海中を行くUFO

いよいよ今月、アメリカ国防総省からアメリカ連邦議会に、UFOについてのレポートが提出されます。
これについて、NHKが国際ニュースで取り上げていました。
アメリカの軍には、兵士によるUFO目撃情報が、連日寄せられているそうですが、これは軍事施設近辺に、UFOが頻繁に出没しているということです。
正体不明の物に軍事施設を、毎日偵察されているような状況に、危機感を抱いた人たちが、そのことを訴え続け、ようやく連邦議会も事の重大さに、気づいたという状況です。
UFOは実在しているばかりか、軍に干渉しているということから、アメリカではUFOの情報を、早く開示するよう求める人たちがいます。
また、それをNHKが真面目に取り上げ、UFOの正体は何かと、当たり前のように伝えていました。
キャスターの一人も、ニュースを伝える前に、自分も高校生の時に、UFOらしき物を見たと喋っていましたし、一昔前では考えられないことです。
UFOがどうかということよりも、そういうことを事実として受け止め、真面目に考え始めた地球人の姿の方が、私にはとても刺激的で興味深く見えました。
多くの人は、自分たちがSFの世界にまぎれこんだように、思っているかもしれませんね。
でも、時代は大きく変わろうとしており、それに応じて、人類の意識も変わろうとしています。
世界中で起きている、様々な出来事も、人類の意識が変わろうとしていることの、表れに過ぎません。
全ては関係しているのです。
話を戻しますと、国防総省が報告するUFOの中には、水中を数百ノットの速さで移動する、未確認飛行潜水物体の姿をとらえたものがあるとのこと。
ちなみに、1ノットは 1.852km/hです。
また、日本のそうりゅう型潜水艦の速度は20ノットだそうです。
数百ノットと言う、水の抵抗など皆無のごとき速度で、水中を移動できる物は、アメリカにもロシアにも中国にもないとのことです。
UFOと言うと、空を飛ぶイメージですが、海に飛び込んだり、海の中を移動するというものも、報告されているようです。
アメリカが公表したところで、その技術については、何もわからないのが現状でしょう。
でも、水中の移動にしても、空中の移動にしても、基本は同じなのだと思います。
UFOは空中にパッと現れ、パッと消えるという芸当も見せてくれますが、空を飛んだり水中を進むのも、その技術の延長でしょう。
パッと消えて、少し先にパッと現れる。
これを高速で繰り返せば、空を飛んでいるように見えたり、水中を進んでいるように見えるはずです。
いわゆるテレポーテーションを、小刻みにしているようなものです。
この技術を解明するためには、幽霊の研究が役立つでしょう。
何故なら、幽霊もまた、パッと現れたり、パッと消えたりするからです。
恐らく、原理は似たようなものなのだと、私は考えています。
もう一つのヒントは、夢の中にあると思います。
夢の中では、場面がパッと変わることがあります。
それは瞬時に、場面を移動したことになりますが、UFOの移動と似ていると思いませんか。
夢と現実が同じようなものであったなら、夢の中で場面が変わるのと、UFOが好きな所に現れるのは、同じ原理なのかもしれません。
幽霊と夢。
意外な所から、UFOの秘密が解明されるかもしれませんよ。
地球の息吹

