未来を知る 自分を知る

将来、自分がどうなるのかわからない。
こう考える時は、自分というものを、他者の思考や動き、あるいは世の中の情勢や、天変地異などに委ねています。
自分自身には、自分の未来について、何の選択権も決定権もないと、見なしているのと同じです。
しかし、自分が認識する世界というものは、自分だけのものです。
他の人にはわかりません。
みんな、自分と他の人が、同じ世界を体験しているに違いない、と思い込んでいるだけです。
でも、体験している世界は、一人一人異なります。
同じ状況下にあって、ひどい目に遭う人と、そうでない人に、分かれることがありますよね。
それは、それぞれの選んでいる世界が、別々だからです。
人は、自分がどのような人生を体験するのかを、予めわかった上で、生まれて来るのだと考えて下さい。

何かで命を失う場合、それが人生設計の中にあることもあれば、人生設計を外れたための結果ということも、あると思います。
前者はそこで死ぬ予定になっているわけですが、後者の方は選択によっては、死を避けられたということです。
自分の将来がわからない、自分の人生は不安だらけだ、という人は、人生の主導権を手放した状態です。
せっかく、人生設計を立てて生まれたはずなのに、そのとおりに生きようとしていません。
その結果、世の中に翻弄され、思いがけない出来事に巻き込まれたり、病気や怪我でひどい目に遭いやすくなるのです。
そうならなくても、いつも不安にさいなまれ、心から安心できる暮らしができません。
自分の人生設計を知る人は、世の中に翻弄されません。
翻弄されているように見えても、心の中は安定しています。
彼らは自分がどうするべきか、どうあるべきかを、心得ています。
生きるということ、死ぬということを、きちんと受け止めています。
死ぬ時は、そこで死ぬことになっていたのだと考え、じたばたしません。
そこから逃げよう、そんなものから避けようとする人は、自分の人生設計を、放り出しているわけです。
そんな人にとって、未来は不確かであり、不安に満ちています。
未来がどうなるのか、世の中の情勢で、確率的に考えることしかできません。
しかし、確率というものは、ある条件下において成立しますから、災害やコロナウィルスのような、思いがけないことが起こると、途端に違う数字に変化します。

それに対して、人生設計を知る人は、自分がどうなるのかを知っていますから、周りの状況が変わっても、心がぶれません。
目の前に障害が現れたとしても、その先に自分の未来があるのを知っているので、慌てたりしないのです。
では、どうすれば自分の人生設計を、知ることができるのでしょうか。
それは、自分の好奇心が教えてくれます。
自分が何に興味を持つのか、どんな時に嬉しい気持ちになるのか、どんな所でどんな事をしてみたいのか。
そんな気持ちが、進むべき方向を示してくれているのです。
今はそれができる状況ではないと、多くの人が言い訳をして、進むべき方向に進むもうとしません。
でも、飢えた猛獣が迫っているとしたら、どうしますか。
今、この仕事が忙しいからと言って、逃げないでしょうか。

大切な家族が、今にも死にそうになっている。
だけど、仕事を休めないから会いに行かないと、考えますか。
結局、どうするかは、何を重視するかで決まります。
好奇心が示してくれている、人生設計の道を重視するか否かです。
それは個人の自由であり、好奇心に従おうが従うまいが、どちらでも構いません。
ただ、選んだことの結果が、目の前に現れるだけのことです。
何が現れようと、どんと受けて立つというのであれば、それでいいのです。
でも、それで右往左往して、苦しみ悩むのであれば、何を重視するべきなのかを、再考してみるのがいいでしょう。
好奇心に従って生きるようにすると、自分の未来の姿が見えるようになります。
それが自分の未来の姿なのだと、知るわけです。
それを知った瞬間から、その人はすでに、自分が知った未来の姿を、今に体現し始めています。
その人にとっては、その姿はもはや確定したものなのです。

そこに、お金を稼いでいる自分とか、みんなの注目を浴びている自分とか、余計な要素は混ぜないことです。
自分がどんな人間でありたいのか。
どんな活動をしていたいのか。
それだけを、思い浮かべているといいのです。
お金を絡めると、お金があるのが幸せなのだという、歪んだ価値観で動くことになります。
それは自分の好奇心が示すものとは、別の方向へ進むことです。
そうなると、見えていたはずの未来の姿は、現実には現れて来なくなるわけです。
本当に自分が求めているもの。
それだけに集中していることが、人生設計で決められた未来の自分を、知ることにつながるのです。
肩書きに囚われない

