感覚の話 その1
感覚と言えば、五感を思い浮かべる人が多いと思います。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの感覚ですね。
触覚というのは、皮膚の感覚のことで、物に触れた時の熱い、冷たい、痛いなどの感覚も、含まれています。
五感以外にも、平衡感覚とか、体の位置感覚とか、内臓の感覚などがありますが、外界の情報を知るための感覚としては、五感が基本と言えるでしょう。

解剖学的には、外界の刺激を感知した、神経細胞の情報が脳に伝わり、感覚として受け止められるわけです。
しかし、そもそも感覚とは何なのでしょうか。
神経や脳が関わっているのは、情報の伝達です。
電話で言えば、電話線の部分です。
そして、感覚は受話器から発せられる、音声ということになります。
受話器から聞こえる音声とは、電話線を通して、そこに届いた電気信号が、スピーカーを振動させ、その振動が空気に伝わった振動エネルギーです。
電話線を通る電気信号には、その情報は含まれていますが、電気信号そのものが、音声ということではありません。
つまり、神経は情報を伝達しているだけで、神経そのものが感覚を再現しているわけではないのです。
脳はどうでしょうか。
脳も神経細胞の集まりですから、基本的には同じでしょう。
ただ、複雑なネットワークを作っていますから、そこには様々な組み合わせ、無限のパターンの、三次元的電気回路が、瞬間瞬間に作られるわけです。

これによって、微弱ではありますが、複雑な形の電磁場が生まれます。
恐らく、この電磁場が心の活動と、互いに影響し合っているのだと思います。
先ほどの電話の話に戻しますと、脳神経ネットワークが作る、微弱な電磁場が、受話器のスピーカーです。
スピーカーの振動から、空気に伝わった振動エネルギーが音声ですが、脳の電磁場に応じて、振動する心が空気で、心に再現された聴覚が、空気を振動させている音声です。
つまり、感覚というのは、心の振動パターンなのです。
粛々と
粛々と。
この言葉は、政治家が言い訳をする時に、よく使います。
意味は、慌てず騒がず、身を引き締める気持ちで、真剣に厳しい姿勢で取り組む、です。
好い加減な政治家が使うことで、言葉のイメージが悪くなっているかもしれませんが、この言葉自体に罪はありません。
それに、とても大事な意味の言葉です。
嫌なことが起こったり、問題が生じたり、思ったとおりに行かなかったりすると、人は落ち込んだり、うろたえたり、怒り狂ったりと、感情に振り回されてしまいます。
ロボットなどの機械や、コンピュータープログラムが働く時は、予定通りに行かなくなっても、感情的になることはありません。
そもそも感情がないでしょうからね。
やるべきことを、淡々と続けようとするだけです。
ただ、決められたことだけを、行うように設定されていると、問題が起こったところで、動きが止まったままになってしまいます。
どこに問題があるのか、どうしてそうなるのか、と問題を探って修正できるのならば、その作業を済ませて、本来の仕事の続きを始めるでしょう。
その時に、舌打ちをしたり、悪態をついたり、ぶつぶつ不平をこぼしたりは、機械もプログラムもしません。
与えられた作業を、淡々とこなして行くだけです。
人間も同じようにすれば、何か問題が起こっても、そこで身動きが取れなくなったり、追い詰められたりすることは、ないでしょう。
でも、ロボットやコンピューターのようになれと言うのでは、ありません。
人間には感情がありますし、感情は人生を豊かにしてくれる、大切なものです。
ただし、感情に振り舞わされては、せっかくの人生が台無しになってしまいます。
嫌なことがあったと言って、嘆き悲しみ、落ち込み続けていても、何の解決にもなりません。
かえってマイナスの感情が、前進しようとする気持ちを、削いでしまいます。
思いがけない問題が起こったからと言って、いちいちパニックに陥っていても、何もできません。
そういう時こそ、冷静さが求められます。
いろんな感情が湧き上がって来ても、常に機械のような冷静さというものを、心のどこかに据えておくように、心掛けておくといいでしょう。
怒りや悲しみ、恐怖や不安、そんな感情を完全に抑え込むことはできません。
しかし、どこかに開き直った自分というものを、創っておけば、その自分は感情に左右されることなく、物事を冷静に見つめることができるでしょう。
たとえば、落ち込むことがあって、お酒に酔いながら、こんなことをしている場合ではないぞと、自分を戒める心を持つようなものです。
どんなに辛く悲しいことが起こっても、その状況を冷静に見定め、辛さ悲しさ以外の何かを、そこに見つけたり、次に自分が取る行動を決めたりできる、自分というものが必要です。
するべきことを粛々とする。
そんな自分というものを持つことができれば、コロナ騒ぎを含めて、世の中の出来事に振り回されたり、自分に起こった事で右往左往したりは、しなくなるでしょう。
自由と責任