今日、久しぶりに街中にある、堀之内の公園を歩いてみました。
お城のお堀に囲まれた公園の中は、芝生で覆われていますが、お堀の土塁には多くの樹木が茂っていますし、芝生ではない所には、自然の草花が元気よく育っていました。
可愛らしい花や、珍しそうな花が、一杯咲いているのに、そこに目を向ける人はありません。
それでも、花は精一杯咲いていますし、これがまた、きれいなんですね。
そこには確かに生命を感じますし、それらが全て、地球とつながっているのがわかります。
別の言い方をすれば、地球という生命が、いろんな姿形を持って、噴き出しているのです。
地球の息吹ですね。
人間はそれぞれを別の種類、別の生物という見方で分類して行きますが、全てのものは地球の一部であり、地球という生命の、一つの表現なんです。
その中には、私たち人間も含まれています。
私たちの体は、様々な種類の細胞で構成されています。
皮膚の細胞、筋肉の細胞、骨の細胞、粘膜の細胞、脳や神経の細胞、血液の細胞。
本当にいろんな種類の細胞があり、どれもが元は同じ細胞だったとは、考えられないほどです。
でも、全ての細胞は受精卵が分裂して、生まれたものです。
私たちの心の中にも、いろんなキャラクターが潜んでいるでしょう。
天使のように優しい自分もいれば、悪魔のような怖い自分もいます。
全てに無関心な自分もいれば、何にでも好奇心を向ける自分もいます。
他人に関わりたくない自分もいれば、誰かと一緒にいたいと思う自分もいますよね。
でも、全部自分です。
私という存在の中にある、自分の様々な局面です。
同じように、地球に姿形を持って存在しているものたちが、全然違うものに見えたとしても、全ては兄弟であり、地球の分身なんですね。
全ては地球の息吹なんです。
あなたも外に出て、いろんな物に触れたなら、それが地球の息吹なんだと、考えてみて下さい。
そして、地球の生命を感じて下さい。
その中に、自分自身もいるのだと気づいたら、とても幸せになれますよ。
小田原市の子ども食堂
神奈川県小田原市に、「お結びころりん」という子ども食堂があります。
その名のとおり、家計に苦しい家の子どもたちに、食事を無料で提供する所です。
今は新型コロナのことがあるので、お弁当を作って配っているとのことです。
その運営は、寄付などでまかなっていると言いますが、地元の会社からの支援が話題を呼んでいます。
「お結びころりん」を支援するのは、「湘南電力」という太陽光発電による、電力の地産地消を目指す会社です。
この会社では、電気料金の 1%が子ども食堂の支援に充てられるという、「子ども食堂の応援プラン」を去年 3月に新設しました。
すると、1年間に500件もの契約となり、この電力会社も驚いていると言います。
学生服を販売する地元の会社も、先月このプランに契約しました。
子ども食堂では、支援金の一部を使って、オーブンレンジを購入し、とても喜んでいます。
それは、子どもたちへ温かい食べ物を、提供できるという喜びであり、自分たちの活動を思いがけない所から、支援してもらっているという喜びでしょう。
子どもたちやその家族も喜びますし、支援を始めた電力会社も、このプランに契約した人たちも、みんなが喜ぶのです。
喜びが喜びを生み、波紋のように広がるのですね。
「湘南電力」の掲げる、電力の地産地消という理念も、素晴らしいと思います。
東京のような大都市の電力を、地方の田舎にお金を渡して原子力発電を作り、放射性廃棄物の処理や放射能汚染などの問題は、地方にお任せという、現在の電力事情は問題です。
自分たちで使うものは、自分たちで責任を持って、管理なり処理なりするべきでしょう。
ところで、町の人のほとんどが、自分たちが使う電気について、全く無頓着です。
自分たちの暮らしを、自分たちの手で創り上げるという、湘南電力の発想は、本当に素晴らしいと思います。
そういう考えがあるからこそ、未来の担い手である子どもたちへの、支援にも目が向いたのでしょうね。
お金儲けばかり考えている企業には、できないことでしょう。
また、このプランに賛同する人たちが、とても多いことも、未来への希望の光のように思えます。
どんなにいいプランを作ったところで、誰も賛同してくれなければ、どうにもなりません。
これは、町の人たちが、地域の問題に目を向けているということですし、他人を思いやる気持ちがあるということです。
こうした人々の気持ちは、当然これからの政治にも、大きな影響をもたらすに違いありません。
今回話題になったのは、神奈川県小田原市の話ですが、子ども食堂は全国にありますし、同じような気持ちを持った人々は、日本中にいます。
きっと、同様の動きが、これからあちこちで、見られるようになるでしょう。
いや、もしかしたら、すでに同じようなことが、あちらこちらで始まっているのかもしれません。
暗いニュースばかりが目立ちますが、目立たない所で、このような動きがあることは、これから世の中が変わるという兆しです。
本当に素敵なニュースでした。
大坂なおみの会見拒否
5月30日から開催された、テニスの全仏オープンの開幕前に、女子テニスの大坂なおみ選手が、大会期間中の記者会見に応じないと、表明して物議を醸しています。
大坂選手は表明の中で、「人々がアスリートのメンタルヘルスについて、あまり考えていないとよく感じていた」と記者たちへ苦言を呈しました。
そして、「負けた選手をあのような場で問い詰めるのは、落ち込んでいる人を蹴落とすようなもの」と選手の精神状態に及ぼす、無理なインタビューによる悪影響を指摘しています。
大坂選手は、全仏オープンに対して恨みもないし、多くの記者たちとは良好な関係にあるとしており、大会そのもののあり方に対して、一石を投じただけのものだと思います。