人は相手のことを、肩書きで判断する傾向があります。
特に日本人は、その傾向が強いように見えます。
初対面の見知らぬ相手のことは、何もわかりません。
ですから、信用するわけにいきませんし、この人は何者なのだろうと、いぶかしむでしょう。
しかし、相手の素性を示すものがあると、ああ、こういう人なのかと、安心するわけです。
日本で名刺交換をするのは、そういう理由でしょう。
ただ、それはあくまでも、名刺に書かれた素性であって、それが本当かどうかはわかりません。
やはり、相手を信用するしかないわけですね。
だったら、初めから信用しても、同じじゃないかと思うのですが、日本人は名刺の肩書きに弱いのです。
肩書きは、本人がどこで働いているのかを示すだけでなく、その中のどのポジションにいるのかも、示しています。
それは部署だけでなく、その部署の中の上なのか、下なのかまで伝えるものです。
日本人は権威に弱いですから、「長」と付いていると、相手に敬意の念を持ちます。
「長」が付いていないと、下っ端だと見なして、あまり相手にしません。
「長」が付いていても、それが課長なのか、部長なのか、社長なのかで、相手を見る目が変わって来ます。

また、職業についても同じで、小さな会社や名前を知らない会社では、何とも感じません。
しかし、有名な会社であったり、病院の医師だとか、大学の教授だとかになると、すごい人が来たと言わんばかりの、応対になるのです。
それは、相手への敬意と言うより、権威に迎合しているようなものです。
こういう方たちは、権威を重視していますから、権威に憧れますし、自分に対して従う者には、いい顔を見せますが、そうでない者には、冷たい態度を示します。
自分にも、それなりの権威があるというところを、見せたいし、自分でも感じたいのでしょう。
でも、それは窮屈な生き方になりますし、相手に権威を認めて頭を下げたとしても、必ずしもそれは、相手が望むものではありません。
人の上に立つ人たちは、孤独な人が多いように思います。
仕事上の付き合いや、人間関係がありますから、そう言う意味では、孤独ではないかもしれません。
また、多くの人がその人の権威を認め、それなりに応対してくれるのでしょうが、やはり孤独なのです。
個人的なことも含めて、自分と対等に様々なことを、語り合える相手というものは、そんな簡単に見つかるものではありません。
経営者や管理者としても、上司がいない立場ですから、相談相手がいません。
同業者であれば、ある程度相談できるでしょうが、全てをさらけ出すことは、できないでしょう。
こういう人は、肩書きに囚われない、本当に信頼できる話相手を、求めています。
それなのに、こちらがペコペコしてしまっては、相手をがっかりさせるだけになるのです。
肩書きとは、どこで何をしているのかを、示すだけのものに過ぎません。
そこに権威を引っ付ける必要はないのです。

相手がどんな人物なのか、それは肩書きではなく、自分の目で見て確かめるしかありません。
口でどんなきれい事を言ったとしても、やっている事が真逆であれば、そういう人物なのだと見抜けるでしょう。
その人物を判断するのに、肩書きなんて、何の役にも立ちません。
また、権威に関心を向けなくなれば、自分自身も権威を求めなくなりますから、周りの人たちとも、本音を語る関係が築きやすくなります。
職場はアットホームな雰囲気になり、みんなが仲間だという意識が、芽生えるでしょう。
権威が好きなのは、一向に構いませんが、それが自分を窮屈にしているということを、知っておくべきだと思います。
みんなが対等で、みんな同じなんだという意識の下に、作られる社会は、とても居心地のよいものでしょう。
それに、みんな同じだという考えは、人間以外のものにも、向けられるでしょう。
それこそが、本当に地球に優しい社会であり、今の口先だけの、地球への優しさとは、全く異なるものです。
いつもと違うこと その2
いつもと違うことを、生活に取り入れるのは、身体的にも精神的にもいいことです。
ここで言う精神的にいいというのは、ストレスから解放されることで、心が安らぎを覚えるということです。
でも、そこからさらにもう一歩進んだ、いつもと違うことをすることで、解放された心が、もっと自由を感じられるように、してみましょう。
それには、イメージを使います。
たとえば、草花や木々に心があると、想像するのです。

