分離思考 その1
私たちは、自分と他のものを区別する、習慣があります。
その基本となっているのは、自分という概念です。
私たちは、自分の体とそうでないものは、明らかに別のものだと、認識しやすい状況にあります。
それに拍車をかけるのが、何でも細かく分けて分類したがる、学者たちの権威です。
私たちは、ちょっと難しいと思われることに対しては、すぐに専門家と呼ばれる人たちに、全てを任せてしまいます。
自分で感じ、自分で考え、自分で理解するということを、やらないのです。
だけど、よく考えてみて下さい。
私たちは、地球や地球で見られる、様々な存在とは、別個に生まれたわけではありません。
人類の誕生には、地球の誕生や歴史、他の存在たちの誕生や歴史が、大きく関わっています。
決して、切り離して考えることはできません。
地球が誕生し、今の状態に成長する過程で、私たちも他の存在たちも、地球から生まれ出たのです。
それなのに、自分たちは人間で、他の存在とは違うと考えたり、自分たちと地球を別個に見てしまうのです。
自らを、全体から分離してしまうのですね。
それは、体の一部である、目玉や口、手足や内臓たちが、自分勝手に活動しようとするのと、同じことです。
実際、そのような振る舞いを見せる細胞がありますよね。
癌細胞です。
様々な細胞たちは、見かけや働きが違っていても、体という全体を維持するために、存在しています。
しかし、それとは違い、癌細胞は全体から分離し、浮いた状態になっています。
自らの役割を見出せないまま、他の細胞たちの所へ行って、そこの状態を無茶苦茶にします。
中にはホルモン物質を出して、遠く離れている細胞にも、悪影響を及ぼすものもいます。
これはまさに、今の地球における、人間の姿ではないでしょうか。
本来、人間には地球上における、何等かの役割があったはずです。
それが今では、地球は人間のためにあると考え、好き勝手にやりたい放題です。
その結果、地球温暖化の問題が出て来たり、多くの生物の絶滅という状況が、生まれているのです。
どんな生き物にも、あるいはどんな存在にも、それなりの役割があるはずです。
それは体の様々な細胞が、役割を持っているのと同じことです。
癌細胞が増殖を続けると、最後にどうなるのかは、誰でもわかると思います。
その人は死んでしまいます。
でも、癌細胞を駆除、あるいは正常化できる方法があれば、その人は助かります。
地球は人間よりも、遥かに大きく力のある存在です。
人間が口先だけの、地球に優しい環境作りをしなくても、地球は自らを浄化する力があります。
ただ、その浄化というものが、癌細胞である人間に取っては、一大事なので、今頃慌てているわけです。
そんな状況においても、本気で地球のことを考える人は、それほど多くないでしょう。
ほとんどの企業は、利益を上げることにばかり、着目しています。
地球に優しいと言えば、お客が増えると考えている企業も、多いでしょう。
でも、そろそろ本気で考え、経済中心の思考から外れて、生命としての立場から、物事を理解するべきだと思います。
本当は国の教育で、地球と人間は一つなのだと、教えてくれればいいのですが、それは現状ではむずかしいことです。
では、どうすればいいのかと言いますと、個人レベルで考えるしかありません。
それは、コロナ騒ぎを見ていても、明らかでしょう。
結局は、政府や企業などを当てにしていても、本当の解決には至らないのです。
自分たちで考えて、行動するしかありません。
人間として生きるということ、つまり人生全体を、これまでとは違った視点で考えるのです。
癌になった人が助かるためには、全ての癌細胞を駆除するか、あるいは正常化するしかありません。
地球が自らを浄化するのも、それと同じことだと思います。
人間であることの意味を理解する者は、地球の浄化を生き延びることができるでしょう。
しかし、理解できない者は、死に絶えるような気がします。
不確かな記憶

朝目覚めた時、私たちは自分が、昨日と同じ世界にいると受け止めています。
それは目覚めた部屋の様子や、昨日までの記憶、それを裏づけるような新聞やニュースなどの情報と、記憶を共有できる人々。
そういうものが、自分が昨日と同じ世界にいるのだと、確信させてくれるからです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
夢の中には、夢の世界だけの記憶というものがあります。
その世界の自分は、この現実世界とは別人になっていて、こことは違う記憶を持っているのです。
その夢に現れた場面の記憶ではなく、夢には出ていないことが、夢の中の記憶として、認識されるのです。

