他の生き物の世界
人間は自分がいる世界、自分が認識している世界が、唯一のものだと思いがちです。
しかし、個人が体験している世界は、人それぞれで異なりますし、人間以外の生物が経験している世界となると、全く別の世界です。
よく言われるのは、犬の目は色がわからないから、犬が見ている世界は、白黒の世界だということです。

猫は幽霊が見えるそうですので、幽霊が存在している世界の様子も、見えるのでしょう。
モンシロチョウやハチドリは、紫外線が見えるそうです。
でも、紫外線が見えない人間には、それがどのように見えるのかは、わかりません。
昆虫が持つ複眼は、小さな目がいくつも並び、ほぼ360度全部を把握できるようです。
クモは目が八つあります。
でも、人間の目とは違いますから、一つの目が見ている映像は、人間が見ているものとは、全然違うのでしょう。
もしかしたら、単なるエネルギーのような、もやもやした感じの映像かもしれませんね。

目がたくさんあると、その生き物は世界を、こんな風に見ていると考える時に、丸いモニターがいくつも並べた状態を、イメージするかもしれません。
一度にたくさんの画面を、同時に把握しているイメージですね。
でも、人間には目が二つありますが、私たちが認識している映像は一つです。
二つの目から送られた視覚情報を合成して、一つの立体映像として把握しているのです。
と言うことは、目がたくさんある生き物も、多くの映像を一度に認識するのではなく、それらが合成された特殊な視覚情報を、感じているのかもしれません。
視覚よりも、聴覚や嗅覚に重点をおいた生き物も、いるでしょう。

モグラはずっと地中にいるわけですから、視覚よりも嗅覚や聴覚が発達しているはずです。
夜、空を飛び回るコウモリは、超音波を発して、跳ね返ってくるその超音波を聞き取り、獲物や障害物を確かめています。
視覚情報もあるのでしょうが、それよりも聴覚情報の方が大きいのです。
また、私たちは聴覚を単なる音として認識していますが、他の生き物では音を、一種の映像のようにとらえているものも、いるかもしれません。
いずれにせよ、みんな、同じ所にいるのに、見ているもの、感じているものが、全然違うということです。
互いに干渉し合うことはできても、それぞれが生きている世界は、別々なのですね。
面白いと思いませんか。
それに、人間はみんな同じ世界にいるのだと思っていても、本当は一人一人が、独自の世界にいるのだと、考えやすくなるのではないでしょうか。
本当の世界というものは、あらゆる情報の塊なのでしょう。
そして、人を含めて、生き物が認識している世界は、その情報の中から選ばれたもので、構成された独自のものなのです。
鏡の中のあなた

あなたの目の前に、とても恐ろしい怪物がいます。
恐ろしい顔でにらみつけ、今にも襲いかかって来そうな様子です。
あなたはその怪物と、戦うことも考えますが、恐らく戦っても勝てないと、判断します。
でも、逃げたとしても、その怪物はどこまでも追いかけて来るでしょう。
あなたは追い詰められて、叫ぶでしょう。
「こんなのは嫌だ!」と。
すると、あなたは気がつきます。
その怪物が、実は鏡に映った、自分の姿なのだと。
それはそれで、あなたは自分に絶望するかもしれません。
だけど、自分が怪物でいたくないと思ったら、別の姿に変わるのです。
それは、あなたが満足するような姿でしょう。

あなたの目の前に、光輝く存在がいます。
とても神々しく、とても美しいその存在は、まるで神か天使のようです。
あなたを素敵な気分にさせてくれる存在を、あなたは憧れ慕います。
でも、その存在と自分を比べて、自分に自信をなくすかもしれません。
あなたはうなだれ、つぶやきます。
「自分もあんな風になりたい」
すると、あなたは気がつきます。
その光輝く存在は、鏡に映った自分なのだと。
初めは信じられないかもしれません。
だけど、我に返ると、それが真実だと気づくでしょう。
鏡の中には、あなたしかいないからです。