植物には目も耳もありませんが、周囲を感じていると考えて下さい。
口がないから、人間のように喋ったりはしませんが、テレパシーで思いを伝えることができると想定します。
そんな感じで、人間とは異なる、植物独自の心をイメージして、語りかけてみて下さい。
おはようとか、元気にしてるかいとか、今日もいい天気だねとか、口に出しても構いませんし、心の中で話しかけてもいいです。
毎日、声をかけていると、本当にその植物に心があって、挨拶を返してくれるように感じて来ます。
その草花や木々に触れなくても、見ているだけで、触感や質感、香りなどが心の中に、浮かんで来ると思います。
同じようなことを、あらゆる物に対して、やってみましょう。
すると、自分がいろんな心に囲まれ、つながっているような気がすると思います。
そうなると、世界観がまるで違って来るでしょう。
学者や知識人と呼ばれる人が、どう考えていようと、何を言おうと、そんなことはどうでもいいのです。
自分が世界をどう感じ、どのように認識しているのかが、何より重要なのです。
それに、これはただの想像だと思わないで下さい。
私たちが他の存在の心を、感じることができないのは、自分と他のものは別だと、完璧な線引きをしているからかもしれません。
想像という形で、その線引きを取っ払うことで、植物や他の存在たちの心を、実際に感じ取ったり、心を通わせていると考えることはできるのです。
そんなこと、あるもんかと思う人はいるでしょう。
でも、どうしてそうなのかを、その人は説明できないと思います。
否定したくなる人は、それまでの自分の習慣的な考え方に、そぐわないという理由だけで、否定したくなるのでしょうね。

首から下の感覚が全くなく、体を動かすこともできない状態を、イメージしてみて下さい。
動かせるのは、首から上だけです。
目を動かすことで、何とか見える体は、自分の体とは思えないでしょう。
体が麻痺する前の記憶があるならば、動かすことができず、感じることができなくても、それは自分の体だと、理解することはできます。
しかし、生まれつき麻痺していたとすると、それが自分の体だと言われても、全然ぴんと来ないでしょう。
それが医療技術の進歩によって、体を感じたり、動かせたりするようになった時、自分という存在の認識が、大きく変わると思います。
自分ではないと思っていたものが、自分の一部だったと知るのは、驚きという言葉では、表現できないほどの、感動をもたらしてくれるでしょう。
植物や他のものたちの、心を感じるということは、麻痺していた体の感覚を、取り戻すのと同じです。
元々全ての存在は、一つだったわけですから、私たちに心があるのならば、他の存在にも心があるのです。
そして、それぞれの心は根っこの所で、つながっているはずです。
それが本当のことかどうかなど、証明する必要はありません。
自分が周囲の存在を感じ、交流できると認識することが、大切なのです。
他の人に理解してもらわなくても、いいのです。
普段認識している世界というのも、結局は個人的な体験に過ぎません。
自分が世界をどのように感じるのか。
いつもと違う感覚を、想像を通して解放してみて下さい。
間違いなく、あなたは映画の主人公になったような、特別な存在感を味わえるでしょう。

いつもと違うこと その1

子供のうちは、いろんなことに興味を持ち、様々なことに挑戦しようとします。
歌ったり踊ったり、走ったり寝転がったり、遊んだり本を読んだり、体の全てを使いまくります。
喜んだら飛び跳ね、悲しくなったら大声で泣きます。
気持ちと体の動きが一つになっていて、その動きを見ているだけで、子供の気持ちが伝わって来ます。
ところが、大人になると、子供みたいなことをしなくなります。
それは成長することで、興味の対象が変わって来るということもあるでしょう。
でも、子供と同じようなことをすると、子供みたいだと言って笑われるので、そういうことを自制するようになるのです。
嬉しくても悲しくても、感情を表に出す前に、そこが感情を出していい場所かどうかを、確かめようとします。
他人がいると、喜びも悲しみも表現が制限されます。
気持ちを抑えることで、気持ちに伴う体の動きも制限され、日常の暮らしに必要な動きしか、しなくなるのです。
それは退屈で、機械の歯車のような、変化のない暮らしにつながって行きます。