テーブルの上に、料理が載せられている場面を、夢で見たとしましょう。
その場面を見ているだけで、 その料理を誰がどのようにして、作ったのかということがわかるのです。
その料理が作られるところの、記憶があるわけですね。
でも、料理が作られる場面は、夢には出て来ません。
ですから、夢の中だけの記憶なのです。
そんな記憶は妄想みたいなもので、頭が勝手に作り上げたものだ、と言いたい人もいると思います。
でも、夢の記憶が正しいかどうか、ということは問題ではありません。
その時の自分は、それを自分の記憶として、認識しているということが、重要なのです。
その記憶を認識している時には、こちらの世界の記憶はありません。
この現実世界の存在すら、頭にはないのです。
私たちは今認識している時空間を、現実の世界だと理解しています。
その根拠として、記憶は重要な地位を占めています。
しかし、一晩寝て目が覚めた時に、実は昨日までとは違う世界を、体験しているのかもしれないのです。
新たな世界には、新たな記憶が用意されていたとするならば、昨日いた世界の存在すら、わからなくなっているでしょう。
本当は今日から新しい世界を体験しているのに、昨日も一昨日も一昨昨日も、ずっと新しい世界にいたと、信じてしまうからです。
絶対にそうだと、言い切ることはできません。
でも、絶対に違うと、言い切ることもできないはずです。
結局、確かなのは、今この瞬間だけと言えるでしょう。

記憶が実は不確かなものだとしても、それを活用することはできます。
自分が保持している記憶を利用することで、今この瞬間をどのように生きるかを、判断できるでしょう。
ただ、同じ記憶から、どのような意味を見出せるかで、判断の結果が違って来ます。
人は記憶を頼りに、過去はどうだったかとか、事実はどうなのか、ということを重視しがちです。
しかし、そんなことよりも、今をどう生きるのか、ということの方が、遥かに大切だと思います。
そのためには、記憶されている過去の経験から、何を学ぶのか、過去の経験を、どのような視点で見るのか、ということが重要になって来ます。
何も学ぶことなく、過去に振り回されて、苦しい思いばかりをするのは、馬鹿馬鹿しいことです。
過去を単なる事実として見るのではなく、今を豊かに生きるための、材料だと見れば、苦しい気持ちは楽になって来るでしょう。
そして、今という瞬間を、活き活きと生きられるようになった時、記憶を振り返ってみて下さい。
以前には、恵まれていないと思っていた過去が、実は恵まれていたのだと、思えるようになっているはずです。
それは、今を変えることで、過去もまた変わったということなのです。