人はエネルギーの存在です。
肉体を伴った人間としてではなく、エネルギー体として、自分を考えて下さい。
あなたが体験している世界も、あなたの中に映し出されたものです。
つまり、あなたが体験している世界は、あなた自身のエネルギー状態を、反映したものなのです。
私たちは、自分と世界を別のものと見ています。
世界とは自分以外のもの、という認識です。
世界で起こる様々な出来事に翻弄され、嫌な思いをさせられたなら、世界を怖い所だと受け止めます。
世界で起こる感動的な出来事や、自然の壮大さに心が打ち震えると、世界は素晴らしい所だと考えるでしょう。
でも、あなたが感じる世界は、あなたが取り込んだ情報を元にして、あなた自身が感覚や感情で色づけをした、あなただけの世界です。
言い換えれば、あなたが感じる世界とは、あなた自身を表したものなのです。
あなたが不安に駆られて、何も信用できなくなると、世界は孤独で寂しいものになるでしょう。
あなたが怒りに駆られて、何にでも腹を立てていると、世界は争いばかりが目に付くものになるでしょう。
あなたが喜びに震えて、何にでも感動するならば、世界は光と幸せに満ちたものになるでしょう。
今あなたが感じている世界とは、鏡に映した、あなた自身なのです。

雑談の大切さ

家族や友人、知人、職場の同僚などと、日常のことや、仕事のこと、自分が興味のあることや、小耳に挟んだようなことを、喋り合いますよね。
別に何かの目的があるわけでなく、何となく喋って、自分が考えていることを、わかってもらったり、思いもしなかった話を、聞かされたりします。
特に話題が決まっているわけでなく、その場の雰囲気や思いつきで、適当に喋るから、こういうのを雑談と言うんですね。
それは、ちょっとした楽しみにもなりますから、日本人的には遊んでいるように、見えることがあるようです。
日本人の古い考え方では、遊びは楽しいことで、仕事は楽しくないことと、きっちり線引きをされている所があります。
子供の場合、勉強が仕事だと見なされるので、勉強は楽しくないことであると、位置づけられています。
授業中に隣の子と、雑談などしようものなら、先生の雷が落ちてしまいます。
仕事にしても、雑談をすると、口を動かすのではなく、手を動かせと言われるでしょう。
楽しければ、放っておいてもすることが、楽しくなければ、やりません。
ですから、楽しくないことをする時には、努力だの苦労だの、根性だの頑張りだの、と言われるのです。
楽しくないことを無理やりさせられて、結果が出せないと、お前はだめだと言うのが、学校でも職場でも、日本ではよく見られる光景です。
しかし、勉強にしろ仕事にしろ、その中に自分なりの楽しさを、見つけることができれば、無理やりの作業ではなくなり、自主的な行動になります。
そうなると、忙しくても嫌じゃない、大変だけと楽しい、となるのです。
雑談は、そんな楽しさを見つける、きっかけになることがあります。
また、精神的な安定にも、雑談は大いに役立っています。

今は新型コロナの影響で、仕事や学校の授業で、パソコンやスマホを使うことが、推奨されています。
それは人と人との接触を避けながら、作業を行うという発想です。
これは一つの方法であり、職場や学校へ行けない人にとっては、便利なやり方でしょう。
しかし、誰にでもこれをするとなると、問題が起きて来ます。
多くの人と一緒にいるのが、苦手な人はいます。
そういう人にとっては、こういうやり方もあるよと、いうのは朗報でしょう。
しかし、いろんな人と直接顔を合わせて、雑談がしたい人にとっては、このやり方が苦痛になっていると聞きます。
中には、精神的ダメージを受けてしまう人も、いるようですね。
人は互いにコミュニケーションを取りながら、集団の中における、自分の位置を確かめて安心します。
でも、集団の中にいても、他の人と心が通わせられなければ、やはり孤独に陥ってしまいます。
ただ喋ればいいということではなく、喋るということで、相手と心を通わせるということが、重要なのです。

大勢の人間を集めて、何も喋らないで、黙々と働けという仕事のスタイルは、人間をロボットのような機械として見ているわけで、それに付いて行けない人は、少なくないでしょう。
雑談ばかりで作業をしないのは困りますが、適度な雑談というものは、心の潤滑油になって、同じ作業を持続する力を、与えてくれるものです。
また、雑談の中から、新しい商品のアイデアや、新たなやり方などが、生まれることがあるようです。
先見の明がある企業では、従業員が快適に雑談ができるような、職場環境の配慮を心掛けていると言います。
日常生活においても、仕事においても、人間にとって雑談は重要です。
特に、コロナ騒ぎのような状況においては、雑談の重要性は増します。
雑談をうまく取り込み、雑談を楽しむということを、個人でも企業でも、活用してもらいたいですね。
鍋の中のお湯