しかし、伝統を重んじる人たちから見れば、大坂選手の言動は自分勝手に見えるのでしょう。
彼女の意志を理解するという意見がある一方、彼女は絶対的に間違っていると、決めつけた見方もあります。
また、彼女の考えは尊重するけれど、やはり会見には出るべきだとか、会見も仕事の一部だと述べる人もいます。
大坂選手は罰金を支払うつもりで、会見を拒否しているわけで、言ってみれば、ルールの中での行動です。
ただ、同様の理屈は、お金さえあれば、みんなに合わせなくても構わないと、思われてしまう危険があるでしょう。
大坂選手の会見拒否は、そんな意図があるとは思えませんが、悪いことを考える人は、自分が利用できるような状況を、常に目を光らせて探っているものです。
そういう意味では、もう少し何か他に方法がなかったのだろうかと、考えたくなる人も、少なくないと思います。
それでも、黙っていられなかった。
行動せずにはいられなかった。
と言うのが、大坂選手の心境なのだと思います。
みんな、伝統的な大会の形にこだわり、その視点からの意見ばかりが目立ちます。
でも、本当に大切なのは、そんなことではないでしょう。
伝統的な大会を維持することよりも、選手を一人の人間として扱うことの方が、余程大切なのではないでしょうか。
多くの人は、大坂選手を一人のプロテニス選手として見ています。
ですから、プロ選手としての行動としては、いかがなものかと言う意見が出て来るのです。
しかし、彼女はプロテニス選手として、発言しているのではありません。
立場はプロテニス選手ではありますが、一人の人間として発言しているのです。
彼女が指摘しているような問題を、名前も知られていない、テニス関係者でもない人たちが、指摘したところで、誰が耳を傾けるでしょうか。
また、大坂選手が今の地位にいなければ、今と同じような騒ぎになっているでしょうか。
彼女の発言が注目を浴びるのは、彼女が今の地位にいるからであり、彼女はそれがわかった上で、人として大切なことを、発信しているのです。
今の自分には、他の人に代わって、そういうことを発信できる力を、与えられていると自覚しているからこそ、行動を取っているのです。
いろいろ言われることは覚悟の上で、みんなに考えてもらいたいから、やっているわけです。
プロ選手だから、つらい会見でも行わなくてはならないというのは、誰が決めたことなのでしょう。
同じような理屈で、ブラック企業の仕事をがんばって、ついには自らの命を絶つ人が、どれほどいるのか、わからないのでしょうか。
彼女は対戦相手に対して、常にリスペクトを示しています。
それと同じことを、コート外の人々に対しても、求めているだけだと思います。
彼女の意見に文句を言う前に、彼女が何を言いたいのか、きちんと耳を傾けるべきでしょう。
彼女は決して無茶なことを、言っているわけではありません。
選手に対して、リスペクトを持った応対をするよう、求めているだけでしょう。
大会運営側や、マスメディアの人々が、それに応じれば、何の問題もありません。
彼女は会見に復帰するでしょう。
それなのに、そこを正そうとせず、自分たちは間違っていないという立場を崩さないまま、彼女を非難するのは、とても滑稽に見えてしまいます。
他に状況を改善できる方法があるのなら、それを彼女に伝えてあげるべきですし、彼女が会見拒否をする前に、自分たちで状況を改善するべきだったでしょう。
災害や事件で、大切な家族を失った人に対して、「今のお気持ちは?」と尋ねるインタビュアーがいますよね?
大坂選手が問題にしているのは、その無神経さなのです。
プロテニス選手の立場から、気がついた無神経さに対して、意見を述べただけのことですが、彼女が指摘した問題は、テニスの世界だけでなく、あらゆる所で見受けられることなのです。
現在、日本で行われようとしているオリンピックについても、同じことが言えるでしょう。
オリンピック委員会も日本政府も、日本国民の状況や気持ちなど、全く無視して、オリンピックを開催することにこそ、意義があると言う姿勢です。
そのために、誰が泣こうが騒ごうが、命を落とそうが、関係ありません。
テニスにしても、オリンピックにしても、せっかくの大会を本当に成功させたいのであれば、そこに関わる人々の声に耳を傾け、人々の気持ちを大切に考えることが、何より優先されるべきでしょう。
それを無視してでも、開催するというのであれば、開催の目的がどこにあるのか、ということになります。
今は様々な場所、様々な分野で、既存のやり方や既得権に対して、多くの疑いの目が向けられています。
平和だとか、スポーツの祭典という言葉を利用して、いい思いをしようとしている人たちがいるのを、人々は黙って見過ごすのをやめたのです。
今は大坂選手に対して、厳しい意見も出されているようですが、いずれ彼女が伝えたいことが理解できるようになれば、多くの人たちは、彼女の味方になるでしょう。
体の栄養 心の栄養 その2
体をエネルギー体と見た場合、栄養を摂るというのは、エネルギーの活動や維持のため、必要なエネルギーを補給する、ということになります。
同じく、心もエネルギー体であると見れば、心にも必要なエネルギーを、補給しなければならないとわかるでしょう。
では、心に必要なエネルギーとは、どんなものでしょうか。
それは、心を元気にしてくれるものです。
喜びを感じ、生きる気力が湧いて来るものです。
具体的に言えば、自分の居場所があり、自分を表現できることです。
また、それを他の人たちと共有し、喜び合えることです。
居場所というのは、必ずしも家を意味しません。
居場所というのは、つながりを感じられる場所のことです。