不確かな記憶に囚われないで、いろんなことを深く見るように努めましょう。
大切なのは今なのです。
今が変わるということは、それまでとは別の世界の、体験が始まったということです。
そこには新たな記憶が備わっています。
前の世界と同じような経験の記憶に思えても、その経験を恵まれていなかったと見るのか、恵まれていたととらえるのかで、全く別の記憶になっています。
覚醒している間に、新たな世界を体験し始めた場合、新しい記憶と共に、古い記憶も保持しています。
しかし、新しい記憶の方がメインになると、古い記憶はいつの間にか、どこかに隠れてしまうでしょう。
過去に苦しんでいる人は、ぜひ今を変えてみて下さい。
それは言い換えれば、価値観を変えるということです。
人生というものを、表面的にとらえるのではなく、深く見て下さい。
きっと、苦しみから抜け出せると思います。
不屈の池江選手
女子水泳の池江璃花子選手のことは、みなさんご存知でしょう。
これまで個人競技で11種の日本記録を持ち、国際大会でも多くのメダルを獲得している、日本女子水泳界最強の選手です。
東京オリンピックでの活躍が期待され、また本人もそれが夢だったでしょう。
しかし、2019年に白血病を発症し、治療に専念するため、全ての競技を中止。
夢の東京オリンピックも、断念せざるを得ませんでした。
どれほどの無念だったか、推察することはできても、実際のところは、本人でなければわかりません。
とにかく表現できないほど、つらく悲しいことだったに違いありません。
また、白血病の治療自体も簡単なものではなく、つらい日々が続いたはずです。
そんな中、池江選手は不死鳥のように蘇り、再び水泳界に戻って来るや否や、日本選手権で4冠を達成しました。
万全の体調ではなかったでしょうが、今の自分にできる精一杯の力を振り絞り、獲得した4冠です。
1年延期になった東京オリンピックですが、新型コロナの影響で、今年も開催が危ぶまれています。
国民の半数は、今の状態でオリンピックを開催することを懸念しています。
しかし、池江選手の姿を見ていると、彼女のためにオリンピックを開催してあげたい、と考える人は少なくないでしょう。
それだけ、彼女のどん底からの復活は、人々に大きな感銘を与えたのです。
実際にオリンピックがどうなるのかは、現時点では誰にもわかりません。
でも、オリンピックに出られるかどうかではなく、池江選手の生き様そのものが、何より意味のある、素晴らしい贈り物だと思います。
彼女は自らの苦しみを通じて、世界中の人々にエールを送ってくれたのです。
自分は特別ではない、みんな同じなのだと、人生を通して伝えてくれているのです。
病気に限らず、人生のどん底にいると感じている人は、数多くいることでしょう。
しかし、決してあきらめることなく、強い意志を抱いていれば、必ず上に昇って行くことが、できるのです。
努力は必ず報われるという言葉を、競技での勝利や、記録と結びつけて考える人は、少なくありません。
でも、どん底からはい上がるというのは、そういう意味ではないのです。
競技での勝利や、記録を出すことは、一つの結果に過ぎません。
どんなに世界一の記録を出したところで、本人が生きる喜びを実感できていなければ、仕方がないのです。
競技に出るたびに優勝し、毎回記録を更新できたとしたら、本人はそれが当たり前だと思い、そこに喜びを感じられなくなるでしょう。
当然のことができなければ、どうしようと、強いストレスを抱えるに違いありません。
そうなると、何のためにやっているのか、わからなくなります。
見ている方も、優勝や記録の更新を、当然のごとく期待しますので、それができなければ落胆し、中には選手を非難する者も、出て来ると思います。
それによって、本来は称賛されるはずの選手が、深く傷つけられるのです。
そんなのは全く馬鹿げたことです。
努力すれば必ず報われるというのは、どんなにネガティブな人生でも、必ずポジティブな人生に、変えることができるという意味です。
苦しみや悲しみの人生も、喜びの人生に変えられるのです。
言葉で言うのは簡単ですが、実際にするのは、なかなか大変なことです。
ですから、がんばってはみたものの、途中であきらめてしまう人も、少なくないでしょう。
しかし、そうではないのだと、池江選手は自らの体験を通して、語ってくれています。
せっかくのやる気を、失いそうになっていた人たちも、彼女の姿を見て、再びやる気を出せるようになるでしょう。
今の池江選手は、どんな金メダルよりも、美しく輝いていると思います。
焦点を合わせる
人にはそれぞれ波長というものがあります。
波長の合わない人といると、居心地が悪くなることがあると思います。
波長が合う人といると、テンションが上がることでしょう。
楽しい時には楽しい波長、悲しい時には悲しい波長になっています。
不安な時には不安の波長、怒っている時には怒りの波長です。
人は波長を上げたり下げたりしながら、いろんな波長の自分を体験しています。
ラジオで受信する電波を、いろいろと変えるようなものですね。

テレビやラジオにお気に入りの番組があるように、人は自分が固執したくなる波長があるようです。
固執するからと言って、その波長に合わせていることが、その人にとって快適だとは限りません。
つらく苦しい場合もあるのです。
だったら、そんな波長に合わせなければいいのにと思うのですが、どうしてもその波長に合わせてしまうのですね。
ですから、いつも明るく楽しそうな人、何でも前向きにとらえる人もいれば、 不満ばっかり口にしている人や、不安になることばかり探している人もいるわけです。