鍋に水を入れて、火に掛けると、水の中で対流が起こります。
底で温められた水が、上に向かって移動するのです。
その分、まだ温まっていない水は、上から下に移動します。
温められて上に移動した水は、移動するうちに、周囲の水に熱を奪われるので、次第に温度は下がり、再び下へ下がることになります。
これは人の意識の状態に、よく似ています。
人は気分が落ち込んだり、高まったりを繰り返します。
とことん落ち込むと、どん底の中に何かを見つけ、それを力に急浮上します。
人によっては、そのまま水面まで上昇し、蒸気となって、水の自分とはおさらばとなりますが、多くの人は蒸気になれず、上がったはずが、いつの間にか、また下へ落ちて行くのです。
ここでいう水の状態とは、一般的な思考や価値観のことです。
人はその中で、上がったり下がったりしているのです。
蒸気になるというのは、そういう思考や価値観から抜け出し、一段高い所から、全体を眺められるようになるということです。
熱を得た水分子が、蒸気になろうとするのは、自然の摂理です。
それと同じで、人も心に熱いものを感じると、自然に視野が広がり、深い考えを持つようになるのです。
ただ、鍋の水が過熱されないと、蒸気になれる水分子は、とても限られてしまいます。
人の心も、熱くなるようなものがなければ、鍋に入れっ放しの水のように、どよんとして変化がありません。
元々水面近くにある水分子だけが、自然に蒸発できるように、人間社会においても、一部の人だけが、物事を悟ったように感じているのです。
しかし、加熱されることで、鍋の水に対流が生まれ、多くの水分子が蒸発のチャンスを手にするように、人間社会でも世界的な出来事が、人々の心を熱くすれば、多くの人が深い考えを持つようになるでしょう。
そして、それは今なのです。

新型コロナが世界中で、猛威を奮っています。
しかし、コロナ以外でも、あちらこちらで紛争や差別、貧困や飢餓などの問題が、露わになっています。
そこに自然災害も加わり、人々は嫌でも苦しみや困難に、直面させられるのです。
でも、そんな状況の中だからこそ、人々の心を熱くするものが、見つかるでしょう。
普段なら、あまり気に留めないようなことが、人の心を熱くするのです。
そして、それは人々の心の対流を起こし、やがて現状の価値観を超える思考が、次々に生まれて来るのです。
テレビやインターネットのニュースなどを見ていると、すでにそんな新たな思考や価値観が、生まれて来ているのがわかります。
それは、来たるべき新たな社会の姿を、垣間見せてくれています。
派手な記事ばかりでなく、そんな心を熱くしてくれるような記事に、目を向けてみて下さい。
きっと、あなたも知らないうちに、意識の対流に巻き込まれ、深い思考を持つようになるでしょう。

UFO情報

去年の12月下旬、当時の大統領ドナルド・トランプ氏は、 UFOに関する報告書を、180日以内に発表することを、連邦政府機関に求める法案に署名しました 。
180日と言うと、半年ですね。
去年の12月から半年と言うと、今年の 6月、つまり来月です。
180日以内に発表と言うと、まずぎりぎり180日頃に発表ということでしょう。
180日以内だからと言って、早くに発表されるとは思えません。
実際、もう 5月の中旬に入っていますが、今のところは発表されていません。
それでも最終期限である来月に、何等かの発表があるのは間違いないでしょう。
去年の 4月には、アメリカ国防総省は、3本の UFO映像を開示して、UFOの存在を公式に認めたことは、記憶に新しいでしょう。
それは人類にとって、月や火星へ人を送り込む以上に、科学的興奮をもたらす、すごいことですし、タカ派の人々にとっては、最高の脅威に見えるはずです。
それなのに、世の中には無関心が広がり、UFOよりもコロナや経済の方にばかり、目を向けています。
これは、どうしたことなのかと思いましたが、恐らくは、UFOの存在を隠そうとして来た、各国政府の思惑どおりに、人々がUFOに興味を持たないよう、洗脳されているのでしょう。
UFO なんて馬鹿馬鹿しいことだとか、UFO で騒いでも飯は食えないとか、UFO の話をするやつは狂ってるんだなどという、見方が広がっているのだと思います。
こんな中では、たとえ UFO に関心があっても、そのことを公で口にすることはできません。
逆に、誰かが UFO のことを喋っているのを耳にすると、周囲の人と一緒に、その人のことを馬鹿にするでしょう。
UFO の存在を認め、それについて真剣に考えたならば、どうしても今の科学の概念を、超える思考を持つ必要が出て来ます。
それは人々の世界観を変え、人としての生き方を、見つめ直すきっかけになるのです。
ところが、そうなってはまずい人たちが、いるのでしょうね。
それは今の経済社会において、お金や権力を握っている人々です。