家族や職場、友人の中などに、自分の居場所があるというのは、大切なことです。
周りに人がいるのに、孤独を感じていれば、居場所がないということです。
自然と一体感を感じられる人は、雑踏の中にいるより、山や海などにいる方が、居場所があると感じられるでしょう。
どんなに多くの人のアドレスを知っていても、どんなにたくさんの人と、スマホでやり取りをしても、孤独を感じているのであれば、そこに本当のつながりはありません。
でも、自分が孤独かどうか、わからない人もいるかもしれませんね。
自分が今の状況に、一つも感謝ができないのであれば、あなたは孤独だと言えます。
一人も感謝する相手がいなければ、あなたは孤独です。
感謝とは、相手とのつながりを感じている証です。
感謝する気持ちが出て来ないということは、誰とも何とも、つながりを感じていないということです。
つながりがないということは、居場所がないということで、つまりは孤独なのですね。

居場所がなければ、何かを表現しようにも、足場がないので困難です。
居場所を作る、すなわち、感謝の気持ちを持つことが、心に栄養を与える第一歩なのです。
自分が人間として生まれて来たこと、地球に生まれて来たこと、そんなことに感謝の気持ちが持てるようになれば、最高ですね。
自分を表現するというのは、他人の価値観ではなく、自分の価値観で生きるということです。
それは日常生活のスタイルとして、表れるでしょうし、興味を持つ対象によって、いろんな趣味や研究などが、生活の一部となるのです。
他人から見ると、奇抜に見えることもあるでしょうけど、それで自分が満足できるのであれば、それでいいのです。
別に他人にわかってもらえなくても、構わないと思っても、いいねと言われると、やはり嬉しくなるものです。
わかりますか?
となって、会話が弾むことでしょう。
そんな仲間ができることも、大きな喜びになります。