毎日毎日同じ動きしかしなくなりますから、使わない筋肉は衰え、関節も決まった範囲しか動かなくなります。
でも、みんながそんな感じになるので、それがおかしいこととは思いません。
人生、そんなものだと受け止めるのです。
それでも、体が弱って不都合を感じると、これはまずいと考え、慌ててジムに通い始めます。
それは、普段使っていない筋肉を、鍛え直すためです。
いつもと違う運動、いつもと違う動きをすることで、体を本来の状態に、戻そうとするのですね。
ジムには、そんな役目がありますから、いいことだとは思います。
でも、本当はジムなんかに行かなくても済むような、日常の暮らし方というものを、考えた方が、時間とお金を無駄にしなくていいでしょう。
私も人のことが言える立場ではありませんが、いつもと違うことのために、わずかな時間を割く習慣をつければ、楽しみながら体力の低下を、抑えることができると思います。
体力を維持しながら、人生を豊かにするためにも、いつもと違うことを、生活に取り入れることは大切です。

Cafe de 寺子屋
ニュースで、Cafe de 寺子屋という、NPO法人を紹介していました。
大学生が起こしたもので、子供たちが勉強というものに興味を持ち、心地よく自学自習ができる場を、提供しているそうです。
夕方閉店したカフェなどを借りて、大学生たちが地域の子供たちの、学習をサポートするというものです。
学校や塾のように、これをしなくてはいけない、これができないとだめだ、というような強制的な学習ではなく、子供が自分でやりたいことを、自分のペースで学び、わからない所は大学生が、一緒に考えるというものです。
インタビューに答えていた子供たちは、みんな活き活きした顔で、勉強がとても面白い様子でしたし、親御さんからも好評でした。
カフェなので、家や学校とは全然雰囲気が違いますし、カウンター席やテーブル席、ソファーなど、銘々が好きな所で、好きなように学べるのも、自然な気持ちを引き出せるのに、一役買っているようです。
子供たちは全く自由で、何にも縛られませんから、勉強が遊びの一環になっているようです。
学校などでは、勉強と遊びがきっちり分けられています。
しかし、それではついて来られない子供もいますし、ついて来ているように見える子供も、勉強とはしなくてはいけないものだから、やっているという考えを持つようになります。
ですから、社会に出ると、勉強から解放されたという思いで、何かを学んだり、自分で考えるということを、しなくなるのです。
Cafe de 寺子屋では、大学生が子どもたちの見本となり、子どもたちと一緒に学ぶことで、子どもたちに主体的な学びのきっかけを、提供するということです。
その大きな目的は「すべての価値観が尊重される中で、自分自身で判断し、言動を選択できる社会の実現」だそうです。
全く素晴らしいとしか言えません。
本来は国や自治体が、学校において、このような姿勢を見せるべきなのですが、古い体質の中で、古い考え方に凝り固まった人たちには、不可能なことなのでしょう。
これは大学生たちが、自ら考案し、自分たちで動くことで、始まったプロジェクトです。
学びの場を提供してくれる人たちも、間接的にこのプロジェクトのメンバーだと言えるでしょう。
現在は東京都と静岡県、山梨県で活動をしていますが、その他にも活動地域を広げて行く予定で、2022年3月までに、47都道府県すべてに寺子屋をつくるのが、目標だそうです。
私がいる愛媛県には、まだありませんが、とても期待しています。
初めは小さな活動でも、それがいいとなると、あっと言う間に広がることでしょう。
未来を創る子供たちが、全てにおいて受け身で、自分では何も考えないような、大人になったとしたら、どんな世の中になるのでしょうか。
恐らく、今以上にひどい世の中になるでしょう。
しかし、このプロジェクトが広まり、子供たちが大人になっても、学ぶ喜びを忘れず、常に自分たちで考える力を、持ち続けることができたなら、今とはまったく異なる社会に、なるでしょう。
現在の人々が、何も疑わずに受け入れている、資本主義社会についても、本当にこれでいいのか、もっといいやり方があるのではないかと、多くの人が考えるようになると、そのような社会は簡単に実現すると思います。
Cafe de 寺子屋 の活動は、そんな社会が近づいて来ていることを、知らせてくれています。
また、社会を変えるためには、どうすればいいのかということを、自らの活動を通して、人々にお手本を見せてくれているのです。
ここで学んだ子供たちは、勉強の楽しさだけでなく、社会に出た時に、自分たちがどのような行動を取るべきなのかも、学んでいることでしょう。
想像してみて
想像してみて下さい。
お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。
想像してみて下さい。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。
想像してみて下さい。
歳をとって、一人きりになっている自分を。
想像してみて下さい。
死に瀕している自分を。
何かを想像する時、単なる映像だけでなく、そこに何等かの感情が、付加されています。