人は自由を求めます。
それは、本来あるべき姿でいたい、という思いがあるからです。
自分がどのような行動を取るのか、それは自分の意思によって決まります。
それが自然であり、当たり前のことです。
ところが、それを他人が邪魔をしたり、自分の都合に合わさせようとすることがあります。
そうなると、自由は失われ、束縛されたように感じます。
それは不自然な状態ですから、とても苦痛です。
その状態が続くと、全てを壊したくなるような、反発心を覚えるでしょう。
物理学でいうところの、作用・反作用の法則と同じです。
抑圧が強ければ、それと同じほどの反発が、生じるのです。
もし反発できなければ、どうなるかと言いますと、自分が壊れてしまうのです。
これも物理学の教えと同じです。

壁を押した時に、壁が押し返しているうちは、作用・反作用の法則が働きますが、壁が弱ければ、壁は押し返すのではなく、壊れてしまいます。
それと同じで、心の弱い人は、強く抑圧されると、心が病んでしまうのです。
それだけ、自由というものは重要ですので、人々は自由を求めようとするのです。
ところが、自由に動くということは、それに応じた結果が生じるわけです。
買い物をする時に、何も考えずに品物を選ぶと、家に帰ってから、腐っていたり傷ついていたりすることって、ありますよね。
カゴに入れる前に、品物をよく吟味すれば、それは避けられることです。
品物をどのように選ぶのかは、その人の自由です。
ただ、その選び方には、それに応じた結果がついて来ます。
自分が好い加減なことをしておいて、その結果に文句を言うのは、お門違いというものです。
選択と結果は、表裏一体なのですから。

何も考えないで品を選んだ結果、傷んだ品を買ってしまったという時、それを全く気にしないのであれば、それでいいのです。
その人は、自分が選んだ結果を、受け入れています。
しかし、品が傷んでいることに気づいた時に、あの店はひどい店だと、不満を言う人は、自分が選んだ結果を、受け入れていません。
全ての行動は、自分で選択したものです。
その結果は、自分の選択が引き寄せたものなのです。
そのことを理解せずに、自由だけを叫ぶ人たちは、ただのわがままなクレーマーと、見なされるでしょう。
また、そういう状態では、人生の喜びを引き寄せることは、不可能です。
人生を堪能するためには、自分の選択に責任を持つ、結果を受け入れる覚悟を持つ、そういうことが大切です。
責任を恐れて、行動を抑えることは、お勧めしません。
それでは、この世界に産まれて来た、意味がなくなってしまいます。
せっかく自動車免許を取ったのに、運転が怖くて車に乗らない、というのと同じです。
もったいない話ですよね。
本当の自由を理解し、自分にとって正しい選択をする。
その結果は、どんなことでも受け入れる。
その姿勢こそが、喜びの人生を創ってくれるのです。
その欲求はどこから?

全国各地でじわじわと、コロナ感染者数が増えて来ています。
東京や大阪などの大都会を中心に、これまで以上の感染爆発が懸念されています。
病気のことだけを考えれば、感染している人は、じっとしているのが一番なのでしょう。
でも、感染しているかどうかがわからないのに、じっとしていろと言われても、なかなか大変ですよね。
政府は緊急事態宣言とワクチンで、この難局を乗り切ろうとしているようですが、すでに緊急事態宣言の迫力はなくなり、国民には緊迫感が伝わっていません。
自分が大変な思いをするとか、身近な人が亡くなったりすれば、これはいけないと思うのでしょう。
しかし、今の時点では若い人の重傷者は少ないですし、多くの人が核家族や単身での生活をしているため、身近な人の不幸というものを、体験する機会がなかなかありません。
全然実感が湧かないので、外へ出るなと言われても、納得できない気持ちが残り、かえって反発するような行動にでたり、自分の考えだけで動き回るということが、起こるでしょう。
そもそも人は、誰かの指示に従うということが、面白くありません。
自分のことは自分で決めたいわけです。
政府であろうが何であろうが、勝手なことを決めるなよと、思うのですね。