自分を表現することで、本当のつながりができるわけですから、自分を偽らないということは、とても大切なことなのです。
わかってもらえていないと、思われる人たちに対して、無理に自分を合わせる必要はありません。
そうではなく、その人たちが喜ぶような形を、自分の喜びの中から、見つけ出すのです。
そうすれば、喜びの輪がさらに広がります。
相手から、そんなことをしてもらえたら、それもまた喜びです。
勉強ができたって、お金がたくさんあったって、みんなからちやほやされたって、そこに居場所がなかったり、本当の自分を表現したり、理解してもらえなければ、それは喜びにはなりません。
苦痛です。
世間の評価基準に合わせて、自分はこれだけやっていると、満足したつもりでも、それは本当の満足ではありません。
他人から、後ろ指をさされないという、安心感です。
でも、そんな安心は一時的です。
その安心がいつまで続くかという不安が、常につきまとい、もっと認めてもらえるよう努力しなければと、自分の気持ちを欺いて、無理なことを続けることになるのです。
こんなのは、ある意味、地獄でしょう。
生きた屍になるようなものです。

生きるということを考えれば、人間が勝手に作った基準など、全く関係がないということが、わかるでしょう。
栄養を摂るということは、生きるということです。
栄養を摂っているつもりでも、病気になるのであれば、それは本当の栄養ではありません。
体にしても心にしても、自分にとって、本当の栄養とは何なのか、一度よく考えてみて下さい。
体の栄養 心の栄養 その1

体を維持するためには、栄養が必要です。
成長期においては、維持するばかりでなく、成長に必要な分の栄養も、考慮しなくてはいけません。
栄養が偏ったり欠乏したりすると、ちゃんと成長できなくなったり、健康を維持できなくなります。
一方、不必要に栄養を摂り過ぎると、肥満や成人病の原因になります。
とくに取り過ぎる栄養としては、炭水化物が一番に挙げられるでしょう。
処理できないほどの糖分は、中性脂肪に変えられ、皮下脂肪や内臓脂肪として、蓄えられますが、脂肪に変えられるまでの間は、血液中に留まります。
在庫処分ができなくなった品物が、倉庫にあふれているような感じです。
それは高血糖状態と呼ばれ、血管を傷めたり、免疫低下を招いたりすると言われています。
免疫が低下すると、風邪を引きやすくなりますし、癌細胞を抑える力が落ちて来ます。
今、騒いでいる新型コロナウィルスが感染すると、重症化する恐れがあるわけです。
しかし何故、炭水化物を摂り過ぎてしまうのでしょうか。
それは、甘い物がおいしいという、公式が出来上がっているからです。

昔は砂糖は貴重なもので、高級品でした。
それで、甘いものは高級だという認識が生まれ、甘い物を食べられるのは、幸せなことだという考えが、受け継がれて来たのではないかと思います。
甘さが、おいしいという思いを、引き出していることも、このことに拍車を掛けたのでしょう。
今は、砂糖は簡単に手に入るようになりました。
高級品の砂糖もありますが、それでも手が出ないような値段ではありません。
もはや、貴重で有り難いものではなくなりましたが、かつての甘さを崇拝する思考は残り、手に入りやすくなった分だけ、過剰摂取へと突き進んだのでしょう。
私が子供の頃は、ケーキは年に一度、誕生日に買ってもらえるかどうかでした。
今は、記念日に関係なく、ケーキが食べられますし、ケーキ以外のスイーツと呼ばれるものが、巷にはあふれかえっています。
また、それとは別に、食事もしっかりきちんと食べます。
主食はもちろん、炭水化物です。
おかずがなくても、炭水化物だけで食事を済ませる人も、少なくないでしょう。
でも、これは体によくないことですし、自らの好奇心を封じ込めているのと、同じです。

