脳と心 その4
人間が他の存在に、心があると認めたがらないのは、自分たちを特別な存在だと、見ているからでしょう。
心があるのは、自分たちが他の存在よりも優れた、特別な存在だからという奢(おご)りがあるのです。
今の地球環境の乱れは、そうした人間の奢りによって、生じたものです。
全ての存在は、人間が楽しむためにあるとしか見ていないのです。
また、脳こそが心を創るという考えがあるので、脳を持たない存在に、心などあるわけがないと考えます。
学者によっては、脳がある動物でさえ、心があるように見えているだけで、本当は心はないのだと言う者もいます。
こんな考え方は、明らかに偏っており、物事を正しく見ているとは言えません。
人間には心があって、人間同士は互いの心の存在を、理解していると、誰もが信じているでしょう。
でも、よく考えてみて下さい。
自分にわかるのは、自分の心だけなのです。
相手に自分と同じような心があると思えるのは、相手と意思疎通ができるからです。
また、ある環境に置かれた時の反応が、自分の反応と似ているからです。
だから、意思疎通ができない他の生き物や、石ころなどには、心はないと考えてしまうのです。
だけど、意思疎通ができるならば、心があると見なせるのではないでしょうか。
ペットは飼い主の気持ちに応えてくれます。
学者が何と言おうと、飼い主たちは、ペットに心があると理解しています。
ならば、植物はどうでしょうか。
見た目には、世話をする人と、意思疎通ができているようには見えません。
しかし、植物の細胞の活動を電気的に捉えてみると、自分を世話してくれる人と、自分を傷つける人とでは、近づいた時の反応が異なります。
それは、世話をする人の想いが、何らかの形で、伝わっているということです。
また、愛情深く育てた植物は、立派な花を咲かせたり、立派な実をつけると言います。
それは、植物が世話をする人の心に、応えたということでしょう。
であれば、植物にも心があると言えるはずです。
それでも、認めたくない人は、植物には脳がないと言うでしょう。
でも、心は脳を利用しても、脳とは独立したものだとすれば、植物に心がないとは言えません。
先に述べたように、全ては元は同じ所から生まれています。
見た目が違っていても、その本質は同じなのです。
そのことを考えれば、植物に心があっても、何の不思議もないのです。
脳と心 その3
脳の神経活動が、心を創っているのだとすれば、脳がなくなれば心もなくなります。
水がなくなれば、水面に生じた波紋も、失われるのと同じです。
しかし、それでは幽霊の説明がつきません。
幽霊なんて、ただの迷信だとか、目の錯覚だとか、単なる思い込みだと言う人はいます。
でも、それは幽霊なんているわけがないと、初めから決めつけている人々の言い分です。
幽霊がいないと証明したわけではないのに、そんなのいるわけがないだろうと、決めてかかっているだけです。
確かに、何かを幽霊と見間違えるとか、怖い怖いと思う気持ちが、幽霊がいるように思わせるということはあるでしょう。
しかし、それは一つのケースであって、それで全てを説明するわけにはいきません。
全ての事例を研究して、全てが錯覚でしたと証明できたなら、幽霊なんて存在しないと言えますが、そうでない限りは、どんなに幽霊はいないと力説したところで、それはその人の推論に過ぎないのです。
幽霊の目撃は、何かの見間違いかもしれないという、可能性を残したものもあれば、明らかにそこに死んだはずの人がいた、という否定しがたいものもあります。
否定するとすれば、その話をする人を、信用できない人物だと決めつけるしかありません。
自分が信頼している人で、理知的で嘘を言う理由がない人が、幽霊を見たというのであれば、話を聞いた人は、幽霊の存在を否定することが、できなくなるでしょう。
幽霊の話は世界中にあります。
一つ一つの真偽はさておき、幽霊が存在するとすれば、それは脳がないのに、そこに意識あるいは心が存在している、という証明になるでしょう。
とすれば、普段肉体を伴って生きている、私たちの心だって、脳が創り出しているわけではないと、言えるのではないのでしょうか。
脳は確かに心と関係があるでしょう。
しかし、決して心は脳が創るのではなく、心が脳を利用しているのです。
脳と心 その2
私たちの体は物質でできています。
地球が生まれ、そこに様々な生物が生まれ、やがて人間が生まれました。
全ては、地球に存在している物質で、構成されています。
姿形は違えど、みんな地球を母とする兄弟です。
その中の、我々人間に心があるのならば、他の地球の兄弟たちにも、心があると考えるのは、自然なことでしょう。
何故、科学が心を否定しがちになるのか。