この人たちは、今の体制が崩れると、自分たちの地位や立場が、失われると恐れているので、新しい変化を恐れ、拒むでしょう。
独裁国家のトップが、違う考えを持つ者たちを、次々に粛正して行くのと、構図は同じです。
ただ、独裁者のように乱暴なことをすると、反発を買いますし、後ろめたいことがあるのだろうと、疑いの目を向けられます。
そこで、上手い具合に人々を洗脳し、現在の経済社会が最高のもので、これが崩れると大変なことになるのだと、信じ込ませているのです。
そして、その洗脳は上手く機能していて、何度 UFO が目撃されても、ほとんどの人は関心を持とうとしません。
UFO が真実であろうがなかろうが、そのような物が存在するかもしれないとなると、普通はみんな、大騒ぎになるでしょう。
それが、アメリカ政府が存在を認めたというのに、平然としているところが、異常なのです。
これは、明らかな洗脳でしょう。
しかし、人々を洗脳していたはずの所から、情報が開示されて、これまで UFO の存在を隠して来たのだと、正直な言葉が出て来れば、人々の洗脳は解けると思います。
きっと、人々の日常の会話の中に、異星人や別次元の存在というような言葉が、普通に出て来るようになります。
それは自然な形で、人々の知性の扉を大きく開き、新たなテクノロジーが開花するでしょう。
また、自分をどこの国の人間という見方をするのではなく、地球人と考えるようになります。
宗教というものも見直され、これまでの神の概念が、大きく変えられることになるでしょう。
個人個人の違いを否定するのではなく、多様性として互いの存在を認め合い、様々な問題が解決して行くと思います。
来月の下旬、その頃にコロナ騒ぎが、どうなっているかはわかりませんが、コロナ以上の衝撃が、全世界に広がるでしょう。
特別視をする理由 その2