では、外に出ないと自分で決めた人は、どうなのでしょうか。
外に出たくなくて出ないのならば、いいのですが、本当は出たいのに出ないとなると、それは自分の意思とは違う行動になります。
短期間なら我慢もできるでしょうが、長期間になると、やはり苦しくなって来るでしょう。
でも、ここで考えて欲しいのは、外に出たいという気持ちが、本当の自分の思いなのかということです。
夜になると、居酒屋でわいわい騒ぐ。
青空が爽やかで、外へ出たくなる。
いろんな物を見たいし、買い物もしたい。
そんな気持ちになることは、理解できます。
でも、それはスマホ中毒の人が、片時もスマホを手放せないのと、似ていないでしょうか。

自分ではそれがしたいと思っているのでしょうが、それは本音というよりも、習慣になっていて、場合によれば、中毒になっているのかもしれません。
そういうものから遠ざけられると、初めはつらく苦しいでしょう。
しかし、その状況に慣れて来ると、今度は習慣としての楽しさではなく、本当に自分が喜びを感じるような面白いことを、見つけられるかもしれません。
これまでどおりの生活をしていたら、絶対に巡り会えないような喜びを、発見するかもしれないのです。
今の状況は、これまでの当たり前が、当たり前ではなかったと、認識させられるものです。
それは苦しみに見えることもありますが、隠れて見えなかった喜びを、見つける機会でもあるのです。
喜びを見つけられたら、外に出ないということに対しても、もっと寛容な気持ちになれるでしょう。
再び外に出られるようになっても、これまでとは違う暮らしを、求めるようになっていると思います。

新たな喜びを見つけた人は、その喜びをさらに大きくするための、準備を始めるでしょう。
それがちょうど、外に出ない期間と重なって、同じ期間を楽しく過ごせるようになるのです。
今の状況を窮屈に感じたり、不満が出る人は、それが単なる習慣から来ているものなのか、一度確かめて見たらいいと思います。
季節の変わり目

季節の変わり目は、変化の時期ですね。
暖かくなるかと思えば、また寒くなったり、寒くなるかと思えば、また暖かくなったり。
梅雨や秋雨前線も、季節の変わり目のものです。
かと言って、春夏秋冬がはっきりしている時期でも、変化はあります。
変化は一秒として止まることは、ありません。
ただ、明らかな変化として認識しやすいのが、季節の変わり目ですね。
二つの季節が、混じり合った感じです。
自然の季節の移り変わりと同じように、人の心も変化するものだと思います。
人の心が変化すれば、それは社会現象として現れます。
社会の変化とは、すなわち人の心の変化なのですね。
季節の変化と同じく、人の心があんまり変わっていないように感じる時と、大きく変わったなと感じる時が、あると思います。
歴史を見てみると、その変化を読み解くことができます。
まずですが、類人猿の中から、人類が誕生したというのは、これまでで一番の変化でしょう。
類人猿の心が、人類の心に変化したわけです。

これを単純に変化と見るのか、どのようにして変化したのか、ということは、ここでは述べません。
それでも、全てを連続的にとらえると、明らかな変化ですよね。
動物的な暮らしから、社会を形成するようになったのも、大きな変化でしょう。
ネアンデルタール人が葬儀を行っていた形跡があると、報告がありますが、そんな頃から人類は、死というものについて考えていたのですね。
宗教が広がって行ったのも、死後の世界について、考えることができたからです。
こういうことも、人の心の大きな変化でしょう。
科学の発展に伴い、宇宙観や世界観も変わりました。
これも大きな変化です。
そして今、人の心は新たな大きな変化を、迎えようとしていると思います。