この世界には、いろんな波長の人が共存していますので、嫌でも自分とは異なる波長の人の存在を、知ることがあります。
それでも波長が違うと居心地が悪いので、大抵はどちらも互いに一緒にいようとはしません。
でも、あまりに強烈な印象を受けたり、普段とは異なる特別な経験をした時には、他の人の波長をまともにくらい、思いがけなくその波長に囚われてしまうこともあります。
たとえば、誰にでも突っかかって行くような人に、いきなり殴られたり、家族を傷つけられたら、どうでしょうか。
普段は温和で優しい人が、憤って暴力的になるかもしれません。
これは相手の波長そのものであり、思いがけなく相手の波長に、合わせているのです。
戦争や内戦、抗争などの残虐な争いを見せられると、とても不安な気持ちになるでしょう。
また、悲しい気持ちにもさせられてしまいます。
その気持ちから立ち直れたらいいのですが、ずっとその気持ちを引きずってしまうと、本来の波長とは違う波長に、囚われている状態になっています。
ずっと面白くない日々を送っている人が、ある時、優しさに遭遇したとしましょう。
その優しさに心が惹かれ、自分も誰かに優しくできるようになったなら、それも優しさの波長にはまってしまったという事です。

波長が異なると、体験している世界は、人それぞれです。
同じ空間にいても、そこがいいと感じる人と、嫌だと感じる人では、体験している世界が違うのですね。
つまり、自分の波長が変わるということは、体験する世界が変わるということです。
同じ世界を体験しているように見えても、実際は別の世界を体験しているのです。
そして、知らず知らずのうちに、次から次に様々な波長の世界を、私たちは体験しているのですね。
どの体験も学びになるので、どんな波長の体験も否定することはできません。
しかし、自分にとって居心地のいい波長があるのなら、その波長を維持できた方が、快適な人生を送れると思います。
そのためには、自分の波長を知ることが重要です。
よくわからなければ、自分には合わないと思われる波長の世界を、ピックアップしていけばいいのです。
それらの世界を省いていけば、残った世界に自分の波長が合う世界が、あるはずです。
そうして自分の波長がわかったなら、その波長を維持するように心掛けることです。
嫌な波長に注目し、思わず見入ってしまったり、不愉快な気持ちを持ち続けると、その波長に囚われてしまいます。
逆に相手を、自分の波長の虜にするぐらいの気持ちで、自分というものを維持するようにすればいいのです。
そんな人は一般的に、物事に動じないとか、飄々としている、マイペースだ、などと言われます。

