので、たった一回の人生で、結婚できなかったり、結婚に失敗したら、人生は絶望だと受け止めてしまうのです。
でも、人生は一回こっきりだと、言い切るだけの根拠を、持っている人はいないでしょう。
何となく、そう思い込んでいるだけのはずです。
面倒臭がらずに、世の中のいろんな部分に目を向ければ、この世界が全てではないと、思えるようになるでしょう。
そう思えるようになれば、結婚に対する考え方も、違うものになると思います。
結婚はしてもいいし、しなくてもいいのです。
大切なのは、今の人生で何を学ぶのか、何を体験するのか、ということです。
結婚とは その1
結婚とは何でしょうか。
それは愛し合った者同士が、一つになることです。
同じ家に暮らす場合もあれば、離ればなれで暮らすこともあるでしょう。
でも、二人の心が一つになっていれば、場所は関係ありません。

逆に言えば、心が一つになっていないのに、婚姻届を出したとか、一緒に暮らしているとか、というのは、真の結婚とは言えません。
これは人間社会の慣習の中で、都合によって作られたルールであり、理屈に過ぎません。
人を心の存在としてとらえた時、結婚というものは、互いの心が惹かれ合って、一つになることを意味します。
そこに性別は関係ありません。
一般に認められている、異性同士の結婚は、子孫を残すという、自然界の生き物の特徴を、受け継いだものです。
ですから、子供が産まれるか否か、どんな子供が産まれるか、ということが重視される傾向にあるのです。
さらに、そこには結婚相手や生まれる子供が、自分の物であるという、所有欲もからんでいます。
これが結婚というものを、どろどろした印象にしてしまうのです。
せっかく一緒になったはずが、すぐに別れたり、不倫をしたり、大喧嘩の末に相手を殺してしまったりとなるのは、こういうことが原因です。

人は誰の所有物でもありません。
結婚によって相手を所有できる、という考えは間違っています。
結婚が、相手を束縛するものになってもいけません。
結婚とは自由な意思に基づいて、互いに惹かれ合って一つになる、自然なものです。
もし、他に惹かれるものがあり、相手がそちらへ向かうとしても、それもまた自然なことです。
それで、自分は捨てられたとか、この裏切り者などということには、なりません。
自然な気持ちで一緒になったのであれば、自然な気持ちで離れることになったとしても、そこには何のわだかまりもありません。
これでは浮気がしほうだいじゃないかと、怒る人もいるかもしれませんね。
でも、自然な動きで一緒になる場合、そこに浮気というものは存在しません。
浮気は本気ではないということですから、自然ではありません。
自然な動きの中に、浮気は存在し得ないのです。
相手に浮気をされるような結婚は、その結婚自体が、不自然な状態にあると言えるでしょう。
どこか無理をして、一緒になったのだと思われます。

自分の願望や所有欲が、その不自然さの原因かもしれません。
また、自分の非を認めたくないという思いも、不自然さを増強します。
その結果、相手はそこから離れようとするわけです。
惹かれるものがあるから、そこへ向かうという場合もあるでしょう。
でも、とりあえず今の所から、離れたいという気持ちのこともあると思います。
どちらにしても、それは自然な動きと言えます。
二人が自然な気持ちで惹かれ合い、一つになったのだとすれば、特別なことがない限り、二人が離れることはありません。
離れるとすれば、互いの関係の中で学ぶことがなくなり、新たな学びを求めるようになった時でしょう。
しかし、それは一緒にいた相手を、否定することではありません。
相手に飽きたということでも、ありません。
離れたとしても、二人の気持ちはつながったままです。
二人で共に過ごした期間は、二人にとって宝物でしょう。

呼吸をする理由

呼吸をするのは、どうしてだと思いますか。
酸素を体内に取り込み、二酸化炭素などのいらないものを、外へ吐き出すためですよね。
こんなことは小学生でも、理解しているでしょう。
でも、その理解は単なる知識としてであり、本当の意味で理解しているとは限りません。
それは大人にとっても、同じことが言えます。
呼吸ができないと、死んでしまいます。
必要なものが取り込めませんし、不要なものを排出できないからです。

生きるためには、必要なものを取り込み、いらないものを捨てる。
これは体のことだけでなく、私たちの生活や、心の有り様にも、言えることです。
何故なら、心も体も全てはエネルギーでできているからです。
体に言えることは、心にも言えるのです。
体はその構成要素であるタンパク質や糖分、脂肪などを、飲食によって取り込みます。
酸素はそれらの養分を、利用する際に使います。
私たちの心はどうでしょうか。
あなたが何かを考えられるのは、まず知識が心の中に、取り込まれているからです。