それなりに安定しているように見えている時代は、いつまでも続くかのように考えがちです。
でも、それが間違っていることは、歴史を振り返ればわかるでしょう。
これまでの経済社会の中でも、様々な変化が起こっています。
一部の者に冨が集中することが批判され、人権の重要性が叫ばれるようになりました。
この流れは、お金さえあれば幸せなのか、という問いかけでもあるでしょう。
何でもかんでもお金に換算し、それで物事の価値を決めようとするのは、冷静に考えれば、おかしいとわかると思います。
それはお金をたくさん持っている人にだけ、有利になる歪んだ基準です。
それなのに、多くの人がそのことに不平も言わず、黙って受け入れているということが、様々な問題を生み出しているのです。

たとえば、現在世界中がコロナ騒ぎに、みまわれていますが、お金がなければ、ワクチンが手に入りません。
お金がなければ、病院などの施設もできませんし、必要な人材を揃えることもできません。
お金がなければ、目の前に困っている人、飢えている人がいても、助けてあげることができないのです。
これって、おかしいと思いませんか。
人も知識も技術も道具も材料も、全部揃っていても、お金がないという理由で、何もできないのです。
違うでしょ?
お金がないから、できないのではなくて、本気で助けるつもりがないから、できないのです。
困難があっても、それも人生の一部だと考えて、素直に受け入れるのであれば、別に構わないのですが、困難を乗り切るつもりがあるならば、お金を理由にしてはいけないのです。
ところが、お金がないと何もできないのだと、みんな洗脳されてしまっているために、誰も動くことができません。
でも、この呪縛を物ともせずに、自分の意志で行動する人たちもいます。

災害ボランティアの人たちが、そうですよね。
他にも、いろんな形のボランティアの方たちが、いらっしゃいます。
みんな、何の見返りもないのに、自分の気持ちで動くのです。
彼らは、人間が本来あるべき姿を、行動を通して見せてくれているのです。
それなのに、社会はなかなかそちらへ動こうとは、して来ませんでした。
それでも変化は少しずつ、広がって来ています。
変化は少しずつ起きながら、ある時期に一気に大きく動きます。
それが今です。
みなさん、コロナはワクチンで解決すると期待しているようですが、ワクチンの効果は限定的だと思います。
それに、コロナのことを悪魔のように恐れていますが、本当に悪いのは、コロナのような感染症が広がった時に、人々が十分なケアを受けられない、社会体制でしょう。
それはつまり、人々の心がそのような状態にあるわけで、それこそが本当の悪い所です。
コロナ騒ぎで起きている、多くの問題は、コロナのせいではありません。
正すべきところを、放置して来た結果です。
しかし、その責任から逃れたいがために、みんな、コロナのせいにしたがるのです。
早くコロナ騒ぎを収束させて、コロナ騒ぎの前の世の中に戻したいと、考える人たちがいます。
でも、よく考えてみて下さい。
コロナ騒ぎの前の暮らしというものは、本当にいい暮らしだったのでしょうか。
平和で平等な世界だったと、言えるでしょうか。
将来に対して、何の不安もなく暮らせていたでしょうか。

それなりに安定していた人にとっては、いいもののように見えるかもしれません。
でも、物事を深く考える人にとっては、決していい世界だったとは言えないでしょう。
むしろ、早く新しい時代が来ることを、待ち望んでいたのではないでしょうか。
今、時代は大きく変わろうとしています。
それはコロナウィルスによって、強制的に変化を、強いられているようにも見えます。
でも、広い視野に立って見たならば、恐らく人類は、大変化を起こすべき時期に、来ているのだと思います。
季節の変わり目と同じように、今は古い価値観と、新しい価値観が、ぶつかり合っている状態です。
コロナ騒ぎは、人類が変化すべき方向を、示しているに過ぎません。
そのことに気づく人が増えることで、次第に新しい価値観が優位になり、社会全体がそちらの方へ、シフトして行くと思います。
人類が大変化を成し遂げて、資本主義社会に代わる、新しい社会を構築できた時、コロナウィルスや類似の感染症が起こっても、今のような騒ぎになることはないでしょう。