たとえば、山を散策している時に、大きなクマに出くわしたと想像すると、クマに対する恐怖感も、一緒に思い浮かぶでしょう。
呼び鈴を鳴らされて、玄関を開けたら、そこに包丁を持った男が立っていた。
ぞっとしますよね。
崖っぷちに立って、下をのぞき込んでいた時に、誰かに背中を押されて、落ちてしまった。
思わず悲鳴を上げたくなるでしょう。
恐怖や驚き、不安などのネガティブな感情が付加することで、想像の世界はとても嫌なものになります。
でも、想像とは自分勝手な設定で、創り上げた世界です。
設定を変えたり、自分が知らなかった情報を、付け加えることで、同じ場面が全然違うものになってしまいます。
たとえば、山で出くわしたクマは、自分が子供の頃から育てたクマで、とても人懐っこく、躾けもできている、クマだとしましょう。
クマを見たあなたは、恐怖を感じるでしょうか。
感じませんよね。
自分を出迎えてくれたクマに対して、喜びの笑みを浮かべるでしょう。
呼び鈴が鳴ったので、玄関に出ると、男が包丁を持って立っていた。
でも、実はその人は包丁研ぎのおじさんで、表で包丁を研ぎ終わったので、終わりましたよと知らせてくれたのです。
全然怖くありませんよね。
どうも、ありがとうございましたと、頭を下げるでしょう。

崖から下に落ちた場面も、実はゲームだったら、どうでしょうか。
のぞき込んでいたのは、スポンジ状の巨大なスクリーンで、落ちると同時に、落ちる時の周囲の情景が、スクリーンに映し出されるのです。
もちろん、これがゲームなのは、落とされる前からわかっています。
わからないのは、いつ突き落とされるかということだけです。
どうですか。
ワクワクドキドキしませんか。
ゲームだとわかっていても、悲鳴を上げてしまうかもしれませんね。
こんな感じで、同じように見える状況でも、そこをどのように見るのか、そこにどのような感情を付加するかで、全く違った世界になります。
これは想像の世界だけでなく、現実の世界でも同じことです。
私たちは自分が知っている情報に基づいて、物事を判断しています。
その情報が間違っていたり、情報量が限られていると、物事を正しく判断できなくなります。
その結果、本当はそんなに不安にならなくてもいいのに、不安に押し潰されそうになったりします。
困った時は、それに応じた動きをすればいいのに、そんな動きはできないと思い込んでいると、文字通り身動きが取れなくなってしまいます。

想像してみて下さい。
お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。
想像してみて下さい。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。
想像してみて下さい。
歳をとって、一人きりになっている自分を。
想像してみて下さい。
死に瀕している自分を。
これらの想像が、あなたにとって不吉に思えるのだとしたら、それはあなたが持つ情報に、問題があるということです。
私たちは世界の全てを、知り得ているわけではありません。
知ったつもりになっているだけです。
何かを嫌だと判断したくなる時、あるいは、物事がうまく行かないと感じている時、自分は知ったかぶりをしているのだと、考えて下さい。
状況が悪いのではなく、自分の持つ情報が足らないのか、間違っているのだと考えてみて下さい。
何故なら、同じような状況でも、笑顔を見せられる人がいるからです。
笑顔が嫌いであるのなら、仕方がありませんが、自分も笑顔になりたいのであれば、笑顔を知る人の情報を、自分も持つようにすればいいのです。
新たな情報を得て、新しい物の見方ができるようになった時、再び想像してみて下さい。
お金がなければ、どんな暮らしになるのかを。
病気や怪我で、体が不自由になった時のことを。
歳をとって、一人きりになっている自分を。
死に瀕している自分を。
状況は同じでも、きっと真逆のイメージが、思い浮かぶことでしょう。
意識を探る