知識の多くは、自らの経験によって、もたらされますが、本や他人の経験などからも、手に入れることができます。
しかし、知識だけではどうにもなりません。
それらの知識を組み合わせ、自分がどういう行動を取るのか、判断をしないといけません。
それが価値観です。
同じ知識を持っていても、その知識の活用の仕方が異なると、それは行動の違いとなって現れます。
たとえば、食べ物を買う時に、食品添加物が多い物と、添加物が入っていない物があったとします。
値段はそれなりで、添加物が多い方は安いですし、無添加の方は高いです。
ここに、食品添加物が体に悪いという知識を、持っている人が二人います。
一人は健康より、経済的なことを重視しています。
もう一人は、経済的なことよりも、健康を重視しています。
どちらが正しいとは言えませんが、二人は価値観の違いにより、それぞれ別の食べ物を選ぶわけです。

この二人が、生活状況や体調などの変化により、別の価値観を持つことは考えられます。
その場合、これまでの価値観は現状に合わなくなったとして、捨てられます。
そして、代わりに新しい価値観を取り込むのです。
どうですか、呼吸に似ていると思いませんか。
体に栄養が足らないと、栄養失調になりますが、心も知識が足らないと、貧弱になります。
ですから、知識はとても大切ですが、せっかく取り込んだ知識も、上手く活用できなければ、宝の持ち腐れですし、知識がないの同じになります。
食べているはずなのに、不健康そうに見えるのと同じですね。
新鮮な空気を胸一杯吸い込むように、力が漲るような価値観を、取り込みましょう。
そして、いらなくなった古い価値観は、手放して心を軽くするのです。
価値観を整理すると、いかに自分が様々な価値観に、縛られていたのかがわかると思います。
価値観に縛られるのではなく、自分が価値観を利用しているのだ、という認識を持ちましょう。

キリンの首 その3
生物の進化が、異星人の遺伝子操作によるものだという考えは、異星人の存在を認めるか否かで、受け入れやすさが違うでしょう。
異星人が存在し、地球にも訪れている、と考える人にとっては、異星人の遺伝子操作は、有り得る話となります。
でも、異星人が存在しない、あるいは存在するだろうけど、地球へ来ることはできない、と考える人には、異星人の遺伝子操作など、有り得ない話です。
このように、異星人による遺伝子操作は、賛否の分かれるところでしょう。
ところで、私が考える、もう一つの説明は、恐らくほとんどの人が、否定的に見ると思います。
でも、その可能性を否定はできないでしょうから、私は有り得ることだと考えています。
それはどのようなものかと言いますと、異星人というよりも、高次元の知性体で、精神エネルギーあるいは生命エネルギーと呼ぶべきものを、自在に操作できる存在が、行ったことだということです。

これらの存在は、私たちのような物質的肉体を、持ち合わせた存在ではありません。
幽霊以上に、はっきりしない存在です。
またこれは、キリスト教などで言われる、世界の創造主という存在のようなものを、想定するものです。
ただし、宗教でいう創造主とは違います。
私が言う創造主とは、全ての存在が一つになった、大元の存在ではなく、あくまでその一部に過ぎません。
私たちが想像し得る異星人を、エネルギー的にバージョンアップしたような存在です。
人間は、今の世界が唯一絶対の時空間だと、信じています。
ですから、この世界を創造したとなると、全ての創造主と考えたくなるのでしょう。
でも、この世界は無数に存在する世界の、一つに過ぎないとすれば、創造主のイメージが、少し変わって来ると思います。

私たちは料理をするにも、何かを作るにも、必ず物質を用います。
何もない空間からは、何も生み出すことができません。
しかし、全てが同じエネルギーから出来ているのだとすれば、そのエネルギーを意図的に変化させることで、ないはずのものを創り出すことも、可能だと思います。
それは私たちから見れば、魔法の世界であり、ファンタジーの世界です。
新たな種を産み出すのに、研究室も実験器具も必要としません。
イメージするだけで、自動的にそのような存在が、世界に登場するのです。

遺伝子の組み合わせを考慮する必要もなく、必要な遺伝子は結果として、作られるわけです。
それは、チャンスがあれば、この物質世界へ出て来ようとしている、様々な生命エネルギーに、チャンスを与えるというものと、考えることができます。
キリンの祖先の体を利用して、新たに生まれ出たキリンという生き物は、元の動物が進化したというよりも、全く別の動物と見た方が、いいのかもしれません。
そんなの有り得ないと思う人が、大多数だとは思います。
しかし、有り得ないと考える根拠を、示すことができるでしょうか。
この世界が、みんなが信じているような、固定的で確固たるものではなく、夢と同じだったとすれば、どうでしょう。
あなたが、あなたの夢の創造主であるのと、理屈は全く同じです。

この世界は、ある高度な知性体が創り出した、一種のイメージで、私たちはそのイメージを、利用させてもらうことで、今のような体験ができるのだと、考えてみて下さい。
信じられないかもしれませんが、有り得ないことではないでしょう。
生命の進化を理解するためには、世界そのものを理解する必要があると、私は思います。