病気というものは、根本的な原因を探り、そこを改善しなくてはいけません。
対症療法だけでは、その場しのぎに過ぎないのです。
コロナウィルスばかりに目を向けるのは、対症療法をするのと同じです。
何故コロナウィルスが広がったのか、何故こんな騒ぎになっているのか。
本当の理由を、探る必要があるでしょう。
心の叫び 心のつぶやき

あなたの心は、叫んでいませんか。
心の叫びは、耳で聞くわけではありません。
想いとして届くのです。
こんなのは嫌だ。
そう感じるのは、心がそう叫んでいるからです。
でも、心が伝えたいことは、それだけではないはずです。
もっと注意深く、自分の心を探って下さい。
すると、心の小さなつぶやきが、聞こえると思います。
本当は、こういうことがしたいんだ。
本当は、こんな風になりたいの。

嫌だという想いは、緊急性があるので、叫びとして伝えます。
でも、本音のところは、もじもじと遠慮がちに、伝えようとするのです。
何故か、わかりますか。
それは普段、本音の声は無視されることが、多いからです。
どうせ言っても、聞いてもらえなければ、大きな声で言おうとは思いませんよね。
それと同じです。
でも、試しに言ってみたら、話を聞いてもらえたし、それいいねと言って、そのように動いてもらえたら、どうでしょうか。
今度は、それほど遠慮しないで、意見を言うようになりますよね。
その意見も採用されると、もう遠慮なんかせずに、何でもはっきり大きな声で、伝えるようになるでしょう。

心も同じです。
初めは、本音を聞こえないようなつぶやきで、つぶやくのです。
それをきちんと聞き取って、それに従うようにすると、今度はもっとはっきり、自分の本音がわかるようになります。
それに従っていると、普段の自分の意識と、心の本音が、ぴったり一体化するようになります。
そうなると、人生に迷いがなくなり、どんな状況でも乗り越えて行ける、強さを発揮できるようになるのです。
それは充実した人生で、これこそ自分が求めていたものだと、気がつくでしょう。
どうですか。
あなたの心は、何とつぶやいていますか。
何故今の人生なのか

何で、こんな家に生まれて来たのだろう。
どうして、自分は美人じゃないのか。
もっと、かっこいい男に生まれたかった。
こんな風に、今の自分を否定したくなったことは、ありませんか。
お金さえあれば、こういう事ができるのに、お金がないからできない。
お金に縁がない自分には、未来がない。
勉強もできないし、運動も苦手。
何の取り柄もない自分なんか、先が知れている。
学歴がなく資格もないから、就職先が見つからない。
やっと見つけた仕事はブラックだけど、他に行く当てがない。
不自由な体では、何もできない。
がんばれる人もいるけど、自分には無理だ。
いろいろ現在の自分や、自分が置かれた状況に対して、悩んだり悲しんだり落ち込んだりして、まだ残されている人生を、あきらめ気分で歩んでいませんか。
そんな時は、こう考えてみて下さい。
自分は前世で、散々いい暮らしをしたから、今度は違う人生を選んだのだと。

前世を考える時、前の人生でひどい事をしたから、その罰として、今の人生で嫌な思いをするのだと、考える人がいます。
でも、それは歪んだ見方です。
前世を想定する場合、様々な前世や来世を体験する、多くの自分というものが、存在することになります。
そして、それらの自分を統括している、大元かつ本当の自分というものがあるでしょう。
その自分から見ると、この世界というものは、一種の体験ゲームのようなものです。
この世界における善悪は、大元の自分の立場から見ると、問題ではありません。
善にしても悪にしても、一つの経験に過ぎないからです。
そうやって、様々な体験をすることが目的なのだと考えると、同じ体験を繰り返しても、仕方がありません。
他の人生とは異なる人生を、体験するために、今の人生があるわけです。
ですから、今の人生で不満があったり、恵まれていないことがあるとすれば、その部分については、他の人生で体験済みということなのです。
一見、不便と思われる設定の人生を、どう過ごすのか。
そこから、どんな体験を得られるのか。
そこがポイントです。