世の中がどんな風になっても、自分というものは変わらない。
この姿勢が、豊かな人生には必要でしょう。
創造するということ その3
引き寄せの法則という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。
自分が意識を合わせていることが、現実に引き寄せられるというものです。
きっと悪いことが起こると考えていると、実際に悪いことが起こり、楽しいことだけ考えていると、楽しいことが起こるというようなものです。
お金の心配ばかりしていると、いつまで経っても、お金のやりくりに苦労します。
お金がないなら、ないなりに、今できることに夢中になる。
そんな人は、お金のやりくりに振り回されません。
自分なんか、誰にも相手にしてもらえないと考えていると、ずっと独りぼっちの状態が続きます。
自分に自信を持って、暮らしていれば、自然と人は集まって来ます。
他にもいろいろあるでしょうが、こんな風に、自分の意識状態が、体験する世界を引き寄せるというわけです。
そうは言っても、引き寄せの法則が、本当にあるのかどうか、半信半疑になるでしょう。
でも、私たちも含めて、全てがエネルギーだという視点で見て下さい。
私たちは意思のあるエネルギーで、自らのエネルギー状態を選択し、その状態を強めたり弱めたりできます。
エネルギーの状態を強めるためには、同じ状態のエネルギーを、周囲から集める必要があります。
体を維持したり、強くするためには、それなりの食事を、しっかりと摂らねばならないのと同じ理屈です。
エネルギーとしての自分を維持し、強めるために、同じエネルギーを補充しないといけません。
その結果、ポジティブの意識には、ポジティブなエネルギーが集まり、ネガティブな意識には、ネガティブなエネルギーが集まるのです。
全てをエネルギーとして考えると、引き寄せの法則は、理に適っていると言えるでしょう。
また、中途半端なエネルギー状態だと、ポジティブになったりネガティブになったりと、どっちつかずの状況になると思われます。
大概の人が、この中途半端状態ではないでしょうか。
こんな状況は嫌だ、こんな状況から逃げ出したい、と思っているうちは、嫌なことに気持ちが向いているので、結局は嫌なエネルギーが集まり続ける、ということになるでしょう。
嫌な状況から抜け出すのは、ネガティブなエネルギーをポジティブに変える必要があります。
つまり、そこから抜け出したいと思うのではなく、楽しいことをやりたいと考えるのです。
学校や職場が、自分には合わないと思って、やめる場合があると思います。
そんな時も、こんな所にいられるもんか、と飛び出すのではなく、自分はここじゃなくて、あっちで違うことをやりたい、という感じで出るのがいいでしょう。
それまでいた所から出て行くという点は、同じに見えるかもしれません。
しかし、両者はエネルギー的に、真逆の状態になっているのです。
スタート時点は同じでも、進む方向が真逆になるわけですね。
こんな感じで、次の世界がその人のエネルギーで引き寄せられるのです。
それは、世界を創造するのと、同じ意味です。
引き寄せの法則も、結局は自分で世界を創造している、ということを説明しているのですね。
創造するということ その2
可能性と言えば、私たちの暮らしの中でも、いろんな場面で使われる言葉です。
昇進の可能性、勝負に勝つ可能性、結婚できる可能性、結果を出せる可能性。
何にしても、やってみないとわからない事ばかりです。
でも、可能性が完全に0でない限り、求める場面は無限の世界の、どこかに存在しています。
その場面に、上手く出会えるかどうかだけのことです。
ところで、私たちは何気なく生きていて、何気なく時の流れに身を任せています。
次の瞬間に何が起こるのかなど、わかりませんし、考えようともしていません。
それでも次の瞬間は来ますし、その連続で人生は成り立っているわけです。
でも、次の瞬間というものも、数ある可能性の中から、自動的に選ばれているのだとすれば、どうでしょうか。
私たちは呼吸をしていますが、意識的に大きく呼吸をしたり、数多く呼吸をしたりすることができます。
でも、何も考えていなくても、呼吸は自律神経によって調節されていますので、勝手に息が止まることはありません。
眠っている時でも、呼吸は勝手に起こっています。
それと同じように、次の瞬間というものは、自律的に選択されているけれど、意識的に選ぶこともできるのかもしれません。
あるいは、意識しているつもりはないのに、気がつかないうちに、自分の意識が反映された瞬間が、選択されていることも、考えられると思います。
たとえば、楽しいことをしようと考えている人は、常に楽しい瞬間を狙っているわけです。
何も考えていなかった場合と比べると、明らかに楽しくなるような、瞬間瞬間を選んでいるでしょう。
また、毎日がつまらないと考えている人は、何に対しても興味を持とうとしません。
もし選んでいれば、そこに楽しさがあるかもしれない瞬間を見逃して、何もないであろう瞬間を、選択してしまいます。
似たような者同士が集まってしまうのも、それぞれが似たような瞬間を選び続けるために、引き寄せ合う形になるのかもしれません。
私たちは、創造するという言葉に対して、何か大事(おおごと)のようなイメージを、持ってしまいます。
でも、創造するというのは、いろんな可能性の中から、何かを選び出し、選び出したもので、自分や世界を生み出すことなのです。
見た目に大事かどうかは、関係ありません。
世界に存在する全てのものが、自分も含めて、創造されているのです。
私たちは、自分自身をも創造していると言えるでしょう。
自分や自分の世界は、他の誰が創ったのでもなく、自分自身で創っているのです。
誰かに文句を言ったところで、どうしようもありません。
この瞬間をどう生きるのか、次にどんな瞬間を導くのか、選択権も決定権も、握っているのは自分自身です。
他の人と同じことをするのか、自分独自の道を進むのか、どんな世界を創造するのか、全ては自分の裁量なのです。
創造するということ その1
私たちは人間で、他の動物とは別の存在です。
また植物は動物とは、異なる存在です。
この世界には、顕微鏡がなければ見えないような、微生物のような存在もいます。
そんな様々な存在は全て、地球を構成している、物質でできています。
では、地球はどうかと言いますと、地球は元は星屑でした。
他の星々も、みんな星屑でした。
ですから、私たちもみんな、元は星屑だったと言えるのです。
実際にビッグバンと呼ばれる現象が、あったのかは知りません。
でも、宇宙の全ては、元々一つのエネルギーだったと思います。
一つのエネルギーが、様々な形を生み出し、いろんな存在が、生み出されたのでしょう。
その可能性は無限大です。
たとえば、地球に月は一つだけありますが、月が二つという可能性も、あったかもしれません。
その確率が1兆分の1だとすれば、私たちには0に等しいものに思えるでしょう。
つまり、可能性は0ということです。
しかし、この宇宙と同じような世界が、1兆個存在すれば、そのうちの一つの世界では、地球に月が二つあるわけです。
人間にとっては、0に見えるものであっても、その可能性が完全に0でない限り、無限の世界の中のどこかで、それは生じているのだと、考えることができます。
人間が想像し得るものはもちろん、まだ思いつきもしていないことでも、可能性のあるものは、全て無限の世界のどこかに、存在しているのです。
そう考えると、私たちが何かを発見したり、発明したりするというのは、既に存在しているものに、遭遇したと言えます。
つまり、何かを創る、あるいは生み出すということは、無から有にすることではなく、すでに存在しているものを、自分たちの世界へ導くということなのです。
自分とは
自分とは何かと考える時、自分と認識しているものと、そうでないものを区別するでしょう。
言い換えれば、その区別があるからこそ、自分というものが認識できるわけです。
具体的に言えば、人は体を自分と見なし、体の外を自分以外と考えています。
体の皮膚の表面を境にして、自分と自分以外を、区別しているのですね。
では、どうして体を自分と考えるのかと言いますと、体は思いどおりに動きます。
また、体の感覚によって、私たちは世界を感知しています。
私たちは自分を、体と一体化させて理解していますので、自分と言うと、体を基準にして考えるのです。
しかし、正確に言えば、自分=体 ではありません。
自分とは、心のことです。
その心においても、体を基準にして作られた概念が、多く存在しています。
自分は、日本の愛媛県に暮らす風野陽二だ、という自分の規定は、自分の体がどこに所属しているのかを、述べているに過ぎません。
俺は男だ、男とはこうあるべきだ、という考え方も、自分の体が男だから、そう考えるようになっただけのことです。
人間とは何ぞやという考え自体も、自分が人間だから、そう考えるのであって、別の存在であれば、そんな考えは無意味でしょう。