新型コロナで重症化した人が、病院のICUを独占する形になって、他の病気や怪我の人が、ICUを使えない状況があります。
それは新型コロナを特別視しているからです。
確かに、世界中で多くの人が感染し、多くの人が亡くなっているのは事実です。
そのために、新型コロナウィルスが、悪魔のような存在に見えるのでしょう。
つまり、新型コロナを特別視しているのです。
でも、多くの人が亡くなると言っても、その大半は貧しくて病院でも、まとも診てもらえない人か、あるいは患者数に比べて、病院の数が遥かに少なかったり、病院の設備が貧弱であるということが、大きな理由でしょう。
また、亡くなる方の多くは、元々基礎疾患があるなど、体力のない方たちです。
コロナウィルスに感染しなくても、何かをきっかけにして状態が悪化し、亡くなる可能性は高いと言えます。
新型コロナを特別視するのは、 新型コロナが他の病気と比べて、悪質で恐ろしいものというイメージが、広がっているからだと思います。
でも、本当はそうなのではなく、格差社会による貧困や差別、あるいは福祉を軽視した政策などが原因で、多くの人が亡くなっているのが、事実ではないでしょうか。
本当に恐ろしいのは、そういう国民を大事にしない、国だと思います。
日本について言えば、第四波が来ることは想定できていたのに、専用の病床とスタッフを、準備して来なかったツケが、医療崩壊を招いています。
また、全国医師会の会長や幹部の人たちも、本気で何とかしようとは、考えていないように思えます。
病院によっては、準備をしていた所もありますが、それだけで間に合うはずがありません。
国が必要な費用を出して、全国的にそのような病床とスタッフを、確保しておくべきだったのです。
でも、何故か日本政府は、お金を出したがらないようですね。
出すべき時に、ぼんと出す方が、結局は効果も上がるし、かかる費用も少なくなるのですが、出したくないのが基本にあるようなので、今の状態に陥っています。
仕事を失う人たちの、生活保障もそうですし、感染して隔離された人の、家族のケアもそうです。
あるいはコロナに立ち向かう人々の、生活環境に目を向けてあげる必要もあります。
やるべきこと、お金を投じる所は、いろいろありますが、なかなか動きが見られません。
こういう問題を解決することが、一番求められることだと思うのですが、それができない、あるいはやる気がないために、問題はそのままです。
日本はいろんな問題を、個人任せにして、国が関わらないようにしていることが、多過ぎると思います。
そして、その責任をコロナウィルスに押しつけているのです。
人はいつか死にます。
人以外の生き物も、いつかは死にます。
それはこの星に生まれた生き物の、定めというものでしょう。
死ぬことを、やたらに恐れるのは、間違った考え方だと思います。
また死ぬのは、コロナであっても、癌であっても、交通事故であっても、自然災害であっても、どれも同じです。
それなのに、コロナだけを特別扱いして、コロナによる死を、必要以上に恐れるのは、間違っていると思います。
また、コロナで亡くなった方に、遺族が会えない、触れることができない、というのは、明らかに無知というものでしょう。
亡くなった方は、呼吸をしていません。
皮膚がウィルスだらけになるとは思えませんが、そう言うのであれば、全身をアルコール消毒すれば、済むことです。
それがだめなら、飲食店などが、いくら消毒をしても、意味がないことになってしまいます。
亡くなった人は、息をしていないのですから、喋ることも、叫ぶこともありません。
それでも怖いのなら、三密を避けようなんて、スローガンは意味がないでしょう。
一体、何を恐れるのでしょうか。
亡くなった方を、そこまで恐れるのに、実際ウィルスを、撒き散らしているかもしれない人が、一緒に電車に乗っているかもしれないのは、平気です。
それは、ウィルスを持った人が電車に乗ったからと言って、それで感染が広がるわけではないからです。
それなのに、亡くなって息をしなくなった人の、その存在自体が、ウィルスの塊のような扱いを受けるのは、どう考えても納得がいきません。
それは、ウィルスが何かわかっていない時代の、恐れと不安が行なって来たことです。
今のような、正しい知識を持つ人たちが、することではありません。
コロナを特別視することは、亡くなった患者ばかりか、その遺族までも、人であることを無視するように、仕向けているのです。
何故、新型コロナを特別視するのか。
それは、マスコミが不安を煽り過ぎるからでしょう。
また、政府や自治体が、本来の仕事に対する責任から、逃れようとするため、コロナを特別視する必要があるのだと思います。
それは日本だけに限りません。
世界中、どこの国も同じです。
でも、一番の理由は、私たち一般の国民が、全てのことにおいて、他人任せで自分の行動に、責任を持たないことでは、ないでしょうか。
また、生きるということを、真剣に考えて来なかったからでは、ないでしょうか。
国民がしっかりしていれば、政治も好い加減なことが、できなくなるでしょう。
他人の苦しみに対して、無関心でいることが、あらゆる問題を放置させてしまいます。
新型コロナを特別視する前に、どうして特別視したくなるのか、その理由を考えましょう。
コロナに感染しても、平気な人もいれば、具合が悪くなる人もいます。
自分はどうなるのかわからないと、不安がるのではなく、どうして平気な人は、平気でいられるのかを考えるべきでしょう。
また、自分がウィルスに負けない体になるためには、どうすればいいのかを考えることが、不安がることよりも、優先されなくてはならないでしょう。
本当にコロナウィルスは怖いのか。
専門家がどう言っているかではなく、自分自身で考えてみて下さい。
また、専門家が何かを言う時には、何を基準にして意見を述べているのかを、見極めて下さい。
人によって、重視しているポイントが異なります。
それが、コロナを特別視したくなるかどうかの、違いなのです。
特別視をする理由 その1
家族や恋人は、他の人とは違う。
家族も恋人も、自分にとっては特別だ。
それは当然ですよね。
生まれて来た時から、ずっとテニスをやって来た。
だから、自分にとってテニスは、他のスポーツよりも特別だ。
これもわかります。
決して上手とは言えない絵。
だけど、幼い子供が私のために、描いてくれた特別な絵。
絶対に特別でしょう。
こんな風に、誰かにとって、何かが特別ということは、いろいろあります。
でも、同じものや事柄が、同じように特別だと言っても、理由までもが同じとは限りません。
たとえば、Aさんはある会社を、特別に応援しているとしましょう。
応援する理由は、その会社の社長が、自分にとって恩人だからです。
この同じ会社を、Bさんも特別応援しています。
理由は、初めて買った株が全て、この会社の株だからです。
AさんもBさんも、同じ会社を特別に応援していますが、その理由は別々です。
このように、同じものや事柄を、特別に応援していても、その理由は人それぞれなのです。