お金がなくて困っている場合、お金がない暮らしを体験することが、この人生の目的かもしれません。
それも、お金がない大変さを、体験するためかもしれませんし、お金がなくても楽しいということを、知るということもあるでしょう。
あるいは、普通の人とは違う発想で、お金を稼いでみようという、計画があるかもしれないのです。
あるいは、お金がないという状況は、誰か重要な人と出会うための、設定ということもあると思います。

誰にも相手にしてもらえないと、感じている場合はどうでしょうか。
そんな人は、前の人生でちやほやされたために、自分でがんばるという経験が、できなかったのかもしれません。
あるいは、本当に自分に大切な人が誰であるかを、見抜けなかったのかもしれないですね。
自分の力でがんばる、あるいは、本当に大切な人を見つける。
そういうことのために、ちやほやされない人生を選んだと、考えることはできるでしょう。
でも、不満ばっかり抱えて、ぐちぐちしていると、大切な人がそばにいても、気がつかないかもしれませんし、自分でがんばるということも、できないでしょう。
今の状況が、他の人と比べて、よくないように見えたなら、それはわかった上で、今の人生を選んだのだと、割り切るのがいいと思います。
大変な人生を選んだということは、それだけ自分に自信があるのです。
そんな自信なんかないと思うでしょうが、それは何も覚えていないからです。
本当の自分は、自分の中に秘められた力を、知っています。
だから、今の人生を選んだのです。
つまり、それを乗り切るだけの力が、自分にはあるということですね。
それは、人生というゲームの達人であるということです。
生まれたばかりで、殺されてしまう赤ん坊がいます。
でも、それは自分のために生まれて来たと言うより、自分を殺すかもしれない相手に、考える機会を与えるために、生まれて来たと考えられます。
殺される可能性が高いとわかった上で、生まれて来るわけです。
これは相当強く成長した心でなければ、できないことかもしれません。
そこまでではないにしても、困難な人生を送る人たちは、本当は強い心を持っているはずなのです。
でも、周囲の人たちの視線を気にしたり、他人の価値観で自分を評価したりしていると、せっかくの心の強さを、自ら封じ込めることになります。
どんなにつらく大変でも、これは自分で設定したゲームなんだ。
そう考えれば、誰に気兼ねすることなく、思う存分自分の強さを発揮できるでしょう。
何故、今の人生なのか。
それは、今の人生でないと得られないものが、あるからです。
今の人生だからこそ、得られる喜びというものが、あるのです。
それを得るために、自分で今の人生を設定しているのです。
それは、誰かの力となることかもしれません。
誰かの笑顔こそが、自分の喜びだと知るためかもしれないのです。
そして、そんな喜びを得るだけの強さが、あなたにはあるのです。

潜在意識を磨こう

私たちの心の本質は、無意識と呼ばれる領域にあります。
それは、物質世界とは違う世界に、あると考えて下さい。
無意識の世界から物質世界にある肉体に、心がリンクすることで、私たちが生まれるのです。
曇った窓ガラスを指でなぞると、そこに文字を書いたり、絵を描くことができますよね。
この文字や絵が、私たちが自分だと認識しているものです。
そして、指が潜在意識で、手から上が無意識です。
指は手からの指示によって動き、その動きに応じて、ガラスの表面に、文字や絵が描かれます。
それと同じように、無意識からの指示が、潜在意識に伝わり、それによって私たちの思考が、創られるのです。

ガラスに何の抵抗も特徴もなければ、指先は手からの指示どおりに、動いて行きます。
しかし、ガラスが部分的に熱いとか冷たいとか、あるいはざらざらしているとか、トゲトゲしているとか、なっているとしましょう。
そんな時は、指は手からの指示よりも、ガラスの状態に合わせて、動くはずです。
触れて痛ければ、そこから離れるでしょう。
温かくて気持ちがいいと思うと、その場所に留まろうとすると思います。
本来私たちの意識は、無意識からの指示に従って、形成されるものです。
しかし、環境の刺激や情報に目を奪われてしまうと、そちらに合わせた思考が、形成されるようになります。
それは大概の場合、無意識からの指示とは違う思考です。
つまり、本来自分が生きるべき道とは、異なる道を歩んでしまうのですね。
本来の意識は無意識にありますから、そこからの指示に反する思考で生きていると、何かが違うなと感じます。
それでも、楽しく過ごせているうちは、その違和感も無視しがちです。
ところが、状況が変わって苦しくなると、こんな生き方はおかしいと、気がつきやすくなります。
それにも関わらず、周囲から得た価値観を手放せずにいると、こんなのおかしいと思いながらも、そこから離れることができません。
そうなると、人生がますます、つらく苦しいものになるでしょう。
そこから抜け出すためには、余計な価値観を捨てる必要があるのです。