本当の自分というものは、産まれる前から存在しており、この世界で死んだあとにも、存在し続けるものです。
人間としての自分という概念は、人間に生まれたからあるだけで、別の世界の別の存在に生まれれば、別の自我を持つでしょう。
でも、産まれるまでは、自分はどこにも存在していなかったとか、死んだら自分という存在は、消えてなくなるのだと信じていると、どうしても体を基準にした自分こそが、本当の自分だと受け止めてしまいます。
それで何も問題が起こらないのであれば、別にそれでも構わないのですが、実際には自分に自信がないとか、自分には価値がないとか、死ぬのが怖いとか、様々な問題が起こっています。
それらは全て、自分というものが、よくわからないまま、他の人と同じような、曖昧な概念で生きているからです。
本当の自分とは、人間を超越した存在です。
人間というのは、一つの存在形式であり、人間体験から何かを学ぶための、一手段です。

私たちが日常使っている、人間としての思考も、人間経験の一つです。
意識とは思考するものだと理解していると、思考している自分が、本当の自分だと考えてしまうでしょう。
でも、人間の思考は紐のようなもので、細長く順序立てられた形を、取っています。
厚みはなく、紐全部を確かめないと、何を考えているのかがわかりません。
本当の自分が扱っている思考は、そのような薄っぺらいものではなく、細胞の遺伝子的なものでしょう。
つまり、一つの塊の中に、様々な種類の情報が練り込まれているようなものです。
テレパシーと呼ばれているような、意思疎通の仕方が、本来の私たちの思考形式だと思います。
言葉のように、長々と時間をかける思考ではなく、一瞬にして全てを理解できるような、そんな思考です。
私たちはそれを、閃きとして体験します。
情報源は無意識です。