味覚には、甘さ以外のものもあるのに、甘さばかりが注目され、他の味覚は無視されがちです。
酸味や苦味などは、逆に嫌われ者になることも、あるぐらいです。
しかし、他の味覚がなく、甘さだけしかわからないとすれば、どんな感じになるか、想像してみて下さい。
恐らく、食に対する興味が薄れてしまうでしょう。
食べるという楽しみが、失われてしまうと思います。
他の味覚があるからこそ、甘みが引き立つのです。
辛味や苦味、酸味などは、調味料のように、均一化されてしまうと、確かにおいしくないと思います。
しかし、食材の中のそれらの味は、他の味や香り、食感などと一緒に味わうものです。
また、その食材を他の食材と混ぜて調理することで、ひと味もふた味も違った、おいしい料理ができるのです。
甘さばかりを特別扱いするのではなく、他の味を対等に評価し、様々な食材に目を向けることが、食べ物のおいしさを知るきっかけになるばかりか、健康にもいいのです。

味付けの薄い食べ物は、病人が食べる物という公式に、なっている人もいるでしょう。
でも、それは病人が食べる特別食なのではなく、人間が本来食べるべきものだと、受け止めた方がいいでしょう。
つまり、悪い物ばかりを食べて病気になった人が、本来の自然な食べ物を食べるようになったというだけで、一般の人の食べ物こそが、間違っているということです。
自分が正しい、間違っていないという考えが、病気の人が食べる物を、貧弱で特別なものに、見せてしまうのです。
病気を治すというのは、自然な状態に戻すということです。
病気の人が食べる食事が、おいしくないのだとすれば、それは、そういうものがおいしくないという、思い込みのせいでしょう。
あるいは、調理をする人の腕が悪いのでしょう。
病人の食事なんて、こんなものだろうとか、栄養のバランスが採れてさえいれば、それでいいと考える人が、調理をすると、まずおいしくないと思います。
食材を選び、相手のことを想い、自分がおいしいと思って作ってこそ、初めておいしい料理ができるのです。

食事は、食材だけではなく、料理を入れる器や、料理を載せるテーブル、部屋の雰囲気などでも、全然違うものになります。
食事とは、そういうもの全部を含めてのことなのですね。
それは、体の栄養を摂るだけでなく、心の安らぎにもつながる、大切な要素です。
食事の偏り、栄養の偏りは、味覚を存分に楽しむことを知らず、流行に流されていることが、大きな原因だと思います。
流行に流されるというのは、確固たる自分というものが、ないということです。
自分の味覚を通して、世界を探求するつもりで、いろんな食材を味わってみて下さい。
調味料や化学物質でごまかされた味ではなく、食材そのものの味です。
それが自分の体を作ってくれているのだと、理解して味わえば、自分が生かされていると感じるでしょうし、全てに対して感謝の気持ちを、持てるようになるでしょう。
それは、とても幸せな一時を、もたらしてくれるのです。
余生を送る動物たち
フランス北部にあるノージャン・ル・ファイユという所に、ライオンやクマ、ゾウなど、サーカスを引退した動物や、元実験動物たちが余生を送るシェルターがあると、ニュースで報じられていました。
映像には、人懐っこい動物たちが、人間にじゃれついている様子が、映されていました。
このシェルターを設立したのは、実業家のパトリック・ビオラス氏で、2500万ユーロ(約33億円)の私財を投じて作ったそうです。
フランスでは、野生動物をサーカスで利用することを、禁止することが検討されているそうで、同氏はそれに備えて、増築を計画しているとのことです。
資産家と呼ばれる人は、世界中にいますが、自分が楽しむことや、事業を拡大すること以外に、その経済力を使う人は、限られていると思います。
メディアに叩かれないよう、パフォーマンスで寄付などを行う資産家もいるでしょうが、本気で他の誰かのために、その力を使おうという人は、それほど多くないのでは、ないでしょうか。
一般の捨て犬や捨て猫、その他のペットが、どのように扱われるのかですら、関心を持たない人が多いと思います。
ましてや、サーカスや実験で使われた動物が、その後どうなるのかなど、心を寄せる人はほとんどいないでしょう。
そんな動物たちに、私財を投げ打ってシェルターを作るというのは、素晴らしいことだと思います。
単に動物が好きというだけでなく、人間のために生きて来た動物たちへの、感謝と愛おしさがなければ、できることではありません。
同じ人間に対してでさえ、冷たい人が多い中、動物たちを自分と同じ命ある存在だと、認めた行為は称賛に値するでしょう。
また、サーカスでの野生動物の禁止を検討している、フランス政府も素晴らしいと思います。
動物は人間の娯楽のために、存在するのではありません。
同じ地球に生きるものとして、その存在に敬意を払うべきでしょう。
周期ゼミ