それは科学が産声を上げた中世のヨーロッパで、宗教指導者たちから弾圧を受けたからでしょう。
それで、科学者たちは宗教に対して、とても強い警戒感を抱いたと思われます。
心に関することは、宗教で取り上げられることが多いので、それで科学では研究の対象としない学者が多いのだと思います。
また、心を研究する人でも、どうしても脳と関連付け、脳の活動に付随した現象のように、説明しようとするので、心の本質が見えて来ません。
脳は、他の体の部分と同じで、細胞の集まりです。
心と関係はしているものの、元を正せば、受精卵が分裂してできた細胞に過ぎません。
他の内臓や、筋肉や皮膚などの細胞と、本質的には同じです。
決して特別なものではないのです。
脳が活動をする時、脳を構成している神経細胞が、互いにつながり合った他の神経細胞たちと、興奮を伝え合っています。
でも、一つ一つの神経細胞が、何かを考えて活動しているわけではありません。
何かの刺激があれば、それに応じて興奮しているだけなのです。
一つの神経細胞は、体が置かれた状況が、どのようなものであるかを、知る由がありません。
神経細胞が無秩序に活動すればどうなるでしょう。
それは、てんかんとして知られる症状として表れます。
本人意思とは関係なく、体が痙攣したり、動けなくなったりします。
また、思考活動もできなくなってしまいます。
私たちが日常行っている思考や行動は、秩序立った神経細胞の活動があるからこそ、成立するものです。
でも、それは神経細胞が勝手に行う活動では、生じ得ません。
そこには、神経細胞の活動を統括する、他の動きがあるのです。
そして、それこそが心なのです。
脳と心 その1
脳と心が関係していることは、誰もが知っていると思います。
人が何か行動をする時、体の動きは脳からの指示に従ったものです。
人がものを考える時、それに応じて活動するのは、脳です。
体が五感で感じ取った情報を、集約してそれが何かを理解するのも、脳です。
人が何かを考え、体を動かし、何かを感じている時、それぞれに応じた脳の一部が、活発に活動することが、脳の研究で確かめられています。
そのため、体を支配しているのは脳であり、脳こそが人間の本質であるという、考え方が生まれるのです。
それは、人間の本質は心であるという意味なのですが、物質主義的な物の見方をすると、心とは実体のないものであり、脳の活動によって生じた幻影のようなもの、という捉え方をするわけです。
たとえば、光の中を物体が動いた時に、そこに生じる影のようなものであり、水面に小石を投げ入れた時に生じる、波紋のようなもの、と見ているわけです。
影は、元の物体があるから生じるものであり、その物体がなくなれば、影もなくなってしまいます。
水面の波紋も、水の動きが生み出したものであり、水がなくなれば、波紋も失われます。
多くの学者は、脳と心の関係を、このように捉えているようですし、多くの人も、それらの学者の考えを、受け入れているようです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
確かに、影自体は物質とは言えません。
影は、そこに光のエネルギーがない、あるいはとても少ない状態を、示しているだけです。
水面の波紋も、物質とは言いません。
物質は水であり、波紋はその水の一つの状態を、表現してものに過ぎません。
同じように、心は物質ではなく、物質である脳の活動の、ある状態が表れているだけだと、考えるわけです。
でも、影や波紋と、心の間には、大きな違いがあります。
影や波紋は、そこに生じている変化を、外から眺めています。
一方で、心とは脳活動の変化を、内側から眺めているのです。
これはとても大きな違いです。
つまり、物質という表現を取る時には、人は対象物を外から眺めているということです。
そして、物質主義という考え方は、対象物を外から眺めることしか、できないという捉え方なのです。
心は外から眺めるのではなく、内側から感じるものです。
心の存在を認めるということは、外からしか眺められないはずの物質には、内側という側面があるということを、認める事になります。
簡単な言い方をすれば、万物には心があるということです。
人間に心がある以上、これは否定しがたいことだと思うのですが、何故か科学の世界では、それを否定する傾向にあります。
どうしても受け入れろというのであれば、万物に心があることを、証明せよと言うのです。
でも、学者は自分に心がある自明のことを、科学的に証明することができません。
精々、心の活動に応じた、脳の活動があると説明するぐらいです。
でも、それは脳の活動と心の活動の関連性について、説明しているだけのことであり、心自体の証明とは言えません。
心とは何か。
それをきちんと説明できた時に、心の存在を証明できるのですが、そんな証明は本当は必要ありません。