手で自分の体に触れてみて下さい。
皮膚の感触や温もり、皮膚の下の脂肪や筋肉、骨などの感じも伝わって来ますよね。
体から手を離さずに、そのまま手をずらすようにして、他の部分を順番に触れて見ましょう。
手には次々に、体の各部位の感触が、連続して伝わって来ます。
この感じは、意識においても、同じことが言えます。
私たちの意識は、時間に応じて変化する部分と、変化しない部分があります。
言語的な思考は、変化する方です。
非言語的な思考は、変化しない方です。
非言語的な思考は、一瞬一瞬をじっと見つめている感じです。
言語的な思考は、一瞬一瞬で変化して行きます。
つまり、一瞬一瞬が連続することによって、生じる思考です。
言語的な思考は、時間の流れの中においてのみ、有効な思考なのです。

自分の体を手で触れた時の、手が非言語的な意識で、触れられる体の各部位が、言語的思考を構成する、一瞬一瞬の要素です。
手の動きは時間を示します。
手の動きがなければ、手は一ヶ所の感触しかわかりません。
それは言語的思考が、止まっている状態です。
何が言いたいかと言いますと、私たちが通常行っている思考というものは、意識体としての自分自身の中に、創られた意識の焦点が、意識体の中を動き回ることで、生じているということです。
意識の焦点を創っているのは、全体としての意識体です。
自分の意識体の中の、どの部分に焦点を合わせるかで、その人の思考が決まります。
つまり、物の考え方や価値観が、決まるのです。
新しい考え方や価値観を得るという時は、焦点を合わせる部分が移動した、あるいは焦点の移動範囲が広くなった、と言えるでしょう。
考え方ががらりと変わったならば、以前に焦点を合わせていた部分には、もう焦点を合わせなくなったということです。
これは人間的な成長を示していますが、大きな飛躍となる思考の変化の場合、人間的な進化を示します。
通常は意識の焦点は、同じような所を、行ったり来たりしています。
刺激を感じないような日々を、機械的に送っている場合、意識の焦点の移動領域は、狭い範囲に限られます。
落ち込んだり、世の中を否定的に見てしまうような、ネガティブな思考に囚われている時は、意識の焦点は極めて狭い領域に、閉じ込められたようになっています。
私たちの思考は、意識の焦点が、平面的な移動をしている結果だとしましょう。
しかし、意識の焦点が動ける範囲というものは、実は立体的だとします。
平面的にしか動かないのは、動ける領域がそこだけだと、意識の焦点が認識しているからです。
ネガティブな思考に囚われている時は、ほとんど動ける範囲がないと、意識の焦点は認識しています。
そうじゃないと理解すると、広い範囲で動けるようになります。
それと同じで、平面的な移動だけでなく、立体的に移動できるんだと、意識の焦点が認識できれば、人は今とは全く異なる思考を、手に入れることになるでしょう。

それには、どうすればいいのか。
それは固定観念を捨てるということです。
人間の科学は万能ではありません。
人間が知っている知識や情報というものは、ごく限られた範囲のものです。
データとして確認したと言っても、その知識が地球を遠く離れた所でも、通用するという保証はありません。
意識というものを、理解しようとしない科学は、その時点で不完全だと言えます。
そんな科学や、日常の経験に基づいた、いわゆる常識を、絶対的なものだと信じているうちは、意識の焦点は立体的に動くことはできません。
自分が生まれて来る前から、この世界には様々な思考や価値観が、渦巻いています。
ですから、それが当たり前のように思ってしまうわけですが、そうではないのだと理解することが、人間の進化への第一歩となるのです。
人生は畑仕事

人生とは畑仕事、野良仕事のようなものです。
汗水流してがんばって、できた物を収穫します。
でも、他の人の畑は豊作なのに、自分の畑は貧弱で、出来の悪いものばかり。
そんな風に思える人は、結構いるのではないでしょうか。
野良仕事の手を休めていたのなら、結果が悪くても納得が行く。
しかし、自分なりにがんばったのに、全然うまく行かない。
今度こそ、うまく行くかと期待してると、台風や日照りなどで、収穫直前の作物がだめになる。
そんながっかり気分が、世の中にはたくさんあると思います。
でも、世の中というものは、バランスでできています。
いいことがあれば、悪いこともあります。
どちらか一方だけというのは、有り得ません。
それは人生全体でも言えることですが、一つ一つの出来事についても言えます。
どんなに悪い出来事でも、それがあったから、こうなったという、良い局面があります。
つらく悲しい経験があるからこそ、小さな喜びに気がついた、ということもあるでしょう。