アメリカ東部で17年に一度、羽化する周期ゼミが、大発生しているそうです。
その数は、数兆匹になるのではないかと、予測されています。
このように、長い年月の間、地中で暮らすセミには、13年毎に発生するものと、17年毎に発生するものがあるそうです。
今回、話題になっているのは、17年毎に発生するものです。
どうして13年や17年なのか。
それは、13と17という数字が素数であるため、天敵が 3年や4年周期で現れても、天敵と合う回数が少ないからだ、と言う研究者もいます。
でも、セミの天敵全てが、3年や 4年周期で現れるわけでは、ありません。
それに、一匹のセミの幼虫が、地中にいるのが17年だとしても、全体で見れば、毎年、このセミが地上に現れても、不思議ではありません。
このセミが面白いのは、幼虫が地中に17年もの間、暮らしていることと、それらが一斉に顔を出すということです。
毎年少しずつ、地上に出るのではなく、一斉に出た方が、天敵に襲われても、生き延びる数が多いから、と考える学者もいます。
でも、セミがそんなことを考えて、よし、17年後に外に出るか、と決めたとは思えません。
鉄は磁石になります。
それは、一つ一つの鉄原子の電子が、全部同じ方向に回転するので、そこに発生する磁力が束ねられて、大きな磁力を生んでいるのです。
磁石でない鉄は、それぞれの鉄原子の電子が、てんでばらばらに回転しているので、発生する磁力が打ち消し合って、磁石としての力を持たないのです。
これと同じように、13年や17年周期で大発生するセミは、その集団意識の中で、周期を決める何かが、統一されているのかもしれません。
それが、どうして13年や17年なのか。
その理由はわかりませんが、天敵がどうとかいうものでは、ないと思います。
13年や17年周期で発生しなければ、生存できないのであれば、他の種類のセミは、とうの昔に絶滅しているでしょう。
天敵とは違う、何か他の理由があるはずです。
人間にはわからない、何かの周期が、地球にはあるのかもしれませんね。
海に暮らす生き物の中には、大潮の時に、一斉に産卵をするものがいます。
彼らはカレンダーを持っていませんから、何かを感じて、その感覚に合わせて産卵しているのでしょう。
それと同じで、周期ゼミは、13年や17年毎の、何かの地球の周期を感知して、それに合わせて発生しているのかもしれません。
宇宙時間と人間時間 その2
宇宙から見た場合、人類の歴史なんて、ほんの一瞬の出来事です。
それでも、私たちが存在しているのは事実ですし、私たちにとって人類の歴史は、とても長い時間です。
と言うことは、私たちにはほんの一瞬に思われるような、短い時間の中で、私たちの知らない世界や、知らない歴史が、展開されていたとしても、不思議ではないでしょう。

たとえば、細胞の中では、数え切れないほどの化学反応が、繰り広げられています。
それは細胞が活動を続ける間、続きます。
また、細胞の活動内容によって、化学反応の状態も変化します。
この化学反応を起こしている、一つ一つの分子たちが、それぞれ意識を持っていると、考えて下さい。
細胞の中は、一つの世界であり、一つの宇宙になるわけです。
その中で、様々な分子が存在し、互いに反応し合います。
それは、人間には理解できない、意識のやり取りであり、会話なのかもしれません。