何故なら、自分に心があるということは、誰もが知っていることですから、証明する必要がないのです。
するべきことは、心の存在を証明することではなく、心とは何なのかということを、深く考えることなのです。
多数決の原理 その2
少数意見であっても、その意見は尊重されなければなりません。
どうして、その人たちがみんなと異なる意見を出すのか、その理由や背景を理解する必要があります。
そして、できる限りその人たちに寄り添った、決定を下すべきでしょう。
意見を述べる者の数が、多かろうと少なかろうと、互いに相手に対する、思いやりの気持ちを持つ必要があるのです。
自分たちのことばかり主張して、他の考えの者たちなんか、どうなったって知るものか、という姿勢がトラブルを引き起こすのです。
決断を下す前に、できるだけみんなの気持ちをくみ取る努力をすること。
決断を下したあとも、その決断に賛成しなかった人たちの状況を、こまめに確かめながら適切なフォローをしてあげること。
必要があれば、一度は下した決定も、途中で変更する柔軟性を持つこと。
どうしても多数決で決めなければならない時には、これらの心構えを肝に銘じておくことが大切です。
そして、子供のうちから、そのことを知っておかねばなりません。
多数決とは、少数意見の人に、あきらめさせる手法ではないのです。
何かを決める時に、多数決が必要な場面はあるでしょう。
しかし、それは絶対的なものではなく、取り敢えずの決定に過ぎません。
そこには思いやりの精神が求められますし、何がみんなにとって本当にいいことなのかを、誰もが常に考え続けなければなりません。
その姿勢があれば、他の人と違う意見を持つ者も、あきらめることなく自分の意見を述べられるようになるでしょう。
たとえ自分の意見と違う採択がされたとしても、それがうまくいかなければ、決定は変更されるとわかっていれば、失望することもありません。
多数決が民主的な手法だと信じている人もいるでしょうが、それは間違いです。
互いを思いやる気持ちなくして、民主的とは言えません。
お互いを思いやりながら、最適な方法をみんなで選択する姿勢こそが、民主的と言えるのです。
それこそが、どんな勉強よりも優先して、子供たちに伝えるべきことだと思います。
多数決の原理 その1
多くの人の間で、何かを決める時に、よく使われるのが多数決です。
それは多くの賛同が得られた提案が、採用されるというものです。
全員が賛同すればいいのですが、一部に反対する人がいた場合、その人たちの意向は、特別の配慮がない限り、大抵は無視されてしまいます。
意見が真っ二つに割れた場合、たった一人の差で、どちらかの意見が採用されることになります。
この場合、そこにいる者のほぼ半分の人は、反対の立場ですので、一応の可決を得たあとでも、どんな問題や騒ぎが起こるかはわかりません。
反対ではあったけれど、実際に採択された提案が実行されると、思ったほどには悪くない、というのならいいのですが、思ったとおり、ひどい結果だと見なされると、大騒ぎになることは必至です。
様々な異なる意見を、一つにまとめることは、容易ではありません。
そのために一応の話し合いはしたあとで、多数決という形で決めるのですが、多数意見で決まったことが、正しいという意味にはなりません。
どんなに間違った意見であっても、それを認める者が多ければ、それは採択されてしまいます。
また、どんなに正しい意見であっても、それを訴える者の数が少なければ、それが採択されることはありません。
一見、合理的で比較的正しい選択がなされているように見えますが、結局は多数決というものは、力の強い者の意見が通るというシステムなのです。
子供の頃に学校で何かを決める時に、やはり多数決で決めることがあります。
その時に、単に数が多い者たちの意見が、優先されるべきなのだと、子供たちに覚え込ませてしまうと、その子供たちが成長して社会に出てから、問題を引き起こすことになるでしょう。
あなたの視点 その3
あなたには、今の世界がどのように、見えているのでしょうか。
世の中の動きや変化を、どのようにとらえているのでしょうか。
個人的にも様々なことで、振り回されているように見えるでしょう。
世界的にも、コロナ騒ぎや戦争、経済やエネルギー問題、環境破壊による自然災害など、大変なことばかり、起こっているように見えていると思います。
それらのことは、今現在の不安だけでなく、将来に対する不安も、呼び起こすことでしょう。
でも、目に見えていることを、どうとらえるかは、その人の気持ちに過ぎません。
実際に何かが起こっていても、それは単なる現象であって、特別な意味はないのです。
そこに意味を見いだしているのは、我々人間です。