他の人の畑がよく見えても、見ているのは、作物が実る景色だけです。
その作物ができるまで、その畑の持ち主が、どれほど苦労したのかは見えません。
また、どんなにいい作物が実っているように見えても、それが畑の持ち主が、求めるものでなければ、それは不作と同じ意味になります。
他人の畑がどのように見えたとしても、そこの事情までは知る由がありません。
ですから、自分の畑と他人の畑を見比べることには、意味がないのです。
表面的な部分だけを見て、ああだこうだと悩むのは、時間の無駄というものです。
それよりも、自分が畑にどのような作物を、期待しているのかを、確かめるべきでしょう。
流行に追われて、人と同じような作物を作ろうとしても、うまくは行きません。
作物を育てるには、土壌が大切です。
土壌の状態が違えば、同じ作物でも、うまく育ったり、全く育たなかったりします。
人は一人一人異なる存在です。
求めているものが違いますから、そこに植えるべき作物も、違うのです。
それなのに、他の人と同じ作物を育てようとすると、うまく育ちません。
ちゃんと土壌に合った作物を、育てる必要があるのです。
つまり、自分の本音がどこにあるのか、自分が本当は何を求めているのか、ということが、人生においては、非常に大切なことなのです。
それさえしっかりしていれば、作物はすくすく育つことでしょう。

時に、台風などの災害に見舞われることもあるでしょうが、そんなものにもへこたらず、折れても曲がっても、作物は育ちます。
そして、素晴らしい収穫の時が訪れるでしょう。
それは、畑一杯に採れるものかもしれませんが、わずかにしか採れないものかも、しれません。
でも、それは不作なのではなく、そういう作物なのです。
つまり、誰もが手に入れられるようなものではない、非常に貴重で価値ある作物なのです。
これもバランスです。
畑一杯採れる収穫の価値が、わずかな収穫に凝縮されているわけです。
さぁ、あなたの畑の土は、どんな作物を植えて欲しがっているでしょうか。
一周年
このブログを始めて一年が経ちました。
今日から二年目に突入です。
思いつきで始めたことですが、我ながら、よく一年続いたと思います。
スマホは、まだ持っていません。
でも、手持ちの携帯電話が3Gのため、今年いっぱいで使えなくなると、携帯電話会社からの通知がありました。
外に出たところで、スマホをいじることは、ほとんどないでしょうから、新しい契約でもガラケーの携帯電話で、全然不都合はありません。
でも、スマホに附属のカメラには、魅力を感じます。
空を眺めていると、雲が見えますが、これがたまに、面白い形になることがあるんですよね。
でも、上空は強い風が吹いているので、見ているうちに、あれよあれよと、形が変わってしまいます。
あ、と思った時に、パシャッと写真が撮れたら、面白いなと思いました。
そう考えると、スマホが便利かもしれないと考えています。
また、最近いろんな花を目にするのですが、見たことがないような花が多いですね。
道端に咲く小さな花も、改めて眺めてみると、とても愛らしいですし、こんな形をしていたのかと、つい写真を撮りたくなってしまいます。
そんなことも考えると、次回はスマホを購入するかもしれません。
でも、まだしばらく先のことですけど。
それにしても、この一年は世界中が大変でした。
それは、まだ終わっておらず、今年も引き続き大変なようです。
みなさん、ワクチンが神頼みのような感じですが、恐らくその効果は限定的だと思います。
と言うのは、世界を混乱させている問題の本質は、そこにはないからです。
コロナとは別の一般的な話ですが、具合が悪くなって、病院へ駆け込む人がいますよね。
でも、どうして悪くなったのかは、理解している人が多いと思います。
病院に行くのは、病気になった状況を維持しながら、どうすれば具合をよくできるのか、という相談に行くのですね。
たとえば、寝る間もなく、お金の心配や仕事への不満ばかりを抱えて、ずっと働き続けている人が、仕事を休むように言われても、そんなことはできないと、拒否するようなものです。
みんな、できれば自分の状況や環境を、維持したいと思っているのです。
それなりに安定して来たことを捨てて、新しい環境に飛び込むのが、怖いのでしょう。
でも、医者の忠告を聞いて、あるいは病気や怪我によって、半強制的に新しい生き方を送るようになると、みんな目が覚めたように、今までの暮らしは何だったのかと、思うわけです。
今の人類は、そんな状態にあるように思えます。
これまでの暮らし、これまでの社会、これまでの価値観に、しがみついていたいのです。
たとえ、それがいい暮らしではなかったとしても、これを手放したら、本当に終わりだと思うのでしょう。
これから沈没する豪華客船に、必死にしがみついているようなものですね。
しかも、その豪華客船には、人を襲う猛毒のアリが、一杯いるのです。
アリから逃れるためには、船から海に飛び込まなければなりません。
海に飛び込むのは怖いことですが、本当は船に留まる方が、もっと怖いはずなのです。
それなのに、多くの人はそのことが理解できず、船にしがみついていようとするのです。
海に飛び込んだらおしまいだと、思うのでしょうが、実際に飛び込んでみると、早くから海に飛び込んで、自分たちの小振りで自由に動ける船を、持っている人たちが助けてくれます。
客船に乗っていた時から、その人たちの存在はわかっていましたが、みんな、そんな人たちのことを、ただの変わり者としか、見て来ませんでした。
でも、そういう人たちは、勇気を持って海に飛び込んだ人を、決して見捨てたりはしません。
必ず手を差し伸べて助けてくれます。
助けてもらった人は、彼らと共に過ごすことで、彼らが何を求めているのかを、知ることができるでしょう。
そして、それは自分が本当に求めていたものだと、気づかされるのです。
今は変革の時です。
みんなが黙って、権力者に従う時期は、終わりを迎えています。
ただ、そのあとどうすればいいのか、わからないために、人々は混乱しているのでしょう。
私はその案内人になったつもりで、このブログを続けて行きたいと思います。
全ての人にとは言いません。
私と縁があった人に、その人のためだけに、役に立ちような情報を発信して行くつもりです。
感覚の話 その2