一緒になろうよ。
お前なんか、嫌だよ。
俺の言うことを聞け。
こんなの、壊してしまえ。
そんなやり取りが行われているとすると、面白いと思いませんか。
人間の体の中に、無数の世界があり、それぞれの世界の中で、いくつもの文明が現れたり崩壊したりを、繰り返すのです。
人間がそれを察知することはありませんし、向こうが自分たちが人間の一部であるとは、思いもしないでしょう。
あるいは、私たちの意識の中に、様々な思いがありますよね。
素敵なことを考えたり、悪いことを考えたり。
そのそれぞれの思いが、実は世界の一つをのぞいているのだとすると、私たちの意識の中に、無数の世界が存在しているわけです。

でも、宇宙全体を一つの意識だとすると、私たちはその一部であるわけですから、私たちの中に、小さな世界があったとしても、不思議ではないでしょう。
それらの世界の長い時間は、私たちにとっては、ほんのわずかな時です。
私たちは自分を中心に考えがちですから、意識というものも、今の自分を基準にしています。
でも、いろんな意識があるのだと考えれば、想像力が増します。
また、自分というものを考える時に、これまでとは違う視点で、自分を見ることができると思います。
自分を見る視点が変わると、いろんな悩みが、悩みでなくなるかもしれません。
何かで悩んでいる人は、いろんな意識をイメージしてみるといいと思います。
きっと、助けになってくれるでしょう。
宇宙時間と人間時間 その1

宇宙の年齢は、138億年だそうです。
それに対して、人間の寿命は、ギネス最高記録では、122歳とされています。
現在の一般的な寿命とは言えませんが、計算を簡単にするため、人間の最高寿命が138歳だとしましょう。
すると、人間の最高寿命は、宇宙年齢の1億分の1、と言えますね。
人類の歴史を考えた時、どこからが人類と言えるのかで、その始まりとされる時期は、変わって来ます。
クロマニヨン人など、現代人と同じようなスタイルの祖先を、始まりとするならば、その時期は、およそ 20万年前と言われています。
ネアンデルタール人などの旧人と呼ばれる祖先を、始まりとすると、50~30万年前になるそうです。
原人と呼ばれる祖先では、180万年前が始まりになるようです。
とても大雑把になりますが、ここでも計算のために、人類の始まりを138万年前としてみましょう。
すると、人類の歴史は、宇宙年齢の1万分の1になるわけです。
と言っても、ピンと来ないでしょう。
そこで、宇宙の年齢を138年としてみます。
人間の最高寿命と合わせるのです。
そうすると、人類の歴史は138年の1万分の1ですから、0.0138年、つまり、約5日となります。
人間の最高寿命は、138年の1億分の1ですから、約43秒です。
人間を基準に考えたら、たった43秒で最高寿命を終える知性体がいて、その歴史はほんの5日しか経っていない、ということになります。
誰も気がつかない間に発生し、あっと言う間に進化したと思うと、瞬く間に絶滅してしまうような知性体。
それが宇宙にとっての、人類なのですね。
まるで、夜空に打ち上げられた花火のようです。
そんな花火が一つだけのはずがなく、人類の歴史が始まるよりも、遥か昔から、あちこちで打ち上げられては消えていたのでしょう。
その花火は、今だって打ち上げられていますし、これからも打ち上げられるのです。

ただ、人間が他の花火を知ることは、むずかしいでしょう。
宇宙にとっての、ほんの一瞬の花火である人類。
それを、自分たちは宇宙で特別な存在であるとか、宇宙で唯一の知性体であるなどと、本気で考える人は、どうかしていると思います。
人間の目線で全てを判断するのではなく、宇宙からの目線で、自分たちを見てみるということも必要でしょう。