別な見方をしてみましょう。
この世界は、様々な色が集まった所だと、考えて下さい。
無意識は、この世界の中にある白い光を求めて、センサーをこの世界に送り込みます。
そのセンサーのレンズは透明で、いろんな色を確かめることができるのですが、問題が一つあります。
それは、レンズが色に染まりやすいのです。
この世界の色を客観的にとらえて、その中から白い光を見つけるためには、レンズは常にきれいでなくてはなりません。
もしレンズが赤く染まってしまうと、白い光を見つけていても、赤い光に見えてしまいます。
他の色についても、赤っぽく見えてしまい、世界全体が赤く見えるのです。

自分のレンズが赤く染まっているだけだと、気がつかなければ、世界とは赤いものなのだと、その人は受け止めるでしょう。
これが、世の中とはこんなものだ、人生とはこんなものだと、悟ったような気分になる理由です。
他の色を正しくとらえ、目的とする白い光を見つけるためには、自分のレンズが何かの色に染まっていないか、常に注意をする必要があります。
汚れて来たなと思ったら、きれいに磨かなくてはなりません。
こびりついた色は、なかなか落ちにくいかも知れません。
それでも、がんばってきれいにすると、世の中を冷静に見渡すことが、できるようになります。
そして、本当に大切なものが、何であるのかが、理解できるようになるでしょう。
白い光が見えるようになるのです。
私たちの潜在意識のレンズは、知らないうちに、いろんな色で汚れています。
自分のレンズはきれいなんだと、決めつけないで、しょっちゅう磨くことを、心掛けるのがいいと思います。

知らぬ間の束縛

縄で縛られたり、部屋に閉じ込められたり、誰かに監視されたり、という束縛は、誰にでもわかります。
自分は束縛されていると憤り、何とかその束縛から逃れようと、努力をするでしょう。
しかし、束縛されているのに、本人がそう思っていなければ、そこから逃れようとはしません。
そんな束縛って、あるのでしょうか。
これはあなたのためですよ、と信じ込まされていれば、何をされても束縛とは思わないでしょう。
また、こうなるのはあなたが悪いのですと、思い込まされても、束縛とは思いません。
自業自得だと思ってしまうのです。
それは、いわゆる洗脳です。
時々、付き合っている相手に、ひどいことをされているのに、そこから逃げ出そうとしない人がいますよね。
そういう人たちも、相手に洗脳されているわけです。
そういう事件は多くの人が、他人事として見るでしょう。
どうして束縛されていることが、理解できないのかと、首をひねると思います。
でも、そうしている自分も、実は知らないところで洗脳され、知らないうちに束縛されているかもしれません。

世の中にある、~でなければならない、とか、~とはこういうものだ、などという常識や慣習は、人々を束縛します。
昔からこうして来たんだ、とか、みんながやってることだ、とか、それが普通だろ、などと言われると、なかなか反論できませんよね。
無用のトラブルを避けるために、相手に自分を合わせる人もいるでしょうし、何の疑いもなく、言われたことを受け入れる人もいます。
しかし、常識とか普通というものは、本来存在しません。
ある物事を、常識や普通と表現する人がいますが、それはその人にとっての、常識であり普通であるだけです。
絶対的な意味で、万人にとっての、常識や普通ということではありません。
何故、そうであるのか。
どうして、そうする必要があるのか。
その根拠をきちんと説明できるのであれば、洗脳ではありません。
しかし、根拠を説明できないとか、誰かに言われたことを、オウム返しに喋るだけの根拠であれば、それは洗脳されていると言えます。
自分で考えているようで、実は何も考えていないのです。
でも、自分で考えていると信じていますから、そこから離れようとしません。
そうして、自ら束縛されてしまうのです。
たとえば、女性は良妻賢母であるべきだ、と言われ続けると、そういう女性になろうと、苦労するわけです。
それが自分の本音でなくても、そうしてしまうのですね。
本音に従って、良妻賢母になることをやめても、自分はだめな人間だと、考えてしまうわけです。