電話の受話器に伝わる音声というのは、電話線の向こうにある、別の電話の受話器が、拾った音声です。
向こうにある音声を、こちらで再現しているというわけです。
ということは、私たちが感じている感覚というものは、体の神経に伝えられた情報が、再現されたものだと、考えることができます。
私たちが感じている感覚とは、私たちの心の振動パターンです。
言い換えれば、感覚とは、精神エネルギーの振動なのです。
そして、それは元の情報源の持つ、精神エネルギーの振動を、再現したものなのです。
これは、全ての存在が、心と同じ性質のエネルギーで、できていると考えることが、前提になっています。
物質エネルギーと呼ばれているものも、ある種の精神エネルギーであるという考えです。
波長や振動数の違いはあっても、全ての物は、同種のエネルギーで構成されていると、考えるわけです。
そう考えると、光や音や匂いというものも精神エネルギーの一種ですし、それらを発した何かのエネルギー状態を、伝達しているものでもあるのです。
それに対して、味覚や触覚は、対象物から直接得た情報と言えるでしょう。
何かに触れている時の感覚というものは、言ってみれば、その対象物の心を、直接感じているわけですね。

木に触れてみて下さい。
そこに感じるものは、木の心の一部です。
石に触れてみて下さい。
そこに感じるものは、石の心の一部です。
空気や水を感じてみて下さい。
それは、空気や水の心の一部なのです。
気がつかなかったり、当たり前過ぎて、気に留めていないかもしれません。
でも、私たちは常に何かに触れています。
それは、私たちが常に何かの心と、触れ合っているということです。
私たちが向こうの心を感じる時、向こうも私たちの心を、感じているはずです。
自分の足に触れてみて下さい。
足に触れている手の感覚と、手に触れられている足の感覚が、わかりますよね。
何かに触れている時、その何かには、足で感じたような、触れられている感覚が、生じているはずなのです。
私たちがわからないだけで、周りにある全ての物は、私たちのことを認識しているのです。
多くの人が視覚ばかりを重視して、他の感覚に注意を向けていないと、言われています。
でも、視覚以外の感覚にも、意識を向けて下さい。

特に触覚は重要です。
そうして何かを感じている自分を、味わってみて下さい。
それは何かと、心の交流をしているということなのです。
あなたがその何かに、愛着があるのなら、その気持ちを十分に伝えてあげて下さい。
その何かは、きっと喜び、あなたに愛を返してくれるでしょう。