閃きは、長々と順序立てて説明されたことを、なるほどそうかと、理解するものではありません。
一瞬にして、全てがわかるような感じです。
この閃きのような思考形態こそが、本来の思考であり、そういう思考をする自分こそが、本当の自分と言えるのです。
今の自分に自信がない人、悩んでいる人は、あまり深刻に考えないことです。
どの人も、本当の自分というものは、共通して光輝いています。
そこに優劣は存在しません。
何故なら、元はみんな一つの存在だからです。

でもこの世界では、その考え方が受け入れられていません。
全ては細かく分類され、分離され、比較され、優劣をつけられます。
人間は最高の存在だと信じたいがために、他の存在を見下します。
同じように、自分は最高の存在だと信じたいがために、他の人たちを見下したくなるのです。
自分に自信がないとか、悩んだりする人というのは、本当の自分を感じ取っている人たちなのでしょう。
だから、今の世の中の仕組みに、上手く適応できないのです。
でも、適応する必要なんかありません。
世の中の方が狂っているのです。
誰かと自分を区別する必要はありませんし、自分のことも他の人のことも、批判する必要はないのです。
みんな自由に、ありのままの姿で生きればいいのです。
世の中がおかしいのに、自分の方がおかしいだなんて、思ってはいけません。
それよりも、今の自分にできること、今の自分がしたいこと、また本当の自分が、今の自分をとおして、何を学ぼうとしているのか、それを理解することが大切だと思います。
楽観的と悲観的
物事をとらえるのに、楽観的や悲観的という言葉を使いますよね。
楽観的は物事を明るくとらえ、悲観的は物事を暗くとらえます。

物事を悲観的に見る人には、それなりの根拠があります。
それは、その人の経験や知識に基づくもので、こうなれば次はこうなる、と言ったような図式が、頭の中に出来上がっているのです。
その図式に照らし合わせると、どう考えても上手く行くはずがない、という結論に至り、悲観的になるのですね。
でも、この考えが正しいとするには、条件があります。
それはその人の経験や知識が、絶対的なものだというものです。
でも、そんなこと言えるはずがありませんよね。
別の人の経験や知識によれば、また違った結論が導き出されるでしょう。
結局は自分の考え方に対する固執が、悲観論の元になっていると言えます。
他の考え方や可能性について、思考できなくなっているのです。
悲観的になっていると、半分あきらめ気分です。
心配ごとに対しても、あきらめて何もしないか、何かをするにしても、どうせ無駄だという感じで、本気の行動を取りません。
その結果、悲観的な予想どおりの結末に至るわけです。

一方で、楽観的な人はどうかと言いますと、こちらは必ずしも経験や知識に基づいて、楽観的になっているわけではありません。
何とかなるよとか、その時はその時さ、という軽いノリの覚悟が、楽観的な考えの基盤になっているようです。
もちろん、経験や知識から考えて、大丈夫だと考える人もいるでしょう。
でも、悲観的な人と違って、楽観的な人は絶対に明るい未来が来ると、確信しているわけではありません。
明るい未来が保証されていないとなると、悲観的な人は、そこに不安を集中させますが、楽観的な人は、それを受け止める覚悟があるのです。
そう言いながらも、いざ困った状況になると、覚悟をしていたはずが、慌てふためく人もいるでしょう。
しかし、慌てることなく、覚悟をしていたように、自分が置かれた状況を見極めて、淡々とやるべき事をこなす人もいるのです。
この違いはどこにあるのかと言いますと、淡々と動ける人は、一見不幸に思われるようなことも、他の人とは違う視点でとらえるというところでしょう。