男とは弱音を吐いてはならない、と言われ続けた男性は、そうしようと頑張り続けるでしょう。
でも、誰にも限界というものがあります。
それなのに、限界を超えても我慢し続けようとして、病気になったり、トラブルを起こしたり、死んでしまったりするのです。
親や先生の言うことに従う子供は、いい子だと言われると、子供はそうしようとするでしょう。
でも、子供ですから、従えない時もあるのですね。
そうなると、自分は親や先生を困らせた、悪い子供だと思ってしまうのです。
自分はだめな人間だという思いは、大人になってからも、本人を束縛し続けます。
では、どうすれば自分が洗脳され、束縛されていると、知ることができるのでしょうか。
それは、何か面白くないとか、何もかも嫌になったとか、自分に自信がなくなったとか、将来への不安で一杯になるなどの、ネガティブな想いが見られたら、わかります。
こういったネガティブな想いというものは、抑え込まれた自分の本音からの、警告であり、助けを求める声なのです。
こういう本音からの知らせを察知できれば、何が自分を束縛しているのか、徹底的に調べましょう。

他のことはともかく、これは間違っていない。
だから、これについては、自分の方がおかしい。
とは、考えてはいけません。
どんなに世間で支持されている考えや価値観でも、例外なく疑って下さい。
親や先生、あるいは偉人と呼ばれる人が、述べたことでも同じです。
全てを疑ってかかって下さい。
そして、その考えがなければ、自分は自由なんだと思えるのであれば、その考えに縛られないような、生き方をして下さい。
他人を理解し、思いやることは大切です。
ですから、誰かを傷つけるようなことは、してはいけません。
しかし、それと自分を他の人の価値観に、合わせることとは別物です。
知らない間に、そこを一体化させてしまうので、いつの間にか束縛されてしまうのです。
どんな考えを押しつけられようと、自分がそれを受け入れなければ、自由でいられるのです。
特に日本では、みんなが同じ考えを持つように、求められがちですが、個性や多様性を大切にし、育まなければいけません。
そのためにも、一人一人が自分の思ったとおり、自由な生き方ができるようになる、必要があるのです。
人工光合成

トヨタ自動車グループの豊田中央研究所が、人工光合成の効率を、世界最高水準に高めることに、成功したというニュースがありました。
太陽光を使い、水と二酸化炭素から、酸素と蟻酸を精製するのですが、この蟻酸から水素を取り出して、発電に利用ができると言います。
つまり、蟻酸は水素の貯蔵として、利用できるということですね。
水を電気分解して水素を発生させる場合、電気分解に使うための電気を、どのようにして用意するかが問題です。
太陽光発電や風力発電のような、自然エネルギーを利用できればいいのですが、現時点では、大半が火力発電による電気を、利用せざると得ないようです。
そうなると、水素エネルギー自体は、二酸化炭素を発生しなくても、水素を作るための発電をする時に、二酸化炭素が発生してしまいます。

しかし、光合成によって作られた、蟻酸を用いて水素を発生させる場合、必要なのは光と水と二酸化炭素だけです。
二酸化炭素を発生させるどころか、逆に消費するわけですね。
豊田中央研究所 では、2011年に人工光合成を世界で初めて成功させたそうですが、その時の太陽光の有機物への変換率は、0.04%だったそうです。
それが今では、7.2%にまで向上されたのですが、これは植物の光合成の効率よりも、高い数値だそうです。
植物は光合成により、でんぷんを作ります。
人工光合成でも、いずれはでんぷんも生成できるようになるでしょう。
全くクリーンな形で、世界中のどこでも、エネルギーや食料が作れるようになれば、世の中の様子は、がらりと変わると思います。
でも、この技術を独占するようなことは、しないで欲しいですね。
貧しい国、エネルギーに乏しい国の人々に、笑顔が広がる様子を、想像してもらいたいです。
全ての冨は、全ての人々、全ての存在に、共有されるべきだと思います。