去年開催する予定だったオリンピック・パラリンピックが、今年に延期されましたが、その開催が危ぶまれています。
毎回、オリンピック ・パラリンピックはスポーツのイベントの頂点として、特別視されて来ました。
他の世界大会とは、格が違うのです。
それは開催が四年に一度しかないことや、基本的に国の代表として参加するということが、関係しているのだと思います。
選手はもちろんですが、関係者や視聴者たちも、みんながオリンピック ・パラリンピックを、特別なものとして見ていますので、他の大会とは異なる雰囲気が、作られてしまいます。
その雰囲気が、さらにオリンピック ・パラリンピックを特別なものに、しているのでしょう。
でも、全ての人がスポーツを好きではありませんし、全ての人がオリンピック ・パラリンピックに、関心があるわけでもありません。
ましてや、世界的なコロナ騒ぎで大変な時期に、リスクを押してまでする必要があるのかと、多くの人が疑問を持っているのが現状です。
それでも、今の日本はオリンピック ・パラリンピックの開催に向けて、まっしぐらという感じですね。
その理由は、オリンピック ・パラリンピックが特別だからです。
コロナ禍で、他のイベントは自粛せよと言うのに、オリンピック ・パラリンピックのような規模の大きな大会を、開催しようというのは、オリンピック ・パラリンピックが特別だからです。

オリンピック ・パラリンピックに参加する選手たちは、コロナのことは別にすれば、開催を期待するでしょう。
ずっと、そのために頑張って来たのですから、そう思うのは当たり前です。
そんな選手の姿を見ると、コロナは怖いと思っても、できればオリンピック ・パラリンピックを開催してあげたいと、思う人は少なくないと思います。
では、選手でない人たちで、開催させたいと思う人たちの、思惑はどこにあるのでしょうか。
政府はオリンピック ・パラリンピックを、東北の震災からの復活と、コロナ禍の中での日本の底力を、世界にアピールしたいのでしょう。
それは自分たちにとって、名誉なことであり、次の選挙での勝利につながることだと、信じているからだと思います。
オリンピック ・パラリンピックによって、大きなお金が動いて、莫大な利益が生まれるという、期待もあるでしょう。
オリンピック絡みの、宿泊や観光など業界もそうでしょうが、テレビの放映権をめぐって、ものすごいお金が、オリンピック委員会に流れるという話も聞こえて来ます。
日本で開催するのに、花形競技の開催時間は、地球の反対側にある、アメリカのテレビ視聴者に都合のいい、時間帯に合わせているそうですね。
本当は選手のために、最適な時間帯を考慮すべきなのに、アメリカのテレビ局のために、時間帯が決められるのです。
オリンピック ・パラリンピックは世界平和の祭典と言われますが、実際は金の亡者たちに、スポーツ選手たちが利用されているのでは、ないかと思います。

開催国にとって有利な競技を、選ぶことができるのもおかしいですね。
貧しい国の人たちは、いつまで経っても活躍の場がありません。
参加することに意義があるなんて言うのは、ごまかしの言葉でしょう。
平等に活躍できる機会を、全ての国の人に与えるべきだと思います。
さて、オリンピック ・パラリンピックを特別視する理由は、立場によって異なります。
そのことを多くの国民は、ちゃんと見抜いていますので、それで現状での開催に猛反発しているのでしょう。
今の政府の支持率は、かなり低下しているようですし、次の選挙が迫っていますから、与党の人たちは、かなりの危機感があるとは思います。
国民の強い支持を望むのであれば、世界からどう見られようと、国民のために動くというところを、見せるしかないでしょう。
そのためには、オリンピック ・パラリンピックを開催する条件を明確にし、条件に合わなければ開催しないという、はっきりしたメッセージを出すべきだと思います。
でも、実際どうなるのやら。
母なる地球

母なる地球。
よく聞く言葉です。
全てのものは、地球から生まれたという意味ですね。
生命が海から始まったと言う時には、母なる海という言い方もしますが、海は地球の一部です。
海の環境というものは、海単独で成り立つものではありません。
山や大気の状態が影響しますし、地球の自転や、地球と月の引力、また地球が受ける太陽の影響なども、大きく関係しています。
ですから、地球の一部である海だけを、特別視するのではなく、地球全体で物事をとらえているのですね。
でも、私はこの言葉に、少し違和感を覚えます。
何だか、きれい事を言っているように、聞こえてしまうのです。
もちろん、本当に地球を全ての母ととらえて、そう表現する人もいるでしょう。
自分が感じていることを、言葉で伝えようとすると、こういう表現になってしまうのですね。
ただ、言葉には限界がありますし、同じことを言っているつもりでも、その言葉で表現しようとしているもの、その人が本当に感じているものが、微妙に違っていることって、ありますよね。
それは、よくトラブルの元になります。