そして、どのような意味を見いだすのかは、人それぞれなのです。
同じひどい状況を見ても、その人の視点の位置や高さによって、そこに見いだす意味は違って来ます。
ですから、今の状況がどんなに大変に思えたとしても、それは今のあなたの視点に、限定された意味づけであり、理解の仕方なのです。
別の視点から眺めたならば、不安だらけに思える将来に、希望の光が見えて来るはずです。
ただ、視点を変えるということは、言うほど簡単なことでは、ないかもしれません。
と言うのは、同じ状況から希望を見いだせる人は、それなりの視点を持っているわけですが、それはその人の普段の思考が、その視点に見合ったものだからです。
つまり、将来に希望を見いだせる人は、その人自身が希望のある行動の下に、生きているということです。
不安しか見いだせない人は、普段の暮らしも、不安に満ちています。
その人が選ぶ行動も、不安を基調にしたものとなっています。
視点を変えるということは、自分自身の考え方や行動の仕方を、変えるということでもあるのです。
口先ばかりで、視点を変えたと言っても、普段の生き方がそれまでと同じであれば、本当に視点を変えたことにはなりません。
それでは、同じ状況から異なる意味合いを、見いだすことはできません。
視点を変える。
それは、その視点と同じ生き方を、選ぶということなのです。
あなたの視点 その2
何かをどう見るのか、どう判断するかということで、他人の視点を悪く受け止めることがあります。
そんなのは絶対におかしいとか、どうしてそう考えるのかと、文句を言いたくなることって、あるでしょう?
一方で、他の人たちと自分の考えが違っていると、自分に自信がなくなることもあると思います。
でも、そのどちらも正しいことではありません。
私たちが今の状況で判断することに、これが絶対に正しいと、言い切れるものはないのです。
ある人が、あることに何かの判断をした場合、それはその人が、その時点で身に着けている、知識や経験に基づいて判断しているのです。
それを全然別の立場や状況にいる人が、それはおかしいと言うことはできません。
その人は、やはり自分の知識と経験に基づいて、判断しているに過ぎないのです。
誰かのことを悪く思ったり、誰かを傷つけるようなことをする人も、その人なりの考えがあって、そのような行動を取ります。
その人も別の立場に立ち、別の視点を持ったなら、違う判断をするようになります。
問題なのは、その人の視点というよりも、自分の視点だけが正しいという考えで、判断してしまったということでしょう。
もちろん、それも一つの物の見方であり、考え方です。
つまり、それも一つの視点です。
でも、他の視点があるということを、受け入れたなら、視点を変えることができますので、考え方や判断が、それまでよりも幅のあるものになるのです。
自分自身が、今持っている考え方で苦しんでいるのなら、やはり違う考え、違う視点というものを、受け入れるようにすればいいでしょう。
決して自分を否定してはいけません。
自分は、ただ今の視点に立っているというだけのことです。
その視点に立つことが苦しいのは、一つの情報です。
ここは苦しいということがわかれば、他の視点に移動すればいいのです。
それで自分自身が変わるわけではありません。
視点が変わるだけのことです。
また、多くの視点を利用できるということを、理解することで、人間の幅が広くなります。
つまり、人間として大きく成長できるわけです。
それまで自分がとらえていた世界観が、全然違うものになるでしょう。
同じ世界にいるはずなのに、見えている風景は同じなのに、まるで自分が違う世界に入ったように思えます。
人生は学びです。
今の視点も学びの一つであり、どんなに苦しくても、価値があるものです。
また別の視点を知ることも、学びです。
ですから、視点を変えることに、何も躊躇する必要はありません。
自分のことにしても、他人のことにしても、ある視点における判断を、それだけでいいとか悪いとか、決めつけないことです。
大切なのは、そういう見方があるのだということを知ることと、どうしてそのような見方が成立するのかと、その背景にあるものを理解することです。
それは他人のことばかりでなく、自分自身の物の見方に対しても、よく考えて理解してみるべきです。
あなたの視点 その1
人はそれぞれの物の見方があります。
物理的に言えば、同じ物を見ていても、あなたが今いる所から見える眺めと、他の人が見ている眺めは、同じではありません。
あなたのすぐ近くにいる人の眺めは、あなたの目に映っている眺めと、似てはいますが、全く同じではありません。
1ミリでも視点がずれていれば、ほとんど似たような眺めであっても、正確に言えば、二つの視点は異なる視点なのです。