不幸の中にも、小さな幸せを見つけたり、将来への希望を見出す力があれば、何が起ころうと慌てることはありません。
その時にできることをして、一歩ずつ前に進むだけのことです。
それができずに、ただ楽観的というだけの人は、能天気な人と言われるでしょう。
能天気でない楽観は、誰もが持つべき視点です。
それに対して、悲観は思考停止を意味しますので、持ってはならない視点です。
楽観的に生きるとは、覚悟を持って生きるということであり、その時その時を前向きになって、懸命に生きるといことです。
それはつまり、過去を振り返ったり、将来を心配したりせず、今この瞬間を、一所懸命に生きるということなのです。
また、自分自身の生き方を認め、決して自分を否定しないということでもあります。
自分の心の赴くままに、生きるのです。
しかし、人は一人では生きられません。
それでも心の赴くまま生きられるのは、誰かの支えがあるからでしょう。
つまり、楽観的に生きるということは、人々を信じるということでもあるのです。

夢を与える

世の中で活躍している人を見て、夢を与えてもらったと感じる人は、多いでしょう。
また、そういう人たちを見習って、自分も人に夢を与えられる人間に、なりたいと考える人もいると思います。
それは、とても高貴で素晴らしいことだと思いますが、一方で、その考えが足かせになる場合も、あるのです。
人に夢を与えるということは、実際にはどんなことだと、みなさんは思うでしょうか。
誰もがなしえなかった、すごいことをしたり、前人未踏の記録を、打ち出したりすることでしょうか。
どんな困難にも耐え抜く、不屈の精神でしょうか。
人から注目される、アイドルになることでしょうか。
夢を与えてくれる人に共通しているのは、すごくがんばっている姿でしょう。
がんばっているという姿を見せられると、人は自分もがんばろうという、気持ちになるものです。
しかし、がんばり過ぎて倒れてしまう人、潰れてしまう人もいるわけです。

日本では昔から根性というものが、重視されて来ました。
確かに精神力の強さは、重要ではあります。
でも、無理矢理がんばることで、精神力が強くなるというのは誤解です。
自分もすごい人間になろうとして、闇雲にがんばっても、なかなか上手くはいかないでしょう。

何をやっても飽きっぽい人が、何かにはまった途端、ものすごい集中力を発揮することがあります。
それは、自分にぴったりのものを、見つけたということです。
他の人から見ると、とても大変そうに見えることでも、はまっている人は、強い精神力でやり抜いてしまいます。
これは、はまっているからできることであり、精神力の強さも、そこにはまっているからこそ、発揮できるのです。
それを他の人が同じようにしろと命じられ、根性論を唱えられても、強い精神力が出せるはずがありません。
それなのに、根性を出してがんばろうとすると、必ず心か体に不調を来します。
見た目にすごくがんばっているように見えて、しかも潰れることなく活躍し続ける人とは、そこにはまっている人なのです。
つまり、自分がしていることが、好きで仕方がない人たちなのです。
だから、とてつもない精神力を発揮できるし、その活躍で他の人に、夢を与えてくれるのです。

誰かに夢を与えられる人間になりたいのであれば、まずは自分が打ち込めるものを、見つけることでしょう。
好きなものが見つからなければ、見つかるまで、いろんなことに挑戦してみて下さい。
思わぬところで、こだわりを持つものが見つかると、そこにはまって熱中するようになります。
その時には、誰かに夢を与えるなどとは、考えないでしょう。
そんなことを考えているうちは、熱中しているとは言えません。
もちろん、周囲の人々の力があるからこそ、自分はがんばれるんだという認識は、モチベーションになるでしょう。
でも、一番に考えることは、自分が熱中することです。
周りに感謝しながら、自分自身が熱中することです。
記録を出すとか、何かをやり遂げるということは、あくまでも結果です。
人々が注目し感動するのは、結果ではなく、熱意を持ってやり続ける姿勢なのです。
ですから、派手である必要はありません。
誰かに見てもらうことなど、少しも考えることなく、ひたすら熱中している姿がいいのです。

社会の目立たないところで、人知れず一生懸命何かをやり続けている人の姿は、本当に心を打たれるものです。
そんな人は案外身近にいるのに、目立たないために、気づかれないことが多いと思います。
自分のそばに、そんな人がいないか、周りをよく見てみるといいでしょう。
きっと、見つかると思います。
身近にそんな人を見つけると、テレビや舞台などで活躍している人よりも、もっと素敵な夢を与えてもらえるでしょう。
もしかしたら、知らないうちにあなた自身が、そんな人になっているかもしれません。