たとえば、一生懸命という言葉の意味、一生懸命の中身が、人によってとらえかたが違うと、自分は一生懸命にやっているのに、全然一生懸命にやっていないと、言われてしまうことがあるでしょう。
神さまという言葉でも、人によって、とらえ方が様々です。
それを、自分のとらえ方が絶対に正しいと考えると、争いになってしまいます。
本当はわかっていないのに、偉い人が言った言葉を使うと、何となく自分も偉くなったような気がしますよね。
そんな感じで、母なる地球という言葉を使う人が、いるように思えてしまいます。
言葉よりも、大切なのは意味であり、感覚です。
母なる地球という言葉が、何を意味していようとしているのかを、理解することです。
その理解というのも、全ては地球の一部であるという、知識としての理解ではなく、感覚的な理解が必要です。
自分が地球の一部なんだ、自分はいつも地球とつながっているんだ、という感覚を持つことです。
では、どうすれば、そんな感覚が持てるのでしょうか。
簡単です。

あなたがどこにいても構いません。
山にいようと、海にいようと、街中にいようと、家の中にいようと、全ては地球の一部です。
どこにいても、あなたは地球にいるのですから。
どこにいようと、自分は地球にいるのだと、認識して下さい。
目の前に、リンゴがあれば、それはリンゴだと認識するでしょう。
それと同じように、今自分がいる所は、地球なんだと認識するのです。
それで、その地球に対して、こう呼びかけて下さい。
お母さん。
地球を意識しながら、お母さんと呼びかければ、あなたの中に、明らかにそれまでとは異なる感覚が、生まれると思います。
それは、あなたのお母さんである、地球の存在を感覚的に、とらえたものです。
自分が地球とつながっているという、感覚的な認識です。
それがわかれば、母なる地球という言葉に、私が違和感を覚えることが、わかってもらえると思います。
実際の母親のことを、他人に伝える時に、私の母なる人間ですとは、言いませんよね。
それと同じことなのです。
地球という言葉を使う時点で、自分と地球を分離しているのです。
つながりを感じる時、自分と相手を区別する名前は、必要ありません。
大きな大きなお母さんを、感じてみて下さい。

幸せの意味

幸せを求める人は、数多いと思います。
と言うか、幸せを求めない人はいないでしょう。
全ての人が、幸せを求めています。
幸せという言葉を使わずに、喜びを求めているという人も、いるでしょう。
ただ、喜びという言葉では、深みがないかもしれません。
そういう人は、喜びの向こうにある、幸せを求めているのだと思います。
しかし、幸せを求めていると言っても、では、幸せとは何ですかと問われると、うまく答えられない人が、多いのではないでしょうか。
恐らく、人によって幸せの定義が異なり、ある人にとっての幸せは、他の人にとっては、幸せではないと、言うこともあると思います。
でも、それは見かけ上の違いであって、本質的には同じものなのです。
幸せ自体は同じなのですが、それをどの立場、どの視点から追求するかで、具体的な幸せの姿が、違って来るのです。

たとえば、ある人にとっては、家族と一緒にいることが幸せでしょう。
でも、一人で自由にしていられることが、幸せと思う人もいるはずです。
美味しい物を、好きなだけ食べられることが、幸せだと感じる人もいるでしょうし、全力で何かに挑戦することが、幸せだという人もいるでしょう。
このように、何が幸せなのかは、人によって様々ですが、共通しているのは、自分が求めているものが手に入る、あるいは、自分が望んでいるとおりにできる、ということです。
それはエネルギー的に見ると、自分のエネルギーに共鳴する、エネルギーに遭遇することだと言えるでしょう。
それは、エネルギーとして共鳴しているわけで、二つのエネルギーが一つになるということでもあるのです。
人は自分のエネルギーの波長に合う、エネルギーを求めます。
似た者が集まるのは、それが理由です。
寂しい人は、寂しい人を求めます。
楽しい人は、楽しい人を求めます。
いらいら不満を持つ人は、同じような不満を持つ人を求めます。
それによって、せっかく見つけた相手と、トラブルを起こすこともありますが、それでも、そういう人と互いに引き寄せ合うのは、似たようなエネルギーを持っているからです。