右目と左目で物を見る場合、どちらも大体同じ物を見ていますが、目の位置が異なるために、見る角度が若干違っています。
その二つの視点からの情報を、脳の中で一つに統合すると、お馴染みの立体感覚が生まれるのです。
もし、人間の目が一つしかなければ、科学で言うところの、三次元という概念は、なかなか生まれて来なかったかもしれません。
また、一般の人が三次元という概念を聞かされても、今いちぴんと来なかったと思います。
みんなが三次元を理解できるのは、普段から立体感覚を持っているからこそなのです。
話を戻しますが、一人の視点ではなく、二人の視点があった方が、全体的に見ている対象物を、理解することができます。
ある山を眺めている場合、一人の目には山が三角に見えても、別の人には長細く見えるかもしれません。
そこにもう一人の目が加わって、その人が見た山が丸かったなら、その山がどんな形になっているのかは、それぞれの視点の情報を総合して、判断されることになります。
それは一人の視点からの理解とは、全く異なるものでしょう。
それぞれの視点があることで、全体的な理解ができるわけであり、一人一人が異なる視点を持つということは、とても重要なことなのです。
物理的なことだけでなく、その対象に対する想いや価値観、意味づけという視点も、人それぞれの知識や経験によって、違って来ます。
戦争や災害などの、悪い出来事も、単純に悪いという見方だけでなく、そこから何かを学ぶという視点が加わると、それまでとは違う意味づけや解釈が、できるようになります。
逆に、平和で華やかな雰囲気を、単純に素敵なことだと思っていても、その裏で誰かが犠牲になって、泣いたり苦しんだりしていたならば、全く別のイメージになることでしょう。
でも、このようなことは、たった一つの視点からでは、理解できません。
多くの視点、異なった視点があるからこそ、本当のことがわかるのです。
それは世界観ががらりと変わるということであり、片眼で見る世界と、両目で見る世界が、全然違うのと同じことです。
そういう観点で考えたならば、あなたという存在、あなたの視点というものが、どれほど大切かということが、わかると思います。
また、あなただけでなく、他の人たちの視点も、それと同じように大切だということも、理解できるでしょう。
映画の早送り
先日、知人から最近の若者が、映画を早送りで観るという話を聞きました。
言われている意味がわからず、どういうことかと訊ねると、映画の内容を短時間で知るためだと言われました。
どうして、そのようなことをしたがるのかと聞くと、仲間うちで話題の映画の話が出た時に、それについて行くためとのことです。
結局、話に加われないと、仲間はずれになってしまうということと、映画をまるまる見て中身を知るのは、時間の無駄だという考えのようです。
でも、これは映画を観たとは言えません。
映画の内容についての、情報を集めたというだけのことです。
誰かが内容を簡略に書いてくれたものがあるのなら、映画を早送りするよりも、そちらを選ぶに違いありません。
恐らく、早送りで観る映画自体は、その人にとっては、興味の対象外なのでしょう。
本当に観たいと思った映画であれば、じっくり鑑賞するはずです。
早送りするのは、観たくもない映画だけれども、話題について行くために、仕方なく観る必要に迫られたからでしょう。
本当の問題は映画の早送りではなく、仲間うちの話題について行くために、このようなことをしなければならない、という状況にあると思います。
別に興味がないのであれば、いくら仲間がその話題で盛り上がっていたとしても、自分は違う所で好きなことをしていればいいのです。
それで文句を言うのであれば、そんなのは本当の仲間ではありません。
さっさと、そこから離れて自由になった方がいいでしょう。
ところが、そうはしないで無理にみんなに合わせようとするのは、何か理由があるのだと思います。
もしかしたら、その仲間から離れると、居場所がないと思っているのかもしれません。
あるいは、仲間と違う行動を取ったり、仲間から離れるようなことをすると、あとでSNSなどで叩かれると、恐れているかもしれません。
いずれにしても、それは自分一人で生きて行くことに、自信がないということでしょう。
それに、自分が他人の目にどのように映るのかということを、とても重要視しているのだと思います。
でも、それではいつまで経っても、本当の自分、本当の人生を堪能することはできません。
他人の目なんか気にせずに、我が道を行くという生き方を、目指した方がいいでしょう。
映画を早送りで観ることは、時間の無駄を省いているつもりなのでしょうが、早送りをしてまで、観なくてもいい映画を観ることの方が、人生において無駄な時間だと思います。