他の人から見れば、そんなの幸せじゃないと思うでしょう。
本人も自分は不幸だと、受け止めるかもしれません。
でも、その人がそれを望み、その願いが叶っている以上、その人は幸せなのです。
ここで言う幸せを、喜びととらえるか、苦しみととらえるかは、相手や状況とのつながりを、認識できるかどうかで異なります。
自分が望んだことが引き寄せられたと、受け止めるかどうかの違いです。
どちらも本質は同じなのです。
それが嫌だと思えば、その人の波長が変わり、新たな波長に応じたエネルギーが、引き寄せられます。
危険が伴っているのがわかっていても、命懸けで高い山に登ることに、魅了されている人は、それができることが幸せなのです。
たとえ滑落して命を落としたとしても、本人はそれで満足なのです。
これを幸せと見るのであれば、いら立つ相手を引き寄せて、喧嘩になったとしても、本人は満足でしょうし、本人にとっては、その状況が幸せなのです。
もちろん、この幸せは一時的で、すぐに気持ちが変わって、何てことをしたのだろうと、思うかもしれません。
それは、別の幸せを求めるよう、その人の心が変わったのです。
幸せというと、喜び一杯のイメージを持つでしょう。
でも、それは究極の幸せです。
世界の全てが、自分とつながっていると感じられるものです。
私たちのエネルギーには、様々な波長があります。
自分の意識の焦点を、自分の持つどの波長に合わせるかで、その時の気分や調子が変わるのです。
全ての存在にある、共通した波長に、自分の波長を合わせることができれば、世界とつながりを感じられるでしょう。
でも、普通はそのような波長に、焦点を合わせていませんから、世の中はいろんな波長の人々が、混在した状態です。
そんな中で、自分の波長と合う人との出会いは、究極ではない、ちょっと歪んだ、限定的な幸せと言えるでしょう。

幸せとは、自らのエネルギーと、波長が合うエネルギーとの出会いです。
様々な幸せがあるということは、様々なエネルギーのつながりが、あるということです。
良い悪いは、関係ありません。
世の中には、いろんな幸せがあり、人はあらゆるレベルのエネルギーと、つながることができるわけです。
それは、人があらゆるものとつながっているからこそ、成り立つのです。
つまり、世界は一つなのだということです。
それが、どんな幸せであれ、自分がつながっている対象は、世界の一部です。
もちろん、自分自身も世界の一部です。
自分は幸せだと感じる時、あるいは、望んだとおりになっていると理解する時、あなたは世界とつながっているのです。
でも、あなたは世界の一部ですから、本当は一瞬でも、世界から切り離されることはありません。
自分が勝手に、切り離されていると、信じているだけなのです。
幸せを感じる時は、世界とのつながりを、思い出しているのです。
自分が世界から切り離されていると、受け止めていたのは、誤った幻想だと気づく瞬間です。
そのことを忘れなければ、つまり、幸せの意味を忘れなければ、何を求めなくても、何もしなくても、幸せを感じられるようになるでしょう。
幸せとは、自分と世界が一つであると、教えてくれるものなのです。

過去を手放そう

嫌なことがあって、いつまでもそのことから、頭が離れない人、いますよね。
もう済んだことなのに、ずっとそのことばかりを考えてしまい、暗い気持ちが続くのです。
一方で、とても嬉しいこと、誇らしいことがあって、その自慢話を続ける人もいます。
前者の人は気の毒がられ、後者の人や羨ましがられることが、多いでしょう。
そして、そのことが余計に、憂鬱な気分や誇らしさに、拍車をかけるのです。
一見、異なる二人に見えますが、実は、やっている事は同じです。
二人とも、立ち止まって後ろばかりを振り返り、少しも前に進もうとしていません。
人生を映画に例えるならば、同じ場面を、何度もリピートしているようなものです。
その先に進まないと行けないのに、いつまで経っても、同じ所から先へ進めません。
落ち込むようなことでも、喜ぶようなことでも、過ぎ去ったことは、終わったことです。
大切なのは今であり、新たに訪れる未来を、受け入れないと、人生はそこで止まってしまいます。
肉体は周りの時間に合わせて老いて行くのに、心はずっと時間が止まったままです。

いいことであれ、悪いことであれ、それはただの経験に過ぎません。
それを参考にしながら、次に選ぶもの、次に進む道を、選択して行くのです。
過去のつらい出来事を手放せない人が、どんな人生を送るのかは、想像できると思います。
また、過去の栄光にしがみついている人が、どうなるのかもわかるでしょう。
過去は過去です。
ただの記憶に過ぎません。
大切なのは今であり、次に何を選択するのか、ということです。
去る者は追わずです。
過ぎ去った過去のことは、記憶に留めるだけにして、顔はしっかり前に向けて、今を生きましょう。
それが人生であり、そうすることで人生の醍醐味を、知ることができるようになるのです。
